リリカルなのはVS夜都賀波岐   作:天狗道の射干

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途中まで書いてて長くなったので分割。
上下編で屑兄さん襲撃のその後を流します。

副題 優しい夢。悲しい現実。
   医者の誇り。はやての現状。
   すれ違う者達。



第二十二話 不協和音 上

1.

 ふと、風が吹き抜けた。

 

 

「なーに、ぼーっとしてるかな、クロノくん」

 

「え?」

 

 

 焦げ茶の髪を風に靡かせながら、女はその場で振り返る。

 違和を感じて呆然とする少年の下へ、女は歩み寄ると上目遣いに口を尖らせた。

 

 

「全くもう。また考え事? 折角クロノくんが誘ったデートなのに、どうして君はそうなのかなー」

 

 

 相も変わらず甲斐性がない。

 女の扱いに疎い朴念仁だ、と。

 

 そう愚痴る女を他所に、少年は現状を飲み込めずに舌に転がせた。

 

 

「僕が、誘った?」

 

「それも忘れてるの!? 一緒に海鳴で観光しようって言ったのに。クロノくんがデートに誘ってくれたのは、あれが初めてだったんだよ!」

 

 

 酷い、と膨れ上がる女の姿。

 明瞭快活な性格で、豊かに変わるその表情。

 

 誰よりも愛おしいと感じている。

 誰よりも守りたいと思っていて、それでも届かなかった人。

 

 その時には、もう気付き掛けていたのだろう。

 少年は微睡を払うかのように、額に手を当て頭を振った。

 

 

「……覚えている。覚えているさ、忘れやしない。けど、君は」

 

 

 そうして、全てを思い出そうとする。

 そんな彼の手を取って、優しい微睡は微笑んだ。

 

 

「また難しい顔してる! ほら、折角のデートなんだから、笑って行こう!」

 

 

 今は未だ、微睡みの中に。

 目が覚めたら、言わずともに気付いてしまうから。

 

 今だけは、安らいでいても良い筈だろう。

 

 

「……怒ってるんじゃなかったのか?」

 

「怒ってるよ! けど、それで楽しい時間が潰れたら勿体無いからね。文句は後で言うのですよ」

 

「なんだ、それ」

 

 

 女のおかしな物言いに、くすりと少年は笑みを浮かべる。

 ああ、でも、そんな言葉は彼女らしい。そんな風に考えた。

 

 

「そうだな。折角のデートなんだから、楽しまないと損だよな」

 

 

 にっこりと笑う女に手を伸ばす。

 手を繋いで、指を絡めて、さあ、どこへ行こうか、と。

 

 

 

 

 

 女へ言葉を掛けた瞬間に、少年は眠りより目覚めていた。

 

 

 

 

 

 もう誰もいない部屋の中。

 伸ばした作り物の手は、何も掴めず落ちていく。

 

 ベッドに横になったまま、クロノは空虚な瞳で天井を見つめていた。

 

 

「エイミィ」

 

 

 守りたかった。失いたくはなかった。愛していた。

 守れなかった。失ってしまった。それでも未だ愛している。

 

 夢にまで見る程に、大切だった一人の女。

 もう居なくなってしまった少女を偲んで、それでもクロノは涙すら流せない。

 

 力を得る為に、手にした筈の機械仕掛け。

 作り物の身体は守る事も出来ない癖に、涙を流す事さえさせてくれない。

 

 そんな瞳を、疎ましいと感じている。

 せめて少しは泣けたなら、そんな風に思ってしまう。

 

 

「……どうやら、思っていた以上にガタが来ているみたいだな」

 

 

 布団を片手で捲り起き上がると、クロノは己の身体を確認する。

 心は既に限界に近い程に疲弊しているが、体の方はどうであろうか、と。

 

 

「……満足には、動かないか」

 

 

 右手動かそうとして、失敗する。

 

 ギィと軋む音を立てた義手は、どうにも調子が悪いらしい。

 動くことには動く様だが、どうにも動作が一歩以上に遅れていた。

 

 こんな様で、管理局員として動けるのか。

 親しい人を亡くすなど今更なのに、折れそうな心に自嘲する。

 

 

「ああ、なんて無様。……未だ夢に浸っていたいとまで想っている」

 

 

 夢でしかなかったという事実には、あの時点で気付いていた。

 余りにも優しく温いその夢に浸っていたいと願いながらに、そうは出来ないと歯を食いしばる。

 

 

「今更、僕がそんな選択を、できるはずがないだろうにっ」

 

 

 今更。そう、今更なのだ。

 これで足を止めるなら、当の昔に止まっていた。

 

 父を亡くした時に、己が死に掛けた日に、友を亡くした日に。

 それでも前を目指すと決めたのは、この道を歩くと決めたのは、他ならない自分自身。

 

 戦いに赴くという事は、失う事と表裏一体であると知っている。

 奪う事と奪われる事は直ぐ傍にあって、それでも護る事を選んだのだ。

 

 

「夢に浸るのは、全てが終わった後なんだ。未だ、足を止める訳にはいかない」

 

 

 怒りも嘆きも確かにある。

 燃え上がり続けるように、胸の内にこびり付いている。

 

 それでも、まだ足は止められない。

 失った者に報いる事が出来るまで、止まる訳にはいかないのだ。

 

 

「……なのに」

 

 

 頭は熱に浮かされながらも、為すべき道を見定めている。

 怒りも嘆きも飲み干して、いつも通りに折り合いを付けられている。

 

