何かの呼び声   作:クロル

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1-4 腕に刻まれる死(後)

「翻訳というと、会議室で訳していた?」

「それです。所長に頼まれていた、気味の悪い本の翻訳です。あまり口外しないで欲しいと言われていましたし、バイオハザードとは関係無さそうだったので黙っていたんです。正直今も関係あるとは思えないんですが……えっと、無名祭祀書にはわけのわからない宗教的な儀式について書かれていました。プログラムは書かれていなかったと思います。でも他には大学のレポートとその資料データぐらいしか入れていないので、思い当たるのはそれだけです」

「でもユーリ=サンのパソコン壊れてるますたからネー。butもしかして再起動したらば直ってタリ………………やっぱり壊れてるじゃないか(憤怒)」

「サルベージも無理そうだね。んー、翻訳データって事は翻訳元の本もあるんだよね。それは?」

「図書室の金庫に入れてあります」

「金庫かぁ。鍵とかかかってない?」

「暗証番号が必要ですけど、私が知ってます」

 

 外部への通信復旧のためにも、あるかもしれない治療法を探すためにも地下へ行く必要がある。そのためにはクラス4のタグを持つ金久保を探す必要がある。が、金久保の居場所は不明である。研究所が閉鎖される前に外に出た可能性もあるし、所内をしらみつぶしに探しているとかなり時間を使う。電子機器に囲まれ、常に進度上昇を促進する所内を無駄にうろつくのは避けたいところだ。

 相談の結果、場所がわかっている無名祭祀書から行く事にした。ユーリは無名祭祀書が治療の手がかりになるという考えを半信半疑どころか九割疑っているようだったが、一太郎は九割信じていた。

 一太郎はユーリに疑念を抱き続けていたが、そろそろ疑うのも無理があるようになった。ユーリが事件の首謀者で一太郎達を破滅させるつもりなら、もっと手っ取り早い方法がいくらでもあったはずだ。適当に唆して機械に積極的に触れさせるようにしても良かったし、探索の途中でそっと離れ、一太郎達をどこかの部屋に閉じ込めて火をつけたり、石化治療の手がかりになるものを潰して回ったりもできた。

 これで無名祭祀書が予想通り魔道書で、石化への対策が載っていればユーリは完全にシロである。一太郎は勘違いで勝手に踊っていた道化という事になる。是非道化になりたかった。ユーリが犯人ではなく、治療法も見つかるなら、それが最善なのだ。

 

 図書室に移動し、扉を開けて中に入る。ユーリの先導で図書室の中に併設された資料室に入ると、すぐに壁に埋め込まれた小型金庫が目に入った。電子ロック式だ。機械との接触が進度上昇を促進すると分かった今、触るのは躊躇われる。

 少し相談して、暗証番号の入力は数秒で済む事、進度が一番低い事から、ユーリが開ける事になった。

 

 手馴れた指の動きで十数個の数字を入力する。ところが、「暗証番号が違います」と表示された。ユーリは首を傾げ、今度はゆっくりと数字を確かめながら入力する。

 表示は変わらず「暗証番号が違います」だ。

 

「あ、あれ? どうして……今朝はこれで開いたのに」

「ちょと私にの見せて下さイ、オナシャス」

 

 ユーリの代わりにトニオが金庫の前に立ち、電子ロックを操作する。少しして、トニオは難しい顔になった。

 

「私達が会議室ボッシュートされた時間に、暗証番号変更するれた記録がありマス」

 

 痛々しい沈黙が降りた。

 バイオハザードが発生してからというもの、希望は潰すものと言わんばかりに、見えた救いの光が近寄った途端に消えていく。これが仕組まれたものなら、犯人は相当性悪だ。

 

「前向きに考えれば……わざわざ暗証番号が変更されているのだから、恐らくこの事件を引き起こした首謀者は金庫の中身を見られたくない、つまりこの中の無名祭祀書は事態解決の切り札に成りうる」

「でも開かないんだよね?」

「……ミカミさん」

「すみません、暗証番号が無効だとどうしようも。クラス4のタグがあれば暗証番号無しでも開けられるみたいですけど」

 

 結局はクラス4のタグに行き着いた。地下へ行くのにも、金庫を開けるのにも、クラス4のタグ=金久保のタグが必要になる。

 こうなると、今度は金久保が怪しくなってくる。

 暗証番号の変更権限を持つ程度に立場が高く、石化治療への道を塞ぐ壁を取り払うのに必要なクラス4のタグを持つ。疑うには十分だ。少なくとも、ユーリよりは合理的な疑うだけの理由がある。

 

 金久保が真犯人だとすると、金久保を見つけてもはいどうぞとクラス4のタグを貸してくれるはずがない。見つからない場所に隠れているか、既に脱出して高見の見物か、見つけた途端に襲ってくるか。良い予感はしない。

 

「…………」

 

 一太郎は手の甲で金庫を叩き、音を聞いてみた。金属音がする。それしか分からない。

 

「すみませんトニオさん、金庫の厚さはわかりますか?」

「ン? ンー、この型なら6、7cmってトコだろネ。そなこと聞いてどないするネン」

「こじ開けます」

「えっ、いや、いくらなんでも金庫は蹴り破れないよ? 壁に埋まってるし」

 

 葵の言葉に、一太郎は首を横に振った。そして金庫をじっと見ながら、低く唸るような、不吉な響きをはらむ未知の言語で詠唱を始めた。

 《萎縮》の魔術を使うのだ。魔術が進度上昇の原因ではないと分かった今、使うべき時に使うのは躊躇わない。

 魔術書に記されていた元のラテン語では《pigrae》というこの魔術は、直接的かつ破壊的な呪文である。消費した魔力に比例した威力の呪いを対象に与え、破壊し、黒焦げにすることができる。生物に使うと焼け焦げてしなびたように見える事から《萎縮》と呼ばれているらしい。生物に使う場合は、相手の保有魔力次第でレジストされてしまうのだが、金庫は魔力など欠片も持っていない。十数秒の不吉な詠唱を経て完成された《萎縮》は、金庫の扉をボロボロに破壊した。

 

 目の前でひとりでに煙を上げ、ねじ曲がり奇妙に熔解していった金庫を見た三人は絶句した。魔術を行使した一太郎でさえ、はじめて実践したその結果を目の当たりにして動揺を禁じえない。魔道書ではヒトへの使用について書かれていたからだ。こんな魔術をヒトに使ったら想像するのも恐ろしい凄惨な結果を招くだろう。

 

 一太郎は破壊された金庫の扉に手を突っ込み、触れた物を引っ張り出した。出てきたのは真っ黒い革で装丁された古びた大きな本だった。タイトルは「Das Buch von den unaussprechlichen Kulten」。これが無名祭祀書だろう。懸念要素だった《萎縮》の余波による焦げなどもなく、状態は良好だ。

 無事に無名祭祀書を手に入れた一太郎が振り返ると、自分を見つめる三人と目が合った。

 

