リリカルなのはVS夜都賀波岐   作:天狗道の射干

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馬鹿な!? 三月中に次が書けただと!?(驚愕)


第二十五話 失楽園の日 其之参

1.

 まるで食道を進む内視鏡になった様。そんな錯覚をしてしまう程に、血肉の臭いがこびり付いた肉塊内。

 浮遊する肉塊の内側に存在するのは、嘗ては戦艦の通路であったのであろう空間。一歩進む事に感じる湿り気を含んだ生温さは、この船が生きているが故の熱であろう。

 

 そんな赤黒い道を進む。白と黒。二色の召喚獣は主を抱えて駆けている。そんな彼らは、共に欠損を抱えていた。

 醜く焼け爛れ、翼を根本から失った白竜。最早飛竜は、空を飛ぶ事すらも叶わない。それでも主の足として、フリードはその歩を止めはしない。

 甲殻の一部が剝げ落ちて、中身も幾つか抜け落ちた黒き虫。先の傷故に本調子ではない昆虫戦士は、今も降り注ぐ破壊の雨から主を庇ってその右腕を失った。

 

 召喚獣らに守られる少女らも、決して無傷と言う訳ではない。吹き付ける破壊の嵐は余波だけでも、人を傷付けるには十分過ぎる。

 身体を焼かれて、その身を傷付けられて、全身に酷い痛みを感じている。少しでも回避しようと激しい機動で揺さぶられて、今にも吐き出しそうな程にその顔色は青褪めていた。

 

 

「ねぇ、ルーちゃん」

 

「なに、キャロ?」

 

 

 共に声を交わす。疲れ切った表情で、此処に言葉を一つ交わす。口にした言葉は、一つの現実だ。

 

 

「辿り着いて、勝てると思う?」

 

「何言ってんのよ。……無理に決まってんでしょ」

 

「そっか。やっぱり、そうだよね」

 

 

 敵は第三の反天使。全てを写し取る魔性の鏡。ヴィヴィオ=アスタロス。

 彼女を前にして、勝ち目はない。勝機などはないのだ。そんな事、当の昔に分かっている。

 

 それでも今更に問うたのは、その顔に浮かぶ疲労が故か?

 いいや、否。その表情は疲れ切っているけれど、その瞳はまだ死んではいない。

 

 強く。強く。強く。前だけを見詰めるその瞳。信じる想いに全てを賭けて、先に進む少女らの口にする言葉は弱音じゃない。

 

 

「でも、勝てないから、救えないって訳じゃない」

 

「そう、そうよね。救えないなんて、取り戻せないなんて、決まってない」

 

 

 全力全開を発揮できる状況で対峙したとしても、百度戦って百度負ける。そんな事は自覚している。

 だがそれでも、何も出来ない訳ではない。辿り着けたら、変わる筈だ。負けるにしても、意味がある筈だ。

 

 ならば――

 

 

「だから、お願いがあるんだ。ルーちゃん」

 

「大丈夫。言われなくても、分かっているわ」

 

 

 余力を残す事に意味はない。切り札を隠す事に価値はない。

 辿り着いたら負ける事は決まっていて、それでも辿り着けたら何かを変える事は出来ると信じている。ならばそう。全ての力を此処に出し切ろう。

 

 

「辿り着くの。其処に辿り着いて、声を掛けるしか出来なくなったとしても、全部を出し切ってでも辿り着くの。だから――」

 

 

 全ての手札をただ辿り着く為だけに。辿り着いたその先で一歩も動けなくなったとしても、きっとそれこそが正しい答え。

 ならば降り注ぐ破壊の雨を前にして、キャロがルーテシアに頼む事は唯一つ。ルーテシアが為す事は、辿り着く為の限界突破。

 

 呼吸を整え、肉塊の上に降り立ったルーテシア。小さな蝶が彼女の傍に、桜吹雪の如くに飛び立ち回る。高まる魔力の果てに呼び出されるは、母より継いだ彼女の切り札。

 

 

「究極召喚!!」

 

 

 そして、揺り籠が揺れる。肉で出来た巨大な穴が、まるで狭まった様に感じる程の白き巨体。

 青き身体に白き甲羅を鎧の如くに纏って、背には蝶を思わせる光の四枚羽。三本の鉤爪で少女らと二匹の獣を抱き上げるのは、召喚虫の頂点が一つ白天王。

 

 全身にスターライトブレイカーを受けながらも、虫の王者は一歩も後退せずに立つ。

 魔鏡との戦いの為にと温存されていた切り札を此処に、辿り着く為だけに少女達は切り捨てたのだ。

 

 

「狭い場所で悪いけど、全てを蹴散らして進みなさい! 白天王!!」

 

 

