[完結]Home is the sailor, home from the sea.   作:Гарри

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「洋上」-2

 翌朝、僕は自分の部屋のベッドで目を覚ました。ありがたいことに、隣に裸の女性がいたり、彼女が何者かに殺されていたりするようなことはなかった。頭は痛かったが、耐えられないほどではない。飲みすぎたけれども、その飲酒量は二日酔いを引き起こすレベルには達さなかったらしい。自分のコントロール力に満足しながら、僕は時間を確かめた。出撃まではまだ余裕がある。水でも飲み、胃腸の調子を整え、体を洗って気分をさっぱりさせるとしよう。これからの行動をそれと決めて、僕はまず食堂に行って水を飲むことにした。水差しは乾いてしまっていたからだ。

 

 部屋の外に出ようとすると、郵便受けに封筒が入っていた。僕はそれを取り、開いてみた。中には昨夜の写真が入っていた。隼鷹を膝の上に乗せ、はにかんだように笑っている自分の顔を見るのは、ひどく恥ずかしかった。でも、いい写真だ。大切にしないではいられない。封筒に戻して、テーブルの上に置き、写真立てを買おうと考えながら僕は部屋を出た。今日からは青葉を連れての勤務だ。気を引き締めて、でもやり過ぎないようにしながら頑張ろう。

 

 そう決意してからあっさりと三週間が経った。青葉に協力して宣伝の為に第五艦隊の非公式な隊章をデザインし、書類を書き、提督の用意した例の原稿を頭に叩き込み、何隻もの深海棲艦を沈め、腕や指を失い、生やし、幾つかの艦隊を救い、何人かの艦娘を救えず、感謝されたり、責められたりする三週間だった。取材や記事の執筆は、上手く行っているらしかった。全くそのようなつもりはなかったのだが、青葉が来た日の夜、場の流れだけを理由に突如行われることとなった宴会は、この若き敏腕記者にとって相当プラスに働いた出来事だったらしい。青葉はもっと手こずると思っていたようである。何しろ、彼女の新聞は人気があるが、それでも全員が彼女のファンだという訳ではない。また、他の誰かが取材され、それを記事にされているのを読むのは好きでも、自分が取材されたいとは余り思わない者もいる。しかし、それらの問題もあの宴会で多くの艦娘たちと仲良くなることで解決されたのだ。青葉はどうやらそれを僕が仕組んだことだと勘違いしているようだった。まあ、罪のない誤解なら解くまでもあるまい。

 

 非公式の隊章は最初、ちょっとだけ問題になった。これまで隊章を制定した艦隊がなかったのではないが、それは公式なものであって(というのはつまり、軍お抱えの、()()()()()と呼ばれる、艦娘として海に出たこともないし出られたとしてもそれを選ぶことは絶対にないお絵描き屋連中に、彼らの素敵なデザインを押し付けられるという意味である)、上層部からの許可を受けてのものだったからだ。僕らは海に出る時、支給された服を着用するのだが、何でもこれは軍の所有物として扱われるそうで、僕らはそれを借りているだけらしい。借り物だから、勝手な改造を施すのはけしからん、という訳である。もちろんのこと、提督は僕らが期待した通りのことをしてくれた。そういう連中にはっきりとした「くたばれ」の意思表示をして、ついでに黙らせてくれたのだ。お陰で、第五艦隊は前代未聞の非公式隊章を身につけることができるようになった。これは大湊警備府所属のある艦隊が、軍上層部の再三の制止を振りきって、ペンギンを非公式マスコット※78として選んで以来の快挙であり、かの愛しき日本国憲法第十三条の勝利の瞬間であった。

 

 ところで、非公式隊章の引き起こした問題は一つだけではなかった。僕は当初、ホースラディッシュ、即ち西洋わさびの花をモチーフに使うつもりだったのである。花言葉は「嬉し涙」で、捜索救難任務を遂行する艦隊としてはぴったりだと思ったのもあるし、白い花が可憐で素敵だと思ったのも理由の一つだが、一番は……それがホースラディッシュ(Хрень)※79だからだ。残念なことに、このおふざけは響が僕の試みを察知したことによって阻止されてしまった。どうやら響は、ロシア語で男性器を意味する卑語の語源を隊章に採用するというアイデアを気に入らなかったらしい。でも彼女は優しいので、他の艦娘たちにはバラさないでくれた。もしバレていたら、僕は艦隊員たちの手で海に沈められていただろう。

 

 結局、隊章の基本は黒塗りにした円形の台座に不特定の艦娘が立っている白のシルエットと、その背後を飛行機雲を引いて飛行する六機の航空機を描いたものになり、最終的にはそれに上下のスクロールを加えたものが採用された。上には長門の背中や響のお尻にある(と言われている)焼き印と同じ言葉、2.S.T.R.Fを記し、下のスクロールには5th Fleetと書いてある。評判はまあまあと言ったところで、僕も気に入っている。作って貰った隊章の予備を幾つか譲り受けて、私服に縫いつけたりもした。

 

 三週間と二日目に、今回の青葉新聞の原稿はとうとう完成した。提督と吹雪秘書艦はそれを読んで、訂正や直しの指示を一切せずに許可を出した。もちろんそれは異例なことだったが、青葉の記者としての能力が、偏屈女の提督と公正だが厳しい吹雪秘書艦の両方に認められたということでもあった。数日の間、僕らは反響をドキドキしながら待った。四週間目、かつてないとまでは言わないが、結構な大反響となったことが青葉から知らされた。広報艦隊を出て以来露出のなかった僕が、久々に広報に出たことも一因なのだと青葉は言ったが、僕はそれよりも青葉の力が全てを成し遂げたのだと思いたかった。

 

