[完結]Home is the sailor, home from the sea.   作:Гарри

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「融和」-3

 鞄を持って部屋の外に出ると、夜の冷たい風が強く吹き付けてきた。僕は目を細めてやり過ごしながら、こんなに強い風が吹いてくる理由を突き止めた。高いところにいるからだ。と言っても、何も電波塔の上にいる訳ではない。中小企業なんかが入っていそうな、いたって普通の五階建てビルの四階辺りだ。きっと海軍とは何の関係もない企業の所有になっているんだろう。そしてもし誰かが詳しく調べたなら、その誰かはこのビルの持ち主となっている企業が現実に存在しないことを知るのだ。先を行く武蔵の背を追い、階段で下りていく。エレベーターはないのかと言いたいが、あったって使わなかったんじゃないかと僕は推測した。僕らは二人のあきつ丸に襲撃されたが、それで全部だとは思っていない。エレベーター前で待ち伏せられるより、階段前で待ち伏せられた方がまだいい。少なくとも、箱の中より逃げ道が探しやすい。

 

 しかし僕の危惧を笑い飛ばすかのように、階段下にもビルの一階部分の半分を費やして設けられたガレージの中にも、陸軍排撃班の連中はいなかった。少し油臭いガレージに置かれた赤い二座式(ツーシーター)クーペのエンジンを掛けるや否や、車が爆発するということもなかった。武蔵に言われた通りに壁のスイッチを操作してガレージのシャッターを上げ、左の助手席に乗り込みながら訊ねる。「陸軍の排撃班は人手不足なのか?」「海軍ほど艦娘の数を揃えられないからな」なるほど、言われてみればその通りである。艦娘の所属は基本的にその艦娘のオリジナル……大戦時の艦の所属を踏襲する。僕はどの艦にも当てはまらない(ルーツを知った今ではむしろ「どの艦でもある」と言うべきなのかもしれない)例外だったが、陸軍だって急にイレギュラーなんか押しつけられても困る、ということで揉めなかったようだ。

 

 そして陸軍所属の艦娘は、僕の知識では今のところ揚陸艦「あきつ丸」「神州丸」と「熊野丸(くまのまる)」、潜航艇「まるゆ」、特設護衛空母「山汐丸(やましおまる)」のたった五種であった。収容所に入っていた一年で新しい艦娘が誕生している可能性もあるが、それを言い出したらきりがないので無視しておこう。海軍では混乱を避ける為に通常行われない同種艦娘の単一艦隊内における複数運用にも、これで説明がつく。

 

 ガレージ内の道具や機械なんかにぶつけないように、武蔵は慎重に車を外へ出した。僕は自分のシートベルトを締めてから、面倒臭がって着用しようとしない武蔵の方に手を伸ばして、彼女のベルトも締めてやることにした。彼女は車を動かさずに、僕がそれを済ませるのを待ちながら言った。「だが陸軍も馬鹿にはできないものだ。数が少ない分、徹底的に鍛え上げるからな。そのしぶとさは私たち海軍も見習うべきだろう」かちり、と気持ちよい音を立てて、ベルトの先の金具が留め金に引っ掛かる。僕は質問してみる。「こっちだって諦めの悪さなら自信がある。奴ら、どれくらいしぶといんだ?」「そうだな、たとえば──」

 

 その時、僕の耳にほんの小さな破砕音が届いた。ガラスの割れる音だ。エンジンの乱暴な唸り声にほとんど殺されながらも、上で響いたそれは何かが起こったことを僕に伝えていた。無論、武蔵にも。彼女は思いっきりアクセルを踏み込んだ。と同時に、大きな揺れが僕を襲った。いや違う、車全体を襲ったのだ。新手かさっきの奴らかが、上から飛び降りてきやがった!

 

 車を発進させて道に出した武蔵は、右に左にハンドルを切ってシャーシにしがみついている追っ手を振り落とそうとする。けれど陸軍でも艦娘は艦娘だ。その力はただの人間のものではない。僕はドライバーの荒っぽい蛇行運転に振り回されながら、窓を開けてサイドミラーの角度を変え、屋根の上を見た。あきつ丸だ。顔に殴打痕がある。じゃあ僕が殴った奴か。左手はシャーシを掴んだままにして、彼女は右手で腰の刀を抜いた。黒服のあきつ丸のものだな、と僕は直感した。武蔵は刀を抜く余裕を与えなかったのだろう。順手から逆手に持ち替える。このままでは武蔵が串刺しだ。

 

 幸い、今度も僕には打つことのできる手があった。さっき着用したばかりのシートベルトを外し、サイドミラーを掴み、もぎ取って窓から身を乗り出す。こちらに構わずあきつ丸がルーフパネルへ刀を突き立てようとした刹那、僕はそれを彼女の顔面に向けて投げつけた。ナイフとは違うが、刃から当たるように気を使わなくていい分、ナイフ投げよりも単なる投擲の方がずっと楽だ。武蔵による蛇行という悪条件下ではあったが、僕は的を外さなかった。手元が狂ったあきつ丸の刀は、僕と武蔵の間に振り下ろされた。すかさず武蔵が戦艦のパンチで刀の横腹を打ち、僕が道具を使って全力で成し遂げたことを運転の片手間に素手でやってのける。しかも、彼女はそれだけに留まらなかった。折れた刀身を左手で掴むと、天井目掛けて突き出したのだ。金属と金属がこすれるあの嫌な音、短い呻き声。刺さったらしい。武蔵の左手もざっくり切れてしまっているが、彼女の傷への反応は一度の舌打ちだけだった。

 

 負傷への無関心は彼女のタフさを強調するにはぴったりの態度だが、止血した方がいいのは誰でも分かることだ。僕はあきつ丸の刀の小さな破片を足元から拾い上げ、それを鋏代わりに服の裾を切った。左手を出させて、布を巻こうとする。だが頭上から力強い二本の腕が突然ルーフパネルを突き破り引き剥がしながら現れ、シートベルトをしていなかった僕の襟首を取り、車外へと力づくで引きずり出そうとし始めた。その腕を掴み、足を椅子に引っ掛けて抵抗するが、とても敵わない。武蔵は僕を助けようとしたが、怪我をした左手ではどうにもできなかった。それならと蛇行をより激しくしてみたり、急減速を掛けてもみるが、効果はない。ルーフパネルとあきつ丸の体に突き刺さった刀が、彼女の体を車に留めているのだ。