 雄叫びと共に、大地を揺るがせながらに巨体が動く。背にある翼が羽搏いて、その巨体に見合わぬ速度で飛翔した。

 白天王は揺り籠を進む。肉で出来た空洞の壁に擦れる程、巨大な身体を動かしながらに前へと進む。当然の如く迎撃する機動兵器群を、昆虫王は蹴散らしながらに進んで行く。

 

 だがその行進は、快進撃と言うには程遠い。無傷で進行出来る程に、この防衛網は甘くはなかった。

 その巨体が放つ衝撃波と、魔力砲にて機械群を蹴散らしている白天王。それでもその身は余りに巨大。故に彼は受ける砲火を躱せない。

 

 唯火力だけに特化した兵器群。対エース向けに作られた防衛兵器。それらからしてみれば、白天王など大きな的にしかならなかったのだ。

 仮にも究極召喚。偽りの星光の一撃では、揺るぎもしないと断言しよう。だが、3000の砲門。其処から放たれる砲火を浴び続ければ話も変わる。ましてやS型の砲撃は、一発限りの使い捨てと言う訳ではないのだ。

 

 Ⅴ型に足を止められて、S型の砲火に身を削られる。その巨体故に閉鎖空間では回避など出来なくて、受ける砲撃に耐えるしかない。

 故にこれは想定出来た事。元より魔力反応がある地点までは距離があり、其処に辿り着くまでに白天王が持たないとは分かっていたのだ。

 

 だからこそ、温存していた。だからこそ、切ると決めた瞬間に白天王の敗北は決まっていたのだ。

 

 

「お願いだから、もう少し、持ってよね。白天王」

 

 

 それでも、この防衛網の中を進めるのは白天王だけだ。僅か数発で撃墜させられるフリードやガリューとは異なって、この昆虫の王だけが砲撃の雨に耐えられる。

 だからもう少しだけ持ってくれと、ルーテシアは祈る様に言葉を紡ぐ。そんな彼女の祈りに応える様に、白天王は一つ吠えると傷付くその身の飛翔速度を引き上げた。

 

 

「一番強い魔力反応まで、あとちょっと。――っ!? ルーちゃん!!」

 

 

 後僅か、先に見えたのは巨大な門。それこそ制御中枢。艦首付近に存在する玉座の間。

 キャロが驚愕を顔に浮かべたのは、その扉が見えたからではない。切羽詰まった表情で彼女が見詰める先、其処には一つの壁があった。

 

 

「隔壁が下りて来てるっ!?」

 

 

 それは文字通り壁だった。蠢く肉の壁が音を立てて、緩やかに落ちてきているのだ。

 隔壁閉鎖。単純な侵入対策の一つであろうが、壁の一つも壊せぬ現状では対処策の存在しない対応だ。

 

 

「急いでっ!!」

 

 

 このままでは先に進めなくなる。袋小路に追い詰められて、星の光に焼かれて全滅しよう。

 故に無理を言っていると分かっても、それでも少女はそう叫ぶ。そんな主の悲痛な叫びに、それでも白天王は確かに応えた。

 

 速く。先よりも、今よりも、少しでも速く。間に合わない距離を全力で飛翔する。

 そうして、抜けた。撃ち抜けぬ肉の壁が降り切る前に、白天王はその上半身だけを届かせた。

 

 だが――それすらも、彼の狂人が残した悪辣な罠。

 

 

『っ!?』

 

 

 目的地を前にして、突然道が閉ざされようとすれば誰であろうと焦るであろう。

 その先に何かが隠れているかなど、考える余裕がないのだ。先ずは詰まない為にと、全力で無防備に飛び込んでしまう。

 

 そんな心理を利用した罠。その隔壁の先に控えていたのは、500の内が半数にも届く程に大量のS型。

 1500の球体が、唯一点を補足する。標的となったのは、肉の隔壁に挟まれて動けぬ白天王。降り注ぐのは、情なき機械の破壊光。

 

 イミテーション・スターライトブレイカー。激しい破壊の雨が降り注ぐ中、白天王は蹲る。

 両手に抱えた四つの命を、己の背を丸める事で守り通す。絶え間なく襲い来る力を、その背で全て受けるのだった。

 

 

 

 そして、どれ程の時が過ぎたのか。一分か十分か、気が遠くなる程に長い体感時間の先。

 遂に全てのS型が、燃料切れとなって地面に落ちる。無数の球体が転がる中に、焼け焦げた虫の残骸は崩れ落ちた。

 

