[完結]Home is the sailor, home from the sea.   作:Гарри

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「第二艦隊」-4

 共同洗面所には伊勢と日向、それに足柄がいた。あんまりよく見る組み合わせではないが、仲はいいようだ。邪魔するようになってしまったが、気にせずに歯を磨かせて貰おう。今は僕に向けられる悪意さえ日常のものに思えて、僕をほっとさせるのだ。まあ、足柄は特別僕に敵意を向けてくる方ではないので、その狙いは外れたが。歯を磨き終わったら、艤装を整備しようと決める。一人で悩んでも解決できないことで、しかも相談もできないなら、懊悩(おうのう)するだけ無駄というものだ。容易に忘れてしまえることではないが、努力はしてみよう。昨日もやったことだ、不可能じゃない。

 

 口をゆすぎ、冷水で顔を洗う。マシな気分になった。近くの鏡で自分の顔を見てみる。少し血の気が引いている感じはするが、最近はずっとこんなものだ。ストレスのせいかもしれないので、カウンセラーのところに……ダメか。話せないことが多すぎて余計にストレスを溜めそうだ。

 

 工廠に行くと、朝から明石さんが忙しそうにしていた。彼女にはナイフの用意を始めとして、多くのことで世話になっている。手伝えることはないだろうが、せめて仕事の妨げにはならないようにしよう。そう考えて、僕は自分の艤装を工廠の片隅で整備し始めた。工作艦でもない艦娘本人ができる整備などたかが知れているが、これを疎かにする者はベッドの上では死ねないと那智教官が言っていた。僕は彼女を信じるままに自分での簡単な整備・調整を習慣にしていたが、最近になってやっと分かり始めた。艤装をいじる過程で、様々なことが体に染み付くのだ。より滑らかに動かす方法、どれだけの負荷に耐えられるか、正確な限界出力、機関の癖。

 

 そういったものを身につけているかどうかが、生死を分けることがある。それも、教官の言葉通りだとすれば、びっくりするほど頻繁にだ。艤装の整備は友達と遊ぶほど魅力的な時間の使い方じゃないが、一時間やれば一時間分、二時間やれば二時間分、自分の装備について知ることができ、人生を長く楽しめるようにしてくれる。彼女(艤装)は、公平な取引相手なのだ。僕も誠実に向き合おう。

 

 僕と艤装との油臭い語らいは、出撃前の軽い打ち合わせが工廠で始まるまで続いた。作戦目標と行動指針の伝達だけなので、数分で終わるようなものだ。第一艦隊なら組の確認などもあるのだが、第二艦隊は第一艦隊と違い、バディ制を使わない。艦娘一人が二人分や三人分の働きをするように求められるのだ。そんなの無理だろ、と僕は思ったものだが、放たれた敵弾を飴玉みたいに弾き飛ばして物ともしない長門や、彼女とは反対に特別なことは何一つしていないにも関わらず、どんな敵も相手にならない妙高さんを見てその考えは揺らぎ、川内や足柄、羽黒、それに加賀の戦う姿を見て「そんなの無理」なんじゃなくて「僕には無理」なのだと気づいた。

 

 それでも彼女たちに近づこうとはしている。微速前進でも、前進は前進だ。生きて歩みを止めなければ、いつかは、長門も顔を苦渋でしわくちゃにしつつ、僕がそれなりにモノになったことを認める日が来る。長門の公平さについて、僕は一切考えを変えていなかった。彼女はとびきり美人で、素晴らしい艦娘で、よい旗艦だ。単に、僕のことをめちゃくちゃ嫌っているだけだ。やれやれ、考えるだけで憂鬱になる。

 

