リリカルなのはVS夜都賀波岐   作:天狗道の射干

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楽土血染花編の別名は、氷村遊の(負の)遺産編。

因みにこの世界線でのとらハ1は、さくらルートを軸に他キャラのエピソードが少し混ざった感じのをイメージしています。


楽土血染花編第二話 憎悪と悪徳と

1.

 音も立てず空へと。浮かび上がって、その身が黒に染まっていく。まるで光さえも飲み干す闇夜の様に、それは何処までも深く暗い黒。

 漆黒の外皮を彩るは、鮮血の如き赤。赤熱したかの如くに染まった赤い髪。憎悪に染まった真紅の瞳。僅か二色の色調へと、変貌した女は己の怨敵を見下ろす。

 

 ガラリと音を立てて、瓦礫の山が崩れ落ちる。その瓦礫は月村邸だった物。数億年と言う時の流れに抗えず、崩れ落ちた残骸だ。

 その邸宅の跡地にて、女は一人立ち塞がる。夜に溶け込む様な紫色の髪。青い瞳を赤く染め上げ、月村すずかは唯不動。見下ろす巨大な敵を見上げていた。

 

 

(この女が――無限蛇の盟主)

 

 

 先に示された名乗りを、己の内で反芻する。無限蛇の盟主。夜の一族連続襲撃事件の犯人にして、すずかにとっては父母の仇。

 そんな女を、すずかは何も知らない。菟弓華の存在も、彼女が動く理由も当然知りはしない。それでも一つ、この瞬間にも理解している事がある。

 それはこの女が余りにも、強大に過ぎると言う事実。理屈でなく、直感的に感じ取る。これは余りに外れている。人の形をしてはいるが、その存在規模は人ではないと。

 

 

(……まるで、夜都賀波岐を相手にした時みたいな感覚。この女は、もう既に一つの異界だ)

 

 

 この女は一つの異界だ。単独で、単一宇宙規模に到達している。人型をした法則なのだ。

 その身が宿した法則。それは闇と言う一色。覇道神の内なる世界の一つの事象を、司るその眷属。

 神の細胞。覇道神の肉体片。高密度の霊的存在。今の菟弓華と言う女は、影と夜との集合体。人型をした人間外。彼女は正しく闇なのだ。

 

 それもこの星全ての夜ではない。この星全ての影ではない。そんな物では済まない。その程度ではまるで全てが足りぬのだ。

 全次元世界に流れ出している天魔・夜刀。その最後の眷属にして、夜と影を統べる女。弓華はこの星全ての闇ではなく、次元世界全ての闇である。

 

 その総体は、全次元世界に影響を及ぼす程に大きい。この星に入りきらない程に、余りに巨大が過ぎるモノ。

 間違いなく、この女は反天使よりも格上だ。無限蛇の盟主と語った言葉に偽りなどはなく、無限の蛇に残った者らで最も強大なのは彼女であった。

 

 全てを一瞥で理解出来た訳ではない。その全貌を見通す天眼などは持ってはいないのだから、所詮は感覚的な物に過ぎない。

 それでも、錯覚かもしれないなどとそんな楽観的な思考はない。その力量を見誤ろう筈がない。肌に刺す様な狂気の気配それだけで、これが己より強いと感じていた。

 

 

(怒りに任せて無暗に動けば、先ず間違いなく勝機はない。それ程に感じる。実力の差)

 

 

 父の仇と、母の仇と、一族の恨みを晴らすのだと――そんな情に身を任せて、無策に動けば確実に詰む。

 故に思考を冷静に、感情を押し込め推し測る。敗北は許されない。背後に守る者があればこそ、此処での敗北などは許容できない。

 

 理由は分からねど、瞳を見れば理解が出来る。遥か高みに居る怪物は、見下ろす瞳を憎悪の一色に染めているのだ。

 夜の一族。それを滅ぼさんとする脅威。此処で月村すずかが敗れれば、その手は地下にて待つ忍と雫に向かうであろう。それを許す訳にはいかぬのだ。

 

 故に赤い夜の下、月村すずかは力を示す。強大なる闇を打ち破らんと、受け継いだ力の一部を解放した。

 

 

形成(イェツラー)――闇の賜物(クリフォト・バチカル)

 

 

 女は己の両腕に、魔力を纏って形成する。己の血肉を引き裂きながらに、展開されるは滴り落ちる黒血の杭。

 纏わり付いた黒き茨も相まって、まるで薔薇の棘の様。鋭い棘が生え揃ったその両手を、後退しながら大きく振るう。

 腕の動きに合わせる様に、血の黒は空を切って飛翔する。次から次へと降り注ぐ血の杭は、宛ら機関銃の如き破壊の雨へと変わり敵を討つ。

 

 

「Gloria virtutem tamquam umbra sequitur」

 

 

 しかし、通らない。それは届かない。当たると思った瞬間に空が揺らめき、降り注いだ雨を飲み干した。

 夜闇に溶けて消え去る様に、血杭は影も形も残らず何処かへと。そうと思ったのは一瞬で、瞬き直後にそれに気付く。揺らめく影が反転して、其処から破壊の雨が跳ね返っていた。

 

 

「っ!? 形成っ!!」

 

 

 咄嗟に次の杭を展開して、自分が放った力を迎撃する。空中で打ち合った杭が相殺する光景に、すずかは僅か困惑する。

 一体何をされたのか、一体どうして己の力を跳ね返されたのか。それが分からず、混乱したまま距離を維持する。そんなすずかへ、闇はゆっくりと迫っていた。

 