 提督は大喜び……する訳がなかった。していたとしても、彼女はきっと僕らにそんな姿を見せたくなかったのだ。代わりに、彼女は青葉にもう一号やってくれと頼んだ。無茶な頼みだ。僕は提督に強く抗議し、彼女の才能は僕らの為だけに無駄遣いさせていていいものではないと主張した。この時ばかりは、吹雪秘書艦の静かだが重々しい半歩とて、僕を黙らせることはできなかった。僕は吹雪秘書艦の、こちらの心臓を貫き通しそうな視線からも逃げなかった。僕を提督や秘書艦との対決から退かせたのは、誰あろう青葉その人だった。

 

 どうやら、知らなかったことだが、彼女は越えるべきハードルが高ければ高いほど興奮し始める性格らしい。また青葉は、次号も同じ取材対象で作成して同じだけの、あるいは前号を超える反響を生み出すことができれば、記者としての自分の力の客観的証明にもなると考えていた。本人がやる気なのに、やめさせることはできない。誰も、誰もだ、個人が本当にやりたいと思っていることを、止めることはできないのだ。そうだ、例えば、突然僕が月に行きたいと言い出す──それを止められるのは僕の諦めだけだ。それ以外の誰も、僕が月に行きたいという願望を持つことをやめさせられはしない。個人の行動はその個人の意志によって決定されるのであって、それ以外の何物によってでもない。従って、書類上の手続きを除いて面倒もなく、青葉の取材は延長されることになった。

 

 が、もう一号やってくれと言ったって、前号を作るには三週間掛かった。次号を作るにはもっと掛かるだろう。使えるネタもまた探しださなければいけない。ただ幸いにして、一つはすぐに決まった。第五艦隊の成果発表だ。そこで僕は上層部の連中の前に立つ。これを取材せずして何を取材する? 許可が下りるかが心配だが、その辺のことは提督に任せておけば万事やってくれるだろう。実に彼女の仕事は、もっぱらその手の工作だと言っていい。

 

 そういう感じにことが運んで、青葉と再会してから一ヶ月後、僕を筆頭とした第五艦隊と彼女は、機上の人となっていた。電は、広報部隊に戻って暫く青葉の代役を務めるとのことだった。彼女のことも気になったが、それよりも僕が先に気にするべきだと思ったのは、どうしてまた航空機なんかに乗らなければならないのか、ということだ。提督はそのような情報を匂わせもしていなかった。

 

 四人もいるパイロットの内、僕らの案内をしてくれた大人の男の風格漂う人が、僕の質問を受けて困ったように言った。「目的地は大陸だと聞いていなかったのか?」「大陸って、ユーラシア?」「南米だ」聞いていなかった。僕は機内電話を使って提督に連絡し、南米大陸行きというのは本当かと訊ねた。彼女は「本当だ。世界中のお偉方の前での発表はさぞ楽しいだろうな」と言った後で「ところで、南米行きだということが何か問題か?」と答えた。僕は黙って電話を切るしかなかった。

 

 南米なら、アメリカ経由で三十時間ほど掛けての移動になるのだろうか? この問いにも、気のいいパイロットは答えてくれた。「いや、直行だ」四人もパイロットがいるのは、二十時間ほどぶっ続けの飛行になる為らしい。南米大陸までは一万五千キロぐらいはあるから、そのような長時間飛行となるのもやむなしと言えよう。思えば僕らの乗り込んだ航空機には、増槽タンクが取り付けられていた。

 

 僕らは空を飛ぶ鉄の塊の中にいることを楽しんだ──最初の二時間ぐらいは。二時間も空の上にいると、猛烈に地上が恋しくなった。僕は文字通り地に足の着いた生活が好きなのだ。艤装を外しているということも気に入らなかった。だが、そうしないと二十時間立ちっぱなしになる。貨物室の壁面に備えられている簡易な折りたたみ式の長椅子は、艦娘数人分の艤装の重みに耐えられるようにはなっていないからだ。そもそも艤装は、当初持っていくことさえ許されなかった。余計な荷物は困るという訳だ。

 

 しかし、命あるものとしての義務から自らの安全を守る為だけでなく、旗艦としての義務から仲間たちの安全を守る為にも、それを持って行かないという選択はできなかった。僕はごねにごねて、とうとうパイロットたちの意見をねじ伏せた。ただ理解しておかなければいけないのは、彼らとて無理解などから艤装を置いて行くようにさせようとしたのではないということだろう。彼らには彼らの都合があって、懸念があって、その上で僕らに我慢を求めたのだ。彼らの望みが儚いもので、僕らにとって到底我慢などできなかったのは、遺憾なことだった。

 

 そういう経緯があったので、パイロットたち四人、つまり操縦室にいて働いている二人と、彼らの側で即応予備として控えている一人、そして僕らと同じ貨物室にいて休憩を取っている最後の一人は、僕に話しかけて来ないだろうと思っていた。飛行機に乗るだけでなく、飛行機を飛ばすということは常ならぬ興奮の源泉であると僕は信じている。それについて話を聞きたかったので、彼らと衝突を起こしてしまったことが悲しかった。けれど考えてみれば、二十時間も機内にいなければならないのは何も僕たち第五艦隊と青葉だけではない。パイロット諸君もそうなのだ。なので、休憩中の一人がこちらに話しかけて来るのも当然の帰結と言えばそれらしかった。

 

 残念なのは、その彼が僕にとってあんまり好ましい性格をしていなかったことである。年若い彼(と言っても僕より七つ以上は年上だった)は女性の話を好んだが、僕はその手の話を初対面の相手とするタイプじゃなかった。確かに女性は素晴らしい。もし全知全能の神様がいるとしたら、その神様は女性の姿をしているだろう。何故なら彼女は全知であるが故に、女性であるということがどのようによいかということをまで理解しているからだ。

 