 その筈なのに、クロノは確かに感じていた。

 燃え滾る熱の様な憎悪とは真逆の、あらゆる意思を削いでしまう感情を。

 

 

「くそっ、頭の中が、上手く纏まらない」

 

 

 それは寂寥感。

 吹き抜けるような空洞が、その胸にあった。

 

 怒りと憎悪を抑えなければ、今にも暴れ出したい衝動に駆られている。

 だがそんな感情を抑えていると、虚無感にも似た寂しさが心の中を満たしていく。

 

 冷静さを失えば、何も出来ずに死ぬだろう。

 そうと分かる頭があって、それに心が追い付いていない。

 

 

「落ち着け。……このままだと、無駄死にする」

 

 

 このままではいけない。

 錯綜する感情を抑え付け、大きく息を吐く。

 

 そうして意識を切り替えると、現状把握の為に思考を回した。

 

 

「……あれから、どうなったんだったか?」

 

 

 曖昧な記憶を掘り返しながら、クロノは思考を進めていく。

 大天魔の撤退から、今セーフハウスにて目覚める迄に、何があったのかと振り返る。

 

 

 

 母と恋人を失い、激情に飲まれた瞬間。

 振るわんとした憎悪は届かずに、クロノは大地を打った。

 

 憤怒と憎悪と失意の感情で、喚きながらに暴れる無様。

 そんな見苦しさを晒したクロノの姿を前に、少年少女は何も出来ずにいた。

 

 何も言えない彼らは、クロノが落ち着きを見せる迄待った。

 そうして少なくはない時を経て、僅かにだが落ち着きを見せたクロノ。

 

 揃ってユーノの治療を受けた後に、クロノは彼と共にセーフハウスへと移動した。

 ロストロギア「夜天の書」について、無限書庫の知識を持つ彼から聞きながらに情報を纏めた。

 

 そうして現状の報告と共に、援軍の要請をしてから眠ったのだ。

 

 

「この精神状態に付き合わせる、か。……アイツには、借りが出来たな」

 

 

 今落ち着いているのは、一度眠ったからだろう。

 休みもしないで返信を待とうとしたクロノに、良いから休めと口にしたのがユーノであった。

 

 彼自身、受けた傷は決して軽い物ではなかった。

 治癒不可能という域ではないが、後遺症が全くないとは言えない状態。

 

 魔力も体力も限界で、その上精神的に追い詰められた男の相手をさせたのだ。

 手間を掛けさせた。などと一言で言い切れない程に、面倒をさせたと自覚する。

 

 そうして自覚してみると、今までは気付かなかった匂いが鼻孔を擽っていた。

 

 

「これは、何か作っているのか? ……アイツも、本当に良くやる」

 

 

 扉の隙間から、香ってくる調理の匂い。

 一階にはキッチンがあったなと思い出し、よくやる物だと苦笑する。

 

 

「大丈夫。まだ、自暴自棄になる事はないさ」

 

 

 自覚する。理解する。

 心配されていると分かっていて、だからギリギリで踏み止まれる。

 

 考えてみれば、昨日は食事もしていなかった。

 食欲を誘う匂いに惹かれながら、クロノは寝室の扉を出た。

 

 そして其処で、それに気付いた。

 

 

「早いな。もう連絡があったのか」

 

 

 寝室に隣り合った書斎。其処に置かれた通信装置。

 緑色の灯りを点滅させている機材には、クロノの応援要請に対する返信が来ていた。

 

 

「援軍が来れば、仇も討てる。……食事の前に、確認だけでもしておくかな」

 

 

 そうしてクロノは書斎に入ると、通信端末に付属されているメール機能を起動させた。

 

 

「……なに?」

 

 

 表示された文章に、少年の思考は一瞬止まる。

 真っ白に染まった思考の中で、内容の理解も出来ずに居る。

 

 

「そんな、馬鹿な」

 

 

 見間違いではないか、そうあってくれ。

 そんな風に思いながら、二度三度と読み返す。

 

 しかし一言一句。其処に間違い等ない事を理解させられた。

 

 

「撤退、指示、だと……」

 

 

 上層部の指示。管理局より執務官に下された命令。

 クロノが望んでいた援軍とは、百八十度違った撤退要請。

 

 管理局の上層部が、地球を見捨てろと。

 リンディとエイミィの死に、憎悪を晴らす事さえするなと命じていた。

 

 そして、指示はもう一つ。

 

 

「っ!!」

 

 

 それを理解した瞬間に、クロノは通信装置を床に叩き付けていた。

 抑えられていた激情が溢れ出して、悪鬼の如き表情でクロノは歯噛みした。

 

 

「こんなの、納得出来るかっ!!」

 

 

 感情が振り切れて、冷静な判断能力を喪失する。

 管理局に与えられた機密指令を無視すると、クロノは机の中から一つのデバイスを取り出した。

 

 それは嘗て彼が使っていたデバイス。記念品として、或いは緊急時の予備として置いてあっただけの骨董品。S2Uという呼び名の、嘗ての相棒。

 

 

「S2U!」

 

〈Set up〉

 

 

 デバイスから流れるのは、もう聞く事の出来ない母の声。

 彼女の悪戯で設定された音声が、荒れ狂う激情に油を注ぐ。

 

 黒き魔法の鎧を纏うと、クロノは窓を叩き割って飛び出した。

 

 

 

 

 