 まるで広がり続ける夜の帳が如く、侵食する様に迫る闇。近付く脅威を前にして、再びの形成射撃。

 血杭の雨はしかし、やはりそのまま跳ね返される。蹈鞴を踏んで迎撃しながら、月村すずかは分からぬままに理解した。

 

 

(形成じゃ、通じない。なら――)

 

 

 あれは形成した杭を跳ね返す。その反射能力の本質が分からずとも、杭が反射されると分かっていればそれで良い。

 杭で駄目なら攻め手を変える。それが出来る事こそ、純粋な聖遺物の使途ではない女の強み。彼女は前代の力を引き継いだ者であるのと同時に、この時代の魔導師でもあるのだから。

 

 

「スノーホワイト! 氷の歌っ!!」

 

 

 両手にデバイスを展開し、次いで放つは極寒の嵐。魔力によって発動するは、季節外れの猛吹雪。

 凍れる風が闇の進路を阻まんと、暴れ狂うかの如くに吹き荒れる。殺傷設定の広域魔法は、唯人であれば数度は死ねる程であろう。

 

 だが、敵は強大だ。これで仕留められるなど、そう思う事自体が侮りと感じる程に。

 ならばこの一撃は、敵の力の質を探る為。跳ね返されるのは杭だけなのか、それとも魔法も然りであるのか。

 

 

「Gloria virtutem tamquam umbra sequitur」

 

 

 極寒のブリザードは吹き荒れるまま、闇に飲まれて跳ね返る。予想に反さぬその光景に、即座にすずかは後退した。

 一歩、二歩、三歩。後方へと退く女の足元が、音を立てて凍っていく。それでも止まらぬ寒波を氷の盾で遮りながら、すずかは確かに理解した。

 

 

(形成も、魔法も無駄。だとすると、そもそも遠距離攻撃が通じない? 本当に、厄介な能力だね)

 

 

 反射の影響は杭だけではなく、魔法も同じく無駄だった。その事実に舌打ちがしたくなる程に、苦い感情を持て余しながらに思考する。

 恐らくはこの相手に、遠距離攻撃など意味がない。影が生まれる形ある物では、この闇には届かない。ならば一体、何を為せば対抗できるか。

 

 

(接近戦? けど、それも跳ね返されたとしたら……。なら賭けに出るより前に、本質を暴く方が先だ)

 

 

 防ぎ難い吹雪よりも、迎撃しやすい杭を選択。二度三度と今度は単発ずつを飛ばしながら、跳ね返る瞬間を観察する。

 手探りに、場当たりに、相手の力を暴いていく。杭が闇に当たった瞬間、揺れる様に飲まれて別の場所から戻って来る。その光景に、すずかは少しずつ当たりを付け始めていた。

 

 

(反射の瞬間、力の増減が存在してない。詰まり、これは特別な異能じゃなくて、体質みたいなモノ?)

 

 

 力の反射。跳ね返って来た黒き杭の雨は、影を通して移動しただけ。あらゆる影は弓華の肉体であればこそ、全ては此処に繋がっている。

 其は表裏一体の影。これは特別な異能に非ず。闇そのものである怪物にとってすれば、鼻から吸った空気を口から吐き出した事と同義。ワームホールの如く、全身がこれ即ち入り口であり出口であるのだ。

 

 

(なんて反則。影がある限り、アレは突破できない。接近しても同じ、あの闇を突破できない限りはどうしようもない)

 

 

 例えば敵の内側から、直接干渉出来る様な仕込みがあれば別だっただろう。初恋の天使(メタトロン)の様に、アレの中に干渉出来る術があれば違っていた。

 或いは敵が纏う闇を全て、根こそぎ吹き飛ばせる様な力の量があれば違っただろう。死人の城に支援を受けて、自滅の特性を制御して、それさえあれば対抗出来た。

 

 だが、今のすずかにはどちらもない。故に嘗ての神座世界で起きた、吸血鬼と闇の戦いの再現となりはしない。

 カズィクル・ベイの魂だけでは、世界法則の一部は倒せない。その全てを引き継げていないすずかでは、まるで届きもしていない。いいや、そもそも、もう彼の吸血鬼の存在は――

 

 

「――っ」

 

 

 跳ね返される杭を迎撃しながら、ふとした瞬間に眩暈を感じる。何かが喰われている様な、そんな感覚に吐き気を覚えた。

 目の前の女か? いいや違う。霞む意識と擦れる視界は、彼女が現れるよりも以前から。微かに垣間見えた内面世界は、荒れ果てて草木一本生えていない庭園跡地。

 

 

「考え事なド、お前にスる暇があると思ッたカ?」

 

「くっ!?」

 

 

 立ち眩みによろめいて、しかし思考に浸る余裕などはない。闇が腕を振るった瞬間、すずかの足元にある影が獣と変わった。

 闇の獣が襲い来る。人間など丸呑みにしてしまう顎門が迫り、すずかは咄嗟にそれを迎撃する。無数の杭が貫いて、獣の首を大地に縫い付けた。

 

 襲い来る獣は一頭だけではない。目に見える影の全てから、次々に出現して牙を剥く。

 彼女が口にした様に、この今に思考に耽る余裕はない。一瞬垣間見えた光景を思考の片隅に追い遣ると、すずかは魔法を展開した。

 

 

「ブリザードクロウッ!!」

 

 

 熊手の如く伸びた氷の爪が、迫る無数の獣を切り裂き凍らせる。凍結された残骸は、霧散し影へと戻っていく。

 されど影に戻ったならば、再び獣となるのも道理。まるで無尽蔵と思わせるかの如く、切り裂く数に限などない。

 