 けどまあ、折角全能なんだし、ふと気分が向いた時には男の体になってみるのもいいかもしれないと彼女には言ってやりたい。少なくとも僕は、女性の素晴らしさを認めてはいるが、男であることも同時に愛している……いや、それはいいとしてだ。とにかく、僕は最近の流行りからは取り残されているのだろうが、奥ゆかしい方だった。当然、この若い操縦士のような開けっぴろげで臆面もない人間とは、気が合わなかった。結局僕らは、最後には口を利かない間柄になってしまった。僕が悪いんじゃないと思いたい。彼が愚かな質問をしたからだ。

 

 それはこういうものだった。

 

「何で“艦娘”なんだ?」

 

 ここ数ヶ月で一番下らない質問だった。僕が提督に訊ねたものを除けば、間違いなくランキングトップだろう。でも僕はサービスされたペットボトルのお茶を飲みながら、礼儀正しく彼に聞き返した。

 

「何でって?」

「ほら、だって、なあ。君は男じゃないか。それとも君は違うのか?」

 

 僕は既にちょっと怒っていた。友達に「女の子みたいだな」って言われるのは冗談で済む。互いの間に友情があることを知っているからだ。が、今日会ったばかりのそれほど親しくもない奴にこのような言葉を投げかけられるもっともな理由は、何処にも見つけられなかった。でも突然キレるのはよくない。それは社会的な信頼を損なう行為である。そこで僕は彼に、彼でも理解しやすい形で説明した。彼がそれで黙ってくれる筈がないと分かっていたら、そんなことはしなかったのだけれども。

 

「艦娘は存在として僕より先任だろ。だから“艦娘”って言葉を僕に合わせて変えるのは間違ってるんだよ、少なくとも軍の中ではね」

「でもやっぱり、政治的に正しくない言葉遣いだよ」

 

 ポリティカル・コレクトネスはクソかどうかなどという話を彼としたくはなかったので、僕は話題を変えることにした。ゆっくりと彼の目を見て、眉を上げ、溜息を吐いてから、僕は言った。 

 

「いいかい、まず一つ……“くたばれお節介野郎”、だ。ああ気にしないで、ただ君にそう言っておきたかっただけだから。何ならもう一回言っても構わないよ、どう? いい? それじゃ二つ目だ。僕は軍人で、政治家じゃない。広報部隊にいた時はともかく、今は違う。それから三つ。君のような気遣い上手のせいで用語が変わりでもしたら、何百万枚という書類が書き直しになる。その中には僕がやらなきゃいけないものがどう見積もっても一万二千五十八枚はあるんだ。だからね、君。僕のことを気遣うならどうか放っといてくれないかい。そうすれば、僕も一々腱鞘炎の心配なんかしなくて済むんだから。頼むよ、ね? お茶でも飲んでて。ほら」

 

 このような流れで、この操縦士と僕は、死ぬまで互いにこのムカつく相手と話さないでいることを決めたのだった。

 

 ところで飛行機に日常的に乗っている人間と、そうでない人間の違いが一つある。後者は飛行機酔いしやすいって点だ。そして機内にいる艦娘で飛行機に慣れているのは、青葉だけだった。彼女は日本やアジア各地などで活動しているので、航空機での移動も経験していたのだ。凄いな、と素直に思う。青葉がけろりとしている横で、第五艦隊は一人残らず体調を崩していた。

 

 那智教官は脂汗を額に浮かべたまま椅子に腰を下ろしてまんじりともせず、利根と北上は「利根っちの方は大丈夫?」「ダメじゃの。飴でも舐めて耐えるしかあるまい」「飴あるの? あたしにもちょうだい」とその場を乗り切る為に協力している。多分第五艦隊で一番上手にこの苦難を乗り越えたのは隼鷹で、彼女は椅子に座ってベルトで体を固定すると、持っていたスキットルの中身をぐいっとやって夢の世界へ逃げこみやがった。響と僕は寄り添って、この苦痛から解放される時が来るのを待ち続けるしかなかった。苛立ちをこらえて操縦士に酔い止めの薬がないか聞こうかと思ったが、彼は寝ていた。

 

「南米って何があるんだい」

 

 響は青い顔をしていたが、雑談で気を紛らわそうと僕にそう話しかけてきた。僕もいつも以上の青白い顔になっていただろうが、それに答えた。「リオのカーニバルとコルコバードの救世主像※80……麻薬カルテル……砂糖プランテーション?」最後のはどっちかというと中米な気もする。何にせよ、全体的に僕の無知さをさらけ出す回答だった。響は力なく笑って、司令官はコロンビアのカルテルと是非とも接触を持ちたがるだろう、と言った。僕も合わせて笑ってから、急に心配になって小声で訊ねた。

 

「提督はコカインもやるのか?」

 

 この質問に響は答えず、椅子から立ち上がると危なっかしい足取りで隼鷹のところまで行った。そして彼女が力強く握りしめていたスキットルを無理やり引き剥がして奪い取ると、こちらに戻って来て腰を下ろし、スキットルの中身を一気に飲み下した。ふうっ、と吐き出した彼女の息から、アルコールの匂いがつんと香った。「ああ、これなら寝られそうだ」感心したように響は呟き、帽子を目深に被り直した。それから僕へとスキットルを渡してくれた。中にはまだ残っている。断りを得ずに飲んだら、隼鷹は僕を許してくれるだろうか? そうであることを祈ろう。口の中にひりひりする液体を注ぎこみ、胃へと流し入れる。目を閉じると、眠気はすぐに襲ってきた。

 

 そして僕は海の中にいた。息ができなくて焦ったが、どうやら呼吸しなくても大丈夫なようだった。透き通った海、綺麗な海、かつてはダイビングやホエール・ウォッチングなんかが楽しめただろう海の中で、僕は戸惑っていた。これまでの夢では、いつでも何かが起こっていた。今回は違う。まるで僕が何かを起こす役割を任されたみたいだ。上を見ると、陽の光が海面で反射している様子が見えた。下を見れば、光が届かない闇と重圧の世界が見えた。海中なのに、地上にいる時みたいにはっきりと。下の方に何かいる気がして、僕はじっと見つめてみた。吸い込まれそうな暗さだ。いや、実際、吸い込まれていた。すると声がした。