 

 あきつ丸の白い顔と制服は、今や彼女の血によって赤黒く汚れていた。致命傷でなくとも重傷には違いないだろうに歯を食いしばって耐えていて、僕を捕らえた腕の力を弱めることはない。ほんの少しだけ、このまま飛び出して体当たりし、地面にあきつ丸を叩きつけてやろうかという思いが脳裏をよぎった。艦娘ならそれでも死にはするまい。打ち所が悪すぎれば話は別だけれども、そんな間抜けにも思えない……しかし、結局僕はそうしなかった。武蔵のセーフハウスでも似たことがあったが、今度は何故自分にそれができないのかという理由がすっと理解できた。あきつ丸は艦娘だ。友達じゃないが、僕の同胞なのだ。殴ったり怪我させることまではできても、殺してしまうかもしれない行動には出られなかった。彼女の方はそういった内心のしがらみなど一切ないらしく、僕をぐいぐいと引いて車から放り捨てようとしているのが皮肉に感じられた。

 

 椅子に引っ掛けた足先がつるりと抜けて、一気に体を車外へと持ち出されそうになる。無駄と思いつつもじたばたともがいていると、膝がルーフパネルとあきつ丸を貫いていた刀身の付け根に当たった。流石のあきつ丸も腹の中を刃でかき回されては耐えられなかったらしく、力が緩む。僕はその隙を突いて拘束を振り払ったが、あきつ丸の力に逆らう為に車の進行方向とは逆を向いていたせいで、ダッシュパネル下の空間に頭から落ちた。痛い。刀の破片で頭を切ったかもしれない。だが重傷ではない。足を伸ばして刀身の付け根を蹴り込む。あきつ丸は苦悶の声を上げると、刀身を掴んでルーフパネルから引き抜き、次いで自分の腹からも抜き取って投げ捨てた。武蔵がそれを彼女の側のサイドミラーで視認し、急制動を掛けるよりも先にあきつ丸はルーフパネルの引き剥がした部分から車内に飛び込んできた。

 

「ハンドルを! 直進させろ!」

 

 武蔵が余裕のない切迫した声で叫ぶ。僕は精一杯腕を伸ばしてハンドルを掴み、武蔵の言葉通りまっすぐ前に進むように保った。僕の姿勢でできることはそれだけだった。前が見えないのでは、右に左に切ることもできない。やりすぎて何処かの建物に突っ込んだら、僕は間違いなく首の骨を折って死ぬか、もっと残酷な運命を迎えることになる。狭い車内で赤黒く染まったあきつ丸と武蔵が乱闘を始めた。武蔵はシートベルトをもうしていなかったが、これは責められない。ドライブ中に車内への襲撃を受けたせいで外さざるを得なかったと主張すれば、緊急回避が認められるだろう。片手の使えない武蔵を支援したかったが、ハンドルに全集中を注いでいないと直進を保てそうになかった。蹴りの一発でも放とうものなら、そのせいで体勢を今以上に崩してハンドルを手放してしまうかもしれない。当然の帰結として、この車は僕の棺になる。凄いぞ、数百万の棺桶だ。三人でシェアしなくてはいけないのが玉に(きず)だな。

 

 蹴りは反動が大きすぎて危険だ。手はどうだ? ハンドルを握っている左手はそのままにしておくとして、あきつ丸の脇腹にでも右の拳を打ち込めないか? 無理だ。もう少しというところで届かない。僕にできるのは精々があきつ丸の足を叩くことぐらいで、それでは彼女をこちらに振り向かせることはできそうにない。どうしたらいい? あきつ丸は腹に穴が開いているというのに、武蔵を追い込み始めた。彼女を押し倒して上を取り、シートベルトを使って首を絞めている。武蔵は右手の指をベルトと首の間に潜り込ませて延命を図り、左手であきつ丸の体を押しやろうとしているが、形勢は不利だ。何か、何かを見つけなければいけない。

 

 右手を頭上にやり、グローブボックスを開いて、そのまま力任せにプラスチックの箱の前面をばきりとちぎり取る。中身が何個か落ちてきた。その中には緊急脱出用のハンマーもあった。マルチツール型だったならナイフも含まれていたのだが、生憎とこれはハンマーとシートベルトカッターという最低限の機能しか持たないものだった。それであきつ丸の脇腹を殴りつける。けれども、僕の予想と違って、彼女は痛みに声を上げることもなくこちらを見るでもなく、軽く腰を捻るだけだった。これでは足りないのだ。ハンマーを手放し、グローブボックス内を探る。武蔵の抵抗が弱まり始めている。焦燥が僕を支配しようとする。

 

 指が何かの箱に当たった。僕はそれを掴んで放り出した。小型の工具入れだ。ふたが開いて、マイナスドライバーが見えた。一も二もなくそれを取り、目を閉じて大声を出しながら突きを繰り出す。あっ、と驚いたような声をあきつ丸は出して、片手を脇腹にやった。たちまち武蔵は首からベルトを外し、右手であきつ丸のあごに一発入れ、腰の浮いたあきつ丸の体の下から自分の足を引き抜くや「定員オーバーだ」※109と言って蹴り飛ばした。その蹴りの威力ときたら、あきつ丸を助手席側のドアごと車外に追い出してしまったほどだった。

 

