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1.Fallen Angel(PARADISE LOST)
2.其の名べんぼう 地獄なり(相州戦神館學園)
Shade And Darkness(Dies irae)
1.
リリィ・シュトロゼックは走っている。人気が失せたシエル村の只中を、一人彼女は走っていた。
「待って」
偶然夜中に目を覚まし、気付いたのはトーマの不在。同じくキリエも居ないと語られて、アミタと共に探す最中に分かった異常。
家を取り囲む無数の気配。夢遊病者の様な人の姿はベルゼバブ。その数に怖気を感じながら、少女達は窓から様子を伺った。そんな最中、シエルシェルターを轟音と振動が襲ったのだ。
音の場所を割り出して、砲撃が撃ち込まれたのだと気付いたアミティエ。彼女は母をリリィに任すと、家の裏口から一人飛び出した。
飛び出した少女を、最初は追い掛けていた病人達。だがそれも数分にも満たぬ僅かな時間で、すぐさま踵を返すとベルゼバブの軍勢は何処かへと消えてしまった。
アミタの行動すら予想内。そう言わんばかりの彼らの行動に、リリィは嫌な汗が流れるのを感じた。
それでも自分が動いても足手纏いにしかならないと、眠るエレノアと共に待機していた。そんな彼女が、しかし震えているだけでは居られない事態が起きたのだった。
「待ってよ、エレノアさん」
無人の村落を駆ける少女が追い掛けるのは、ふらふらと進んでいるエレノアだ。
突然目を覚ました女がしかし、操られる様に動き出したのだ。だからこそリリィは、彼女の姿を捨て置けない。
目を見開いて、リリィを突き飛ばした。そんな女の瞳は、赤と黒。
それが何を意味するのか、どんな悪辣な趣向であるのか、リリィには分かっていたのだ。
「っ、この数。これ、全部ベルゼバブ」
そうして、リリィは此処に辿り着いていた。彼女が追い掛けるエレノアは、この場所を目指していたのだ。
それは地下へと続く道の入り口。地下水道に繋がる壊れた扉。その前に佇んで、順繰り中へと進む人影は全てベルゼバブ。
リリィは咄嗟に身を隠し、その軍勢を観察する。一人二人ならば兎も角、この数はもうどうしようもない程だ。
そんな無数の数が地下水道へと進んでいく。ゆっくりと入っていく行列を見ながら、リリィは選択を迫られていた。
「どうしよう。どうすれば、良いの?」
今、彼女には二つの選択肢が存在している。元は三つであった内の一つ、怯え震え続ける事は止めた。故に残るは二つであろう。
選ぶべきは二つ。残された選択肢の内一つは、この軍勢の後を付ける事。恐らくはこの先に、愛しい彼の姿があろう。
トーマの下へと辿り着く。彼の下へ辿り着ければ、その助けとなれるだろう。彼と共に戦うならば、負ける気なんて一つもない。
だが、果たして辿り着けるだろうか。この魔の軍勢、膨大な数のベルゼバブを突破する手段がリリィにない。
故にもう一つの選択肢が現実味を帯びて来る。その選択を選ぶ必要があるのではないか、そんな想いが彼女の内に生まれていた。
もう一つの選択肢。それは今も荒野で一人、戦っている少女の下へと走る事。
リリィと言う存在が加わっただけで、一体何が出来るのだろうか。不安はあれど、辿り着くだけならば出来るであろう。
選ばないといけない。何もしないなんて、そんな道はもう存在しない。リリィ・シュトロゼックは今、岐路に立たされている。
確実に助けになれるけれど、辿り着ける可能性が絶無に近い道。確実に辿り着けるけれど、助けになれる可能性が皆無に近い道。選ぶべき道は、二つに一つ。
「私、は――」
そうしてリリィは、此処に道を選び取る。ベルゼバブの異常な動きを見詰めながら、何を為すべきかを選んでいた。
エリオ・モンディアルは考える。槍を構えて笑みを浮かべて、静かに冷えた思考を回す。
彼は最初から此処に居た。アストが追い詰められるまで、最初から居たのに観察を続けていた。
理由は二つ。一つがアストを追い詰める事それ自体であるならば、もう一つはクアットロに対する観察だ。
「どうやら、クアットロは余程遊んでいる様だ。……それとも、案外追い詰められているのかな?」
ヴィヴィオ=アスタロスは今、ベルゼバブと同じ状態だ。クアットロに繋がれて、嘗ての力を取り戻している。
その事実は、常にクアットロの監視を受けているのとイコールだ。彼女と言う反天使は既にして、魔群の目であり手である細胞なのだ。
だからこそ、魔群はある程度の信を置いている。便利な道具として、アストの事を重宝している。
そんな都合が良い玩具。目の前で壊れそうになっていれば、あの魔群は文句の一つは口にしよう。すぐさまエリオに動けと、命令一つはする筈なのだ。
なのに、彼女は動かなかった。それは意図して動かなかったのか、それとも果たして動けなかったのか。
どちらにせよ、事実は一つ。クアットロは今、この場を認識していない。そしてその事実は、エリオにとって都合が良い。
「では、折角の機会だ。力の試し打ちと行こう。――さあ、出番だぞ。お前たちっ!」
恐怖に震える少女に向かって、エリオはその力を行使する。己の内に声を掛け、内なる夢より彼らを取り出す。
それはクアットロが扱う魔蟲形成と同じく、内なる魂に魔力で作り上げた肉体を与える行為。彼に従う双牙を此処に、兵として召喚するのだ。
「
形成。その言葉と共に、内より零れた魂が肉体を手に入れる。甦るのは、僅か三人の女騎士。
桃色の髪を靡かせて、巨大な剣を手にした烈火の将。翠の衣を身に纏い、杖を手にした湖の騎士。巨大な破城槌を肩に担いで、楽しげに笑うは鉄槌の騎士。
恐怖に震える思考を如何にか抑えて、咄嗟に距離を取ろうとするアミタ。彼女が行動に移るよりも尚早く、夜天の騎士は既に動き始めていた。
「ぶっ潰せっ! グラーフアイゼンっ!!」
意志がない訳ではない。隷属を強制されている訳ではない。彼女達は己の意志で、エリオ・モンディアルに従っている。
そうと分かる瞳の輝きに、アミタは僅か気圧される。振り下ろされた鉄槌を咄嗟に後退しながら躱して、そんな彼女に迫る影は一つじゃない。
「駆けよ隼っ! シュツルムファルケンっ!!」
転がる様に後退を続けるアミタへと、降りかかる矢は雨の如く。音速を超えた一矢が、矢継ぎ早に放たれている。
彼女達の実力は既にして、過去の彼女達と同一などではない。エリオ・モンディアルの軍勢として、彼女達は皆須らく強化されている。たった一人であっても、今のアミタにとっては手に余るのだ。
「逃げ場を塞ぐっ! ペンダルフォルムっ!!」
前方を見ながら後退していたアミタの背へ、女の声が掛けられる。
逃げ回る彼女の後退ルートに先回りしていたシャマルが此処で、その手に握った無数の振り子を投げていた。
その一つ一つの威力は、強化されている事を加味しても大した物ではない。問題なのは、足を止められると言う事だ。
背中を無数の振り子に刺されて、鈍った身体で前を見る。空と大地の双方から、烈火と鉄槌の騎士達が武器を両手に疾走していた。