 

「何やってる、上がってこい!」

 

 天龍の声だ。僕は上を見た。水面の向こう側に、彼女のものらしい姿が見えた。水上にいる彼女の声が、どうしていやに明確に聞こえるのか分からなかった。水の中をたゆたいながら、僕は天龍の輪郭を眺めた。水のゆらめきで歪んでいたが、腹に穴が開いたままだった。それだけじゃない。彼女が立っているところは、彼女の血で真っ赤に染まり始めている。それが何を意味するのか、僕は上がるべきなのか、迷ったが、天龍を放ってはおけなかった。夢の中でぐらい、彼女を助けたかった。「いいぞ、こっちだ!」天龍の声が喜びに染まる。彼女が僕に向けてそんな声を出すとは。彼女の体が傾き、僕を引っ張り上げる為の腕が水の中に突っ込まれて姿を見せる。その手を取る。力強く引っ張り上げられる僕の耳元で、誰かが悔しそうな唸り声を上げて言った。

 

馬鹿(バカ)メ……!」

 

 目を覚ますと、僕は座っていた椅子から落ちて響を押し倒す形になっていた。これはマズいな、と思うと同時に、僕の下になっていた響も意識を取り戻した。何か彼女は気の利いたセリフでも言おうとしたのだろうが、それよりも先に機体が大きく揺れて、僕らはバランスを崩し、互いの額を強くぶつけた。ごろりと横に転がって離れ、床に手を突いて立ち上がる。また揺れが来て、こけない為にはみっともなく中腰にならなければいけなかった。「どうなってる?」と響が右手で自分の額をさすりながら言った。左手には帽子を掴んでいる。ベルトで自分の体を固定していた那智教官が、僕らの眠っていた場所の向かいにある長椅子から答えてくれた。「嵐だ」調子は戻っているようで、その顔色はよくなっていた。

 

 窓の外を見る。暗い。外は嵐らしいが、それを考えに入れても暗すぎる。時間を確かめるとそれもその筈、もう夜だった。空腹感はあるが、食欲は余りない。この揺れが終わったら、軽食でも取るとしよう。そう考えながら椅子に戻ってベルトで体を縛り付けていると、ざざっ、と音が鳴って機内放送用のスピーカーから操縦士の声がした。僕を案内してくれた、落ち着きのある男性パイロットの声だった。彼は機体が嵐の中に突っ込んでいること、気流の悪影響を避ける為に高度を下げ、速度を下げることを僕らに伝えた。その言葉に前後して、機体の下降が始まる。自分の体が浮き上がるような奇妙な感触に、変な声が出た。隣の響が、小さく吹き出した。僕は彼女に強い視線で抗議したが、立場が逆だったら僕だって吹き出していただろう。

 

「下がりすぎじゃないか?」

 

 窓から外を見ながら、僕はそう叫んだ。激しい気流で貨物室にあるものはどれもこれもがたがたと揺れて音を立てていたから、大声でないと聞こえないのだった。今海上何メートルを飛んでいるのか知らないが、僕にとって高度というのは高ければ高いほどいい。深海棲艦の航空機は通常の現代的なジェット機などが飛行する高度へは近づいて来ないし、敵の対空砲火も届かないからである。

 

 海軍の次に空軍が現代日本で大事にされているのは、ここに理由がある。艦娘よりも素早く活動できる上、深海棲艦側の航空機が上がって来ない高度を飛び、敵を倒すことはできなくても発見・報告することができるジェット機などは、偵察や情報収集の面で非常に役立つのだ。パイロットが血迷って低速でまっすぐに接近したりしなければ、敵の攻撃を受けて撃墜されることもまずない。軍が必死になって研究しているという対深海棲艦用通常兵器の開発に成功した暁には、艦娘と並び立つ深海棲艦の敵になることができるだろう。

 

 それに引き換え陸の連中は何なんだろうな。あいつらが何かの役に立っているところを見たことがない。憲兵隊は所属こそ陸軍だが、海軍から出向している艦娘も多い。肉体面でも強化されている艦娘相手には、同じ艦娘をぶつけるしかないから仕方ないんだが、それなら海軍で憲兵隊も引き受けたらいいじゃないかと思う。陸軍に回す予算がもったいない。まあ、きっと僕が知らないか思いついていないだけで、何か理由があって陸軍も存在しているのだろうから、これ以上は胸の奥に押し込んでおくとしよう。

 

 僕の質問に誰も答えてくれなかったので、椅子の近くにあったインターホンを使って操縦席のパイロットたちへと呼び掛ける。「低空すぎるぞ」「航空力学の基礎として……」大変に興味のある話だったが、最後まで聞くことはできなかった。これまでにない、機体が何かにぶつかったかのような強い揺れが起きると同時に、インターホンがあった辺り──僕が手を伸ばせば届く範囲の内壁がすっかり失われてしまったからだ。ごっそりと壁がなくなったその穴からは、下からこちらへ向かって伸びてくる細くて明るい線が見えた。対空砲火の作り出す火線だ。下にいた深海棲艦に見つかって、撃たれたのだ。

 

 貨物室内の機内灯が赤に色を変える。響の焦燥に溢れた声が聞こえた。彼女は外に吸いだされそうになっていた。ベルトをしておらず、穴に近かったからだ。床の僅かな突起に指を掛けていたが、それも限界が近かった。僕は目一杯右腕を伸ばし、彼女の手首を掴んだ。それと同時に、彼女の指は突起から外れた。外へ流れ出そうとする空気に引っ張られ、浮き上がった彼女の体に釣られて、僕の腕が壁へと叩きつけられる。響は今や、片手だけでその命運を保っている有様だった。「離すなよ!」と大声で響に言うが、聞こえていたかどうか怪しい。

 

