なお、橙は出てきませんのでご了承ください。今回はあくまで、八雲の姓を持つ二人だけです。
「うーん……」
ポリポリと、青年は頭をかく。困ったなあと、彼の口からはそんな声が漏れている。
「――お元気?」
悩む彼に、突然声がかけられた。彼の家、彼以外居ないはずのこの場所で聞こえた声に、しかし青年は驚くこともなく返事をする。
「まあ、元気かな」
返事をしつつ、彼は視線を声の主へと向ける。するとそこには、金髪の、何処か不思議な雰囲気を持った女性が、我が家のように寛いでいる。八雲紫という、妖怪の賢者と称される女性だ。非常に強力な能力を持っている妖怪だが、彼からすれば何処にでも移動できる女性、といったところであった。
「何か、悩んでいたようだけれど?」
そんな彼女の言葉に、彼は、はは、と苦笑する。どうにも、隠し事ができないなと、そんな風に思いつつ彼は口を開く。
「いや、ね。最近なんか、避けられている気がしてね」
「避けられている、とは? まさか、私達のことを言っているわけじゃないでしょう?」
「だったらここに紫が居るのは変だろう? 避けられているというのは、ご近所さんからだよ」
青年が住居を構えているのは、人里でも外れの方だ。だが、そこに住んでいる人たちまでは外れではなかったので、彼がここに来てから今まで、あくまで彼の主観ではあるものの、良好な関係を築けていたと思っていた。が、しかし。最近はそうでもないと、そんな風に彼は感じていた。
「挨拶をしても、ちょっと反応が妙だし、おすそ分けの交換なんてのもとんとなくなった。……何か、避けられている感があってね」
「あら、あら」
彼の言葉に、しかし紫は口調こそ困っているようであるものの、その声には嬉しげな色が混じっているように聞こえる。そのことに彼が不満げな視線を向けると、彼女は何でもないかのように、その手の扇で口元を隠してしまう。
「避けられているのなら、それはそれでいいじゃありませんか。私達の家に来る決心も固まるというものでしょう?」
「……いよいよもって、それが選択肢に上がってきたって所だね」
ふう、と彼は一つため息をつく。前々から、それこそ彼が幻想郷に迷い込んだ時から誘われている、八雲家の世話になるという選択が段々と現実味を増してきている。ただ、だとしてもまた、彼にそれを選ぶ気はなかった。
「だけど、まだその気はないよ」
「そう。残念ですわね」
これは本当に残念そうに、紫は扇の裏で息を漏らす。いつかは外の世界に、家族の元に帰るからと、そう言って自分達の誘いを断る彼を、しかし彼女たちも諦めはしなかった。それがどういう意味を持っているのか、何となくは青年も分かっていたものの、あるいはだからこそ彼は彼女たちの想いを受け入れようとしない。
「また来ますわ」
しかしその彼を見限ることもなく、紫はまた来たときと同じように忽然と姿を消す。彼女が去った場所を、何となしに青年がぼうっと見続けていると、何故か突然に、再び彼女の姿が現れる。
「あれ?」
「一つ、忘れていましたわ」
そう言って、彼女はそっと彼の頬を撫で、
「――まだ、家族の元に帰りたいと思っている?」
そう、耳元で囁くように問いかけた。
「……ああ、勿論だよ」
「…………そう」
彼の返答に、やはり残念そうに吐息を漏らした彼女は、彼の額に軽く口付けを落とした後、
「また来ますわ、私達の――愛しき人」
そう言って、再び忽然と、その場から姿を消す。今度こそ、すぐに戻ってくるということはないだろう。
「……」
彼女が触れた頬と、額を軽く撫でて、青年はまた一つ頭をかくのであった。
「大丈夫か?」
「ごめん、大丈夫」
さし出された手を、青年は掴む。その柔らかさからは想像がつかないほど強い力で引っ張られ、彼は倒れていた身体をぴしりと立ち上がらせる。
「まあ、怪我はないようだからいいか。妖怪に襲われて無傷なら上々だ」
「はは、逃げ足には自信があるからね」
人里の外で、妖怪に襲われて逃げていた彼を助けたのが、今彼の目の前にいる、八雲藍と言う妖怪だった。九尾の狐であり、八雲紫の式である彼女に、こういった形で助けられたことは、何だかんだと言って少なくない。だというのに懲りずに外に出る彼に、藍は眉をひそめて苦言を呈する。
「まったく、何故一人で外に出るんだ? 言っただろう、外に出るときは私を呼べと」
「ああ、うん。分かってはいるんだけどさ」
そう言って、彼はぽりぽりと頭をかく。そんな彼に、彼女は業を煮やしたように詰め寄る。
「いいか? お前が万が一にでも死んだりすると、私も、紫様も、悲しいなんてものじゃないんだ。大体どうして、一人で人里の外に出たりするんだ? 特に何かを採取しようという風でもないが……」
「ん、まあ、ちょっと、……散歩、をね」
「散歩?」
わざわざ? と言外に問う藍に、彼は少しだけ顔に陰りを浮かべる。
「……何か、ね。囲いの外に出てみたくなるんだよ」
「それはまた、何故だ?」
「…………思い出せないんだよ」
「……何を?」
「思い出、かな」
はあ、と力なく息を吐き、彼は何処か遠くを見る。
