[完結]Home is the sailor, home from the sea.   作:Гарри

8 / 49
「第二特殊戦技研究所」-2

「うーん、確か前にそんな感じのものを作った余りがあったような……ちょっと待ってて下さいね」

 

 響を退屈させたりしないかと思ったが、彼女もナイフに興味があるようだった。自分で使うつもりはなくとも、見てみたいという気持ちはあったのだろう。

 

「お待たせしました、こちらでどうでしょう?」

 

 明石さんが鞘に納まったナイフを持ってきた。鞘から抜いて、確かめてみる。かなり刀身が厚く、頑丈な作りになっている。また、光を反射しづらくする為に、そして潮を受けての赤錆に悩まされることもないように黒錆加工も施されている。峰には鋸刃があり、鞘と組み合わせて使うワイヤーカッターも装備されていた。海上で板材を切ったり鉄条網の除去を行うことはないと思うが、何にでも備えておいて悪いことはない。他にも気に入るところはあった。刀身の根元、柄からはみ出した部分を丸くくり抜いて、フィンガーガードが設けてあったのだ。それによって、素早く順手持ちと逆手持ちを切り替えられるようにしてあった。深海棲艦とナイフで戦う時には、切りつける為の順手持ちよりも突き立てることに適した逆手持ちを使うことも多いだろう。それを経験的に知っている誰かの意見を受けて作られたナイフに違いなかった。他にも、相手のナイフを受け止めてロックし、捻り落とす為の窪みなど、僕が思いつくような改良は全て行われていた。

 

 深海棲艦と刃物で交戦するなんて考えたくもない話だが、時には銃砲よりもナイフが早かったり、近すぎて撃てないことだってある。それに、弾が出るか分からない砲と違って、刃は確実なものだ。そこだけを取っても、ナイフを持たないという選択肢は僕にとって考えるに値しないものだった。

 

 ハンドルを握り、重心を確かめる。うん、問題はない。僕はナイフを鞘に戻し、明石さんに返した。そして僕がそれを手に入れる為にどのような対価を支払わねばならないかについて、交渉しようとした。だが彼女は「倉庫に転がってたようなものですから」と言って、僕からのどんな代価も受け取ろうとはしなかった。どうするべきかと考えあぐねて響を見るが、彼女は頷いただけだった。僕はそれを、受け取っておけ、という意味だと解釈した。できるだけ丁寧に頭を下げて、お礼を言う。いつかこのナイフが僕の命を救う日が来るかもしれないのだ。そう考えると、明石さんは未来の僕の命を今ここで救ってくれた女性だと言ってもいいだろう。多少こじつけ気味だが、とにかくそんな相手には、尽くせるだけの礼儀を尽くしておくものだ。

 

 明石さんによくよくお礼を言って、僕らはその場を辞することにした。社交辞令として夕張にもよろしくと言い残し、工廠を出る。と、本日二人目の駆逐艦を発見した。あの目つき、手袋、一切の落ち度がなさそうな顔、不知火だ。訓練所でも他の訓練隊に所属していた別の不知火を見たことがあったが、やはり何度見てもその眼光の鋭さは只者ではない。それが僕に向けられているとなると余計にキツく感じる。が、彼女にとって誤算だったのは、今日はもううんざりするほど色んな人に睨まれてきたということだ。その中には本物の戦艦や戦艦になる筈だった正規空母もいた訳で、彼女たちの掛けてきたプレッシャーに比べればどうしても不知火のそれが見劣りするのは仕方のないところだった。

 

「今日来られたという補充の方ですね。第四艦隊所属駆逐艦、不知火です。分からないことがあればその都度指導しますので、お気軽にお尋ね下さい」

「これはどうもご丁寧に」

 

 僕も挨拶をし、同じ艦隊に配属されたことを告げる。どうしてそうなったかまでは言わなかったが、あちらも尋ねては来なかった。「では、不知火が先任ですか」と不知火は呟く。そうだな、と僕は心中で同意した。「ご指導ご鞭撻、よろしくお願いします」と言って頭を下げておく。すると不知火はにやりと笑おうとしたが、不敵な笑みに見せようとして失敗し、嬉しさを我慢できない子供のような顔になってしまっていた。どういうことなのかと思って、響に目をやる。「今日までは彼女が最後任だったんだ」なるほど、そりゃ嬉しいだろう。海軍でも陸軍でも、新しく入ってきた奴は新兵だってだけで半端者扱いを受けたり、何かにつけて新入り扱いされるものだ。それが嫌なら、戦闘と日々を生き延びて、次の補充が来るまで耐えるしかない。そうすると昨日までの新兵が古兵どもの仲間入りという訳だ。

