[完結]Home is the sailor, home from the sea.   作:Гарри

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雲の中の悪魔のように
悲哀を叫びながら
夜の後を行こう
夜と共に行こう
慰めの昇る東方に背を向けて
光は私を苦しめるから

──ウィリアム・ブレイク※29


「“六番”」-1

 艦隊勤務初日に陸軍と喧嘩し、そうなることを事前に予測していた提督(「兵士と酒がある。どうして喧嘩にならないと思うんだ?」と彼女は言った)が賭け※30に勝って吹雪秘書艦と第二艦隊の数人から大金を巻き上げ、僕が一ヶ月の風呂掃除──(のち)に秘書艦権限で一ヵ月半の風呂掃除に変更された。長門の告白を盗み聞きした時に『提督への直接報告』を果たさなかったからだ──を言い渡されてから、およそ四ヶ月が経過していた。第一艦隊としてもう何度も出撃を重ね、日向たちと演習をしても、勝てはしないがそこそこ戦えるようになっていた。第二艦隊としてはほんの二、三回出撃しただけだが、艦隊員たちの態度にも関わらず、彼女たちの中からは学ぶべきものを山ほど見つけることができた。古臭い型ではあるが水偵だって積んで貰えたし、充実していた。

 

 忙しさによって友達や家族への手紙を書く回数は減っていたけれど、遠距離恋愛の恋人同士でもないのだし、元々僕は筆まめ過ぎたきらいがある。丁度いいところに落ち着いたのではないだろうか? 利根と北上は相変わらず頑張っているようだ。利根のところには筑摩がようやく着任した。彼女は、姉妹艦の着任時にと思って貯めていた金を放出し、かなり派手なパーティーを開いたそうだ。面倒見のいい相手の姉妹艦になれたことは、筑摩にとって幸運なことだろう。だが戦闘は激化の一途を辿っているそうで、宿毛湾に一緒に行った訓練所の同期も減ってきたと書いていた。艦娘が減る理由のほとんどは戦死で、僅かな者だけが心と体に決して癒すことのできない深手を負って家に帰ることができる。利根がそのどちらにもならないことを、僕は心から祈った。

 

 北上は以前に送りつけた隼鷹と僕の写真に触発されてか、大井との写真を同封してきた。誰に撮らせたのか、二人とも自然体のままに写っている。タイマーを使って撮ったのでなければ、それは二人がよき理解者を見つけることができた証拠だろう。そうであれば、そんなに嬉しいことは中々ない。手紙本文は当たり障りのないことだけで、僕が実戦部隊に転属して戦っていることを驚きと共に受け止めている、というようなことが書かれていた程度だった。「自分から前線に行きたいって、変なのー」とでも言いたいのだろう。僕より先に戦闘部隊に着任し、僕より長く戦場を見てきた為に、軍や戦争への考え方も変わったのかもしれない。

 

 僕は二人への返事を書くつもりだった。その為には少し落ち着ける場所が必要で、僕はその要求にぴたりと合致する場所を知っていた。僕らの住んでいる研究所からちょっと歩いたところに、喫茶店があるのだ。大きすぎず、小さすぎず、静かで、雰囲気がいい。僕みたいな背伸びしたがる年頃の子供から本物の大人まで、幅広く受け入れることのできる店だ。コーヒーがおいしいらしい……だが僕はそもそもコーヒーが飲めないので、それが本当かどうかを確かめる術もない。僕に言わせれば、そこではクリームソーダが一番だ。嘘じゃない、嘘ならもっと自分がカッコよく映るような嘘を言うだろう。砂糖漬けのチェリーとアイスクリーム、それにメロンソーダの組み合わせは、十五歳の舌にはぴったりなのだ。世の中にはきっと、十五で四十五みたいにコーヒーを楽しむ男もあるだろうが、それは僕じゃなかった。

 

