何かの呼び声   作:クロル

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1-4 腕に刻まれる死(前)

 

 未弧蔵の死から一年。八坂一太郎は養子となった八坂蓮と共に、相変わらず八坂屋敷で暮らしていた。

 仕事に、慣れない子育てに、魔術の研究に、と多忙な日々ではあったが、その忙しさが親友の死の悲しみを遠ざけてくれていた。

 

 一太郎の精神に現れた二重人格――――自分が未弧蔵であるかのように振舞う裏の人格は消えていない。むしろ、裏の人格を受け入れ、消さないようにしている。二重人格は一般的に精神疾患であると考えられており、治療すべきものであるが、一太郎にとってはそうではない。親友の生きた証であり、みすみす死なせてしまった罪の証である。それに、自分の妄想の産物だとは分かっていても、未弧蔵の一部が自分の中で生きているようで、少しだけ救われた気持ちになれた。

 裏(未弧蔵)の人格は、一太郎が興奮したり、動揺したりしない限り表に出てこない比較的軽い精神疾患で、日常生活を送る上では何も問題ない。裏の人格が現れても、未弧蔵は殺人癖を持っているような物騒な人格ではないため、大きな問題は起こらない。善人でもないため小さな問題は起こるが、それぐらいは飲み干すつもりだった。

 

 過去の事件と折り合いをつけ、人生の歯車に生じたひび割れとズレを上手く修繕した一太郎は、会社から見ても勤務上問題ないと判断されたらしい。ある秋の日、一太郎は別の会社への一週間の短期派遣を命じられた。

 派遣先は複合企業SERaグループ医療部門傘下の研究所。SERaグループは一太郎の勤めているマホロバ株式会社の取引先で、日本を代表する大企業の一つである。鉄鋼業を中心に造船、重機、医療機器、薬品の製造などを手がけている複合企業で、保守的・閉鎖的ながら堅実な経営方針で知られている。大正頃に設立された古株会社であり、長く日本の縁の下を支えてきた。

 一太郎はそんなSERaグループの研究所で行われている研究に技術協力をするために派遣される事になったのだ。ちなみに交換でSERaグループからもマホロバ社に研究員が派遣されるらしい。大企業同士、色々と思惑や駆け引きがあるのだろう。そのあたりは一太郎の関知するところではない。特に理不尽な辞令ではないし、上司の命令に従うのみである。

 

 派遣に際して、東京から離れ、地方に出張する事になる。一太郎は幼い蓮を連れて行くのは避け、宮本翠に頼んで八坂屋敷の留守を任せる事にした。

 ショッキングな拉致事件から一年弱、実家で療養していた宮本葵は地元でアルバイトを始め、社会復帰の足がかりを得たらしく、献身的に付き添っていた翠は妹の「もう大丈夫」という後押しもあり東京に戻ってきていた。

 探偵業を再開したものの、一年の空白期間もあり依頼に困っていた翠の話を聞いた一太郎が子守兼留守番の依頼をしたのだ。探偵の仕事ではないが、一週間の間、蓮の世話を頼んだ。日給は三万。相場より倍近く高い。値段の決め手としては、信頼できる人に任せられる事が大きいし、冷蔵庫にちくわしか入っていない日も多い翠の懐を暖かくしてやる意図も大きい。高給取りの一太郎にとっては、安くはないが、高くもない出費である。翠は良い意味で不相応な給金を、申し訳なさと施しを受けるような屈辱感から値切ろうとしたが、結局は生活費の確保という現実的で差し迫った問題に負けて了承した。その代わり、翠は一太郎の留守中に屋敷の大掃除や手入れをする事になっている。

 

 蓮は翠と直接面識がなく、初対面で怯えていたが、あの事件に関わった人物で、キミタケの友達だと紹介すると、警戒心を緩め、一週間の間八坂屋敷で一緒に過ごす事を受け入れた。年齢は離れているが女性同士であるし、翠は人当たりがよく、キツい性格ではない。すぐに慣れるだろう。一太郎は二人に留守を任せ、後顧の憂いなく列車を乗り継いで派遣先へ向かった

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 派遣先であるSERa医科学研究所は、畑ばかりの郊外にぽつりとある建物だった。研究施設の規模は外観としては中程度のようだったが、窓や扉には緊急時に外部と隔離するためだろう、ロック機構やシャッターなどが備え付けられているのが見て取れた。保守的な会社の研究所なだけあって、安全対策は神経質なまでにしっかりしているようだ。

 研究所に入った一太郎は、受付でマホロバ社から派遣されてきた旨を告げた。受付嬢は丁寧な対応で、一太郎にプラスチックの腕輪を渡し、担当の者を呼ぶため少し待つように言った。腕輪は研究所の関係者である事を示し、所内の扉を開けたり端末にアクセスしたりするための鍵となるICチップが埋め込まれているらしい。腕輪というのは少し変わった形態だが、学校への来訪者や、スポーツ大会への取材陣が許可証を首から下げるのは特別珍しい事ではない。一太郎は腕輪を腕にはめ、ロビーのソファに座って待った。早朝に東京を出て、現時刻は昼前。この日はひとまず面通しだけして、研究所から徒歩数分の場所にある職員宿舎に入って荷物整理をし、旅疲れを癒す事になっている。

 

 担当が来るまでの間手持ち無沙汰な一太郎は、軽く研究所の受付ロビーを見渡した。

 白衣の所員達も、機材をカートで運んでいる作業員も、全員腕輪をつけている。腕輪には1~3のクラスが記されている。自分のものを見てみると、クラス1だった。セキュリティレベルだろう。裏側には「GUEST」と刻印されている。腕輪には他にも「進度」と書かれた目盛のあるメーターがついていたが、何を意味しているのかはよく分からない。後で聞いてみよう、と思った。