 葵は純粋に驚いているらしい。オカルト的現象への理解はあったが、魔術や怪異は神話的存在の専売特許というイメージがあったため、それを一太郎が行使した事にびっくりしたのだ。

 トニオは交互に一太郎と穴の空いた金庫を見比べている。一太郎の詠唱と、金庫の破壊が上手く頭の中で結びついていないかった。常識的に考えて、言葉を唱えただけで金庫がボロボロに破壊される訳が無い。一体どういうトリックか、と混乱している。

 ユーリは恐怖の目を向けてきていた。一太郎と目が合うと、びくっと体を震わせ後ずさる。オカルトを頭ごなしに否定していた割に、一太郎がした事を正確に理解したらしい。呪文を唱えただけで金庫を破壊するような、得体の知れない相手である。ある意味正常な反応だろう。一太郎も、魔術知識が無い状態で、会って一日も経っていない人物が突然破壊的な超常現象を振るうのを見たら警戒するだろう。

 

「あー……」

 

 どう説明すればいいかと頭を掻いた一太郎は、突然目眩に襲われた。

 暗い地下、火山の噴火、地震による鳴動、そしてこの世のものとは思えない不気味な唸り声。既視感のあるイメージが、前回よりもより鮮明に頭の中に反響する。

 

 無数の触肢を持つ、ビルよりも大きな形容し難い怪物が太古の火山に潜んでいる。のたくるような不快な動きで地表に現れたそれを見た種々様々な生物達が、それを見た途端にこの世ならぬ恐怖に絶叫し、凄まじい形相を浮かべながら体をみるみる石化させていき、物言わぬ石像となる。怪物はそれを意に介さず、気づいてもいないかのように地表を茫洋と見渡し、もぞもぞと動いた後、飽きたように火山に戻っていった……

 

 幻というにはあまりにも鮮明な感覚に冷や汗をびっしりと浮かべた一太郎は、目をこすって自分が現実にいる事を確かめた。

 一太郎は今度は自分が視た幻の意味を理解した。Gウイルスの正体は、火山に潜み眠っている太古の神性が放つ石化の呪いだったのだ。何者かがその神性の力を現世に呼び込み、機械を介して呪いをばらまいている。神性そのものが降臨していたら今頃研究所程度は跡形もないから、力を呼び込んだといっても一部に過ぎないだろうが、それだけでもこの有様である。

 

 自分のタグを見ると、進度が4に上がっていた。体がまた重く、さびついてぎこちなくなったように思える。金庫の電子セキュリティに近づいたため、進度が上がったのだろう。金庫から離れていた葵を除いた二人も進度が上がってしまったらしく、焦点の合わない目でぼーっとしていたり、力なく壁にもたれかかったりしている。

 現在は一太郎=進度4、葵=進度2、トニオ=進度5、ユーリ=進度2だ。トニオは完全に石化する進度7まであまり余裕がない。

 

 一太郎は無名祭祀書をパラパラと捲った。ユーリが翻訳のために付けたのか、あちこちに付箋やメモが挟まっている。

 

「翻訳データでウイルスガードできるならさあ、これでウイルス死滅させたりできねーかな。てかこの本量産して全員持っとこうぜ」

「でもまたパソコンに文字を入力するのは何日もかかりますし……」

「コピーすりゃいいじゃん。コピー機くらいあんでしょ? 図書室なんだから」

「……八坂君、また人格裏返ってない?」

「だから俺は八坂じゃなくて根津だっつーの。どうすりゃ間違えんだよ、ぜんぜん似てねーだろ。俺のがイケメンだし、モテるべらっ」

「はいはい正気に戻ろうねー」

 

 一太郎は頬に平手を貰って我に帰った。ユーリに大丈夫かコイツ、という目で見られて少し凹んだ。実際大丈夫ではないが、害はない。どうも未弧蔵なりきりモードの時は柔軟な発想と行動ができるらしいので、むしろ良い事もある、と心の中で自己弁護する。

 三人に自分が使った魔術についてざっと弁解してから小一時間ページを捲った一太郎は、それらしい部分を見つけた。ドイツ語で書かれているが、要所にユーリのメモが挟んであるのでなんとなく概要は掴めた。

 遥か昔、火山に棲む邪悪な神性を退治しようとした魔術師が、石化の呪いを防ぐために巻物を作ったという。その魔術師は結局神性の討伐に失敗したのだが、巻物の効果そのものは有効だったようだ。魔術師の名前をとって「トヨグの巻物」と呼ばれるその巻物について、一章の半分ほどを割いて記されていた。

 細かな理屈はじっくり読み込んで解読しなければ分からないが、要は巻物だろうとなんだろうと、あるヒエログリフに似た特殊な文字を記したモノを持っていれば石化を防御できるらしい。ユーリが無事だったのは、トヨグの巻物の画像データを翻訳の参考のためにノートパソコンに入れていたからだったのだ。

 

 試しにコピー機でトヨグの巻物の部分をコピーして、「透視」を使って視てみると、原本よりはかなり薄いものの確かに魔術的なオーラを帯びている事が分かった。ユーリのパソコンがクラッシュしたのは、複製して劣化したトヨグの巻物では、電気回路を介して直接侵入してきた呪いを完全には防ぎきれなかったからだろう。

 とにかく、これでようやく石化への対処法が手に入った。トヨグの巻物のコピーを持ち、なるべく電子機器から離れた安全な場所で待っていれば、いずれ外から救助が来る。救助を待つ間にユーリの力を借りて無名祭祀書の翻訳と解読を進め、より有効な石化対策・治療法を模索してもいい。

 トヨグの巻物のコピーを配っていた一太郎は、図書室に三人しかいない事に気付いた。

 

「……ミカミさんは?」

「え? あれ、さっきまでいたんだけど」

「なんやらどっか行っちまいましたヨォ。トイレかな?」

 

 別にトイレに行く事は何もおかしくはないのだが、何か引っかかった。昼休憩や、移動中にトイレに寄る時、これまでユーリは葵に一声かけるか、一緒に行くかしていた。今回、葵は何も聞いていないという。これまではユーリが犯人ではないかと疑っていたため目を離す事はなかったのだが、警戒を解いていたため見失ってしまった。

 声をかけ忘れただけなら良いが、取り繕ってはいるがほんの少し前には石化の症状が出て錯乱していたし、魔術を見せて怯えさせたばかりである。冷静さを失って危険な事をしているかも知れない。それにまだユーリにはコピーを配っていないのだ。何もせず研究所をうろつくだけでも十分危険である。

 

 廊下に出ると、遠くで石化した所員を蹴らないようにそーっと歩き、角を曲がろうとしているユーリの後ろ姿が見えた。

 

「ミカミさーん! どうしたんですかー!?」

 

 一太郎が声をかけると、ユーリはびくっとして振り向き、顔に恐怖を浮かべ逃げ出した。

 