 一、二、三、四。瞬く間に積み上がる死骸は、すぐさま影と言う次の苗床に変わってしまう。

 十、二十、三十、四十。振り回す腕が数を減らしていくが、間引ける量より増える量の方が多かった。

 五十、六十、七十、八十。気付けば数は百をも超える。振り回す腕に重みを感じる程に、それだけ疲弊してもまるで数が減ってはくれない。

 

 

「氷の歌!」

 

 

 腕を振るうだけでは手が回らぬと、纏めて消し去る為に極寒の吹雪を展開する。

 吹き付ける嵐は全ての獣を消し去って、されどやはり闇に飲まれる。飲み干す影は揺らめいて、再びそれを吐き出した。

 

 

「Gloria virtutem tamquam umbra sequitur」

 

 

 影の獣を一掃する為に、放たれた吹雪は全力攻撃。なればこそ、その直後の隙は殺せない。

 力を出し切って生まれた隙に、己の全力を反射される。吹雪はその身に直撃し、一瞬の内に女の身体を凍らせた。

 

 そして、迫る闇の圧力。蠢く影に押し潰されて、凍った女の身体が砕けた。

 

 

「アァァァァァァァァッ!?」

 

 

 甲高い悲鳴と共に、氷の彫像と化した血肉が砕け散る。手足を失くした女は崩れる様に倒れ込み、闇は其処に追撃を仕掛ける。

 蠢く影は獣と化して、砕けた女に群がっていく。貪り尽くして殺してやろうと、影の獣が吠えると同時に――夜空に浮かんだ赤き月が、更に深く輝いた。

 

 

「ちっ」

 

 

 直後、主の危機に簒奪の力がその威を高める。群がる獣たちが月に喰われて、その主へと力を注ぐ。

 急速に敵の力を奪い取り、女の傷を塞いでいく。砕かれた手足が新たに生えて、茨を纏った女は立ち上がる。

 

 この異界にある限り、吸血鬼は正しく不死に程近い。単純に死に難い事、それがすずかの最大の強みであった。

 

 

「……生き汚イ害虫が」

 

 

 闇を照らし出す月の簒奪を、闇の衣は防げない。何故なら月は夜にあるモノ。例え朔の日であろうとも、月は必ず其処にある。

 夜である限り、この月は無くならない。何処に転移させたとしても、無くならなければ影を貫き影響を与えて来る。死森の薔薇は、防げないのだ。

 

 この格の差で、辛うじて戦闘が成り立っている理由がそれだ。格差を埋める相性差。死森の薔薇騎士の簒奪が防げない為に、これは一方的な蹂躙とはならぬのである。

 

 

「はぁ、はぁ、はぁ」

 

 

 僅か一時の交差。ほんの数分にも満たぬ攻防。荒い呼吸を整えながらに、月村すずかは立ち上って構え直す。

 戦力差は明確で、真面にやれば戦いにならぬ程。それでも相性の差は、それ程に悪くはない。故に足下へと、手を伸ばす程度は可能である。

 

 思考を纏めて、呼吸を整え、そして意識を切り替える。敵の性質は理解した。

 真面な攻撃は通じず、接近するのも危険である。だがそれでも、この闇は決して無敵じゃない。

 

 薔薇の夜が通じるならば、それを基点に戦術を組み立てれば良い。他の全てが通じなくても、一枚手札が通るならば十二分。

 今の女にとって、打てる術は二つある。一つは遠距離が通じぬと見切りを付けて、一気呵成に突っ込む事。死森の生命簒奪に全てを任せた、ある種賭けの様な戦法。

 それが一つならば、もう一つはこのまま牽制を続ける事。先の一手は敵の本気を出させぬ為に、積極的に妨害を仕掛けると言う危険手。ならばこの対抗策は、消極的な安全策だ。

 

 死森の薔薇騎士。赤い夜が持つ最大の強みは、持久戦での凶悪さ。この夜が展開され続ける限り、己は回復し敵は弱体化し続ける。

 それを妨害される事なく、通せると言うなら最大効率での使い方こそ最適解。この夜を長く展開すればするだけ、時間を稼げば稼ぐだけ、すずかの勝機は上がり続ける訳なのだ。

 

 されど――

 

 

(そんな消極的な方法論で、勝てるなんて思わない)

 

 

 理屈で考えるならそれが正答でも、感覚がそれでは駄目だと言っている。引き継いだ記憶の一部が、そんなやり方では無理だと告げていた。

 だが、だからと言って突っ込むなどは論外だ。敵の底は未だ暴かれてはおらず、近付けば何があるか分からない。そんな現状で、全賭けなんて女は出来ない。

 

 故にこそ、女に出来る対抗手段は折衷案。距離を取ったままに、積極的な妨害を仕掛けると言う方法だった。

 

 

「枯れ堕ちろォォォォォッ!!」

 

 

 腹に力を入れて、雄叫びを上げる。薔薇の夜に新たな夜を更にと重ねて、血染花の多重展開。

 運気も生命も全てを吸い尽くして見せるのだと、何一つとして残しはしないと、赤き月がその輝きを増していた。

 

 

「――っ」

 

 

 纏った闇をも貫いて、命を吸われる感覚に弓華は歯を噛み締める。増えていく夜の出力に、さしもの女も平然としてはいられない。

 このままこれを通したならば、如何に力の差があろうとも盤面返しをされるであろう。元より白貌の力はそういう物。その本質は格上殺しだ。

 

 

「Fortes fortuna adjuvat」

 

 

 これをこのまま通せぬと言うならば、真っ向から打ち破るより他に術はない。

 持久戦など論外だ。月村すずかは生存力に特化している格上殺し。対する菟弓華には、明確な時間制限が存在しているのだから。

 