 

 所員達が腕輪を扉にあるメッセージディスプレイにかざして開閉する様子は近未来を思わせた。技術的にはなんの不思議もないのだが、日常で目にする光景ではないため、技術の進んだ世界に来たような錯覚を覚える。

 一太郎が地域と施設に応じた局地的技術格差について特に意味もない考察にふけっていると、後ろから声をかけられた。

 

「八坂君?」

「……葵さん?」

「あ、やっぱり。久しぶり」

 

 振り返ると、そこにはダンボール箱を抱えた宮本葵がいた。葵は親しげに微笑んだ。空調の効いた所内にも関わらず手袋にマフラーに厚手のコートにと完全装備だ。葵も腕輪をつけている。

 

「奇遇ですね。地元でアルバイトをしているという話を……ああ、ここが地元だったんですか」

「そうそう、弁当配達のアルバイトしてるんだよね。この研究所はお得意様でよく来るんだ。八坂君は? 確かマホロバ勤めだったよね。転職?」

「いえ、短期派遣です。一週間だけこっちに出張する事になったんですよ」

「そっかそっか、いいね八坂君、引く手数多で大人気。蓮ちゃんは? 一緒に来てるの?」

 

 思わぬ邂逅からしばらく雑談に花を咲かせていると、担当の者が来た。葵は雑談を切り上げ、大きなダンボールを軽々と持ち上げて奥に入っていった。

 担当は副所長の金久保と名乗る、五十歳ぐらいの神経質そうな眼鏡の男だった。所長の瀬良が急用で不在のため、代わりに自分が来る事になった、と金久保は格式張った言い方で謝罪した。

 

「急用ならば仕方ありません。私は気にしませんよ。副所長に案内して頂けるとは恐縮です」

「そう言っていただけますと助かります。ご案内の前に、恐れ入りますが携帯電話やその他記録機器、通信機器を預けていただけますか。色々と機密が多いもので」

 

 一太郎は受付で携帯電話を預けた後、金久保について施設を案内された。

 研究所は一階建の平屋で、地下がある。会議室、食堂、研究執務室、実験室、倉庫、仮眠室など、一通り見て回る。機密上部屋の前で説明されるだけで、中に入らなかった部屋もあった。

 金久保も腕輪をつけ、部屋に入る時はそれを入口のメッセージディスプレイにかざしていた。金久保の腕輪はクラス4だった。

 

 聞いてみると、腕輪は所員の間では「タグ」と呼ばれ、クラス1~クラス5のセキュリティレベルに分けられているという。所長の瀬良が5、副所長の金久保が4、それ以外の研究員は立場や業務などに応じて1~3が割り振られている。タグのクラスに応じてアクセスできる情報が制限されたり、機密レベルの高い扉を開けられたりする。

 「進度」と書かれたメーターについては、機密だから話せないと言われた。もやもやした一太郎の様子を察したのか、今回の派遣期間中に使用する機能ではないだろうから気にしなくても良いと補足される。しかし気にしなくても良いと言われても気になるのが心情である。一太郎はタグを裏返したり押してみたりして調べ、表皮の血流などを測定する機能があるらしい事を理解した。恐らく健康診断のためだろうが、日常的に健康状態を把握しなければならないほど危険のモノを扱っているのだろうか。だから厳重なセキュリティが敷かれているのかも知れない。

 

 ざっと所内を見て回り、翌日からの仕事の説明を受けている途中で、急に慌てた様子の所員が駆け寄ってきて金久保に何事か耳打ちした。金久保は途端に顔色を変えた。

 

「申し訳ありません、所内でトラブルが発生したようです。案内の途中ではありますが、念のため会議室で待機していていただけないでしょうか」

「トラブルですか……分かりました。時間はどの程度かかりそうですか」

「なんとも言えません。君、彼を会議室に案内してくれたまえ」

「ああ大丈夫ですよ。場所は覚えています。自分で行けます。では」

「トラブルが解決次第迎えを寄越しますので」

「了解しました」

 

 金久保は会釈して、所員と共に足早に去っていった。所長の急用の関係だろうか、と考えながら、一太郎は会議室に向かい、中に入る。

 会議室には既に葵がいた。ダンボールの空箱を潰して折りたたんでいる。他にもノートパソコンに向かって仕事をしている大学生ぐらいの女性と、テーブルに工具箱を広げて整理している、作業服を着た欧米系で三十代の男性がいた。

 一太郎が最後だったらしく、部屋に入ると背後で扉が閉まり、ロック表示がクラス1からクラス2に切り替わった。勝手にうろつかず中で大人しくしていろという意味だろう。

 

 一太郎が部屋に入ると、葵が不安そうに寄ってきた。

 

「八坂君。いきなりここに放り込まれたんだけど、八坂君何か知ってる?」

「すみません、トラブルとしか聞いてないです。詳しくはちょっと」

「まさかバイオハザードなんて事は? ここ医療系の研究所だったよね」

「……情報が少なすぎます。何か連絡があるまではのんびり待ちましょう」

「否定はしないんだ。まあそうだね、のんびりしてようか」

「そうしましょう。ところであの人達は?」

 

 一太郎が女性と男性の方を見て言うと、工具を弄っていた男性の方がようやく一太郎の存在に気付いて立ち上がり、ニコニコしながら握手を求めてきた。

 

「オー、ハードボイルドスカーフェイス! 私、Tonio Stark言います。トニオと呼んでください。アメリカン人なエンジニアです。よろしくおながいシマス」

「よ、よろしく。八坂一太郎です」

 

