何かの呼び声   作:クロル

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2-1 最凶の邪神

 

 八坂一太郎がいかにしてSAN0まで追い込まれ、発狂するに至ったか。その経緯を一冊の本に書き終わった私は万年筆を置いた。

 彼はよくもまあこれだけの神話的事件をくぐり抜けてきたものだ。いや、彼(キャラ)を操作していたのは私(プレイヤー)なのだから、私の手腕だとも言えるのだが。

 

 かくいう私も八坂一太郎である。いや、私こそが八坂一太郎である。……恐らく。

 一ヶ月ほどかけて八坂一太郎の経歴を書き記してみたが、やはり分からない。何故私は今、八坂一太郎の体で、八坂屋敷の書斎の文机に座り、魔導書紛いの冒険譚を書いているのか?

 八坂一太郎(キャラクター)視点で考えても分からないので、私(プレイヤー)の視点で考えてみよう。この一ヶ月の間に考え続けてきた事だが、もう一度考えてみる。

 

 この冒険譚の冒頭にも書いたが、TRPGであるCoCは一般人が神話生物と呼ばれる怪物を相手取り奔走するゲームだ。プレイヤーが操るキャラクターは探索者と呼ばれ、正気を削りながら神話的事件の解決、あるいは自身の生存を目指す。

 この「正気」という概念がCoCでは重要で、探索者がどの程度正気を保っているか? というステータスを数値化し、SAN(正気度)で表す。上限は99で、下限は0だ。恐ろしい怪物に遭遇したり、無残な死体を見たり、魔術を使ったりすると減っていく。

 

 例えばSAN99の探索者はこれ以上ないほど正気だ。普通に泣き、笑い、悲しみ、怒り、友情や愛情を育み、人生を謳歌する。人間らしい人間だ。

 SAN50は、まあ普通だ。社会のストレスに晒されたり、仕事で失敗して凹んでネットの掲示板に上司の悪口を書き込んだり、嫌なことがあった日にはやけ酒をしたり。

 SAN30ぐらいになると、ぼちぼち危ない。かなり正気が削れ、日常的に挙動不審だったり、軽い対人恐怖症だったりする。それでも精々「気の弱い人だなあ」ぐらいだ。

 SAN0は永久的な発狂状態だ。完全に正気ではなく、平気で幼児を生贄にして邪神を召喚しようとしたり、あるいは白痴になって精神病院で一生を終えたりする。

 

 八坂一太郎は最初90あった正気度を減らしていき、無感動になり、魔術に惹き寄せられ、二重人格になり、夢遊病を発症した。そしてSAN0で発狂。

 この発狂、狂気というのにも種類がある。幻覚を見たり、幼児退行したり、激しい恐怖症を抱いたり。私のキャラクターである八坂一太郎がニャルラトホテプに冒涜的知識を流し込まれ、正気度判定でファンブルを出し、更にSAN減少で100を叩き出してSAN0になった時、キーパー(ゲームマスター)と相談し、どんな狂気に陥るかを決めた。ダイスを振ってランダムに決定しても良いのだが、ランダムチョイスの結果で「露出狂」などという狂気に決まっても困る。一太郎はそういうキャラではない。

 

 八坂一太郎は二重人格で、夢遊病だった。発狂内容もそれに沿った物が良いだろうという事になり、「シミュレーテッドリアリティ」を発症する事になった。端的に言えば「自分がゲームの中の仮想現実の住人だと信じ込む」というものだ。私は実にそれらしい妙案に納得した。

 そして、現実世界の記憶はそこで途切れ、気づけば目の前に小男の死体があり、明智小次郎とパーシー・ネルソンがいた。

 

 事態は簡単ではない。「ゲームの世界に来ちゃったテヘッ☆」で片付けるには複雑過ぎる。

 

 まず、私にはゲームの世界の八坂一太郎の記憶と、現実世界の自分の記憶の両方がある。そして、間違いなく自分の体が八坂一太郎のものであるにも関わらず、まるで現実感がなく、バーチャルリアリティゲームのアバターを動かしているような、他人事のような感覚が拭いきれない。まさにシミュレーテッドリアリティの状態だ。

 ここから話をややこしくしているのがファンブルとニャルラトホテプである。

 

 CoCでは、キャラクターの行動や戦闘など、事あるごとにダイスを振る。サイコロを振って、出た数を見て、攻撃が当たったか、とか、キャラクターの行動でどんな結果が出たか、とかを判定するのだ。頻繁に使われるのが1d100。1~100の数字をランダムに出すサイコロの振り方だ。この1d100で96~100が出ると、「ファンブル」と呼ばれる最悪の結果になる。敵に向かってスパナで殴りかかればスパナがすっぽ抜けて飛んでいき、脆い床を踏み抜いて落ちる時に着地しようとすれば首から落ちて、魔術で相手の魔力を吸い取ろうとすれば逆に相手に魔力を与えてしまう。