 セーフハウスのキッチンにて、包帯姿の少年が鍋を掻き混ぜている。

 傷が治りきってはいない金髪の少年は、小皿によそったスープを口に含んだ。

 

 

「ん。これで良し、と」

 

 

 自作したスープの味見をして、ユーノはその出来に満足そうな笑みを浮かべる。

 桃子仕込みの料理技術は、安いレストランのレベルなどはとうに超えているという自負があった。

 

 何気に御神流より上達する速度が速いという才能の偏りに、少し悲しくなるがそれはそれである。

 

 

「クロノも今は余裕がないけど、食事をすれば少しは落ち着くはずだよね」

 

 

 食事は活力となる。美味しい物を食べれば、追い詰められているクロノも少しは気も紛れるであろう。

 そう感じる少年は、腐毒の影響が未だ抜けていない身体で調理を進めていた。

 

 

「っ。……まだ、動くと痛いな」

 

 

 腐敗した部位は切除して、物質を作る魔法で置き換えた。

 入れ替えた部位は少ないけれど馴染んでおらず、縫合痕が残っていた。

 

 

「アースラが沈んで、治療設備も殆どなかったからな。……スカリエッティさんにアレを教えて貰ってなかったら、多分今頃動けなかっただろうね」

 

 

 彼の狂人よりユーノが学んだ、ジュエルシードを解析した技術。

 魔力の物質化というロストロギア級の魔法は、先の天魔襲来にて力不足を感じた彼が切望した物の一つであった。

 

 

「一応、虎の子は使わないで済んだけど、残り魔力は半分くらいか」

 

 

 スカリエッティに貰った物。

 それは使わずに済んだが、それでも消耗は酷く激しい。

 

 なのはとクロノの傷を癒す事は出来たのだが、それだけでユーノは限界だった。

 

 

「……ほんっと、僕は戦闘じゃ役立たずだな」

 

 

 彼の腐毒の王を思う。

 あの戦場で最も足を引いていたのは、他ならぬ自分なのだと思っている。

 

 少なくともユーノが居なければ、なのはは自由に動けていただろう。

 それが分かって、足手纏いになっている事を認めない訳にはいかないのだ。

 

 ユーノの資質は、やはり後方支援向きなのだろう。

 戦う力は二人に大きく劣るが、戦後に持ち直す能力は随一なのだから。

 

 

「だから、せめて二人は万全に。――って調子だと、また女の影に隠れるって言われそうだね」

 

 

 資質がある事と、好き好んでいる事は違う。

 そう生きたいと願っても、そう在れるとは限らない。

 

 難しい物だと嘆息しながら、ユーノは戸棚より食器を取り出した。

 

 

(仲間を、友人を、母親を、恋人を、全部失くす、か)

 

 

 ふと想うのは、寝ているであろう少年の境遇。

 今の彼が一体何を思っているのか、皿によそりながらに思考する。

 

 

(分からないな。アイツが今、何を想っているのか)

 

 

 その結論は、分からないという答えだけ。

 どうにもユーノは。その感情を共感出来ない。

 

 

(持っていないから、分からないのかな)

 

 

 母親の顔など知らない。

 その生い立ち故に、友人など出来ることはなかった。

 

 持ってさえいないのに、失った時の想いが理解できるなどと、どうして口に出来ようか。

 

 

 

(近い感情があるとしたら――)

 

 

 仲間、恋人、と聞いて、僅かに思い浮かべる少女。

 僅かに頬を染めながらも、そうと仮定して思考してみる。

 

 

「……それは、嫌だな」

 

 

 想像しただけで、嫌な気分に陥った。

 張り裂けそうな胸の痛みを、首を振って妄想だと振り払う。

 

 気になる少女を亡くしたとイメージするだけで、この様だった。

 恋仲の相手となると、きっともっと深い感情がそこにあったのだろうと考える。

 

 その時感じる痛みの量など、まるで想像も出来なかった。

 

 

「さて、……クロノを起こしてくるか」

 

 

 パンとサラダにスープの、典型的な洋食メニュー。

 それを並べ終えたユーノは、気を取り直すとエプロンを外して階段を上る。

 

 

 

 その途中、硝子の割れる音が響いた。

 

 

「一体、何がっ!?」

 

 

 驚愕を浮かべたまま、慌ててユーノは駆け上がる。

 そして書斎の扉を開けて、その中へと踏み込んだ。

 

 室内に人の影はなく、割れた窓から風が吹き込む。

 窓際の観葉植物は床に倒れ、周囲の本棚からは物が散乱していた。

 

 

「……荒らされてるけど、内側に硝子破片がない。内側から破られたんだ」

 

 

 内側から破る。それが出来る人物は一人しかいない。

 どうして、そんな事を――と疑問に思いながらも、ユーノはそれに目を移す。

 

 

「管理局の、情報端末。……まだ、点いてる」

 

 

 管理局で正式に採用されている、ノートパソコンサイズの通信機。

 それが床に落ちているのに気付いて、ユーノはそれを拾い上げた。

 

 

「え? これって」

 

 

 モニタの割れた情報端末。

 その破損故に全文は読めなかったが、最後の一文だけは確かに見えた。

 

 そこに書かれていたこと、修飾を外して要約すればただ一つ。

 クロノ・ハラオウンに下された指示とは、ミッドチルダへの帰投命令であった。

 

 それが意味することは即ち、第九十七管理外世界を管理局が完全に見捨てたことを示している。

 

 

「……まさか、あいつ!?」

 

 

 一人で動く気か、とユーノは呟く。

 命令書を見て飛び出したのは、つまりそういうことなのだろう。

 

 走り去ったクロノの姿は、最早影も形も見えない。

 故に追うことすらも出来ず、ユーノには彼の身を案じるより他に出来る事はなかった。

 

 

 

 居間に用意された温かな朝食は、誰にも振る舞われることはなく冷たくなっていく。

 

 

 

 

 

2.