「やっぱりいきなり魔術使ったのは不味かったか……葵さん、申し訳ありませんが、追いかけてあげて下さい。同じ女性ですし、私やトニオさんが追うよりマシでしょう。連れ戻すかはとにかくせめてコピーは渡して――――」

 

 一太郎の言葉をかき消すように、ユーリが消えていった方から悲鳴が上がり、続いて何かを叩きつけるような破壊音と男の興奮した叫び声、甲高い獣の鳴き声が聞こえてきた。

 真っ先に葵が駆け出し、一拍遅れてトニオと一太郎も続く。

 一太郎は警備室のモニターで見た謎の存在を思い出していた。石化の問題ばかり考えて失念していたが、研究所内には石化した所員を破壊したり、痛めつけたりするような凶暴な何かがうろついているのだ。ユーリはその存在に最悪のタイミングで遭遇してしまったらしい。

 

 持ち前の身体能力と身のこなしで廊下を駆け抜けた葵は、あっという間に音の発生源にたどり着いた。

 

「ミカミさっ……ん? え、何これどういう状況?」

 

 廊下の角を曲がった葵は、目に入った光景に混乱した。

 手足に千切れた鎖をつけ、棍棒のようなものを振り回すほとんど石化したチンパンジーと、バールのようなものを持ち、同じくほとんど石化した五十歳ぐらいの眼鏡の男が戦っていた。一人と一匹は明らかに錯乱していて、駆けつけた葵に目も向けない。二人が獲物をぶつけ合ったり、攻撃をもらったりするたびに、皮膚から石の欠片がボロボロと剥がれ落ちていた。

 

 その反対側では、上手く争いをすり抜けたらしいユーリがなぜか開いている地下への階段を転がるように降りて行っていた。ユーリが階段の下に消えると、すぐに扉が閉まり、封鎖される。葵は唖然とした。ユーリはクラス1のタグしか持っていなかったはずだ。階段を封鎖するセキュリティクラス4の扉は開けられない。

 まさか、ユーリが本当に犯人だったのか? それとも何者かに操られたり、脅されたりしているのか?

 

 疑問はひとまず棚上げにして、葵は所員に加勢すべくムエタイの構えをとった。そこに一太郎とトニオが追いついてくる。

 

「ユーリ=サ、ファッ!?」

「ミカッ……なんだこれ」

「二人共ちょっと待ってて!」

 

 葵は二人の戦いに割って入り、棍棒のようなものとバールのようなものを掻い潜ってチンパンジーの首に両手を回して頭を掴んだ。そうして頭を固定したところに間髪入れず飛び膝蹴りをお見舞いすると、元々石化が進んで割れやすくなっていたこともあり、チンパンジーの頭部をショットガンの接射でも喰らったように吹き飛んだ。

 それを見た一太郎とトニオは戦慄と共に葵だけは怒らせないようにしようと心に誓った。 太郎や ニオになるのは御免だった。

 

「よしっと。大丈夫ですか?」

「ああすまない助かったしかし私にできる事はもはやこれぐらいしかないんだ本当にこんな事しか情けないしかし誰かがやらなければならないすまない許してくれこれしかないんだ」

 

 一太郎は、早口にまくし立てるその男が金久保である事に気付いた。もう顔まで石化が進んできているが、近づいてみるとはっきり分かった。腕を見ればクラス4のタグをつけている。しかし、進度は既に7になっていた。

 金久保が犯人かも知れないと思っていたが、これで犯人ならよほどの間抜けだ。即座に金久保犯人説を捨て、トヨグの巻物のコピーを持って駆け寄った。金久保は頭部の砕けたチンパンジーの死体に執拗にバールのようなものを振り下ろして砕いている。

 

「金久保さん! 今朝案内して頂いた八坂です。時間がありません、何も言わずにこれを受け取って下さい」

「なんだねこの紙はそんなものを弄っている暇はないんだ君達もわかるだろう我々は終わりだ終わりなんだこれは単なるバイオハザードではない人類の科学を超えた超常現象なのだ治す方法などない石化すれば最後指一つ動かせない中で意識を保ち生き続ける地獄を味わう事になるのだそれは実験動物のチンパンジーだろうと人間だろうと一切例外はない私にできる事は苦しみを終わらせる事しかないこんな私を許してくれこれしかないこれしかないんだもうどうしようもない」

「いいえ助かります。落ち着いてください。進度7まで進んでも有効か分かりませんが、この紙が対処法なんです。詳しく説明する時間はありません、早く貰ってください」

「進度7? 7? 何を言って……」

 

 金久保は自分の体を見下ろし、そこではじめて体の半分以上が石化している事に気付いた。

 

「ち、違う! これは違う! 私は違うんだ! 私は助かるはずだ!」

 

 狂乱した金久保は絶叫しながらバールのようなものを振り回し、一太郎を近づけさせない。葵が無理にでも押さえつけてコピーを渡すか躊躇している間に、金久保の声はかすれ、腕の動きが鈍り、床に崩れ落ちた。見開いた目に絶望を浮かべた金久保が、口にまで石化が進む直前、うわごとのように言う。

 

「所長……奥様は手遅れなんです……だから、こんな危険な研究は反対だったのです」

 

 それを最後に、金久保は動かなくなった。一太郎が急いでコピーを持たせるが、石化は治らない。無名祭祀書を持たせても変わらなかった。コピーを持たせると同時に、口元に微かに肌色が残った状態で石化は止まったが、これでは到底助かったとは言えない。

 

「……行こう。ミカミさんは地下に行った。金久保さんのタグがあれば開くんだよね。金久保さん、これは借りていきます。もう少しだけ待っていて下さい。私達が必ず治療法を見つけてみせます」

 

 葵は金久保の耳元でそう言い、そっと腕のタグを取る。文字通り恐怖に固まった金久保の表情が、ほんの少しだけ緩んだように見えた。

 金久保のタグで地下への隔壁を開け、三人は下に降りていく。地下に降りると、メッセージディスプレイや所内放送など、あらゆるスピーカーから奇妙な音が出ていた。それは人間の声とも機械の音ともとれるもので、聞いたこともない音ではあったが、何かの意味を成しているようだった。

 無名祭祀書に挟まれたユーリのメモに目を通していた一太郎には、それが火山の神性を召喚するための呪文である事が分かった。突然身一つで宇宙に放り出されたような混乱と衝撃だった。あんなものを召喚しようとしているなんて、全く正気ではない。

 

 奇怪な呪文が響く地階。開かないはずの扉を開け、中に入っていったユーリは一体何をしているのか? ユーリこそが、神性の召喚を企む魔術師だったのか?