 胴は半ばから押し潰されて、下半身はもう繋がっていない。背中の甲羅は溶け落ちて、中身も殆ど焼け焦げた。半ばまで融解した白天王は、それでも未だ生きていた。

 錆びた扉の様に重い動作で腕を動かし、掌中に守った者らを肉の大地へ優しく下す。小さき命を見据えるその瞳には、嘆きも哀切も後悔も何もなかった。唯進めと、思う所を為すが良いと、その瞳は見詰めていた。

 

 

「……ありがと、白天王。ゆっくり休んで」

 

 

 だから彼を見上げるルーテシアは、謝罪ではなく感謝を口にする。

 此処まで連れて来てくれてありがとう。そんな言葉に頷いて、白天王は命を終えた。

 

 

 

 そうして、少女達は其処に立つ。目の前にある扉の先に、艦首玉座の間が存在している。

 全てを出した。最早隠す札も切れる手札も、何一つとして存在しない。それでも二人と二匹は迷わず、その扉の前に立つ。

 

 

「それじゃ、行くわよ。ガリュー。……馬鹿な主人に仕えたと、諦めて共に進んで貰うわ」

 

「…………」

 

 

 ルーテシアのそんな言葉に、隻腕の甲虫は無言で頷く。

 

 是非もない。迷いはない。主と定めた者が、救うと決めた。

 ならば己はその為に、命を賭して進むだけだとガリューは心に決めている。

 

 

「ゴメンね、フリード。私の自分勝手で、きっともっと痛い想いをする。だけど、お願い」

 

「きゅくるー!」

 

 

 御免ねと謝るキャロの言葉に、フリードはしかし強く応える。

 謝る必要はない。あの幼子を救いたいと願うのは、共に遊んだフリードも同じく。故に謝罪などは要らないのだ。

 一緒に行こうと、白竜はそのつぶらな瞳に想いを宿す。それが分かったキャロは、嬉しそうに小さく頷いた。

 

 そして、二人と二匹。皆で揃って、扉に手を掛ける。

 

 

「漸く、辿り着いた」

 

 

 ゆっくりと、扉はゆっくりと開いていく。

 

 

「此処まで、来れたよ」

 

 

 想いを込めて、強い意志で想いを込めて、万感の想いで彼女を呼ぶ。

 

 

『ヴィヴィオ!!』

 

 

 扉が音を立てて開くと同時に、玉座に座っていた少女は瞳を開いた。

 

 

「……驚きました。あの防衛網を超えて来るとは」

 

 

 翡翠を思わせる緑の右目。紅玉を思わせる赤の左目。

 金糸の短い髪が揺れる。幼い背に刻まれた醜い火傷痕の直ぐ傍には、白く透明な光の翼。

 

 玉座より立ち上がった幼子は、余りにも小さい姿をしていた。

 

 

「ですが、既に死に体。それで一体、何が出来ると言うのですか?」

 

 

 ヴィヴィオ=アスタロス。五歳前後の肉体に、宿した力はしかし極大。

 空へとゆっくりと浮かび上がって見下す彼女は、その行動で、その言動で確かにそれを示している。

 

 

「この身は第三の反天使。貴女方が届く程に、矮小な存在ではありません」

 

 

 お前達では勝ち目はない。何も出来ずに終わると断じよう。

 だから――何だと言うのだろうか。自分の中でも咀嚼出来ていない感情を持て余しながら、ヴィヴィオは少女らを見下した。

 

 吹き付ける魔力は最早暴力。放つ気配だけで潰されそうに。

 それでも全力ではないのだろう。それが分かって、それを理解して――キャロとルーテシアは小さく笑った。

 

 

「なんだ、思ってたより簡単そうじゃない」

 

「うん。そうだね。ルーちゃん。これならきっと、何とかなる」

 

 

 笑う。小さく笑う。浮かべた笑みに欠片も負の色はなく、日常で浮かべる当たり前の笑顔。

 血塗れで、傷だらけで、余りに多くを失って――目の前には勝てぬ強敵。それで何故笑うのであろうか。

 

 

「……何を言っているのですか、貴女達は? 力の差が分からないと、それ程に愚鈍ではないでしょうに。それでも、勝ち目があると」

 

 

 ヴィヴィオは眉を顰める。表情が死んだ彼女の瞳に、僅か浮かぶ色は不快と困惑。

 分からない。分からない。分からない。何を笑っているのかが分からずに、それ以上に何故これ程に気になるのかが不快である。

 

 

「ううん。勝ち目はないって、分かってるよ」

 

「ならば何故? 気でも触れたと言うのですか」

 

「まさか、イカレマッドと一緒にするんじゃないのよ!」

 

 

 立っているのが限界だろうに、二人の少女は笑顔で語る。その浮かべた表情に覚えがあった。

 一緒にクイズをした時だ。二人は答えが分かっていて、ヴィヴィオだけが答えられなかった下らぬ頓智。その時に浮かべていたニヤつき笑いと、今の笑みは何処か似ている。

 