 海鳴駅に程近い場所にある大学病院。

 普段から忙しい場所ではあるが、今は常の比ではない程に慌しく医師や看護師たちが走り回っていた。

 

 石田幸恵もその一人であった。

 先程まで徹夜で執刀を続けていた彼女は、漸く空いた時間で一息を吐いていた。

 

 休憩室のソファに腰掛け、眠気覚ましに泥のような珈琲を口に含む。

 

 本来ならば、空いた時間に少しでも仮眠を取っておくべきなのだろう。

 だが、重症患者が未だ尽きない現状で、そんなことをしている余裕はない。

 

 こうして一息吐く時間すら、何とか用意出来たという状況なのだ。

 

 周辺病院への搬送を行ってなお、それでも患者の数が医師の数を圧倒している。一晩経っても、被害者の数はまだ減らない。

 

 本来内科医である石田が、外科医の資格も持っているからと慣れぬ執刀に回されている。

 それがまかり通ってしまう程に、今の海鳴大学病院には人手が足りていなかった。

 

 

 

 慣れない作業故に、疲労を隠せぬ石田医師。

 そんな彼女はそれでも、僅かな満足感も感じていた。

 

 

――先生。はやてを頼むよ!

 

 

 神経内科医として自身が担当する患者。八神はやて。

 彼女の親族を名乗っている少女がそう口にして駆け込んで来たのは、昨日の夕方になろうかと言った頃だった。

 

 スーパー銭湯にて起きた謎の有毒ガス事件。

 相次ぐ救急要請に対処すべく、救急要員が出払っている状況。

 

 搬送されてくる被害者達が待合室さえも埋め尽くしている中、やって来たのが彼女達であった。

 

 聞けば彼女らも同じく、その銭湯へと遊びに行っていたと言う。

 

 その際に被害を受けたのだろう。

 外部の損傷こそ予想以上に少なかったが、呼吸器とその周辺が目に見えて酷い状態だった。

 

 生きたままに、腐っている。

 他の患者と同じく、それを酷くした症状に女は顔を顰めた。

 

 肉体が腐敗してしまった少女の治療。

 それは最早、内科ではなく外科手術の領域だ。

 

 純粋な医療で、腐敗を治す術はない。

 出来る事は投薬治療ではなくて、移植手術と言った内容だ。

 

 医療は奇跡の魔法でなく、ならば治療には限界がある。

 石田がそう語った時に、付き添っていた金髪の女性が表情を暗くした。

 

 

――私では、ここまでしか出来ないんです。

 

 

 そう語った女性に、薬師か何かかと首を傾げた石田。

 慌てて首肯したシャマルと言う女性を不審に感じつつ、石田は最初は断った。

 

 移植手術は外科医の領分で、内科医である石田の役割ではない。

 その職分の範疇を遥かに逸脱した行動を、無責任に請け負う事など出来はしない。

 

 そう語る石田に、それでもと頭を下げた少女と女性と青年。

 異色な三人組が揃って頭を下げる姿と、苦しむはやての姿が切っ掛けとなった。

 

 理解したのだ。

 今この場で対処しなければ、少女の身は助からないと。

 

 だが、その場に対応できる者がいない。

 それでも自分には、経験こそないが技術と資格はあった。

 そして患者は他の誰でもない、八神はやてと言う既知の間柄。

 

 ならばどうして、動かずに居られようか。

 

 頭を下げ続ける守護騎士達に、石田は答えを変えた。

 例え職分を超えたことで罰されようと、彼女は覚悟を決めたのだ。

 

 

――今から治療に移ります。だから、貴女達も協力してくださいっ!

 

 

 人手の不足故に周囲の看護師に協力を要請すると、石田は即座に行動を始めた。

 

 手術室が埋まっていて使えない以上、ある物でどうにかするしかない。

 待合室近くに簡易無菌室を組み立てて、準備を整えてから執刀を行った。

 

 

 

 事件現場からは離れていたのか、一見して分かる異常は呼吸器回りと手足の先の腐敗くらいであった。

 だが内部写真を撮り、外部から見て分かる腐敗の進んだ一部を切開してみれば、そこにはとても酷い光景が広がっていた。

 

 まるで応急処置だけを済ませたかのように、一部を除いて綺麗に治療されている少女の姿に、一体どうすればこのような傷が残るのかと疑問も抱いた。

 

 だが、そんなことは関係ないと意識を切り替える。

 真相解明など学者なり探偵なり、それを専門とする者がやっていれば良いのだ。

 

 自分は医者である。

 ならば、目の前の患者を救うことこそ役割であろう。

 

 その誇りを持って慣れぬ手術に当たり、神経を擦り減らしながらも確かに彼女はやり遂げたのだった。

 

 

 

 簡易無菌室での作業を終え、一先ず容体が安定したはやての姿に石田やヴィータ達が安堵の息を吐いた所で、彼女に向けられたのは期待の籠った視線であった。

 

 医師の数が足りてない。まるで足りていなかった。

 危険な水準の患者達相手に、現場に向かった外科医達の手は釘付けとなっていた。

 