 故に、女は此処に夜を重ねる。闇を集めて、時を集わせ、黒き極光を生み出した。

 

 

「Magna voluisse magnum」

 

 

 呪言を口にする動作だけで、この島国など消し飛んでしまう。そう思わせる程の力の集束。

 数億年分の星の光。その全てを一点に収束させて、放たんとされる黒きオーロラ。その発動を止める術を、月村すずかは持ちえない。

 

 

「消え去レ。夜の一族ッ!」

 

「っっっっっ!?」

 

 

 直上へと放たれたのは、正しく星を滅ぼす力。惑星破壊規模の光が狙い穿つのは、天に輝く赤き月。

 

 赤い月が砕かれる。夜の帳が打ち破られる。死森の薔薇は消し飛んだ。

 月を砕かれ、世界を壊され、月村すずかは内側から弾けて飛んだ。

 

 

「か、はっ」

 

 

 覇道創造による異界とは、展開者にとっては体内の様なモノ。それを力尽くで壊されたのだ。この結果も当然の事。

 内側から腸を引き裂かれて、弾け飛ぶ様に砕けた女の器。中から外へと飛び出した肋骨が、周囲を染める血の海が、何より明確に示している。

 

 月村すずかは、敗北したのだ。

 

 

「はぁ、はぁ、はぁ。……少し、疲れタよ」

 

 

 砕けて崩れた女を見下し、黒き闇は口にする。その呼吸の荒さが示す様に、女の疲労は濃厚だ。

 荒い呼気を吐くのと同時に、その頬に亀裂が走る。すぐさま闇で修復させるが、今度は別の場所に亀裂が走った。

 

 それは血染花によるダメージ、だけではない。菟弓華は最初から、既に限界が近かったのだ。

 何故ならば、菟弓華と言う女は小さ過ぎる。そして彼女が手にした力は、その存在に比して大き過ぎた。

 

 闇と言う肉体を動かすのに、弓華と言う心臓ではサイズが足りぬのだ。

 なればこそ、女は彼の狂人にとっては失敗作。相性が悪いとは言え格下相手に、こうまで疲弊した事こそがその証明だ。

 

 

「デモ、これで、終わりネ。後三匹、それデ終わるネ」

 

 

 それでも、もう大丈夫。夜の一族の殲滅は、この命を繋いでいられる間に終わらせられるから。

 月村すずかは落ちたのだ。残るは床に伏せる女と小さな赤子。そして、あともう一人。それさえ壊せば、それで終わりだ。

 

 

「漸く、世界は綺麗になるヨ。ねぇ、火影」

 

 

 夜の一族を終わらせる。そうすれば、世界はきっと綺麗になる。そんな妄執に憑り付かれた女は、己の醜悪さにも気付かない。

 生まれたばかりの赤子を殺そうとしている。子を産んだばかりの女を殺そうとしている。それを絶対的に正しいのだと、盲目的に信じている。

 

 何処までも醜悪な言葉を満面の笑みで紡ぎながら、弓華はゆっくりと近付いていく。

 崩れて倒れた女に向かって手を伸ばし、その命を確実に刈り取ってくれようと――

 

 

「すずかお嬢様っ!」

 

「御神流・虎切ッ!」

 

 

 だがそこで、それを良しとしない者らが動き出す。倒れた女にとっての身内は、すずかの死を認めない。

 彼女の危機を理解して、安全圏より飛び出した。そんな二人はほぼ同時に、その手に握った武器を振るう。

 

 機械の女が機関銃を、剣士の男は飛ぶ斬撃を。接近戦が危険だと、近付く事も出来ぬからと、行うのは遠距離からの妨害だ。

 銃弾の雨と真空の刃。断ち切るそれらを闇で受けて、別の場所から吐き捨てる。反射はさせず、人は傷付けず、菟弓華は人間達を睨み付けた。

 

 

「……邪魔を、しないデ、下さイ」

 

 

 狂気のオーラを抑え付け、闇を鎮めながらに女は語る。彼女にとって敵となるのは、夜の一族のみである。

 それ以外に手を出せば、それこそ終わりだと自覚がある。その一線を守る事だけが、女に残った矜持であった。

 

 

「見逃してやっていると、知って下サイ。邪魔ナンデすヨ。人間は、傷付けタクないネ」

 

 

 愛した人が居た。愛された時があった。無残に壊された今となっても、大切な想いは残っている。

 女にとって、人に手を上げると言う事はその想いを否定する事と同義。なればこそ狂いながらに、最後の理性で其処を退けと口にする。

 

 ましてや、女はこの男を知っている。男はその変貌故に気付いていないが、女は今も覚えている。

 同僚であり、同じ地獄に堕ちていた女。御神美沙斗を仲介して、幾度かの面識があったのだ。故にこそ、殺したくはないと思ってしまう。

 

 そんな女の言葉を受けて、しかし恭也は刃を握る。見逃すと語る強敵を前にして、それでも退けぬ理由が男にはあった。

 

 

「それでも、お前は夜の一族を殺すのだろう」

 

「アレは害虫ですヨ。人の生き血を啜る寄生虫。一匹残らズ、潰さなケレバいけない、デス」

 

「俺の娘も、か?」

 

「愚問。害虫の血が混じッたナラ、根こそぎ処分しナイと駄目よ」

 

「……それなら、十分。お前は、俺の敵だ」

 

 

 男は既に父親なのだ。生まれたばかりであったとしても、守るべき娘が居るのだ。

 男は既に夫であるのだ。今も床に伏している妻が後ろに居て、どうして無様に逃げ出せよう。

 

 