 明石さんは出撃前に艤装の最終確認をしてくれた。余程のことがなければ、彼女はこれを欠かさずにやってくれる。吹雪秘書艦によれば今までにこの簡単な検査で問題が見つかったことはないそうだが、それでも出撃する僕らにしてみれば、工廠の大ボスたる明石さんが直接見てくれるというのは、安心を与えてくれるものだ。そして、安心とは兵士(艦娘)が戦場に出た時、何よりも多く持っていたいと思うものなのだ。その為には、どんな変なことでもやる。訓練所の同期のある艦娘は、十九で艦娘に志願したのだけれども、民間人時代の恋人に貰ったという彼のベルトを加工して、首に巻いていた。ちょっと大きなチョーカーみたいな感じでだ。彼女はそのベルトの持つ神通力を信じており、それがある限りどんな不運も跳ね返せると考えていた。国外の泊地にいる彼女が今どうなっているか分からないが、生きていればまだ巻いているだろう。

 

 安寧への欲求は、荷物の多さでも推し量ることができる。例えば長門だ。大戦艦にして第二艦隊旗艦の彼女は、艤装の他に希釈修復材入りの水筒しか持っていない。この研究所に所属する艦娘としては、標準仕様だろう。彼女には全幅の信頼を寄せられる艦隊員が()()もおり、自分にはそれで足りると知っているのだ。ナイフなし、余剰医療品なし、問題なしだ。彼女らしいと思う。

 

 翻って僕を例に取ってみよう。重巡、臆病、悲観主義、嫌われ者。そんな僕には余分の「安心」が必要だ。だから希釈修復材で満たすと二キロになる水筒に加えて、四百グラムのナイフ、五百グラムのサバイバルキット、天龍の艦隊の駆逐艦たちが持っていたような個人用医療品三百グラムを持っている。ついこの前までは予備弾薬も持っていたが、戦闘時に誘爆しそうになって危うく死ぬところだったので、それは外した。許可さえ下りれば艤装の塗装や僕の艦娘としての制服も海上迷彩柄にしたい。砲弾の破片から身を守る為のヘルメットやベストも欲しい。給料はなくなり、隼鷹や響と飲む回数も減るだろうが、それでもだ。

 

 今回の出撃は特別なところのない、索敵&殲滅型の任務だった。つまり深海棲艦の勢力圏に侵入し、敵の艦隊を見つけ、弾薬と燃料が続く限り戦い、自分たちは死なずに戻ってくるというものだ。制海権というのはこれの繰り返しと、要衝制圧の上に成り立っている。何としてでもこれこれせよというような目標がなく、敵を殺して生き残ればいいだけなので、僕としてはありがたい形式の出撃だった。

 

 出撃用水路を通りながら、僕はウェストポーチに入れておいた日焼け止めを塗った。出撃の前に塗らないと、その日の夜は痛みで寝られない覚悟をしなければいけないのだ。肌の弱さが気になるようになったのは艦娘として戦場に出るようになってからなのだが、これは多分、海上というロケーションの問題なのだと思う。何しろ海は水の集合だ。直射日光だけでなく、海面で反射した光までが僕の肌を襲い、紫外線で以って攻撃してくるのだろう。他の艦隊員の進路を妨害しないよう、最後尾に立って入念に塗りこんでいると、横に誰かが立った。それはままあることだ、水路は戦艦が心配せずに通れる程度には広いが、六人が横一列になれるほどではない。第二艦隊の誰かが僕の横に来るのも、初めてじゃなかった。初めてだったのは、その誰かが僕に話し掛けてきたことだ。

 

 しかもそれは、加賀だった。

 

「それは?」

 

 彼女が僕の日焼け止めのことを訊ねているのだと即座に了解できたのは、僕が彼女から感じていた大きな恐怖のお陰かもしれない。生命の危機に際しては、人間は十割の能力を発揮するものだという。その時僕に発現したのも、そういった働きに違いなかった。声が裏返らないように軽い咳払いをしてから、落ち着いた風を装って答える。「日焼け止めだよ。肌が弱くてね、塗っても結局は赤くなるんだけど、塗らないともっとひどいから」「そう。きっと、あなたの肌に合っていないのね」「そうなのか」僕は二つのことに驚いた。肌に合っていない、か! 考えてみれば、その通りらしかった。僕はずっと、自分の肌が弱すぎて日焼け止めの効果を以ってしても守りきれなかったのだと思っていたが、そもそもその日焼け止めが僕を攻撃していたのかもしれない。そしてそのことを加賀が教えてくれるとは。前を見て、他の艦娘たちが十分に僕たちから離れているのを確認する。それから、歩み寄って来てくれたのだろう加賀が、また僕から距離を取るかもしれないことを恐れながら、僕は一歩踏み込んだ質問をすることにした。