 今すぐに命に関わらない患者達は放置されたままの状態で、自力で如何にか病院に来ても相手にすらしてもらえない。

 

 そんな患者達が待たされる中で、手術している姿を見せる。

 その結果は当然、自分達もと彼らに要求される事に繋がった。

 

 そして彼らの要求を断る余地は、石田には残されていなかった。

 

 ヴィータやシャマルらが頭を下げる中、流されるように軽・中度患者の治療に当たっていた石田は、当然の如くその姿を上司に見られることとなる。

 

 本来の職分を超えて行動した事を叱責されるかと考えた彼女に与えられたのは、未だ重篤患者治療が間に合っていないからそちらに回ってくれという言葉であった。

 

 

 

 あの事件の被害者は千名を超える。

 事件現場は謎のガスの影響で危険地帯となっていて、今なお立ち入り禁止とされている。

 

 被害者達は駆け付けた救急車や救急ヘリなどで近くの病院へと搬送された。

 だが最も近い病院はここ、海鳴大学病院であり、他の病院は別の町、別の市にあるのだ。

 

 現場での治療が行えぬ以上、重篤患者はこちらで受け入れるしかない。

 遠くの病院では、搬送中に命を落としてしまう程危険な人も少なくはない。

 

 そして治療を後回しにされた結果、悪化してしまう者とている。

 この時間になって現れる重篤患者などは、盥回しにされた者がほとんどであろう。

 

 石田幸恵はコーヒーを飲み終えると白衣に腕を通して思う。

 

 救えた者もいる。救えなかった者もいる。まだ救いを待つ者達も多くいる。

 

 疲労は濃いし、慣れぬ作業に心も体も悲鳴を上げている。

 だが、それでも己は医者なのだ。だから、もう一頑張りだ。

 

 

 

 己の職務に誇りを持つが故に、彼女は死へと立ち向かうのである。

 

 

 

 

 

3.

 海鳴大学病院の一室で、呼吸器を付けられた少女は静かに眠りに就いていた。

 

 八神はやてが受けた傷は大きく重い。

 彼女の肌は腐り、臓器は腐り、命は脅かされていた。

 

 それがどれほど少女に恐怖を与えたか。

 それがどれほどに、少女の心を傷付けたのか。

 

 彼女を守るかのように、侍る守護騎士達には分からない。

 

 

「ごめんなさい。私がもっと、治療魔法に長けていたら」

 

 

 湖の騎士は、自分の力不足を不甲斐なく思いながら詫びる。

 科学技術の延長である治療魔法では、本来欠損部位の修復などは出来ない。

 

 ごく一部の例外が、辛うじて移植部位を生み出せる程度。

 彼の狂人とてジュエルシードの解析を終える迄は、潰れた臓器の変わりに生体部品を移植するという対応しか出来なかったのだ。

 

 火傷や腕の損失。そんな傷は治せない。

 生きたまま腐るという異常は、前述の負傷の比ではない。

 

 少なくともシャマルの治療魔法では不可能で、それ以上を求めるならば然るべき機関に頼る必要があったのだ。

 

 

「せめて、管理局レベルの設備があれば――ううん、そんなのは言い訳よね」

 

 

 医療を得意とする立場に在りながら、己の力不足に拳を握る。

 過去に類がない程に、湖の騎士シャマルは役割を果たせぬ事を嘆いていた。

 

 

「シャマル。お前は良くやっている」

 

 

 そんな彼女に、人の形をとったザフィーラが首を振る。

 褐色の偉丈夫は確かに、シャマルが悪いのではないと知っている。

 

 はやてのその身体は、外部も内部も腐敗の毒に侵されていた。

 このままでは死に至ると、そう確信出来る状態を、持たせていたのがこの女だ。

 

 少女を蝕む腐毒の内、特に状態が酷かったのは呼吸器周辺。

 毒素に侵された大気を吸ってしまった結果、その両肺は完全に機能を止めていた。

 

 そんな状態でありながら一命を取り留め、酸欠などによる後遺症も残していないのは間違いなくシャマルの手腕である。

 

 

「けど、やっぱり能力不足よ。……はやてちゃんの体内に残留した魔力が、どう影響を与えるのか分からないの」

 

 

 命を持たせる為に、少女の体内に魔力を通した。

 だが他者の魔力は毒になり、その上少女は腐毒で死に掛けていた。

 

 呼吸器機能の代替は、その代価を奪っているだろう。

 体内に留まっている残留魔力は、何かしらの障害を残す。

 

 恐らく呼吸器回り。

 どんな形で残ってしまうのか、前例がない故に想像も出来ない。

 

 

「それだけを背負わせて、なのに助けられない。……自分が情けないって、こんなに思った事はないの」

 

 

 それだけの被害を齎して、しかし完治は出来ないのである。

 それがどうしようもなく情けなくて、シャマルは歯噛みし続けていた。

 

 

「……それを言うならば、そもそも守り切れなかった俺の責だ」

 

 

 自責するシャマルに、ザフィーラも同じく悔やんでいる。

 能力の不足を悔しく思う彼女に対し、ザフィーラが思うのは彼女程に役目を果たしたかと言う点。

 

 被害を受けた後に治すのが彼女ならば、被害を受ける前に防がなくてはいけないのが彼なのだ。

 

 

「楽しんでいなかった、とは言えん。己の戦いに興じて、主を蔑ろにした俺の罪だろうさ」

 