 そんな風に一瞬、記録でしかない筈の記憶が胸に浮かんで、その時に感じた不満も蘇って臍を噛む。

 何だこれは必要ない。この場でこんな不快などは要らないだろうに、どうしてこんな物が脳裏に浮かぶのだ。

 

 忌々しいとヴィヴィオは頭を振って、その思い出を振り払った。

 

 

「……理解が出来ません。意味が分かりません。貴女達は勝ち目がないと理解して、狂気に歪んだ訳ではないのに、何故――笑っているのですか?」

 

 

 そして問う。何を笑っているのかと、問う必要もないのに問う。

 形容し難い不快感と苛立ちを胸に抱えたままに、問い掛けるヴィヴィオを前にキャロとルーテシアは揃って答えた。

 

 

「そりゃ決まってんじゃない」

 

「うん。決まってるね」

 

『意外と感情的だったから』

 

「……は?」

 

 

 何だそれは。何なのだそれは。理解出来ない答えを前に、ヴィヴィオはその疑問に囚われる。

 意味が分からない。訳が分からない。何故笑っているのかと言う問い掛けに、何故感情的だからと言う言葉が返るのか。

 

 疑問。疑念。困惑。動揺。無数のマルチタスクが混線し、魔鏡アストは呆気に取られる。

 そんな茫然自失とした幼子を前にして、キャロとルーテシアの二人はその答えの理由を此処に語るのだった。

 

 

「もっとあれよ。機械的な対応、みたいなのを予想してたの」

 

「完全に心が閉じてたら、正直どうしようって思ってたんだ」

 

 

 心を閉じて、機械的になっていたなら言葉すらも届かなかっただろう。

 先ず心を開かせる為に何かをせねばならなくて、それが出来るだけの余力が二人にはもう残っていない。

 

 だから、感情的で助かった。打てば響く物があるなら、暖簾に腕押しとはならないのだ。

 志し半ばに倒れても、その心に亀裂を入れる事は必ず出来る。言葉が届くのならばきっと、感情が動いているならきっと、ヴィヴィオ・バニングスは取り戻せるのだから。

 

 

「……まさか、私は冷静です。感情など、この行動に入る余地はない」

 

「ならさ。どうしてさっさと、潰しに来ないのよ」

 

 

 ヴィヴィオが口にするのは、そんなあからさまな取り繕い。

 そんな不出来な言い逃れ、ルーテシア・グランガイツは一蹴する。

 

 

「……取るに足りないと、冷静な思考でそう判断出来ている。故に先ずは問答を、其処に他の意図などはない」

 

「嘘。取るに足りないって言うなら、それこそ問答の必要もないよね?」

 

 

 無理矢理にとって付けた様なそんな理屈。

 無表情を保とうとする幼子の稚拙な言葉を、キャロ・グランガイツが論破した。

 

 

「…………」

 

 

 言い逃れは出来ない。そもそも自覚していたのだ。

 感情が要らないと。そんな物は不要だと。そんな理屈に執着する事。それ自体、感情的になっていると言えるのだから。

 

 

「そもそもの話。大前提から間違ってんのよ。だってアンタ、私達を殺せなかったじゃない。もうバレてんのよ、それ」

 

 

 自覚している。理解している。ルーテシアは選ばれなかった。

 歪み者ではなく、希少技術保有者ではなく、そんな彼女は失楽園の日に薪となる立場にあったのだ。

 

 そうならなかったのは、実行者の少女が迷っていたからに他ならない。

 

 

「…………さい」

 

「自覚はある。私達はきっと、選ばれてない立場なんだって。……だけど、貴女は私を助けてくれたよね?」

 

 

 分かっているのだ。受け入れている。キャロは決して選ばれてなど居ないのだ。

 ジェイル・スカリエッティの選別。それから漏れた少女らは、薪として消費される事が決まっていた。

 

 そうならなかったのは、実行者の少女が友達を殺す事が出来なかったから。

 そんな小さな感情の揺らぎ。そんな物、触れた時に気付いている。だから未だ救えるのだと、彼女は判断したのだ。

 

 

「…………うる、さい」

 

「とっとと帰るわよ。んで、雷親父より怖いお母さんに尻叩きでもされなさい」

 

 

 ルーテシアの言葉と共に、脳裏に浮かぶのは恐ろしい母の姿。こんな事を仕出かした娘を、あの女傑は決して許してはくれないだろうと――カット。

 受け入れては貰えないかも知れないと恐れた思考に苛立たしさを感じながらに、アストは無意味に流れた思考を切り替える。己はアストだ。ヴィヴィオではないのだと、だから戻る事など出来なくて――カット。

 