 

「そこの扉、開いてマス。ユーリ=サンはそこにいるでは?」

 

 トニオが廊下の左側の扉を指した。開いた扉の奥から、不愉快な音楽のような呪文に紛れてガチャガチャと音がする。三人は顔を見合わせ、葵を先頭にその部屋に踏み込んだ。

 その部屋は機械室だった。配電盤、ボイラー、配管などが壁と床一面に広がっている。その一画にある太いケーブルが爆破でもされたように焦げて千切れていて、薄暗い部屋の中で、ユーリがそのそばに座り込み、近くのディスプレイの明かりに照らされながらケーブルを直そうとしていた。恐らくそれが切断された通信ケーブルなのだろう。

 

「ミカミさん」

 

 葵が声をかけると、ユーリは一瞬手を止めたが、また作業を再開した。

 稼働中の機械に埋め尽くされた部屋に、呪いを防ぐトヨグの巻物を持たずに居座るユーリのタグの進度は、既に5になっていた。それでも、まるでそれが自分の使命であるかのように、ユーリはケーブルを修理する手を止めない。

 石化の呪いは電線や電子データを介して広まる。対策もせずに外部への通信を復旧させれば、研究所の外にまで呪いは広がり大惨事になってしまう。

 葵は極力刺激しないように言葉を選びながら言った。

 

「ミカミさん、一度この部屋を出ましょう? 通信復旧は私達に任せて。この部屋に居たら進度がどんどん上がるから」

「嫌」

「えーっと、確かに八坂君は魔術を使ったけど、あれは今まで巻き込まれた事件のせいで仕方なく覚えただけで。それは私が保証する。八坂君はこの事件の犯人じゃないし、ミカミさんを陥れたりしないから。私を信用して。一度しっかり話し合いましょう?」

「信じないわ。今までずっと私の事疑ってた癖に『信用』なんて言うわけ?」

「…………」

 

 そう言われて葵は言葉に詰まった。警戒は気づかれていたのだ。事実なだけにぐぅの音も出ない。

 話している間にも、ユーリの進度はまた一つ進み、6になった。焦った葵が金久保の二の舞にならないよう、すぐにでも取り押さえようと一歩踏み出すと、ユーリが親の敵を見るような形相で睨んできた。思わず足が止まる。

 

「滑稽だったでしょうね。私が自分だけは助かると思ってるのを見るのは。希望を与えて、奪って、突き落として。そんなに楽しかった?」

「え?」

「今更とぼけるつもり? あなた達がバイオハザードを起こしたんでしょう」

「ミカミさん、何言ってるの?」

「聞いたのよ。あなた達がずっと私を騙してたって。もう騙されないわ」

「アオイ=サン、ケーブル直りそデス。無理やりでも止めて、どうぞ」

 

 後ろで距離を取って二人のやり取りを見ていたトニオが耐え切れなくなって言った。葵がごめん、と言って、ユーリに駆け寄り、ケーブルから引き剥がす。ユーリはその場に留まろうとしたが、抵抗むなしく突き飛ばされ、床に転がった。

 ぎこちなく立ち上がるユーリの手足の先から石化が始まった。進度7になったのだ。

 

 葵は倒れたユーリにコピーを持たせようとしたが、ユーリはそれを振り払った。機械と機械の間の狭い隙間に潜り込み、葵の手が届かない位置に隠れる。

 

「ミカミさん! 早く受け取って!」

「あなた達から受け取る物なんて一つも無いわ」

 

 吐き捨てるような言葉を残し、ユーリは葵の手を最後まで拒み、機械の奥で静かに石化を終えた。

 葵は伸ばした手を力なく下ろし、一筋の涙を零した。

 自分には誰も救えない。救えるはずの人も、救えなかった。あまりにも無力だった。いくら力が強くても、何もできない。もっと良いやり方はあったのだろうか。最初からユーリを信じていれば、こんな事にはならなかったのだろうか……

 

 ユーリの石化にショックを受ける葵と違い、一太郎はドライだった。ユーリの石化は悲しむべき事だが、もっと差し迫った問題があった。

 ユーリとの信頼関係を築こうとしてこなかったのは事実だが、それにしても変わりすぎである。これまで含むところがあっても四人で行動してきたユーリが、一人で、自身の石化も顧みず、通信ケーブルを直そうとしたのはなぜなのか?

 誰かから一太郎達が犯人だと聞かされたような口ぶり。ケーブルの修理中、手元を照らしながらちらちらと見ていたディスプレイ。

 

「トニオさん、そのディスプレイの通信履歴は見れますか?」

「エッ? アッハイ」

 

 自分はユーリの事を欠片も疑っていたのに、なんでまとめて犯人扱いされたんだろう、顔か? 顔が悪いのか? 不細工はそれだけで罪なのか? と考えていたトニオは一太郎に言われるがままディスプレイを操作して通信履歴を辿った。

 出てきた履歴は、ユーリと研究所所長の瀬良正馬のものだった。瀬良からのメッセージは「八坂一太郎、宮本葵、トニオ・スタークこそが共謀してこの事件を引き起こした犯人である。通信ケーブルを修理して外部から救援を呼んで欲しい」というもので、ユーリからのメッセージはそれに了承するものだった。以降、通信ケーブルの修理手順が表示されている。ユーリは瀬良の安否と所在を気遣っていたが、瀬良は自分は無事であると答えるだけで、所在は明かしていない。

 

 履歴を見た限りでは、瀬良はこれ以上ないほど怪しかった。ユーリから金久保へと、犯人像が二転三転しているだけに断言する自信はなかったが。

 所長である瀬良は不在のはずだが、なぜか内部の状況――――生存者の名前、通信ケーブルの破損を知っている。瀬良のタグのセキュリティクラスは5で、金久保よりも高い権限を持つ。図書館の金庫の暗証番号の変更もできただろう。そして金久保が最後に遺した、瀬良が研究を主導した事を匂わせる言葉。

 瀬良こそが、石化の呪いを研究し、神話的バイオハザードを起こした犯人ではないのか? そして瀬良は今も研究所のどこかに潜み、三人の様子を伺っているのではないか。

 

 今まで疑った相手がシロだっただけに、瀬良犯人説も怪しい。未だ地下に響く召喚の呪文は消えていない。悠長に瀬良犯人説の証拠を探していれば、破滅的な神性が召喚されてしまうかも知れない。しかし瀬良が犯人だと思い捜索し、撃退したら、実は瀬良もシロで真犯人は別にいた、という事になるかも知れない。

 ここで相手を瀬良を犯人と仮定して探索を進めるリスク。瀬良が犯人か確かめるために時間を使うリスク。どちらを取るか。

 

 ここまで共に調べてきて生き残った三人は一蓮托生。一太郎は理由を話し、決を採る事にした。瀬良を犯人と見て探すか、裏取りをするか。

 一太郎はまずは裏取りの採決をし、一人だけ挙手した。残りの二人は手を挙げない。一太郎は肩をすくめた。

 

「では瀬良探しで。今度は当たっていればいいんですが」

「ほんとにね」

「ウェイッ、このBGMで石になる呪いサモンするてるですね?」

「そうですね。だからといって音響機器を壊して回ったらそれだけで一日かかりそうですし」

「オー、イチタロー、頭悪い。ここは機械室です。ここから研究所の音源全部切ればOKよ」

「いやでも……あれ、それでいい、のか。やってみてください」

 