 航空機はますます下降していた。操縦不可能状態に陥ったのか? だが錐揉(きりも)みにはなっていない。汗で滑りそうな響の手を、左手でも掴む。これで大丈夫だ。後は僕のところまで何とかして引き戻し、次の状況まで耐え抜けばいい。二度と放り出されたりしないように、響を膝の上で抱きしめているという役得も得られるだろう。余裕ができたこともあって、僕は機内をさっと見回した。那智教官、青葉、利根、北上、隼鷹、みんな大丈夫だ。利根や北上はこちらに向かって何か言っているが、風の音が凄くてとても聞こえない。

 

 響を助ける為に足腰に力を入れて踏ん張ろうとしたその時、二発目の対空砲火が当たった。僕は僕が命を握っている少女を離すまいと、身を縮めて目を閉じ、手に力を入れた。それはとんでもない大間違いだった。飛んできた破片か何かの前に、自分の頭を差し出す行為だったからだ。

 

 そして僕は、気を失った。

 

 頬を打たれて、目を覚ます。頭を上げると、那智教官の顔が目の前にあった。そのまま眺めていたかったが、彼女は二発目のビンタを叩き込もうとした。手を上げて止め、辺りを見る。幸い機内灯は生きており、僕はただちに現状を理解することができた。着水したのだ。ベルトを外して立ち上がり、大声で怒鳴る。「気絶した者を起こせ! 全員艤装を着用しろ!」それから艤装を置いていた区画に向かった。そうしている間にも、水がどんどん機内へと流れ込んでいる。機が沈むのに、十分と要さないだろう。僕が自分の艤装を装備していると、一緒に来た那智教官が短く罵った。彼女の艤装は、大半が何処かに行ってしまったようだ。特に脚部艤装が失われていたのが痛かった。

 

 装備を失ったのは彼女だけではなかった。何一つ欠けることなく残っていたのは僕だけで、北上は連装砲一門と魚雷二十発、利根は連装砲一門に少数の水上機しか武装がなかったし、隼鷹は那智教官と同様の脚部艤装喪失に加え、艦載機もほぼ壊滅という有様だった。教官に「救命艇(ゴムボート)と、積み込む荷物の準備を。僕は操縦室のパイロットたちを見てきます」と言って、操縦室へ向かう。

 

 操縦室へのドアは、既に水圧でびくともしない状態になっていた。しかし、ここにいるのはただの男じゃない。全力で体当たりし、蹴り飛ばすと、どうにかドアをぶち破ることができた。だが骨が折れるかと思ったので、推奨できることではない。中に入ると、悪臭が僕を襲った。僕は顔をしかめ、鼻を押さえ、ざっと見回し、()()の死亡を確認する。貨物室の方から教官の声がした。「救命艇は操縦室から操作して出す形式のようだ。そちらにボタンか何かないか?」彼女の落ち着いた声で、僕の頭も冷えた。制御盤にそれらしき記載のボタンがあったので、それを押す。すぐに教官が結果を教えてくれた。「救命艇が用意できた。物資を運搬中だ。早く戻ってこい、こいつは沈むぞ」「すぐ行く」この場を離れる前に、やらなければならないことがあった。役立ちそうなものを集めること、死亡者の認識票回収、そして生存者の救助だ。

 

 水の中から地図らしきものを取り、丸めて懐へ収める。二人分の死体の首元を探り、卑金属製の楕円形の板を引きちぎる。それを懐に突っ込むと、僕は操縦席でぐったりしているが死んではいない一人を担ぎ上げた。この時点で、もう僕の腰のところまで水が来ていた。脚部艤装を作動させていたら、天井に頭をぶつけていたかもしれない。亀よりも遅い歩みで輸送機から出る途中、僕にどうでもいい質問をした年若い操縦士の死体を見つけた。彼の認識票は既に回収されていたので、そのまま無視して進む。三つの空の棺が焼かれることになるだろう。悲しいことだ。

 

 敵の攻撃が直撃して作られた穴から外に出て、輸送機の外面を登る。外は嵐、雨と風に晒されながら滑る曲面を這い上がるのは大変な苦労だったが、どうにか失敗せずにやり遂げた。周囲を見て、救命艇の位置を知る。それから脚部艤装を作動させ、足から水へと飛び込んだ。少し沈み、浮き上がり、荒波の中に立つ。大型の救命艇には、第五艦隊が揃っていた。いや、揃ってはいないか。響がいない。彼女は外に放り出されてしまった。生きてはいまい。僕は胸の苦しみをこらえながら、怪我した操縦士を隼鷹と那智教官に渡し、青葉のことを訊ねた。彼女は僕が艤装を着用しようとしていた時、いなかったのだ。

 

 彼女たちの顔色が変わった。僕のもだ。僕はすぐに脚部以外の艤装を解除して利根に押し付け、救命艇に地図と思しき紙切れを放り出すと、北上に短く命令した。「付いて来い!」那智教官が止めようとするのを無視して、航空機の横穴まで戻る。そこで脚部艤装を解除して北上に渡し、ほとんど沈みかけている航空機の中に入り込もうとして、振り返り、わざとらしいセリフを吐いた。

 

「すぐ戻る」

 

 横穴も、最早水で覆い尽くされそうになっていた。そこをくぐる為に、僕は水の下へ潜らなければならなかった。機内灯が未だに点灯していてくれたので、真っ暗闇の中で青葉を探す必要がなかったことだけが幸運だった。水の中に浮いているあれこれのがらくたを押しのけ、まずは貨物室の上部に残った空気溜まりに顔を出す。運がよければ、青葉は浮かんでいる筈だ。そうでなければ……見つけ出すまでだ。

 

 彼女の名を呼びながら、僕は水面に目を走らせた。見つからない。鼓動が激しくなる。僕は今日だけで二人も失うのか? 僕の友達を、戦友を、もっと長く生きるべきだった人を、二人も失うというのか!