 

 正直なところを述べると、僕は最初の一瞬、不知火を警戒していた。艦娘になってから沢山の人々に嫌われてきたから悪意に対して敏感になっており、しかも僕が「隠れた敵意はあからさまな敵意より恐れられるべきだ」という考えを持っていたことが、はっきりと好意的でもなければ僕に対して否定的でもないこの駆逐艦への、意味のない用心を生み出す原因となっていたのである。けれど、不知火が浮かべた表情を見て、そんなものは何処かに行ってしまった。この喜びの表情を見ろ、いかにも、この人を見よ! 彼女の何処に僕が恐れるべき敵意が宿っていると見なすに足りる悪徳がある? 僕は自分を叱咤した。他人を疑うなんて、慣れないことはやっぱりするべきじゃない。誰でもそうだ、再三の試行と経験によって我がものにしたことのみしか、人は正しく行うことができないのだ。

 

 僕はその後、響だけでなく不知火も案内人に加えてあちこち巡った後で、最後に研究所敷地内に設けられた甘味処に行った。僕は酒を好んで飲むが、酒だけじゃなく甘いものも僕の愛するところである。その二つを掛け合わせたような、キャラメルみたいに甘いリキュール※17だってボトルで買って飲む。しかも割り材なしのロックでだ! それくらい甘いものが好きだったお陰で、僕はその店で楽しい時間を過ごすことができた。もちろん支払いの責務もまた僕のものだったが、でも、惜しくはなかった。

 

 甘味という実体を持った幸福を血肉にして店を出た僕は、暖かな血が全身に巡るのを感じていた。乾ききって失われていたとばかり思っていた活力が、魂の底から湧き上がってきたかのようだった。このエネルギーが残っている間に、部屋に戻って荷物を整理した方がいいだろう。それから一休みだ。僕が正式にこの艦隊の一員として働くようになるのは明日からなので、しっかりと疲れを癒しておかねばならない。戦うべき時に戦えるようにしておくのは艦娘の責務の一つでもあるが、自分が死なないでいたいなら責務だの義務だのつべこべ言われないでもやった方がいい。これには誰も反対しないだろう。戦う時は必ず来る。未だかつて、敵を前にして血を流さないことによって戦争に勝利した例などありはしないのだ。

 

 確かに、争いを招く怒りと同じぐらい古くから、争いを恐れる心は人の中に存在してきた。現代に生きる僕とて、流血を恐れる気持ちを否定することはできない。人類の一部は恐れの余り、「相手の平和を愛する心」、「生きとし生けるものはみな兄弟」などという類の、話にもならないし論理と呼ぶにも値しないような、まあ馬鹿は馬鹿なりに考えようと努力はしたのだろうよという評価がぴったりの思い込みを作り出したほどだ。だが歴史という変えがたい事実の積み重ねが重苦しく語るには、そういう連中こそ風向きが変わった時、真っ先に彼らが言うところの「兄弟」の血をすすろうとするものなのである。

 

 響たちと別れて僕の部屋に戻ると、隼鷹が椅子に腰掛け、彼女の本を読んでくつろいでいた。部屋を間違えたかと思ったが、そうではなかった。自分の部屋を片付け終わって、暇だから遊びに来たのだろう。しかし僕がいなかったので、居座ってだらだらすることに決めたのだ。僕は彼女をベッドの上に追いやって、テーブルの上に荷物を広げた。これまで貰った手紙、隼鷹と一緒に写真を撮ったカメラや、曙からのよき餞別の品を別にすると、服が何着かと、紙と封筒、筆記用具、数冊の本、それに持ち出せるだけ持ち出してきた酒のボトル。それらが僕の荷物の全部だった。部屋に備え付けのクローゼットにそういったものを押し込んで、それで終わり。残りは差し当たり机の上にでも置いておこう。手紙は早めにクリアファイルにでも整理して入れておくつもりだ。隼鷹ならもっと細やかな片付け方をしたりするのかもしれないが、僕は自分の部屋の見栄えには気を使わない主義だった。

 

 これを僕が片付けと言うのを母が聞いたら目を剥くだろう。だが母は遠く幾千里、とは言いすぎにせよ、僕のやっていることが見えないところにいる筈だ。隼鷹が注進することもないだろう。僕は椅子に座って、クローゼットに押し込まないでいた一冊の本を開いた。海軍に入ってから、学校に行っていた頃に比べて、本を読むことが増えた気がする。半端な時間を持て余すことが増えたからかもしれない。