「人間を殺さぬ事に矜持を持つなら、精々その拘りを捨ててくれるな。……それだけで、お前の邪魔が出来る訳だしな」

 

「…………」

 

 

 震え戦くのは止めろ。無様に逃げ出す事はするな。男の矜持と理解しろ。

 刀を手にした高町恭也は、決して勝てぬ敵を前にしても揺るがない。その背にある最愛こそを、失ってはならぬと知るからだ。

 

 その男の瞳に理解する。揺るがぬ意志に納得する。そして何処までも悲嘆した。

 妻子を守ろうとする意志。それは人として素晴らしい。男として相応しい。相手が、夜の一族と言う化外ですらなかったならば。

 

 そうとも女にとって、夜の一族とは存在すらも許せぬモノ。人に憑り付き、堕落させて破滅させる寄生虫。

 高町恭也の意志の強さに感嘆すればする程に、その在り様が悲しくなる。良き人物が吸血鬼たちの食い物にされているのだと、女にとってはそれだけが瞳に映った現実だった。

 

 

「……お前モか、自動人形」

 

「貴女に何の理由があるかは知りませんが、その行いは許せません。お嬢様方の敵は、私の敵だ」

 

 

 そして視線を移した先、問い掛けた言葉に返る答えを弓華は既に悟っていた。

 所詮は歯車で動く人工物。人形は繰り手の意志に抗えぬのだと認識して、返る言葉にさもありなんと納得する。

 

 そんな女は、やはり気付かない。この人形の目に宿った、意志の光を見ようとすらもしていない。

 見られないのだ。見詰めたくない。だって理解してしまえば、彼女の根幹が崩れ落ちる。呪詛と憎悪に依っているから、女は此処に生きていられる。

 

 

「はぁ……本当に、夜の一族は害虫ネ。こうモ、人を惑わセる。やっぱり、駆除しナイとイけないヨ――」

 

 

 妻子を守る男は、吸血鬼の操り人形。吸血鬼側に愛はなく、彼は一人で空回りしているだけ。そうに決まっているし、そうでなくてはいけない。

 機械の乙女の瞳に光などはなく、ましてや意志が芽生えるなどあってはならない。夜の一族は全てを堕落させるだけのモノ。何かを生み出す力なんて持ってはいない筈だから。

 

 それが女にとっての現実で、女にとっての認識だ。その妄執に取り付かれた女にとって、これは全くの善意である。

 

 夜の一族の駆除は世界の為に。この今に生きる人々の為にこそ。もう居なくなった愛する人の為にこそ。

 我がやらねば。我が救わねば。憎悪と責任感が混ざった瞳は、混濁としたままに現実を何一つとして見てはいないのだ。

 

 

「疾っ!」

 

「撃ちますッ!」

 

 

 抜刀と銃撃。二つの意志を前にして、菟弓華は身動ぎしない。する必要すらありはしない。

 彼我の断絶は余りに大きい。彼らが如何に強き意志を持っていようとも、その力の差は覆せなどしないのだから。

 

 

「無駄ヨ。この闇を揺らスには、質量が足りないネ」

 

 

 影の衣を通り抜けさせ、衝撃を違う場所へと移動させる。闇の湖面は揺らいでも、その深奥には届かない。

 単純に質量が足りていない。純粋に相性が終わっている。これを打ち破らんとするならば、闇の影響を受けぬ相性か、世界全ての夜を滅ぼすだけの力が必要なのだ。

 

 そして、高町恭也とノエル・綺堂・エーアリヒカイトにそれはない。彼らはどれ程抗おうとも、この場においては無力であった。

 

 

「だから、寝てるヨ」

 

 

 闇の一塊を射出する。逃れられはしない様に、幾つも幾つも積み重ねる。

 その総数は五十万。この広大な月村邸ですら、埋め尽くされるその総量。面制圧に隙間はなく、ならば躱せないのは道理。

 

 

「ぐぅぅぅっ!?」

 

「恭也様っ!? きゃぁァァァァァァァッ!!」

 

 

 闇に飲まれる。夜に取り込まれる。天地前後も分からぬ闇は、日が明けねば消えない檻だ。

 嘗ての世界では、彼の終焉ですら脱出出来なかった闇の牢獄。その内側に封じられた以上、最早彼らは声を届かせる事すら出来はしない。

 

 

「全てが終わる迄、夜の中で迷っていてくだサイ。……全て、直ぐに終わリまスから」

 

 

 こうして、邪魔者は消え去った。妨害者はもう居ない。菟弓華は終わりを前に、微かな笑みを浮かべていた。

 そして女は中空より見下ろす。内側から身体を砕かれて、大地に中身をばら撒かれて、それでもまだ生きようとするすずかの姿を。

 

 

「っ、ぁ」

 

 

 ぐじゅぐじゅと、音を立てて塞がる傷口。少しずつ、周囲を喰らいながらに再生する肉体。

 その全てを、醜悪だと感じている。見るのも嫌だと眉を顰めて、それでも世の為にとその手を伸ばす。

 

 

「美貌デ、人の心を惑わス。快楽で、人ノ心を堕落させル。人の生き血を貪っテ、その生涯ヲ糧とスル寄生虫」

 

 

 菟弓華は生き残りだ。夜の王として君臨していた氷村遊。彼が作り上げた牧場で、蹂躙された被害者だった。

 餌である人間を増やす為に、その光景は陰惨だった。己に従わない家畜に対し、あの男が齎したのは余りに惨い現実だった。

 

 あの地獄の底で、女を犯した人間達。そんな彼らの多くもまた、氷村遊への恐怖が故に従っていた。

 守ろうとした男達は殺されて、使えなくなった女は処分されて、そんな地獄の底で弓華は確かに理解したのだ。

 

