何かの呼び声   作:クロル

7 / 16
1-5 しろがねコーヒー

 

 人生には密度というものがある。往々にして子供の頃の思い出が長く重く感じ、大人になってからの思い出が短く軽く感じる原因は色々あるだろうが、子供の頃は何もかもが初体験で印象に残りやすく、大人になってからは同じ仕事の繰り返しで初体験が減るという事が挙げられる。

 八坂一太郎は、大人になってからも初体験ばかりで、密度の高い人生を過ごしてきた。数年置きに正気を揺さぶる怪事件に命懸けで挑み、インターバルの期間も常軌を逸した魔術や悍ましい神話の研究に費やしている。

 

 石化事件から五年。一太郎はたゆまぬ研究と生来の極めて高い学習能力により数多くの魔術を身につけていた。

 怪物から身を隠す《エイボンの霧の車輪》、空飛ぶ騎乗用の怪物を召喚・使役する《ビヤーキーの召喚/従属》、強力な魔法障壁を創造する《ナーク=ティトの障壁の創造》、物や人を空に浮かせる《空中浮遊》、局地的な濃霧を発生させる《レレイの霧の創造》、付近の食屍鬼の注意を引きつける《食屍鬼との接触》、死者を再構成し蘇らせたり、そうして蘇った死者を再び死体に戻す《復活》、離れた場所を結ぶワープゲートを創る《門の創造》、短い刃物にPOWを込める《ナイフに魔力を付与する》。この九つである。蔵書(魔道書)の中から特に汎用性の高そうなものをチョイスして学習した。

 

 怪事件調査に活用するため日本語版の翻訳書が欲しいとの頼みを警視庁特命係の亀海左京から受け、一時期エイボンの書を貸与していた事があるのだが、左京は二年で魔術を一つ学ぶだけで精一杯だった。魔術を学ぶためには、魔道書を読破した上で、難解な言い回しで書かれた常識外れの理論を正確に解釈し完全に理解する必要がある。呪文を覚えて唱えればOKというものではない。五年で九つというのはかなり優秀な部類に入るだろう。しかも五年を丸々魔術の研究と研鑽に費やしたのではなく、仕事や子育て、家事までしていたのだから一太郎の処理能力は並ではない。

 

 十二歳になった八坂蓮は、社会復帰して学校に通っている。早いもので小学六年生。もうすぐ中学生だ。

 家の外では常に顔の火傷を包帯で隠している蓮は学校で浮いているが、イジメはなく、一人だけだが仲の良い友達もできたようで、一太郎はそれほど心配していない。幼少時に食屍鬼と親密だったせいか価値観がどこか浮世離れしていて、同年代の子供とはあまり話が合わないようだが、時々遊びに来る宮本姉妹とは楽しそうに話している。

 蓮の運動能力は並といったところだが、成績は良く、テストで九十点以下を取った事がない。図工と音楽の評価も五段階の5。小学校レベルとはいえ大したものだ。昔キミタケから言われた勉強をしなさいという言葉を忠実に守っているのだ。健気な娘である。

 一太郎がじわじわと狂気に蝕まれている反面、蓮は宮本姉妹に影響され、年頃の少女らしくささやかなお洒落を楽しんだり、友達と遊びに出かけたりして、平和な日常を謳歌している。そんな蓮の日常を守るためにも、一太郎はあえて非日常に踏み込むのだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ある蒸し暑い夏の日、一太郎は出張で静岡県に来ていた。数日マホロバ静岡支社の研究チームの技術指導に奔走し、後は東京に戻り短い休暇に入るばかりとなった時に、亀海左京から連絡を受けた。

 

「やあ八坂君、亀海だが、今時間は大丈夫かな」

「大丈夫ですが……事件ですか」

 

 高速のインターチェンジで車を止め電話に出た一太郎は、左京の第一声の声音を聞いた時点で要件を察した。

 

「流石話が早い。実は――――」

 

 左京の話は長かったが、分かりやすかった。

 東京都の郷都学園高校の茶道部が、静岡県伊豆市で夏休みの合宿をしていた。三日前、部員の一人が宿舎の中庭に生えているコーヒーノキの実を食べ、昏倒。病院に運ばれ、意識不明の状態と短い覚醒を繰り返すようになった。現在は都内の病院に移されている。

 昏倒した部員は七杉由香というのだが、彼女の叔父が特命係に勤めていて、見舞いに訪れた際に神話的事件の兆候が見られたという。なんでも意識を失っている間に奇妙な夢を見るそうで、その内容というのが、人間の常識を超えた怪物の襲撃や、この世ならざる地に潜む言い知れない恐怖を仄めかす形容し難いものだったのだ。

 知識の無い人間が聞けば単なる悪夢と済ませるその夢の内容から、彼女の叔父は怪事件の臭いを感じ、上司の亀海に報告。亀海はこの三日間で資料を漁り、夢の内容が単なる女子高生が知るはずもない異界の景色を示している事を突き止めた。

 医者は七杉由香の肉体は健康そのものだと太鼓判を押し、だからこそなぜ不自然な覚醒と睡眠を繰り返すのかさっぱり分からないようだ。

 

 七杉由香の症状は重篤なものではなく、起きている時は部活動の合宿を途中で抜けてしまった事を残念がり、ベッドの上で退屈を持て余し早く合宿に戻りたがるぐらいなのだが、単なる不調ではなく神話的要素の陰が見える以上、捨て置く訳にはいかない。些細な前兆を放置したばかりに邪神が召喚され都市が丸ごと更地になった、などという事も有り得なくはない。

 亀海は事件の原因を究明するため、七杉由香の昏倒の原因を調べるよう部下を現場の伊豆の合宿所に派遣した。ただ、別件の事件の捜査も抱えているため、困った事に一人しか人手を回せなかった。最悪怪物との正面戦闘も有り得る案件に対処するのが一人では心許ない。

 そこで葵が蓮経由でちょうど今静岡に一太郎が静岡に行っているという話を拾ってきて、お呼びがかかったという訳だ。

 

「つまり、その七杉さんの昏睡の原因を調べてこい、と」

「いやァまさかまさか、神話的怪異の大家八坂氏にそのような居丈高な命令を下すなぞ恐れ多い事で。私は伏してお頼み申し上げる立場ですよ。どうですかね、お受けして頂けますか? 相応の報酬は用意できますがね」

「期間は?」

「事件が解決するまで……と言いたいところですが、八坂さんの都合次第でいつでも切り上げて頂いて結構。矢面にはウチの者を立たせるので、八坂さんはアドバイザーという形でどうか一つ」

「……ふむ。依頼は受けますが、二人ですか? もう一人か二人は欲しい」

「ありがとうございます。いやぁ、助かりますよ。人員については葵さんがもう一人手配して下さったので、三人ですね。配達業をしている従姉妹の方だそうで。件の茶道部は女性ばかりという情報がありまして、それならば女性がいた方が調査もし易いだろうと。七杉嬢の症状についてはこちらで調査を進めますのでね。八坂さんは現場に傾注していただければ」

 

 それ後二つ、三つ話をして、電話を切った。

 今までは事件の方からやってきたが、自分から飛び込むのは初めてだ。仇討ちでも、身近な者の命を助けるためでも、自分のためでもなく、単なる依頼で恐らく命懸けになる怪異に躊躇いなく身を投じるあたりに一太郎の正気の摩耗が現れている。

 

 一太郎は自宅に電話をかけ、蓮に帰宅が遅くなる事を謝った。海に連れて行く約束をしていたのだ。蓮は不機嫌そうだったが、数日遅れても必ず連れて行くと約束すると許してくれた。通話を終える直前に、無事に帰ってきて、と言われたので、何かしら察したのかも知れない。

 

 蓮との通話の後は翠に電話をかけた。

 

「――――というわけです。適当な理由をつけて蓮に新しい水着を買ってやって下さい。何着でも構いませんし、金に糸目はつけません。代金は後で払います」

「はあーっ。相変わらず金回りいいね。羨ましい」

「使うべき時に使ってるだけですよ」

「言うね。ま、蓮ちゃんの事は任せなさいな。ああそうだ、きーちゃんが一緒に行くみたいだけど、話聞いてる?」

「翠さんの従姉妹ですよね。運送業をしているとか」

「そうそう、小型ヘリとか操縦できる娘なんだよね。あと中東の紛争地帯でバイク配達してたりとか」

「え?」

「よろしく言っといて。じゃ!」

 

 一太郎は切れた携帯電話を見ながらしばらく固まっていた。随分エクストリームな運送業らしい。その筋では有名だったりするのだろうか。

 会ってみれば分かる事だと区切りをつけ、一太郎は車のエンジンをかけ、伊豆へ向かった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 静岡県伊豆半島、下田町。海岸沿いの町で、駅周辺には商店街があるものの、シャッター街と化したうら寂しい場所だった。途中で見かけた古びた観光案内版には温泉マークがあったが、全て×印がついて「閉鎖」と書かれていた。どうやら温泉が枯れて衰退してしまっているようだ。

 

 一太郎は駅前で他の調査員と合流した。

 五十代のくたびれた男が特命係の新畑 仁二郎だろう。亀海とは旧知の間柄らしく、昏睡状態の七杉由香の叔父だ。格闘は得手ではないが、体を張る事は厭わず、捜査能力は一流だと亀海が太鼓判を押していた。

 その隣のショートカットの活発そうな二十代後半の女性には宮本姉妹の面影があった。彼女が東雲(しののめ)鴇(とき)だろう。ライダージャケットにジーンズ姿で、大型のバイクにちょこんと腰掛け仁二郎と談笑している。

 二人は一太郎に気付くと声をかけてきた。一太郎の顔の火傷は目立つため、初対面でも話を聞いていればすぐに分かる。

 

「こんにちはー。八坂さんですよね?」

「はい。東雲さんと新畑さんですか」

「富士山頂からサハラの真ん中までどこでも配達、エクストリーム運送の東雲鴇です。よろしく」

「警視庁特命係の新畑です」

 

 三人は握手を交わしあって軽く自己紹介をした後、駅前の定食屋に入り、昼食を取りながら情報を整理した。

 日替わり定食の鯖の塩焼きから骨を外しながら仁二郎が言う。

 