 

「アドバイスありがとう、それで……どういう風の吹き回しかな? 僕たち、こんな具合に話し合う関係じゃなかった気がするんだが」

「そうね、はっきり言うと、私もこうして自分があなたと話しているのを不思議に感じているわ」

「じゃあ、どうして?」

「私の手を掴んで、海から引き上げてくれたわね」

 

 僕は前回の戦闘のことを思い出した。ああ、僕の警告を聞いて咄嗟に海へと身を投げ出した彼女を、引っ張り上げてやった。当然のことだ。あの時の彼女の状態では自力で海上航行には戻れなかっただろうし、そうなれば待っているのは確実な死だ。加賀を失えば、第二艦隊の戦闘能力は格段に下がる。提督はキレるだろうし、長門たちは僕のせいにするかもしれない。しかも、その説にはそれなりの説得力があるのだ。となると助けない手はない。それに、そういった損得勘定を抜きにして、友軍を救助するのは当たり前のことである。僕には誰かが死ぬのを眺めて楽しむような趣味はない。助けられるなら、戦場でのあらゆる死から戦友たちを守りたい。僕を嫌っているからって、死んでいいってことにはならないだろう。僕にとって嫌な奴であるということは、「死んで償え」と言えるような大罪じゃない。武蔵はひどい女だし長門は失礼だが、彼女たちがそう望む限り生きていて欲しいと思う。僕の友人たちは、この態度を優しいと言ってくれるだろうか? だったらいいな、褒められて悪い気はしない。僕は微笑を浮かべて加賀に言った。

 

「何だよ、それが意外か?」

「ええ」

 

 面食らって、口を引き結ぶ。彼女も大概、礼儀をご存じないようだ。僕がそんな男だと判断するのは、百歩譲っていいとしよう。というか、僕に左右できることではない。でも、そういう人格の持ち主だと評価するなら、ちゃんと何らかの根拠に基づいてやって欲しい。こういった事情がある、こういった理由がある、こういった事実がある、よって、お前はとんでもない奴だと誰かが言ったとする。筋が通っている限り、僕はその主張を尊重しよう。結論が僕の好みでないからと言って、感情的に反論したりはしない。あなたのその主張を支える論拠のここはこのように間違っている、という風なことは言っても、決して「違う、お前こそとんでもない嘘つきだ」なんて、口喧嘩の域にも達さないようなことは言わない。とにかく、筋を通して欲しいのだ。誠心誠意、僕に理解させようとして欲しいのだ。心から納得して、「なるほどあなたの言う通り、僕はどうやら生まれてこない方がよかったようだな」と思えるようにして欲しいのである。それは大それた願いか? いいや、そんなことはない筈だ。

 

 加賀は僕の表情を見て、この傷つきやすい少年が何を感じているか察したようだった。

 

「ひどいことを言っているわね。分かっているわ、でも本当に、そう信じていたのよ。あなたが私を助けようとするなんて、小指の先ほどにも思わなかったの」

「だとしても、驚かないね。ところで君は君の発言で心を痛めている男にとどめを刺したいのか、それとも彼の痛みを和らげてあげたいのか、どっちなんだ? 僕にはよく分からないんだが──ああ答えなくていいよ、聞くのが怖いから」

「でも、あなたは助けてくれた。そのことであなたを好意的に見るようになった訳ではないわ。私は……何を理由に私は、あなたが私を助けないと確信していたのかしら? どう考えても、理屈に合わないの。そんなのは誰だって気に入らない、そうでしょう? それで、軽く話でもしてみたら分かるかと思ったのだけれど、期待外れだったわね。もちろんそれは、あなたのせいではないけれど」

 