「こいつでぇぇぇっ! 終わりだぁぁぁっ!!」
「きゃぁぁぁぁぁぁぁぁぁっ!?」
轟天爆砕。鉄槌の騎士が猛攻をその身に受け、アミタは苦痛の悲鳴を上げる。
それでも如何にか体勢を立て直そうと、それすら彼女達は許さない。此処に迫っていたのは、鉄槌だけではないのである。
「悪いが、その不屈を知っている。故にな。此処で確実に潰すぞ。シュランゲンフォルムっ!!」
必死に逃れようとするアミタの左手に、シグナムの放つ連結刃が絡み付く。そしてそのまま、彼女はその刃を引いた。
スパンと音を立てて、機械の腕が斬り飛ばされる。右の腕は圧し折れて、左の腕から火花を散らせながら、アミタは体勢を崩して倒れていく。
その身に更に、追撃を掛ける者が居た。夜天を統べる今の主は、決して動けない訳ではない。
「来い。僕と共に、お前の意志を見せてやろう」
影が重なる。罪悪の王の背後に一つの影が重なる。倒れながらにアミタは、エリオの背中に女の姿を幻視した。
それは紫の髪を持つ魔女。露出の激しい衣服を着込んで、狂気に歪んだ形相を張り付けた魔導師。愛する我が子を失くした鬼母だ。
「
彼の日に死んだ魔女の魂は、友であった天魔の下で眠っていた。二人の娘の命と共に、彼女の太極に眠っていた。
もう離れ離れにならない様に、彼の友人のそれが慈悲。だと言うのに運命は如何なる皮肉か、女の下から子らを奪った。
天魔・紅葉の死と共に、砕け散った彼女の太極。中にあったその全てを、魔群が回収出来た訳ではない。零れ落ちた命があるのだ。
フェイトとアリシア。その二人を鬼母は失った。黄昏の輪に紛れて子らは、今も何処に居るのか分からない。だからこそ、プレシア・テスタロッサは狂っている。
何としてでも見つけよう。どうしても必要なのだ。愛しい愛しいあの子達。
その母の想い。狂う程に強き渇望は、正しく称えるべき力への意志。誇りと共に示すに足りる、とても強く偉大な想いだ。
そうであるとエリオは考える。故にこそ彼女に誓う。必ずや座を奪い取り、その子らを見付けよう。
嘗て女が目指した安らぎを、我が必ず作り上げよう。その為にも、我に手を貸せ。その力を寄越せ。共に神座を目指すとしよう。
一緒に行こう。プレシア・テスタロッサ。僕には君が必要なのだ。
少年の願いに女は応える。あの子達を探しておくれと、その願いに頷いた。故にこそ、嘗ての大魔導師は此処にその威を示すのだ。
『サンダーレイジO.D.J!』
「あぁぁぁぁぁぁぁぁぁっ!!」
少年と女の声が重なる。次元世界さえも超越する大火力魔法が此処に、巨大な落雷となって降り注ぐ。
ヴォルケンリッターに追い詰められて自由を無くしたアミタは躱せずに、その身を極大の雷光に射抜かれていた。
壊れた機械の身体に落雷を受け、肌を黒く焦がされながらにアミタは敗れた。
膝を付いて前へゆっくりと崩れ落ちて――倒れる事すらも、彼に従う騎士達は許さない。
心を折るまで追い詰めろ。それが今の主である彼の下した命令なのだから。
「戒めの鎖よ」
倒れようとするアミタの身体を、クラールヴィントのワイヤーが拘束する。
まるで磔刑の如くに自由を奪われた彼女の首元には、レヴァンティンの切っ先が当てられる。
崩れ落ちようとする少女の頭部には、密着するかの様に押し付けられた巨大な鉄槌グラーフアイゼン。
僅かにでも動けばその瞬間にはどうなるか、子供にでも分かるこの状況。
今の主に逆らい敗れた愚かな少女の姿を静かに、冷たい瞳でヴォルケンリッターは見下していた。
「どうして、貴女達、は……」
拘束された少女は問い掛ける。心の底から信頼し、主に仕える騎士達へと。
そうとも、彼女達の目は死んでいない。その意志は確かに個我を持つ。心の底から忠義を以って、それが傍目にも分かる程。
故にアミタは問い掛ける。だから彼女は問うている。どうしてそれ程までに、彼へ忠義を捧げるのか。一体どうして、貴女達は従っているのかと。
「エリオ殿は、約束してくれたのだ。ああそうだとも、理由はたったそれだけさ」
シグナムは応える。多くを返す必要はなく、語る言葉は最低限に。
エリオ・モンディアルは約束したのだ。夜天の騎士の献身に、必ず応えると誓いを立てた。
何時か流れ出す新世界。其処で八神はやてを見付け出し、必ずや幸福にするのだと。
此度の不幸が帳消しに成程に、この世で誰よりも満たされている。それ程の祝福を与えてみせると。
ならば誓おう。嘗ての主の幸福の為に、八神の騎士は此処に誓おう。彼へ神座を捧げるのだと。
「私の帰るべき場所。もう名前も覚えていないあの家に、私を帰してくれるんだ。エリオは絶対帰してくれる。私にそう約束してくれた。だから、私もコイツの力になるんだ」
ヴィータは応える。彼女の想いはシグナムと同質で、だが将よりは己に寄った感情だ。
彼女はもう覚えていない。あの日に初期化され、帰る場所を忘れてしまった。それでも帰りたいのだと、名前を忘れた少女を今も想う。
エリオは告げた。そんな彼女に告げたのだ。願うならば、帰してやろうと。願い続けるならば、その場所へと導こうと。
忘れるな。その想いの強さが、お前の道を築くのだ。我が救うのではない。お前の意志の輝きが、お前自身を救うのだと。
約束した。共に行く意志を持ち続けるなら、ヴィータは必ず救われるのだとエリオは言った。
ならばこそ、鉄槌の騎士は彼と道を同じくする。帰りたいと願い。その為に努力する。そんな少女の意志の強さを、誰より認めた男と行くのだ。
「女って案外単純なのよね。それでいて感情的」
シャマルは応える。シグナムよりも、ヴィータよりも、彼女の想いは私的な情に満ちている。
主の為にと願う事は他の騎士らと同じく、だがシャマルはそれだけではない。あの子は救われるべきだ。報われるべきである。
だが、己だって救われたいのだ。報われたいと願って、それの何が悪いのだ。シャマルの女としての感情は、たったそれだけの単純な物。
「もう諦めていた。何も出来ないと、そんな私達に手を伸ばしてくれたのよ。必要だって、言ってくれたの。だったら、共に歩きたいと想うじゃないの」
等活地獄に囚われて、嘗ての仲間を傷付けて、そんな自分は救われないとシャマルは嘗て諦めた。
だがそんな彼女に、幸福を願って良いと語った神が此処に居る。強く願い求め努力するなら、お前は救われて良いのだとエリオは言った。
だからこそ、彼の天がシャマルは欲しい。強く願って求めれば、必ず救われる宙へと行きたい。そんな情を原動力に、湖の騎士は此処に居るのだ。
「エリオ・モンディアル」
「…………何だい?」
女達の想いを前に、アミティエ・フローリアンは飲まれていた。その揺るがぬ瞳を見た事で、理解せざるを得なかった。
いいや、本当はきっと前から気付いていた。もっと前から気付いていて、認めたくなかっただけなのだ。それを女は此処に認める。それを少女は此処に受け入れた。
エリオ・モンディアルは、悪辣なだけの悪魔じゃない。地獄の底を知るからこそ、誰より優しく在れる資質を持つ。誰よりも苦しんだからこそ、誰にだって優しく出来る。