「まず念頭に置いて頂きたいのですがね、今回の調査では学園側との対立は避ける方針なんですよ。学園長が姪の入院費を全て負担してくれていますし、自ら見舞いにも来て下さっているようで。何よりも姪が学校や部活に行く事を楽しみにしていましてね。乱暴な調査をすれば、仮に昏睡の原因を突き止め治療できたとしても、学校や部活に居辛くなってしまいます。できる限り穏便に行きましょう」

「穏便に行ってなんとかなるんですか? あお姉とみー姉から凄くハードだって聞いてるんですけど」

 

 海鮮パスタをフォークで巻きながら鴇が仁二郎に聞くと、仁二郎は一太郎に目を向けてきた。

 

「そうですね。経験上死者が出ない方が珍しいです。一番穏やかな事件でも、泥棒と共闘したり、腐った床板を踏み抜いて転落したり、地下室の壁を蹴り破ったり、バリア持ちの動く死体と戦ったり」

「穏やか……?」

 

 鴇が理解に苦しんでいる。

 

「法律とマナーを遵守していたら事件は解決しないでしょう。かといってあまりダーティーな手段を取りすぎると周囲の信用を失って酷い事になるので匙加減が難しいですね」

 

 思い出すのはユーリの件だ。彼女は今も精神病院の塀の中で暮らしている。疑心暗鬼に囚われず、もっと彼女を信用していればあるいはそんな事にはならなかったかも知れない。

 

「その件ですが、女子学生達の合宿に警察として踏み込んで萎縮させるのもどうかと思っていましてね。私は叔父として合宿先を訪ねようと考えています。もちろん捜査もしますがね。八坂さんは医者という事でどうか一つ。それなら嘘にはなりません」

「私は?」

「遠縁の親戚と名乗って下さい。誰の親戚かは言わないように」

「消防署の方から来ました理論ですね分かります」

 

 相談の結果、仁二郎は全体的な調査をまんべんなく行い、鴇は女子学生達からの情報収集をし、一太郎は「透視」を使って魔術的な痕跡を見て回る事になった。鴇は怪物が出てきたらバイクで撥ねるから任せて、と本気とも冗談ともつかない事を笑いながら言っていたが、果たして怪物を実際に目にしてその余裕があるかどうか。一太郎でさえ絶望と混乱で逃げ出した事があるのだから。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 昼食を終えた三人は茶道部の合宿先である「しろがね館」へ向かった。鴇は自分のバイク、仁二郎は一太郎の車に同乗した。

 しろがね館はその名の通り銀色の瓦でふかれていて、青い海を見下ろせる眺めの良い場所に建っていた。二階建ての建物には窓が見当たらず、一箇所だけ立派な門がある。それを見た一太郎は中国の伝統的な中庭付きの住居を思い出した。塀の内部にぐるりと沿うように建物があり、建物に囲まれた中心に中庭を設ける建築様式だ。一太郎は近くのコインパーキングに車を停めた。

 

 三人がしろがね館の門のノッカーを鳴らすと、少し間を置いて門が開き、つなぎの作業服を着た背の高いアフリカ系女性が出てきた。年齢的にちょっと女子高生には見えない。

 

「何か御用でしょうか」

「七杉由香の叔父です。事前に連絡はしてあるのですが」

「新畑サンですか。お話は伺っています。どうぞ中へ、アリッサ部長がお待ちです。私はターニャ、しろがね館の管理人です」

 

 ターニャは少し訛りのある日本語でそう言うと、三人を中に通した。鴇はバイクをターニャに一言断って門の中の入口のそばに置かせてもらった。

 窓のないしろがね館を不気味に思っていた一太郎だが、流石に窓無しという事はないようで、門の内側には普通に窓があった。外側に無かったのは潮風を直接室内に入れて調度品を痛ませるのを避けるためだろうか。屋敷に未弧蔵の遺品の骨董品を置いて管理している一太郎は、潮風がどれほど物を痛ませるかという事ぐらいは知っている。

 ある海に美術館で観光客を引き寄せるために窓の多い開放的な作りにしたら、吹き込む潮風で絵画が傷んでしまい、経営者と管理人の間で騒動が起きたという話があるぐらいで、と一太郎がトリビアを思い起こしている内に、三人は一階の大広間に通された。

 

 大広間には畳が敷いてあり、奥には舞踊などを披露するためだろう、板敷きの舞台が見える。中央には三枚の座布団が置いてあり、その左右に七人ずつ制服姿の女子高生が正座をしてかしこまっている。そのうち一人だけ着物に身を包んだ金髪の美少女がニッコリと微笑んでお辞儀した。

 

「はじめまして、新畑様。八坂様。東雲様。茶道部部長のアリッサ・シャトレーヌと申します」

 

 一太郎は彼女の顔立ちが純粋なフランス人のそれである事に気付いたが、その割には日本語の発音に違和感がなかった。アイドル顔負けの金髪碧眼の美少女が畳の上で礼儀正しく正座をして微笑んでいる姿に日本の国際化を感じる。

 鴇はこの娘はやっぱりニンジャとかフジヤマとか好きなのかな、と思ったが、生まれも育ちも日本だったら失礼かと思って黙っておいた。外国で仕事をしている鴇は、時々初対面で中国人と決めつけられ嫌な思いをした事があったのだ。

 

 アリッサは三人の旅の労をねぎらい、茶道部の精神や普段の活動について話した。言葉の端々から高い見識と豊富な知識が伺える。興味を惹かれた一太郎の質問にもおだやかにそつなく答えた。

 

「シャトレーヌさんは日本に来てどれくらいに?」

「一年です。秋には二年になります」

「その割には随分日本語がお上手なようですが」

「そう言って頂けますと嬉しいです。ご存知かも知れませんが、祖母は郷都学園の理事長をしていまして、幼い頃から日本の話はよく聞いていました。礼儀正しく、調和を尊ぶ素晴らしい人々が住む歴史ある国だと。日本語は祖母に習いました」

 

 そこで部員の一人が盆に乗せて飲み物と菓子を持ってきた。三人の前に置かれたのは銀製と思しき小さなカップで、急須から注がれたのは独特の香りの黒い液体――――コーヒーだった。

 

「そのコーヒーは中庭のコーヒーノキから採れた豆を焙煎して淹れたものです。是非お楽しみ下さい。本場のものに負けない品質だと自負しております」

「あー、失礼ですが、姪がそのコーヒーノキの実を食べて昏倒したと聞いておりまして。これは大丈夫なのでしょうか」

「懸念しておられるのももっともですが、生ではありませんし、今朝私も飲んだばかりです。安全と味は保証いたします」

 

 善意100%の微笑みを浮かべるアリッサ。断りにくい。一太郎は一応「透視」を使った。しかし黒い液体にオーラはなく、魔術的痕跡は見られない。

 一太郎は二人に微かに頷き、グィィッと飲む。深みのある味と香りが鼻を抜け、後味も心地よい。これに比べれば夜勤で時々世話になるインスタントコーヒーなど泥水だ。確かに美味しい。

 カップを置いた一太郎は、視線を上げた瞬間に思わず口に残っていたコーヒーを吹き出しかけ、慌てて飲み込もうとして猛烈にむせた。

 

「大丈夫ですか? お水をお持ちしましょうか」

「だっ、だい、だいじょうぶ、げほ、です」

 

 気遣わしげに立ち上がろうとしたアリッサを手で制し、一太郎はハンカチで口をおさえるついでに顔も隠して動揺を悟られないようにした。「透視」の効果が継続している眼でもう一度見る。見間違いではなく、アリッサの胸元に下がったペンダントから力強いオーラが湧き上がり、彼女の全身を包んでいた。あからさまに魔術である。

 どういう事だろうか。事件の元凶が素知らぬ顔で目の前にいるという事なのだろうか。普通に暮らしていれば魔術とは無縁のはずである。しかしトヨグの巻物のように無害なアーティファクトもある。オーラは本人ではなくペンダントから湧き上がっているようだし、身につけている本人が魔術効果に無自覚という可能性もある。オーラは力強いが、禍々しさは濃くない。

 

 一太郎はペンダントについて探りを入れようとして、思いとどまった。アリッサはペンダントを着物の下に入れていたのだ。魔術的要素を可視化すると共に暗闇や薄い板程度の障害物を見透かす「透視」を使ったため着物の下にペンダントを身につけている事が分かったが、本来ならアリッサのペンダントは着物に隠れて見えないはず。尋ねればどうして知っているのかという話になる。

 少しでも情報を集めようとペンダントに描かれた同心円状の幾何学模様をまじまじと見ていると、隣に座る鴇に腕をつねられた。驚いて見ると、何やら怒った顔をしている。

 

「真面目にやって下さい」

「は? ……あ、いや、えー、後で説明します」

 

 小声で言われて察した。他人にはアリッサの豊満な胸をガン見しているようにしか見えなかっただろう。これは恥ずかしい。アリッサは気にしていない風だが、他の女子部員たちの目が冷たい。もし一太郎が透明になる魔術を使えたら迷わず使っていただろう。

 一太郎が羞恥心で行動不能になっている間に、仁二郎はアリッサから話を聞いた。

 

「姪はこの館のコーヒーノキの実を食べて倒れたと聞いているのですが、詳しい話を聞かせていただけますか」

「はい。一週間前の早朝、井戸の側で倒れているのを管理人のターニャさんが発見しました。口にはコーヒーの実の欠片がついていたそうです。意識がなく、酷くうなされていましたので、ターニャさんは救急車を呼びました。私が知っているのはそれだけです。彼女が実を口にした理由は分かりません」

「前日に何か変わった様子などは?」

「いえ、特には」

「ふむ……少しこの館を調べさせて頂いても? 姪の部屋に何か昏睡の原因になるものがあるかも知れませんし、行動範囲を辿る事で何か分かるかも知れません。八坂氏は医者ですし、医学的見地から見てはじめて分かる事もあるでしょう」

「もちろんお断りする理由はありません。私達も由香さんには早く良くなって欲しいと思っています。ただ、申し訳ないのですが、茶道部は全員女性ですから、二階の宿舎への男性の立ち入りはご遠慮願います。御寛恕下さい。宿舎以外なら自由に見て頂いて構いません」

「由香ちゃんの部屋は宿舎ですよね。私は入っても良いですか?」

「東雲様なら良識の範囲内でご自由にどうぞ。あと、そうですね、しろがね館は複雑な間取りではありませんが、部屋数が多いですし、プレートがかかっていないので戸惑われる事でしょう。案内役に一人つけましょう」

 