 水路の終わりが見えてきた。出口を抜ければ、そこは海だ。海は戦場であり、加賀との心躍る会話を楽しむ場所ではない。そこは僕が敵を殺し、敵が僕を殺そうとする場所だ。僕は僕の戦争が終わった時のことを考えずにはいられなかった。そんな場所で少年の多感な時期をそこそこの期間、過ごしてしまった。家に帰った時、僕はそこを家と思えるだろうか? まあ、生きて帰れるかどうかも分からない身で考えるようなことではないか。

 

 加賀から離れる為に、速度を上げる。彼女は付いてこようとはしなかった。しかし僕は感じていた。彼女が僕を見る目には、もうかつて僕の心胆を奪ったあの敵意が宿っていないことを。今や、加賀は遥かに優しい嫌悪と興味をその双眸にまとわせていたのだ。あえて僕自身にはっきりさせておくなら、そこに好意なるものは微塵たりとも含まれていなかった。彼女は何処までも自分の納得の為に、僕を憎悪することをやめたのだ。つまりこの先、彼女が僕に対してそうするに値する何かを見つけ出してしまった時には、僕は再び憎まれる日々を迎えることが約束されていたのである。

 

 だが普通に考えた場合、そこまで嫌われるようなことをするというのも難しいものだ。僕は加賀と一定の関係改善を行うことができたと見ていいだろう。これはまさに僥倖だった。彼女は第二艦隊の二番艦であり、旗艦の補佐、陸軍で言えば少尉殿にとっての軍曹だ。そういう存在からの扱いが向上すると、周りの連中もそれに倣ってくれる。川内が僕にオススメの日焼け止めを教えてくれることはないだろうし、羽黒が僕と簡単な会話を楽しむ日も当分は来ないだろうが、少なくとも悪化することはない。僕は久しぶりに幸せな気持ちで海に出ることができた。

 

 ハッピーすぎて敵潜水艦に雷撃食らうまではな。でも直前まで気づかなかったのは僕のせいじゃないと言いたい。じゃあ避けられなかったのは? 誰のせいだ? うーん、こっちは僕のせいでいいだろうな。というか、そうでないと困る。

 

 攻撃が来た方角の警戒は長門の担当だった。彼女がわざと見逃したとは思えなかった。正確に言うと思いたくなかった。信頼した相手を疑うことほど辛いことは多くない。雷撃されたとはいえ水面への発砲で信管を作動させ、直撃だけは何とか避けたお陰で、僕の艤装、特に脚部艤装は軽傷で済み、潜水艦は迅速に処理された。六人の艦娘に単騎で攻撃を仕掛けてくる度胸は認めるが、賢いとは言えない。その艦隊の構成員の大半が、対潜能力の低い艦種でもだ。

 

 僕は安堵の溜息を吐いてから、歯軋りしつつ長門に詰め寄り、訊いた。「見えなかったのか?」危うく足を一本飛ばされかけたということが、精神的に余裕のない状態に僕を置いていたのだろう。腕と違って足をやられるのはヤバいんだ。それは脚部艤装こそが僕らや人型深海棲艦の多くに水上での行動能力を与えているものであって、それを失うということは戦闘能力を失うこととほぼ同義だからである。足でなければ、こんな風に突っかかりはきっとしなかった。でも長門がここで「見えなかった」と言っていれば、僕はそれで引っ込んだのだ。それは僕がいつでも彼女の言葉を信じたいと思っていたからだ。が、返って来たのは「索敵や警戒に絶対などない。隊列を乱すな」という、冷たい(だが落ち着いて考え直してみればある程度正当でもっともな)一言だった。

 

 僕も日々大人になりつつある。苛立ちの中でさえ長門の言葉の正しさを認め、元の位置に戻ることができた。ただその為には、子供っぽい怒りが肉体を支配しようとするのに対して、猛烈な勢いで抗わなければならなかった。彼女は僕の問いかけに答えなかった。言うまでもなく、旗艦は艦隊員たちにとっての直属の上官だ。部下の問いに答えない権利も持っている。だがそれをこのシチュエーションで使うとは、と思わざるを得なかった。小さな失望を抱えながら、僕はその日の戦闘任務をこなした。情動的な問題からか、動きは精彩を欠いていたように思う。腹と肩に合わせて何発か被弾した他、機銃弾が掠った右目が見えなくなってしまった。