 

 しかし、物語の中に意識をもぐらせ、めくるめく架空の世界に自らを投じようとしたところで、軽やかなノックの音が僕を現実に引き戻した。それに答えて、ドアを開ける。そこには日向が立っていた。隼鷹を探しに来たと言われる。僕はくるりと振り返って、日向から姿を隠そうとしている友人の姿を見た。必死に人差し指を口の前に立てて、僕に口を噤めと要求している。向き直って、日向に尋ねた。「どうしたんです?」「第一艦隊の歓迎会だ」歓迎会か、いい言葉だ。その言葉の裏に親しみのこもった不穏な気配を感じるのは、気のせいではあるまい。僕は「おい隼鷹、お迎えが来てるぞ」と言ってやった。親切をしただけだ。友達を売った訳じゃない。それに自分の艦隊の歓迎会だろ? 出なきゃ失礼に当たる。しょんぼりして出てきた隼鷹を背後に従えた日向は、それで去っていくのだと思いきや、ふと考えついたように呟いた。

 

「そうだ、君も来るといい。そうしよう」

 

 そう来るか。隼鷹がこっちを見て「ざまぁ」と口だけ動かして言った。会場へと僕らを導く日向の後ろで、パンチとキックを応酬し合う。隼鷹は軽空母だが、だからといってその身体能力を侮ってはいけない。その足から繰り出される素早いローキックは、後から響いてくるのだ。しかし僕のパンチだってキレは中々のものだという自負がある。当たるか当たらないかのところで牽制を互いに繰り出し続けていると、工廠に到着した。そこには明石さんが艤装を用意して待っていた。「もうみなさん出てますよ」と言う彼女の顔は、さっき見たにこにこ顔のままだ。しかしどうしても、僕はその完璧な笑顔に黒いものを見つけそうになるのだった。

 

 艤装を着け、ナイフは鞘に取り付けられた留め金を使って、上着の裏側、右の脇の下辺りに取りつけた。鞘に納まったままのナイフを引っ張って、すっぽ抜けてしまわないか確認する。大丈夫だ、脱落防止のボタン付皮紐が抑えてくれている。今度ベルトか何かを用意して、もっと扱いやすくしよう。上着の裏だと秘匿性には優れても、咄嗟の時に手間取ってしまう。余裕を持って用意できる時なら問題にはならないが、真実の瞬間に出遅れれば、次のまばたきをする間もなくあの世行きだ。それはなるべく避けたい。

 

 演習用弾薬の補給を受けてから、工廠から水路を通って海上に出た。暫くぶりの海の匂いだ。庁舎にいた時から香りがしているのは分かっていたが、鼻腔一杯に吸い込めるほどではなかった。深呼吸を二度ほどしていると、日向が近寄ってきた。安定した動きで、波の上でも体にぶれがない。彼女は水上移動をものにしているのだ。見事なものだった。飛行甲板を装備しているところを見ると、艤装は改造済みらしい。

 

 艤装の改造──多くの艦娘が自分に行われることを心待ちにしているものの一つで、訓練や実戦を経て一定の練度に達した艦娘の艤装を、強化することだ。解明されていることは多くないが、反応速度や頑強さ、攻撃の精度などでの向上が見込めるものらしい。中には艦娘としての特性を大きく変えるような改造をされることもあるそうで、伊勢や日向は戦艦から航空戦艦に変わるとされている。僕の友達で言えば北上は改造されると重雷装巡洋艦になるが、こちらは特性を変化させるというよりは発展させると表現した方が正しいだろう。それにしても、改造か。僕だったらどうなるか妖精に訊ねてみたことがある。答えは無言だった。しかし出自が出自なので、僕に改造は用意されていないのだとしても、格別の驚きはない。

 

 歓迎会という名前の演習会場には、伊勢(彼女の艤装も改造済だった)、吹雪秘書艦、響、妙高の四人が先に到着していた。さっきぶりの響には片手を挙げ、他の三人にはもうちょっとちゃんとした挨拶をする。「最初は誰が行く?」と響が彼女の仲間たちに尋ねた。「私は審判役ですから」と秘書艦は一歩下がる。僕は彼女と戦わずに済むことを知って安心した。航空戦艦二隻を差し置いて秘書艦、つまり第一艦隊旗艦の座を占め、しかもそれに戦艦たちが文句や疑いを持っていないのを見ると、彼女をただの駆逐艦娘だと考えるべきではない。あの提督が御し難く、付き合いの長い吹雪にしか対処できないという理由もありそうだが、仮にそうだったとしてもそれだけではないだろう。