 新しい常連としてそこに通うようになっていた僕は、筆記用具その他の入った小さな鞄を持って、そこを訪れた。今日は珍しく一日丸々休みの日だったから、返事を書く以外にもできることをしっかりと満喫して帰るつもりだった。しかし、何ということだろう? 滅多に混雑しないこの店が、どうしてか全部の席を占められていたのだ。僕は相席を頼むことにした。ここまで来て引き下がるのは嫌だった。返事を書くのは無理にしても、腰を下ろし、お気に入りの飲み物を飲んで、内心で「今日はツイてないな」とぼやく時間が欲しかった。そして四人掛けの席が一人によって使われているのを、僕は見つけた。ほっとしてそちらに小走りで近寄り、相手をよく見もせずに「相席、いいですか?」と頼む。思えば、ここで冷静に考えておくべきだったのだ。どうしてこの混雑している時に、彼女は一人でそこを占有していられるのか? 事象には何にでも原因というものがある。彼女は、戦艦武蔵は、眼鏡の下の目を細くして僕を見て、テーブルに置いていた彼女のポータブルテレビを動かした。それから、そのおもちゃで作られた境界線を甘い匂いのしそうな褐色の指で指し示して言った。

 

「世界唯一の男性艦娘の頼みとあれば、嫌とも言えまいさ。だがもしこの線を越えたら、その鼻へし折って顔面整地してやるからそう思え」

 

 落胆と失望、それから退屈を強く感じた。はいはい、また僕を嫌いな艦娘か。イムヤ、由良、第二艦隊の面々、今度は武蔵だ。護国の英雄に嫌われるというのは心に来るものだが、そろそろ僕は慣れ始めていた。武蔵、戦艦武蔵は、長門型を越える戦力として認められている数少ない艦娘の一人だ。姉妹艦に当たる大和と共に、国は最大の配慮を彼女らに行っている。艦娘寮に備え付けのパソコンでネットサーフィンをしている時に、こんな記事を読んだことがある。ひなびた村の農家の娘が武蔵になり、国の援助で村ごと引っ越したそうだ。事実かどうかは知らないが、国がそれだけの価値があると考えているのは間違いないだろう。

 

 対角上の席に腰を下ろすと、短髪でボーイッシュな雰囲気のウェイトレス※31がせかせかとやって来て、ご注文は? と訊ねた。年もそう離れてないし、もうすっかり顔見知りの子なので、いつも通りで、と頼んでおく。それで万事通じた。彼女が行ってしまってから、僕は武蔵に「人に対して無礼に振舞うのは、超弩級戦艦の間で流行ってるのか?」と言ってやった。彼女の言ったように鼻がへし折られたとしても、それでいいと思っていたんだ。怪我しても、修復材があれば直る。ああ、もちろん私闘で修復材の使用許可が下りる訳がないな。けど僕もここ暫くで兵隊らしくなったのだ。バレないように僅かずつちょろまかして、溜め込んでいた。みんなやっていることだ。スリルも味わえるし、こういう時に覚悟もできる。死にさえしなければ何とかなると思えば、結構思い切った行動を取れる。

 

 あ、そうそう、超弩級戦艦でも伊勢と日向の二人は別だ。彼女たちはいい人で、尊敬している。僕の思い上がりを正してくれて、感謝だってしているのだ。

 

 武蔵は反応を見せなかった。戦艦の余裕の表れなのだろう。僕を初対面で罵ってきた長門とはいささか違うところがあるらしい。彼女は手元に置いていたカップから冷めた紅茶を飲んだが、その間ずっと僕をねめつけていた。僕は半ば自暴自棄になって、その目を真っ向から睨み返した。腕力では負ける。これは艦種の違いで、避けようがない。立場では? どっこいどっこいだろう。あっちは国の守りの要も要、翻ってこっちは、ただ男の艦娘ってだけだ。珍しさについては僕が上だが、有用性では負けている。いいとこなしだな、僕は。

 

「誰にやられた?」

 

 そんなことを考えていたせいで、彼女の言葉を聞き逃すところだった。「何だって?」「前に無礼を働いたとかいう、私より性格の悪そうなその超弩級戦艦。誰だ?」「長門だよ」すると彼女の顔が嫌らしい喜びにさっと輝いた。僕は人の笑顔を見て自分がそんな風に感じたことに、むしろショックを受けた。同時に、こんな不愉快な笑みを見せることが現実に可能なのだということに、ただ驚きもした。「長門型か! よし、それなら握手して友達になろうぜ──私も奴らが嫌いなんだ」「最低だな!」思わず、本心を口走ってしまった。来るであろう顔面パンチを覚悟して、ぎゅっと目をつぶる。しかしそんなものは来なかった。恐る恐る開けてみると、きょとんとした武蔵が僕を馬鹿でも見るような目で見ていた。それから亀裂のような笑みをまた浮かべ、彼女は言った。