 

「二人は多すぎるだろ!」

 

 苛立ちを拳に込めて、水面に叩きつける。と、その衝撃で荷物の一つが、ぷかりぷかりと現状にそぐわないのどかさで移動した。その陰に、青葉の体が見えた。仰向けだ。だとしたら、呼吸は阻害されていなかった筈だ。急いで近寄り、彼女の頬を叩く。目を覚まさない。体を掴み、引っ張ると、生暖かいものが手にまとわりついた。彼女の血だった。背中に大きな傷を負っているようだ。軽く触れてみると、一刻も早く手当てしなければならない大きさだった。

 

 彼女の体に腕を回して連れて行こうとするが、青葉の足は何かに引っ掛かっていて動かなかった。潜って、目を凝らす。彼女の足には椅子のベルトが複雑に絡まっていた。これを(ほど)いていたら、僕と青葉は仲良く海底二万里だ。なので僕は私物のナイフを抜いて、鋸刃(セレーション)部分で強引にぶった切った。鞘に収めて、明石さんに感謝だ。青葉を捕まえたまま横穴を抜け、水面に出る。北上は待ってくれていた。彼女に身じろぎもしない青葉を押しつける。

 

「青葉を連れて先に戻れ、手当てを!」

 

 脚部艤装を受け取り、荒波に揉まれながら着用して、水上に戻る。服は水を吸ってずっしりと重く、体が冷えきって寒かったが、助けられる仲間を見捨てなかった誇らしさが体を温めてくれた。それだけに、響のことがどうしても辛かった。彼女の不在は、耐えられない痛みとして僕にのしかかっていた。救命艇に戻り、青葉と操縦士の様子を見る。教官と隼鷹が手分けして応急処置を施していた。通常の医薬品を使ってだ。聞けば、希釈修復材を持っていたのは僕と那智教官だけで、しかも教官のは着水の衝撃で艤装の大部分などと共に何処かに行ってしまったらしい。

 

 後悔が自分を襲った。気を抜いていた。きちんと言っておくべきだったのだ。操縦士たちを説得して艤装を積み込ませて「これで十分だろう」と思い込んだのは、僕の不手際だった。言い逃れしたいなら、那智教官だって何も言わなかったじゃないか、と言うことはできる。だがそれは何の役にも立たないし、僕に言い逃れをする権利はない。彼女は二番艦だが、この僕は旗艦なのだ。起こったことの責任は、僕のものだ。そうでなくてはいけない。

 

 青葉の治療をしていた隼鷹が、僕の修復材を求めて手を伸ばしてきた。僕はその手を押さえ、通常の医療品で済ませるように言った。希釈修復材は、欠損レベルの負傷に備えて取っておきたい。青葉の怪我は切り傷で、傷口は迅速な手当てを要する大きさだが、負傷度合いそのものは人間用の医薬品でどうにかなる程度だ。ここで僅かしかない希釈修復材は使えなかった。隼鷹は僕の決定を不服そうにしながらも、受け入れた。その彼女の腰に、スキットルがぶら下がっているのを見つける。「あんたらが寝てる時に回収させて貰ったんだ」と彼女は言った。

 

「それをくれ」

「勝手に取りなよ」

 

 了解は得られた。僕は隼鷹のスキットルを取り、その中身を海に捨てた。それから操縦士の手当てを終えた那智教官に命じて、大型救命艇に付属している天蓋を組み立てさせた。これは雨風や日光を防ぐだけでなく、受けた雨水をやはり付属のタンクの中に貯める仕組みを有している。怪我人を組み上がった天蓋の下に退避させ、どちらかがスキットルで天蓋から垂れ落ちる雨水を受けているように教官と隼鷹に指示して、僕は次の動きを考えた。

 

 撃墜した機を深海棲艦は確かめに来る。この嵐と波で速度は出せないだろうが、やがては来る筈だ。離脱しなければいけない。これが穏やかな空の瀬戸内海にでも落ちたというのだったら、救助が来るまでのんびりと待っていればよかったろう。目印代わりの航空機の近くにいれば、その内に捜索機が飛んできて発見してくれたに違いない。しかしここは何処とも知らぬ海の上、嵐と敵とに囲まれている。何をするにも、まず移動だ。

 

 教官たちが救命艇に積み込んだ荷物の中には、貨物を縛る為に使っていたのだろうロープの束があった。北上と利根に言って、適当な長さに切ったそれを救命艇の左右に結わえさせる。備品のオールで漕ぐのもいいが、艦娘がいるなら引っ張らせた方が早いだろう。早速移動を命じようとすると、教官が別の意見を具申してきた。

 

「現在地も分からずに無闇に動くのは危険だ。せめて大まかにでも知らなければ」

「でもどうやってそんなことが分かる? GPSはいつものように壊れてる……みんなのはどうだ?」

「ダメだった。救命艇にもなかった。積んでないのか、墜落の時に失われたのかは分からないが。操縦士から位置を聞き出せるかもしれない。攻撃を受けた時に、座標を確認していた筈だ。旗艦手ずから持って来てくれた地図もあるからな」

 

 これには一理あった。でも操縦士は負傷して、意識を失っていた。傷は青葉ほどひどくないが、彼が青葉よりもタフであるようには思えなかった。

 

「分かった、やってみてくれ。でもダメだったらすぐに移動しよう」

 

 教官が操縦士を起こそうと試みるのを放っておいて、僕は海上の監視に入った。荒れ狂う海の上にじっと立っているというのは、それだけで技術を必要とする。だが敵が来た時にこちらが先に見つけられれば、それだけで少し有利になる。けれどもそれだけでなく、何かやっていないと恐怖で何もできなくなりそうだったのだ。無線で助けを呼びたかった。届くかどうか分からないが、使える周波数全てに呼びかけて、近隣にいるかもしれない艦娘たちを呼び寄せたかった。その行為が呼び寄せるのは実際のところ、近隣の深海棲艦だけだという知識が頭になければ、僕はそうしていたに違いない。