 

「じゃあ私が行こうかな?」

 

 伊勢が前に出た。他の艦娘たちが退いていくところを見ると、一対一なのだろう。僕は隼鷹を見た。どっちが先鋒を務めるか……僕も戦ってみたかったし、隼鷹も力試しをしたがっていた。こういう時はじゃんけんに限る。三分の一の勝利を掴み損ねた僕は、お預けを喰らってがっかりしながら他の第一艦隊所属艦娘たちと一緒に観戦することにした。見るのも勉強になる、と自分に慰めを言う。僕は航空戦艦の戦いを見たことがなかったから、きっと学べることがあるだろう。軽空母対航空戦艦というのはかなり隼鷹に分の悪い戦いだし、勝敗は最初の航空戦で隼鷹が伊勢に撃沈判定でも出さない限りほぼ決まっているものとしていいだろう。が、物事や出来事から何を見出すことができるかは、結果が見えているかどうかには関わりのないことだ。

 

 しばしば皮肉を込めて「コンテスト・ルール」と呼ばれる演習時の規則通りなら、開始から暫くの間は航空機以外での演習相手に対する直接攻撃を禁じられることになっている。これは、艦娘による実際の戦闘の基本的推移を限られた広さのフィールドで可能な限り忠実に再現しようとする為の、苦しい試みだった。航空戦フェーズに行うことを許されるのは回避を含む移動行為と、対空射撃、それから自分の有する航空機による制空権争いを含む対手への攻撃、大体がこの三つである。その次が砲雷撃戦フェーズであり、ここではあらゆるタイプの攻撃が許可される。この二つのフェーズが終わった時点でまだ演習している両グループのどちらかが全滅していなければ、審判役による判断で勝敗を決定する。実戦なら夜戦までもつれ込むこともあるのだが、流石に普段の演習でそこまで長くやってはいられない。どうしても、という時には、サングラスを掛けさせるという手もある。だが僕にはあれにいい思い出がない。訓練所でサングラスを用いた擬似夜戦演習を行った時、どうも目が痛くなって思わずサングラスを外して目を擦ってしまったのだ。目ざとくその様子を見つけた那智教官に何をされたか……それについて僕は僕自身の名誉を保つ為よりも、不運にもその話を聞くことになる誰かの心の平穏を崩さないでおく為にこそ、一生口を閉じて生きていくつもりだ。

 

 吹雪の号令で、演習が開始される。僕たちは観戦なので、邪魔にならないところに退避している。うかうかしていると流れ弾で怪我はせずとも痛い思いはすることになるので、見ているだけであっても気が抜けない。対峙した二人は円を描くようにしながら、航空機を発艦させていく。伊勢の方は恐らく瑞雲、隼鷹は前の戦闘の時に使っていた装備のままなら、二一型の零戦だろう。隼鷹側は艦爆や艦攻を重視して配備されていたので、伊勢の瑞雲に比べて数において僅かに劣るものの、制空権の確保が本職の戦闘機と万能なだけに器用貧乏気味な瑞雲とではどうしても空戦性能に差が出ている。それでも、彼女たちの航空隊はいい戦いをしていた。偏に実戦経験の違いだろう。片や広報部隊でスタントじみた機動などをやらされていた妖精たち、片や実戦を戦ってきた歴戦の水上機乗り妖精たち。だがいい戦いをしているということは、膠着状態だということだ。それはつまり、瑞雲隊は艦爆や艦攻への攻撃を引き受けられないという意味でもあった。戦闘機の発艦を終えた隼鷹が、今度は伊勢へと攻撃を加えようとその準備を始める。

 

 隼鷹は加賀のような弓を使わない。陰陽師のように、紙から航空機を捻り出して見せる。この世には僕の哲学の及ばないことが多すぎるが、空母については特にその思いが強まるところだった。彼女たちがやることの前には、僕の矮小な考えなど何らのオーソリティーにも値しない。そんなものは頭の中からむしりとって滝にでも投げ込んでしまえ※18とでも言うかのように、彼女らと来たら、何やら理性を超えた御業をしてのける。どうして矢が航空機になるのか、どうしてその航空機には妖精が乗っているのか、あの紙はどういう原理で航空機になるのか、何故紙からできているのに航空機になった時にはちゃんと金属製なのか……妖精には説明を求めたいが、彼らもしくは彼女らは答えないだろう。説明はない、説明はないのだ。