そんな一面を持つのだと、気付いていた事を認めてしまった。認めざるを得ない程に、彼の配下は満たされていた。己の神にその意志を肯定されて、誰もが幸福であったのだ。
だからこそ、アミティエ・フローリアンは許せない。エリオの一面を認めたからこそ、彼女の怒りは膨れ上がった。
「どうして、貴方は……その優しさを、皆に与えてあげないんですかッ!」
エリオ・モンディアルは、強く優しい人間だった。なのにこの悪魔は、その優しさを限定している。多くを救える筈なのに、僅かな者しか見ようとしない。
己にとって美しい者。綺麗な意志を示す者。救うに値すると認めた無価値でない者。手を差し伸べるのはそれだけで、そうでなければ泣いていようが踏み躙る。
それがエリオと言う人間で、そんな彼の在り方がどうしても受け入れられぬのだ。
「泣いてるじゃ、ないですか。その子は、泣いてて、貴方なら、救える筈でしょうッ!?」
「…………」
悪魔が背中に庇う魔鏡。悪魔の配下に縛られて、彼女を睨み付ける機械の少女。
背を向けて守る者こそが、彼女の命を軽んじている。手に銃を以って睨む女こそが、彼女の幸福を祈っている。そんな皮肉なこの現実。
それ程に強ければ、彼女だって救えるのではないか。それ程に優しいのなら、その涙だって拭えるのではないか。それに何よりも、アミタはこの事実を許せない。
「それに、貴方はッ! どうして、博士を――私の父さんを殺したのッ!?」
誰かを抱き締める事が出来る様な男が一体どうして――あの人の命を奪ったのか。
真剣な想いを抱いて、確かな願いを胸にして、世界を救おうとしたグランツ・フローリアン。
彼を奪ったエリオ・モンディアルが優しさと強さを持ち合わせていればこそ、その事実がアミタにはどうしても許容出来ないのだ。
「…………何かと思えば、そんな事か」
僅かな空白。ほんの少しの沈黙の後、エリオ・モンディアルは笑みを浮かべる。
見下す様な冷たい瞳。それとは真逆の燃える様な喜悦に頬を歪めて、アミタに向かって彼は伝える。
「実に下らない質問だ。全く無意味な問い掛けだね。無価値な君に相応しい、どうでも良い無価値さだ」
その発言は下らない。その疑問は意味がない。その感情は、全て無価値だ。
だからこそ、教えてやろう。その言葉が無意味であるのだと、既に敗れた少女に教授し啓蒙してやろう。
エリオ・モンディアルは暗く嗤って、アミタに己の意志を突き付けた。
「幸福の席は有限だ。人の優しさには限りがある。ならばそう。必要な物は必要な場所に、だ」
幸福とは相対的な物である。誰かが幸せになる時、別の誰かが不幸となる。
愛も同じだ。有限な物は全て、万人に与えれば密度が落ちる。全てを愛すると言う事は、誰も愛さないと言う事と等価である。
なればこそ、エリオ・モンディアルは選別する。愛するに足りる者のみを、心の底から愛して抱き締めると決めたのだ。
「彼女達の意志は、須らく尊い。心の底から抱いた願いは、真実報われるべき物であろうさ」
己に従う八神の騎士達。死して尚主の幸福を、忘れて尚帰る事を、滅んで尚己の幸福を、願う想いに嘘偽りは欠片もない。
己に従う三柱の廃神達。狂愛も絶望も享楽も、誰もが真摯な願いを抱いている。儚い夢でしかない身でありながら、強く前を見続けている。
己に従う我が子を求める一人の母親。失って尚、取り戻すのだと諦めない。どれ程に苦しんでも、どれ程に否定されても、愛しているのだと叫び続ける。それが強さでなければ、一体何だと言うのだろうか。
誰が否定しようとも、エリオ・モンディアルが認めよう。認め称えて抱き締めよう。彼女達は強い。その想いは価値がある。尊い宝石達なのだ。
「だが、しかし――翻って、コイツはどうだ? 魔鏡アストは、救うに足りるか?」
宝石の輝きに比べて、この魔鏡はどうだろうか。問うまでもない。エリオ・モンディアルは唾棄している。
この曇った鏡は、見るに堪えない。結局ヴィヴィオは何も選んではいないから、こうして無様で居るのが相応しい。
「奴奈比売に負けた。それはコイツの心が弱いから、ちっぽけに過ぎない意志だから」
人質を取られて敗北する。己の弱さを突かれて敗退した。それは確かに、避けようがない事態であった。
だが、そこで奮起をすれば良いのに、この少女は変わらなかった。変わろうとすら、しなかったのだ。だからこそ、こうして今も奈落の底に囚われている。
「クアットロの手で壊された。それはコイツに力がないから、ちっぽけに過ぎない存在だから」
クアットロに捕まって、太極の器とされた。それは確かに哀れであろう。避けられない事態であった。
だが、たった二百万の魂に潰されたのは彼女の弱さだ。帰りたい場所を忘れた事は鉄槌と同じなのに、彼女と違ってアストは如何にかしようともしていない。
思い出す切っ掛けはあっただろう。分からずとも、帰りたいなら叫べば良いのだ。救いの声を上げれば良いのに、魔鏡アストはそれすらしない。
「きっかけは、何度もあった筈だ。手を伸ばす奴は、確かに居た筈なんだ。それを拒絶したのは、コイツ自身だ。ならば、僕はアストをこう断じよう」
それを幼さ故と、誰かはきっと擁護しよう。小さな子は弱くて仕方がないのだと、許す者は多く居よう。
しかしエリオはこう断ずる。幼さなど理由にならない。儚さなどに価値はない。ましてや、アストには救われる道が山ほどあった。
一度目は失楽園が始まる時、それこそ愛する母が居たのだ。あんな狂人の命令など、無視してしまえば良かっただろう。
二度目は堕ちた揺り籠の中にて、手を伸ばしてくれる友人達が居たのだろう。ならばどうして、あの時その手を取らなかったのだ。
三度目は今此処で、心の底から帰りたいと願うなら、誰かに助けを乞えば良い。なのに泣いているだけで、何もしようとすらしない。それが心底気に喰わない。
拒絶したのはお前であろう。ならばこの現状、生み出したのはお前である。不幸になったのは、お前がそう望んだからなのだ。
拒絶するなら、意志を示さねばならない。自分一人で立てると言い張る事も出来ぬのに、誰かの助けを拒絶する。ならば何処へも行けぬだろう。そんな答えは当然だ。
何処へも行けぬから、何処にも行かぬ。それでも不平不満だけは口にする。そんな命に救う価値などありはしない。
「総じて、無価値。今も壊され続ける魔鏡アストに、
故にエリオはこう断ずる。これは塵だ。見るに堪えない。反吐が出る程に汚らしい塵屑だ。
そう断じられた魔刃が放つ怒りの覇道を前に白痴の子供は恐怖に震え、その光景を信じられないと理解が出来ないとアミタは瞳を瞠目させる。
「どうでも良いぞ。消えてなくなれ。僕は心底から、この子供を軽蔑している。結論はそう、たったそれだけの事なんだよ」
軽蔑しているから、救おうとは思わない。見るに堪えないから、手を差し伸べようとも思えない。
好きに破滅しろ。勝手に救われろ。僕は知らない。どうでも良いから、一人で勝手にどうとでもなれ。
