ある日妹が増えまして   作:暁英琉

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兄と妹の想いはすれ違う

「こいつがハイギョ。肺呼吸するから時々水面まで上がってくるんだ。水がなくても生きていけるから水辺が枯れても夏眠って行動で休眠してな、アフリカなんかでは泥から作ったレンガから雨が降るとハイギョが出てきたるすることもあるんだと」

 今私はお兄ちゃんと水族館に来ています。実は水族館ってあんまり来たことないんですよね、ここに誘ってくる男子って露骨に下心丸だしと言うかがっつきすぎる人が多いですし。

「で、これがメジロザメだな。メジロザメ科って英語でレクイエム・シャークって呼ばれてるんだ。肉食性が高い凶暴な種で、狙われたらひとたまりもないからな。そういう意味も込めてつけられたのかもしれん」

「うわぁ、怖いですね……」

 まあ、お兄ちゃんの場合はたぶん動物が好きだから連れてきただけなんだろうな。いつもより饒舌だし、時々楽しそうに笑いかけてくる。

 あぁ、この人はこんな顔もできるんだなって新たな一面を知ることができたことが嬉しくて、同時に少し胸が痛くなる。自分の心をまた一つ理解してしまったから。

「ていうか、お兄ちゃん詳しすぎません?」

「ん? まあ、生き物は好きだし、ガキの頃は図鑑とか読みふけったりしてたからな。けど、人間って動物は嫌いだな」

「それ、威張っていうようなことじゃないですよ……」

 お兄ちゃんと一緒に過ごす時間は楽しい。それは事実なのだけど、自分の本心を隠して過ごさなきゃいけないのは辛いし、そんな私に対してなんでもないように相手をするお兄ちゃんを見ると悔しくなる。

 いや、本当はどこか本気で楽しめていないのだ。心にぽっかり空いてしまった穴。その深淵が私を離してはくれない。一人ではたやすく呑み込まれてしまっていたであろう闇から私の手を取ってくれたのは、まぎれもなく彼だった。いつものように全部を達観したような顔に真剣な光を宿して。

 何もなくなってしまった私にとって“せんぱい”は最後の光だった。白い糸のように心許ないけれど、まばゆい輝きを持っていて、私はそれにがむしゃらに手を伸ばしてしまった。自分よがりな救済を得るために。

 けれど、“せんぱい”は“お兄ちゃん”になった。最初はせんぱいの特別な場所に入ることができたことが嬉しかったけれど、いつの間には追いかけていた後ろ姿が消え、その姿が別の道に見えることに気付いた。追いかけていた時よりも近い。けれど、その別の道は私の道とは決して交わらない。近いのに……決して届かないほど遠い。

 “お兄ちゃん”ではダメなのだ。たとえ偽物でも“お兄ちゃん”であろうとする以上、きっとお兄ちゃんは優しい。けれど、“お兄ちゃん”では私を深淵から引き上げることはできない。その優しさは、ひどく残酷なものだ。

 “お兄ちゃん”では代わりにはなれない。私が大好きだったお父さんお母さんの代わりには……。そんなことを考えていたからだろうか――

「ぁ……」

 それを見つけたのはある意味必然だったのかもしれない。イルカの親子の水槽。まだ背びれも尾びれもふにゃふにゃな子イルカにぴったりと寄り添って泳ぐ母イルカ。頼りない子供を支える母の瞳に慈しむような愛を感じて、それはきっと、私がもう受けることのできないものだと理解して……。

 理解した時には頬を涙が伝っていた。

 

 

*   *   *

 

 

 俺はまた間違ったのではないだろうか。親子イルカを見て静かに涙を流すいろはを見たとき、心の奥底にしまっていた疑問が湧きあがる。いや、きっと間違っていなくて、やっぱり間違っていたのだ。現実は正誤の二択で割り切れるほど単純ではないのだから。

 いろはを妹にしたこと自体に後悔はない。それできっと、いろはは多少なり救われたはずだから。けれど、きっと最善ではなかった。

俺が用意したのは偽物だらけの箱庭。偽物の親、偽物の兄妹、偽物の家族。全てが偽物。それを与えられた人間にとって、その偽物はどれだけ優しく、甘く、そして苦しいのだろうか。それは、俺にはわからない。

