リリカルなのはVS夜都賀波岐   作:天狗道の射干

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楽土血染花編第四話 楽園に咲く血染の花 中

1.

 街を朝焼けが染める中、黒き霧が蟲で出来た悪魔を捕縛する。

 夏場に野晒しとされた氷の様に、引き摺り回された蟲は急速に溶けて消えていく。

 

 

「ぎ、ぎぎぎぎぎぎぃぃぃ」

 

 

 磨り潰して、擦り減らして、吸い尽くす。月村すずかの意図は明白だった。

 悪辣なる魔群。残忍なる悪魔。この外道の仕込んだ罠が分からぬ限り、知略を競い合えば敗れるより他にない。

 

 ならば対応策は唯の一つ。仕込んだ罠を切る隙もない程に速攻で、何を企む暇もない程に素早く、この外道を圧殺するのだ。

 

 

「ぎぃあぁぁぁぁぁぁぁっ!?」

 

 

 女の物とは思えぬ悲鳴が響く。擦り減り磨り潰される。その度に魔群が汚い声の悲鳴を上げる。

 それに何を感じようとも、発する瘴気は決して止めない。僅かでも手心を加えれば如何なる罠が牙を剥くか、分からぬ以上は加減はしない。

 

 簒奪の瘴気はまるで、塵を集める吸引機。人型をした無数の蟲を吸い寄せて離さず、集まった穢れを地面や壁に擦り付けて削っていく。

 肉体を形成する蟲の軍勢が見る見る内に削れていき、クアットロの苦痛と悲鳴が木霊する。その光景に精神を鑢で削られる様な想いをしながら、それでも只管に磨り潰し続けた。

 

 

「あ゛ぁぁぁぁぁぁぁぁぁッ!?」

 

 

 頭を砕いて、胸を抉って、下半身を磨り潰して、それでも魔群は消滅しない。力の差は圧倒的だと言うのに、生き汚くもしがみ付く。

 死にたくない。死にたくない。死にたくはない。見ているだけで伝わるその感情。剥き出しの血肉を晒して、枯れ細った腕を伸ばして、擦り付けられる地面に指を突き立てた。

 

 爪すらない指先を泥に染め上げ、必死に縋りつくクアットロ。其処に何かを想っても、油断したなら其処で終わりだ。故に心を冷徹な意志で染め上げて、一気呵成に吸い上げる。

 

 

「いい加減、にぃっ!」

 

 

 明けない夜に、月が赤く赤く輝く。簒奪の瘴気はその力を増して、此処に魔群の蟲を吸い尽くす。

 抵抗出来る筈がない。既に抵抗出来るだけの力を、クアットロは何一つとして残してはいないのだから。

 

 今の魔群には大した力が残っていない。その身は未だ腐炎に焼かれ続けているのだ。力を溜め込める道理がない。

 喰らった命は自分の存在保持の為に最低限。残る大部分を魔鏡を全盛期で保つ為に、その残った僅かですら時間経過と共に衰退する。

 

 クアットロ=ベルゼバブは最早、聖遺物の使途にすら勝てないだろう。いいや、最低限の魔道を齧った者にすら劣るかも知れない程だ。

 第四の宙にあった双頭の鷲の方が強力だ。第二の宙に居たボディチョッパーにすら負けるだろう。それ程にこの女は、見るも無残な弱体化を遂げていた。

 

 それだけの劣化を許容して、手にしたのは反天使と言う傀儡人形。

 アストを動かしていればこそ、劣化に劣化を重ねていようが関係なかった。

 

 ならば当然、最大戦力と切り離された時点でこの女は最早終わりだ。

 

 

「枯れ、堕ちろォォォォォォッ!!」

 

 

 掴んだ指先から生き血を啜る。血から生まれた怪物は、その身を一片たりとも残せはしない。

 黒き人影は小さな蟲となって散り散りに、逃れようとした蟲さえも逃さないと吸い尽くす。魔群はもう耐えられない。

 

 最早悲鳴を上げる事も出来ず、無数の蟲が息絶えていく。引っ繰り返った節足が、蠢きながらに消えていく。

 後には唯、女が一人。恐るべき魔群は此処に滅び去る。仕込んだ罠を生かせずに、何も出来ずに滅び去った。………………………………本当に?

 

 

「はぁ、はぁ、はぁ……」

 

 

 女は荒い息を吐く。敵手に何もさせる事はなく、一気呵成に吸い尽くす。それだけの攻勢を続ける事は、唯それだけで相応の負担を齎している。

 ましてやすずかは先の戦闘で受けた消耗を、全て取り戻せていた訳ではない。立ち上がるだけでやっとであると、そんな状況で相手を一方的に攻め立てたのだ。

 

 圧倒出来ただけでも大した物。何もさせなかっただけでも称賛を受けるだけの事。故に戦いが終わって、膝を付いてしまうのも当然。当たり前の事である。

 

 

「はぁ、はぁ、はぁ……」

 

 

 息が荒いのも当然。身体が重たく感じるのも当然。立ち上がれないのも当然だ。顕在化した疲労に、漸く気付けた所為だろう。

 身体の芯が熱いのも当然だ。滴り落ちる滴に衣服が濡れるのも当然だ。荒い呼吸が更に酷くなっているのも、全てが当たり前の出来事であると――

 

 

「はぁはぁはぁはぁはぁはぁはぁ――」

 

 

 そこまで進んで、漸く気付いた。過呼吸染みて止まらぬ呼吸に、気持ち悪い程に熱い身体に、誘導されている思考に漸く気付く。

 犬の様に見っとも無く舌を出して、整えられない荒い呼吸に苦しみながら、蹲って両手を握り締める。秘部に手を伸ばしそうになる衝動を抑えながらに、罠に掛かった事を理解した。

 

 

(どうして、なんで、一体どんな、罠に掛かったの!?)