 

 だと言うのに、認めた相手と競い合っていて遅れてしまった。

 端から傍に控えていたのが、ヴィータではなくザフィーラだったならば、傷はもっと浅く済んでいただろう。

 

 そう沈み込む二人騎士を後目に、鉄槌の騎士は唇を噛み締める。

 少女が悔しく思うのは現状で、二人の様に自己嫌悪故ではない。

 

 

「私はさ――幸せだったんだ」

 

 

 ヴィータは呟く様に、その胸中を口にする。

 小さく儚い筈の言葉は、静かな部屋に響いていた。

 

 

「昔とは違う。記憶にある昔とは、違う」

 

 

 守護騎士達は、過去の事を余り覚えていない。

 一部の影響を与えないと断じられた情報だけが引き継がれて、それ以外は転生の度に消されている。

 

 だからこそ、ヴィータにとって、それは初めての経験だったのだ。

 

 

「帰ったら、はやてのご飯があって、温かいお風呂があって、ニコニコ笑ってくれてんだ」

 

 

 おかえり、と。その言葉だけで頑張れる。

 涙を堪えて戦えたのは、守るべき者が確かに分かっていたからだ。

 

 

「だから痛くねぇし、だから辛くねぇし――だから、それを絶対、失くしたくなんてねぇ」

 

 

 それは今、失われると理解した。

 闇の書による見えない脅威ではなく、確かな危機として実感した。

 

 ならば失わぬ為に、己は動かないといけない。

 大切な物を沢山貰ったのだから、次は自分達の番なのだ。

 

 全てを救う。

 理想的な結末へと到達する為に――

 

 

「闇の書を、完成させようぜ」

 

 

 鉄槌の騎士は、そんな言葉を口にした。

 

 

「大いなる闇の力なら、はやての足も肺も、全部治せる。……シグナムだって帰って来る。だから、さ」

 

 

 蒐集へ行こう。そう強い意思で口にするヴィータ。

 同意が得られると確信していた彼女に返って来たのは、盾の守護獣の消極的な否定であった。

 

 

「……本当に、それで良いのだろうか?」

 

「あ?」

 

 

 疑問符を浮かべるヴィータに、重苦しい表情でそんな言葉をザフィーラは返す。

 

 

「此度の件。主に被害が及んだのは我らの――俺の責だ。ならば、主の身こそを優先すべきだろう」

 

 

 一時とは言え離れたこと。

 制止する主を無視して闇の書を完成させようとしたこと。

 それにこそ、この現状を招いた要因は存在しているのではないか。

 

 盾の役割を果たせなかった自責も相まって、ザフィーラは為すべき事を決めていた。

 

 

「少なくとも、俺はもう動かん。今度こそ、主を必ず守るのだ」

 

 

 まず守るべきは、ここに眠る主の身体。

 故に蒐集には協力しないと、ザフィーラは首を振って答えていた。

 

 

「ざっけんな! はやてを優先するからこそ、闇の書を完成させねぇといけねぇんだろうが!?」

 

 

 鉄槌の騎士はそれに激昂する。

 その物言いに、どうしようもない程に怒りを募らせる。

 

 

「もう後手になんて回れないんだよっ! はやてが生きていられる内に、動かねぇと間に合わねぇっ!」

 

 

 はやてを蝕む傷は、とても重い物だ。

 

 人工の肺は安定するまで、呼吸器による補助を必要とする。

 腐敗の影響が強い鼻や口や食道などは、日常生活を送るだけではやてに苦痛を与えるであろうし、残留魔力の後遺症だって存在するはずだ。

 

 そうでなくとも、闇の書が原因となっている麻痺の進行も続いている。

 

 

「失くしたくないんだっ! だったら、動くしかねぇだろうがよっ!」

 

 

 それらを解決する為には、一刻も早く闇の書を完成させねばならない。そんなことは考えるまでもなく明らかであろう。

 

 

「失くしたくないのは俺も同じだ! だが、それで目を離した瞬間に、此度の焼き直しが起こらんと何故言える! ……櫻井殿とも連絡が付かぬ現状。まずは主の身の安全を固めることこそ肝要であろう!!」

 

「んで、その間に限界が来たらどうすんだよ! まだ集めねーといけない頁は百頁以上残ってんだぞ!? あの魔王みてーなのは例外だ! 大抵は魔導士一人狩っても数頁しか蒐集できねーんだから、さっさと動かねぇと間に合わねぇじゃねぇーか!!」

 

 

 互いに感情を爆発させるように口にする二人の騎士。

 そんな彼らの対立は、或いは必然の結果として起こった事だと言えるであろう。

 

 元より攻勢の為に作られた者と守勢の為に作られた者。

 優先順位も思考ルーチンも異なれば、意見を異にするのは当然なのだ。

 

 どちらが誤っている訳ではない。

 どちらが正しいという訳でもない。

 

 どちらも一理あるが故に、どちらも陥穽があるが故に、互いに退くことが出来ない。

 

 

「二人とも止めてよ! 場所を考えて!!」

 

「っ!」

 

「……そうだな、済まん」

 

 

 間に入った湖の騎士の制止に、ヴィータは気に入らなそうに顔を背け、ザフィーラは暫し黙った後に騒いだ事だけを謝罪した。

 

 本来、こうした対立が起こった際にまとめ役となるのが烈火の将の役割であった。

 

 守護騎士達はそれぞれ役割が異なる。

 モデルとなった人物も異なっている。

 