 それで話に区切りがつき、歓迎の茶会はお開きになった。アリッサが三人につけた案内役はショートカットの一年生で、消え入りそうな小さな声で恥ずかしそうに琴木美緒と名乗った。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 まずは三人で一番怪しい中庭のコーヒーノキから調べる事になった。

 琴木の案内で中庭に移動する間、女子校生達の冷め切った軽蔑の目から開放されて落ち着いた一太郎はアリッサのペンダントの模様について記憶をたどり、それが「時間の支配者」アフォーゴモンの印である事を思い出した。

 宇宙で最も強大な神性、「外なる神」と呼ばれる存在の一柱であるアフォーゴモンは、その二つ名の通り時間を自由自在に操る事ができる。その恩寵は未来予知や過去のやり直しを授け、その怒りは永劫に続く苦しみをもたらす。偉大にして恐るべき神だ。

 そんな神の印が彫り込まれたペンダントをなぜアリッサは身につけていたのか。しかも、明らかにペンダントがアリッサに魔術的影響を及ぼしている。

 

 最近一太郎が蓮と一緒に観たアニメではタイムリープをして友を救おうとしている魔法少女の話があったが、アリッサもタイムリープ中なのかも知れない。あるいは一見人間に見えても未来からやってきた殺人マシンかも知れない。外なる神の仕業ならばほとんどなんでもアリだ。時間に関するもの、という手がかりだけでは、アフォーゴモンのペンダントによってアリッサにどのような影響が出ているのか推測できない。

 一太郎は先導する琴木に聞こえないよう小声でアリッサのペンダントについて二人に話しておいた。機会があれば聞いてみるのが良いだろう。

 

 中庭に着くと、中央にどどんと目立つコーヒーノキが生えていた。2m近くある常緑樹で、枝のところどころに赤い実を成らせている。木のそばには井戸があったが、琴木曰く枯れ井戸らしい。縁は組んだ丸太で囲われた粗雑なものだ。

 

「すっごい茂ってるねー。仕事で南の方に言ってコーヒー農場見た事あるけど、それ並だね。日本の気候でも育つんだ。品種改良とかされてるヤツなの?」

「え、えっと、すみません、ちょっと分からないです……ご、ごめんなさい」

「あーっと、そんなに怖がらなくても大丈夫だよ。あのおじさんは由香ちゃんの叔父さんだし、火傷の人はお医者さんだし、おねーさんは女の子の味方だからね」

「は、はい……」

 

 鴇が琴木と話し、仁二郎が井戸のベニヤ板と重しをどかしている間に、一太郎は「透視」を使った。案の定、コーヒーノキは強く不気味なオーラを帯びていた。特に実にオーラが集中している。こんな魔術的特性が色濃い実を食べたら昏睡してもおかしくは無い。その割にこのコーヒーの実を焙煎したというコーヒーにオーラは無かったが、普通のコーヒーとすり替えられたのか、何か特別な処理で魔力が抜けたのか。一太郎は実をいくつか採取しておいた。

 コーヒーノキの幹や葉、枝などは、オーラを帯びている事以外特に変わった事は無かった。幹に人間の顔が浮き出ていたり、枝が風もないのに蠢いたりといった事もない。

 

「八坂さん」

 

 井戸を調べていた仁二郎に手招きされる。近寄ると、仁二郎は小声で聞いてきた。

 

「どうですか」

「何か魔術がかかってますね。切り倒すなり燃やすなりした方が良いかも知れません。はっきりした事はもう少し調査しなければなんとも言えませんが、いざとなれば、そうですね、人間に感染する病気を媒介する害虫の発生源になっている、とでも言いましょうか。ところでこの井戸は?」

「琴木さんの言っていた通り枯れ井戸ですね。降りてみますか?」

「ロープかはしごがあれば」

 

 井戸の縁に引っ掛けられていた古い鶴瓶のロープがあったため、それをコーヒーノキの幹にしっかり縛り付け、二人は井戸の中に降りていく。

 井戸の深さは10mもなく、すぐに底についた。柔らかい砂と乾いた泥、朽ちた落ち葉や木の枝が積もっている。仁二郎に続いて降りた一太郎はすぐに内側の壁がカラカラに乾いて湿り気の欠片もない事、素人目に見てもこれが井戸などではなく単なる縦穴である事に気付いた。

 

「八坂さん、こんなものが。それと横穴があります」

 

 底を漁っていた仁二郎は砂で汚れた大きな乾燥剤を見つけた。包装紙がついていて、市販の強力なものだという事が分かる。そして仁二郎が指差す先には、井戸の底スレスレに隠れるようにして数個の横穴があった。少し掘ってみると、それは兎が通れるぐらいの大きさだった。

 

「狸か狐でも住み着いているんですかねぇ」

「井戸の底に?」

「そこはホラ、近所から掘り進めた巣穴が井戸の底にぶつかった、なんて事が」

 

 言いながら仁二郎は這いつくばり、横穴を覗き込む。目を凝らしてもしばらく暗闇しか見えなかったが、不意に奥で蠢く無数の虚ろな瞳とばっちり目が合った。人間の目だ。個数と不気味な光を除けばだが。

 硬直して頭を真っ白にする仁二郎を、穴の奥から響くもの凄い悲鳴が襲った。野太い女性の金切り声に似ているが、魂を突き刺すようなぞっとする音は形容し難い憎悪と嘆きを帯びていた。

 絶叫に貫かれ恐慌状態に陥った仁二郎は真っ先に逃げ出した。ロープを掴んでもたもたと登っていく。尋常ではない悲鳴に頭をかき乱された一太郎も慌ててそれに続こうとしたが、先行する仁二郎がロープを揺らしていた事と、運動が苦手だったせいで手を滑らせて落ち、頭から落ちてなすすべもなく底に叩きつけられた。混乱していたし、咄嗟の事で、《空中浮遊》を使うという発想は浮かばなかったのだ。

 頭を強く打った一太郎は、そのまま意識を失った。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 一太郎が目を覚ますと、コーヒーノキの木陰に寝かせられていた。

 

「東雲さん、起きましたよ」

 

 自分の顔を覗き込んでいた仁二郎が救急車を呼ぼうとしていた鴇に声をかけた。泣きそうになっておろおろしていた琴木もほっとしている。

 仁二郎は情けなさそうに頭を下げた。

 

「いや申し訳ない。私が真っ先に逃げ出してしまうとは……面目ない」

「あー、まあこうして生きていますし。お互い怪物退治の予行演習だったと思いましょう」

 

 ズキズキと痛む首を抑え、顔をしかめながら状態を起こす。体の節々に鈍痛があり、擦り傷と切り傷だらけだったが、不幸中の幸いか骨は折れていない。ざっと自己検診をした限りでは後遺症が残るような怪我は無いようだった。

 

「救急車を呼びましょうか?」

「いえ、治療器具は携帯しているので……あ、しまった車の中か。すみません、取ってきてもらえますか」

「私が行ってきます」

 

 一太郎から車の鍵を受け取った鴇は小走りで門の外に出ていった。仁二郎は所在なさげにしている琴木を横目で見ながら一太郎に耳打ちした。

 

「こんな時になんですが、お伝えしておきたい事が。八坂さんが気絶している間に琴木さんが妙な事を言っていました」

「妙な事?」

「あの金切り声なんですがね。八坂さんはどう聞こえました?」

「どうってそれは、こう、正気を失って錯乱している、あー、女性の悲鳴、ですかね」

「ですよねぇ。私もそう聞こえましたし、東雲さんもそう聞こえていたようです。が、彼女は母親が優しく呼んでいるような声だった、と。我々が悲鳴のように聞こえたというとびっくりした様子でした。これはどういう意味なのでしょうか」

「…………? すみません、分からないです」

 

 人によって印象がまるで違う怪異的絶叫、というのは一太郎の知識にはなく、「透視」で琴木を見ても特に変わった様子はなかった。

 鴇が医療器具が入ったカバンを持ってきて、それを使って自分で手当をする。首をギプスで固定して、大きな傷を消毒して包帯を巻くと十分動けるようになった。ただし鈍痛は残っているため、無理は禁物だ。

 

 もう一度井戸に入って調べてみるべきかと三人が話し合っていると、アリッサがやってきた。運動でもするのか、髪をアップにまとめ、ジャージに着替えている。

 

「皆様、ご苦労様です。調査の進捗は……あら、八坂様、お怪我を?」

「ああ、少し首を捻りましたが大事ありません」

 

 アリッサは心配そうにしていたが、八坂が(表向きは)医者だと思い出したのか、追求はせずに奥ゆかしく引き下がった。

 

「まだ調査の途中かと思われますが、これから部員全員で体力作りのためランニングに出かける事になっていまして。ターニャさんも食材の買出しで出かけるそうなので、しろがね館が無人になります。皆様を信頼していないわけではないのですが、もう良い時間ですし、夜になる前に一度帰って頂いて、明朝改めてお越しいただければと思います」

「そうですか、そういう事なら。ああそうだ、我々はまだ宿を取っていないのですが、こちらに部屋は空いていませんかね? うら若き乙女の宿に私や八坂さんのような男がご一緒するのは論外としても、東雲さんだけでも泊まらせて頂くというのは」

「申し訳ありませんが、部屋がいっぱいで。人を詰めて空けようにも寝具が足りませんし……」

「ああ構いませんよ、無理を言って申し訳ない」

「代わりといってはなんですが、よろしければ近くの民宿をご紹介しましょうか?」

 

 好意に甘えて民宿を教えてもらい、三人はしろがね館を辞した。バイクを引く鴇と男二人がコインパーキングの車に着いて振り返ると、しろがね館からジャージ姿の茶道部員たちが出てきて走り出すのが見えた。先頭を走るのはアリッサで、シンプルなジャージ姿でも健康的な色気があった。

 自己時間を操作して二倍速や三倍速で動いたりできるのだろうか、と思って見ていると、鴇に脇腹をドつかれた。

 

「いって」

「さっきからなんなの? 八坂さん女子高生好きなの? 私から見てもシャトレーヌさんは凄く可愛いけど、女子は男がそういう目で見るとすぐ分かるから」

「誤解です。どちらかといえば未知の生物を観察する目です」

「そ、そうなんだ。それはそれでどうなのかな」

「このまま民宿まで行きますか? しろがね館のどこかに忘れ物をしたような気がしますが」

 

 仁二郎が思わせぶりに言ったが、一太郎は首を横に振った。

 