エリオがアストに抱く情など、所詮はその程度でしかない。こんな立場でなければ、関わろうとすらしないであろう。
「弱さは罪だ。強くなれ。弱者は罪だ。強くなれ。弱くても、強くなろうとするなら認めよう。一人で歩ける強さがなくても、誰かの手を取るならば許してやろう。だが、それすらしない奴は正しく無価値だ。惰弱に浸り怠け続ける生き物は、僕の世界に不要であるッ!!」
これぞ自己超克・共食奈落。手を取り合う大切さを知った今も、その本質は決して揺らがず変わらない。
多少の怠惰は許容しよう。一人で歩けずとも、誰かと支え合う事は認めよう。だが手を伸ばされても拒絶する様な奴に、それでいて一人では歩けない奴に、この世界を生きていく資格などはない。
そんな奴は、世界を駄目にする癌である。誰にとっても悪影響しか与えない。前に進む為には不要な要素。その存在を、彼の世界は許さない。
鋼の如く揺るがぬ意志で、烈火の如き苛烈さで、エリオ・モンディアルはそう断ずる。魔鏡アストに価値はないのだと、幼い子供をそう断ずる。
アミタには理解が出来ない。愛され恵まれ愛を知る彼女には、幼いと言うだけで守るべきと思う彼女には、それが全く理解が出来ない。
それでも揺るがぬ意志の強さに気圧される。強く断ずる瞳と言葉に、反論の言葉を塞がれる。口を開く事も出来ぬ程に、圧倒された彼女に反論は言えぬから――その陥穽を突く反論を上げたのは、アミティエ・フローリアンではなく彼女。
「けど――それはヴィヴィオを救わない理由であっても、グランツさんを殺した理由にはならないよね」
白き百合の花が荒野に咲く。淡い金の髪を靡かせて、荒い呼吸を整えながら、辿り着いた少女は此処に言うのであった。
「……リリィ・シュトロゼックか。驚いたな、君が此処に来るなんて。何の用だい、足手纏い?」
「別に、大した事が出来るとは思ってないよ。だけど、此処に来て良かった。正解だったって思ってる。だってほら、ツンデレ噛ましてるヤンホモの本音に、アミタは気付いてなさそうだもん」
それはエリオの言葉の陥穽。アストに対する言葉は分かりやすい穴があり、そしてそれ以外にも裏がある。
その一つが、救ってあげたいのに、救ってくれとも頼んでくれない少女に対する怒りなら。残る一つは、あからさまな論点の摩り替えだ。
そう、アストについては答えていても、彼はグランツ・フローリアンについては語っていない。
否、語れないのだ。恐らくは、語れば都合が悪いのだ。その程度、協奏によって過去を覗いた彼女は知っている。
リリィとしては恋敵の過去など知りたくはなかったが、それでも分かり合えてしまっている。互いを深く理解出来ているのである。
「……取り敢えず、色々言いたい事はあるけど。僕が本音を隠していると、一体何を根拠に」
「分かるよ、それくらい。トーマを介して、私達も繋がったんだよ? ほら、貴方好きでしょ。自分の出来る範囲で必死に抗う、アミタ達の父親みたいな人の事」
「…………」
グランツ・フローリアンと言う男は、アミタやキリエに話を聞くだけでも分かる程に真面目に生きた人間だった。
己の故郷を救う為、必死になって駆け抜けた。其処にあった強い想いを、エリオ・モンディアルと言う存在が否定する訳がない。出来る訳がないのである。
ならばそう、其処には確かな理由がある。クアットロの命令だとか、唯の外道行為であるとか、そんな理由で済む筈がない事なのだ。
「ねぇ、エリオ。何で、アミタ達のお父さんを殺したの?」
「……全く、君も彼も本当に、踏み込まれたくない所に土足で踏み入るのが得意だね」
トーマとの合流ではなく、アミタの救援に向かう事を選んだリリィ。彼女の的を射た発言に、エリオは僅か肝を冷やす。
今気付かれるのは都合が悪い。こちらを気にしていない様ではあるが、最悪全てが此処で終わる。此処は許容範囲の限界点だ。
それでも、彼はその混乱を隠し通す。図星を突かれた動揺を隠して、エリオはあくどい笑みを作って声にした。
「疑問全てに答えが返ると、そう思わない方が良い。この世はとかく理不尽だ。何故どうしてと、分からぬならば放っておけよ。開いてみたら、或いは最悪の展開が飛び出してくるかも知れないぞ?」
「けど、そうかな? 最悪の展開なんて、あり得ないって思うよ。エリオにとっては兎も角、私やアミタにとってはあり得ない」
「……言うね。一体どんな自信があるのやら。まさかお前、自分が死なないとでも思っているのか?」
「言うよ。だって、エリオ。これ以上、私達に手を出せないでしょ?」
嗤って騙るその言葉。彼の演技は下手糞だ。内面を知らぬ者には通じても、共有した者には通じない。
エリオ・モンディアルは唯の外道ではない。悪趣味な畜生ではない。そうと知っていればこそ、その演技は分かりやすい。
「私を殺せば、トーマは怒る。けど、怒ったトーマと、貴方が勝ちたいトーマはもう一緒じゃない。だから、エリオは私を殺せない」
「だが、傷付けるならば出来る。死なない程度に、痛め付けるなら簡単だ。……それに、君は兎も角、もう一人は死ぬんじゃないかな?」
「それこそ嘘。ほんっと、分かりやすいよね。エリオは」
槍をアミタに突き付けて、このまま殺すと脅かすエリオ。そんな彼の言葉に対し、リリィはそれこそ嘘だと鼻で笑う。
彼に弱者を甚振る趣味はない。特別なのは、トーマと言う例外だけだ。ならば甚振る行為には、確かな意図が隠れている。確かな意志が隠れている。
そう。エリオ・モンディアルは殺せないのだ。フローリアン姉妹の首を取れぬからこそ、嬲り心を折ろうとしていた。
その理由、確かな理屈はあるだろう。仕留められないだけの、十分な理由は幾つもあろう。だが間違いなく、一番の理由はこうだとリリィは断じる。
「だってさ、エリオ。アミタやキリエの事、実は好きでしょ?」
「え? え? え? な、何を言ってるんですかッ!?」
「…………」
リリィの言葉に、戸惑いの声を上げるのはアミタだ。エリオは黙り込んで、彼女の顔を睨むだけ。
本当に面倒な女だと、全てを台無しにしようとする女を睨む。そんな魔刃の瞳を前に、しかし女も怯えない。
そうとも、彼女はあの場所で啖呵を切れる女である。恋する乙女は無敵であるのだ。ならばこそ、怯むなんてあり得ない。
「このヤンホモ。兎に角、強い意志が好きなのよ。アミタやキリエはドストライク。人として、気に入るタイプだよ。きっと」
「……本当に君は遠慮がないと言うか、あの日から図太くなったと言うか、取り敢えず僕を同性愛者扱いするのは止めろ」
あの日を思い出しながら、エリオは頭に手を当てる。最初に人を同性愛者扱いしたのも、確かにこの白百合だった。
彼女の語る言葉は妙な所で真意を突いていて、その所為で時折口にする世迷い事にもある程度の説得力が伴ってしまう。
実に性質が悪い女だ。仮に誰かと恋仲になるとしても、こういうタイプだけは絶対に選びたくない。どっと疲労感を感じながらに、エリオは頭を抱えて愚痴るのだった。
「全く、本当に調子が乱される。トーマはどうして、こんなのに惚れてるのか。理解に苦しむよ」