 そこから数十メートル行ったところで車が停まる。当たり前だが、武蔵が格闘の間アクセルを踏んでいなかったので、車は減速し続けていたのだ。彼女は悪態を一つ口にしてアクセルを踏もうとしたが、その前に僕は椅子に座り直させてくれと頼んだ。彼女は却下しなかった。一度車外に転がり落ちてから立ち上がり、体中の埃や金属片なんかを払い落とす。と、武蔵が「戻れ!」と叫んだ。嫌な予感がして後ろを向くと、あきつ丸が立ち上がっていた。慌てて助手席に戻り、アシストグリップで体を安定させながら外に身を乗り出して後方を見る。追いつける筈もないのに、あきつ丸はこちらに向かって走ってきていた。何度かハンドルを切って狭い道を抜け、完璧に撒いたようだと判断した後で、武蔵は言った。

 

「チームワークの勝利だな」

「チームワークって言えるほどのものじゃなかっただろ。左手を出せよ、包帯じゃないが、布でも巻いてやるから」

 

 さっき作った包帯代わりの布をフロアから拾い、(はた)いてから武蔵の左手に当ててやる。僕がこういう応急処置に慣れていないせいで乱暴な扱いになったのだろう、彼女は痛みに歯の隙間から漏れるような息を出したが、文句は言わなかった。布はすぐに湿り気を帯びた。早いところ、きちんとした手当てが必要だ。僕の心配を他所に、武蔵は楽しそうだった。「だが実際、かなりいい連携だったじゃないか? 私たちはいい相棒同士になれるような気がするよ。シルバー船長とジム少年※110アテナとオデュッセウス※111みたいにな」僕は頷いて返答した。

 

「そうとも、きっと僕ら二人は名コンビになれるだろうよ。ロランとオリヴィエ※112ローゼンクランツとギルデンスターン※113ヒースクリフとキャシー※114ブッチとサンダンス※115ボニーとクライド※116……ああ、義経と弁慶もだ。危うく忘れるところだった」

「その人選はわざとか?」

「うん」

 

 彼女は笑って、僕の頭を軽く叩いた。僕も微笑み返し、左手側に目をやった。夜明け前だからか、車や人通りはない。よかった。こんなぼろ車で走っているところは目立つ。そして僕と武蔵が今最も求めていないものの一つは、余人の注目だった。警察のサイレンも聞こえてこないから、追ってきたあきつ丸との死闘も見られていなかったのだろう。幸運その二だ。しかしいつまでも運なんかに頼ってはいられない。僕はグローブボックスを蹴って戻し、これから自分がどうなるか、どのように振舞うかについて考え始めた。排撃班に入れられるということは、ある意味では融和派との繋がりができるということだ。接触しようと思えば赤城たちに接触できるのではないか?

 

 いや、そんなのは誰だって思いつくことだ。ということは、排撃班は軍にとって融和派狩りにおける一番の道具であると同時に、最大の内患候補であると見なされていることが想像できる。その上、僕は融和派からの転向者ということになっていると来れば、監視の三つや四つは覚悟せねばなるまい。特別頭がいい訳でもなく、幸運の女神から愛されているとも思えない僕が、どうやってそういったものを切り抜けられる?

 

 武蔵に全てを話すという選択肢もあった。彼女はどうしてだか知らないが、僕に執着している。それも好意的な形でだ。それに、僕には彼女が僕の言葉を信じてくれそうだという根拠のあやふやな考えもあった。もう少し冷静さを失っていれば、それが吊橋効果とストックホルム症候群の合いの子みたいなものだという点に気付かず、僕があの大規模作戦で知ったことや観たことを打ち明けていただろう。そうしたらどうなっていたか……想像できないが、僕がこれまでに下してきた決断や決定が、翻って見て大抵の場合どれだけ間違いだらけのでたらめなものであったか、という悲痛な事実を鑑みると、きっと今度こそ致命的な事態を引き起こしていたのではないだろうかと思う。

 

 吹きすさぶ風に、潮の匂いが混じり始めた。懐かしい匂いだ。僕の実家は海から離れたところにあるが、今やすっかり艦娘となった僕にとって、海の匂いは家のそれと比しても同程度嗅ぎ慣れたものだった。ただ、幸せな少年時代を家庭で過ごすことのできた誰しもが実家の匂いを思い出す時に感じるであろうあの心の安らぎや、口の中によみがえる家庭料理の味、家族たちとの口さがないお喋りの思い出といった心温まるものは、海の匂いを嗅いでも想起されなかった。僕にとってそこはこの戦争と切っても切れない場所であり、従ってどれだけ努力してもそこから得られるのは興奮や恐怖の残滓が大半で、それらに混じってかつて肩を並べて戦った戦友たちとの日々の記憶がぽつりぽつりと思い出される程度だった。とはいえ、懐かしいものは懐かしい。体の力を抜いてシートにもたれ、武蔵に問う。

 

「港へ行くのか」

「埠頭の倉庫だ。薄暗くて湿っぽくて人もそんなに近づかない。ついでに海もすぐ傍だ。完璧だろう? だから排撃班も融和派も伝統的にアジトやセーフハウスとして利用してきた。利用しすぎてバレやすくなってからは集合地点や再補給用拠点としてしか使ってないがね」

「再補給用拠点?」

 

 武蔵は僕の質問で気分を害した様子もなく、むしろ自分の仕事に興味を持たれていることに喜んでいるようだった。

 

「排撃班にも本拠や支部はあるが、時には長期間、それらからの支援を受けずに単独で活動しなければならないこともあるんだ」

 

 僕はフィクションさながらだな、と呟いた。彼女は同意して、お陰でスパイ映画は見られなくなった、と冗談を言った。愛想笑いをしていると、聞き忘れていた質問を思い出す。質疑応答に相応しい状況ではないが、これだけは聞いておかねばならなかった。一体どうして忘れていたのだろうか、武蔵がどうして僕を助けに来たのかなんて重要な質問を? 僕がそれについていささか唐突に訊ねると、彼女は居心地悪そうに体を揺すって、答えたくないという気持ちを表現した。僕は前を向いて、彼女の動きが目に入っていないかのように振舞った。「これは大事なことだ。とても大事なことだよ、武蔵」僕はそう言ったが、彼女はその考えには賛成できないようだった。

 