 俺によって「本物が欲しい」と思わせてしまったいろはに、俺自身が偽物を用意するなんてなんて傲慢で、自分勝手なのだろうか。兄として優しくすることが、逆にいろはを傷つけることになっていたのではないか。ならば、それならば、俺はどうするべきだったのだろうか。

 わからない、わかりたい。涙をぬぐって「次、見に行きましょう」とこちらに見せた仮面を被った笑顔ではなく、本物の笑顔を見たい。それが俺の願いだった。どうして願うのか。それはきっと俺が……。

 そこで思考が止まる。その先の言葉はとても単純なもののはずなのに、薄い靄がかかったように汲みとることができない。それ以上は考えるなと化物と称された理性が警鐘を鳴らす。きっとこの靄の先にある言葉はもういらないものだ。いらないのだから、捨ててしまおう、ゴミ箱に入れてデリートしてしまおう。

「今日はありがとうございました」

「いや、うちに来てから特に遊びにもつれてってやれてなかったからな」

「……そう……ですね……」

 水族館を出て、短く言葉を交わす。会話はそれだけ、この後は無言で帰るだけで――。

「…………」

「いろは……?」

 コートの袖を引かれる感覚に、立ち止まって振り返る。小さく袖を掴んだいろはは何かを言い出そうともごもご口を動かしている。しかし、待ってみてもその口から声が紡がれる様子はない。冬の日は駆けるように沈んでいき、あたりは徐々に暗くなっていく。気温も下がる一方の屋外にずっといたら、いろはが風邪をひいてしまうかもしれない。軽く頭をぽんぽんと撫でてやり、背中に手を添える。

「風邪ひくから早く帰るぞ」

「ぁ……はい……」

 その後はどちらもしゃべらない。この空気は嫌なものだが、俺にはどうすればいいのかわからなかった。

 

 

*   *   *

 

 

 夜。昨日と同じように目を閉じて寝る努力をしていると、キィと扉が開く。今この家には俺を含めて二人しかいないのだから、誰が入ってきたかは明白だった。

「…………」

 いろはが何も声をかけてこないので、無理に目を開けてこちらから声をかけることはしない。ゆっくりといろはが近づいてきて、ベッドに潜り込んでくる。

「どうした?」

 そっと声をかけるとびくっと小さく震える。その姿は産み落とされたばかりの猫のように小さく、儚く感じた。ゆっくりと頭を撫でてやると、いろはは静かに顔を上げる。

「お兄ちゃんはやさしいですね」

「そりゃあ、お兄ちゃんは妹にやさしいもんだからな」

 兄は妹にやさしい。妹というだけで無条件に助けるし、妹が困っていたら見過ごせない。それが“お兄ちゃん”だから……。

 俺の返答に対して、いろはの表情に少し陰りが混ざった。

「それじゃあ……どうしてあのとき、私のことを助けて、家族になろうって言ってくれたんですか?」

 …………。

 なぜか、と問われれば返答に困る。あの時、俺の中での一色いろはという存在はとても大きなものになっていた。おそらくは奉仕部という空間と同じか、それ以上に。けれど、それがどういう意味で大きくなっていたのか、俺には分からなかった。それは、俺には言葉にすることのできない感情だったからだ。

 分からないから、別の言葉でごまかしてしまう。

「たぶん、お前が俺の唯一の大事な後輩だからだ」

「そう……ですよね……。お兄ちゃんにとって今の私は妹で、その前は後輩なんですよね……」

 いつの間にか背中に回された手に力が込められる。

「後輩だった私は葉山先輩が好きで、それで“せんぱい”に迷惑をかけていた子だったんですよね」

「迷惑をかけられたつもりはないが、葉山が好きなのは事実だろ?」

 俺の中での一色いろはという少女は、あざとくて計算高く、強くてまっすぐな存在で、葉山隼人が好きな少女だ。一度振られた程度では諦めず、むしろそれすらも踏み台にしようとする芯の強さには素直に凄いと感じた。