 

「何だ、別にお前にも長門型を嫌えと言っている訳ではないぞ。あれに嫌な思いをさせているお前のことが気に入ったんだ。信じてないな? 疑い深い奴だ……さあ、握手しよう。知り合えて嬉しいぞ、よろしくな」

 

 彼女は僕が腕を引く前にさっと手を伸ばし、その柔らかな手で僕の手を強く握った。彼女はしっとりとして吸い付くような肌と、金剛力(武蔵なのにな)の持ち主だったが、それにしてもこんな不本意な握手は初めてだった。変な艦娘と知り合ってしまったな、と自分の行動を後悔していると、ウェイトレスがクリームソーダを持ってきた。僕の前にそれが置かれる。戻ろうとするのを武蔵が呼び止め、紅茶のお代わりを頼んだ。ウェイトレスは疲れの隠せない声で返事をして、厨房へと注文を伝えに行った。武蔵はその背中を見送りながら、小声で囁いた。「知ってるかい? あの子、艦娘適性があったんだ。それも陸奥のさ。でも親の信条だかに反するとかで、志願させて貰えなかったんだとさ」「子供を戦争にやりたがる親なんていないだろう」「分かってないな、深海棲艦融和派なんだ、彼女の親は」僕はびくりとして辺りを見回した。誰も聞いてはいないようだ。よかった。怒りを込めて、武蔵を見る。

 

「よくもそんなこと! 警察や密告屋に聞かれてたらどうなってたと思ってるんだ? 夕方には彼女は姿を消すだろう、彼女の親も、彼女を雇ってたこの店もなくなってただろう、僕らだってどんな嫌疑を掛けられるか分かったもんじゃないんだぞ!」

 

 彼女は悪びれもせずに「だから?」と笑った。信じられない行いだ。今の世界では、深海棲艦はあらゆる点において人類との共存が不可能である存在と見なされている。人型の深海棲艦は何の政治的主張もしないし、公的には鬼級以上でなければ話すこともできないということになっている。ましてや駆逐や軽巡などの形さえ人間でない連中は、考慮するまでもない。奴らはただ人間を殺す為にいるのだ。だから、彼女たちとの共存を説く融和派などという存在は、あり得てはいけないのだ。それは第五列と違いがない。そんな奴らの背後からの一刺しでこの戦争に負けるかもしれないと考えると、当局の弾圧も理解できる。ああ、これが人間同士の戦争ならまだいい。僕らは互いに殺し合うのが歴史的に大好きだ、そうだとも。でも僕らは勝ったからと言って、敗戦国の人間を皆殺しにまではしない。現実的じゃないし、そこまでのエネルギーも理由もないからだ。だが深海棲艦は、もう一度言うが、生まれた瞬間から人間を殺す為に存在しているような奴らだ。人類は生存の為にも、あれやあれに共感する連中をのさばらせておく訳にはいかないのだ。もちろん、限定的な海域を除いて、海を放棄するという選択肢もあったさ。でも、それじゃあ深海棲艦が陸地に上がって来たらどうするんだ? 空にでも逃げるのか? そこで雲海棲艦に出会ったら? 諦めてこの地球を奴らの手に渡してやるって言うのか?

 

 結局、人間は戦うしかなかった。その方針で固まらなければいけなかった。だから、融和派は徹底的に叩かれなければならなかったし、今だって叩かれ続けている。テレビでは融和派を見つけたら通報するように、という政府からのお知らせが流れない日はない。ラジオでもそうだ。新聞の広告欄にも書かれている。融和派は人類の敵、融和派逮捕に繋がった情報の提供者には逮捕一人につき報奨金幾ら、融和派追放運動、融和派の特徴的言動……この言葉がゲシュタルト崩壊を起こしそうになるほどだ。例え艦娘だったとしても、何か失敗して深海棲艦融和派のレッテルを貼られたら、明日の太陽を見られない覚悟はしなければいけない。人類全てへの裏切りは、それほどの重罪なのだ。にもかかわらず、時折艦娘の中の融和派も摘発される。