 故に彼らは思考を異にする者達であり、故にこそ正しい判断を下せる指導者が必要なのだ。

 

 だが、今の彼らにそれはない。

 

 主であるはやては眠り続け、代替と成り得る管制人格は未だ目覚めず、杖たるシャマルには鉄槌と盾を御せるだけの器がない。

 

 だから――

 

 

「もう良いっ!!」

 

 

 これは当然の帰結であろう。

 

 

「お前らみてぇな腰抜け共に、誰が頼るかっ!」

 

 

 吐き捨てるようにヴィータは口にする。

 やるべきことが分かっていて、やらねばならぬのにもしもを恐れて動かぬ奴など、彼女の目には臆病者にしか映らない。

 

 攻勢の為に作られた彼女は、外敵から守り続けるのではなく、外敵を排除することで間接的に守護することを是とするが故に。

 

 

「そんなに言うなら、てめぇらだけでそこに居ろ! 私が一人で、全部解決してやらぁ!!」

 

 

 吐き捨てるように言うと、鉄槌の騎士は病室を飛び出して行った。

 

 

「ヴィータちゃん!?」

 

 

 今は皆で力を合わせるべきであろうに、どうして一人で動いてしまうのか。

 あの恐るべき怪物が存在しているこの世界の周辺で、管理局に追われているであろう現状で、単独行動など自殺行為であろう。

 

 そんなシャマルの制止の声は、ヴィータの小さな背には届かない。

 

 彼女を追うべきか、それともザフィーラと共にここにいるべきか。

 結論を出せず悩むシャマルに、ザフィーラが背を押すように口にした。

 

 

「行ってやってくれ」

 

「ザフィーラ?」

 

「優先すべきは主の身であろうが、奴の言とて誤りではない。守っているだけでは駄目だとは分かっている。……故に、だ。主は俺に任せておけ、あいつを頼むぞ」

 

 

 櫻井殿と合流出来れば、こちらも二人となるしな。

 そう不器用に笑う盾の守護獣の姿に、シャマルは小さく頷くとヴィータの後を追った。

 

 

 

 かくて守護騎士は分裂する。

 

 主を救う為に周囲へと害を振り撒き続ける女達と、目覚めぬ主を守る為に侍り続けて時間のみを浪費する男。

 

 愚かにも、ただでさえ少ない戦力をこうして分けてしまうのであった。

 

 

 

 

 

4.

 疲労の濃い体を執務室の椅子に預けながら、クロノは机の上に広げた地図と文章入力モードで起動したSU2をそれぞれの手に持ちながら思案する。

 

 どうにも頭の回りが良くない。

 疲労からか、思考が曖昧な物となっている。

 

 無理もないだろう。

 あれから三日。食事も睡眠もまともに取らずに動き回っているのだから。

 

 

 

 街に飛び出したあの日、あてもなく彷徨い続けたクロノは右の義眼で魔力使用の反応を見つけ出すと、脇目も振らずにその場所へと急行した。

 

 高層ビル街の一画。その屋上にて使用された転移魔法の痕跡を発見する。

 その術式と魔力の痕跡より転移先を予想すると、その地点へと転移したのだった。

 

 だが一歩遅い。

 

 その場所に残されていたのは、リンカーコアから魔力を蒐集され意識を失くした魔法生物の姿だけであった。

 

 そんな行動が幾度となく続き、疲労で働かなくなった頭でも追い掛けるだけでは無駄だと気付いた。

 故にクロノは一度情報を纏める為に、こうして戻って来たのである。

 

 

 

 地図上に赤いペンで転移魔法が行われた場所を記していく。途中気付いたことをデバイスへと書き込んでいく。

 

 これなら、寝不足の思考でも気付けることはあるだろうと考えて。

 

 

「これ、は……」

 

 

 そうして、ふと、その共通点に気付いた。

 

 

「この転移魔法痕跡。円状になっている? いや、完全な円形という訳ではないが、転移地点から等距離の位置に建物があるな。……ここは」

 

 

 転移地点同士を線で結ぶ。

 その先には、複数の線が必ず交わる場所が浮かび上がっていた。

 

 気付かれぬように工作はしているのだろう。

 だがそれでも、良く足を運んでいる場所は分かるのだ。

 

 距離をズラそうが、位置をズラそうが、重なる点は出て来るのだ。

 

 

「海鳴大学病院か。……迂闊。何故、気付かなかった!?」

 

 

 気付けたはずなのだ。推理材料は存在していた。

 

 あのレジャー施設の無料チケットは在住市民全員に配られていたと聞く。

 ならば、そのチケットの有効期限内に施設を訪れた客は、高確率でこの街の市民であるはずなのだ。

 

 そうでなくとも、足を延ばせば来れる範囲内に住居がある可能性は高い。

 あのレジャー施設は大きな場所であったが、観光施設の代名詞と言える程ではないのだから、そこまで遠方から来る人はまずいないだろう。

 

 そして住居がどこであれ、レジャー施設で被害にあった人々は、付近の大病院に収容される。

 

 あの夜天の主と思わしき人物は、叫喚地獄の被害を特に強く受けていた。ならば、海鳴大学病院に居る可能性は極めて高いのだ。

 

 

「……あそこに夜天の主がいるとするなら、そこで結界でも使えば、奴らを、大天魔を誘き出せる」

 

 

 大天魔の目的が何であるかは未だ分からない。

 自分達を放置し、アースラと敵の一人を倒した理由がクロノの立場では分からない。

 