 握手に応じると、握った手を嬉しそうにぶんぶん振られた。初対面で臆面もなく火傷面に触れられたのは久しぶりだった。しかし不快ではない。トニオは一太郎の醜い火傷顔をハードボイルドと表現したが、そんな感想を抱いてもおかしくないと思えるほど不細工だったのだ。シミ、そばかす、出来物、手術痕などが目立ち、顔面にピザでも叩きつけたような有様だ。確かにトニオから見れば一太郎はハードボイルドだろう。

 

「イチロー! イチローはSERaグループな人ですかー? 私、お仕事途中でアブダクション。ここにぶち込まれマシタ。お仕事終わる無いよファッキン! お仕事戻らせて、どうぞ」

「イチ「タ」ロウです。一太郎。野球選手ではないです。すみませんが、私はSERaの人間ではないのでトニオさんをここから出す事はできないんですよ」

「ジーザス、孔明トラップ! 白衣着てるから、間違えたデスねー。それじゃイチタロー、おめぇどこの組のモンよ? SERaグループ違う人、SERaグループいる。スパイ?」

「派遣されて来たんですよ。葵さんパス」

「え、ちょ」

 

 ぐいぐい来るトニオに軽く引いた一太郎は、葵に相手を押し付けて逃げた。

 空いている椅子に座ると、一つ席を空けて座っていた女性が目を上げ、小さく会釈をした。

 

「はじめまして。ユーリ・ミカミです。医学資料の翻訳のアルバイトをしています」

「どうも。八坂一太郎です。マホロバ社から短期の派遣で来た研究員です」

 

 ユーリはハーフらしい顔立ちで、どこかのモデルかと思うぐらいの美人だ。チラリとユーリの正面のパソコンの画面を見ると、ドイツ語が表示されていた。医学用語にはドイツ語が多いのだ。ユーリの日本語に淀みはなく、翻訳の腕は立ちそうである。

 ユーリは一太郎がパソコンを見ているのに気が付くと、さりげなく向きを変えて見えないようにした。

 

「失礼しました」

「いえ」

 

 何か機密性のある資料を訳していたのだろうか。一太郎はのぞき見をしてしまった事を謝り、暇つぶしに会議室の大型ディスプレイに流れている昼のワイドショーを見始めたのだが、一分もしないうちに床下、というよりも地下から小さな爆音と振動がした。それが合図であったかのように、にわかに会議室の外が騒がしくなる。廊下を走り回る音、怒声、悲鳴、物が壊れる音。何かが起こったのは間違いない。

 

 トニオは何が起きたか分からない顔をしてきょろきょろしているが、ユーリ、葵、一太郎の顔は青ざめた。頭に浮かぶのは同じ単語である。バイオハザードだ。

 

「まずいね。封鎖される前に脱出しよう」

「でも扉にはロックが……」

「蹴り破ります」

「え?」

 

 即断即決。扉の前で呼吸を整える葵にユーリが混乱している。常識的に考えて女性の蹴りでセキュリティロックまでかけられた扉を破れるわけがない。しかし、一太郎は、以前ヘビ人間に盛られた薬によって葵の筋力が人間の限界を一、二段階突破している事を知っている。対人間仕様の扉ならば破れるだろう。

 一太郎は葵がプリズンブレイクする前に声をかけて止めた。

 

「葵さん、待って下さい。実験動物が逃げ出しただけかもしれませんし、ちょっとしたボヤ騒ぎかも知れません。バイオハザードだとしても、廊下にウイルスが飛散しているなら、会議室の中にいた方が安全でしょう。もう少し様子を見ましょう」

「……ごめん、焦って変な事した」

「いえ、研究所で騒ぎが起きれば誰でも焦りますよ。私も内心焦ってます」

「HEYアオイ=サン、ワッツハプン? 何が起きたんデスカー?」

「あ、えーと、外で騒ぎが起きて……そうだ、トニオさん、ここに仕事に来たエンジニアの方でしたよね。会議室の空調がどうなってるかわかりませんか?」

「空調デスカ? Hmmm……確か天井に外に繋がる通気ダクトがあったハズですねー。もしかしてバイオハザードですかー? Tウィルス?」

「そうじゃない事を祈ってます。外に繋がってるなら、本当にまずくなったらそこから外に」

「オー、アオイ=サン、それ無理デスねー。通気ダクト、とても細いデス。それに、途中空気浄化装置のあります。ウイルス一匹通れまセン」

「……ま、まあ八坂君の言う通りバイオハザードって決まった訳じゃないしね。連絡待とう」

 

 それから四人はイライラしたりソワソワしたりウトウトしたりしながら大人しく会議室で待っていたが、いつまで経っても連絡一つない。会議室の外の騒ぎが次第に消えて行き、物音一つしなくなったのは事態が解決したからなのか、最悪の事態が起きて全滅したからなのかも分からない。備え付けの内線電話を使っても、どこにも繋がらなかった。

 長時間情報が得られないというのは、時に分かりやすく切迫した恐怖よりも強いストレスになる。ユーリは落ち着かない様子でノートパソコンを開けて何か書こうとしては集中できずに閉じてを繰り返し、葵は放心したようにぼんやりとテレビ番組を眺め、トニオはウトウトと眠りかけては他の三人が立てる小さな物音にびくっとして起きている。

 会議室の入口のメッセージディスプレイを操作し、少しでも状況を掴もうとしていた一太郎は突然めまいを感じ、夢か現か、ディスプレイの中に妙なものをみた。みたというより、感じた、という表現の方が正しいかも知れない。暗い地下、火山の噴火、地震による鳴動、そしてこの世のものとは思えない不気味な唸り声。そんなイメージが脳髄を妖しく揺らす。

 