 

 

 これは間違いなく、魔群が残した罠である。だがしかし、そんな余裕や隙は与えなかった筈なのだ。

 罠に掛かる程に、隙は晒していなかった。何かを行える程に、相手に余裕は一切なかった。なのにどうして、こうして己は悶えているのか。

 

 上気した肌と、桃色に染まる思考。真面に考えが纏まらない程浮ついて、それを必死に抑え続けて思考する。

 満足に回らない頭で必死に考えて、それでも答えが出ない問いは空回り。そもそも理屈として、成立していない筈なのだ。

 

 魔群は滅んだ。その蟲は一匹残らず、吸い尽くして吸い殺した。仮に保険や予備が残っていても、今此の場には存在しない。

 遥か遠くからの干渉で、如何にかなる程に月村すずかは弱くはない。仕掛けた罠を動かす為にもこの場に存在する必要があり、なのに此処にクアットロはもう居ない。

 

 意味が通らない。訳が分からない。情欲に茹った頭では、蹲ったままのすずかでは、答えなんて出せやしない。

 注意深く考えれば、答えは分かりやすいのだ。たった一つしかない筈なのだ。だがそんな分かりやすい解答に、すずかは辿り着けなかったのだ。

 

 

〈なら、答え合わせと行きましょうか? すぅずかちゃぁぁぁん〉

 

 

 ニチャリと嗤う声がする。羽搏く蠅声の音が響く。己の内側から響くのは、滅んだ筈の魔群の声。

 そして、切り替わる視界。落ちていくその先は、己の中に広がる内的宇宙。其処にある筈だったのは、白き少女が作り上げた薔薇の園。

 

 永遠に開けない夜の下、少女が世話する薔薇の園。確かにあったその情景が、だが最早其処には残っていなかった。

 

 

「あ、あぁ……」

 

 

 錆びて腐った金属のアーチに、絡み付いていた茨が枯れて落ちている。荒れ果てた土に色はなく、草木一本生えてもいない。

 管理者だった幼い少女の姿はなく、統治者だった吸血鬼の気配もなく、廃墟と化した薔薇の園に蔓延っているのは無数の蟲だ。

 

 落ちた花弁を、蟲が喰らった。開いた薔薇の花達を、蟲が食い荒らして絶やしてしまった。

 其処に居たヴィルヘルム・エーレンブルグとヘルガ・エーレンブルグと言う姉弟を、クアットロが喰らい尽くしていたのである。

 

 

〈血染花は魔群にとっての天敵だ。貴女はずっと、そう想っていたんじゃないかしらぁ?〉

 

 

 その指摘は唯の事実確認だ。月村すずかは確かに、そう考えていた。固定観念に嵌っていたのだ。

 何故ならば、彼女が夜を展開すればクアットロは抵抗すら出来なかったから。血に宿る怪異は、吸血の鬼にとっては餌でしかなかったから。

 

 

〈何しろ魔群は血に宿る怪異。血を吸う鬼を前にしたら、相性が悪いと言える筈。それはそうよ当然ね。事実として認めて上げる〉

 

 

 ルネッサ・マグナスがそうだった。エリキシル中毒者達がそうだった。魔群も確かにそうだった。

 彼らは吸血に抗えず、一方的に押し負けていた。死森の薔薇で、確かにその症状を治療出来ていた。

 

 だから相性は良いのだと、勝手に思い込んでいた。クアットロが態とやられていたなどとは、想像すらもしていなかったのだ。

 

 

〈だけど、魔群は蟲なのよ? 血染花は花なのよ? 花を蟲が喰らうのも、或いは当然の事だって言えないのかしらぁ?〉

 

 

 確かに魔群は血の怪異。吸われたならば抗えない。されど魔群は、蟲でもある。花々を貪り喰らう猛毒なのだ。

 血を吸う花を育てる為に、栄養となるのは確かに血液だ。だがこの血液は猛毒でもある。除草剤の混ざった水なら、花が枯れるのも道理であろう。

 

 相性が悪い。その認識が間違いなのだ。どちらかが天敵。その思考が過ちだった。その誤った認識を、訂正させなかった事こそ魔群の罠だ。

 

 

〈私達は互いが互いにとっての天敵なのよ。貴女に吸われれば私は抵抗できないけれど、私を吸ってしまえば貴女は中から壊れていくの〉

 

 

 両者共に、互いこそが天敵だった。その事実をクアットロは気付いていて、月村すずかは気付けなかった。

 

 外の世界において、クアットロは如何に罠を仕込もうとも、すずかに吸われてしまえば何も出来ない。一方的に圧殺される。

 内の世界において、すずかは己の体内にある毒素を消せない。クアットロを吸ってしまえば、中から好き放題にされてしまう。

 

 両者共に相対している女こそが天敵で、その事実に気付いていたのは片方だけ。だからこそ、こうなったのだ。

 

 

〈誰かを助ける為に。誰かを助ける為に。誰かを助ける為に。貴女は私を吸い続けた。貴女でなくては救えないから、そんな理由で吸い続けた〉

 

 

 その脅威を知っていれば、すずかは吸血を控えただろう。僅かな血の量では、内的宇宙に居る者らで対処出来てしまう可能性があった。

 ヘルガと言う薔薇園の管理者に気付かれない様に、蟲の数を増やしておく必要があったのだ。気付かれても抗えない程に、増やしておく必要があったのだ。

 

 