呆れた様に呟いて、疲れた様に息を吐き、それでも言葉を否定はしない。
これ以上否定しても、ドツボに嵌るだけだと分かった。だからこそ、此処で割り切る。
そんなエリオの内面で、アギトは不安を吐露していた。
〈兄貴。どうする? これ、不味くないか?〉
「ああ、だからな。……一端、退くぞ。此処からは、時間との勝負だ」
グランツ・フローリアンを殺害した。その事実は知られても問題はない。
アミタやキリエを殺せなかった。その事実も、知られるだけなら問題はない。
だが、この双方が知られるのは不味い。殺した相手を取り込めるのだと、その事実も含めてしまえば最早詰みだ。
クアットロの監視が今はなくとも、彼女が記憶を探れば気付かれよう。何時か起爆する爆弾に、この情報の所為で火が付いた。何れ明らかになる真実に、時間制限が付いてしまった。
エリオ・モンディアルが独断で、グランツ・フローリアンを殺害した。その理由を、クアットロにだけは知られる訳にはいかないのだ。
「何、を? マス、ターの、指示、は」
「煩い黙れ。監視してない奴が悪い。……どうして僕がこんな面倒な状況で、お前の意志など聴いてやらねばならないんだ」
撤退をする。そう決めたエリオに、アストが震えながらに抗弁する。
そんな彼女の言葉を一言で斬り捨て、首筋に手刀を落とすとその意識を刈り取った。
形成した配下達を内側へと呼び戻し、意識を失くした魔鏡を片手で抱える。そうしてエリオは、転送魔法を展開した。
「全く、時間を無駄にした。帰るぞ、アギト」
〈うん。……間に合うと、良いけど〉
「間に合わせるさ。元々、アイツは保険だ。……トレディアの知識で何処まで出来るか不安だが、最悪、
此処から先は時間との勝負。クアットロが裏切りに気付くまでに、一体何処まで準備が出来るか。
彼女を見付けたトレディア・グラーゼの知識では足りない。彼女を苦しめたジェイル・スカリエッティは魔群の保護下で、その知識を簡単には奪えない。
だからこそ、求めた第三者。機能停止と言う死の淵から、彼女を救う為に必要となるその叡智。保険として奪ったその彼が、此処に来て言葉を発していた。
「……それが、君の条件か。
「え?」
エリオが呟いた父の名に、アミタは思わず瞠目する。聞き間違いではないかと、混乱している少女を他所にエリオは声に耳を傾けた。
声は告げる。それはエリオの協力要請に対する応えの言葉。この今になって漸くに、彼は首肯を返したのだ。その事実に、エリオは安堵の息を吐く。
「良いだろう。乗ってやる。だから、力を貸せよ。知識を寄越せ。それが僕の条件だ」
状況は最悪に近いが、それでもこれで大分改善した。必要なモノは、この今に揃った。
これでクアットロが死んだとしても、イクスヴェリアを生かす事が出来る。それだけの知性を、此処で味方に付けたのだ。
転送の光に包まれながら、背中越しにエリオは告げる。伝える相手は、両手を失くした機械の少女。
「アミティエ・フローリアン。お前に奴から伝言だ」
「エリオ・モンディアル。貴方、何を?」
「良いから、黙って聞け。僕は一度しか言わないぞ」
内なる彼が示した協力の条件。手を取り合う為の報酬は即ち、その後悔を解消する事。
彼の決定的な敵対を防ぐ為に、傷付ける事は出来ても殺せなかった。そんな少女の片割れへと、エリオはその言葉を口にした。
「カ・ディンギルで待つ。お前でも、妹でもどっちでも良い。カ・ディンギルに来い」
此処では駄目だ。時間が足りない。そんな事をしている余裕がない。
だからこそ、カ・ディンギルだ。全てを終えた後で、あの場所で約束を果たすと誓おう。
それがエリオに示せる彼への対価で、それに彼も首肯した。故にこそ、此処に誓う様にエリオは言うのだ。
「僕が殺し、喰らい、取り込んだあの男――グランツ・フローリアンに逢わせてやる」
唯、それだけを口にして、エリオ・モンディアルは姿を消した。
転送の光に包まれて行く彼は止まらない。待ってと呼びかけるアミタの声にも止まらずに、そうして彼は立ち去ったのだ。
2.
逃げ場一つない程に、蟲が溢れて満たす地下空間。水辺が近いと言うのに感じる熱気に、嫌な汗を流しながら抵抗する。
展開する力は明媚礼賛・協奏。同時発現は負荷が掛かり過ぎるから、維持する力はこれ一つ。それでも先が見えない持久戦、心身共に疲弊と疲労が重なっていく。
心を共有し、想いを此処に繋ぎ合わせ、互いを叱咤激励しながら拳を握る。纏う力はディバイド・ゼロ。両の手足に纏わせて、蔓延る魔群を分解していく。
その場その場の戦況は、トーマとキリエが一方的な優位にある。協奏による能力向上。質が高まる魔力分解の力に対し、クアットロは抵抗すらも出来てはいない。
羽搏く蟲が千切れて落ちる。這い寄る蟲が潰れて消える。雲霞の如く押し寄せる蟲の群れは、しかしそれでも目減りもしない。
一体どれ程潰しただろうか。一体どれ程倒したろうか。倒せど倒せど敵は尽きずに、疲弊している素振りも見せない。事実として、相手は疲労すらも感じていない。
クアットロは夢なのだ。無数の人々を悪夢に捕らえて、その世界から干渉し続けてくる悪夢の化身。
肉体を持たぬが故に、体力の消耗などはなく。幾ら力を使おうとも、囚われた傀儡たちが消耗するだけ。この悪夢は疲弊もしない。
クアットロは死者なのだ。肉体は既に滅んでいて、狂気と共に死した念が悪夢と化してこびり付いているだけ。
故に傷付ける事など出来ない。実体がないからこそ、明確な天敵以外に被害を受ける事さえない。なればこその不死不滅。その傲慢は、油断などではないのである。
「はぁ、はぁ、――っ!」
「どいて! どきなさいよッ! この蟲女ッ!!」
どれ程に潰しても限がない。どれ程に倒しても際限と言う物がない。故にこそ、この場を突破するなど叶わない。
持久戦の強要。クアットロの執る戦術は是一つ。決して絶えず、決して尽きず、その物量を以って敵の疲弊を待っている。
もしもここが屋外ならば、トーマはディバイドゼロ・エクリプスを最大火力で使えただろう。
だが此処は地下深く、シエルシェルターの命綱たる水場の傍だ。根こそぎ纏めて分解しようとすれば、余波がどうなるのかが分からない。
落盤落石の恐れがあろう。重要な機械部分を分解すれば、仮にクアットロを倒せたとしても避難施設が崩壊する。
なればこそ、射撃や砲撃は碌に使えない。短期決戦は望めないから、創造併用も行えない。両の手足で潰そうにも、敵の数が多過ぎた。
疲弊は溜まっている。被害は蓄積していく。クアットロは嗤っている。
全てが無為だ。全てが徒労だ。嘲笑を浮かべる無限の軍勢は滅ぼせず、少年少女が力尽きる方が遥かに早い。
そして、無傷で倒し続けられる程に、クアットロ=ベルゼバブは弱くもないのだ。
「弾けなさい。暴食の雨!!」
周囲を包む蟲が弾ける。熱い酸の血液を、周囲に向かってぶち撒ける。雨の如く降る毒を、囲まれた彼らは躱せない。
「きゃぁぁぁぁぁぁぁぁぁっ!!」