 

 瑞雲が一機、二一型の攻撃をすり抜けて隼鷹に迫る。彼女は慌てない。水面を蹴るようにして動き、機動を読ませず、余裕を持って爆撃をかわす。海中で演習用の爆弾が炸裂する。水飛沫が彼女を濡らしているだろう。破片が掠め飛び、風切り音をあの形のよい耳に感じているだろう。彼女の艦爆、艦攻が仕返しとばかりに伊勢を目指して殺到する。その密度たるや、被弾なしには切り抜けられまいと確信したくなるが、伊勢も落ち着いたものだ。ジグザグに退きながら砲を撃って牽制し、艦爆・艦攻側が対空射撃を避ける為に動きが鈍ったところで時限信管の設定をぴったりのタイミングに合わせて一発撃ち込んだ。それで数機が落とされたが、僕が思ったよりは少なかった。隼鷹の航空妖精たちもいい腕をしているものだ。着弾直前、機体に無理をさせつつも強引に砲弾の効果範囲内から抜け出したらしい。

 

 航空隊による猛烈な爆雷撃が始まった。遠くから見ても分かるほど唇の端を吊り上げた伊勢の顔は、興奮と楽しみに染まっていた。踊るように魚雷を避け、爆弾を回避し、それなのに隼鷹に向かって少しずつ距離を詰めていく。僕は一度など、伊勢が直前まで気づかずにどうしても避けられないところまで接近を許してしまった魚雷の一本を、体の軟らかさを誇るかのような開脚で股の間をくぐらせて避けたのを見た。隣の日向が呟くのが聞こえた。「伊勢の奴、調子に乗り過ぎだ」僕はそう思わない。あれが彼女のスタイルなのだろう。表情は楽しげだし、突拍子もない回避を行っているのも確かだが、ふざけているようには見えない。息をすることも忘れそうになりつつ、演習を続ける二人の姿を見守る。航空戦フェーズの時間は後僅かだ。隼鷹の顔に焦りの色が浮かぶが、それはすぐに彼女が浮かべた張りぼての笑みに覆い隠される。そうだ、頑張れ、と僕は心の中で彼女を応援する。焦っている時にこそ笑うのだ。

 

 とうとう砲雷撃戦フェーズになった。だが伊勢は一向に隼鷹を撃とうとしない。それどころか右手を腰に佩いた刀にやっている。今伊勢や日向が帯びているのは訓練用の模造刀らしいので、隼鷹が真っ二つにされる心配はないだろうが、流石にこれは……こちらを軽んじているように見えると言わないではいられなかった。しかし、対空射撃と回避以外の行動を取らずに隼鷹を間合いに収めようとしているのは事実である。軽んじているだけで、それだけの実力が伴っていなかったなら、今頃は艦爆と艦攻の攻撃で滅茶苦茶にされていた筈だ。隼鷹が逃げ切れないと腹を括って、腰を落とし、接近戦に備える。構えは素人だ、彼女のいた訓練隊では艦娘に格闘を教えなかったのだろう。それも致し方ないことで、空母には他に学ぶべきことが沢山あるし、第一彼女たちの仕事は離れたところから敵を始末することなのだ。今の伊勢との距離まで相手に詰められるということは、戦術的な失敗を意味しているのである。

 

 でも、隼鷹は誇り高い軽空母艦娘だ。僕は彼女の水滴したたる顔の中に、このままナメられっぱなしでいるもんか、という固い意志を見て取った。彼女ならその意志を貫き通すだろう。未だ相手への砲撃を試みることもない航空戦艦に、間に合うところにいる最後の航空隊が攻撃を仕掛ける。その中の一機が、伊勢に激突してでも道を塞いでみせようと、一直線に突っ込んでいく。当たればそれなりの効果を発揮するだろうが、伊勢は片足を水面から上げて砲を一門撃つだけで、ピボットターンのような動きをして避けてみせた。かなり無理のある機動だったらしく、体勢を立て直すのに瞬き一回分の時間を余分に使ったが、もう隼鷹と彼女の間に遮るものは何もなかった。

 