「気のせいでしょう。忘れ物を探している途中で見つかって、留守を狙って家探しをしたと『誤解され』て顰蹙を買うより大人しく明日出直した方が良いと思います」

「うっわー白々しい。大人は汚いなー、私も大人だけど」

「さて、なんの事やら」

 

 アリッサに紹介されたのは、しろがね館から車で十分ぐらいの場所にある「民宿ぎんたそ」という民宿だった。こじんまりとした宿で、古いが清潔感がある。警戒心が上がっている一太郎が恒例の「透視」でざっと見てみたが、特に怪しいところは無かった。

 出迎えた初老の女将にアリッサの紹介だと言うと歓迎された。民宿ぎんたそは老夫婦二人で営む宿で、夏になると毎年合宿にやってくる郷都学園の生徒達とは交流があるらしい。

 

 一太郎と仁二郎でひと部屋、鴇でひと部屋とり、食事の前に風呂に入る。生憎と温泉ではなかったが、中庭の枯れた露天風呂を再利用していたため、眺めは良かった。ぶっちゃけ湯が水道水を沸かしたものに入浴剤を入れたものでも、天然の温泉でも、一太郎には違いがよくわからない。風呂の後の夕食も海鮮尽くしの贅を凝らしたもので、これで一泊二食付き七千円は安い。一太郎は事件が無事解決したら蓮を海に連れて行くついでにまたこの宿に泊まるのも悪くない、と思った。

 

 女将は話好きらしく、夕食が終わり三人が一休みしていると愛想よく話しかけてきた。せっかくだからとしろがね館のコーヒーノキについて聞いてみると、地元に長く住んでいるだけあって詳しく、喜んで話してくれた。

 

 しろがね館は一度火事で燃えて建て直されているそうだ。建て直される前の建物は「銀の黄昏館」といい、当時の富豪が建てた立派な館で、「民宿ぎんたそ」の名の由来にもなっている。火事の後、夏季臨海施設として郷都学園が買い取り、地元の協力も受けて再建。以後、「しろがね館」として学園の生徒たちに利用されている。コーヒーノキは建て直された時に学園長の趣味で植えられたらしい。

 女将は話しながら昔を思い出し郷愁にかられたのか、昔の写真を引っ張り出してきて見せてくれた。アルバムには銀の黄昏館の前で地元の名士と一緒に映る富豪のモノクロ写真や、以前しろがね館を訪れた郷都学園の生徒達の写真が何十枚と挟まれている。

 女将の昔話を聞きながら徳利を片手に写真を眺めていた一太郎は、妙な事に気付いた。どの年代の写真にも、美しいフランス娘の生徒が写っているのだ。しかも、全員ついさきほどまで顔を合わせていたアリッサと瓜二つといって良いほど似ている。

 鴇は酔いが回って気づいていないようだが、仁二郎は同じ事に気付いたのか、顔を青ざめさせていた。

 

 これは一体何を意味しているのだろうか。アフォーゴモンのペンダントが関係している事は想像に難くない。老化が止まっているのか? それとも時代を跳躍しているのか? はたまた別の年代に同時に存在しているのか? 何にせよ、アリッサへの疑いは深まった。コーヒーノキとの関連は不明だが、詳しく調べる必要があるだろう。

 

 夕食後、それぞれの部屋に入り、仁二郎は特命係へ電話で途中経過を報告し、一太郎は採取したコーヒーの実を調べた。

 コーヒーの実のオーラは消えていて、普通のコーヒーの実と変わらないものになっていた。袋に入れていただけで、特別な処理は何もしていない。時間経過で自然にオーラを失ったと考えるべきだろう。茶会で出されたコーヒーは当然採取後かなり時間が経っていただろうから、オーラが無かったのにも頷ける。

 七杉由香はコーヒーノキの側で倒れていたという。恐らく、木からとった実をすぐに食べたのだろう。なぜそんな事をしたのかは不明だが、熟したコーヒーの実は赤く小さく、特別美味しそうではないが、不味そうにも見えない。ちょっとした好奇心で齧ってみたとしてもおかしくはない。

 

 仁二郎にその事を伝えてついでに報告してもらい、少し翌日の計画について話し合い、就寝した。全身の鈍痛と首の痛みでなかなか寝付けなかった一太郎も、夜中をすぎる頃には夢の世界に旅立っていた。

 

 ……ただし、一太郎がみたのは夢は夢でも悪夢だった。

 

 しろがね館とよく似た、おそらくは銀の黄昏館。館は夜空に赤い炎を巻き上げ火の粉を散らし、燃え上がり、黒い煙をもうもうと吐き出している。唯一の出入り口の門にも火が回り、寝間着姿の女性達が右往左往している。

 やがて炎はますます激しさを増し、熱さに耐えかねた女性達は中庭の井戸に次々と身を投げ打っていった。悲鳴を上げながら一人落ち、地面に叩きつけられる生々しい音がして。寝間着に火がつき半狂乱で一人落ち、肉の積み重なるような鈍い音がして。錯乱して走りまわるうちに井戸の縁につまづいて一人落ち、また肉が積み重なる鈍い音がして。一人、また一人と落ちていき、最後は誰もいなくなる。

 倒壊する建物と炎に飲まれていく井戸はしっかりとした石組で、中から怨嗟の声が溢れてくるようだった。

 

 一太郎は布団を跳ね除けて飛び起きた。急に動いたので首がズキリと痛み、声を咬み殺す。窓からの柔らかな月明かりだけが差し込む静かな部屋と隣で眠る仁二郎を見てすぐに夢だったと気付くが、井戸に落ちていった女性の真に迫った悲鳴が耳に残っていた。冷や汗で浴衣が湿っている。

 ただの夢だ、昼間の井戸の出来事と女将の話のせいだ、と自分に言い聞かせてまた寝ようとしたのだが、目が冴えて仕方ない。しろがね館の井戸は木組だったが、夢に出てきた銀の黄昏館と思しき館の井戸は石組だった。所詮夢であるし、それがどうしたといえばそこまでなのだが、どうにも引っかかる。

 

 銀の黄昏館は火事で燃えたというが、石組の井戸は燃え残ったはずだ。夢に出てきた通り銀の黄昏館の井戸が石組だったとしたらだが。そもそも夢を情報源に推論を組み立てるという事からして間違っている気もするが、何しろあまりにも鮮烈な夢だった。十年以上に渡っていくつもの神話的怪異を体験するうちに、頭がおかしくなってきたのではないかと思うほどだ。しかしそれはそれとして、女性達が飛び込んだ井戸は死体で埋まっただろうから、死体を引き上げた後の再利用は憚られたのかも知れない。新しく井戸を掘ったが水が出ず――――このあたりの温泉が枯れた事を考えると、地下水脈の変化で水が出なくなったとも考えられる――――放置されたのがしろがね館の井戸、というストーリーが妥当なところだ。

 だがそのストーリーではしろがね館の井戸にあった横穴の説明がつかない。その奥に仁二郎が見たという無数の目、悍ましい、女性のものに似た悲鳴、奇妙な反応を示した琴木……

 

 気が高ぶり、考え事が止まらず、一太郎は朝まで寝付けなかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 翌朝、仁二郎が特命係の葵から折り返しの調査報告を受け取った。

 しろがね館再建当時の郷都学園学長、つまりコーヒーノキを植えたのはイザベル・シャトレーヌといい、アリッサ・シャトレーヌの曾祖母に当たるらしい。ますますアリッサが疑わしい。東京側ではシャトレーヌ一門が一族ぐるみで何か企んでいる可能性も視野に入れ、これから探りを入れていくとの事だ。

 七杉由香の症状には依然変わりはないようだ。念のためコーヒーの実のサンプルが欲しいと頼まれたので、速達を出しておいた。

 

 寝不足の一太郎はあくびを連発しながら朝食を取り、軽く打ち合わせをしてから他の二人と一緒に宿を出た。事件が解決するかどうかに関わらずもう一泊する予定なので、車は宿に置いておいた。ただし鴇はバイクをしろがね館まで引いていった。突然過激派武装勢力に襲撃された時に移動手段が無いと困るから、らしい。明らかに経験談だった。

 一太郎がしろがね館に持っていくのは、携帯電話と医療かばんと懐に潜ませた魔法のナイフだけである。

 

 しろがね館の門をくぐってすぐ、三人は井戸のそばで茶道部員たちが何人か揉め事を起こしているのを見つけた。とはいっても喧嘩や殺傷沙汰というほど物騒な気配はなく、小柄な一人を残りが取り囲んで何か言葉を浴びせかけているだけだ。よくよく見れば、集中砲火を浴びて涙目で縮こまっているのは琴木だった。

 

「どうしました?」

 

 仁二郎が歩み寄って尋ねると、琴木を取り囲んでいた茶道部員たちはお互いに目配せしてぴたりと口を閉じた。誰も何も言わない。被害者らしき琴木も怯えた様子で他の茶道部員の顔色を伺うだけだ。一太郎が「透視」で感情の揺らぎを見ながら表情や仕草を分析した結果、琴木には強めの怯えや恐怖、他の茶道部員には琴木への嫉妬の色が見えた。

 どうやら何かが原因で妬まれて口撃されたらしい。年頃の少女たちのドロドロした世界も神話生物の闇と比べれば可愛いものだ。鴇が琴木を庇うように立ち、一太郎が火傷を強調するようにして睨みを効かせ、仁二郎が特に意味もなく警察手帳を出してひらひら動かすと、茶道部員たちは鴇の後ろに隠れた琴木を睨み、ひそひそと文句を言い合いながら去っていった。

 

「大丈夫? 怖かったね、よしよし」

 

 琴木は鴇に優しく抱きしめられて撫でられると、恥ずかしそうに顔を赤くした。

 

「あ、ありがとうございます、東雲さん、新畑さん、八坂さん」

「いえいえ、大人として当然の事をしたまでで。何を言われていたか聞いても? こんなおじさんで良ければ相談に乗りますが。私に話し難い内容ならそちらのお姉さんでも」

 

 琴木は少し迷ったようだが、話してくれた。

 やはり他の茶道部員に妬まれて呼び出され、ある事ない事理不尽な罵倒を浴びせられていたようなのだが、その理由というのが、アリッサ部長に目をかけられているからだという。