 

 ウェイトレスが武蔵の紅茶を持ってやってきた。彼女は訓練された笑顔でそれをテーブルに置いた。僕は軽く頭を下げたが、もう前のように彼女のことを考えられなくなっていた。武蔵が言ったことが真実だという証拠はない。でも、嘘だという証拠もないのだ。彼女が本当のことを言っていたら、万が一ウェイトレスが捕まった時、僕との関連が警察に掴まれたら……想像するだけで体温が下がりそうだった。僕は小さく震えそうになって、急いでクリームソーダのアイスを口に運んだ。震えたとしても、そのせいで震えたのだと思わせたかったのだ。武蔵は、そんなことを気にもしなかっただろうが。

 

 彼女は小型テレビの方をずっと見ていた。僕は、止めておけばいいものを、何を見ているのかと訊ねた。彼女は答えずにポータブルテレビをくるりと返して僕に見せた。そこには那珂ちゃんの姿があった。僕の同期のあの那珂ちゃんだ。彼女が歌って踊っているのを見て、僕は心が温かくなるのを感じた。彼女は退役こそしていないものの、本物のアイドルになったのだ。それはこういう風に起こったことだった。まず、僕と入れ替わりに広報部隊に着任した青葉が、持ち前の行動力で広報艦隊としての仕事のみならず、記者としての仕事をもするようになった。青葉はそこで得た情報や自分の秘密のパイプから入って来る情報を使って、定期的に新聞を発行していた。これが結構面白く、僕も購読しているのだが、何故彼女が上から睨まれずにこんなものを発行し続けていられるのかは分からない。新聞の人気や仕事の確かさを認められ、青葉はすぐに広報艦隊よりも記者の仕事をメインにするようになった。で、その時に那珂ちゃんと再会し、アイドルの夢を捨てていなかった那珂ちゃんは青葉の協力を得てネットに動画をアップロードした。

 

 それが爆発的にヒットした。

 

 那珂ちゃんのダンスはキレがあるし、笑顔は太陽のようだ。歌もいい、声だって可愛いしな。ファンへの真摯な態度も僕は知っている。彼女はアマチュアのようなたぎる熱意と、プロの冷徹な意識を持っている。遅かれ早かれ、人気は出ていただろう。でも、こんなに急に広まるとは思わなかった。軍の方もだ。彼らは本気で艦娘のアイドルユニットを広報として作ろうとして、秘密裏に育て上げていたらしい。そこにぽっと出の艦娘アイドルが現れ、計画が狂ってしまった。軍は焦ったが、すぐに那珂ちゃんを取り込んでしまうことにした。那珂ちゃんの夢はこうして叶ったのだ。僕は彼女のライブを観に行くという幸運に、まだ恵まれていないが、その時がきっと来ることを信じているし、それを楽しみにしてもいる。その時には僕は最前列に陣取って、声の限りに彼女の名を叫ぶだろう。夢を叶えるということは難しい。だから、僕はそれを成し遂げた人のことを好きになる。彼もしくは彼女は、証明してくれるからだ。夢は実現不可能な目標などではないということをだ。

 

「いい歌だ」

 

 武蔵はそう言った。僕は初めて彼女の言ったことで、マイナスの感情を励起させられずに済んだ。頷いて「訓練所の同期なんだ」と伝える。「いつかやり遂げると思ってたよ」彼女のファンの一人らしい武蔵に向かって、あれは自分の同期なのだと言えるのは、実に誇らしい気分だった。僕は、世界中のファンが羨むだろうが、彼女から手紙を貰ったことだってあるのだ。僕を名指しにしてライバル扱いしてくれたあの手紙だ。大切に取ってある。大事なものだ。

 

 アイスクリームがなくなったクリームソーダをさっさと飲み干す。とんだ時間の無駄遣いをしてしまった。性格が悪く口の軽い武蔵と知り合い、自分の身まで危険に陥れた。暫くは身辺に監視の目がないか気にしながら生きなくてはいけないだろう。手紙の文言も相当気を使わなくてはいけない。いや、いっそ書かない方がいいか? 利根と北上は僕の不誠実さに怒るかもしれないが、彼女たちを巻き込んだらその場限りの後悔だけでは終わらない。