 

 嬉しいのは艦娘の体にとって失明は大したことではないという点で、適当な治療があれば視覚を取り戻せるのだ。例外は天龍のような、元から隻眼の艦娘だけである。僕は戻ってきたドックで治療を受けながら考えた。天龍は人間の時も隻眼だったのか、それとも艦娘になる時に妖精に潰されたのか、あるいは実はあの眼帯の下に健康でつぶらな瞳が隠れているのだろうか。眼帯をめくって見てみたい気もした。でも脳内シミュレーションでは百回に百回嫌がられ、挙句龍田が何処からともなくスッと現れて僕を二秒で三枚に下ろして立ち去っていくので、我慢した。何でもしたいことができるのは、民間人だけだ。僕は違う。艦娘は民間人ではないのだ。戦争が終わるまでは。

 

 そして今のところ、この戦争の終わりを見た艦娘は死んだ者たちだけだった。※58

 

 加賀と話をした次の日、どういう訳か提督が急に出撃を取り消しにしたので、暇になった僕は青葉に電話をした。彼女が忙しいのは分かっていたが、友達の声を聞きたくなったのだ。それも、聞きたくなったらいつでも聞きにいける隼鷹たちの声ではなく、滅多なことでは耳に入れられない彼女の声がよかった。研究所内の協同電話スペースに行き、小銭を入れ、番号を押す。新聞のネタ募集用の番号を私的に利用するのはよくないだろうが、一回ぐらい許してくれるだろう。電話は四度目のコールで繋がった。「はい、こちら海軍本部付広報部隊所属特別記者の青葉ですっ!」途端、元気な声が僕の耳朶を打つ。受話器の距離を調整して、将来の難聴を防いでやらねばなるまい。

 

「僕だ、分かるか?」

「もちろんですよ、お久しぶりです! あの時は紹介状をありがとうございました!」

 

 研究所に転属した初日の時のことだろう。僕は見える筈もない相手に手を振って、そんなのは何でもないことだ、という考えを表現した。「榛名さんや曙とはまだ付き合いがあるのかい?」「ええ、お二人とも青葉の新聞の愛読者ですよ。榛名さんなんか、今度一回だけの読みきりですけど、小説を寄稿して下さるんです!」それはいやがうえにも僕の期待を膨れ上がらせる話だった。「過去に書いたものを何作か読ませていただきましたけど、どれもとっても面白かったですから、待て次号、ですよっ」「楽しみにしてるよ、榛名さんの小説も、青葉の記事も」「えへへ、恐縮です。これからも青葉の新聞をよろしくね、なんちゃって……あ、そういえばどんなご用件ですか? 何か特ダネですか?」電話越しにも分かる。青葉は今きっと、目をキラキラとさせているだろう。この質問にシンプルな肯定で返すことができないのが心苦しかった。

 

「面白い話ならあるんだけど、できれば直接会って話したいな」

「あれあれ、もしかして、青葉口説かれちゃってますか?」

「それは誤解だけど、もしそうだって言ったら会いに来てくれるかい? それならそういうことにしようと思うんだが」

 

 僕らは笑った。青葉は僕を丁重に扱ってくれて、予定表を確認してから残念そうに「あーっ、暫くは無理ですねえ」と言ってくれた。有能な記者である彼女が、自分の当面の予定を把握していない訳がないにも関わらず、だ。奇妙なことだが、この時僕は落胆するよりもむしろ安心したのだ。青葉と会って話せば、何かの拍子にふと魔が差して、赤城から言われた通りにしてしまっていたかもしれない。青葉は友情からではなく、ジャーナリストとして第一に必要なもの、有り余るほど旺盛な好奇心から、僕に協力したかもしれない。でも、そのどちらも彼女が僕に会わないことを決めたお陰で、「かもしれない」を抜け出せないままになることが確定した。

 