〈ベルゼバブはその為の布石でもあったの。エリクシルやグラトニーを流行らせたのは、その為でもあったの。貴女に負け続けたのもそれが理由。貴女の中で、私を育て上げる為に。全ては唯、その為にねぇ〉

 

 

 故に素直に吸われ続けた。一方的に圧倒され続けた。そうして少しずつ、すずかの体内に蟲を仕込んでいたのだ。

 腐炎に焼かれて、しかしその蟲が消えていなかったと理解した。幾度かの確認作業で理解して、故にクアットロはそれを蜂起させたのだ。

 

 先ず真っ先に闇の賜物。ヘルガの意志を喰い尽くし、そして串刺し公へと手を伸ばした。

 彼らから意志を奪い取り、その魂を純粋な力へと変えてやった。月村すずかが、直ぐに吸収できる様に。

 

 そして観測を続けたのだ。最も奪い取るに相応しい、そんなタイミングを待ち続けた。

 

 毒を吸ってしまった彼らは想定以上に弱っていて、存外容易く抑えられた。予定よりもあっさりと、思ったよりも簡単に。そうして彼らを抑える事が出来た瞬間に、クアットロは己の大望が成就を確信したのである。

 

 

〈ずっと待っていたわ。こうして一瞬でひっくり返せる程に毒を溜め込ませて、この瞬間をずっとずっと待っていたのよぉ〉

 

 

 この瞬間を待っていた。このタイミングこそを待っていた。すずかが一人、己と向き合う時をこそ待っていた。彼女の力が最大限に、高まる時を待っていた。

 娘に掛かり切りとなったアリサは気付けない。外で人々を守っているザフィーラは、月村すずかの内面で起きている異常に気付かない。

 

 内側から全てを掌握された月村すずかは最早、抵抗する事すら出来はしないのだ。

 

 

〈本当はね、すずかちゃん。私が、貴女に成り変わる心算だったの〉

 

 

 仕込んだ蟲の本来の用途。それは月村すずかの乗っ取りだった。

 月村すずかと言う肉体を奪い取って、クアットロ=ベルゼバブがそれを使う予定だった。

 

 失楽園の日。エリオをナハトが乗っ取った時の様に、すずかをクアットロが乗っ取る心算だったのだ。

 

 

〈月村すずかと言う皮を得て、血染の花を取り込んで、私が貴女に成りたかったの〉

 

 

 欲しかった。欲しかった。心の底から欲しかった。喉から手が出る程に欲しかった。

 美しい身体が羨ましい。血肉の通った身体が羨ましい。子を孕み産める器が妬ましく羨ましかった。

 

 

〈だって、貴女要らないんでしょ? 自分の身体が嫌いなんでしょう? その血が疎ましいんでしょう?〉

 

 

 彼女はそれを要らないと言っている。己の血が疎ましいと、だから変わってしまいたいと願っている。

 だからその願いを叶えよう。私が貴女に変わってあげよう。その血、その肉、その全てを奪い取って、私が月村すずかになってあげよう。

 

 

〈なら頂戴よ! 私には身体がないの! 自分の身体一つ存在しなくて、お父様を産んであげる事すら出来ないの! だから要らないって言うんなら、ねぇ! 月村すずか(アナタ)を私に頂戴よ!!〉

 

 

 欲しい。欲しい。欲しい。欲しい。狂う程にそれを求めて、餓える程にそれを願った。私は私だけの血肉が欲しい。

 その為にこそ仕込んでいた。その為にこその罠だった。月村すずかの身体を奪い取って、成り変わる事こそが彼女の渇望だった。

 

 だが、その願いはもう叶わない。クアットロ=ベルゼバブの消滅は、最早確定してしまったのだから。

 

 

〈だけど、ね。もうそれは望めない。本当にエリオ君ってば、酷い事をするのよねぇ〉

 

 

 クアットロは自嘲する様に嗤う。諦めた様に告げる。それは一時の慢心が生んだ、彼女にとって最悪の事実。

 魔群は腐炎に燃やされたのだ。その事実が魂の奥深くにまで刻まれていて、今も火に焙られている。故にこそ魔群は、もう滅び去るしかない。

 

 

〈クアットロは腐炎に焼かれた。その事実がある限り、何処まで行ってもこの概念が付き纏う。クアットロと言う自我のラベルがある限り、私は永劫燃えて腐り続けるの〉

 

 

 身体を変えても無駄だ。切り離しても切除し切れない。クアットロの持つ魂が、もう腐ってしまっている。

 燃えているのだ。爛れている。だから月村すずかに成り変わっても、中身がクアットロである以上はまた燃える。

 

 それは駄目だ。それでは駄目だ。切り離して再生して、延命は出来るが上限が下がり続けるのでは意味がない。

 力を溜め込む必要がある。神格域に至る必要がある。偉大な父を見付け出す為に、座を手にするしか術がないのだ。

 

 だから、己を弱体化させ続ける腐炎は何処かで切除しなくてはいけない。だが切り離そうにも、魂の芯にまで刻まれてしまった。故に切り離す為にはそれ以上の力が、流出級の出力が必要だ。

 だが、その出力を得る為に腐炎が邪魔なのだ。故にこれを切り離すなどは行えない。最早その願いは叶わない。

 

 故に、もう魔群(コレ)は要らない。こんな己(クアットロ)に、生きている意味などはないのである。

 

 

〈だから、決めたの。怖いけど、決めたの。嫌だけど、そうするしかないから決めたのよ〉

 

 

 腐炎のみを斬り捨てる事は不可能だ。腐炎に焼かれたと言う事実を、消し去る事は不可能だ。

 故にクアットロは決断した。怖くて怖くて仕方がないが、嫌で嫌でどうしようもないが、他に術がないから決断したのだ。

 