 夜の一族なんて寄生虫が居たからこそ、あんな地獄が生まれたのだと。

 

 

「お前達ハ、生まれて来た事が間違いダたヨ」

 

 

 吸血鬼など、その生態から狂っている。人の生き血を啜らねば生きられぬなど、それは寄生虫と何が違う。

 人の生き血を貪って、その生涯を食い物にして、己だけは長く生き続ける。何十年も美しく、素知らぬ顔で生きていく。

 

 その裏側で、どれ程の命が奪われたのか。その美しさの為に、どれ程の地獄が生まれたのか。ああ、本当に、何と悍ましい生き物だ。

 

 

「だから――滅びろッ! 夜の一族ッ!!」

 

 

 倒れたままのすずかに向けて、崩れ落ちた月村邸へと向けて、女は再び時を進める。

 既に人を巻き込む恐れはない。故にこそ、世界の時を加速させる。怨敵を此処に滅ぼさんと、悠久の夜が展開されて――

 

 

「弓華ッ!!」

 

 

 全てが風化するより前に、懐かしい声が届いていた。その音を耳にして、黒く染まった女は僅かに止まる。

 

 もう己の名を呼ぶ者など残っていないと、心の何処かで思っていた。闇に染まった今の自分に、気付ける筈がないと思っていた。

 

 だからこそ、それでも、胸に渦巻いたのは困惑と歓喜。その感情に弾かれる様に、力の行使を止めた女は振り返る。

 

 何時しか月村邸の門前に、停車している乗用車。その中から出て来たのは、少女の如きと言われた少年時代の面影を残した青年だった。

 

 名を呼んだ彼を知っている。その温かさを覚えていたのだ。

 

 菟弓華と言う女には、三人の恩人と言うべき人が居た。今になっても覚えている、大切な記憶が其処にはあった。

 

 一人の名を、御剣火影。壊す事しか出来ない弓華を愛して、共に居ようと願った恋人。誰より愛した唯一人。だけどもう、彼はこの世の何処にも居ない。己の目の前で壊された。

 

 一人の名を、野々村小鳥。己を友と呼び、日常と言う陽だまりを教えてくれた少女。皆に愛された少女であったからこそ、誰より真っ先にあの吸血鬼に狙われた。壁に咲く薔薇の光景を、今でも悪夢と刻んでいる。

 

 そして、最後の一人。三人目の恩人こそが、此処に立つ少女の如き青年だった。最後に残った、たった一人の友人の姿が其処にあったのだ。

 

 

「無事、だったんだね。ずっと会えなくて、連絡も付かなかったから、もしかしたらって、俺は――」

 

 

 現実を見れていないのか、意図して見ようとしていないのか。闇に向かって、青年は白い手を伸ばす。

 多くの犠牲に、奪われた命に、当の昔に精神は限界を超えていた。そんな彼が、それでも確かな歓喜で迎え入れようとしている。

 

 砕けた残骸。倒れ伏す女。荒れ果てた戦地を認識せずに、絶望視していた友との再会を只管喜ぶ。

 そんな彼も間違いなく、あの吸血鬼の被害者だ。一度勝ってしまったから、凄惨な現実に取り残された人間だ。

 

 大切な友らを殺されて、嗤われながらに奪われて、残ったモノは妻との共依存。

 相川真一郎と言う青年はそれでも、そんな状況であっても、嘗ての友との再会を喜べていた。だからこそ、菟弓華は歯噛みする。

 

 

「……真一郎。少し、黙ってくださイ」

 

 

 嘗てと違う、冷たい声音で口にする。それでも其処に、温度がない訳ではない。情があればこそ、冷たく告げる。

 これが結果だ。彼も犠牲者なのだ。その姿を見詰めてしまえば、世界を変えねばと言う意識は強くなる。大切であればある程に、菟弓華は意固地となる。

 

 今更止まれはしないのだ。今から帰る事など出来ぬのだ。元より既にこの我が身、残された時は長くはない。

 ならばこそ、心を鬼とする。こんな被害をもう二度と、そう思えばこそ意識は強く凝り固まる。菟弓華はもう終わっている。

 

 

「Nihili est qui nihil amat」

 

 

 そして放たれる闇の牢獄。握り返されると信じて伸ばした手は届かずに、夜の中へと閉ざされる。

 懐かしい悪夢を見たと、この今に起きた出来事はそれで御終い。弓華はもう立ち止まれないから、それ以上など必要ない。

 

 

「真一郎さんッ!?」

 

 

 真一郎に一歩以上遅れて、運転席から飛び出して来たのは桃色の髪を伸ばしたスーツ姿の女性。

 一族の危機を前にして、先ずは生き残り皆で集まろうと。運悪く最悪のタイミングで辿り付いてしまった女だ。

 

 

「綺堂、さくら」

 

 

 闇に囚われた連れ合いに、必死に手を伸ばす桃色の女。嘗ての友の姿に、弓華はその目を憎悪に染める。

 あの頃より成長しているから、分からなかったと言う訳ではない。友情は既に擦れて壊れたから、憎悪しか残っていないと言う訳でもない。

 今も尚、この女性が綺堂さくらであると認識している。猫科の耳を晒して、必死に闇を砕こうとしている女が友であると想えている。だが、それでも――この女は夜の一族なのだ。

 

 

「はは、はははははは」

 

 

 乾いた声で、狂った様に弓華は嗤う。歓喜と憎悪に染まった闇は、嘗ての友すら標的としていた。

 友であっても吸血鬼。懐かしく思えど寄生虫。その血脈は絶やさねばならないモノであり、ならば加減しよう筈がない。

 