「っ、ぐぅぅぅぅぅぅぅぅっ!?」
魂を穢す毒に膝を折る。皮膚が溶ける感覚に、痛みに叫びを上げて膝を屈する。
それでも立ち上がろうとする少年少女。その動きにある速度差に、クアットロは目を細めた。
彼女は気付いている。悪辣なる魔群は気付いていた。それはトーマ・ナカジマの新創造。その理が抱えている、致命的なその弱点。
「降り注げ。降り続けろ。オォォォォォ、アァァメン、グロォォォリアァァァァスっ!」
何処までも続く面攻撃。降り頻る雨に途切れはなく、穢し貶める悪意を前に苦しみ続ける。
それこそトーマに対する弱点特効。この雨の中、トーマの方が傷付いている。キリエの身体に付いた傷より、彼が抱えている傷の方が重く深いのだ。
それも当然、トーマ・ナカジマは共有している。その影響下にある全てを、共感して共有しているのだ。
協奏の影響を受けた従たる者らは、己にとって都合の良い物、相性の良い物だけを受け取れる。だが反面、主となるトーマは取捨選択を行えない。
誰かが傷付けば、その傷を共有してしまう。誰かが苦しめば、その苦痛を共感してしまう。それこそが、彼の法則の弱所であろう。
故にこそ面攻撃。空間全てを満たす攻撃。周囲を巻き込む大規模破壊こそが彼の弱点。
大勢を巻き込む破壊をぶつければ、人数倍したダメージを受ける。トーマ・ナカジマが此処で倒れれば、キリエに抵抗の術など残りはしないのだ。
「トーマッ!」
「だ、大丈夫。まだ、大丈夫だっ!!」
内面の共感によって、その被害の重さは分かっている。故に案ずる言葉を叫ぶキリエへと、トーマは歯を食い縛って言葉を返す。
そうとも、未だ倒れない。倒れる訳がない。こんな鬼畜外道に負ける程度では、あの宿敵には届かない。そう想えばこそ、立ち上がる力は確かに湧いて来る。
負けられない。負けるものか。そんな意地で立ち上がり、力を此処に維持し続ける。
協奏を続ける限り、トーマは弱点を抱え続ける。それでも、力の解除は最悪の下策だ。
明媚礼賛の力が消えれば、キリエは役立たずと化してしまう。彼女自身の力では、魔群の蟲一匹を滅ぼすにも時間が掛かる。
この数を前に、その時間は命取り。手数が半分となれば、その瞬間に押し潰されよう。足手纏いが生まれてしまえば、抵抗すら出来ずに押し潰される。
故にこそトーマは痛みに耐えて、必死に力を継続させる。この外道に押し負けて、崩れ落ちる事だけは出来なかったのだ。
「へぇ、頑張るのねぇ。……け、ど、ぜ~んぶ無駄よぉん」
されど、その嘲笑は崩せない。クアットロの嗤いは消えない。どれ程に抗おうとも、既に勝敗は決している。
そうとも、既に終わっているのだ。それを知らずに抗い続ける無知蒙昧。必死な顔で拳を握る彼に向かって、その真実を伝えてやろう。
蟲の群体がぐにゃりと歪む。その頬に当たるが歪な形に引き裂けて、見下す瞳が嗤って問うた。
「ね、トーマ君。さっきは何を食べました?」
「え、――が、はっ!?」
「トーマッ!!」
必死に立っていた少年の喉を、熱い何かが逆流する。血反吐を吐き出すかの様に、口から溢れ出るのは蟲だ。
そうとも、水場は既に抑えていた。何日も前から、この地は既に詰んでいた。水も食料も何もかも、エリキシルに犯されていた。
あったかいものをどうぞ。その言葉は純粋なる善意。饗された晩餐は、間違いなく感謝の印であったもの。
その善意に泥を塗る。その感謝に毒を仕込む。この地で何かを口にしたその瞬間に、トーマ・ナカジマの敗北は決定していたのだ。
「アハハハハハハハハ! 全くお馬鹿さん。私が真面に、相手してあげる訳ないじゃないのぉ! 戦いってのはねぇ、戦う前から勝利しておくものなのよぉっ!」
例えエリキシルであっても、トーマの意志を奪う事は出来ない。同格以上の相手を乗っ取る為には、毒の総量が不足している。
それでもその動きを阻むならば十分だ。胃や腸にまで流れ落ちた飲料食物。それを汚染する毒を爆発させて、圧倒的な量の蟲に変えてしまえばそれで良い。
中から中から、溢れる量は止めどなく。嘔吐が止まる事はない。その苦痛に耐えながら、立ち続けるなど出来るものか。
膝を屈して、身を屈めて、絶え間なく中身を吐き続ける。既に仕込まれていた猛毒の発露に、トーマはあらゆる行動を封じられたのだ。
「っ! こんのォォォォッ!!」
崩れたトーマを庇いながらに、キリエ・フローリアンは両手の銃を撃ち続ける。
エリキシルの汚染はトーマだけではなく、キリエの身体にも影響を与えている。
日常的に摂取していたのだから、総量は女の方が大きい。故により強く影響を受ける筈の彼女は、しかしまだ屈していない。
それは共有の力が故だ。無事な部分を掻き集め、それをキリエに譲渡する。悪い部分は共有せずに押し止めて、故にこその戦闘継続。
主となる己は、良し悪し問わずに全てを受けてしまう。だが従となる相手には、望んだモノだけを共有させる事が出来る。そんな協奏の、これは発展応用発現だ。
己が動けなくなったとしても、それでもこの力だけは絶やさない。意識が遠のく程に苦しみながらも、トーマは必死で力を紡ぐ。
キリエもまた、そんな想いに然りと応える。心も思考も共有するのだ。痛い程に伝わってくる感情に、どうして応えずに居られよう。
二人分の影響を受けているトーマに比べれば、遥かに軽いエリキシルの浸食汚染。
この程度の汚染ならば、協奏で強化された質量差で押し切れる。強化されているから耐えられる。
両手に握ったラピットトリガーにゼロ・エクリプスを付与すると、キリエは痛みに耐えながら撃ち続ける。
倒れた少年を庇いながらに、必死に津波に抗う少女。強い瞳を揺らがせないキリエを見詰め、クアットロは舌打ちした。
彼女の予定では、此処で終わっている筈だった。仕込んだ毒でトーマの意識を奪い取り、そのままキリエを壊して御終いの予定だったのだ。
だと言うのに、トーマは未だ意識を保っている。だと言うのに、キリエは必死になって抗っている。勝ち目はないと、分かっている筈なのに諦めない。その姿に、忌々しいと感じるのがこの小物である。
「ちっ、……けど、まぁ良いわ。だって仕込みは、まだあるもの」
面倒だ。さっさと死んで終われば良いのに。そう思いながらも、その表情を再び笑みに変える。
罠はこれで終わりじゃない。仕込みはそれこそ十重二十重に、一つ通すだけでも詰みとなる一手を大量に、用意してから動くのがこの女だ。
「時間稼ぎはもう十分。さぁ、御開帳よ。出たがってたアンタ達にぃ、出口を此処にプレゼントぉ!」
まるでモーゼの十戒。ユダヤ人の逃避行の時に起きた奇跡を思わせるかの如く、蟲の雲が左右に割れる。
侵入して来た入り口へと、繋がる道が解き放たれる。その事実に一瞬、何を企んでいるかと硬直し――直後にキリエは、この女の意図に気付いた。
目の前に、人が居る。涙を流し、恐怖に震える、この村の人が居る。自分達を追い駆けていた、その人質の姿があった。
動けぬトーマ。固まるキリエ。震える者はベルゼバブ。そんな三者を見下しながらに、クアットロはニヤリと嘲笑を浮かべていた。