 

(クアットロ)貴方(すずか)になる事は出来ない。だから、貴女(すずか)(クアットロ)にしてしまおう〉

 

 

 それは発想の逆転。考え方を根本から変える事。クアットロでは腐り続けるのなら、この魂(クアットロ)はもう要らない。

 魔群の力も必要ない。この身にある全てがもう要らない。自分が抱え続けた渇望を、果たせる誰かを作り上げてしまえば良いのである。

 

 

〈記憶を改竄する。趣味を加工する。性格を作り変える。価値観を入れ替える。目的も願いも境遇も何もかも、内側から書き換えてしまうの〉

 

 

 零から作り上げる事は難しい。だから既にある人物を、その中身を加工してしまおう。

 丁度都合良く、狙っていた器がある。だからその人物の精神を掌握して、自分そっくりな形に変えてしまおう。

 

 他者を救いたいという医務官として培ったその性質を、他者を苦しめたいと願う嗜虐的な性癖に変えてしまおう。

 己の身体に流れる血を嫌うと言う自己嫌悪の性格を、己こそが至大至高にして完璧な存在だと捉える慢心に変えてしまおう。

 友らと結んだ絆こそが至高であると考える在り様を、世界で最も優れた知性を持つスカリエッティこそが至高であると考える様に変えてしまおう。

 

 月村すずかを、クアットロにしてしまうのだ。記憶と性格と渇望を加工して、自分の生き写しを生み出すのである。

 

 

〈貴女が私になる様に。すずかがクアットロになる様に。この魔群(クアットロ)が消え去っても、別の血染花(クアットロ)が生まれるならばそれで良い〉

 

 

 今の自分が死んだとしても、次の自分がその願いを叶えてくれる。

 クアットロとなった月村すずかが、ジェイル・スカリエッティを産み落とすのだ。

 

 それこそが、クアットロ=ベルゼバブの企み。この女が作り上げた。全てを手中に収める為の策謀だ。

 

 

〈大丈夫。自己の消滅は経験したわ。あの日と同じ、戦闘機人クアットロが死んで、魔群クアットロが生まれた時と同じ〉

 

 

 死は怖い。自己の消滅は恐怖だ。それでもそれしかないならば、クアットロは己に言い聞かせる。

 既に過去に体験しているだろうと。この今にあるクアットロとは、戦闘機人であった彼女が死する瞬間に残った自我が夢界の悪魔に宿った物に過ぎないのだ。

 

 だから、死ぬのはこれで二度目。例え滅ぶのだとしても、三度目が確定しているならば耐えられる。

 

 

〈考えても見て? 目的の為に一旦死ぬ。そうして別人として蘇る。それはドクターだってやった事。だったらお揃いじゃない。寧ろ光栄だって思いましょう!〉

 

 

 ましてや、己の願いの為に死を許容する。それは偉大な父と全く同じ行動だ。

 求道の為に命を捨てた。そんな父と同じく、クアットロもまた己の願いの為に死するのだ。

 

 全ては唯、愛する父と共に――あの日を過ごした白い家へ、帰りたいと願っているから。

 

 

〈私は死ぬ。腐炎で燃えて腐って死ぬ。死ぬ前に一つ、貴女(すずか)の心を作り変える〉

 

 

 上手く行くだろうか。いいや、きっと上手く行く筈だ。だってクアットロは信じている。

 月村すずかは、愛を知らない。クアットロが狂う程に父へと向ける、異性愛を知らないのだ。

 

 だから、負ける筈がない。だから、抗える筈がない。この女は必ずや、クアットロへと変わってくれる。

 

 

〈渇望と記憶と性格を、私と同じ形にする。そうして生まれ変わった貴女は、きっと私と同じ物〉

 

 

 悪辣なる手段を良しとする外道の精神と、小物が持つ慎重を期する考え方。

 その二つを得た月村すずかは、決して無茶をしないだろう。だが必ずや、座を目指して好機に動く。

 

 好機はあるのだ。月村すずかと言う立場となれば、必ずや座を掴む為の好機がある。

 

 

〈私ではないクアットロが、月村すずかとして仲間達と共に穢土へ行く。私ではない月村すずかだけど、クアットロだからこそきっと悪辣なる手段を取る〉

 

 

 穢土決戦。夜都賀波岐と管理局。その決戦の当事者として、参戦する事は確定だ。

 そしてその現場にて、牙を研ぎながらに待てば良い。訪れた好機を前に、また漁夫の利を狙えば良いのだ。

 

 

〈身内の裏切りに、機動六課は即応できない。夜都賀波岐との決戦で、漁夫の利は十分狙える。トーマ・ナカジマを抑えられれば、座の掌握だって夢じゃない〉

 

 

 機動六課は仲が良過ぎる。彼らは身内からの裏切りに、すぐさま動ける程に冷酷非情にはなれない。

 ならばここぞと言う場面において、漁夫の利を奪い取るのは不可能じゃない。血染花で吸収して、己を強化する事は可能である。

 

 最高はトーマ・ナカジマの確保。次点が高町なのはか天魔・夜刀の神体。それが無理でも、高望みしなくとも次に繋がる。

 夜都賀波岐の何れか一柱。或いはアリサ・バニングスか盾の守護獣。その辺りを一人二人と喰らっておけば、後は如何様にでも動けるのだ。

 

 

私ではない私(すずか=クアットロ)が、流れ出すの。そうして、ドクターを見付け出す。彼を産み直して、永遠に二人、愛し合って生きて行く。……あの白い家に、漸く、漸く(クアットロ)は帰れるのよ〉