 奇妙な幻覚はすぐに去ったが、不吉な何かを残していったような気がした。はっとしてタグを見ると、ずっと0だった「進度」が1になっていた。

 ぞわりと寒気がする。勘の良い一太郎は気付いてしまった。現在研究所を襲っているのはバイオハザードなどではない。ほぼ間違いなく、ある意味でバイオハザードよりも恐ろしい、神話的怪異だ。

 警告を発しようとした一太郎は、目の前の固く閉ざされていた扉が開いて驚いた。入ってきたのは、金久保に緊急の知らせを持ってきた所員である。しかし様子がおかしい。肌が灰色に変色し、動きがさびついたロボットのようにぎこちない。彼は一太郎に目を留めるとよろよろと近づき、かすれた聞き取り辛い声で言った。

 

「逃げろ……Gウイルスが……」

 

 力を振り絞るように言った所員は、よろけて倒れ、机に頭を強打する。すると首が石像のようにポッキリ折れてしまった。冗談のような光景に一太郎は目を疑う。折れた首の断面からは大量の血が流れ、会議室の床に血だまりを広げていった。ユーリは悲鳴を上げて部屋の奥へ逃げて行き、トニオと葵は口をぽっかり開けて硬直している。

 所員の頭の無い無残な死体を見た一太郎の脳裏に、未弧蔵の死の瞬間がフラッシュバックする。

 

「こりゃヤベー、バイオハザードだ」

 

 一太郎の口調と顔つきが変わった。所員が中に入って閉じようとしていた扉にすばやく靴を噛ませて止め、死体をまさぐってタグを外す。タグのセキュリティクラスは2だった。

 

「チッ、しけてやがんな。クラス2じゃ研究所の出口開かねー気がする。金久保探すか、あいつ4だったし」

「ちょっと八坂君何言ってるの? 大丈夫?」

「葵さんこそ何言ってんだ? 俺ァ根津だぜ? こんなとこさっさと脱出すんだよ」

「あっ(察し)」

 

 ショックで裏の人格が出ている事を悟った葵は、テーブルの上の冷め切った紅茶を一太郎の頭にぶっかけた。びっくりした一太郎は目を瞬かせ、正気に戻る。

 

「あれ?」

「おはよう。自分の名前言える?」

「……あー。すみません、取り乱しました」

「いいけどさ。まだ治ってなかったんだ」

「まあ、はい」

 

 知らない者から見ると意味不明のやりとりに困惑しているユーリとトニオに、葵が事情を説明しはじめる。一太郎はその間に深呼吸をして落ち着いた。

 

 TかGかは大した問題ではない。最期の言葉を状況に照らし合わせると、バイオハザードが起きたらしい。逃げろと言われはしたものの、果たして逃げて良いものか。研究所の外に出る事が、ウイルスを拡散される事になりはしないか。それを込みでこの所員は逃げろと言った、つまり感染は研究所内でしか起こり得ず外に出れば安全なのか。あるいは死が近づき錯乱し、理論的に物事を考えられず支離滅裂な事を口走っただけなのか。はたまたバイオハザードを引き起こした犯人が会議室にこもった自分達を引きずり出すために遣わした哀れな犠牲者なのか。

 

 一瞬で様々な可能性を考えた一太郎だが、言われた通り逃げ出したくなる気持ちを抑え、ひとまず死んだ所員の体を調べはじめた。症状からウイルスについて何か分かるかも知れない。何か行動する前に一つでも情報が欲しい。

 一太郎が検死を始めると、葵とトニオが恐る恐る寄ってきた。トニオは口を手で押さえて今にも吐きそうにしている。

 遺体は石のように固まっていたが、首の断面から覗く器官と血液は正常で、血が脈動するように流れ出ている事から、心肺機能も正常である事が分かった。皮膚と筋肉だけが硬化、というよりも石化している。健康診断機能がある事を思い出し所員から剥ぎ取ったタグを確かめると、進度が最大の7になっていた。

 

 体が石のようになる、という症状だけ見れば、決して非現実的ではない。進行性骨化性線維異形成症という遺伝子疾患は、全身の筋肉が緩やかに骨に変化し、死に至る病である。しかしそれは決して石像のようになる病ではないし、ウイルス性ではなく、どんなに緩く見積もっても全身が石になる前に体内の諸器官が機能不全を起こして死亡する。死んだ所員は一時間ほど前に会った時は健康そのものだった、こんな急激な病の進行、普通じゃ考えられない。

 つまり、所員の遺体は医学的に有り得ない。

 一太郎が短い黙祷を捧げ、遺体に自分の白衣を被せると、深刻そうに葵が聞いた。

 

「八坂君、これもしかして」

「そうですね。またアレです」

「勘弁してよ……」

 

 葵は呻いて顔を覆った。こんな事態に備え、知識を蓄え魔術を身につけていた一太郎は葵よりも精神的に余裕があったが、それでもいきなり襲ってきた怪異には動揺した。怪物やポルターガイストではなく、病という形なのがまた厄介だ。一太郎が習得している魔術は黒魔術的なものばかりで、癒しの魔術は覚えていない。

 

「外も死屍るいるいるいデース……」

 

 会議室の外を見てきたトニオがよろよろ中に戻って言った。生存者は会議室の面々だけなのだろうか。会議室以外にも隔離されていた部屋があれば、そこにも生き残りはいそうだが。

 

「トニオさん、外の遺体のタグの進度はどうでしたか?」

「全部7でしタ。ぜんぜんラッキーナンバーじゃありませんネー。アー泣キソ」

「進度は症状の進度と考えて良さそうですね。1で罹患、7で石化でしょうか。私は今進度1ですが、みなさんは?」

「1です」

「1デス」

「0です」

「全員進度1なら考えられる可能性として……えっ」

 