 アリッサはいつも琴木にあなたは選ばれた存在だ、特別な素質を持っている、と言い、励ましてくれるらしい。そうして茶道部員全員から尊敬されている憧れのアリッサ部長と親しくしているのが目に付いたようだ。琴木はアリッサに親切にしてもらって嬉しい反面、部長を独り占めしているようで他の部員に申し訳なく思っていると言った。

 

「それは他の子が悪いよ。お姉さん女の嫉妬は否定しないけど、そういう嫉妬は良くないと思うな。毎日あんな感じの事されてるの?」

「いつもじゃないです。でも、えっと、昨日は、アリッサ部長と一緒に……お、お風呂に入らせてもらったので、たぶん、それでみんな我慢できなくなって」

 

 一太郎の脳内で未弧蔵の幻影が「なんで昨日忍び込まなかったんだ!」と叫んだ。幻影に《萎縮》を使って塵にしてから、琴木に「透視」を使う。黒幕説が急浮上しているアリッサが選ばれた存在だとか、特別な素質を持っているとかいう琴木美緒は実際のところどうなのだろう。

 琴木のオーラを計測すると、魔術的素質を表すPOWは16だった。確かに一般人平均よりはかなり高い。が、選ばれた存在というには大げさだった。東京の雑踏で「透視」を使えばチラホラ見かける程度である。だいたい五十人に一人の素質だ。

 ならば一太郎と同じように先天的な魔術を持っているのかと考えそれとなく探りを入れてみるが、身に覚えはないらしい。「透視」で感情を読みながら尋ねたので確かである。

 

 アリッサのいう特別さとは魔術的な素養を示すものではないらしい。しかも成績は中の上、運動神経は並とくれば何が特別なのかは見当もつかない。案外気弱な琴木に自信を持たせるためにそれらしい事を言っているだけなのかも知れない。

 

 ひとまず琴木の謎については保留にして、一太郎と仁二郎は再び井戸の底に降りた。横穴は相変わらずで、緊張しながら覗いてみるが、しばらく待っても何も見えなかった。

 

「ふむ。昨日の絶叫はこの穴から聞こえたように思うのですが……八坂さんは怪物がこの奥にいるとお考えで?」

「可能性は高いですね」

 

 横穴の大きさからして、通れるのは兎が大きなネズミ程度だろう。何冊もの魔道書を読んでいる一太郎は、鼠怪物あるいは鉄鼠という、人間の頭部を持つネズミの怪物の存在を知っている。ネズミの怪物は単体の驚異度は低く、蹴り飛ばせば撃退できるが、群れで襲いかかられると厄介な事になる。

 穴は人が這っていける大きさではなく、どこまで続いているかもわからなかったので、しろがね館に来る前に買ってきた殺鼠剤を投げ込み、水で濡らして固めた井戸の底の砂と泥をギチギチに詰め込んで塞いでおいた。奥に潜むのがネズミ怪物の類ならばすぐに掘り返されてまた穴を開けられてしまうだろうが、やらないよりはマシだ。また、しばらく経ってもう一度見た時に掘り返されていれば、その痕跡からどんな怪物が奥に潜んでいるか推測できる。

 

 ひと仕事終えた二人は地上に戻り、アリッサについて調べる事にした。穴の奥にいる怪物には手出しできないので、調べられるところから調べようという話になっていた。

 アリッサの経歴については東京で葵と左京が調べているので、部員から普段のアリッサの行動や性格などについて聞いて回ったり、アリッサの所持品を確認したりする予定だ。本人にカマかけをしてみるのも良いだろう。

 

「シャトレーヌさんに少しお聞きしたい事があるんですがねえ。琴木さんは彼女がこの時間帯にどこにいるかご存知ありませんか」

「えっと、たぶん部長の部屋にいると思います。こちらです」

 

 アリッサの部屋は館の二階への階段の横だった。琴木が部屋をノックするとアリッサはすぐに顔を出した。

 

「あら、おはようございます。何か御用ですか?」

「おはようございます。実は姪はコーヒーの実を食べたから昏睡したのではなく、その前に飲食したものに含まれる遅効性の何かが偶然実を食べたタイミングで効いたのではないかという話が上がっていましてね。茶菓子や抹茶の選定をしているのはシャトレーヌさんという事ですので、お手数ですが姪が倒れた朝から遡って二、三日分のものを一緒にご確認いただければ、と」

「まあ……保存には気をつけていますし、そのような事は無いと思いますが」

「念のためですよ、念のため。私もまず無いとは思っていますがね、可能性は一つずつ確実に潰していきたいものですから」

 

 アリッサは少し考え、頷いた。

 

「分かりました。茶菓子と抹茶は楽屋の給湯室にありますので、そちらへ」

「恐れ入ります。ああそうだ、さきほど中庭で琴木さんが他の部員にイジメともとれるような事をされていましてね。私達のような大人が言って聞かせても反感を買いそうですし、シャトレーヌさんの仲裁があればと思うのですが」

「あら、それはお恥ずかしいところをお見せしてしまいました。茶道の道を学ぶ者として和を乱すような事はやめなさいと常々言っているのですが……」

「一度シャトレーヌさんを交えて琴木さんと他の部員の方で話し合ってみてはいかがでしょう。無論、部員の方に非があるのでしょうが、琴木さんからしっかり自分の意思を伝える事も重要だと思うのです。いや、要らぬお節介でしたかな」

「いえ、貴重な助言、感謝致します。美緒さん、いいかしら?」

「は、はい……」

「善は急げと言います。どうぞ気が挫けない内に」

 

 仁二郎が上手く言いくるめ、アリッサと琴木を伴って廊下の先に消えていった。

 

「さて、手早く何かないか探しましょう」

 

 三人の足音が聞こえなくなった途端、アリッサの部屋の戸に手をかけて臆面もなく年頃の美少女の部屋を漁ると言い放った一太郎に鴇は疑わしげな目を向けた。

 

「八坂さん、本当に変な事は考えてないんですよね?」

「最悪館に火をつけるところまでは視野に入れていますが、それは本当に最悪の場合なので」

「それも変な事、っていうか大変な事ですけどそうじゃなくて……ああもう。本当に調査だけにしてくださいね」

 

 念を押してくる鴇に肩をすくめ、一太郎は部屋に入った。鴇は他の部員に話を聞いて回るため立ち去る。同性の鴇がアリッサの部屋を調べないのは、魔術師あるいはカルティスト疑惑があるアリッサの所持品から魔術的痕跡を発見できるのが一太郎しかいないからだ。一太郎としても必要以上に部屋を漁るつもりはない。裏人格が出ていれば必要どころか執拗な執念深さで漁っただろうが、誰にとっても幸い事に今は表人格だ。

 

 アリッサの部屋は、落ち着いた雰囲気を醸し出している、畳敷きの一室だった。きちんと畳んで隅に寄せられた布団、机の上の香水の小瓶とそこから香る爽やかな匂い、高そうな化粧品が並ぶ化粧台、窓際の観葉植物など、一見してオカルトチックなものは見当たらない。

 「透視」を使った一太郎は、机の引き出しから漏れる禍々しいオーラを見つけた。ハンカチを使い指紋がつかないように引き出しを開けると、中には一冊の本があった。何十年も経ったような風格のある黒表紙の本で、口と歯を描いたような独特のシンボルマークが表紙に書かれている。魔道書の一つ、無名祭祀書を読み込んでいた一太郎には、それが「血塗られた舌教団」と呼ばれるアフリカのカルト集団の印である事が分かった。血塗られた舌教団は、千の貌を持つという強大にして非道なる邪神、這いよる混沌ニャルラトホテプを奉じる邪悪な集団である。中身は英語で書かれていて、ところどころにフランス語で注釈が書かれている。単語を少し拾い読みしただけでも、決して華の女子高生が恋占いに使うような本ではない事が分かった。表紙の裏に書かれたタイトルは「AFRICA'S DARK SECTS」。直訳で「アフリカの暗黒の宗派」だ。

 こんな本を持っている時点で、アリッサはただの女子高生ではない。間違いなく、もっと血なまぐさいナニカだ。

 

 一太郎は魔道書を医療鞄に入れ、そっと部屋を出ると、そのまま背後を気にしながらしろがね館を出た。

 アリッサはすぐに魔道書が無くなっている事に気付くだろうし、犯人も容易に特定するだろう。しかし、一太郎は経験上魔道書を邪悪な魔術師や神話的存在に持たせておくとロクな事がなく、逆に味方が手にすれば非常に役立つ事を知っている。ヘビ人間が屍食教典儀を持っていたせいで食屍鬼が追い詰められ、危うく東京が壊滅するところだったし、無名祭祀書はガタノソアの石化の呪いに対する対策になった。魔道書に記された情報は人類を侵す毒であると同時に、薬にもなるのだ。

 アリッサが何を企んでいるかは判然としないが、魔道書を奪い、それを逆手に取る事で、致命的な一撃を与えられる公算は高い。

 

 民宿ぎんたそに戻った一太郎は自分の部屋に戻って早速魔道書の中身を改めようとしたが、寝不足が祟ってまるで集中できず、仮眠を取ることにした。葵と仁二郎にメールでアリッサの動向に注意するよう警告してから、一太郎は布団に身を投げ出し、浅い眠りに入った。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 一太郎は夢を見ていた。懐かしい夢だ。

 八坂屋敷の自室で一太郎が試験勉強をしていると、未弧蔵がノックもせずに夜食を持って入ってきた。きつねうどんと卵焼きだ。

 

「おおう、やってんねぇ」

「明後日から試験だからな。単位は落とせない」

「試しに落としてみろよ。三つぐらい」

「落とせないっつってんだろ」

 

 未弧蔵は一太郎の前にきつねうどんと卵焼きを置き、きつねうどんを自分で食べながら机の上の参考書をパラパラ捲った。

 

「何書いてあるか全然分かんねぇ。コーヒーノキが何? 爆発でもすんの?」

「さあ。それを今調べてるところだ」

「ふーん。ま、なんでもいいけどさ、ほどほどにして起きとけよ。死ぬぜ」

 

 一太郎はどこか遠くで床がきしむような音を聞き、次の瞬間未弧蔵にきつねうどんのアツアツの残り汁を首元に流し込まれて目を覚ました。

 

「あっつァ!」

 

 灼熱の痛みに首を抑えて布団から転がり出る。寝起きと激痛で混乱しながら見てみれば、鮮血滴る肉斬り包丁を持った背の高いアフリカ系女性――――ターニャが虫けらでも見るように一太郎を見下ろしていた。その背後、部屋の出口を塞ぐようにしてアリッサが立っている。彼女は魔性の微笑みを浮かべながら何か呪文を唱えていた。