 ゲーム中、ここぞという時にこのファンブルが出るともう泣くしかない。逆に1~5が出た時の「クリティカル」という最高の結果の場合と合わせ、プレイヤーは俗に「ダイスの女神が微笑んだ」とか、「ダイスの邪神が降臨した」とか言うわけだ。運が良い、運が悪い、という表現のTRPG版だと考えておけば間違いないだろう。ゲーム中、このダイスの邪神が荒ぶると、ゲーム開始五分で自分のキャラが死んだり、逆にラスボスが勝手に自滅して死んだりする。強大な神話生物でさえダイスの邪神には勝てないのだ。

 

 八坂一太郎の最後のSAN減少判定で、1d100の判定を二回行い、二回とも100が出た。二連続のファンブルである。

 加えて八坂一太郎を狂気に陥れたのは名高い邪神、ニャルラトホテプ。邪神の数え役満だ。発狂したのは運命と言うしかない。

 もっとも、二回連続でファンブルを出す可能性は1/400。有り得ない確率ではない。CoCには二連続ファンブルとニャルラトホテプのコンボを受けたプレイヤーをゲームの世界に引きずり込むような不思議パワーはない。そんな恐ろしいパワーがあったらCoCは政府が取り締まっているだろう。

 何か得体の知れない要因のせいで偶然私だけこうなってしまったとも考えられるがはっきりしない。

 

 それよりも有り得そうなのは、ニャルラトホテプの仕業だ。

 CoCで恐らく最も有名な邪神、ニャルラトホテプ。ゲームではトリックスターの役割を持ち、場を引っ掻き回したり、裏で悲劇の糸を引いたりするのを得意とする。更に邪「神」というだけあり、できない事はあんまりない。やろうとしないだけで。ある意味、なんでもありの代名詞である。

 

 だから、ニャルラトホテプならば、八坂一太郎の頭の中に「八坂一太郎をキャラクターとして使い、ゲームを遊んでいた人間の記憶」を作り出し、植え付ける事も可能なのだ。

 

 「私」の記憶が本物だと、誰が証明できるだろう? 「私」の自我意識がニャルラトホテプが戯れに植えつけらたものだと、誰が否定できるだろう?

 

 「私」の記憶は本物か?

 それともニャルラトホテプが創り出した虚構なのか?

 

 「私」はゲームの中にやってきた現実の人間なのか?

 それとも発狂した八坂一太郎が創り出した偽りの人格、偽りの記憶なのか?

 

 いくら考えても分からない。わざわざ本に文字にして記す事で記憶を整理してみても、何もおかしな部分はなく、なんの助けにもならなかった。

 

 しかし真実にはたどり着けなくても、分かる事はあった。

 今の状態は案外悪くない。

 

 私は今、バーチャルリアリティゲームをやっているように感じている。例えば、怪我をしても「痛い」という事は認識できるのだが、それを苦しいとは感じないし、不快感もない。火傷の痕が治り、アイドル顔負けの美貌になった娘の蓮を見ても、画面越しに手塩にかけて育成した愛着のあるキャラクターを見ているような感覚で、現実感がない。

 八坂一太郎が大切に思っていたものは大切に感じ、嫌だと思っていた事は嫌だと感じる。唯一、現実感の欠落だけが違う。そしてそれは私にとって福音だ。ゲーム感覚で生きる事ができるというのは悪くない。いや、「生きている」という感覚も無いのだが。

 

 ゲームは遊びだ。遊びは楽しい。だから、私は今かなり現状を楽しんでいる。

 元の世界に戻るだとか、自分の正体を確かめたいだとか、そんな意欲も湧かない。なぜならば、これがゲームだとしか思えないからだ。

 ゲームをしていて、主人公が怪我をした時、実際に痛みを感じるだろうか? 主人公の死を自分の死と同じレベルで恐れるだろうか? そんな訳はない。それと同じだ。これはゲームなのだから、ゲームとして楽しめばいい。そうとしか感じられないのだ。

 

 そうだ。そうしよう。別にゲームだからといって悪事を働くつもりはないが、何も難しく考える事はないのだ。

 今を楽しむ。ゲームとはそういうものなのだから。

 

 今までごちゃごちゃと考えていたのが急に馬鹿馬鹿しくなり、私は冒険譚を記した本を本棚に突っ込み、今後の方針を立て始めた。

 


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