 一太郎は0と言ったユーリを二度見した。ユーリはびくっとして、おずおずとタグを見せた。確かに進度0である。

 

「0って事は……ミカミさんは感染してない? なんでだろ、何が違うんだろ」

「これもう分かんねぇな……お前どう?」

 

 どこかでそのフレーズを覚えたのか、妙に流暢な日本語でトニオに話を振られ、一太郎は考えながら言う。

 

「Gウイルスは極めて短時間で重篤な症状をもたらすようです。空気感染にしろ接触感染にしろ、恐らくこの場にいる全員が感染条件を満たしているはずです。潜伏期間の差でもないでしょう。この中で一番遅くこの研究所に来た葵さんも進度1になっているので、それよりもずっと早くここに居たミカミさんが0なのは理屈が合わない。トニオさん、葵さん、私は同時に発症していますから、同じ部屋にいたミカミさんも同じタイミングで発症していた方が自然です。以上の要因に反して進度0という事は、ミカミさんがGウイルスに対して何らかの抵抗力を持っているという事だと思います」

 

 例えば魔術的防御のような、という言葉を心の中で付け加え、一太郎は言葉を切った。神話的事件を骨の髄まで味わった経験のある葵と違い、トニオとユーリに魔術云々と説明しても頭がおかしいと思われるだけだろう。この団結しなければならない状況下で無駄に不信を煽る事はない。ひとまず表向きは生物的・化学的なバイオハザードと仮定しておけば良い。

 一時間足らずで人を石化させるGウイルスが普通のウイルスの訳がない。明らかにウイルスの限界を超えている、神話的・魔術的ウイルスだ。それに抵抗できるのもまた魔術である。ユーリは意識的にか無意識的にか、Gウイルスに抵抗し無効化したのだ。魔術的素養であるPOWが飛び抜けて高かったのかも知れないし、一太郎の「透視」と同じように何か先天的な魔術を持っていたのかも知れない。

 

 怪しければ「透視」が身についている一太郎は、葵とあれこれと話しているユーリにさりげなく「透視」を使った。

 

「!?」

 

 その瞬間、一太郎は眼から悍ましい何かが体に流れ込み、蝕み、瞬く間に汚染するのを感じ取った。人間の本質を穢すような名状しがたいそれをまざまざと知覚してしまった一太郎は、ぐらりとよろめき、テーブルに手をついた。全力疾走したように息を荒げ、冷や汗を流す。テーブルについた手はカサカサに乾き、乾いた泥がこびりついたように変異していた。ぞっとして自分のタグを見る。

 進度2になっていた。

 

「どうしたんですか?」

 

 ユーリが異常に気付いて一太郎に声をかける。一太郎はパサパサになった肌を隠しながらなんでもないと答えた。

 

「トニオさん、ミカミさんと話し合って何か抵抗力の理由に心当たりがないか考えてみて下さい。私と葵さんは外の様子を見てきます」

「トニオにお任セ! さっ、お話しましょかユーリ=サン。大丈夫、トニオ怖くナーイ」

 

 面白外国人にたかられて軽く引いているユーリを置いて、一太郎は葵に合図して廊下に出た。石化した所員達が転がる恐ろしい廊下を少し歩き、会議室に声が届かない距離まで移動する。

 

「それで、」

 

 一太郎の不審な様子に気付いていた葵が足を止め、言った。

 

「何が分かったの」

「ミカミさんを「透視」したらこうなりました」

 

 片手を上げ、進度2のタグとカサカサになった肌を見せる。葵はちょっと眉を上げた。

 

「それは……ミカミさんが病原ってこと?」

「ミカミさんを「透視」した途端に体に何かが入り込んできて進度が上がったのは間違いありません。情けない話ですが、一瞬の事だったので何を視たのかすら記憶にないんです。ミカミさんを視たせいでこうなったのかも知れないし、偶然視界に入っていた別の何かを視たせいかも知れない。他の理由かも知れない」

「魔術を使ったせいとか?」

「その可能性もありますね。最悪の可能性は、ミカミさんが研究所にGウイルスをバラ巻いた犯人で、自分だけは感染しないよう防御を張っている、というものです」

「んー。でも一人だけ進度0なら普通怪しむよね。今だってなんでーって話になってたし。ミカミさんが犯人ならどうしてそこを誤魔化そうとしないのかな? 誤魔化そうと思えばいくらでも誤魔化せそうなのに」

「そこが分からないんですよね。本当に何か抵抗力を持っているだけなのかも知れないですし、何か企みがあって生存者に紛れ込もうとしているのかも知れないですし」

「ちょっと判断材料不足してない? さっきから言ってる事曖昧だよ」

「ですよね。しかしミカミさんに何かがある事は間違いありません。それが良いものか悪いものか分かるまでは警戒しましょう」

「ん、分かった。トニオさんにこの事は?」

「あの人顔に出そうで、いや態度に出そうで……口に出るんじゃないですかね」

「あ、うん。ミカミさんに直接「あなたを犯人デス」とか言いそう」

「秘密にしておきましょう」

「だね」

 

 密談の後、二人は会議室の近辺をざっと調べて回った。

 

 一太郎は廊下に転がる恐怖に顔を引きつらせた石像を医学的見地から調べ、彼らが全身を石化させながらも、驚くべき事にまだ生きている事を知った。石化しているのは内臓を動かす以外の筋肉らしい。どんな姿になろうとも、生きているなら石化解除の望みはある。内臓だけでなく視覚や聴覚、思考まで働いていれば生き地獄だろうが……