 トニオは部屋にひしめく機械から音響機器を見つけ、操作し始めた。途中で一度手を止め、他の機器からキーボードを持ってきて接続し、華麗な手さばきでタイピングをする。葵と一太郎はそれを期待半分、諦め半分で見守った。

 やがてトニオがッターン! と最後に派手にキーを押すと、地下に響き渡っていた詠唱がピタリと止まった。静寂が訪れる。

 トニオは二人に向けてバチンとウインクを飛ばしてサムズアップした。

 

「I did(やってやったぜ)!」

「えっ? これで解決? 事件解決したの?」

「した……みたいですね」

 

 詠唱は止まった。耳を澄ませるが、階上も静かだ。

 神性召喚が止まった以上、これ以上事態が悪化する事はない。後は研究所を情報的・電気的に封鎖した上で外部の救援を待ち、トヨグの巻物の効果を詳しく解析すれば良い。瀬良が何者だったのか分からないままだが、それも元公安の亀海率いる警視庁特命係が明らかにする事だろう。

 

 ようやく事態を収拾する事ができ、ほっと力を抜いた一太郎を祝福するように、エンディングテーマが流れ出した。スピーカーから流れる、悍ましい神性召喚の詠唱だ。

 

「あ、戻った」

「ファック!」

「あー……やっぱダメですね。惜しかったですけど」

 

 詠唱が止まっていたのはほんの五分程度だった。ぬか喜びに落ち込むと同時に、やっぱりな、という気もする。今までの事件では、なんだかんだで最後は命懸けの戦いになった。簡単に終わるわけがなかったのだ。最後までとことんやるしかない。

 

 トニオが音響機器を調べると、メインコンピューターからの操作で放送が再開された事が分かった。メインコンピュータールームは機械室から廊下を挟んで反対の部屋である。そこに瀬良がいて施設の音響や金庫の暗証番号を操作しているのかと思ってメインコンピュータールームに入ろうとしたが、扉のセキュリティクラスが5に設定されており、開かなかった。

 クラス5のタグを持つ瀬良が、クラス5でしか開かない扉の中に立てこもっているのならどうしようもない。扉は例によって強行突破不可能な隔壁だ。

 

「嘘だろ……いや考えてみれば当然か。誰だってこうする。俺だってこうする」

「扉がだめなら壁を破るとか? あ、ごめん壁もガチガチだねこれ。無理」

 

 軽く壁を叩いた葵は中の詰まった硬質な音に一瞬で諦めた。

 

「ドリルか溶接機がアレば私がこじ開けれれるんデスが」

「それ研究所にあるの?」

「無いデス。人間溶接機ならいますガ」

「《萎縮》ですか。手を突っ込むサイズの穴を開けるぐらいならいけますが、人が通れる穴は無理です。魔力が足りません」

「んー、廊下の壁はダメでも、隣の部屋の壁なら薄い、かも?」

「そんな欠陥設計あるわけ……いや監視カメラの配置もガバガバだったしなあ……案外いけるかも知れません。行ってみましょう」

 

 廊下の突き当たりにあるセキュリティクラス3の扉から中に入ると、そこは冷凍保管庫だった。部屋全体が冷凍庫になっているらしく、息が白くなるほど寒い。長くいると風邪をひきそうだ。円筒形や立方体など、様々な大きさや形の冷蔵庫が並んでいたが、いくつかの冷蔵庫の扉は開けっ放しになっていて、床には薬品が散乱している。強盗が入った跡のようだ。

 葵とトニオがメインコンピュータールームに面した壁の厚さを測っている間に、一太郎は部屋を調べた。散乱した薬品のラベルや開け放たれた冷蔵庫を調べると、冷凍血液や栄養剤など、生命維持に必要な薬品が荒らされている事が分かった。更に、床には割れてこぼれた薬品に濡れてついた奇妙な足跡が残っていた。甲殻類の特徴を持った足跡だが、あまりにも巨大すぎる。足跡から予測される大きさが2mを超えている。

 

 どういう事だろうか。ヒトが犯人かと思っていたが、人外の存在を匂わせるものがある。瀬良が自分の護衛に怪物を召喚したのかも知れないが、韮崎や「いきがみさま」が召喚していた魔術師御用達の怪物、無形の落とし子の特徴とは一致しない。未知の怪物と瀬良は協力関係にあるのか、それとも敵対関係にあるのか……手がかりが少なく、推理はできない。

 

「ここからも破るのは無理そう」

 

 残念そうに報告した葵に、一太郎は床に残る足跡を示した。足跡は部屋の奥に続いている。

 足跡を辿ると、赤と青の扉があった。どちらも「所長の許可なく立ち入る事を禁ずる」と書かれていて、足跡は青の扉に続いていた。というよりも、方向的に足跡は青の扉から冷凍保管庫を経由して外に出たようである。扉は赤青両方ともセキュリティクラス5。三人には開ける手段が無い。

 

「おっ? 何か挟まるてマス」

 

 しかし、トニオが赤の扉の隙間に挟まっている薬瓶に気付いた。これのせいで完全には閉まりきっておらず、赤の扉には入れるようだ。

 怪物が出てきたと思しき青の扉はもちろん、赤の扉にも入りたくはなかったが、再び手詰まり感が出てきた現状、情報を得るためには入らない訳にはいかない。所長の許可は無いが、バイオハザードが始まってから三十分おきに無断侵入を繰り返してきたのだから今更だ。

 赤の扉の中にも怪物が眠っていた場合に備え、最も戦闘力が高い葵を先頭に中に入った。

 

 ちょっとした会議室ぐらいの広さの部屋は、手術室のような印象を受けた。テレビ局のようなカメラが二台並び、大企業の研究職である一太郎でもカタログでしか見たことがないような、とんでもない値段がする最新の観測機器がずらりと置かれている。ただ、機械類は全て壁際に寄せられ、部屋の奥にはスペースが開けられていた。

 そこには板に立てかけられた姿見のような古い銅鏡と、その前の椅子に座る人影があった。入口側に背を向けているため、誰かは分からない。椅子の周りには石化した犬や猫などの愛玩動物が置物のように置かれていた。

 

「瀬良さん、ですか?」

 

 葵が遠慮がちに呼びかける。しばらく待つが、反応はない。

 葵はそっと椅子の正面に回った。二人もそれに続く。

 モナリザのようなポーズで椅子に座っていたのは、見た事のない女性だった。一昔前の、しかし高級な仕立てと一目で分かる上品な服に身を包み、穏やかに眠るように目を閉じ、椅子に背をもたせ掛けている。困惑して女性の顔をじっと見ていた葵は、彼女が丁寧な化粧のおかげで生きているように見えるだけで、石化している事に気付いた。

 

「八坂君、この人に見覚えは?」

「いえ、無いです」

 