「や、やめ――」
「はい残念。BANG!」
びしゃりと、止める暇もなく、その頭が弾けて飛んだ。全身余す所なく、命が砕けて失われる。
そうとも、彼女の目的は時間稼ぎ。時間を稼げば、人質達が追い付くのだ。それを此処で、クアットロは自爆させたのだ。
返り血が飛ぶ。全身真っ赤に染まってしまう。その血の一滴ですら、魂を穢し貶めるエリキシル。
肌を焼くその熱に、焼け爛れる痛みに、しかし震える事すら出来ない。それよりも、衝撃的な光景が視界の先に広がっていた。
人だ。人だ。人の群れだ。誰も彼もが其処に居る。この村の住人達が、全て其処に揃っている。
ゆっくりと、出口から近付いて来る人の群れ。苦しみもがきながらに、足掻く事すら出来ない彼らが何であるのか。クアットロは高らかに告げた。
「さあ、ご覧あれ。人間爆弾の釣る瓶打ちよぉっ!!」
これは即ち爆弾だ。クアットロの指示に従い爆発して、クアットロの敵を討つ為だけの道具である。
暴食の雨の材料として、エルトリアの民を使い捨てる。失われる事を気にする必要などはない。何故ならば、人質はまだまだ大量に居るのだから。
「あ、ああ」
「っっ! クアットロォォォォォッ!!」
「あはは、あははは、あははははっ! 負け犬の遠吠えって、きっもちぃぃぃっ!!」
震えるキリエと、怒りを叫ぶトーマ。そんな彼らの前で笑みを浮かべて、クアットロは腕を振る。
まるで指揮者を気取るかの様に、棒の形に纏めた虫を振り回して悦に耽る。悪趣味な恐怖劇は、まだ終わりなどしない。
破裂する。爆発する。砕け散る。どれ程に止めようと叫んでも、彼らに自由などはない。
まるで火に入る虫である。或いはレミングスの集団自殺だ。涙を流しながらに、無念を叫びながらに、次から次へと死ぬ為だけに行進する。
その行進は止められない。誰も彼もが、次から次へと破裂していった。
「皆。……止めて! 止めてよぉっ!!」
「クソっ、クソっ、クソっ! お前はぁぁぁぁぁっ!!」
「アハハハハハハハハッ! たーのしー!!」
腹を抱えて愉しいと、嗤い転げるクアットロ。そんな女を前にして、拳を揮う事すら出来ない。
返り血で真っ赤に染まって、その度に身体を酸に焼かれるのだ。魂を毒に穢されて、耐え続けるなど出来はしない。
怒りを叫び、ふざけるなと咆哮し、出来る事などそれだけだ。そんな怒りの意志を前にして、クアットロは嗤うだけ。
そしてそんな事すらも、次第に出来なくなっていく。協奏の力で二倍の被害を受け続けたトーマは、遂に異能の維持さえ出来なくなっていた。
「く、そ……」
倒れたままに、意識が遠のく。協奏の光が消えていき、戦う力が失われる。
ダメージを受け過ぎたトーマも、加護を失くしたキリエも、最早クアットロの敵ではない。
幽鬼の如く揺らめきながら、前方を塞いだ人の壁。後方に溢れるのは、数え切れない程の蟲の群れ。
どちらも最早、どうしようもない。彼らに打てる手などはもう残っていない。切れる札は全て、クアットロがブタにした。
だから、女は此処にニタリと嗤う。此処に最期の伏せ札を、愉しそうに見せ付けた。
「さってと、トーマ君も動けなくなってきた所でぇ。真打登場と行きましょうっ!」
血の臭いが充満する地下道に、転移魔法の光が灯る。
呼び寄せられた赤毛の女はぐったりとしたままに、その顔を上げるとニタリと嗤った。
「あ、あぁ……」
エプロン姿の赤毛の女。穏やかな顔立ちに不釣り合いな笑みを浮かべて、そんな彼女も傀儡だ。
意識の有無など関係ない。生活物資の全てが汚染されていたのだから、彼女もベルゼバブになっていたのだ。
そんな笑顔を浮かべた女を、キリエ・フローリアンは知っていた。誰より深く知っていた。
そんな恐怖と絶望を浮かべた少女に向かって、クアットロは腹話術をするかの様に声を作って問い掛けた。
「では此処で問題です。……さぁ、私は誰でしょう?」
問われるまでもない。答えを考えるまでもない。
此処に捕られた最後の人質。誰より失う訳にはいかない、この女性の名は――
「ママ」
エレノア・フローリアン。彼女達が誰より守り通したかった、最愛の母の姿である。
「だいせいか~いっ! 正解者には、な~にがあるのかなぁ?」
ケラケラとゲタゲタと、下品な程にクアットロは嗤う。腹を抱えて嗤っている。
そんな彼女が何をするのか。この魔群が何をするのか。
これまでの経験から分かってしまった。そんなキリエは、懇願するかの様に口を開いて――
「やめて、やめてよ」
「い、や、よ――はい、BANG!」
クアットロは一顧だにもせずに、手にした女を破裂させた。
女の身体が弾け飛ぶ。赤い血潮となって吹き飛んでいく。それでも、まだ絶命はしていない。
「っっっ!!」
「あ、今ので全部吹き飛ぶと思ったぁ? 駄目よ。それじゃあ詰まらない」
吹き飛んだのは腕一本。ならば次は足を飛ばそう。その次は何を飛ばそうか。
母を愛する少女の目の前で、母を捕らえた悪魔は嗤う。その哀れな獲物を嬲りながらに、少女の叫喚を嗤うのだ。
「少しずつ、眼の前で、壊していってあげるからぁ。……じっくりと目に焼き付けてね?」
既に勝敗は決している。最初から勝敗など決していた。仕組まれていた罠は、あらゆる抵抗を許さなかった。
協奏の力は、もう消え失せた。トーマは瀕死の重傷で、キリエに戦う力はない。最早これは闘争ではない。戦いはもう此処で終わり。此処から先は、女の遊びだ。
見せ付ける様にエレノアの身体を壊しながら、クアットロは何も出来ない無様を嗤い続けていた。
「……嫌い、よ」
指が飛ぶ。腕が飛ぶ。足が飛ぶ。目玉が飛んで、内臓が投げ付けられる。
不死の力で再生させて、魔法の力で修復して、そして再び壊し始める。そんな悪趣味な女の遊び。
もう終わる。そう思っても終わらない。そんな光景を前に、キリエは涙を流しながらに叫んだ。
「嫌い。嫌い。嫌い。嫌いッ! アンタなんか、大っ嫌いよォォォッ!!」
「ウフフ、フフフ、アァァァァッハハハハハハハハァッ!!」
癇癪を起こした子供の、駄々を捏ねる様な言葉。それしか言えないキリエを前に、クアットロは嗤い転げる。
一体何処まで笑わせてくれるのだと、女は狂った様に嗤い転げる。そんな魔群の悪意を前に、しかし誰も何も出来はしない。
最初から、この勝敗は決していた。魔群の罠を超えられなかった時点で、この結果は決まっていたのだから。
そうとも、敗北は決まっていた。勝てない事は分かっていた。勝機など、端から何処にもありはしない。
だが、それで良いのか。敗れると決まっていて、此処に敗れた。だからそれで終わりで良いのかと、両面鬼は見詰めていた。
――おい。何してやがんだ。お前?
詰まらないモノを見るかの様に、彼へ向かって問い掛ける。
その意識を繋がる力で強制的に覚醒させて、この今にある光景を見せ付ける。
僅かに覚醒した意識の中、揺らいだ瞳に映るのは涙に暮れる少女の姿。
――女が泣いてんぞ。見っとも無くて嗤われてんぞ。それで寝てるしか出来ねぇとか、おいおいどんだけ無様だお前?