「どうしてだ? 素直に見ればいいじゃあないか。お前は助かった。()()助けたからだ。()()危険を冒してお前の居所を突き止め、()()警備をかいくぐってあの収容所まで行き、()()死に掛けていたお前に治療を施し、安全な隠れ家まで連れて行ってやった。この私が、誰でもないお前の為にな。そう思っていた方が私たち、仲良くできるだろう。何故そうしない?」

「君のことが信用できないからだ」

 

 武蔵はハンドル操作を誤りそうになって、ブレーキを踏んで速度を落としながら彼女の問題に対処しなければならなかった。それが終わると、彼女は僕をちらりと見て何か言おうとして左手を持ち上げ、言葉が出てこずに口を閉じ、上げた左手の甲でハンドルの縁を叩いた。彼女の苛立ちを感じ取った僕の体は短く震えるが、車が揺れていたせいで気付かれずには済んだ。「命がけでお前を助け出した。それでもか」「僕は艦娘だ。僕の仕事は命に代えても日本を守ることだ。だからって銀行が無担保で融資してくれるとは思わないね。……君は僕が必要だと前に言ったな」「ああ。あの気持ちは変わっていないよ。もう一回同じことを言ってもいい」「何故?」「よく釣れる疑似餌が惜しくてな」今度は僕がダッシュボードを叩いたが、武蔵はそれで肩を震わせたりしなかった。

 

「あの時、君は『班ではなく私に必要だ』と言ったんだぜ、武蔵。疑似餌が欲しかっただけならそうは言わなかっただろう」

「そんな細かいことまでよく覚えてるなあ。分かった分かった、誤魔化すのはやめてはっきり言おう。お前を助けに行った理由はある。だが言いたくない。待て、意地悪でじゃないぞ、私にも──くそっ、これも本当なら言いたくないのに──言葉にできないんだ。理解してはいるんだがな」

 

 言葉にできない? 僕は武蔵の言ったことをそのまま鸚鵡(おうむ)返しに呟いた。彼女は開き直ったように笑って、僕の反応を嘲笑しようとした。

 

「そうさ。私が持っているこの理由というものは、複雑なんだ。沢山の事実が絡み合っているっていう意味での『複雑』じゃないぜ。そうじゃなくて、むしろ溶け合っているというか、その、何だ。私の言っている、言おうとしていることが分かるか?」

「分からんね」

「私もだ。でも、私の頭の中はそんな感じなんだ。なあ、経験からアドバイスしてやるよ。考えても無駄だ。私はそうしたいからそうしたのさ。それで万事、丸く収まるじゃないか。それに、信用できなくても私と来る以外の手はないんだ。こっちは分かると思うが」

 

 僕は首を縦に振った。すると武蔵は冷笑的な態度から一転して、僕を慰めるような声音で言った。

 

「今はまだ分からないが、考えがまとまったら話すと約束するよ。それまでは、私は今まで通りのやり方でお前の信頼を得られるように努力しよう。お前の命を狙うあらゆる敵から守り続けよう。知っているだろう、私はお前に嘘を言わないと」

「ああ、そして本当のことを黙ってることがよくある。自分から言い出さないことも沢山あるだろ。たとえば、どうやって僕を見つけたのかもまだ言ってないな。『私が独力で見つけたと思ってくれ』とは言ったけど。自分で見つけ出したのか?」

 

 彼女は僕の感じている不愉快さを言葉の中から嗅ぎ取ってか、鼻で笑った。彼女について嫌いな点は山ほどあるが、好意的に見られる点も挙げられない訳ではない。その中の一つが、感情表現を率直に行うというところだ。愛想笑いなし、お世辞なし、遠慮なし。彼女は言いたいことを言う。やりたいことをやる。僕にはそんなことができないから、時々それがまぶしく輝いて見えることさえある。

 

「そうだよ、何を隠そう私は魔女でね、魔法のステッキを一振りで、軍機もすっかり丸裸だ」

「そりゃいいや、早くかぼちゃの馬車でも出してくれよ。一度御者をやってみたかったんだ」

「構わんが、お姫様がいないんじゃ締まらないだろう?」

「だから君が魔女とお姫様兼任だ」

 

 何てことだ、と僕は自分に言った。まるで友達同士のやり取りだ。武蔵と友達になるなんて、ぞっとしない考えだった。どうひいき目に見ても、彼女は狡猾で邪悪な存在だ。その手は人間と艦娘の血に汚れている。必要ならその手を握ることはできる。指に口づけだってしよう。だが心に受け入れることは無理だ。そこに触れさせたくはない。好きになることはできそうもない。が、一方で彼女とのこういった軽口のやり取りが、収容所での深刻な一年の後では、僕に非常な喜びを与えるのも認めざるを得ないことであった。

 

「ふっ、この短期間に私へのおべっかが随分と上手くなったな。個人的な評価だが、今のはかなりよかったぞ」

「毎秒毎分が学習だよ、武蔵……で、実のところどうなんだ?」

「匿名の情報提供者だ。怪しかったから色々と探っていたら遅くなってしまった。悪かったな」

 

 匿名? 僕には赤城以外にそんなことをする者がいるだろうかと思った。

 

「いいさ。結局、まだ生きてる」

「そうだな」

 

 無言が場を支配しようとした。互いの間に漂うそれを楽しめるほどには、僕は武蔵を好いていなかった。そこで手を伸ばして、カーステレオに触ってみた。あきつ丸との格闘で何処かが壊れてしまって動かないかもしれないと期待はしていなかったが、流石は日本製、動いてくれた。液晶にはCDが一枚入っていることを示す英文が映し出されている。武蔵の趣味の音楽CDか。興味がないと言ったら嘘になるな。音量を最低に落としてから再生を始め、段々とボリュームを上げていく。すると、知っている声が流れ出してきた。

 

「那珂ちゃんか」

「うむ」

 