 石化した所員達を廊下からどこかの部屋に移動させようとも考えたが、運搬中に落としたりぶつけたりすれば、会議室に入ってきたあの所員のように取り返しのつかない事になってしまう。そっとしておいた方が無難だろう。石化した所員の中からクラス3のタグを見つけ、それを回収するだけに留めておいた。

 

 葵は会議室から受付に通じる扉を調べたが、核シェルターかと思うような重厚なシャッターが降りていて、蹴り破れそうもなかった。重機を持ってきても厳しいだろう。窓や通気口も同様である。開錠のためのセキュリティロックは存在しないはずの「8」と表示されていて、脱出不可能という現実を突きつけられるだけに終わった。

 

 二人が会議室に戻ると、トニオが入口のメッセージディスプレイを操作していた。ユーリはイライラと歩き回っている。

 

「戻りました。近場を見て回りましたが、生存者は見当たりませんでした。出口は完全に封鎖されていました。脱出は不可能と考えた方が良いでしょう。それから、廊下に石化した所員の方が転がっていますが、どうやら彼らはあんな状態でも生きているようです。会議室の外を移動する時はうっかり足をぶつけて折ったり砕いたりしないように。治る可能性があります」

「受付には行けましたか? 預けた携帯電話が置いてあるはずなんですけど」

「受付の手前でシャッター、というか隔壁が降りていました。通気口や窓も無理です。」

「そうですか」

 

 一太郎が現状を説明すると、ユーリはあからさまにガッカリした。

 

「なんとか外に連絡を取らないと……」

「研究所が隔離された時点で自動的に連絡が行っていると思いますが」

「生存者の有無までは伝わっていないでしょう? 生存者がいると分かればすぐに救出に動いてくれるはずです」

「そうだといいんですがね。ところでミカミさんがなぜ感染しなかったのか分かりましたか?」

「会議室に来る直前に頭が痛くて、所員の方の頭痛薬を貰って飲んだんです。もしかしたらそれかも知れない、という話は出ました。今トニオさんに外と連絡取れないか試してもらっています。中から脱出できないなら外に頼るしかないと思います」

「ふむ」

 

 ユーリを警戒している一太郎にとって、ユーリが主張しているというだけで外部への連絡は罠に思えた。外部に連絡した途端に生存者を秘密裏に抹殺するための部隊が送り込まれる、なんて事になるかも知れない。しかし外の様子を知りたい、中の様子を伝えたい、というのはこの状況下では至極真っ当な心理でもある。「透視」を使ってユーリの感情を読み、何か企みがあるかだけでも知りたかったが、それをしたところでまた眼から何かが流れ込んで進度が上がるだけだろう。

 

 ただしユーリへの警戒を抜きに考えれば、個人的には、外部との連絡は魅力的な案だった。警視庁特命係の亀海左京に連絡すれば、外部から神話的事件への対処を組織的に行ってもらう事ができる。自宅へ連絡し、蓮と翠に自分と葵の無事を伝えたいという思いもある。

 しかし事件の元凶かもしれないユーリによる誘導を疑わなければならない。外部との連絡を全否定するのは大げさだとしても、並行して別の事態解決策も探る事は必要だろう。

 

 一太郎の手持ちで即座に現状を打開できるものはない。強いて言えば、《空鬼の召喚/従属》を使って空鬼を召喚し、空間を超えて外に脱出する手があるが、それは幾つもの理由から使えない。まず第一に、媒体になるナイフを持ってきていない。研究施設に危険物を持ち込むわけにはいかなかった。今頃は他の荷物と一緒に職員宿舎に送り届けられている事だろう。それに葵の言ったように魔術の使用に反応して進度が上がった可能性もある。「透視」や《空鬼の召喚/従属》に限らず、魔術の使用はなるべく控えるべきだ。トドメにGウイルスに感染した状態で脱出すれば、ウイルスを外にバラまく事になりかねない。ウイルスの性質にもよるが、最悪日本壊滅まで有り得る。

 

 外部からの助けを待つにしろ、自力で脱出するにしろ、Gウイルスの治療、最低でも症状の進行の停止に必要な手段の入手は必須である。そしてその手段があるとしたら研究所内だろう。研究所内にも無い可能性があるが、探すだけ探してみた方が良い。

 差し当たってはユーリの言う頭痛薬の捜索だろうか。神話的現象である以上、医学的に生成された頭痛薬が効果を成すとは考えにくいが、他に手がかりもない。

 

 一太郎が考え込んでいる間、トニオは難しい顔で葵と話しながらメッセージディスプレイを操作していた。

 

「管理者メニューから操作してみたんデスが、ダメみたいですネー。連絡シャットダウン。研究所陸のコトーです」

「それって修理できない?」

「調べてみましたガ、胴元の通信ケーブルがヤられてるみたいなんデス。研究所から情報発信ムリムリカタツムリ。通信ケーブル直さないとデス」

 

 トニオは研究所の地図を表示させ、通信ケーブルの位置を示した。会議室は研究所の入口から受付を通ってすぐの場所にある。そこから奥へ入っていき、地下への階段を下り、左側の部屋が通信ケーブルのある機械室である。

 葵は研究所の地図を手帳にメモした。

 

 四人は話し合い、警備室に寄り、実験室を経由して地下へ向かう事にした。警備室には監視カメラのモニターがあり、研究所内を全て見る事ができる。歩いて他の生存者を探すより、監視カメラで探した方が手っ取り早い。実験室に寄るのは頭痛薬のためである。頭痛薬が研究所内で作られたものなら、一番置いてありそうなのはそこだった。

 