 これは間違いだ。これは過ちだ。己は母などどうとも思ってはいないのだ。だからきっと、怒られる未来を予想して震えるなどは間違いだ。怯えて様子を伺おうとして、あの時触れて弾かれたのは関係ないのだ。

 

 そんな言葉。誤魔化しと理解している。選別して残すべきであったアリサ・バニングスに、あの時干渉したのは間違いだったし、それで弾かれて逃げ出したのも過ちだったと自覚している。だから自分(アスト)は壊れていない。

 

 

「うるさい」

 

 

 なのに、こんなことを考えてしまうのは、この音の所為だ。こんな声の所為で、思考が無駄に流れてしまう。堂々巡りを始める前に、マルチタスクを操り思考を変える。

 本当に忌々しい。何なのだこの不快感は。理解が出来ない感情の奔流に、こんな声など聞きたくないとヴィヴィオは小さく呟く。

 

 己はアストだ。感情のない人形。全てを写す水鏡。ヴィヴィオは居ない。そもそもそんな物、最初から居なかった。

 あの自分は、その辺に居た子供の模倣。母と手を繋いでいた小さな少女。写し取った感情は、模倣を高める為だけにした行為。

 

 だからそれを切り捨てた今に、ヴィヴィオが残っている筈がない。だと言うのに、何故これ程に不快となるのだ。

 

 

「帰ろう。ヴィヴィオ。こんな場所に居るより、帰って一緒に遊ぼうよ」

 

 

 一緒に遊ぼうと言われて、浮かんだのは六課の隊舎。

 青い子犬と白い小さな竜と一緒に、遠く転がるボールを一生懸命追い掛けて――

 

 

「うるさい!」

 

 

 また無駄に沈みそうになった。そんな思考を怒鳴り声と共に外へと散らす。喚き散らさねばならぬ程に、この雑音は不快であった。

 

 

「うるさい! うるさい! うるさい! うるさい! うるさい!!」

 

 

 分からない。分からない。何だこれは、分からない。

 作った物は偽りで、過ごした己は偽物で、なのにどうして消えていない。

 捨てた筈だろうに、もう要らない筈だろうに、何でこんな物がまだあるのだ。

 

 

「貴女達は何なんだ!? 勝手に土足で入り込んで! 私の中をぐちゃぐちゃに乱す! 分からない分からない分かりたくないっ!!」

 

 

 その姿は正しく子供の駄々。嫌な物を前にして、駄々を捏ねる子供と同じだ。

 見たくない。聞きたくない。分かりたくはないのだと、もう分かっている答えを遠ざける。

 

 分かっているのだ。答えは出ている。理由なんて一つだろう。

 発端は偽りだった。見せていた己は唯の虚像。だがそれでも――過ごした時間は本物だった。

 

 だから優しい蜜は少しずつ、染み込む様に犯していた。

 温かな陽だまりと言う光景は、無色の鏡には正しく劇毒だったのだ。

 

 故にアストは壊された。何も知らなかったからこそ、余りに簡単に壊れていた。

 その残った傷跡こそがヴィヴィオ・バニングス。捨てた形に広がった、それこそ心の傷である。

 

 

「……大事なのは、安定していると言う事」

 

 

 苛立ちを全て吐き出して、呼吸と共に思考を切り替える。

 感情の全てを内に飲み干して、無表情へと戻ったアストは静かに告げた。

 

 

「真の異常とは、自分を見失った者を言う。内に入り込む者がなければ、それ即ち強固に安定すると言う事。強固に安定した者は例え孤立しようとも、己を見失う事がない」

 

 

 それは彼女の持論である。人形であればこそ、安定していると言う論理である。

 

 例えそれで孤独となっても、其処に挟まる異常が無ければ己は揺れない。

 揺れると言うのは、浮遊していると言う事。己の足場すら不安定では、落ち着かないし不安になる。そんな揺らぎは嫌なのだ。

 

 

「この感情は余分だ」

 

 

 感情は揺らがせる。己から安定を奪い取る。

 だから不要だ。だから要らない。こんな物、アストはさっさと捨て去りたいのだ。

 

 

「この動揺は不快だ」

 

 

 取るに足りない弱者の言葉で、こんなにも揺らされてしまった。

 この浮遊感は不安になる。ざわざわとした物が胸に湧き出して、兎に角気持ちが悪いと感じるのだ。

 

 

「貴方達と言う存在は、即ち不要だ」

 

 

 切り替えよう。切り替えよう。切り替えよう。そう思っても、彼女たちがそれを許さない。

 唯の友人。そんな関係に命を賭けて、必死に此処まで来た少女達。その行動が、その言葉が、その瞳が許さないのだ。

 

 血塗れの姿を見ていると、心がざわざわして落ち着かない。

 ボロボロになっても進む姿に、胸が痛くて痛くて不快になる。

 機械的に逃げようとするその思考を、許さないと強い瞳が射抜くのだ。

 

 だから――

 

 

「だから――私に入り込む者など、全部消えろっ!!」

 

 

 これを消してしまえばきっと、この不快感は全て消え失せる筈である。

 そう判断したアストは己の感情を吐き捨てる様に叫ぶと、堕天使としての力を此処に示すのだった。

 

 

 

 

 

2.