キリエ・フローリアンは泣いている。クアットロ=ベルゼバブは嗤っている。
立ち上がれずに、打ち破られて、だから少女が泣いている。罠に掛かって、無様に倒され、だから女は嗤っている。
それで良いのか、良い筈がない。そんな事、誰に言われずともに分かっている。
だから、腕を動かそうとした。腕が動かないなら掌を、それでも無理なら指先からだ。
立ち上がれ。立ち上がれ。立ち上がれ。出来ないなんて理屈は知らない。立ち上がって見せれば良い。
遠くで見物しながら、野次を飛ばしているだけの両面鬼。そんな身勝手な野郎なんかに、言われる筋合いはないと断言してやるのだ。
――お? 何だよ、俺に出て欲しいのか? 良いぜ。それで全部、終わらせてやろうか? そいつは実に簡単だ。……けどよ、ここで俺に頼るとか、恥の上塗りにも程があるって話だろう?
(誰が、お前なんかに、頼るかっ!!)
ふらふらと起き上がりながらに、嘲笑を投げて来る両面悪鬼に言い返す。
確かに天魔・宿儺が動いたならば、その瞬間に全ては解決するだろう。今も囚われた人々も、直後に救う事が出来るだろう。
だが、神様に頭を下げる訳にはいかない。万策が尽きたと言うなら兎も角、まだ立つ事は出来たのだ。諦めるには早過ぎる。此処で頼っていたのなら、どの道何処へも行けないのだ。
――それで良い。さあ、意地を見せろや男の子っ! 女守って外道を倒す。これに勝る本懐なんかねぇだろうっ!!
立ち上がったトーマの姿を、誰もが注視していない。悦に浸る悪魔も、心を嬲られる少女も、まだ気付いてはいない。
気付いたとしても、最早気にも留めぬであろう。立ち上がるだけで精一杯、前に進むだけの力もなくて――それでも、諦めない意志がある。
ならばそう。必要なのはこの意志を、貫く為の力である。あの外道を倒す為の術を、この瞬間に見付け出せ。
ある筈だ。トーマには在る筈だ。トーマにだけは在る筈なのだ。何故なら彼は神の写し身。この世界の全ての知識が、彼のもう半分に残っている。
魂の繋がりを介して、もう一人の己と繋がる。その膨大な記憶の中には、きっと何か可能性がある筈だ。
遥か遠く穢土にある神体。巨大な蛇の躯の中へと、意識を飛ばして中身を探る。その想いと共有しながら、必要な力を此処に奪い取るのだ。
――私は、私も……何処のケーキ屋さんが美味しいとか、何組の誰々が格好良いとか、話したり、……仲直りしたくて、どう謝ろうか、迷ったり……そんな話が、私も好き
ノイズが走る。ノイズが走る。ノイズが走る。なかった事になった嘗ての想いが蘇り、己を染めんと流れ込む。
涙が零れそうになった。忘れていた事に、張り裂けそうな程に想いが溢れた。その重さに、思わず再び倒れてしまいそうになった。
――お前が、俺に惚れなきゃ意味がねぇだろっ!
ああ、重いな。この想いは重いな。無かった事にされた物でも、きっと重く尊い思いだ。
それでも、もう倒れない。その想いがどれ程に重くとも、トーマのオモイも負けてはいないと断言出来る。
永劫回帰の狭間で消えた想いは、どれ程重くとも所詮は過去だ。今とは連続していない彼の記憶に、負けて良い理由がない。
だから、流れる記憶の中で、それでもトーマはトーマであった。確たる己を揺るがさず、その記憶だけを共感して行く。
――あの永劫に回帰する世界で、なかった事にされた力だ。魂の底に眠る、或いはあり得たかも知れない力。それを引き摺り出しても、お前がお前で居られるならば。
此処まで来た。その日々は無駄じゃない。確かな日常を、トーマ・ナカジマは歩いて来たのだ。
愛してくれた母が居た。守ってくれた父が居た。道を教えてくれる師が居て、共に前を目指す相棒が居て、立ち塞がる宿敵が居た。
そして、本気で愛した女が居る。恋した彼女と見上げた夜空は、とても美しい光景だった。荒野に二人見上げた空を、トーマは決して忘れていない。
この己は重いから、もう吹けば飛ぶような自我じゃない。どれ程に強い想いが流れて来ようとも、もう流されたりはしない。
――俺が認めてやるよ。お前はもう、確かな一人の人間だっ!!
そうとも、トーマ・ナカジマはもう一人の人間だ。故に――彼の影ではないのだと、此処に力を示してみせろ。
「灰は灰に――」
「青い、雷……?」
天魔・夜刀の魂より、力を奪い取って前へと進む。蒼き瞳の少年は、その身に蒼く輝く雷鳴を纏って。
それは遥か過去に失われた力。無かった事になった渇望で、神たる彼ですら使えなくなっていた異なる力。
揺るがぬ己を得た今だからこそ、当時の想いと共感する事で、トーマはこの力を手に入れたのだ。
「塵は塵に――」
「うそ、うそ、うそ!? 何で、蟲が消えるの? 私が崩れる!? 何よ、これぇぇぇぇぇぇぇぇっ!?」
溢れ出す蒼き雷。吹き荒れるのは、血の臭いを消し去る程に清浄なる風。
風を纏って一歩を踏み出す。走りながらに振り撒く力が、魔群の蟲を消していく。ベルゼバブの毒を打ち砕くのだ。
そう。これは刹那を愛した神が、嘗て一度抱いた願い。今に生きる宝石を、大切に想えばこその渇望。
失われた命は戻らない。大切であればこそ、容易く生き返らせてはいけない。帰って来るモノは、所詮その程度のモノなのだ。
何かと引き換えに戻って来る。ならばその命は、引き換えにした何かと等価だ。
それは唯一無二への否定。死者の蘇生と言う解答は、その死者の価値を下げる行為。故にこそ、神は嘗てこう言ったのだ。
「死人は死んでろっ! クアットロォォォォォォッ!!」
死者が、生き返って来るんじゃない。死人の墓を暴くな、と。
それは死者の否定。蘇生と言う事象の否定。既に死んでいるモノを、消滅させる為だけの理。
クアットロはもう死んでいる。愛しい父に殺されて、残るは嘗ての強き狂念。その残滓であればこそ、この理は彼女にとっての天敵だ。
「
蒼い風が吹き抜けて、此処に全てを浄化する。無数の蟲が消え去って、囚われていた人々が崩れ落ちる。彼らの命を傷付けずに、蝕む毒だけを此処に全て消し去ったのだ。
死に至る人々を救い上げ、此処に仕組まれた全ての罠を打ち砕き、トーマ・ナカジマは力強く立っていた。
此処にトーマ・ナカジマは勝利した。魔群の策謀も、悪逆な罠も、全てを乗り越え勝利したのだ。
「ああ、そっか――」
そんな背中を、キリエは見詰める。救われた母を抱き留めて、その大きな背中を一人見詰める。
傷付きながらに諦めず、強く握り締めた拳で敵を討ち破る。そして囚われた人々を、その手で必ず救い上げる。
そんな少年の様な存在を何と言うのか、彼女は確かに知っていた。ずっとずっと、焦がれる程に求めていたのだ。
「貴方が、
蒼い風を纏った英雄。傷付いても尚大きな背中を、キリエはその目に焼き付ける。
彼こそが求め続けた英雄なのだと、この地を救える人なのだと、焦がれる瞳で見詰め続けた。
クアットロさんが浄化された!? 僕らのクアットロさんがっ!? 雑菌処理するかのようにキレイキレイされちゃった!?
……作者は今回の話の後半部分、書いててすっごい愉しかったです。