 ましてや、女は綺堂の系譜。あの氷村遊の異母妹ならば、溢れる憎悪は友情すらも凌駕していた。

 

 

「好都合ネ。夜の一族ガ、此処に全部揃ったヨ。コレで全部滅ビるネ」

 

 

 けたたましく嗤いながらに、その闇を更に深くする。憎悪と怨念に身を任せ、眠る神へと同調する。

 偽神が放つ狂気の波動。その力を前にして、綺堂さくらは何も出来ずに膝を折る。夫が囚われた牢獄に縋りついたまま、彼女はこれが己の最期と理解した。

 

 

 

 何もない。何も為せない。何も変わらない。彼らの存在は、流れを変えるだけの影響を残せない。

 月村すずかが敗れた時点で決まっていた。彼女が抗えない時点で分かっていた。夜の一族に、闇を止める術はない。

 

 倒れた女は、霞む視界で闇を見上げる。月村すずかは必死に再生を進めながらに、しかし間に合わないと自覚する。

 時が集まる。悠久の夜が加速する。人より長く生きられる血族だろうと、数億年と言う時間経過には抗えない。その力を止める術はなく、故に滅びるしかないのだと理解する。

 

 それでも、諦めない。間に合わないと分かって、何もせずには諦められない。

 故に力を簒奪する。周囲の命を簒奪して、己の傷を塞いでいく。如何にか、僅かでも間に合わせようと。

 

 そんなすずかの目の前で、やはり悠久の夜は止められず――

 

 

「――――ぁ、ぇ?」

 

 

 其処で、ピシリと亀裂が走った。

 

 

「げ、ぎ、っっっっっっっっっ!?」

 

 

 亀裂が走ったのは、闇の肉体。次元世界規模と言う強大な巨体に、大き過ぎる亀裂が走る。走った亀裂が広がっていく。

 

 

「弓華さん!?」

 

「ぎぃ、ぎぎぎぃ、あぁぁぁぁぁぁっ!?」

 

 

 さくらの戸惑う声を他所に、菟弓華は壊れ続ける。それは奇跡や偶然ではなく、何処までも救いのない必然。

 膨大な闇の力は、弓華にとって不釣り合いなのだ。この巨人の肉体を支える為に、弓華と言う心臓ではサイズが不足している。

 

 元から壊れだしている。最初から既に崩壊は始まっていた。力を振るえば振るうだけ、その崩壊は加速する。

 スカリエッティが生み出した作品であり、彼の共犯者。でありながら、失楽園の日に女が出て来なかった理由がこれだ。この女は、余りに不安定に過ぎるのだ。

 

 

「私は、後少し、ナノ、に……」

 

 

 戦闘が出来る時間に制限があり、それを超えれば崩壊は隠し切れない程に進行する。

 彼らの存在は闇を揺らす程の質量を持たずとも、その時を稼ぐには十分だった。弓華は時間を掛け過ぎた。

 

 罅割れていく。崩れ出していく。それでも、憎悪を叫びながらに手を伸ばす。

 悪鬼の如き形相で、苦痛に苦しみながらに妄執する。その闇を前に絶句するのがさくらなら、女はこの好機を逃しはしない。

 

 

「――っ! さくらさん。真一郎さん。御免なさいッ!」

 

「すずかッ!?」

 

 

 さくらや真一郎の事情を薄っすらと悟りながらに、しかしこの敵は見逃せない。此処で討たねば、滅びるのは我らであるのだ。

 悠久の夜には間に合わずとも、この好機には如何にか間に合わせた。周囲の草花や小動物を喰い散らして、集めた命で立ち上がる。

 

 そして立ち上がったすずかは此処に、己の力を行使する。夜を展開するには足りず、形成するにも不足していて、故に展開するのは不完全なる黒き瘴気。

 

 

「凶殺――血染花ッ!」

 

「ぎぃぃぃぃっ!? 吸血鬼ィィィィィィィィッ!?」

 

 

 自壊を抑えようとしている闇は、降り注ぐ瘴気を前に抵抗出来ない。

 吸い尽くさんとする簒奪の力に歯を噛み締めて耐えながら、血反吐交じりに憎悪を叫ぶ。

 

 その妄執。その想念。圧倒的な憎悪の量に圧されながらに、それでもすずかは力を振るった。

 

 

「此処で、枯れ堕ちろォォォォォォッ!!」

 

 

 此処で落ちろ、無限蛇の盟主。赤く染まれ、一族の罪が象徴。お前の存在は許容しない。

 どれ程に汚らわしく思っても、どれ程に己が嫌いであっても、背にした家族は大切なのだ。故に彼女らを狙う以上、容赦も加減も出来はしない。

 

 強く、強く、強く。強大なる敵の力を吸い尽くし、そして更にと己の力が増していく。月村すずかの力は間違いなく、この女にとっての天敵なのだ。

 戦闘に時間制限がある故に、生存力に特化した相手こそ苦手とする。簒奪を防げないからこそ、力の差を極限までに詰められてしまう。此処までくれば、最早手遅れ。

 高まり続けた血染花の力は、最早闇であっても防げるモノではなく。

 

 

 

 故に――それを防いだのは、闇ではなかった。

 

 

「っ!? くぅぅぅぅぅっ!?」

 

 

 一瞬生まれる意識の空白。もう逃がさぬと高めた力が、何らかの妨害と共に霧散する。

 眩暈や立ち眩みを酷くした感覚。己の内から湧き上がる異常に、月村すずかは倒すべき敵を見失う。

 