 所長の瀬良正馬は男性である。女性ではない。白衣を着ていないので研究者でもないだろうし、装いからしてどこかの若奥様といった風だ。こんな所にいるのはいかにも場違いだった。しかし、彼女もまたタグはつけていた。進度7、クラス5である。驚きと共に腕からそっと取って裏面を見てみると、「セラ・コトリ」という名前が記されていた。

 

「セラ? 瀬良グループの人か?」

「だと思うけど。なんだろう、所長の家族とか?」

「所長の関係者なら研究所のデータベースに載ってる可能性があるな。トニオさん、ちょっと調べて……トニオさん?」

 

 妙に静かなトニオに声をかけると、トニオが銅鏡を覗き込んだ姿勢で静止していた。その顔には形容し難い見たこともないような恐怖を浮かべ、肌は灰色になっている。

 トニオは石化していた。

 手の中で煙も出さずに燃え尽きて灰になったトヨグの巻物のコピーがはらはらと床に落ちた。背筋をムカデが這い上がるような怖気に全身が震えた。機械類に囲まれているとはいえ、接触はしていない。一体なぜ。

 

 葵はぐらりとバランスを崩して倒れかけたトニオの石像を下に滑り込んで受け止め、床に叩きつけられて壊れるのを防いだ。葵が震える手で慎重にトニオの石像を寝かせている間、一太郎は「透視」を使った。板に立てかけられた銅鏡から、見ただけで内臓が腐りそうな邪悪なオーラが出ている。既視感のあるそのオーラから、一太郎は直感的に火山の神性の力を感じ取った。

 一太郎は迷わず銅鏡を掴み、壁に引きずっていき、斜めに立てかけて数度蹴りを入れた。銅鏡は歪んで曲がり、禍々しいオーラは霧散霧消する。覗き込んだトニオが魔術的防御を破られ一瞬で石化するようなモノが良いモノのはずがない。

 銅鏡が力を失っても、椅子に座ったセラ・コトリの石化は解けず、トニオも石になったまま。地下にはスピーカーから流れる召喚の詠唱が響き、「透視」を発動した一太郎の眼には、機械類から伸びる悍ましい呪いの波長が、手に持った無名祭祀書に弾かれて消えるのが見えた。呪いは消えていない。石化も治らない。銅鏡を破壊しても終わり、とはいかないようだ。何かの悪意的なアーティファクトであった事は間違いないだろうが。

 

 四人で始めた探索行は、今や二人となった。次は一人。そして最後は誰もいなくなるのか。

 解決に向けて、進展はしているはずだ。そう信じたかった。トヨグの巻物はあるし、図らずもクラス5のタグも手に入れた。しかしトヨグの巻物も、コピー品だからか決して万能ではない。かといってどうすれば完全な複製を作れるか研究する余裕はない。神性の召喚呪文は続いているのだ。

 もっとも、銅鏡を破壊した直後から、心なしか響き渡る召喚詠唱から本能的に感じる驚異は弱まっていた。召喚を補助するアーティファクトだったのかも知れない。

 

 葵と一太郎は、メインコンピュータールームに向かう前に、青の扉にも入ってみる事にした。

 地上階では怪物には遭遇しなかった。いたのは暴れるチンパンジーと、錯乱した金久保である。怪物がいるとすれば地下。青の扉から出て、冷凍室を通って外に出たのなら、行き先はメインコンピュータールームか機械室。機械室には怪物はいなかった。消去法で、怪物がいるのはメインコンピュータールームだ。

 メインコンピュータールームに行けば、恐らくまた怪物相手に命懸けの勝負を挑む事になる。その前に一つでも立ち向かうべき怪物の情報を掴みたかった。青の扉の中から出てきたのなら、その中に手がかりがあるかも知れない。

 

 青の扉の中は、赤の扉の部屋と同じくらいの広さの冷蔵室だった。ただしこちらには部屋の中央に棺桶のようなケースが置かれているだけで、随分殺風景だ。

 ケースを見てみると、「sahime sample」と刻印されたプレートがついていた。二人は、実験室で調べた資料にそんな名前があった事を思い出した。菌類に似ているが、動物らしく、知性があるとかないとかいう生物? だ。ケースには血痕がついていて、例の甲殻類に似た血の足跡がうっすらと外へ続いている。菌類で、動物で、甲殻類。

 理解不能だ。もっとも、理解できないのは人間的思考を保っている証拠であり、幸福な事なのかも知れない。

 

 一太郎が意外と軽いケースの蓋を開けると、中にはスーツ姿の男性の首なし死体が入っていた。鮮やかな切断面はまるで巨大なハサミで一気に切られたようである。無残な死体を見た葵はへたり込んだ。実際トラウマものだ。見た目の実感の湧きにくい石化という臨死よりも生々しく死というものを突きつけられる。

 しかし生来の図太さと冷静さを発揮した一太郎は、無造作に検死を始めた。

 冷凍室に放置されていたためか全身はすっかり冷え切っていて、死亡時刻の正確な特定は難しいが、死後8~12時間といったところだろう。死因は頭部の切断。見たままだ。持ち物を調べると、財布に入った免許証などから、死体が所長の瀬良正馬のものである事が分かった。そうなるとほんの一、二時間前にユーリを唆したのは誰だという話になるのだが、どうせ怪物の仕業だろう。人間のフリをして人間を唆す知性があるならば厄介である。瀬良は怪物に利用されていただけだったのだ。

 

 死体を調べ終わり、ケースそのものに目をやると、死体の陰に拘束具がある事に気付いた。随分頑丈な作りで、得体の知れない菌類のような組織が付着している。つい最近まで使用されていたようだ。

 ケースに拘束されていた怪物が逃げ出し、何かの理由で瀬良を殺し、研究所を乗っ取り邪神を召喚しようとしている。大筋としてはそんなところだろう。

 怪物について分かったのは、物理的な拘束具と低温で封じておけるという事。何か鋭利で巨大な武器か、器官を持っているという事である。

 

 コンピュータールームに行く前に、二人は作戦を練った。低温が効くようなので、一太郎は冷凍保管庫から液体窒素の容器を拝借した。中身をぶちまければ、行動を鈍らせるぐらいはできるだろう。その隙に葵が攻撃。物理的な拘束具が有効なら、物理的な打撃も効く公算は高い。どちらも駄目なら、一太郎の魔術の出番だ。《萎縮》である。

 詠唱に十数秒かかるため、葵が前衛となって時間を稼ぐ必要があるが、数ある魔術の中でも破壊的な《萎縮》を受けて無傷という事はまずない。魔術的素養であるPOWが一般人の限界を一歩超えている一太郎の魔術をレジストされたり、攻撃が通っても目立ったダメージがなかったりしたらお手上げである。一度撤退して作戦の練り直しだ。撤退できればだが。

 

 準備を整えた二人は、メインコンピュータールームの扉の前に立った。

 深呼吸した葵が、セラ・コトリのタグを持って一太郎を見る。一太郎が頷くと、葵はタグを扉のディスプレイにかざして開錠。扉を開けて中に踏み込んだ。

 