 

 きっかり三分後、操縦士は悲鳴を上げて目を覚ました。見ると、那智教官は彼女のナイフを鞘にしまうところで、操縦士は指を押さえていた。僕の視線に対して、言い訳するように彼女は言った。「切り落とした訳じゃない」大方、爪の間に差し込みでもしたのだろう。想像するだけで震えが来る。教官は起こしたそのパイロットを、もう一度寝かせてやるような優しさを有していなかった。地図を突き付け、きつい口調で質問をした。味方の負傷者に対して人道的な取り扱い方じゃなかったかもしれないが、お陰で情報は得られた。

 

 ハンドサイン(手招き)で僕を呼び寄せ、地図を広げる。雨を防ぐ為に、覆いの下でだ。僕は中腰になって救命艇に手を突き、天蓋に顔を突っ込まなければならなかった。「操縦士を信じる限り、我々はここにいるようだ」と教官の指が示す一点を見る。ハワイ諸島から千キロちょっと南に行ったところだった。「どうする?」教官の言葉に、僕は黙って深く考える。日本から南米へ向かう途中に僕らは撃墜された。ここから最寄りの日本海軍は、ソロモン諸島のブイン基地かショートランド泊地の所属だ。敵も馬鹿じゃない。僕ら(生存者)がソロモン諸島を目指して進む可能性を忘れはしないだろう。となれば、待ち伏せ部隊を配置したり、ソロモン諸島へのルート上を重点的に哨戒すると見ていい。

 

 他の行き先はどうだ? ハワイ諸島は? ソロモン諸島までは四千、五千キロは距離があるが、ハワイはその四分の一か五分の一だ。理論的には、半日もあれば到着できる。問題は、米軍の艦娘と深海棲艦が、そこを取ったり取られたりしているという点だった。米軍が占領すると、数ヶ月後には深海棲艦の猛攻で奪い返される。けれど再びその数カ月後には海を埋め尽くす勢いの米軍艦娘がやって来て……これは信憑性のない噂だが、何でももうハワイ諸島には平地しか残ってないって話だ。山やら丘やらは全部砲撃で地ならしされてしまったのだという。もし噂が本当だとしたら、仮に戦争が終わってもハワイは二度と立ち直れないだろう。歴史も、文化も、永遠に失われてしまったという訳だ。それだけで戦争はクソだということがよく分かる。

 

 ともあれ、ハワイ諸島行きは賭けになる恐れがあった。誰も今そこを支配しているのがヤンキース(アメリカ軍)ディープワンズ(深海棲艦)のどちらなのか、知らなかったからだ。行ってみて見てみると敵だった、などというのは避けたかった。敵でなかったとしても、誤射されかねない。ただでさえヤンキーどもは誤射が多いと世界中で有名なのだ。深海棲艦の爪の垢でも煎じて飲めばいいと思う。

 

 もちろん、南米に自分たちで向かう、などという選択肢もなかった。近くのキリバスやマーシャル諸島という手もなかった。そこいらはとうに人間のいない場所になっていたからだ。結局、ソロモン諸島に行く道しかなかったのである。それに捜索隊が出るとしたら、そこからだろう。上手く行けば、捜索隊と合流できるかもしれない。僕は那智教官に言った。

 

「ソロモン諸島に向かおう」

「うむ、それしかあるまい」

 

 僕らは旗艦と二番艦、少尉と小隊付軍曹、夫と妻みたいなものだ。短い言葉で分かり合えた。どちらかと言えば僕が妻をやった方がいいだろうが、それは置いておこう。まずはここから移動、そして安全な場所で航路を決め、燃料がどれだけ必要かを導き出すのだ。那智教官や隼鷹は、脚部艤装こそなくとも燃料を持っている。それを牽引する艦娘に渡せば、かなりの距離を移動できる筈だ。これまでにない試みである為、確実なことは言えないが。

 

 指示を出そうとした時、緊迫した北上の声がした。「十時の方向に敵を発見、こっちに近づいて来てるよ!」僕は咄嗟に命令した。「利根と北上は救命艇に上がって伏せろ! 教官と隼鷹は天蓋を畳み、ボートの空気を一部抜け!」そうして、自分はまたも脚部艤装を外して救命艇に投げ込み、水に入った。結わえさせたロープを掴み、撃墜された航空機の残骸や浮かんでいる貨物箱、それらの破片などに紛れて、南へと進む。運のいいことに、波が味方してくれていた。僕は舵取りをして、近づいてくる破片等の中の尖ったものを気をつけて払ってやればよかった。

 

「敵の様子は?」

 

 一時間か二時間は経った気がしたが、戦闘中の時間の感覚は当てにならない。僕の質問に答えたのは利根だった。「どうやら、引き上げるつもりらしいの。お主もはよう上がってこんと、風邪を引くぞ」「そうしよう。手を貸してくれ」天蓋の中に手を突っ込むと、柔らかな感触があった。残念なことに誰かの胸じゃなかった。教官の手だ。海の戦士の手とは思えないほどに、女性らしい手だった。引き上げて貰って、僕は救命艇の縁に腰を下ろした。ボートに寝転がりたかったが、ずぶ濡れで入ると海水が艇内に入ってしまう。嵐のせいで艇内に溜まった水は真水だから飲むこともできるが、海水はそうは行かない。水は貴重なのだ。仕方なく、僕は汲み出しと貯水作業が終わるまで吹き付ける雨風に耐えなければならなかった。

 

 ようやく条件が整い、転げるようにして天蓋内に入った。体が冷え切っていて、歯の根が合わない有様だったが、指示を出さなければならない。しかしどうにも言葉がまともに出て来ない。必死の思いで僕は言った。「二番艦、任せる」「任された」教官は頼りになる女性だ。てきぱきと命令を下した。

 