 

 僕は伝票を取って席を立とうとした。だが武蔵は僕より先に伝票立てからあの薄っぺらい紙を取ってしまった。「どういうつもりだ?」「お前の怒る顔をもう一度見たかっただけさ。うーん、悪くない。だがもうちょっと歯を噛み締めたら、表情にもーっと張りが出るぜ」「伝票を返してくれ」「私が払っといてやるよ、友達ができたことを記念してな。明日も会えるかい?」僕は答えなかった。それぐらいの失礼は許されるだろう。鞄を掴んで、店を後にしようとする。戸口まで来て、どういう訳だか、僕はそこで一度振り返ってしまった。彼女は僕に向かって微笑みかけ、薬指を折った平手を振っていた。別れに際してその不自然なほどまともな態度は、しかし、かえって僕の彼女に対する嫌悪の情を掻き立てることにしかならなかった。

 

 その日の夕方、僕は研究所の食堂で隼鷹と一緒に食事を取っていた。僕らは特段話すこともなく、ぼーっと食堂備え付けの古い大型テレビに映るニュースだのバラエティ番組だのを見ていた。ふと、今日あったことを話してみようかという気持ちになったが、嫌なことがあった、という話は話し手の気分を軽くすると同時に、聞き手の心をどんよりとさせる恐れがある。僕は友達を苦しめたくなかった。それぐらいなら、自分だけで抱え込んで記憶として消化してしまうまで、一人で我慢していた方がいい。それにしても、あの武蔵……手に負えない奴だ、あいつは……僕が好きになれそうにない艦娘筆頭は長門だったが、今日でそれも終わりだ。彼女の褐色の肌も、金とも銀ともつかない色の髪の毛も、眼鏡も、赤い目も、声も、話し方も、他人に対する態度も、僕への好意か悪意か戸惑うような振る舞いも、全部が僕の気に障った。それは不可解なほど強い感情だった。長門も僕に、こんな感じの嫌悪を覚えているのだろうか。だとしたら、僕はますます彼女のことを責められないような気がするのだった。クリームソーダ一杯分の時間話しただけで、どうしてこうも武蔵を嫌えるのか、僕にも分からなかった。

 

 はっきりとしない感情に苛立って、ろくに噛みもせずに食事を胃へと流し込み、一風呂浴びて寝ようと決める。隼鷹に「それじゃ、また」と言って席を立とうとすると、テレビの映像が途絶えた。誰かが消したのではなさそうだ。モニターに白黒の日章旗らしきものが現れて、食堂がざわざわとし始める。何だ? 少なくとも緊急放送じゃないみたいだが、怪しげな雰囲気じゃないか。でも、次に流れたものは僕をがっかりさせた。融和派の宣伝放送だった。電波ジャックという奴だ。僕は興味を失って、裏切り者の正規空母赤城が淡々と語る『深海棲艦と手を取り合える可能性』を馬鹿にしながら、その場を後にした。

 

 その翌々日、僕は仕事を終わらせてから、また例の喫茶店に行った。一日の間を置いたから、根拠はなかったが、あの武蔵は来ていないだろうと踏んでいたのだ。そっと戸口から中を覗き込むと、まばらに人がいるだけだった。店主以外に見知った顔はいない。安心して中に入り、店主に片手を上げて挨拶をして、二人掛けの席に腰を落ち着ける。ウェイトレスがお冷を持ってやって来た。僕は彼女にも挨拶をしようとして、それが新人だと気づいた。新しく雇ったのか? でも、ここに一昨日みたいな大勢の客が来ることは少ないし、前の子は親から貰う小遣いが少ないからと、ほとんど毎日入れるだけシフトに入っていた。新しい子を雇う必要なんてなかった筈だ。受験? いや、それもない。以前、高校を出たら知り合いのところで働くつもりだと言っていた。だとしたら……僕はあの武蔵が言っていたことを思い出さずにはいられなかった。それで、クリームソーダを頼んだ後、その新人に尋ねた。「新しく入ったの?」「はい、そうなんです」「いいお店でしょ、頑張ってね。ところで、前の人は? 以前に本を借りて、今日返そうと思ってたんだけど……」「マスターは親の都合で急に引っ越すことになったらしいって言ってましたけど、住所とか電話番号とか知らないか、聞いてみましょうか?」「いや、いいんだ。自分で聞くよ、ありがとう」新人はまだまだ鍛え方の足りない、ぎこちない笑顔を僕に見せて頭を下げ、戻っていった。が、僕にはそんなことに気を払っている余裕はなかった。