 脳みそが一瞬で覚醒する。アリッサの行動は予想よりも遥かに迅速で、過激だった。まさか白昼堂々いきなり殺しに来るとは。

 

 ギリギリのところで即死は免れたが、武器を持った前衛に魔術師を敵に回して一人で生き延びられる気がしない。

 せめて一矢報いよう、と立ち上がり、絶望的に魔法のナイフに魔力を込めようとした一太郎を、完成したアリッサの魔術が襲った。レジストを試みるが失敗し、脳みそをひっかき回されるような不快感と共に理性が吹き飛んだ。世界が現実感を失い、体の動きが止まる。夢か現か、トドメを刺そうと肉斬り包丁を持ち直してじりじり近づいてくるターニャを棒立ちで眺める。

 

 自分は何をやっているのだろう。さっきまで未弧蔵と話していたはずだ……未弧蔵と話していた? 自分が未弧蔵なのに? いや、本当にそうなのか? 自分は誰だ? ここは現実なのか? 首がもげたかというほど痛い。意識を失いそうだ。夢の中で気絶するとどうなるのか、気絶するはずはない、なぜならば夢だから。そう、これは夢なんだ。俺は魔術師だ。女二人の襲撃者を返り討ちにするぐらいできないわけがない。やれる。いける。

 

 今起こっている事を完全に夢だと思い込んだ一太郎は、部屋の隅で逃げ場もなく呆然としている獲物にターニャが振り下ろした肉斬り包丁に対し、緩やかに片手をかざした。そして《被害をそらす》魔術を発動。間違いなく頭をカチ割る直撃コースをとっていた肉斬り包丁は、魔術によって不自然にそれ、空を切った。

 必殺の一撃を外したターニャは驚愕し、たたらを踏む。その横を俊敏にすり抜けながら、一太郎は今度は《レレイの霧の創造》を唱えた。途端に虚空から湧き上がった濃霧が部屋を満たす。

 

「魔術師!?」

「まさか!」

 

 一メートル先も見えないような不自然なまでに濃い霧の中から、ターニャとアリッサの驚きの声が聞こえる。初撃で生存されても、一般人なら確実に殺せると思っていたのだろう。

 二人が動揺しているうちに、一太郎は備え付けの小さな古いテレビを持ち上げ、窓の方向に向けて思いっきり投げた。ガシャン、とガラスが割れる音がして、外のコンクリートに重いものが落ちて転がる音が続く。

 

「窓から……! ターニャ、追いなさい! 確実に仕留めるの!」

「Roger kwamba!」

 

 部屋を足音が横切り、窓から誰かが飛び出していったのが分かった。流石夢の産物の住人なだけあって、面白いぐらいにあっさり作戦に引っかかってくれる。一太郎はほくそ笑み、霧の魔術を解除した。同時に外から「陽動ダ!」と叫び声が上がる。一太郎は凄絶な笑みを浮かべ、一対一に持ち込まれ忌々しげに顔を歪めるアリッサに手招きした。

 

「来いよ魔術師。俺を殺すんだろ?」

 

 発狂して思慮深さを彼方に放り捨てている一太郎は、大怪我を負い魔力も残り僅かにも関わらず、アリッサを挑発した。実際、もうひと押しするだけで一太郎は死ぬのだが、アリッサには奥の手を隠した底知れない魔術師に見えたらしい。身を翻して逃げようとする。

 

「逃がすかよ!」

 

 ガンマンの早撃ちの如く素早く魔法のナイフを抜き放ち、魔力を込めて飛ばす。ナイフは背を向けたアリッサのふくらはぎに突き刺さり、アリッサは転倒して顔面を強かに打ち付けた。血のついたナイフを手元に呼び戻し、ニヤニヤ笑いながらアリッサを威圧するように歩み寄る。アリッサは立ち上がろうとして転び、ずるずると部屋の隅まで張っていき、壁に背をもたせかけて一太郎を睨んだ。

 玄関の方から誰かが走ってくる音がする。しかし音は遠い。アリッサは焦ったように素早く印を切り、早口で呪文を紡いだ。一太郎の体から魔力が引っ張られるような感覚に襲われるが、発狂してある意味怖いもの知らずになっている一太郎は歪な精神力でそれを跳ね返し、逆にアリッサから魔力を引っ張り、奪い取った。

 愕然とするアリッサに、一太郎は嗜虐心に満ちた邪悪な笑みを向けた。

 

「馬鹿め、俺に勝てるわけないだろ!」

 

 階下から足音が近づいてくる。一太郎は余裕綽々で朗々と呪文を唱えた。《萎縮》だ。自分が夢の中にいると思い込んで頭がおかしくなっている一太郎は、人間に《萎縮》を使う事に全く躊躇いがない。一太郎が自分を殺そうとしている事を察したアリッサは乱れた服をさらに崩し、媚びるように何か言ってきたが、耳に入らない。

 

 部屋にターニャが飛び込んでくると同時に、《萎縮》が完成した。レジストしようとしたようだが、一太郎は抵抗を紙のように破り、破壊的な魔術がアリッサを襲った。ターニャの目の前でアリッサが火を出さずに焼け焦げ、煙を上げて急激に萎びていく。ほんの数秒で、アリッサは焦げ目一つ無い服を着たまま、奇妙で悍ましいミイラめいた焼死体と化した。

 それを見てもゲームの画面越しに死体の絵を見た程度にしか思わなかった一太郎は、愕然としているターニャに言った。

 

「お前も死ぬか?」

 

 ターニャは首から血を流したまま不敵に言い放った一太郎を化物でも見るような目で見て後ずさり、逃げていった。一太郎は雑魚め、と呟き、それを見逃す。ターニャは魔術を使う様子がなかった。奇襲だけが取り柄のサンシタだと思ったのだ。追うまでもない。

 かつてないほど連続で魔術を行使し、アリッサと実践的な魔術の掛け合いをした一太郎は、一連の攻防により魔術的素養を大きく成長させていた。POWは19から22に伸び、勝利の余韻と充足感、全能感に満たされている。

 

 一太郎は見るも無残なアリッサの死体から、無造作にアフォーゴモンのペンダントを取った。その瞬間に死体がガタガタと震え、少し縮んだ。よく見れば焼け残った皮膚に皺がよりカサカサになって、顔つきもわかりにくいが老けたように見える。時間にまつわる効力を持つアフォーゴモンのペンダントで若い姿になっていたようだ。道理で日本語が堪能だった訳だ。実年齢が何歳かはわからないが、十分学ぶ時間があったに違いない。

 

 アフォーゴモンのペンダントを手の中で弄びながらアリッサの死体を眺め、夢だし勝手に消えるだろうと考えていた一太郎は、ポケットの中でマナーモードにしていた携帯が振動するのを感じ、電話に出た。

 

「はいはい八坂です」

「八坂さん今どこですか!? すぐしろがね館に来て下さい! 化物が暴れています! というか助け」

 

 電話は途中で切れた。電話口から聞こえた仁二郎の声は酷く慌てていて、重機で家屋を壊しているような破壊音が混ざっていた。

 一太郎は包帯で簡単に首の傷を止血し、嬉々として民宿ぎんたそを飛び出した。魔術戦の次は怪物退治。まったく楽しい夢だ。

 実際は怪我の面でも魔力残量の面でも怪物退治ができるようなコンディションではないのだが、発狂中の一太郎は根拠もなくなんとかなると確信していた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 仁二郎はアリッサの仲介による茶道部員と琴木の仲直り(ただし本心では納得していない様子だった)を見届け、アリッサと共に形式的に茶菓子と抹茶の品質を確かめた。もっとも、七杉由香が昏倒したのは一週間前で、その日より前のものはほとんど使い切られていたのだが。

 仁二郎は特命係として怪事件の調査にやってきている。表向きは姪を心配した叔父という名目ではあるが、仁二郎にとっては表向きどころか本当に表に近い。幼い頃からずっと見てきた姪の謎の症状を治してやりたいというのは間違いなく本心だ。

 

 検査を終えると、管理人のターニャがやってきてアリッサに何事か耳打ちをした。アリッサの表情は変わらなかったが、ターニャの表情は険しい。まさか一太郎の侵入が発覚したのか。

 

「新畑様、申し訳ございませんが、御婆様から東京に戻るように連絡があったようです」

「おや、シャトレーヌさんは郷都学園の理事長をしていると記憶していますが。東京で何かあったので?」

「詳しくはあちらで話すとだけ。今すぐとの事ですので、これで失礼します」

「はい。ご協力ありがとうございました」

 

 会釈して去るアリッサとターニャを見送る。シャトレーヌ一門が怪しいというのは特命係とその協力者の共通認識である。まさか東京の葵・左京側で衝突があったのだろうか。

 東京に連絡を取ろう思い携帯を取り出すと、ボタンを押す前にメールが届いた。アリッサの部屋から魔道書が見つかった事、アリッサを警戒するべきである事が簡潔に書かれていた。

 メールを読んだ仁二郎はすぐにアリッサとターニャの姿を探したが、見当たらない。アリッサの部屋には鍵がかかっていた。既に東京に向かったのか。いや、本当に東京へ向かったのか?