 底の底の底の底。泥より深く、糞尿よりも汚らわしく、何もかもが終わった場所。

 悲鳴が聞こえる。憎悪が木霊する。絶望の汚濁に染まった底は、奈落と言う名の夢界。ジュデッカと呼ばれるイェホーシュア。

 

 其の底にある一つの意志。その魂が、痛みに苦悶を浮かべている。

 繋がれている。彼はジュデッカに繋がれている。その身を繋ぐは死人の鎖。憎悪に歪んだ残骸の群れ。

 

 生皮剥がされた血肉の残骸。瘦せこけた肉を晒す死人の群れが、痛みと共に叫び続けている。

 お前が殺した。お前が奪った。お前がお前がお前がお前が――誰も彼もが憎んでいる。憎悪の叫びを上げていて、それさえ忘れたかと憤怒していた。

 

 

「嗚呼、そうだ。僕が奪った」

 

 

 思い出す。一つ一つと思い出す。奪ったから忘れないと心に誓って、奪うからには背負うと心に決めていた犠牲者たち。

 何時しか悪魔に近付いて、彼らの顔を忘れていた。死んだ者は無価値と同じと、背負う物すら投げ捨てて忘れ去っていた。

 

 そんな犠牲者達の憎悪に、エリオ・モンディアルは思い出す。

 己も同じ場所に堕ちたから、きっと何かが崩れたのだろう。殺した彼らの存在を、今になって漸くに受け止めていた。

 

 

「言われるが儘に、こんな事なんて望んでなかった。そんなのは免罪符になりはしない。分かっているんだ。分かっていたとも」

 

 

 奪った彼は、奪われた彼らに向き合っている。被害者にして加害者は、この今に己の罪を受け入れる。

 ああ、何と重いのだろう。身動きすら出来ぬ程に積み重なる憎悪は、己が奪い続けたモノ。重なる罪科が示すのは、此処で終われ言う判決。

 

 嘆きと憎悪と絶望に満ちた地獄の中で、誰も彼もが口にする。

 全ての痛みを共感する人々が、阿頼耶識と言う存在がエリオ・モンディアルを否定する。

 

 お前は死ね。ここで死ね。そして永劫、この奈落の底で苦しみ続けろ。

 それがエリオに出来る唯一無二の贖罪。死した者らが彼に求める、たった一つの末路であった。

 

 

「そうだね。君達と共に、この地獄で無間の苦痛を。……それが僕に遺された、たった一つの贖罪なんだろうさ」

 

 

 死者が積み重なる。死人が纏わり付く。縋る様に、掴む様に、それを振り解く事など出来ない。

 罪深いと自覚して、どうしてそれを切り捨てられようか。奪った事を悔やんでいて、どうして彼らを否定出来よう。

 

 だが――

 

 

「だけど――御免ね」

 

 

 一つだけ、理由があった。その願いを許容出来ない理由が、エリオ・モンディアルにはあったのだ。

 空を見上げる。地の底から、地獄の底から、奈落の底から、何時も見上げるその青空。其処には何時だって、あの輝かしい夢追い人の姿があった。

 

 

〈エリオォォォォォォッ!!〉

 

「アイツが、呼んでるんだ」

 

 

 憧れた。羨んだ。同類の哀れみを抱きながら、許せないと見上げた空に浮かぶ星。

 そんな彼が今も居る。悪魔の王に嬲られながら、それでもエリオの名前を呼んでいた。

 

 

〈負けんじゃねぇよっ! こんな奴にっ! こんな悪魔なんかに負けてんなぁぁぁぁっ!!〉

 

 

 戦場は一方的だ。戦況は言うまでもなく、そもそも戦いと呼べる体をしていない。

 威圧だけで潰される程に強大なナハトに嬲られながら、トーマ・ナカジマはのたうち回る事しか出来ていない。

 

 

「アイツが待っている。必ず来ると確信して、あんな無様にのたうち回るしか出来てないのに。それでもアイツは待っている」

 

 

 それでも、名を呼んでいる。彼は唯一人、エリオだけを見て名を呼んでいる。

 悪魔の王など取るに足りない。こんな奴は小石に過ぎない。だから負けない。負けられない。アイツだって、負けない筈だと。

 