 僕らは一言ずつ発して、歌を邪魔しないよう、余計なことは付け加えなかった。僕は武蔵と初めて会った時にも、彼女がポータブルテレビで那珂ちゃんの映像を見ていたということを思い返した。収容所で満足には聴けなかった分、拝聴させていただくとしよう。CDには僕が拘束されている間に出た新曲なども含まれていて、盆と正月とクリスマスと感謝祭とハヌカーとクワンザが一緒に来たみたいな気分だった。上機嫌に任せて付け加えてしまったが、僕はユダヤ人でも黒人でもないから、最後の二つは除くべきかもしれない。クリスマスと感謝祭は社会行事みたいなものだから許して貰えるだろう。

 

 曲と曲の切れ目で、武蔵が言った。「近々、また新曲が出るらしい」嬉しい知らせだ。那珂ちゃんの声によって肉付けされた軽やかなメロディに耳を愛撫されながら、僕らは武蔵の言ったところの埠頭の倉庫へ向かった。何曲目かが終わった頃に潮の匂いが強くなり、武蔵は僕をちらりと見た。僕は名残惜しかったがステレオに手を伸ばし、世界は今こうして目に見えているよりもずっと素晴らしいものなのだと僕に信じさせてくれる、万人のアイドルの歌声を中断させた。

 

 あれだ、と武蔵が倉庫の一つを指差したが、同じような倉庫が並んでいたせいで、僕には車がそのまま倉庫に入って行くまで、どれがどれだか分からなかった。貨物搬入用口のシャッターは到着時もう上げられており、車を降りることなく中に入ることができた。だだっ広い倉庫の中央まで車を進め、武蔵はクラクションを二度鳴らした。反応を待つ間に、きょろきょろと倉庫内を見回す。明かりが灯されていなかったので見えにくかったが、数個の小型コンテナが壁や隅に寄せて置いてある以外には何もないように思われた。

 

 少し間を置いて、武蔵はクラクションをまた鳴らした。今度は長く、一回。やっぱりスパイ映画か何かみたいだな、と言おうとして武蔵を見て、その横顔に不審と警戒の様子を発見する。僕は頭の中で緊急事態を宣言し、次に何が起こってもいいように覚悟を決めた。息を殺し、暗がりを見通そうと頑張ってみる。武蔵は車のライトを消し、左手を伸ばして僕の右腕と絡ませて、彼女の方に引き寄せた。僕は囁いた。「どうした?」武蔵は歯をむき出しにして笑っているような顔のまま、悔しそうな声を出してみせた。「囲まれた」

 

 どういうことか詳しく聞こうとした瞬間、ぱっと倉庫の照明が灯り、その明るさに耐えられなくて僕は左手で光を遮った。武蔵は僕よりもまぶしく感じているだろうに、直視している。目を大事にした方がいいぞ、と場違いな思考を浮かべた。徐々に慣れてきたので、恐る恐る手を下ろす。そして、武蔵の言葉を理解した。

 

 何処から現れたのか黒服のあきつ丸(武蔵がきちんと無力化しなかった筈がないので、別個体だろう)が、一目で排撃班の人員だと分かる、覆面を被って黒い戦闘服に身を包み、銃を持った連中と並んで立っていた。体格から、人間の男だと僕は判断した。単なる人間が、銃で艦娘を抑えるつもりか? 僕は奴らの浅慮を侮蔑しそうになって、考え直した。陸軍を馬鹿にするのも大概にしよう。 武蔵に訊く。「おい、深海棲艦用の()()はまだ本格配備されてないって言ったよな」「ああ」「じゃあ、兵器じゃない銃弾や砲弾なんかは──」「お前が考えている通りだ。さっきの二人は市街地だったから刀を使ったんだろう」僕はダッシュボードを殴った。人類の叡智ってものは最高だな、一年でそこまで進んだって訳か! きっとコストの違いがあって、そのせいで先に研究されていた通常兵器(ミサイル)よりも銃砲の弾薬の方が早く普及したのだろう。それ以外の理由は思いつかない。

 

 車内に乗り込んできたあきつ丸との格闘の最中にバックミラーは取れてしまっていたが、紛失まではされていなかったので、僕はそれを拾って背後を確かめることができた。そこにも陸軍排撃班と見られる人員が銃をこっちに向けて待機していた。僕たちが現況を把握するのを待っていたのか、姿を現してから暫くしてやっと、黒服のあきつ丸は次の動きに出た。こちらに呼び掛けたのだ。

 

「警告する。ただちに降車し、投降せよ。貴官らの行動は軍と国家に対する反逆である。ここに配置されていた人員は、既に制圧された。これ以上の抵抗は無意味である」

 

 精一杯の虚勢を張って、僕は肩をすくめてやった。陸軍排撃班の班長殿には見えてはいなかっただろう。もしも見えていたら、彼女はそのボディランゲージを抵抗と受け取って発砲許可を出したに違いないからだ。あきつ丸は「諦めろ、抵抗は無意味だ」と言っただけで、助命については一言も口にしていない。海軍でも陸軍でも排撃班にいる奴らは、もしかしたらある面においては非常に義理堅い人々なのだろうか? だから命の保障など口にしない、とか。

 

「さあ、六番。お次はどうするんだ?」

「私の合図でダッシュボード下に隠れろ、一八七八二番。エンジンが弾を防いでくれる」

 

 あきつ丸がよく通る美声で、発砲開始までのカウントダウンを始めた。

 

「強行突破かい。君にしては芸がないな」

「それだけ必死なのさ。隠れろ!」

 

 武蔵の言葉に従って、体をダッシュボード下に滑り込ませる。必然的に視界は封じられ、周りで何が起こっているか見るのは難しくなる。唯一外を見ることのできる方向は車の進行方向に対して左手側だ。僕のいる助手席側のドアはなくなってしまっていたから、そこから外を見ることができた。けれども、武蔵が何をやったか正確に把握するにはその限定された視野では不足すぎた。なので、僕は自分の想像力を使って武蔵がやったことを補足しようと試みることにした。まず彼女は、強行突破という計画の第一歩としてアクセルを踏み込んだのだと思う。あきつ丸たちは待ってましたとばかりに撃ち始めた。でもフロントガラスはかなりの性能を誇る防弾仕様で、排撃班の奴らが使っている銃でも弾が抜けなかった。