「外で、僕が前にいたところで、僕が一体何をしてきたのか、それが思い出せないときがあるんだ。確かに僕は外で生活をしていたはずなのに、どう生活をしていたのかが思い出せない。――どうしてだろうね」
そう漏らす彼の声は、弱々しく聞こえる。彼の顔は、苦しんでいるように見える。
「……大丈夫だ」
だから、藍は彼の身体を抱きしめた。抱きしめて、彼のすぐ傍で囁く。
「私がここにいる。だから、不安がる必要はない」
「……」
「私だけじゃない。紫様もいる。二人で、お前を助けてやる。だから」
「――ありがとう」
続けようとした彼女の言葉を遮って、彼は自身を抱きしめていたその手をそっと引き剥がす。そうして、僅かに笑顔を浮かべて、
「大丈夫だから、僕は。だから、心配しないで」
「……そうか」
彼の言葉に、彼女は納得したように頷いて、しかしこれだけはと一つ言う。
「じゃあ、もし大丈夫じゃなくなったら、遠慮なく私達の元に来てくれ。紫様ともども、いつでも歓迎している」
「分かっているよ。でも、そんなことにはならないように頑張るつもりだから」
「それは、なんとも反応に困る返答だな」
そんな風に二人で笑いあって、藍は彼の手を取り人里へ向かう。そんな中、彼は一人呟く。
「頑張って、帰るんだ。帰って、全部……」
そんな彼の呟きを聞いて、
「……」
藍はそっと、笑みを浮かべていた。
それが、今から一年ほど前のこと。
「……は、は」
彼は今、自分の家でうずくまっていた。物は錯乱し、壁や床、天井にまで傷がないところはない、誰かが暴れたのだということは、見るまでもなく明らかであった。
「……どうして……」
そんな部屋の中心で、彼は一人、生気のない目をして座っている。もう長いこと、そうしていており、外に出るということもしていない。いや、逆だ。外に出ていないからこそ、彼は今こうなっていると言えよう。
「どうして……」
あの後、彼はただ苦しんでいた。周囲の人間はついに、彼に対しまるで汚いものでも見るかのような視線を向けるようになっていたし、彼はとうとう外に居たころのことを何も思い出せなくなっていた。
「どうして……!」
どうしてそうなったのか、それは分からなかった。彼はただ、理不尽に全てを失った。何処にその憤りをぶつければいいのか、まったく分からない。八つ当たりをしたところで、彼の心が晴れることはない。むしろ、よりいっそう悲しみが深まるだけだった。
「――教えてあげましょうか?」
その声に、彼は力なく顔を上げる。そこにいたのは、ここ半年ほど顔を見ていなかった、二人の姿があった。その二人の、隠しきれぬその笑みを見た瞬間、彼は悟った。
「そうか……。君たちが……」
「ええ、そうよ」
彼の言葉に、よく出来ましたと言うように紫はパンパンと手を叩く。
「私が、貴方の過去の記憶をいじったわ。もはや貴方には、思い出も、友人も、家族すらも、何も思い出せない」
「私は、お前の今の関係を壊した。もはやお前には、誰一人として友は居ない」
自分の悪行を告白しているというのに、二人の表情には一切申し訳なさはない。ただ、隠し切れぬ喜びだけを示している。
「そう、か……」
だけれども、彼は二人に怒りをぶつけるようなことはしなかった。ただ、諦めたように手をだらりと下ろすだけだ。あるいはそれは、過去を忘れてしまったからかもしれない。現在を失ってしまったからかもしれない。彼を構築していた芯と、彼を支えていた手を失って、もはや彼に力など残るはずもなかった。
「私達の居ない、過去はいらない」
「私達の居ない、現在はいらない」
『私達を選ばない、理由は要らない』
全ては、侮っていたからだ。全ては、軽んじていたからだ。全ては、考えていなかったからだ。
「貴方の過去はなくなった」
「お前の現在は消え去った」
「つまり」
「これで」
「貴方には」
「お前には」
『私達との、――未来しかない』
どれほどまでに、彼女たちが自分を愛していたのかを。それを、彼は分かっていなかったのだ。
「来て、くれるわよね?」
「私達の、元に。私達の、家に」
差し伸べられた、二本の手。
それを眺めた後、
「…………」
彼は、その手を――――――
はい、ようやくの八雲回です。何となく連日投稿。本来はこんなことをしている場合じゃないんですけどね。
今回、いつも以上に飛ばしています。理由としては、徐々に彼の苦悩を書いていく必要はないかなと、まあそんな風に思ったからです。重要なのは、彼が彼女たちの想いを侮っていた。ただそれだけなのです。しかし今回、ようやくの八雲家です。リクエストを頂いてから一番待たせてしまったものだと思います。まあこれまでも書こうとしていなかったわけではないのですが、どうにも形にならず、最終的にこういう風になったというわけです。紫も、藍も、彼を手に入れるためにそれ以外の全てを壊したという感じです。紫は能力で彼の記憶を消し、藍は彼の周囲の人間に色々なことを吹き込んだり害したりしていました。そこに罪悪感など一切ありません。彼を手に入れるためならば、彼女達はどんな手段でもとるのです。……とまあ、そんな風のつもりでした。そろそろまた、分かりやすいヤンデレを書くべきかなあ。
次回はさて、どうしましょうかね。リクエストを見ながら考えます。ではまた。