 嫌な予感に駆られた仁二郎が一太郎の元に向かおうとすると、突如茶道部員の誰かの悲鳴が聞こえ、一拍置いてしろがね館の一角が吹き飛んだ。

 

 廊下の前で茶道部員を捕まえ、雑談混じりにアリッサについて探りを入れていた鴇は、廊下に面した部屋の中から聞こえる鈍い音に気付いた。ドン、ドン、ゴオン、と、何か重いもので金属板を叩いているような音だ。音はだんだん大きくなり、金属が引きちぎれる音がした後、静かになった。

 鴇は茶道部員と顔を見合わせた。

 

「今の音は?」

「え? さ、さあ……空耳、じゃなさそうだし。なんだろ、見てみます?」

「見るの? 怖くない?」

「怖いですよ当たり前でしょ。東雲さん見てくれません?」

「ええ、ヤだなぁ。怪物とか出てきたらどう、し……ようか…………」

 

 音がしていた部屋の戸を開き、中にいたものが顔を出した。お化け屋敷に入るのを躊躇うような気楽さだった鴇は、全身の血の気が一気に引いていくのを感じた。

 出てきたのは太い円筒形のイモムシのような肉体に、何十個もの人間の顔がついた怪物だった。胴体は紫色でぶよぶよしていて、血管のような不気味な模様を浮き上がらせている。怪物の無数の顔と目があった茶道部員は悲鳴を上げ、その悲鳴に反応して怪物が戸の枠を破壊しながら突進してきた。

 

「ちょっ!」

 

 動きは鈍重だったが、中型のトラックほどもある巨体だ。潰されたら即死するだろう。鴇は恐怖に固まる茶道部員を抱えて跳躍し、正面衝突を避けた。怪物はそのまま突進し、壁を吹き飛ばして穴を開け外に転がりでた。

 中庭に出た怪物は生理的嫌悪を掻き立てる動きで身をくねらせ、向きを変えて鴇を見た。壁をぶちやぶった轟音に、しろがね館がにわかに騒がしくなる。何事かと窓から顔を出して中庭を見てしまった茶道部員たちを怪物は無数の目で睥睨し、身の毛もよだつような絶叫を上げた。怪物の体について何十もの顔――――女性の顔が野太い金切り声の不協和音を発する。前日に井戸の横穴から聞こえたあの悲鳴だ。ただし、開放的な空間である中庭で全方位に発せられたその悲鳴の轟き方は前日の比ではない。茶道部員たちはたちまち狂乱状態になった。

 

「東雲さん! 大丈夫ですか!?」

「新畑さん! 私は大丈夫です、その子を!」

 

 その場に仁二郎が駆けつけ、怪物の異様にびくっとしたが、すぐに気を取り直し、放心してへたりこんでいる茶道部員に肩を貸した。そのまま鴇と一緒に一目散に逃げる。怪物は廊下を破壊しながら追ってきたが足は遅い。すぐに距離を引き離す事ができた。

 しろがね館の門まで来た仁二郎は、恐怖に震える茶道部員に交番へ逃げて警官を呼んでくるように言った。茶道部員はガクガクと頷き、恐怖に震える足を動かし走っていく。

 

「怪物を相手取るとは聞いていたがね。アレは流石に予想外だ」

「どうするんですかアレ、っていうかあの子危ない!」

 

 遠くで怪物ににじり寄られ腰を抜かして泣き喚いている茶道部員を見た鴇は駆け寄ろうとして立ち止まり、近くにあった自分のバイクにキーを刺しながらひらりとまたがった。エンジンをかけ、急発進する。土煙を巻き上げて加速したバイクは唸りを上げ、弾丸のように怪物に突っ込んでいく。ギリギリまでアクセル加速した鴇は、衝突の寸前でバイクから飛び降りた。5点着地して衝撃を殺し、茶道部員を横抱きに抱えて逃げる。ちらりと後ろを振り返ると、不意打ち気味にバイクの体当たりを喰らったにも関わらず怪物はケロリとしていた。

 

「嘘でしょ全然効いてない! ごめん下ろすね、走れる!?」

 

 筋力も体力もあまり高くない鴇は人一人抱えて移動するのは短距離で精一杯だ。抱えた茶道部員を下ろして逃がした。

 またもや獲物を横からかっ浚われた怪物は鴇にターゲットを変えたらしい。幾つもの顔から呻き声や泣き声をあげながら向かってくる。鴇は逃げようとしたが、近くにまだ茶道部員が何人か残っているのに気付いた。ガタガタ震えながら地面に伏せている者、頭から血を流して倒れている者、ヒステリックに高笑いをしている者。逃げればターゲットは彼女達に向くだろう。鴇は覚悟を決めた。中東で弾幕の中を駆け抜けた時と比べれば大したことは……いや、同じかそれ以上に大したことはあるが、ここでやらなければ一生後悔を引き摺る事になる。

 

「新畑さん! 避難誘導お願いします! 私はコレを引きつけます!」

「引きつける!? 無茶だ! 早くこっちに!」

 

 新畑の制止を聞かず、鴇は鋭く尖った木片を拾い怪物に立ち向かっていった。

 障害物を巧みに利用し、残骸の上を飛び回り、雨樋を俊敏によじ登って屋根から飛び降り、全体重の乗せて木片を怪物に突き刺す。が、ぐにゃりとした妙な感触でほとんど刺さらず、僅かにくい込んだ木片も怪物が身を震わせると簡単に抜けて虚しく地面に落ちた。怪物の皮膚には傷一つない。

 

「にょわーっ!」

 

 木片と一緒に地面に落ちた鴇は猫のように体勢を操って着地し、怪物がのしかかるようして三つの顔で噛み付いてくるのを紙一重で回避する。耳元でがちんと噛み合わされる硬質な歯の音が恐ろしい。打撃・刺突に関係なく物理攻撃が効かない事を悟った鴇は、怪物から中距離を保ち、破壊されたしろがね館の残骸を投げつけ注意を引く事に終始した。

 

 鴇が命懸けで怪物の気を引いている間に、仁二郎は錯乱している茶道部員たちを逃がして回った。何人かは誘導するまでもなく自分で逃げたようなので全員を逃がせたかは数えられなかったが、少し探して見つかった茶道部員は逃がせた。

 

 避難誘導が終わり、息も絶え絶えの鴇が仁二郎の元に戻ると、そこでようやく一太郎が車で到着した。門の前で急ブレーキをかけたせいで作動したエアバックからもたもたと抜け出し、二人に合流する。

 

「 待 た せ た な ! 俺参上!」

「え? あ、はい。八坂さん、あの怪物はどうすれば? バイクの体当たりでもダメージが無いようなのですが。もう自衛隊を呼んだ方が良いでしょうか?」

「物理無効なら魔術だ! 待ってろ、解析する!」

 

 仁二郎はいつもと何か様子が違う一太郎に軽く引きながら尋ねた。一太郎は尊大に頷き、「透視」を使った。

 一太郎が視たのは、邪悪で、見た事もないほど強大に迸るオーラだった。怪物が持つオーラは、POW換算でなんと60。一太郎の三倍近い。

 

 通常、POWが10離れていると、魔術をかけられた際に基礎能力が違い過ぎて抵抗を試みる事すらできなくなる。逆に魔術をかけても基礎能力だけで無効化される。この場で一番高い一太郎でも22。怪物は60。その差、38。

 勝てる訳がない。あまりの衝撃に一太郎は正気に戻った。

 

「すみません、あれは無理です。撤退しましょう」

 

 撤退した。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 避難先の交番では、茶道部員の要領を得ない説明に二人の警官は困惑し、様子を見に行くかどうかを話し合っているところだった。何を悠長な、と言いたいところだが、普通に暮らしていれば、いきなり怪物が出たから助けてくれと言われ、はい分かりました任せて下さいという対応はできない。人智を超えた怪物の実在とその驚異は実際に見ない事には実感できない事だ。

 

 一太郎達は車で逃げて交番まで来たので、あの足の遅い怪物が追ってこれるとも考えられない。ひとまず茶道部員の確認をしていると、一人足りない事が分かった。

 琴木美緒である。

 

 すぐに探しに行こうとする鴇を一太郎と仁二郎は揃って止めた。現場を離れてもう二十分は経っている。手遅れだろう。

 鴇は納得していないようだったが、渋々引き下がった。会敵してからの後半では、鴇の攻撃が自分に通用しない事を怪物が認識したらしく、攻撃性を増していた。次の遭遇では時間稼ぎもできないだろう。瓦礫の中から琴木を探している間に踏み潰されるか食い千切られるかして終わりだ。

 

 鴇に情緒不安定になっている茶道部員たちの面倒を任せ、仁二郎は警官を説き伏せて近場の警察を集めるよう頼んだ。しかしあまりに荒唐無稽だからか、警官は話を信じなかった。仁二郎が警視庁特命係と書かれた警察手帳を出したのもかえってマイナスだった。地方の警官にはまったく聞き覚えのない部署名だったため、偽警官ではないかと疑われたのだ。

 

 仁二郎が警視庁に連絡して身元を証明してもらったり、警官たちにしろがね館の様子を遠巻きに見に行かせたりしている間に、一太郎はアリッサの形見となった魔道書「アフリカの暗黒の宗派」を読んだ。一太郎は伊達に十年以上魔術を研究しているわけではない。魔道書の婉曲表現や漠然とした仄めかし、抽象的な書き方から真意を読み取る事に慣れていたため、極めてスムーズに読み進める事ができた。

 

 曰く、あの怪物は「多くの顔を持つ精霊」呼ばれているモノらしい。

「多くの顔を持つ精霊」は、自ら進んで生贄となる人間一人を生まれ変わらせる事によって誕生する。精霊の力を借りれば、多くの召使やアーティファクトを創造したり、神と接触する事が容易になるという。

「多くの顔を持つ精霊」は暗く狭い場所を好み、井戸などが育てるのに適している。ただし水の中では溺れてしまい、湿気も嫌うため、枯れ井戸が望ましい。また、精霊は強力な魔力を持っているが、時と共にその魔力は減衰していく。魔力を回復させ、また増大させるためには、最初に生贄となった人間と同じ血縁の者を餌として与えなければならない。

「多くの顔を持つ精霊」は「黒い風の神」の眷属として崇められいる。「黒い風の神」はアフリカの黒い風の山を本拠地としていて、伝統的な土地神とは異質な不定形の神である。

 

 一太郎は以上の情報から事件の大まかな全容を組み立てる事ができた。

 

 アリッサとターニャが何者かはわからないが、「多くの顔を持つ精霊」を隠し育てていたのは確定的だ。アリッサが年齢をアフォーゴモンのペンダントで偽っていたのなら、しろがね館の前身である銀の黄昏館の頃から生きていたのかも知れない。

 

 まず、銀の黄昏館の火事に乗じ、生贄を捧げて精霊を誕生させる。オーラを帯びていたコーヒーノキは、精霊によって創造された一種のアーティファクトだったのだろう。

 銀の黄昏館の火事で精霊が誕生したとすれば、現在までに何十年も経過している。精霊の魔力は減衰していただろう。減衰してまだアレというのは驚きであるが、それはそれとして、魔力を回復・増強するために最初の犠牲者の縁者が必要になった。琴木美緒だ。

 アリッサが琴木を気にかけていたのは、恐らく「多くの顔を持つ精霊」の最初の生贄の縁者だったからだろう。精霊の魔力を増大させられる血筋ならば確かに「選ばれた特別な存在」だ。流石の「透視」も血脈までは読み取れないため分からなかった。