「隼鷹、旗艦を暖めてやれ。青葉とパイロットの面倒も、当面はお前に任せる。北上、お前は監視員だ。三百六十度とは言わん、二百七十度を警戒しろ。ついでに抜いた空気を入れ直せ、ポンプがそこにある。利根、お前がこの船のエンジンだ。進行方向の縁に座って、脚部艤装を作動させろ。潜水艦じゃないが、静音航行を心がけるように。コンパスはあるか? よし、それを使え。私はオールを使って舵を取る。どちらにどれだけ曲がるかは、利根、お前が判断しろ。いいな? では掛かれ!」

 

 青葉と操縦士は困らなかった。横になっているだけでよかったからだ。北上は苦労するだろうが、不可能なことを命じられたのではなかった。利根だってそうだ。責任重大ではある、ではあるが、やるべきことを指示された。困ったのは隼鷹だった。何しろ彼女に下されたのは「暖めてやれ」だった。だが、どうやって? ゴムボートの上、天蓋の下で火を焚くか? ふうん、そしてその光を深海棲艦に見つけられてしまうんだな──そうでなければ一酸化炭素中毒でみんな死ぬかだ。で、あれば、自然と弾き出される答え、熱源の在り処は一つだった。

 

 恐らく、那智教官と北上、利根の三人は気を使ってくれもしたのだと思う。教官はわざわざ僕らに背を向けてオールを構えていたし、北上も後ろを向いて警戒し、決して振り返ろうとしなかったからだ。利根に至っては天蓋の外にいた。僕は彼女に、腰のサバイバルキットを入れたポーチからブランケットを差し出した。撥水加工などもしてあるので、彼女の体温低下を防げる筈だった。その後、僕と隼鷹は互いの体温を分かちあった。青葉は息をしていたが、眠っていた。操縦士も、現在地を聞き出した後には寝かせて貰えていた。見ていた者は誰もいなかった。よかったと思う。生きて帰れるか分からないが、帰れたら絶対にこれをネタにしてからかわれるだろうからだ。青葉などは記事にするかもしれない。

 

 僕は震えながら隼鷹に「悪いな、冷えるだろう」と言おうとしたが、実際に口から出たのは「わわわわわ」みたいな感じだった。彼女が僕を抱きしめる力が、ぎゅっと強まった。濡れた衣服は脱いで絞ってボートの片隅にやっていたので、彼女の生の肌が僕のそれに押し付けられることになった。男性的な、余りに男性的な生理現象が起きたらどうしようか、などというのんきなことを考える余裕があったのは、隼鷹の献身によって少しずつ体が暖まっていたからだろうか。うとうとしながら、復調を待つ。眠りに落ちると、隼鷹が頬をつねって起こしてくれた。睡眠は重要だが、体温の低下を招く。低体温症から回復するまでは、眠ることもできないのだ。

 

 気づくと嵐は止んでいた。風は多少吹いていたが、天蓋の中にいたので寒くはなかった。体温も通常程度に戻っているようだ。「隼鷹」今度は震えずに声も出た。「もう大丈夫だ。ありがとう」僕らは体を離し、服を着た。湿ってはいたが、体が冷え込むほどではない。教官が言った。「指揮権は貴様に戻った」僕はそれを認めた。

 

「早速で悪いが、糧食と水の量を確認しよう」

「分かった。北上、舵取りを頼む。利根、北上に舵を代わったぞ」

「うひー、忙しいねえ」

「ぬう、吾輩もちと疲れてきたぞ」

 

 これが終わったらボートの牽引は僕が交代するから、と利根に約束して、もうちょっと頑張って貰う。隼鷹はまだ僕に休んでいて欲しいようだったが、働ける者は働かなくてはいけない。僕は教官と二人で、彼女が積み込んだ物資を数えていった。お世辞にも多いとは言えなかった。これが僕と教官の二人旅なら、差し障りはなかったのだ。しかし今回、この大型救命艇には負傷者二人を含む七人が乗っていた。訓練所や旗艦学校で習ったことを思い出す。その途中で、思い当たることがあった。

 

「今何時だ? 墜落からどれくらい経った?」

「日本時間で午前三時二十八分。墜落からは二時間か三時間ほどだ。ほら」

 

 そう言って教官は手帳を差し出した。それは青葉のもので、濡れていなかった。ジッパー付きのポリ袋に、ペンと一緒に入っていたそうだ。隼鷹が青葉の手当てをする為、服を脱がせた時に見つけたのだった。それを那智教官は航海日誌をつけたり、墜落時刻やその手の種々のデータを書き記すのに使っていた。

 

「正確な現在地は出せないが、移動時間とその方角などを勘案すると、大体この辺りだ。今は空が曇っているが、晴れたら六分儀を使って、より細かい位置を割り出せるだろう」

「六分儀があるのか」

「私物だ。旗艦に対して無礼かもしれんが、貴様はまだまだ備えが足りていないな。帰って休んだら、しっかり教えてやる」

 

 参った、と僕は両手を上げた。思うに、教官殿にはいつまで経っても敵わないようだ。そのことは手帳に書いてある丁寧な文字を読むことでも分かった。水の量、救命艇に備わったソーラー式蒸留器の状態、脱塩キットの数、糧食の数、配給計画案……僕がやるべきことは全てそこで片付いていた。喉元まで「あなたに指揮権を委譲したいのですが」という言葉が出かかった。そんな無責任な真似、那智教官の前でだけはできない。何があろうと彼女の前でだけは、立派な艦娘らしい僕でいたかった。実際にそれができるかどうかはまた違う話である。

 

 配給計画案については話し合いが必要だった。僕の立てた移動計画と、那智教官の考えが異なっていたからである。教官は日中も移動を続け、可能な限り迅速に味方の領域へ向かおうとしていた。けれど僕は日中の移動を避け、海錨(シーアンカー)を投じて日没を待ち、夜陰に乗じて移動を繰り返す心づもりだった。


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