 忙しいだろうに、青葉は十五分も彼女の時間を割いてくれた。回線を繋ぎ続けておく為には追加の小銭を投入せねばならず、千円ほど使ってしまったが、その価値は絶対にあった。それにどうせ、惜しんで持っていてもこれ以上によい使い道などない千円だ。悔いはなかった。友達の、青葉の元気な声が十五分聞ける。たった紙切れ一枚分のはした金でだ。彼女の被る迷惑のことを考えないでもよかったなら、僕は毎日電話を掛けただろう。それでも月に三万円しか掛からない。飲酒量を今の三割ほどに減らせば容易く用意できる額だ。

 

 電話ですっかり気分をよくした僕は、そのまま工廠に向かった。前回の戦闘で艤装が破損したので、明石さんから修理状況を聞いておきたかったのだ。僕の艤装は妖精によるワンオフ品であるだけあって、正式な整備には手間が掛かる。大まかなところは工廠の妖精が彼ら彼女らの謎技術でどうにかしてくれるが、細かいところは人間と艦娘の仕事だ。で、困ったことに、その細かいところを整備するのにはそれ以外の全部を片付けるよりも長い時間を掛けなければいけないのだった。これは明石さんの腕が悪いからではない。僕ら人類の技術が、妖精たちのレベルまで達していないというだけだ。全く、奴らは深海棲艦よりも気味が悪い。敵ならいいんだ、撃ったら片付く相手だからな。だが味方なのだ。それが実に怪しい。ま、怪しんだところで妖精たちに頼らねば人類の防衛は成らぬという状況では、その疑心を満足させてやることはできそうにない。

 

 工廠ではいつも通り、明石さんと夕張が忙しそうにしていた。僕は少しの間だけ、資材や機器の陰に隠れて二人の様子を見ていた。活き活きとして、楽しそうだ。彼女たちは深海棲艦を相手にして戦っているより、こうして工廠で機械や艤装を相手に彼女らの手練手管を振るっている方が好きなのだろう。好きなことをできるというのはいいものだ。夕張が彼女の担当の仕事を片付ける為に明石さんから離れたところを見計らって、工廠の大ボスに話しかけた。彼女は柔和な笑みで僕に挨拶をして、用件を言い出す前に艤装のところへと連れていってくれた。「もう修理はほとんど済んでいますよ」と彼女は言ったが、その表情は余り明るくないし、ほとんど、という表現を用いた。つまり修復が完了してはいないと言っているのだ。「何か問題ですか?」と訊ねる。「いえ、海にも出られるぐらいなんですが、その、GPSがですね」僕は納得した。

 

 GPS、即ち全地球測位システムは艦娘の艤装に必ず取り付けられている。理由は言うまでもない。それがあるとないとでは、艦娘の生存率にも大きな違いが生まれるだろう。深海棲艦は宇宙にいる相手には手出しできないので、衛星が落とされる心配もなかった。艦娘の技術が確立される前の米国ではそれを利用して、ここぞという時には軌道上からの運動エネルギー爆撃で深海棲艦を始末していたそうだ。彼女たちの肉体は圧力に比例して強靭になるが、それにも限界がある。その限界を超える圧力の前では、深海棲艦とて滅びる他にない。アメリカ人らしいやり方で、好感が持てた。前に青葉から聞いたところでは、月面にマスドライバーを設置し、地球の深海棲艦目掛けて月の岩を投げつける※59という計画もあったらしい。ある海軍中尉の名前を冠されたその計画は、しかし着手前に艦娘関連の技術が発展してしまった為に、お蔵入りしたのだとか。

 

 とまあ、それはいいとしてだ。僕らの艤装に取り付けられているGPS装置の問題は、壊れやすいという点に尽きる。ひどい時には自分の発砲の衝撃で壊れるのだ。どうして軍がそれを改善しないのか分からない。この前に行った飲み屋で知り合った技術屋は、そのことに話が及ぶと急に顔を真赤にして癇癪を起こした。触れてはならない闇を感じて、僕は技術畑の人々にはもう二度とその話をするまいと誓った。でも、壊れやすいのは本当に困る。しかも、修理には大抵の場合特殊な部品が必要で、これを取り寄せるには書類を二束は書かなくてはいけない。いや、今のは言いすぎだな。実際には四、五枚も書けばいい。それだけ書けば一種類の部品が手に入る。需品部を讃えよ、真に偉大な官僚主義組織では、手続きさえすれば何でも手に入るのだ──しかしそれはそれとして、修理に必要なのは何種類かな? なるほど、八種類……腱鞘炎になりたくないなら、パソコンで書類の処理をすることを覚えるがいい。