 唯、それでもあの首謀者達を追えば、大天魔が絡んで来るだろうことだけは分かっていた。

 

 

「そうだ。あの少女が重要ならば――殺す前には出てくる筈だ」

 

 

 暗い笑みを浮かべて語る。

 この手は届く場所にあると確信する。

 

 既にして少年は、最早止まれない。

 

 その結果を思考していない。

 そんな余裕などとうにない。

 

 大天魔が現れて、それで何が出来るというのか、そんなことなど考えない。

 唯蹂躙されるしかないと分かって、対策一つ考えようとすらしていない。

 

 だがそれ以上に考えなくてはいけないだろう事実。それから目を逸らしている。

 

 被害者が多く収容されている病院内で大天魔が現れれば、それがどれ程の地獄絵図を生み出すことになるか、そんなことすら思考出来ていない。

 

 結界など大天魔が現れれば砕け散る。

 ならばその被害は、この地の民にこそ降りかかるのだ。

 

 罪なき民を守るという誇りを持っていたはずなのに、そんなことすら今のクロノの心からは欠けてしまっていた。

 

 

 

 この手が届くのだ。もう手を伸ばせば届く場所に居るのだ。

 それだけを思い、その果てを思考せず、唯々暗い笑みを浮かべる。

 

 椅子から立ち上がって歩き出す。

 そうして部屋を出ようとした所で、先に部屋の扉が開いた。

 

 

「クロノ!」

 

 

 その先に居た一人の少年。

 ユーノ・スクライアにクロノは足止めされていた。

 

 

「……居たのか」

 

 

 今から動き出そうとした所で、出鼻を挫かれたことに僅か苛立つ。

 その感情を内心で如何にか押し留めて、仏頂面で応対した。

 

 部屋の扉の先に立っている金髪の少年。

 両手に下げられた買い物袋を見るに、今は少し外していただけであれからずっとこの家に居たのだろう。

 

 母のエプロンを使用しているその姿に、どこか複雑な感情を抱いている。

 

 

「おい。お前顔色が真っ青じゃないか!? ……思う所があるのは分かるけど、一度休まないと!!」

 

「……分かる、か」

 

 

 その物言いに、何が分かると返しそうになって自制する。

 こちらの身を案じていることは分かるから、けれど立ち止まることは出来ない。

 

 故に如何にか、クロノはユーノを無視しようと歩き出そうとして――

 

 

「おい、待てよ!!」

 

 

 そんな声と共に手を伸ばしてくる少年の姿を、ただ煩わしいと感じた。

 部屋を出ようとする邪魔になると理解して、瞬間的にコイツは敵かと認識した。

 

 

 

 だから気付けば、その顔を殴り飛ばしていた。

 

 

「がっ!?」

 

 

 鋼鉄の右腕に殴られて、少年の身体が宙を舞う。

 両手が塞がっているが故に対応出来なかったユーノは、廊下の壁へと叩き付けられていた。

 

 如何に修練を積んでいるとは言えこうも狭い場所で、両手が塞がった状態で、予想すらしていない攻撃を受ければ流石に全てに対処し切れない。

 

 咄嗟に重要な部位と買い物袋だけは守って、だが己の身を守り切ることが出来ずに一瞬呼吸が止まる。

 

 そして即座に再開した過呼吸気味の呼吸に、ユーノは暫し咳き込んだ。

 

 

「…………っ」

 

 

 座り込んで咳き込むユーノの姿に、僅かながらも罪の意識を感じる。

 だがそれでも憎悪の情は鎖より解き放たれた猛獣の如く、抑え込むことなど出来はしない。

 

 だから――

 

 

「……もう僕に関わるな、ユーノ」

 

 

 そんな決別の言葉を口にして、クロノはその場を後にする。

 憎悪に身を焦がした少年は、誰にも頼れぬが故に外道となる事を選んでいた。

 

 

 

 咳き込みながら去って行く背を眺めていたユーノは、深く息を吸い込んで呼吸を落ち着かせる。

 

 壁に背を預けたまま、嘆くように呟いた。

 

 

「関わるなってさ。そんな様で、何が出来るって言うんだよ」

 

 

 止めよう。止めなくてはいけない。

 このままでは、きっと良くないことが起こる。

 

 そうは思えど、予想外に良い一撃を貰った所為か暫く立てそうにはなかった。

 

 その隙にクロノは去って行く。

 その背を呼び止めることが、今のユーノには出来なかった。

 

 

 

 破綻する。破綻する。破綻する。

 誰も彼もが不協和音を奏でて、破綻した物語を進めていくのだった。

 

 

 

 

 

 




管理局の撤退命令の理由は闇の書を確認できたから。

顕明さんがあれを作ったのは、旅する宝物庫として逃がすことも理由だが、同時に大天魔の目を釘付けにする為の囮として運用する為でもあった訳です。その為の暴走機能でもありました。

闇の書の防衛機構の悪辣さは顕明さんが一番良く知っているから、奪われることはないだろう。仮に奪われても残る二つが無事なら何とかなる、とか管理局側は考えています。

なので大天魔の狙いがそれであると確認できればもう知ることはないだろう、という判断を上層部が下したという形ですね。クロノくんはブッチしましたが。


ちなみにあのメールにはなのはちゃん回収して逃げろと書かれているんですが、画面割れの所為でユーノくんは戻って来いという命令以外を読めていなかったりします。


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