 

 七杉由香がコーヒーの実を食べて昏倒したのは、実を介して精霊の邪悪な影響を受けたからか。だとすれば精霊を討伐すれば症状は好転する可能性がある。

 

 「黒い風の神」というのは心当たりがあった。千の貌を持つ邪神、這いよる混沌ニャルラトホテプの化身の一つである。精霊だけでも恐ろしいのに、邪神まで降臨してしまったら街一つは軽く壊滅できる。精霊が邪神を喚ぶような事態になる前に精霊を潰さなければならない。

 推定首謀者のアリッサを殺害したのは結果オーライだった。強大な精霊にそれを使役する魔術師がくっついていたら厄介さが二乗になる。ターニャが逃亡しているが、やりとりからしてアリッサの従者といった立ち位置だったように見受けられたし、魔術師でもないらしい。放置でいいだろう。捜索する手間が惜しい。普通の人間が相手なら仮に襲撃してきても弾丸一発で殺せる。物理攻撃を無効にする巨大な怪物と比べれば可愛いものだ。

 

 一太郎が本を読み終わり、情報を整理し終わる頃には、仁二郎が警官隊を集め終えていた。現場に見に行った警官が仁二郎の言葉をようやく信じ、近場の警官を集めたのだ。といってもその数は八人。大勢力とまではいかない。八人のうち四人はしろがね館の周辺の民家を周り、騒ぎにならないよう避難誘導を行っていて、二人はしろがね館に居座る精霊を監視している。実質戦力になる警官は二人だ。それでも心強い。相手が弾丸の効かない化物だとしても。

 

 一太郎は魔道書から得た情報を話し、消防車を手配してもらった。水中で溺れ、湿気を嫌うというなら、窪地に誘導して放水すればなんとかなるだろう。海まで追い込んで消防車とパトカーの体当たりで突き落としてもいい。

 

 準備が完了した時には夜になっていた。雲ひとつない夜空に満月が妙に不安を掻き立てる色合いに輝き、海からの潮風はこれから起きる何かに怯えたように凪いでいる。

 三人は車に乗り、パトカーの先導でしろがね館へ向かった。消防車は消防署から直接向かう事になっている。

 車の中で会話は無かった。避難誘導が進んでいるためか、しろがね館に近づくにつれて民家の明かりは消えていった。三人とも迫る最後の戦いに向けて神経を尖らせている。

 

 しかし、最後の戦いが起きる事はなかった。

 

 月光を反射して怪しく光るしろがね館の銀色の屋根が見えてきたと思った直後、そのしろがね館から黒い竜巻が巻き上がった。夜の闇すら飲み込む昏さをはらんだその竜巻はみるみる膨れ上がる。

 一太郎は悟った。遅かったのだ。黒い風の神=ニャルラトホテプは召喚されてしまった。戦力が揃い切る前にでも、もう少し早く動いていれば――――

 

 目の前で先行していたパトカーが竜巻に飲み込まれた。遠目に消防車も天高く巻き上げられているのが見える。一太郎は感情を押し殺し、急ハンドルを切り、Uターンして逆走した。もう手遅れだ。どうしようもない。こうなってしまえば逃げる以外何もできない。

 背後に迫る邪悪な竜巻の強風で後輪が浮きそうになる。飛ばされてきた建物の残骸や看板が車の屋根や窓ガラスにガンガン叩きつけられる。

 

「右右右右っ!」

 

 後ろを見ていた鴇が叫んだ。言われるがままにハンドルを右にきる。直後、左のバックミラーを掠めて消防車が落下した。潰れた運転席から一瞬人の腕が見えたように思ったが、勤めて考えないようにした。

 一太郎は無我夢中で運転した。アクセルは常に全開。ブレーキなんてもっての他。後ろを見る鴇の悲鳴なのか指示なのかわからない声を聞きながら、仁二郎が示すルートに従う。

 

 気がついた時には、小高い山の上でエンジンが焼き付いた車から降り、黒い竜巻に蹂躙されて瓦礫の山となった町を呆然と見ていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 静岡県伊豆半島の町、下田町は壊滅した。前触れもなく発生した史上稀に見る巨大竜巻は全てを破壊し、瓦礫に変えた。死者行方不明者は一万人を超え、竜巻爪痕が残る地域で発生したペストのせいで救助活動は難航。近代日本最悪の大災害となった。気象学者は予測できなかったのかと無責任なマスコミに散々叩かれていたが、意味不明な気候の急変動の真相に気象学者がたどり着く事はないだろう。

 

 事件後、七杉由香は完全な昏睡状態になり、二週間後、衰弱死した。彼女の両親は悲嘆に暮れ、自分の手から姪の命を取りこぼしたとも言える新畑仁二郎は心に深い傷を負った。警察を辞職し、ペストが猛威を振るう被災地で何かに取り憑かれたように救助や復興支援活動に打ち込んでいる。

 災害に巻き込まれたとされるアリッサの行方不明と時を同じくして、郷都学園理事長のラタナシア・シャトレーヌも失踪。学園には混乱が走ったが、新しい理事長が選ばれるとひとまずの安定を得た。葵の調べではラタナシア・シャトレーヌとアリッサ・シャトレーヌが同時に目撃された事はないという情報があり、二人は同一人物だった可能性が高い、という推測が特命係の資料の隅に書かれる事になる。

 

 東雲鴇は一時期塞ぎ込んでいたが、割とすぐに仕事に復帰した。その仕事ぶりは以前にも増して素晴らしいものだったが、竜巻の発生地域での仕事は頑なに拒むようになった。仕事の無い日には従姉妹とひっそりとした静かなバーに飲みに行くのが習慣となる。

 

 一太郎は事件後約束通り蓮を海に連れて行こうとしたが、蓮に様子がおかしい事を見抜かれ心配され、中止となった。

 一太郎が体験してきた事件の中でも、これほど完膚なきまでの敗北を味わったのははじめてだった。連日新聞の一面に掲載される下田大災害の記事が心を抉る。どうすべきだったのか。何が最善だったのか。それすらも曖昧だ。蓄えてきた神話的知識や魔術をもってしても、魔術師は倒せたが邪神の前には無力だった。

 事件の後、一太郎は夢遊病になった。夜な夜な起き出しては、夜の町に彷徨いでて金髪の若い女性を探し回る。見つけても恨みがましい目で睨みながらつけ回すだけなのだが、それで一回警察に厳重注意をされたため、一太郎はカウンセリングを受けるようになった。しかし悩みの本質は根深く、一年以上続けても治療の成果が見られずやめてしまった。以後は毎夜寝る前に自分で自分の体をベッドに拘束するようにしている。

 

 それほど精神的に追い詰められてもなお、一太郎は神話的事象の研究をやめなかった。それはもはや一種の強迫観念となっていた。知れば知るほど人間の矮小さと神話的存在の恐ろしさを思い知り、邪神の気まぐれで滅びるような危うい土台に立つ人類に危機感を抱くのだが、今更全てを忘れるのは無理な話だ。とことん知り尽くし、ありのままに受け入れるしかない。少なくとも一太郎はそう考えた。

 

 元々強靭な精神力を持っていた一太郎は、度重なる神話的驚異との戦いで神経を摩耗させてもなお、日常生活では平静を取り繕う事ができた。仕事場ではもちろん、親しい友人や、一緒に暮らしている蓮にさえ、実情よりも遥かに健康であると思わせる事ができている。

 

 しかし、危うく塗り固められた壁が壊れ、致命的な、あるいは慈悲深い幕引きが一太郎に訪れるのは、そう遠い話ではない。

 

 




――――【八坂 一太郎(32歳)】リザルト

STR8  DEX10  INT18
CON9  APP7  POW22
SIZ14 SAN18  EDU19
耐久力12

精神的障害:
 二重人格
 夢遊病

所有物:
 損傷の激しいエイボンの書(ラテン語版)
 エイボンの書(ラテン語版)
 屍食経典儀(フランス語原版)
 無名祭祀書(ドイツ語版)
 アフリカの暗黒の宗派
 コービットの日記
 魔法のダガー……命中率=現在MP×5%、ダメージ=1d6+2、コスト=1ラウンド毎に1MP
 アフォーゴモンのペンダント
 成長血清

呪文:
 透視、空鬼の召喚/従属、萎縮、被害をそらす、エイボンの霧の車輪、
 ビヤーキーの召喚/従属、ナーク=ティトの障壁の創造、空中浮遊、
 レレイの霧の創造、食屍鬼との接触、復活、門の創造、ナイフに魔力を付与する

技能:
 医学 77%、運転(自動車)30%、オカルト 40%、忍び歩き 20%、
 生物学 71%、化学 51%、聞き耳 55%、考古学 8%、信用 45%、心理学 65%、
 人類学 7%、精神分析 36%、説得 41%、図書館 85%、目星 85%、薬学 63%、
 歴史23%、こぶし 56%、
 英語 36%、ラテン語 22%、フランス語 21%、ドイツ語 44%、
 食屍鬼語 6%、イス人の文字 27%、ツァス=ヨ語(ハイパーボリア語) 24%、
 センザール語 24%、ミ=ゴのルーン 29%、古のものの文字(ナコト語)28%、
 アクロ語 29%、ナアカル語 24%、ルルイエ文字 21%、クトゥルフ神話 65%


――――【東雲 鴇(28歳)】リザルト

STR10 DEX18 INT10
CON8 APP15 POW11
SIZ13 SAN55 EDU14
耐久力11

技能:
 回避 65%、機械修理 60%、聞き耳 45%、運転:バイク 81%、
 運転:小型ヘリ 51%、パルクール 81%、投擲 65%、目星 55%
 パシュトー語 6%、アラビア語 8%、英語 6%、フランス語 4%


――――【新畑 任二郎(51歳)】リザルト

STR8  DEX8 INT16
CON9 APP10 POW15
SIZ11 SAN75 EDU20
耐久力10

技能:
 言いくるめ 75%、応急手当 50%、オカルト 45%、隠す 75%、
 聞き耳 35%、考古学 21%、信用 75%、心理学 85%、精神分析 51%、
 説得 25%、追跡 50%、図書館 55%、ナビゲート 16%、法律 35%、
 目星 26%、薬学 51%

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧 ※ログインせずに感想を書き込みたい場合はこちら
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。