 模造刀が抜き放たれる。伊勢は刀を持った右手をだらりと垂らしている。迎え撃つは徒手空拳の隼鷹だ。伊勢の間合いに入る。彼女は刀を振り上げる。隼鷹が左腕をぶん、と振った。「ほう」と響が漏らした。巻物型の飛行甲板が模造刀に絡みつき、その威力を減じている。そのまま隼鷹は鈍器の一撃を左腕で受け、刀と伊勢の手に腕を絡めてその動きを止めながら、右の拳をその顔目掛けて放つ。刀を防がれたことに気を取られていた彼女は、咄嗟に自分も後部甲板を盾代わりにしようとしてしくじった。艤装同士が干渉しあって、動かせなかったのだ。それでも目一杯首を引くことで、どうにか隼鷹の拳を防いだ。ほんの数ミリ顔には足りず、彼女の攻撃は届かなかった。僕は隼鷹が攻撃を失敗したことを残念に思い、次の伊勢の動きでどうとでもされてしまうだろうと予想した。が、僕の友達は用意周到で、機転が利き、負けず嫌いなのだ。それを、僕は忘れていたらしい。

 

 伊勢の顔に「勅令」と書かれた火の玉が直撃した。

 

「やるじゃないか」

 

 くすりと笑って、日向はそう評した。僕が彼女に微笑み返して隼鷹たちの方を向き直ると、バランスを崩した伊勢に引っ張られ、二人揃って派手に水柱を立ててこけるところだった。「……だが、あれはいただけないな」「確かに」吹雪秘書艦の声が演習終了を告げ、僕らは二人の近くに集まる。彼女たちはもう立ち上がっていたが、その姿は濡れ鼠そのものだった。用意のいい妙高が、タオルを二人に渡す。彼女たちはそれで頭と顔を拭き、首に引っ掛けた。響が言った。「面白い勝負だったね」それを受けて、日向が大きく頷く。「私は伊勢の負けでもいいと思うが……どう思う、妙高?」「私は引き分けでよいかと。吹雪秘書艦?」「そうですね、私としては伊勢さんの負けだと思います」「えーっ!」秘書艦の言葉を聞いて、それまで裁定を待っていた伊勢が不平の声を上げた。

 

「あれだけ相手を侮った戦い方をして、無傷で勝ったならともかく、手痛いしっぺ返しを喰らったんです。その一点のみで敗北したと言うには十分です」

 

 伊勢はぶうぶうと文句を言いつつも楽しげに笑い、吹雪の判断に従って隼鷹の勝利を祝福した。日向が腰につけていた水筒を姉妹艦へと投げ渡す。伊勢はその中身を頭から被った。「あれは?」と僕が響に聞くと、彼女はこともなげに答えた。「修復材を薄めたものだよ。新時代のセロックス(止血剤)みたいなものさ」僕はすっかり感心してしまった。訓練所でもそんなことは習わなかった。何でも、薄めると効果が急激に下がる上、正式に配備するには修復材の生産量が到底追いつかないらしい。こんなに便利そうなものが未だに一部の艦隊でしか運用されていないとは罪深いことだが、いずれ深海棲艦の領域を僕らが削り取って領土を回復すれば、生産量も増え、基本装備の一つとして加えられるだろう。

 

 火傷から回復した伊勢は、次の演習で彼女たちの中から誰が出るのかを知りたがった。響、妙高、日向の目が僕に注がれる。僕は冷静を装うが、こんなに人から注目されることには慣れていなかった。三人は話し合って、日向を姉の仇討ちとして送り出してきた。隼鷹の健闘の、とんだとばっちりみたいなものだ。

 

 僕らは離れて立ち、向かい合った。遠くに見える日向の目は「がっかりさせて悪いが、手抜きは期待するな」と言っている。僕はさっきの伊勢を思い出す。彼女は瑞雲を放ってきた。航空戦艦型の艤装に換装している以上、日向もそうだろう。ただの瑞雲か、その改良型かは知らないが、連中は十中八九来る。対して、僕は水上機を持っていない。広報部隊では使う当てもないということで、支給されていなかったのだ。不利なものだ、最初の航空戦フェーズで何機落とせるか、どれぐらい爆撃を避けられるかがその後を決めるというのに。ああ、それに大事なことだが、一体日向は何機の水上機を有しているだろうか。どれほどにせよ、太陽を隠すほどではあるまいが。

 