 そして、その一瞬に溢れ出す。女達の丁度中間。虚空に開いた穴から溢れ出したのは、数え切れない程に群れを成す醜悪な蟲の群勢だった。

 

 

「Sancta Maria ora pro nobis」

 

 

 穴が開いた一瞬に、感じる力は月村すずかの内側から。その力の干渉に、女は只管に困惑する。

 一体何が、一体どうして。混乱に収集が付けられない内に溢れ出した蟲の群れは、此処に器を形成する。其は魔蟲形成。

 

 

「Sancta Dei Genitrix ora pro nobis」

 

 

 神経を逆撫でする羽音と共に、甘ったるい声が歌を紡ぐ。

 無数の蟲が集いながら変じる器は、しかし常のモノとは違う。余りに悍ましい、その醜悪なる姿が形を成した。

 

 

「Sancta Virgo virginum ora pro nobis」

 

 

 瞼がない。眼球を支えるのは神経だけで、それでどうして零れ落ちていないのか分からぬ形相。

 唇がない。剥き出しとなった歯茎を晒して、欠落なく並んだ歯の白さこそ不釣り合い。その綺麗さが異常を強くする。

 肌がない。生皮全てが剥がされた様な有り様で、風に晒された筋繊維は血肉の色すらしていない。蟲と同じく穢れた黒だ。

 

 

「oh Amen glorious!!」

 

 

 その本性と同じく、余りにも醜悪と化した容姿。腐り続ける女の姿に、すずかは目を見開いて問い掛けた。

 

 

「貴女、は……クアットロ、なの?」

 

「えぇ、そうよぉ。お久振りねぇ。すぅずぅかちゃぁぁん」

 

 

 口を開いた瞬間に、長い舌が風に揺られる。口から吐き出すその呼気は、溝川の如く腐った瘴気。

 

 先には栄華を掴んだ女は、その増長と慢心で、手にした全てを失った。失ったモノの内側には、己の容姿すらも含まれている。何も好き好んで、こんな醜悪な形を成した訳ではないのだ。

 

 

「醜いでしょう? 酷いでしょう? エリオったら、これでもかってやってくれたわ。傷が全然塞がらないのぉ」

 

 

 腐っている。腐っている。腐ったままに燃えている。腐炎と言う概念に焼かれて、身体を削ぎ落としてもこの様だ。

 燃えた部分を切り落とし、夜の一族を貪り喰らって自我を取り戻し、それでもこの外装は戻らない。この今にも、腐炎は燻りながらに燃えている。

 

 魔刃に対して憎悪を強めて、それでも甘い言葉で口にする。抱えた怒りと憎しみが、薄い訳では決してない。

 漸く手にした父を、残骸すら残さぬ程に壊された。産まれた頃に持っていた己の身体に関する記憶を、こうまで腐り落とされた。其処に感じる妄念は、それこそ神域に至る程。

 

 それでも甘い声で口にするのは、既に次の布石を打てているから。それでも彼女に余裕があるのは、必要事項を確認出来たから。

 この一月で理解した。この戦闘を見て納得した。最後の一手で確信した。月村すずかは、もう己の掌中に。既に落ちているのであると。

 

 

「だ、か、ら……。ふふ、これは次の機会に、教えてあげるわねぇ」

 

 

 瞼のない眼球をギョロリと動かす。粘つく瞳で見詰めながらに、クアットロ=ベルゼバブは嗤っている。

 腐炎に焼かれて腐った魔群は、月村すずかに狙いを付ける。彼女の目的は、その背に庇った盟主とは全く別の物だった。

 

 

「それじゃぁ、今回は帰りましょう。愚かで愚劣な無知蒙昧。おっと間違えちゃったわ。盟主様だったわよねぇ、この劣等種」

 

 

 爪先までも腐った足で、崩れ落ちた女を蹴り飛ばす。そのまま右の足を無数の蟲に分解して、宙に浮かんだ女を抱えた。

 罅割れていく彼女らの王。一応最低限の恩義を抱いているクアットロは、故に彼女を拾い上げる。だがそれでも、魔群の目に映る色は軽蔑だった。

 

 そうとも、クアットロはこの女を蔑んでいる。詰まらない塵屑以下の存在なのだと、抱えた女を嘲弄していた。

 

 

「復讐相手はもう居ないのに、坊主憎けりゃ袈裟まで憎いって? ほんっと馬鹿みたいよねぇ」

 

 

 彼女を地獄に突き落とした吸血鬼は、最早この世の何処にも居ない。彼女の復讐に意味はなく、その憎悪が果たされる事はない。

 そうでありながらも、妄執したまま生き延びている。害がない夜の一族にまで八つ当たりをして、それをさも正義が如くに誇っている。

 

 実に愚かで下らぬ存在。誰より憎んだ吸血鬼と似た様なモノに成り果てていると、果たして本人は気付いているのかいないのか。

 見ていて嗤える滑稽な女。クアットロ=ベルゼバブと言う怪物にとって、菟弓華とはそういうモノ。何れ、斬り捨てると決めている泥船だ。

 

 

「それじゃぁ、まったねぇぇぇぇ」

 

 

 譫言の如くに憎悪を呟いている盟主を抱えて、無限の魔群は何処かへと去っていく。

 その背を追うだけの余力はすずかに残っておらず、膝を屈したままに見詰め続ける事しか出来はしなかった。

 

 

 

 夜の一族を呪う闇との邂逅。この一幕はこうして、一時の閉幕を迎えるのだった。

 

 

 

 

 




綺麗になるかと思ったら、もっと汚くなったクアットロ爆誕。
画像イメージは汚い神野♀。アレをそのまま女体化させて、更にグロくしたのがもっと汚いクアットロです。



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