 

 武蔵は跳ね飛ばされまいとする陸軍の連中を尻目に、倉庫の壁に突っ込んだ。何故バックするなり回頭するなりしなかったのかと批判的に考えてから、分かりやすい逃げ道には罠を仕掛けるものだろうと思い直した。壁を二、三枚破ってからドライバーはハンドルを切り、道に飛び出した。座席とダッシュボードの間の空間で頭を抱えて縮こまっていた僕は彼女の名前を呼んだが、返事はなかった。顔を上げると目前の助手席のシートの上に武蔵の壊れた髪留めが転がっており、彼女を見やれば頭からだくだくと血を流していた。きっと、助手席側から飛んできた弾が当たったのだ。それも、一発や二発ではないようだった。真っ先に頭の傷が目についたが、よく確かめてみれば肩や脇にも銃創が見えた。僕はまた彼女の名前を呼んだが、その声は不安と恐れで震えていた。すると彼女は口の中に溜まった血を吐き出して、蜘蛛の巣状にひびの入ったフロントガラスを汚し、赤く染まった唇と歯で亀裂のような笑みを浮かべた。彼女は言った。

 

「まだだ。まだこの程度では、この武蔵、沈まんよ」

 

 僕らのものではないエンジン音がする。陸軍排撃班も車で追って来ているようだ。僕にできることはなかった。彼女の言葉を信じて、ありったけのものに祈った。響が現れて導いてくれればいいのにとも思った。が、彼女が現れたところで僕はそれを現実のものとは認めなかっただろう。収容所からの脱出の時に幻覚の響を生み出してしまった前科があっては、本物の響が現れたって勘違いして退けようとしそうなものだ。

 

 耐え難いストレスの下で、僕の意識は僕自身を離れた。僕は自分を少し高いところから見下ろすような感覚に囚われた。魂だけでそこにいるがごとき、ふわふわとしてはっきりしない意識で、僕は自分と武蔵の逃走劇を眺めていた。それが現実に引き戻されたのは、とうとう限界を迎えたらしい武蔵がハンドルの上に突っ伏すと、ある建物の壁に激突して、車体の前半分を屋内に突っ込んで止まったからだった。呼びかけても彼女は答えない。「中に入れ!」と男が外で叫んでいる。ここから逃げる方法など僕にはない。だからって、このまま車の中で待つつもりはなかった。

 

 ドアのない助手席から転がるようにして降りると、運転席のドアを開けに掛かる。鍵が掛かっていたが、度重なる被弾に割れかけていた防弾ガラスの窓を殴って割り、ロックを解除してやった。降りる前に解除しておけばよかった。武蔵の体を掴み、外へ引きずり出す。重い。意識のない人間の重さが腕にのしかかる。落としてはいけない、と踏ん張ろうとするが、無理だ、落と──さなかった。横からにゅっと伸びてきた小さな手が、武蔵の重みの半分を引き受けてくれたのだ。お陰で武蔵を支え直してやる余裕ができた。だが僕はその手の持ち主を見て、混乱してしまった。電だ。でも、どの?

 

「電? あの電か?」

「はい。追手は仲間たちが足止めしているので、電に付いてくるのです」

 

 どうして君が、という質問が喉までせり上がってきた。しかし、ここでするべきは質問ではない。逃走だ。この電が僕の知っているあの彼女なら、赤城とも合流できる。武蔵のことだけが心配だった。彼女は排撃班、僕を助けに来た時には赤城のグループの構成員を大勢殺している筈だ。彼女のことは好きじゃあないが、僕の命を何度か救った人物を死神の手に委ねるほど、僕は薄情でいられなかった。そんなことをすれば夜毎に悪夢を見そうなものだ。僕は気が弱いのだ。「武蔵も助けてやってくれ」でないと僕は何処にも行かないからな、と続けるつもりだったが、電は前半分だけ聞いて「赤城さんからも同じ指示を受けているのです、いいから早く!」と言った。その語気に僕は打ち勝てなかった。

 

 姿勢の安定こそしているものの、武蔵の重みで僕の足はぐらつきそうだった。あんまりふらふらするので、僕は自分がそんなに非力だったかと不思議に思って足を見た。穴が開いていた。撃たれていたのだ。道理で、と僕は独りごちた。建物の中を行き、電と共にエレベーターに乗る。Gの掛かり方で、下へ向かっていると分かった。地下道? まさか下水道か何かか? 不衛生だ、怪我人が使う道じゃあない。感染症を起こしたらどうするんだ? 電に聞きたかったが、唇が震えて無理だった。いや、唇だけではなく手や体のあちこちが痙攣していた。これには覚えがある。出血性ショックだ。気が遠のく。ダメだ。気絶はマズい。電が何か言っている。聞こえない。武蔵が重い。

 

 僕はどたり、と倒れこんだ。床で歯を打ったせいでひどく痛かったが、それもやがて意識が白んでゆくにつれて消えた。

 

 ところで、気絶したことがある人間とその経験が一度もない人間のどちらが多いかと言えば、データを集計して分析した訳ではないが、後者が圧倒的大多数ではないかと思う。気絶するような病気や怪我は日常生活では稀なものであって、かく言う僕だって十五の時に軍に入るまでは、気絶した経験はほとんどなかった。海で溺れた時ぐらいだ。ところがその僕が、どうだろう、たった三年で何度気絶した? 何度気を失って、何処だか分からない場所で目を覚ました? ここ数日だけに絞っても二度だ。僕の脳がダメージを受けていないとは思えない。控えめに見ても深刻な脳損傷の軽めな症状が出るぐらいはありそうだ。やれやれ、もし万に一つでもそうなったら、僕は誰を訴えればいいんだろう?