 部屋の中には大型のコンピューターとサーバーが並んでいた。天井から何かピンク色のものがぶら下がっている。

 天井を覆い尽くすものは、最初、ピンク色のロープが絡まったものに見えた。しかし、よく見れば一部はエビのような硬そうな殻に覆われていて、別の部分にはチカチカと黄色い光を発する楕円系の器官がついていた。そのピンク色のロープには、何十本というケーブルが絡み合い融合しており、ロープが奇妙に脈動するたびに、ケーブルに繋がっているコンピューターがカチカチと小さな音を立てた。

 そして、そのピンク色のものの中心には、大量の点滴チューブに絡まった男の頭部がぶら下がっていた。鋭利な切断面――――瀬良正馬の頭部に違いない。何かの見間違いと信じたいところであるが、それは虚ろな目を見開き、口をパクパクと動かし、確かに何かを二人に訴えかけていた。

 いかなる悪魔的医術だろうか。その生首は生きていた。

 

 二人は既に戦闘態勢に入っていた。怪物と対峙するにあたり、悍ましい光景を見るハメになる事は覚悟していた。覚悟だけで動揺せずにいられるほど生易しい惨状ではなかったが、硬直は少なく済んだ。

 天井の怪物が侵入者にピンク色の触手の間から出した巨大なハサミを向ける前に、一太郎は持っていた容器の中身を天井に向けて思いっきりぶちまけた。白い煙が上がり、怪物の触手と甲殻が真っ白に凍りつく。途端に部屋の空調が稼働し、凍結部に向けて温風を吹き出し始めた。やはり知恵が回るらしい。

 液体窒素はかけただけで浸したわけではないので、恐らく芯までは凍りついていない。温風を吹き付ければすぐに解凍されるだろう。しかしのんびりと解凍を待つ理由はない。葵は助走をつけ、大型のコンピューターを踏み台にして大きく跳躍した。助走と跳躍の勢いを乗せ、理想的な捻りを加えて体を回転させ放たれたサマーソルトキックは、物の見事に甲殻がなく凍りついた怪物の頭部と思しき触手の塊を捉えた。

 

 触手の塊は爆散という表現が相応しいほど華々しく飛び散った。軽い音と共に華麗に着地を決めた葵に怪物の破片が降り落ちる。葵は反撃に備えて防御の構えを取り、一太郎も空の容器を投げ捨て警戒したが、怪物の反撃は無かった。それどころか怪物の体が溶解していき、気色の悪い液体になって天井から滴り落ちはじめた。不自然な稼働を見せていたコンピューター群は次々と停止し、沈黙する。地下に響き渡っていた召喚の詠唱は突然止んだ。

 

 一撃必殺。幸運も味方した実にスマートな作戦勝ちだった。

 

 静かになった部屋に、天井から支えを失った生首が落ちる音が響いた。生首は焦点の合わない目で、しかし何かを訴えかけるように葵を見ていた。困惑した葵が一太郎を振り返る。一太郎は「透視」を使った。機械にもはや呪いの陰はなく、怪物のオーラも見えない。怪物は死亡し、呪いの拡散も止まったのだ。今度はぬか喜びという事もない。

 一太郎の頷きを受けた葵は、瀬良の首に近づいた。彼はためらいがちに目の前にやってきた葵を見て優しく微笑んだ。

 

「コトリ……治ったんだね。彼は約束を守ってくれたんだね……」

 

 彼の目には何が映ったのか。心底満たされたように安堵の言葉を呟き、瀬良は安らかな表情を浮かべ、動かなくなった。

 コトリとは、瀬良にとってのなんだったのか。妹か、妻か。大切な存在だったに違いない。怪物に取り込まれ、首だけになっても気にかけるほど。

 葵は瀬良の目を閉じさせ、ハンカチをかけた。瀬良が何を思い、何をしたのかは分からない。しかし、せめて死後は安らかであって欲しい。

 

 多くの犠牲者を出した事件は、こうして終着した。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 怪物を討伐した数時間後に突入した完全武装の救助隊によって、葵と一太郎は無事に保護された。他にも休憩室で呑気に惰眠を貪り、呪いの進行から免れていた所員が一人だけ、石化せずに生き残っていた。その所員はどうやらバイオハザードの渦中にいた事すら自覚していなかったらしい。いつの間にか巻き込まれ、いつの間にか解決していた、というわけだ。気楽なものである。しかし葵と一太郎の他に一人でも生存者がいたのは喜ぶべき事だろう。

 

 一太郎からの連絡により、事件の処理は警視庁特命係に任された。砕けずに残っていた石像は回収され、SERaグループの圧力により、研究所で起きた小さな事故という報道しかされず、真実は闇に葬られる事になる。

 亀海の協力の元、一太郎が無名祭祀書を解読した結果、魔力を込めて肉筆で書く事により、トヨグの巻物は原本と同じ効力を持つ事が判明した。即ち、火山の神性――――ガタノソアの石化の呪いの完全なレジストと、回復である。進度7に達し、完全に石化してしまった者でも、完全なトヨグの巻物を持たせておけばゆっくりと石化は治り、半年ほどで健康体に戻れる。

 警察病院の隔離病棟に入れられた事件の犠牲者達は、約半年後、全員健全な肉体を取り戻した。

 

 しかし、体は戻っても精神までは戻らない事もある。

 銅鏡から深淵に潜む「何か」を直視してしまったらしいトニオは、石化が解けたとき、廃人になっていた。明るさは失われ、無表情で、何も喋らず、何も反応しない。生ける屍そのものだ。迎えに来たトニオの家族の嘆きが殊更に痛々しかった。

 身元調査により、瀬良正馬の妻である瀬良琴里と判明した女性もまた廃人になっていた。肉体は戻っても、精神が完全に壊れている。それは果たして生きていると言えるのだろうか。

 ユーリは石化解除後、極度の情緒不安定と診断され、精神病院送りなった。廃人一歩手前といった様子で、社会復帰できるかどうかは彼女の精神力と周りの支えにかかっている。金久保もユーリと同様だが、こちらはSERaグループ傘下の精神病院に収容されたものの、すぐに脱走、自殺した。口封じされたのか、本当に自殺したのかは不明である。

 

 SERaグループが圧力をかけてくる前に特命係が回収した書類や、一太郎と葵の証言により、今回の事件のアウトラインを辿る事ができた。

 

 五年前、瀬良グループの次期会長と目されていた瀬良正馬の妻、瀬良琴里が突然社交界から姿を消した。理由は謎であるが、その少し前、瀬良家の屋敷の倉庫を整理していた使用人が古ぼけた銅鏡を発見し、その事について琴里と話している。トニオが銅鏡を覗き込んだ時の症状からして、琴里もまた銅鏡を覗き込み、石化の呪いを受けてしまったのだろう。