 

 

 全ては唯、あの日へ帰る為に。たった一人と過ごした幸福の想い出。それだけが、魔群の内に残った全て。

 懐かしい我が家へ。あの幸福だった日々へ。白い家へと帰る為だけに、クアットロ=ベルゼバブは選択した。

 

 そしてその策略。根幹を為す一手は、正しくこの今に成ったのだ。

 

 

〈安心して、寝てしまいなさい。起きたら、世界の色が変わっているわ。感じ方が変わるから〉

 

 

 月村すずかは抗えない。少しずつ精神を削ぎ落とされて、中から塗り替えられていた。

 そんな彼女はクアットロ=ベルゼバブを吸い尽くした事で、遂に抗えない程に己を失ってしまったのだ。

 

 もう消える。もう消える。クアットロ(すずか)はもう消えて、すずか(クアットロ)が生まれ落ちるから。

 

 

〈お休みなさぁい。月村すずか〉

 

 

 その時までお休みなさい。血染花。次に起きた時には既に、貴女は貴女で無くなっている。

 

 クアットロは笑みを浮かべる。瞼もなく、唇もなく、生皮が剥げた姿で笑う。

 汚物の如くに汚らわしく、見るに堪えない程に見苦しい容姿。それでも彼女は、何処までも澄んだ笑顔で笑っていた。

 

 

 

 

 

2.

 乾いて罅割れた大地に流れるは、灼熱の溶岩流を思わせる赤き色。空は既に閉ざされて、逃げ場などは何処にもない。

 此処は砲身。余りに巨大な列車砲の、砲門の中にある世界。あらゆる全てを焼き続けるは、決して途絶えぬ最愛の炎である。

 

 この場所からは逃げ出せない。この地の支配者が許さぬ限り、抜け出す事など出来はしない。

 そしてアリサ・バニングスが、己の娘を逃す筈もない。故に最早出口はなくて、ならば生み出す他に打つ手はない。

 

 

「アクセス、マスターッ!」

 

 

 意味が分からぬが怖いのだ。訳が分からないのに恐ろしいのだ。震える程に怖くて怖くて、なのに何故だか嬉しいのだ。

 その感情が分からない。この情動が理解できない。だから来るな。お願いだから来ないでくれ。怯える少女はその想いのままに、主が生み出した夢へと繋がる。

 

 

幸いなれ、癒しの天使(Slave Raphael,)その御霊は山より立ち昇る微風にして(spiritus est aura montibus orta)黄金色の衣は輝ける太陽の如し( vestis aurata sicut solis lumina)

 

 

 追い詰められて追い立てられて、少女が選んだ手段は拒絶。分からぬものは分からぬからと、こっちに来るなと拒絶する。

 その姿は正しく子供の駄々に過ぎぬが、手にした武器が洒落にならない。吹き付ける“風”の力は既に準神格域、並大抵の術では返せない。

 

 

「黄衣を纏いし者よ、YOD HE VAU HE――来たれエデンの守護天使」

 

 

 多重に重なる次元断層。吹き付ける風は、次元嵐と言う災害を無数に重ねた物と同じだ。

 高速回転するシュレッダー。僅かにでも巻き込まれたなら、次元の彼方へ追放されて消滅する。

 

 そんな熾天使が“風”を前にして、アリサ・バニングスは唯不動。腕を組んで揺るがない。

 動く必要がない訳ではない。躱す必要がない訳ではない。防御をする必要がない訳ではない。唯、逃げようと言う意志がないだけだ。

 

 

「――っっっ」

 

 

 吹き付ける風に、切り裂かれながらに一歩も退かない。吹き飛ばそうと言う意志に、それがどうしたと揺るがない。

 空間を切り裂き癒着させ、発生する歪曲空間断層。鋼の如き竜巻に切り裂かれ、この世界から消し去ろうと言う意志に抗い、一歩も退かずに立ち続ける。

 

 傷がない訳ではない。防ぐ力がある訳ではない。それは滴り落ちる赤い血が、何より明確に示している。

 アリサ・バニングスは傷付いている。この女は消耗している。この地球と言う世界の中で、最高性能を維持していられる訳ではないのだ。

 

 今の彼女は、黄金の眷属。彼の継承者たる高町なのはの、眷属と言うべき存在だ。

 故に彼女の傍を離れれば、その出力は低下していく。ミッドチルダから離れたならば、その最高火力は維持出来ない。

 

 それでも、今の魔鏡よりは強いだろう。だがしかし、無抵抗で攻撃をその身に受けて、無傷で居られる程ではないのだ。

 

 

「それで、だから――どうした?」

 

 

 無抵抗に風を受けて、少女の駄々を身体に刻んで、それでもアリサ・バニングスは止まらない。

 一歩、一歩、また一歩。女は止まらず進んでいく。業火の如くに苛烈な意志で、少女に向かって確かに告げた。

 

 

「軽いのよ。馬鹿娘。こんな奈落(アクム)一つで、この私を止められると思うなッ!」

 

 

 連れ帰るべき一人の少女。アストを縛る魔群の奈落を、軽い悪夢と断言する。

 お前を縛る夢などは、取るに足りぬのだと口にする。そんな女の赤い瞳に、幼子は狂乱するかの如くに慌てて縋った。

 

 縋るのは、やはり悪夢だ。己の主である女が作り上げた夢に繋がり、その悪夢に縋るのだ。

 

 

「アクセス、マスターッ!!」

 

 

 恐怖から逃れる様に、必死に叫びながらにアストは此処に門を開く。

 己が器に熾天使が一柱を降臨させて、この恐るべき女を何としても取り除かんと咒を紡ぐ。

 