 始め、の声が空気を切り裂く。予想通り、日向は航空機を発艦させ始めた。僕は動かずに砲を構え、集中する。対空射撃は得意なのだ。カタパルトから射出され、その勢いのせいで瑞雲は僅かな間機動性を損なう。そこを狙う。狙いを過てば日向を撃ってしまい、僕は反則負けになるだろう。しかし、そんな心配はしていなかった。それに、日向がわざと当たりに来ることもないと分かっている。そんなことで勝っても、姉の仇を討ったことにはならないからだ。それでは、何とも言えない、微妙な空気だけが残ってしまう。その程度のことが分からない彼女ではあるまい。

 

 狙いを定め、撃つ。時間は掛けない。狙うことに時間を費やすのは無駄としか言いようがない。狙いは速くて正確なほど、いいものなのだ。時間が経てば心臓の脈動や腕の震えが、微細なズレを生んでしまう。一ミリのズレが、着弾の時には一メートルや十メートル、一キロになるということは、弾道学では常識だ。

 

 日向の目の前で瑞雲が落ちた。こちらに向かってくる何機かは無視して、足を止めたまま撃ち続ける。日向はすぐに僕の行動を理解し、移動しながらの発艦に切り替えた。こうなるとカタパルトでの射出直後を狙うのは難しい。僕は上空の瑞雲狙いに切り替えた。彼らの回避行動は巧みだが、全員で全ての対空射撃を避けられるほどではない。けれど爆撃が始まると、こちらには精神的な余裕がなくなってきた。油断すれば爆弾が襲ってくる。そうでなくとも機銃掃射でこちらの動きを鈍らせようとしてくる。苛立って僕は自由に空を飛び回る水上機を見上げた。それがよくなかった。三機の瑞雲が、着水するギリギリの高さを飛んで僕に近づいているのに、気づくのが遅れた。完全に手遅れだったとまでは言わない。僕は咄嗟に水面を砲撃し、水柱に突っ込ませることで二機を落とした──だが全部は落とせなかったのだ。砲撃の反動をいなそうと、体の動きが制限される。生き残りの瑞雲が爆弾を切り離す。水面を跳ねてこちらに近づいてくる爆弾を、僕はどうすることもできずに見ているしかなかった。

 

 爆弾をまともに食らうとどうなるか、どんな気分になるか、言葉で説明するのは難しい。まだそれを体験したことがない人が、本当の意味でそれを理解するには、受けてみるしかないだろう。ただ一つ言わせて貰うと、試してみようというその人は自分が艦娘であるかどうかや、その爆弾が演習用であるかどうかを、把握しておいた方がいい。そうでなければ、手足や命がなくなったとしても、誰にも文句を言えない。

 

 足元で爆弾が爆発し、僕は吹っ飛ばされた。視界が二回ほど回って、正常なものに戻る。僕はまだ水上に立っていたが、体中が痛かった。足を触ると、痛い。頭を触る、痛い。腹を、脇を、胸を触る、痛い。どうやら右手の骨にヒビが入ったらしい。しかも、爆弾のせいじゃなくて艤装に思い切りぶつけたせいだ。吹雪秘書艦は演習中止を宣言しない。当たり前だ、首なら分かるが、手の骨のヒビ程度で戦闘が終わる訳がない。脂汗が額ににじみ、吐き気が込み上げる。僕は動き続ける。二発目を貰いたくはない。移動しながら、瑞雲隊に向かって撃ちまくる。効果は上がらない。めくら撃ちでは仕方ないか。

 

 日向は瑞雲を放ち終えたので、泰然と洋上に立っている。表情を消し、慢心をせず、僕の動きに目を光らせている。深海棲艦と戦う時にはあれが味方だというのだから、頼もしい限りだ。しかし、彼女のいいところばかり見せて貰っていては第一艦隊の面々に申し訳が立たない。ついでに言うなら、僕の面子もだ。砲雷撃戦フェーズが間もなく始まる。瑞雲の攻撃と日向の大口径砲の一撃をことごとく回避し、移動目標に雷撃を撃ち込む。できる気がしない。それだけでなく、第一艦隊や隼鷹も、僕に成功を求めてはいないだろう。彼女たちが求めているのは、僕がそれをやろうとすることだけだ。勝ち目のない戦いを前にして「いえ、僕は行きたくないです」とか「嫌です、僕は死にたくありません」なんて言い出すような奴じゃないってことを、証明する為の第一歩を、踏み出すことだけを望んでいるのだ。演習で死ぬ確率は低いのに、それからも逃げ出すような奴を、どうして実戦で信用できる? 僕だって、もし深海棲艦と戦うなら、隣には「こいつは大丈夫だ」と思える艦娘にいて欲しい。そうでなければ、いっそいない方が気分よくいられる。