 妻の突然の隠棲の直後から、瀬良正馬は社内での出世に興味を無くし、田舎に研究所を建て、そこに篭って筋肉の硬化に関する研究を始める。研究所から回収された資料によると、Gウイルス(ガタノソアの石化の呪いを示す隠語)による石化の治療法を探っていたらしい。瀬良正馬は妻のために立身出世の道を捨て去り、自ら先頭に立って必死に治療法を探していたのだ。見上げた男である。

 

 しかし、神話的呪いを医学的アプローチで治す事はできなかった。五年の月日が流れても研究に進展はなく、やがて研究のために使われた多額の使途不明金のSERaグループの役員に糾弾され、瀬良正馬は明日にでも更迭されるかも知れないという厳しい立場に立たされる。

 瀬良正馬はさぞ焦っただろう。更迭され、研究所から追い出されれば、もはや妻を助ける道は絶たれる。

 

 ここからは推測が多くなる。

 無名祭祀書の記述によれば、ガタノソアはミ=ゴという宇宙の彼方から地球へ飛来した怪物に崇拝されていたらしい。ミ=ゴの特徴は、一太郎と葵がメインコンピュータールームで戦った怪物と一致する。研究の一環か、それとも偶然か、SERaグループはどこかで捕獲したミ=ゴにsahime sampleと名付け、冷凍保存して研究所の地下に保管していた。

 ミ=ゴは人間の理解が及ばない知性と技術を持つ。それこそ、切断した生首を基本的な点滴だけで生かしておいたり、機械と自分の体を融合させる程度には医学に長ける。

 明日どうなるとも知れないほどに追い詰められた瀬良正馬は、そんなミ=ゴの医術に賭けたのではないだろうか。ミ=ゴの医術なら、人間には治せない瀬良琴里の石化も治療できるかも知れない。

 

 瀬良正馬の頼みを、ミ=ゴがどう扱ったのかは事件の顛末が示している。瀬良正馬によって保管庫から開放されたミ=ゴは即座に彼を殺害。知識の詰まった生首だけを利用し、メインコンピュータールームを乗っ取り、崇拝するガタノソアの召喚を試みた。幸い機転を利かせた所員の誰かが外部との通信ケーブルを爆破、切断。ガタノソアの呪いが外部に拡散する事は防がれた。

 最後は一太郎達の探索行の果てにミ=ゴは倒され、邪神の召喚は免れたのである。

 怪物に望みを託すという事がどれほど恐ろしい事態を招くかが如実に分かる事件だ。彼らは人間とは全く異なる思考回路を持ち、人間の倫理など理解しない。

 

 社会復帰を始めた矢先に精神に大きなダメージを負った葵は、怪物を倒した力とこれまでの経験を買われ、亀海の推薦で司書として就職した。安全な署内で書類を整理しつつ、時折亀海が持ち込む案件にアドバイスをし、本当にどうしようもない時は現場でその腕を振るう事になる。運命じみた頻度で神話的事件に遭遇した葵は既に怪異について知りすぎている。普通に暮らしていても、知らなければ気にもとめないようなちょっとした事件に怪異の陰を見出してしまい、心休まる時がない。人間社会には、大多数の人間が気づいていないだけで、人外の悪意がのさばっているのだ。葵は逃避よりも、公権力の庇護の下で裏方からそれらに関わる事を選んだ。

 

 一太郎は職を鞍替えする事は無かった。余暇だけでなく、仕事まで神話的事象の探求に費やしたら気が変になりそうだったからだ。所持する魔道書に無名祭祀書が加わった以外は、事件前と変わりなく魔術の探求と神話的知識の吸収に余暇を費やしている。入院中寂しい思いをさせた蓮を海に連れて行ったり、勉強を教えたりする時間が唯一の休息である。

 今回の事件では、半端な知識と生兵法のせいで随分振り回された。次は――――次があればだが――――しっかりとした知識を身につけて事に挑まなければならない。

 事件発生から解決まで半日弱ではあったが、事件後の石化症状治療のせいで一太郎は長らく屋敷に戻れず、なし崩し的に蓮と翠は八坂屋敷で一緒に暮らす事になった。一太郎が退院した頃には蓮はすっかり翠に懐いていて、翠と一緒に暮らしたがるかと思ったのだが、それを提案すると、蓮は当たり前のように一太郎との暮らしを選んだ。思った以上に一太郎は慕われているらしい。

 

 一太郎は、既に現代では裏の人間を含めてもかなり高位の魔導師になっている事を自覚していない。人間を辞めていない中では指折りだ。

 しかしそれを自覚したところで一太郎が驕る事はないだろう。人間という存在がいかに卑小か、今までの事件で散々思い知らされているからだ。

 再び混沌の渦が一太郎を巻き込むその時まで、彼は密やかに牙を研ぐ。

 




――――【八坂 一太郎(27歳)】リザルト

STR8  DEX10  INT18
CON9  APP7  POW19
SIZ14 SAN39  EDU18
耐久力12

精神的障害:
 二重人格

所有物:
 損傷の激しいエイボンの書(ラテン語版)
 エイボンの書(ラテン語版)
 屍食経典儀(フランス語原版)
 無名祭祀書(ドイツ語版)
 コービットの日記
 魔法のダガー……命中率=現在MP×5%、ダメージ=1d6+2、コスト=1ラウンド毎に1MP
 成長血清

呪文:
 透視、空鬼の召喚/従属、萎縮、被害をそらす、エイボンの霧の車輪、ビヤーキーの召喚/従属、
 ナーク=ティトの障壁の創造、空中浮遊、レレイの霧の創造、食屍鬼との接触、復活、門の創造、
 ナイフに魔力を付与する

技能:
 医学 73%、オカルト 37%、生物学 71%、化学 51%、聞き耳 55%、考古学 8%、信用 45%、
 心理学 56%、人類学 7%、精神分析 33%、説得 41%、図書館 85%、目星 85%、薬学 63%、
 歴史23%、こぶし 56%、
 英語 21%、ラテン語 22%、フランス語 11%、ドイツ語 4%、クトゥルフ神話 59% 

――――【トニオ・スターク(35歳)】永久的発狂/キャラロスト

STR11 DEX9 INT16
CON12 APP5 POW14
SIZ11 SAN0 EDU17
耐久力12

技能:
 機械修理 85%、芸術:イタリア料理 85%、コンピューター 81%、電気修理 85%
 電子工学 81%、物理学 81%、母国語(英語)85%、イタリア語 21%、日本語 21%


――――【宮本 葵(28歳)】リザルト/引退。以後NPC扱い

STR23 DEX13  INT11
CON10 APP14  POW8
SIZ12 SAN27  EDU16
耐久力11  db+1d6

所有物:
 トヨグの巻物七枚(肉筆模写。石化犠牲者からの回収品)

装甲:
 柔軟な骨格と皮膚の下の鱗により、物理ダメージを1軽減する

技能:
 応急手当 70%、回避 86%、聞き耳 54%、説得 55%、跳躍 65%、信用 75%、目星 55%、武道:立ち技系(ムエタイ)89%、キック 90%
 精神分析 8%、クトゥルフ神話 9%

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