 

幸いなれ、黙示の天使よ(Slave Gabriel,)その御名は、汝の下にて(cuius nomine tremunt)戯れる水の精をも震わさん( nymphae subter undas Indentes )

 

 

 呼び出すのは水の守護天使。イスラム教における最高位の天使。ミルトンの失楽園においては、天使の長と呼ばれる統治者。邪悪に対する特効だ。

 

 

さればありとあらゆる災い(Non accedet ad me)我に近付かざるべし( malum cuiuscemodin)我何処に居れど(quoniam angeli sancti)聖なる天使に守護される者ゆえに( custodiunt me ubicumeque sum)

 

 

 目の前に立つは狩猟の魔王。悪魔の王を騙る女に対し、ならばこの天使こそは特効となろう。

 ましてや女は業火の化身。火は水で消える物。子供でも分かる法則を前に、相性は正しく絶対的。

 

 故に止まれ。止まってくれよ。そう願いながらに、幼子はその天使の名を呼んだ。

 

 

「蒼き衣を纏う者よ、EHEIEH――来たれエデンの統治者」

 

 

 そして、何処からともなく現れるのは流星群。悪を討ち滅ぼす為に、光となって爆発する。

 光速さえも置き去りに、襲う力は無限加速。時を停めるか、自身が光よりも早く動くか、そうでなければ躱せない。

 

 邪悪の調伏。魔王の降伏。悪魔を滅ぼす雨は此処に、アリサ・バニングスの身体を射抜く。

 当たった後に痛みが走る。気付いた時には倒れている。そんな力に神経系を撃ち抜かれ、さしもの女も動けはしまい。そんなアストの、当然の思考は――

 

 

「だ、か、らっ! 軽いって言ったぁぁぁぁぁぁッ!」

 

 

 女の意地と気合を前に打ち破られる。この女傑の心を折るには、余りに全てが足りていない。

 攻撃を受けた。躱せなかった。防げなかった。だけど倒れない。そんな根性論に覆される。倒れぬままに、女は立っている。

 

 どころか、女は立って歩くのだ。全身の神経を射抜かれて、倒れて然るべきだろうに立ったままに歩くのだ。

 意味が分からない。訳が通らない。一体如何なる道理で以って、悪魔の王すら地に伏す力に耐えると言うのか。

 

 

「分からない。分からない。分からない」

 

 

 想いの強さで勝っているから。魂の強度で勝っているから。だから相性が悪くても、倒れるなんてありはしない。

 そうと言わんばかりの強さで、揺るがず進み続ける女。既に全身血に塗れて、されど地には屈せぬ女。そんな紅蓮の意志を前にして、アストの心が酷く搔き乱されていく。

 

 その理屈が分からない。その道理が分からない。その感情が理解する事すら出来はしない。

 故に恐怖した。その強さに憧憬を抱いた。そして何処までも困惑した。だからこそ、千路に乱れる心の儘に再び少女は咒を紡ぐ。

 

 

「アクセス、マスターッ!!」

 

 

 少女は頼る。少女は縋る。それしか分からぬから、それしか出来ぬから、拒絶の為にアストは頼る。

 己の主たる魔群へ。魔群が作り上げた悪夢の世界へ。そして己の魂に焼き付いて離れない、母の炎が残影に。

 

 

幸いなれ、義の天使(Slave Uriel, )大地の全ての生き物は、(nam tellus et omnia )汝の支配をいと喜びたるものなり(viva regno tuo pergaudent)

 

 

 アリサは既に血だらけだ。アストは未だ無傷である。だが互いの精神は、肉体の消耗とは真逆。

 燃え上がる炎の意志は途絶える事がなく、アリサの心は折れてなどいない。恐怖に縛られ悪夢に囚われているアストは、最初から心が折れている。

 

 どちらが追い詰めているのか。それは最早明白だろう。追い詰められた少女は此処に、己の中の至高に縋る。

 その理由は分からずとも、最も強いと感じる力。事実が如何であるかなど関係なく、それでも確かに一番信を置いている力。

 

 

さればありとあらゆる災い、(Non accedet ad me )我に近付かざるべし(malum cuiuscemodin)我何処に居れど、(quoniam angeli sancti )聖なる天使に守護される者ゆえに(custodiunt me ubicumeque sum)

 

 

 これこそが、聖なる炎。地上に落ちた太陽は、記憶に残らぬ母の残影。故にこそ、アストが最も頼りとしている熾天使。

 この炎を見れば安心できる。この炎を見ていれば安定できる。この炎があるならば、きっと負ける事はない。この炎はまた、己を救ってくれるから。

 

 

「斑の衣を纏う者よ、AGLA――来たれ太陽の統率者!!」

 

 

 アストは悲鳴を上げる様に叫びながら、その力を行使する。振り下ろされる太陽を前にして、アリサは静かにその火を見詰めた。

 

 

「……そう。これが、アンタが見ていた私の姿、か」

 

 

 一目で分かる。直ぐ様に理解した。この炎が何を求めているのか、アリサに分からぬ理由がない。

 紅蓮の炎に憧れた。そんなアリサが引き取った一人の娘は、炎に焦がれる女が見せた炎に憧れていたのだ。

 

 其処に在りし日の幸福を無意識に重ねて、全てを忘れた今になっても心の支えとした。

 その炎。その太陽。小さな少女を支える芯と言うべき力が、軽い気持ちの筈がない。落ちて来る太陽は、正しく天の裁きである。

 

 炎に燃やされて、聖なる太陽に焦がされて、アリサ・バニングスは無傷ではない。

 ラファエルの風に傷付けられて、ガブリエルの水に浄化され、其処にウリエルの炎である。無事で済む道理がない。

 