 

 右手の痛みが引いてきた。脳内麻薬が痛覚を抑え込んだのだ。僕は瑞雲隊への攻撃を続けながら、日向に近づく。艦娘同士の演習や、人型深海棲艦との戦闘では、二つの選択肢がある。距離を取るか、近づくかだ。半端な距離を保つのが最も間違った選択であり、そのような戦い方をしていては長生きはできない。敵がこちらよりも射程・威力などにおいて劣るなら距離を取り、逆にこちらの方が劣るなら距離を詰める。簡単な道理だ。

 

 近づくことには利点もある。懐にもぐりこんでしまえば、敵は砲を照準するのが難しくなるのだ。一キロ先の敵が左右にちょっと動いた程度では、射線に収める上で何の困難もない。ほんの数ミリ砲口を動かすだけでいい。けれども、一メートル先の敵に狙いを合わせるのに、どれだけの動きが必要なことか。もちろんこれは、近づく側も同じだ。だからこそ、頑強さを備えた戦艦の一部や、俊敏さと膂力の両方をある程度持つ軽巡の数人は、近接武器を持つ。戦艦は硬さを活かして近づき、軽巡は素早さを活かして近づく。そして必殺の間合いで、点ではなく線の攻撃を放つのだ。僕は真似したいと思わない。戦艦ほど硬くもなく、軽巡ほど速くもない僕には向いていない……実戦ならだ。

 

 全速力で日向を目指す。途中で蛇行を挟んで瑞雲隊の攻撃を避けながら、日向が迂闊に移動できないよう、嫌がらせ程度の魚雷を放っておく。彼女は踵を返し、彼我の距離がよりゆっくり縮まるように、僕から逃げ出す。砲雷撃戦フェーズが来たら、くるりと振り返って猛然と撃ち始めるつもりだろう。航空戦フェーズ終了まで僕を寄せ付けなければ、彼女の勝ちが確定する。追いつければ、魚雷を当てるか、隼鷹がやったように接近戦で勝ちを拾う目がある。距離はぐんぐんと縮まっていく。僕は魚雷を用意し、脇の下のナイフを思う。懐に飛び込んだ僕を日向は刀で攻撃するだろう。右の片手で引き抜き、そのまま切りつける。彼女から見て左上から右下に振り下ろし、僕の右肩から左の脇腹を袈裟懸けにする感じだ。その逆はないだろう。わざわざ構え直して振り上げるという、余分な動作をする必要はない。ああ、抜き打ちの可能性もある。それは僕の右脇腹を狙うだろう。どっちでも、僕は上着の下のナイフで受け止められる。逆手に抜く確率は低い。逆手持ちで斬ろうとしても、十分な威力を発揮できないからだ。人間相手ならいいが、艦娘相手にはきっと不足だ。

 

 砲雷撃戦フェーズに入った。僕と日向の距離は、彼女が全砲門を一度ずつ撃つのに足りるぐらい開いている。僕は腰を屈め、彼女の主砲を見る。その照準が僕にぴたりと合う。僕はその場から跳びすさりたくなる。それをしたら、次の砲による二射目でやられる。彼女は狙いを微調整する。その微かな動きが終わる。僕は体を捻る。

 

 砲弾は近くを通っただけで、僕を転倒させそうになった。慌てて体勢を立て直し、強引に横移動を入れる。これは当たるぞと思った追撃を外し、日向が眉を上げる。彼女は足を止め、また僕に狙いをつける。今度は避けられないかもしれない。だがせめて、最初の一回はかわしてみせる。発砲の光が見えると同時に、横っ飛びに跳ぶ。日向はそんな回避行動を予測している。僕の体のど真ん中を撃ち抜くつもりだろう。彼女の砲口の移動が止まる。僕は右腕を着弾地点に伸ばす。発砲炎。艤装に衝撃。右腕に再びの激痛。今度こそ折れた。

 

 魚雷を放つ。日向は避けようとして、隙を生む。僕はそこに突っ込む。日向が後部甲板をこちらに向ける。シールドバッシュという言葉が頭に思い浮かぶ。けれど違う。彼女は砲の狙いをつけようとしているかのようだ。そこで僕の目は彼女の後部甲板のカタパルトにセットされた、一機の瑞雲を捉える。まだ残していたのか、と思った次の瞬間、発艦直後に瑞雲が放った演習用爆弾が──!


▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧 ※ログインせずに感想を書き込みたい場合はこちら
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。