 警備室への移動中、いつの間にかトニオの肌が奇妙にパサパサになっている事が発覚した。一太郎と同じ症状である。他の三人に変化はない。一太郎=進度2、葵=進度1、トニオ=進度2、ユーリ=進度0だ。単純に時間経過で進行するものではないらしい。女性陣の進度進行が遅い事から、性別で差があるのかとも思われたが、廊下で石化している研究員には女性もいた。何が病の進行の鍵になっているかは依然として不明だ。

 

 警備室の扉のセキュリティはクラス2だったが、一太郎は廊下で石化していた所員から拝借したクラス3のタグを持っているので問題なく開いた。

 警備室には4つのモニターが並んでいて、所内各所に設置された監視カメラの映像が定期的に切り替わりながら映し出されている。モニターの前の椅子に制服を着た警備員が座っていたが、四人が入ってきても全く反応する様子がない。そっと正面に回り込むと、案の定石化していた。石化し灰色になった瞳をモニターに向け続けている。

 

 警備室では期待していたような情報は得られなかった。まず画像が荒く、細部まで見られなかったし、明かりの点いていない地下などの部屋は真っ暗で何も見えない。また、地下の冷凍庫のカメラの一つは作動すらしていなかった。非常にいい加減な監視体制だ。

 一方で、不安を煽る情報だけは得られた。カメラが切り替わった時、石化している事を除けば五体満足だった所員の頭が砕け散っていたり、画面端に何かに引きずられていく所員の足が映りこんでいたりした。研究所を徘徊する凶暴な何者かがいるのだ。カメラの配置や切り替わりの順序・ペースが悪く、何者かの姿を追跡も確認もできないあたりに杜撰な監視体制が伺えた。ガバガバな監視をすり抜けて外部から侵入した魔術師が石化魔術をかけて回っているのではないかとすら思えてくる。

 

 不安が増すだけになった警備室を出て、四人は葵の提案で食堂に向かい、部屋の隅のダンボール箱の中に余っていた弁当を食べた。会議室に誘導されてから六時間以上経つが、何も食べていなかったのだ。

 

「勝手に食べていいんでしょうか」

「あ、これ私のバイト先の弁当だから。私から話つけとくから大丈夫。どうせなら高いの食べよ、幕の内とかどう? 二千円するやつ」

 

 ユーリの庶民的な疑問に葵が笑って答える。釣られてユーリも微笑んだ。どんな状況でも腹は減り、腹が減れば不機嫌になる。空腹が満たされれば、幾分かは前向きになれる。

 しかし腹が満ちて前向きになった心は、空の弁当箱を片付けている途中にトニオの進度が3になっている事が発覚して急降下した。

 

「大丈夫デス、問題ぜんぜんノープロブレム。ちょっと体が固くナッチマッタナーってぐらいですよオ。最近ハードワークでストレッチなまけてたからね!」

 

 明るい口調で言うトニオだが、不安と怯えがもろに顔に出ている。明らかに空元気だった。

 

「早く実験室に」

 

 葵が言い、三人は異論もなくそれについて行く。

 一太郎は食事中に研究所にGウイルスへの有効な薬があるならこんなに惨々たる有様にはならない事に思い至り、頭痛薬=治療薬の存在が望み薄である事を悟っていたが、悪化するばかりの現状でそれを口に出し、ますます気分を盛り下げる気にはなれなかった。治療薬の量が少なくて全員に行き渡らなず奪い合いになったとか、保管されていた治療薬は少ないが、治療薬の精製設備があるとかの見込みはあるのだ。希望的観測だが。

 

 物言わぬ石像が嫌でも目に入る地獄めいた廊下を渡り、実験室に着いた。実験室の扉のセキュリティ(クラス3だった)を解除し、中に入る。

 様々な実験器具やサンプルが並んでいて、研究職の一太郎にはそれらがかなり高価な機材である事が分かった。研究者にとっては素晴らしい環境だ。壁際の書類棚には膨大な数のファイルが収められている。

 一太郎とトニオが何か治療薬に繋がる手がかりは無いかと、機材とサンプルを調べている間に、ユーリと葵は資料棚を調べる事になった。

 

 機材を確認していた二人は、硬化した筋肉のサンプルなどは見つけられたが、治療薬は発見できなかった。治療薬の精製に必要と思しき機材もない。それどころか、机の上に置かれた市販の頭痛薬が見つかった。ユーリに見せると、自分がもらったのはこれだと言った。絶望しかない。自分がいつまで経っても進度0なせいかユーリは悲しそうにはしても恐怖する様子はなかったが、進度が上がっている三人のショックは大きい。

 

 三時間ほどかけて実験室を調べ尽くした結果分かった事は、石化の症状に治療薬など存在しない事。それと、sahime sampleという奇妙なものについての情報だけだった。

 sahime sampleは菌類に酷似しているが、動物に近く、その知性は云々、人間との交流がほにゃほにゃ、などと随分曖昧である。資料の肝心な部分が塗りつぶされていたため仕方ないのだが、よくわからない。葵がメモした研究所の見取り図によれば、地下にサンプルを保管する冷凍庫があるらしいので、そこに行けばはっきりするだろう。どうせ通信復旧のために地下には行くのだ。ものはついでである。

 

 徒労に疲れきった四人は、予定通り地下に行く事にした。外部から救援を呼び、整った環境でユーリが感染しない謎を調査してもらい、その結果治療の目処が立つ事を祈るしかない。

 地下室に行く前に進度を確認すると、一太郎=進度3、葵=進度2、トニオ=進度4、ユーリ=進度0になっていた。

 

「ああ……」

 

 これまで進度1から上昇していなかった葵が呻き、手をおいていたテーブルの縁を無意識に握りつぶした。進度7までの折り返しを過ぎたトニオは空元気を見せる余裕もなくなり、力なくうつむいている。ユーリは沈痛な表情を見せているが、腹の底は未だ知れない。