 それでも、だとしても――

 

 

「温いわっ! 馬鹿娘っ!!」

 

 

 所詮これは己の残影。彼女が縋った偽りの自己。真実であるこの我が、敗れて良い理由がない。

 故に炎に包まれて、されどアリサは喝破する。全身を炎に焼かれながらに、意志を持って我を告げる。

 

 そうして女は、己を示した。唯それだけの行動で、彼女を包む炎は消し飛んだのだった。

 

 

「あ、あぅ、あ……」

 

 

 遂に切り札も打ち破られた。金髪の女は傷付きながらに、それでもその歩は止まらない。

 ゆっくりと歩み寄る姿に、アストは只管に恐怖する。切り札としていた力も破られ、ならば己に何が出来ると言うのか。

 

 熾天使以外の力では、届く様には思えない。機動六課の力を写したとしても、この女傑を止められる気がしない。

 手札はそれこそ無数にあるのに、どの手札も通らないのではないかと思えてしまう。それ程に少女の目から見て、アリサは余りに大きかった。

 

 

「……なん、で?」

 

 

 恐怖し、困惑し、対策を思考する。空中を逃げ回りながらに考える幼子は、其処で漸くに気付いた。

 それは一つの事実。何が最も通じるかと考えて、それで気付けた一つの真実。考えてみれば、当然に過ぎるその疑問。

 

 

「何で、反撃、しない、の……?」

 

 

 アリサ・バニングスは、何故攻撃をしないのか。至った疑問はそれである。感じた違和はそれだった。

 女は攻撃を受けるだけだ。回避も防御もせずに、反撃すらしないで受け切って進むだけ。それだけしかしないのだ。

 

 それこそ此処は彼女の宙だ。一瞬で全てを焼き尽そうとすれば、アストを止める事など簡単だろう。

 そんな事、アリサが分かっていない筈がない。故に零れたアストの疑問に、アリサ・バニングスは己の意志を此処に返した。

 

 

「ふん。馬鹿娘が……そんなの、決まってるでしょうが」

 

 

 攻撃をしない理由など決まっている。防御も回避も、そんな事は必要ないのだ。

 全てを受け切ると決めた。受け切って連れ帰ると決めた。だからこそ、それ以外など必要ない。

 

 この決闘場を開いたのは、少女を逃がさぬ為にのみ。元よりそれ以外に、使う意志などありはしないのだ。

 

 

「このアリサ・バニングス! 娘を突き刺す剣なんて、持っていないわッ!!」

 

 

 アリサの目的は唯一つ。ヴィヴィオを連れて帰る事。ならば当然、攻撃なんて必要ない。

 子供の駄々を前にして、受け切ったのもそれが故。小さな子供が何か伝えようとしているのだ。其処から逃げるは、無粋であろう。

 

 故にこそのノーガード。少女が抱いた想いを受け切り、少女を縛る悪夢を踏み躙り、そして彼女を取り戻す為に進んでいるのだ。

 

 

「っ!? なんで、どうして、分からない分からない分からない」

 

 

 そんな女の拘りを、少女は理解する事が出来ない。彼女の胸に宿る誇りと言う感情を、アストが理解する事はない。

 それでも圧倒される。その想いの量に気圧される。勝てない。勝てる訳がない。そんな風に思考は結論を出して、少女は此処に硬直した。

 

 

「言ったでしょうが、帰るわよって」

 

 

 硬直したアストに向かって、アリサ・バニングスは進んでいく。

 一歩、一歩、また一歩。大地を歩いて進む歩は、決して揺るがず止まらない。

 

 伝えるべきは一つだけ、言うべき言葉が確かにあるのだ。

 この怯えて泣いている娘に向かって、アリサが語るべきは一つだけ。

 

 

「怯えて泣いてる暇があったら、とっとと帰って来なさい。この馬鹿娘ッ!」

 

 

 女の啖呵を前にして、少女の心が確かに動く。硬直した少女は此処に、確かに揺り動いていた。

 

 

 

 魔鏡アストは、確かに壊れた。その芽生えたばかりの魂は、膨大な量の死者によって潰された。

 そうして出来たのは、割れた鏡だ。主に従うだけの人形だ。それでも一度壊れたら、治らないと言う理屈はない。

 

 最初に彼女を動かしたのは、アミティエと言う名の少女。その意志の強さに押し負けて、取り戻したのは小さな情動。

 壊れた人形が、少しだけ変わった。あの日あの時あの瞬間に、アストは少しだけ人に近付いた。心が確かに揺れ動いたのだ。

 

 次に彼女を動かしたのは、ウーノ・ディチャンノーヴェと言う女。失った子の代替に、少女に母性を向けた者。

 壊れた人形が、また少しだけ変わった。小さな情動を育まれて、ほんの少しだけ人に近付いた。心が確かに揺れ動いたのだ。

 

 最後に彼女を動かしたのは、皮肉な事に今の主だ。魔群クアットロ=ベルゼバブこそが、少女に消えない恐怖を刻んだ。

 壊れた人形が、震えて怯える子供に変わった。心が大きく揺れ動いて、確かに人に近付いた。生きていたいと、想えたのだ。

 

 

「でも、けど、私は――」

 

 

 そして、この女との再会。記憶にないけれど、心に残った存在との遭遇。それが、最後の一押しとなった。

 その強い想いに晒されて、少女は更に人へと近付く。心は確かに育まれていて、最早唯の傀儡とは言えない者だろう。

 

 だがそれでも、だからこそ、少女は此処に答えを導く。帰って来いと言う人が、今になっても誰だか分からぬから、だから少女はこう返す。

 