 そんな勝手な信頼感。きっと出てくると確信している。だからその為に、生きてやるのだと足掻くその姿。

 

 

〈出てこいよ! このままだと、僕の不戦勝だ!!〉

 

「負けたくないんだ。……だから、行かなくちゃ」

 

 

 負けられない。アイツにだけは、負けたくない。そうともトーマは抗っている。

 ナハトに蹂躙されながら、その度に己の魂を磨き上げて喰らい付いている。勝ち目なんてないのに、宿敵が必ず間に合うと信じているのである。

 

 エリオがそれに答えられずに崩れ落ちたとしても、それはトーマの敗北ではないのだ。

 過度な期待を掛けたなどとは、口が裂けても言う訳にはいかない。アイツは出来ると信じた。ならば己が為さなくては、文句も言えない程に負けてしまう。

 

 ああ、そんな結果、どうして納得できるのか。

 

 

〈納得できるか!? そんな結末っ!! こんな終わりなんて、こんな決着なんて、お前も望んでなんかいないんだろうがっ!!〉

 

「ああ、そうだ。こんな結末は望んでいない。このまま、底で終われる物か」

 

 

 だからエリオは立ち上がる。重みを払う事も出来ずに、それでも負ける物かと立ち上がる。

 負けたくないのだ。アイツにだけは、絶対に負ける訳にはいかないのだ。それは唯の反骨心。当たり前で下らない、そんな小さな男のプライド。

 

 そうして立ち上がったエリオの姿に、死人の群れは怒り狂う。

 そんな自分勝手な理由で歩き出す姿に、どうしてお前だけがと憎悪を叫ぶ。

 

 それすら、今のエリオは小さく笑って受け止めた。

 

 

「恨むなら恨め。その恨みを背負って進もう」

 

 

 恨みたければ好きにしろ。それだけの業を抱えて来た。

 お前達には恨むだけの資格があって、己には恨まれると言う義務がある。

 

 それでも、足を止める事だけはしない。怨嗟の声を背負ったままに、エリオは一歩を此処に踏み出す。

 

 

「憎むなら憎んでくれ。何時か必ず流れ出して、君達を救うと誓うから」

 

 

 何時かきっと、救うと誓う。そんなのは免罪符にならないと、何より彼が分かっている。

 それでも良い。これは所詮自己満足だ。自分勝手な答えを出して、だからその為にももう立ち止まれない。

 

 

「決着を付けたいんだ。だから、僕は進むよ」

 

 

 足を進める。胸に燻るその熱は、男としての誓いと負けん気。

 前を見る。空を見上げる。何時だって地獄の底から歩いて来た。何時だって、その空を見上げていた。誰にも頼らず、歩いて来たのだ。ならばきっと、此処からだって歩いて行ける。

 

 

「道は見えている。繋がっているんだ。僕を動かしていた繰糸を、アイツは未だ捨ててない。だから――」

 

 

 ナハト=ベリアルは今も尚、エリオの身体を使っている。

 そうである以上、其処に必ず繋がりは残っている。エリオと言う死人を動かしていた、その繰糸は残っているのだ。

 

 だから、それを辿って進む。重い荷を背負って、少しずつ近付いていく。

 コギト・エルゴ・スム。我が我である為に、誰でもない悪魔から取り戻すのだ。

 

 

「返してもらうぞ。ナハト。それは僕の身体だ」

 

 

 複製の身体。偽物の自我。だから何だと言うのだ。我は今も此処に居る。

 消えてないのだ。失くしていない。我を思う我が居る限り、この身は夢の怪物になど負けはしない。

 

 

「返してもらうぞ。ナハト。それは僕の宿敵だ」

 

 

 宿敵を見上げる。その身はまだ遠く、それでも眼を焼いてしまう程に輝いている。

 嗚呼、負けるものか。お前にだけは、負けるものか。負けたままで、終われるものか。

 

 望んだ事は唯一つ。胸に燻る微熱に薪を、油を注いで焔に変える。

 腐った炎なんて要らない。与えられる勝利など望んでいない。欲しいのは唯、この今に僅かでも動く身体だけ。

 

 

「返してもらうぞ。ナハト! これは、僕が望んだ決着だぁぁぁぁぁっ!!」

 

 

 だから、手を伸ばした。遥か高みへ、地獄の底から空へと伸ばした。

 

 

「なに」

 

 

 悪魔が驚く。唯一言、何が起きたかも分からず戸惑う。

 そうして、表裏は入れ替わる。僅かな驚愕の隙間を付いて、奈落の底から少年は戻って来た。

 

 

 