 

 水を飲んで、頭を冷やそうとする。偶然だと信じたかった。そうに決まっている、と僕は頭の中で繰り返した。大体だ、武蔵が彼女の親を融和派だと何故知ることができる? 彼女自身が融和派でもない限り、それは無理だ。でもそれなら、僕にあんなことを言いはしなかったろう。融和派だとされて行方不明になった人々が何をされるか、想像することは難しい。だが末路は容易く推測できる。刑法並びに軍法が、その答えを教えてくれているからだ。融和派は、裁判なしでの殺害が認められている。言うまでもなく、処刑者は事後に相手が殺すに値する人類の裏切り者だったことを、きちんと立証しなければいけないが、それでも史上稀に見る徹底した排除の仕方だ。例外はない。

 

 これまで死を身近に感じているつもりだった。いや、確かに感じていた。けれどそれは戦場での死だった。惨めかもしれないし、無残なものかもしれないが、殺し合いの果ての死だ。僕は殺される可能性と同じぐらい、殺す可能性を持っているのだ。これは違う。これは、もっとねっとりとした、不快感のある死だった。それが余りにも近くにいた。僕はそれをやっと実感していた。ウェイトレスがクリームソーダを持って来る。僕はそれを受け取って、ソーダに浮かぶアイスを見る。綺麗な半円をしている。前のウェイトレスはアイスを入れるのが下手くそで、ひどい時なんかはぐずぐずになってしまっていることもあった。ソーダを一口飲む。アイスをスプーンですくい、香りを嗅ぐ。口の中のメロン味の液体を飲み込み、アイスを入れる。味に違いはない。だからこそ、この一杯の飲み物は彼女がいなくなってしまったのだということを僕に理解させた。

 

 声を掛けられなかったら、僕は気分を悪くしてトイレに駆け込んでいただろう。「あの、あ、あのっ! 大丈夫ですか?」緊張したような口調、子供のような高さの声がした方を向くと、隣のテーブルに駆逐艦娘の電がいた。一人で、僕を心配そうな目で見ていた。彼女はいつ来たんだ? ここは艦娘がよく集まる場所なのか? そんな疑問が脳裏を過ぎったが、すぐに消えた。「大丈夫だよ、ありがとう」と空元気を出して答えるが、正直なところそうではない。そこで、僕は恥を捨て、勇気を出して「一人かい? よかったら話し相手になってくれ」と頼んだ。それで断られたら店を出て、気分がマシになるまで歩くつもりだった。突然の申し出だったが、電は受け入れてくれた。飲んでいた牛乳のコップを持って、テーブルを移ってくる。僕は安心した。誰かがいるのはいいものだ。

 

「顔色がとても悪かったので、心配したのです。何かあったのですか?」

「ごめんよ、あんまり喋るようなことじゃないんだ。それよりパフェでもどうかな? 遠慮しないで、食べてくれ」

 

 ウェイトレスを呼び、彼女と僕の為にパフェを一つずつ頼んでから、電に訊ねた。「君は何処所属の艦娘なんだい?」「ブルネイなのです。先日、一ヶ月の長期休暇を頂いて」嬉しそうに話す彼女の姿に、さっきまでの悪心が消えていく。現実から目を逸らしているだけに過ぎないことは分かっているが、それを責められる人間はいないだろう。時間が経てば、思い出すと心の何処かにずきりと来るだけの記憶になる筈だ。「結局、彼女はどうなったのだろう」と他人事みたいに言う日だって来るに違いない。来年か、再来年ぐらいには。

 