 

 さて、病室のような匂いのする部屋で目を覚ました僕は、まだまだ天国で響と再会する日は遠いらしいと結論した。左右を見ると、左には壁、右にはもう一つのベッドがあり、その上には武蔵らしき褐色の肌を持った女性がいた。()()()としたのは、僕にはそれが武蔵かどうか分からなかったからだ。違う、相貌失認じゃない。僕の側頭連合野は生き延びていると思う。そうじゃなくて、その女性の顔には白い布が被せられていたのだ。白布の意味は明白だった。僕は体のあちらこちらから湧き上がってくる痛みや、心因性の悪心に耐えながら、布に手を伸ばした。指で端をつまみ、顔の上から奪い取る。

 

 ああ、と溜息が漏れた。こんなに衝撃を受けるとは思わなかった。そこには武蔵がいた。穏やかに眠っているようだった。納得行かなかった。武蔵は謎だ。あいつは、前だけでなく今度もいきなり現れて僕に関わって、めちゃくちゃやって、挙句の果てに勝手にくたばって去って行った。いつか彼女が僕にかかずらう理由が分かる時が来ると思っていた僕は、置き去りだ。

 

 布を床に投げ捨てて、ベッドに横たわった。武蔵が最後に僕を連れて行ったあの場所にどうして電がいたのか、そもそもどうして武蔵は僕をあそこに連れて行ったのか考えて、気を紛らわせようとする。でも休んだせいなのか、すぐに答えらしきものにたどり着いてしまった。多分武蔵は匿名の情報提供者に赤城の気配を感じたのだ。僕と同じように。そして詳しく調べて、匿名の情報提供者(赤城の融和派グループ)があの場所を拠点として使っていることを知った。それから僕を助けに来た。余計な遅れのせいで死にかけたが、どうにか僕は命を取り留めた。しかし海軍排撃班との合流地点である倉庫で陸軍の待ち伏せを受けた。部下は制圧されて、海軍の支援もない。独力では僕を守れない。ならどうする? 意地を張って二人で死ぬか、それとも一人で済ませるか。武蔵は今度も、約束を守ることを選んだ。

 

 悪態を吐く気力もなかったが、布を戻してやらなければいけない気がした。床に投げ捨てたようなものを顔にまた被せるのもどうなのかと思ったけれど、武蔵は気にしないだろう。ベッドから下りる。武蔵のセーフハウスで行われたような点滴はされていなかったので、チューブが邪魔になることもなかった。布を拾う為にかがむと、鈍痛が体を苛む。外傷は治療された後らしいが、本調子に戻すにはきちんと入渠しなくてはいけないな。まあ、できるものなら、だが……ここが融和派の拠点なら、ドックぐらい期待したっていいだろう。

 

 布を拾って、被せる前に武蔵の顔を見る。長いまつげ、閉じ切らずに薄く開かれた目、血色を保った頬、そこから彼女の魂が抜けていったことを示すように半開きになった唇は、生命の名残として湿り気を残しているが、それもいずれは乾くだろう。彼女の頬を指の先で一撫でして、布を被せようとする。でもその前に後ろで蝶番がきしむ音がしたので、振り返らなければいけなかった。「おや、起きていたんだね。でもベッドから出てはダメだよ、さ、戻るんだ」深い息を吐き、僕は指でこめかみを押さえる。自分の弱さに向き合うというのは、つらく苦しいものだ。

 

 幻覚の響は僕の服の裾を掴んで、ベッドに腰かけさせた。僕はそれが無駄なことだと分かっていながらも、彼女に話しかけた。

 

「ねえ、響。君がいなくなった後、色々とあったんだよ、ああ、色んなことがあったんだ」

「そうなのかい? どんなことがあったのか、私も聞きたいな。けど、今はダメだ。分かっているだろう」

「うん。だけどね、今しかないんだ」

「そんなことはないさ。ゆっくり休んで、ドックが空いたら入渠して、元気になったらみんな話してくれればいい。私はここにいる」

 

 促されるままに、ベッドで横になる。響の瞳は優しく輝いている。無帽の彼女の髪は、頭が小さく動く度に二度と嗅ぐことのないと思われたあの芳しい香りを振りまく。踵を返していこうとする彼女の手首を掴み、ぐっと引き寄せる。そしてその頬に軽く口づけた。どうして口にしなかったのか、あるいはもっと軽く手にしなかったのか分からない。分からないが、その次に起こったことを考えると少なくとも口にしなかったのは正しかったのだろう。

 

 響は呆気に取られた顔をした後で、合点が行ったという風に微笑みを浮かべて、僕の鼻にがぶりと噛みついたのだ。その可愛い小さな歯が皮膚に食い込む痛みと感動に、僕は悲鳴を上げそうになった。

 

 たっぷり数秒は噛みしめられていたと思う。彼女は口を離して唇を指で拭うと、自分の額と僕の額をこつんと打ち合わせた。僕はどうにか、感想を言葉にした。

 

「最高だ」

「おかわりは?」

「いいね」

 

 すると横で「おい、いい加減にしろ」と怒ったような武蔵の声がした。なるほど、死んだふりか。騙された。

 

*   *   *

 

 武蔵は自分の悪戯が不発に終わらされただけでなく、僕と響が濃厚な口づけを交わしている(という風に彼女からは見えたらしい。面白かったので、僕たちは訂正しなかった)ところを見せられて、いたくご立腹の様子だった。しかし僕には彼女の不機嫌よりも響の実在の方が重要だった。生きていた。死んでなかった。武蔵だって、そのことは認めた。鏡を持ち出して僕の鼻についた噛み痕を確かめもした。響は生きていた。生きていた!