 荒い呼吸を整えて、少年達は互いを見る。疲弊し切った心身を、意志で束ねて敵を見る。

 負けたくない。絶対に負けられない。そんな相手を互いに見詰めて、何でもない事の様に口を開いた。

 

 

「……ゴメン。待たせた?」

 

「……遅いんだよ。遅すぎて、眠っちまうとこだった」

 

 

 まるで日常の一風景。待ち合わせに遅れたかの様な謝罪に、ごく平凡な文句を返した。

 そして相手を見て笑う。互いに酷い状況だ。そんな相手の姿に、無意識の内に苦笑を浮かべた。

 

 

「随分と痛めつけられたみたいだけど、未だ戦う余裕はあるのかい?」

 

「お前こそ、今にも吐きそうな面してるぜ。そんな様で、何が出来るってんだよ」

 

 

 トーマは全身の骨を幾つも砕かれ、血塗れの顔は無様に膨れ上がっている。

 魔力こそ残っているが、それだけだろう。傷が治るよりも前に痛めつけられて、何時意識を失くしても可笑しくはない。

 

 エリオも酷い状態だ。隙を突いて肉体を奪い返したが、ナハトの方が強い事実は変わっていない。

 腐炎を呼び出そう物なら、その瞬間に乗っ取られる。そうでなくとも、この自我を保っていられる時間はそう長くはないだろう。

 

 

「ああ、そうだね。背負ったモノが重過ぎる。ナハトだって健在だ。少しでも気を抜けば、その瞬間にも僕は御終い。全力の一振りと引き換えに、また奈落に堕ちるんだろうさ」

 

「全く、ホント嫌になる。散々に痛め付けられたんだ。足腰全部ガッタガタで、今にも倒れそうな状態だよ。本気の一発ぶち込めば、その反動で動けなくなっちまうんだろうさ」

 

 

 そんな分かり切った事実を相手に指摘され、隠し通す余力すらも残っていない。

 だから二人の少年は、互いに同じ選択をする。口にする言葉は開き直りだ。隠し通す事が出来ないならば、素直に全てを明かして良い。

 

 そしてその後の言葉も同じく、同じ意志を、違う口から音に紡いだ。

 

 

『だけど――決着を付けるには十分だ』

 

 

 全力を出せるのは唯一度。事此処に至って、互いの実力差などは最早無意味だ。

 如何に全力を外さずに、相手に打ち込む事が出来るか。勝敗を分ける要素はそれだけで、故に当てる為の策が意味を為す。

 

 ある程度拮抗していればこそ、作戦と言う物は意味がある。故に今の彼らの差は、奇策でひっくり返せる程度の強弱でしかない。

 だが、だからこそだろう。拮抗したこの状況だからこそ、言い訳の一つも出来ない程明確に彼我の勝敗が着くと言う物。決着を付けるには丁度良い。対等の条件なのだ。

 

 

「ふふっ」

 

「ははっ」

 

 

 互いにそんな思考に行き付いて、不意に吹き出す様に笑った。

 憎悪も憤怒も未だにあって、それでも隠し切れない程度の歓喜があった。

 

 ああ、そうだ。楽しんでいる。相手の事を理解したその時に、楽しいと揃って感じてしまった。

 故に少しだけ夢想する。或いはもしも、出会い方が違っていたら。互いの立場が少しでも、今と違っていたならば――もしかしたら、この相手とは一番の友に成れたのかも知れない。

 

 波長が合うのだろう。思考が合うのだ。僅かな一瞬の共感に、揃ってそんな夢を見た。

 されどそれは唯の夢。最早互いは不倶戴天。存在すら許せぬ程に、憎悪を重ねて来たのだ。分かり合えよう筈もない。

 

 故に――決着を始めよう。

 

 

「さあ、始めよう。後悔なんて残さない。正真正銘の全力全開で――」

 

「他の誰かの思惑なんて、知った事じゃない。俺達だけの決着を――」

 

 

 互いに構える。槍と銃剣。特殊な力など使わない。使えないし使わない。

 余力はないのだ。思考が回らない。故に考えるのは唯一つ、如何にしてこの一撃をこの宿敵に叩き込むのか。

 

 それだけを考え、それだけを思い、それだけを貫き通すのだ。

 

 

『行くぞぉぉぉぉぉぉぉぉっ!!』

 

 

 同じ言葉を此処に叫んで、同じように大地を蹴った。同じように飛翔して、想うは同じく己の勝利。

 負けん気だけで立ち続ける少年達は、こうして此処に雌雄を決さんと己の全てを賭けるのだった。

 

 

 

 

 




〇地上本部跡地にて、漢祭り絶賛開催中。

ティアナ「蚊帳の外感が酷いんだけど、これ……」
リリィ「やっぱり、最大の恋敵(ライバル)はエリオだった!!」





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