 だから、いろはの俺に対する行動に特に深い意味はなく、強いて言えば葉山を攻略するための手段であり、生徒会運営のための腕としてだった。だから、俺は勘違いのかの字もすることはなかったのだ。

「今は違いますよ……」

「なにがだよ」

「私は、お兄ちゃんが好きです」

 だから、いろはの言葉は全くの予想外で、俺はつい言葉を詰まらせた。いろはの確かな意思を持った目を見てしまえば、「ブラコン乙」などという茶化しもできない。

「それは、勘違い、だ……」

 だから、一番嫌いで、残酷な言葉に逃げる。

「お前は絶望した状態から手を差し伸べた俺に対して少し勘違いをしているだけだ。つり橋効果に近い、あるいはプラシーボ。だから、軽々しくそんなことを口にするんじゃない……」

 人間は救いに弱い。二年前の春、由比ヶ浜結衣が犬を助けた俺を憎からず思ってしまったように、恐怖の中で助けてくれた相手に特別な感情を抱く。しかも、今回俺はただ手を差し伸べただけだ。どん底から引き上げる手段も力も持たないのに、手だけを伸ばしたのだ。ただの偽善、まさに偽薬。ならば、そこから生まれた感情も、偽物だ。

「お兄ちゃんは、そうやって逃げてきたんですね……」

 ぼそりとつぶやくと、身体を少し上げて俺に近づく。いろはの顔が近い、少しでも動いてしまえば唇が触れてしまうほどに。

「勘違いでもいいから、“お兄ちゃん”、妹のお願い、聞いてください」

 お兄ちゃんの響きが変わったことで、俺の思考が“お兄ちゃん”になる。妹のお願いは無条件に聞くのがお兄ちゃん、妹のためなら何でもするのがお兄ちゃんなのだから、いろはの頼みを“お兄ちゃん”は断らない。

「キス、させて……」

 だから、これは救済だ。家庭という箱庭だけではいろはの心は癒せない。もっと別の何かも必要だ。だから、それを彼女が望むと言うのなら――

「ん……」

 俺は、拒めない。

 軽く触れ合う唇。ただ、身体の一部を押し付け合うだけの行為に、これほど罪悪感に苛まれるものだろうか。しかし、それを救済だと諭す心が罪悪感を薄れさせる。マヒした心はただ行為を受け止める。

「ありがとう……ごめんなさい……」

 唇を離したいろはは、何かを諦めたような笑みを浮かべていた。

 

 

*   *   *

 

 

 お兄ちゃんは知らない。私がお兄ちゃんに救われる前から比企谷八幡という男の人を好きだということを。だって、お兄ちゃんの中では私は葉山先輩が好きという大前提があるから。それを考えてずっと動いてきたから。

 だから、この胸の痛みは自業自得。お兄ちゃんが捻くれていることを加味しても、私が素直になれなかった結果だから。

 気付いた時にはもう遅い。大切なものは、失ってから初めて大切だったと気付くってどこかで聞いたけれど、本当だ。だから、もう手は伸ばせない。

 それなら、せめて今を大事にしよう。お兄ちゃんは優しいから、きっと苦しみながらも私に答えてくれる。だから、キスも拒んでこない。

 お兄ちゃんとのキスはどこか甘酸っぱくて、心の穴から少し身体が抜けだしたような気がした。けれど、それと同時に心の別のところが痛んだ。おかしいと叫ぶ心を抑え込む。

 だって、お兄ちゃんと妹は仲良くあるものなんだからおかしくなんてない。それなら、兄妹でキスするのだってきっとおかしくはないんだ。

 心のどこかで、別の私がうずくまって泣いているのを、私は無視した。

 




小町どこー?(´・ω・`)

次からたぶん小町出てきます
別にないがしろにしてるとかじゃなくて、いろはを一段落させないと絡ませようがなかったんですよね

結構悩んで書いているので、当初のシナリオと変わったり、書くペースが遅かったりするかも
気長に待ってね

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