 

 こういうことだ。第五艦隊が乗っていた飛行機は乱気流を避ける為に高度と速度を落としていた。だから深海棲艦の対空砲撃なんかに当たってしまった訳だが、それは無視する。大事なのは、深海棲艦の対空砲火に当たってしまうぐらい低く、遅く飛んでいた飛行機に僕らは乗っていたということと──響が落ちたのは被弾から暫く後だったということなのだ。その時点で飛行機はほとんど海面に接触しかけており、落下は響を着水の衝撃で殺してしまわなかったのである。

 

 とはいえ無傷とも言えず、航空機の中から吸い出された雑多なものの中に混じっていた木製のクレートを浮き代わりにすることはできたものの、艤装も何もなしの上に荒波に揉まれては海面下に押し込まれないように抗うことしかできず、死は間近に迫っていた。そこを助けたのが、第五艦隊を捜索・追跡していた赤城たちだった。ただ助けられはしたものの、赤城たちの素性が素性なもので帰して貰うこともできず、仕方なくグループに身を寄せていたらしい。

 

 僕は赤城が、あの漂流の終わり際に僕と話した時、「あなたの小さな響の死」というフレーズを使ったのを今更に思い出していた。どうして彼女は第五艦隊にとっての響の死を知っていたのだ? ボートの中で寝ている負傷者たちに混じっている可能性だってあったのに、赤城は僕らにとって響が死んだ人物であることを確信していた。今なら分かる。彼女は響が何処にいるか知っていたのだ。僕は響の話が終わった後で、また何度も彼女を抱きしめ、その額といい頬といい手といい指といい片っ端から口づけした──せずにはいられなかった。響、僕の友達、僕の艦隊員、僕の天使。心の中にだけ生きていた時でさえ、彼女は僕の心を支える最も強く太い柱の一つだった。その彼女が、今や現実に生きているのだ。よみがえったのだ。嬉しかった。

 

 でも数分すると、僕は自分の喜びが響を失っていた間抱え続けていた悲しみに比べて、比較するのも馬鹿らしいほどに小さなものであることに気付いて、またショックを受けることになった。彼女の復活は何よりも大きな喜びでなければならないのに、僕の心は僕の思い通りになってくれないのだ。彼女に対して申し訳ない気持ちにさえなった。それは間違いなく響に対して僕が犯した罪だった。彼女を殺しかけただけでなく、彼女が僕から受け取るべきものを渡すことができないという罪だ。だがその罪科を告白すると、響は途端にじとりとした目つきになって言った。

 

「全く、死んだと思っていた親友に久々に会えたっていうのに、そんな下らないことで悩んでるのかい? いたって当たり前のことだよ、それは。君は幸福でいるのが当然の状態なんだ。それがうっかり不幸になったが為に、失われてしまった幸福のことを思い悩み、ずっと余計に不幸を感ずるのさ。だから幸福に戻った時、君が不幸を“失った”と感じる気質なのでもなければ、それまでに感じてきた不幸に比べて幸福がひどく小さく思われるのは、全然普通のことなんだよ」

 

 僕は実に久しぶりに、心からリラックスして微笑むことができた。武蔵はやっぱり、それも気に入らないようだった。彼女は僕に言った。

 

「お前、さっきは私が死んだと思ってめっきり元気をなくしていたんだ、私にもその響にしたぐらいのことはしてくれるんだろうな? え?」

「君は随分あっさり生き返ったし、収容所を出てから今まで一緒にいたじゃないか。僕の命だって君の手中に握らせてやった。だが、この響はすっかり死んだものと思っていたのが生き返り、ずっといなくなったと思っていたものが見つかったんだ。差がつくのは当然だろう」

 

 ベッドから手を伸ばして、僕らは互いの手を叩いて攻撃しあった。響が今度こそ本当に呆れて、僕らのベッドを引き離すまでだ。それでも僕らはにらみ合うことや、皮肉と当てこすりと刺々しいユーモアの投げつけあいをやめなかった。響に会ったことで疲れも痛みも何処へやら、消えてしまった僕にはいつまでも続けられそうだった口喧嘩がとうとう終わることになったのは、響が赤城を連れてきたからでしかない。実のところ、彼女が入って来ても十秒ぐらい気づかないでいた。僕と武蔵がたまたま息を整える為に置いた間が重ならなかったら、十秒どころか十分だって気付かないでいただろう。

 

 赤城は武蔵を見ないようにしながら、僕の体調を尋ねた。僕は「悪くない、入渠させてくれればもっとよくなると思うけど」と答えた。赤城がドックは十五分以内に空くということを伝えた後、次の質問をしようとしたところで、武蔵が「答え合わせ」をしたがった。彼女は僕の居場所を伝えたことだけでなく、融和派拠点の露見や陸軍への密告までが赤城の計画の内だと考えていたのだ。収容所から助け出させ、海軍排撃班と陸軍排撃班を潰し合わせた上で、僕を手に入れる。一石二鳥だ。綱渡りみたいなやり方だし実際死にかけたが、成功もした。そこまでして手に入れるほど僕は重要なのか、それなのにそんな綱渡りをさせたのか、大体赤城の目的に僕がどう役立つのか僕自身としても知らないし分からないけれど、武蔵はこの考えを疑っていないようだった。赤城は甘い勝利と心地よい嘲りを味わうように、弾みを隠し切れていない声で言った。

 

「あなたが彼に偏執的に執着していることは知っていましたので。転がされてくれて、どうもありがとうございました。あなた方が殺した私の同胞たちも、さぞかし喜んでいることでしょう」

 

 年来の宿敵同士は、視線と視線を絡めあった。横から見ているだけで震えが来そうな迫力だった。僕は恐怖とプレッシャーで失禁してしまう前に二人を引き離すことにした。「赤城」と声を掛けると、彼女は視線を動かさないまま「何でしょう」と答えた。「ドックに案内してくれ。話したいこともある」「ダメだ、私といろ。一人では何をされるか分からんぞ、私もお前も」武蔵が横槍を入れてくる。僕は響が止めようとするのを大丈夫だからと抑えてベッドを下り、緊張を崩さない武蔵の肩をぽんと叩いた。「落ち着けよ、次は僕の番だ。赤城?」「はい」「彼女を傷つけないでくれ。友達じゃあないが、それでも命の恩人だ」赤城は頷いた。よし、交渉成功だ。僕は響に武蔵を見ていてくれるように頼み、この部屋を出ることにした。

 

 部屋のドアを閉める前に隙間から見えた武蔵の顔が最大級にニヤついていたのが、何とはなしに怖かった。


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