 

「ヴィヴィオは作り物で、アストも壊れて、なのに、だから、どうして――」

 

 

 アストはもう居ない。ヴィヴィオなんて、最初から居なかった。だから、帰る場所なんてない。

 拒絶しても無駄だと分かったから、だけど素直に抱きしめられても良いとは思えなかったから、少女は呟く様に口にする。

 

 そんな彼女へと向けて、近付いていた女は鼻を小さく鳴らした。この焔の女傑が伝えるべきは、やはりたった一つであるのだ。

 

 

「ふん。馬鹿娘が、一体何度、馬鹿って言わせんのよ」

 

 

 この娘は大馬鹿者だ。理由を付けて、理屈を付けて、帰れないと口にする。

 本当に手間を掛けさせる。余計な事ばかりさせてくれる。だから子供は嫌いなのだと、だからこの子は――余り嫌いにはなれぬのだと。

 

 

「ヴィヴィオは作り物? だからどうした。アストが壊れた? なら今のアンタは何なのよ」

 

 

 一歩、近付く。言葉と共に血を流しながら、それでも揺るがず一歩を近付く。

 見詰める瞳もまた揺るがない。彼女の双眸に映るその人物は、誰であろうと変わりはしない。

 

 

「けど、どうだって良いのよ。そんな理屈、どうでも良いの。知るもんか、そんな事」

 

 

 どうでも良いのだ。知った事ではない。この馬鹿娘が抱える懊悩など、アリサにとっては取るに足りない。

 ヴィヴィオであっても、アストであっても、どっちでも良い。そんな事は重要な事ではないのだ。真実はたった一つ、それさえ揺るがなければどうでも良い。

 

 

「アンタが私の娘で、私がアンタの母親である。揺るがない真実はそれ一つで、それだけあれば十分でしょうがッ!」

 

「――っ!?」

 

 

 啖呵を前に動揺する。そんなアストへと向かって、アリサは一気に踏み込んだ。

 彼我の距離はもう後僅か。故に足の裏で爆発を起こして、一息に跳び込み飛び上がる。

 

 腕を伸ばせば、もう届く距離へと。向かって来る女の腕に、アストはその瞳を閉ざす。

 頬を叩かれる様な痛み。心の芯を揺るがせる様な衝撃。そんな物を幻視して――しかし、訪れた感覚は違った。

 

 

「――え?」

 

 

 困惑する。混乱する。訳も分からずに口にする。気付けば女に、抱き締められていた。

 アリサ・バニングスの腕の中。抱き締められて、見上げた瞳。映り込むのは、何処までも優しい色だった。

 

 

「ほら、帰るわよ。ヴィヴィオ」

 

 

 抱き締めて、その頭を撫でる。優しく壊れ物を扱う様に、不器用な手付きで撫で回す。

 抱き締められた少女は此処に、只管に困惑している。けれど胸に湧き上がる感情は、唯それだけではなかったのだ。

 

 

「叱るのは、後で。怒るのも、後回し。それは今は、必要ない」

 

 

 混乱した少女に向かって、アリサは優しく微笑みながらに想いを伝える。

 帰って来なかった馬鹿な娘に、しかし必要なのは鉄拳での制裁ではないのだ。

 

 

「だって、辛かったんでしょう。分からなくても、苦しかったんでしょう。だったら、叱るより前にする事がある。怒るよりも前に、しないといけない事がある」

 

 

 泣いている子供を泣き止ませる為に、その頬を張り飛ばして黙らせるのは間違いだ。

 怯えて怖がっている子供に向かって、怒気と共に拳骨を振り下ろすなんて過ちだろう。

 

 今必要なのは、安心させてあげる事。お帰りなさいと口にして、慈愛を与える事だとアリサは思うのだ。

 

 

「だから、今は一緒に帰りましょう。一緒に帰って、一緒にご飯でも食べて、一緒にお風呂に入って、一緒に寝ましょう?」

 

 

 怖かった筈だ。辛かった筈だ。そんな境遇に陥る事なんて、きっと望んでいなかった筈なのだ。

 だから、よく頑張ったねと伝えて上げる。その想いを全て受け止めて、迎えに来たよと教えて上げる。

 

 それがアリサ・バニングスの、母親として為すべき選択だったのだ。

 

 

「ねぇ、ヴィヴィオ。……少しは、母親らしい事させて頂戴」

 

 

 見上げる少女の瞳から、溢れる様に涙が零れる。抱き締められた胸に感じる優しい熱に、その心が確かに震えていた。堰を切った様に溢れ出した雫が、想いと共に流れ続けた。

 

 この変化は確かに、間違いなく良い事なのだと断言出来る。魔鏡と呼ばれた反天使は、此処から始まっていけると信じている。

 

 だから、今は――

 

 

「今は泣きなさい。全部全部、吐き出しときなさい」

 

 

 溜め込んだ全ての想いを、此処に吐き出すのだ。それがきっと、新たに始める為に必要な事。

 辛さも苦しさも寂しさも、全て全て受け止めると約束する。泣きじゃくる少女を抱き締めて、慈母の笑顔でアリサは言った。

 

 

「大丈夫。お母さんは此処に、アンタと一緒に居たげるからさ」

 

 

 抱き締めた熱に、確かに誓う。胸を濡らす幼子の涙を前に、確かにアリサは心に誓った。

 今度は奪わせない。今度こそ取り零しはしない。今度こそはこの子を必ず護り通して見せるのだ。

 

 何故ならば、腕の中に居る小さな命は――この己の大切な娘なのだから。

 

 

 

 

 






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