 苺の鮮やかな赤が生クリームの白によく映えて輝くような冷菓が二つ、テーブルに置かれた。「どうぞ」と僕は言い、どうやら控えめな性格らしい電が食べやすいようにと率先してスプーンを取って自らのパフェへと差し込んだ。上から掛けられたシロップとクリームを混ぜ、苺を一つすくって食べる。普通の苺よりも酸味が強いものを使っているようで、甘いクリームに押し負けていない。おいしい、のだろう、と思う。僕には砂を噛んでいるようだった。武蔵のことが気になった。ウェイトレスの失踪にはあの戦艦が関わっているのだろうか。武蔵の言葉が正しかったとして、僕だったらどうしただろう? 知り合いの親が融和派だと知ったら、それを軍なり警察なりに告げていただろうか。それとも、素知らぬ顔をして黙っていただろうか。僕には判断ができなかった。考える度に答えは変わった。ある瞬間には、僕は軍法の執行者だった。ある瞬間には、人情の代理者だった。

 

 僕は電の言葉を上の空で受け、部分部分は聞いていても曖昧な答えばかり返していたから、彼女としては話し甲斐のない相手だったろう。なのに、電はよく話してくれた。艦隊の姉妹艦たちと普段何をしているかや、この休暇で家に帰った時に家族がよくしてくれたこと、家計が苦しいから電の給料を振り込んでいるのだが、両親は戦争が終わった後や電が退役できた時に困らないようにとそれをみんな貯金していること、彼らはそれを隠すのが下手で、肩叩き用の棒を買って、それで「貯金なんかしていないよ、ほら、マッサージ用具なんて買っちゃった」と言っていたこと……半端にしか聞いていなくても分かる。僕の家族に負けない、よい家族だった。彼女の話が一区切りつく頃には、僕の心は落ち着きをほぼ完全に取り戻していた。

 

 店の壁掛け時計が鐘を打つ。静かな店内にその音はよく響く。夕方と言ってもいい時間だ。そうか、そんなに時間が経ったのか、と思っていると「はわわっ!」と素っ頓狂な声を電が上げた。「門限に遅れちゃうのです!」「そりゃ大変だ、僕が払っておくから急いで戻った方がいい。今日のお礼だ」「ありがとう!」そうして、彼女は声を掛けてきた時と同じぐらい唐突に行ってしまった。僕は彼女が出て行った後も、少しの間、彼女に素朴な感謝を捧げながら、出入口を見ていた。それからテーブルに目を戻し、気づいた。おやおや、彼女ったら喋るのに夢中になって、折角の甘味を食べ損ねてしまったようだ。これは僕のせいだな、次があれば謝っておこう。無駄にしない為に、僕はもう一つパフェを食べなければならなかった。今度はちゃんと、甘くて、おいしかった。

 

 やたらひんやりするお腹を抱えて、店を出る。パフェは好きだが、二つは食べ過ぎだ。そこらを歩いて、腹ごなしの散歩をしてから寮に戻ろう。僕は道に沿って歩き続けた。好奇心旺盛な少年を惹きつける薄暗い裏通りの誘惑を振り払い、明るい通りだけをぶらつく。夕方から夜に移り変わる時間帯はこういう、目的地のない移動にぴったりの雰囲気を持っていた。何も考えたりせず、ぼんやりと空や人を眺めながら、足の向く方へと歩いていく。やがて公園に出た。僕はベンチに座り、一休みしたら寮に戻ろうと考えた。外出許可はあっても、外泊許可は取っていなかったからだ。朝の点呼に遅刻しないように帰らないと、営倉行きになってしまう。

 

 目を閉じ、夜に近づいた冷ややかな空気が肌を撫でるままに任せる。頬が熱くなり、まぶたが重くなる。こんなところで眠ってはいけない、風邪を引いてしまうだろう。でも、この眠気の何と魅力的なことだろうか。僕は眠気とじゃれあって、夢と現とを行き来しては時の流れるがままにさせておいた。後ろで小石を踏みしめる音がしなければ、一晩だってそうしていただろう。僕はその音に飛び上がらんばかりになった。動悸がして、咳き込みそうになりながら音の方を振り向く。そこにはあの武蔵が立っていた。腕組みをして、獲物をいたぶる猫のような目で、にやついて、足先で土と小石をいじっていた。僕を起こさずに忍び寄ることもできたのに、わざと起こしたのだろう。忍び寄ったところで何か特別なことができたとは思えないが。

 

「私の誘いをすっぽかすなんてな。分かってるのか? 紅茶二杯で半日も粘るのが、どれだけ大変だったか」


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