 

 全体的に大げさな表現を使ったが、GPS装置の持つ問題は「壊れやすく、部品の入手も含めて、修理には大変な手間がかかる」という点なのである。だから、僕らはこのろくでなしのちっちゃな機械をがらくたと言ってけなしたり、あるいはもっと気が利いた名前として、こっそり「神の救済計画(God's Plan of Salvation)」と呼んでいたほどだった。因みにどうしてこっそりじゃないといけないかというと、当然第一艦隊所属の信仰者である響の気持ちを考えたからだ。僕らはあくまでGPSが当てにならないことを批判したいのであって、彼女の信仰を侮辱するつもりではなかった。だから、彼女が僕らの冗談を聞いて気を悪くしないよう、隅っこでこそこそと言っていたという訳である。

 

 部品は一週間以内には届くそうだが、役立たずのGPSが艤装にくっついてないってだけで一週間も出撃しないでいるなんて、とても無理だ。僕は明石さんに、艤装は修理完了しているということにしてくれないか頼んでみることにした。彼女は一度だけ断ったが、その行為がポーズだけのものに見えたので押してみると、あっさりと承諾してくれた。これでよし、だ。時間を見ると、お昼に差し掛かろうとしていた。誰かと昼食を食べたいものだ。一人より二人、二人より三人での食事が僕は好きだった。しかし第一艦隊は出撃中、第二艦隊は問題外、第三艦隊は長らく留守、第四艦隊の知り合いの内、夕張と明石さんはまだ忙しそうとなると、不知火か。不知火、またの名を不知火先輩……いい思いつきだ。それに彼女とはこれまで一対一で話をしたことがなかった。響やその他の誰かを交えての付き合いだった。ここいらで、彼女との関係を一歩前進させたい。変な意味ではなく。

 

 明石さんに彼女の居場所と、今は暇かどうかを聞いてみる。実のところ、僕は彼女が第四艦隊で何をやっているのかよく知らなかった。だから、今日この時間帯にこの研究所に残っているのかも分からなかったのだ。真面目そうだから、非番だったとしてもトレーニングなどをしているかもしれない。だが明石さんは「今なら部屋でだらだらしているところだと思いますよ」と言った。僕は思わずあのきりりとした少女が下着姿で怠惰な過ごし方をしている様子を想像してしまった。己の思春期らしい妄想の逞しさには恥じ入るばかりだが、想像で誰かを傷つけることはない。表情や言葉に出したり、妄想以外のものを逞しくしてしまったりしなければ、自由に楽しめて然るべき行為だろう。

 

 不知火の部屋の位置は知っていたので、そこに向かう。青葉に電話を掛ける前、起きた時にきちんと身嗜みを整えていたので、女性の部屋を訪ねるのに相応しくないと言われるような身なりではない自信があった。服も清潔、体だって爪先からつむじまで綺麗なもんだ。特ダネを掴めそうな時の青葉ほどキラキラしていないにしても、まさか目の輝き不備ということもないだろう。

 

 部屋のドアをノックし、僕は想像したような油断しきっただらしない格好で彼女が現れてくれやしないかと思いながら、扉が開くのを待った。中々開かない。何度もノックし直すのは失礼なので、待ち続ける。すると、戸板の向こう側から「ああもう、何なんですか一体」という声が小さく聞こえ、小気味いい音と共にドアが開かれ、不知火先輩が現れた。寝ていたところを起こしてしまったのか、まぶたは眠そうに半ば閉じられ、あくびを噛み殺そうとして頬がぴくぴくしている。トレードマークだと僕が勝手に考えているポニーテールも雑に結われただけで、ぼさぼさヘアーの域を脱していない。意識さえはっきりしていないようで、目の前にいるのが僕だとも分かっていないみたいだった。

 

「不知火先輩、お昼ご飯食べましょう!」


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