 

 一太郎は冷静に進度の進行の原因を考えていた。

 進度0のユーリはこの際例外として除外して考える。「透視」による上昇を差し引くと、一太郎=進度2、葵=進度2、トニオ=進度4である。この差は何なのか。

 記憶を探る。最初に会議室に入ってきた所員。廊下に倒れている所員達。監視室で石化していた警備員――――

 

「ん?」

 

 そういえば、警備員は椅子に座り、モニターを見た状態で石化していた。他の所員達のように廊下に出て逃げ惑ったり、暴れたりした形跡はない。なぜだろうか。

 関節や筋肉の硬化は、動かなければ案外気付けない。椅子に座ってじっとモニターを見ているだけなら、自覚症状はそれほどなかっただろう。しかし流石に完全に石化するまで自覚症状が無いというのは考えにくい。どこかで自分の体の異変に気付いたはずだ。異変に気付けば助けを呼ぶのが普通だろう。しかし警備員の様子からして、そうしようとした風ではなかった。

 気付いた時には既に手遅れだった? 誰もがそれほど急激に進度を上昇させるなら、今頃一太郎達は全員石像になっている。警備員の進度が特別に急激に上がったと仮定して、そこには理由があるはずだ。

 

 同じく症状の進行が早いトニオと、警備員の共通点は何か。

 人種ではない。性別でもない。年齢も違う。

 体質的なものではないかも知れない。行動はどうだろう。じっとモニターを見ていた警備員。メッセージディスプレイを操作したり、モニターを操作したり、機材を点検したりしていたトニオ。

 ……ディスプレイ、あるいは機械に接していた、という点が共通している。それなら辻褄は合う。混乱して廊下で動き回っていたであろう所員達よりも、その様子を監視室で見ていた警備員の方が機械に囲まれて密接に接し続けていた。一太郎も多少は機材に触れていたし、葵も若干弄っていた。ユーリは相変わらず謎だが。

 

 考えをまとめた一太郎が自説を披露すると、概ねの賛同が得られた。ユーリの説明はつかないが、研究所は機械だらけで、研究員達は研究機材にパソコンにと機械を使用する頻度は多かっただろう。進度の上昇が早かったのも頷ける。機械が発する光がまずいのか、電磁波か何かがまずいのかは不明だが筋は通る。

 研究所の機械を破壊して回ろうという案も出たが、機械にGウイルスあるいはその成長促進因子が潜んでいるのなら、機械を破壊する事でそれが撒き散らされたり暴走したりしてますます酷い事になるかも知れないため却下された。情報を調べたり、外部と連絡をとったりするためには破壊するわけにはいかないし、もしかしたら治療法が見つかり、そのために機械やその中のデータが必要になるかも知れない。かも知れない、ばかりで何一つとして確定情報が無いが、右も左もわからず彷徨うよりも、予想を立てて行動できるだけマシである。

 妥協案として機械にはなるべく近寄らず、使用も控える事になった。

 

「あれ、でも私はずっとノートパソコン持ってますけど進度増えてませんよ」

 

 ユーリは持ち歩いていた自分のノートパソコンを示して言った。確かに、一太郎の理屈ではユーリの進度も進んでいなければおかしい。ユーリはノートパソコン持ち歩くだけではなく、食事中に起動させて音楽を聴いたりしていた。機械に接していた、というのが条件ならユーリも進度が進んで然るべきだ。

 ユーリは例外だから、で片付けていたが、改めて指摘されてみると奇妙だ。Gウイルスが機械に接すると症状が進む、コンピューターウイルスめいた側面を持つのであれば……もしかして。

 

「ミカミさんのノートパソコンの中にアンチウイルスプログラムが入っているのかも知れません」

「アンチウイルス……? すみません、どういう事でしょうか」

「Gウイルスはウイルスはウイルスでもコンピューターウイルスを指しているのではないか、という事です。コンピューターを感染源として、人にも感染する、生物学的ウイルスとプログラム上のウイルスのハイブリッドのような存在だとすれば現状の説明もつきますし、ミカミさんのノートパソコンにアンチプログラムが入っているとすれば機械に接していても進度が進むのではなく逆に0に保たれている事も説明できます」

 

 一太郎が言うと、葵とトニオは納得していたが、ユーリは一笑に付した。

 

「そんなオカルトな事があるわけないですよ。コンピューターウイルスが人を石にしてるなんて。八坂さん、疲れてるのでは?」

「疲れているのは否定しませんが、頭は正常ですよ。思い当たる事はありませんか? 最近、何か新しいプログラムをいれた記憶は?」

「それ本気で聞いてるんですか?」

 

 ユーリは正気を疑うように聞いたが、一太郎の真面目な顔を見て、呆れて葵を見て、葵も真剣な顔をしているのに驚き、トニオのすがるような顔を最後に見て、ため息を吐いた。

 

「みなさん、一度休憩しましょう。こんな状況ですから混乱するのも分かります。八坂さんの説だと、私のパソコンは安全なんでしょう? 休みながら見せますから」

 

 未だにこの事態を常識の尺度に当てはめて考えているらしいユーリは、精神異常者を優しく諭すような調子で言った。

 

 地下室への階段の手前に倉庫があったので、四人はそこに入って休憩する事にした。倉庫には工具や電子機器が棚に並べられていたが、どれも起動していない。進度上昇を促進させる事はないだろう。

 ユーリは完全に無駄だと思っているようで、面倒そうにノートパソコンを起動させた。スタート画面が立ち上がったところで、充電が切れかかっている事に気付き、ケーブルを出してコンセントに繋ぐ。

 

 途端にパソコンが意味不明な文字列を凄まじい速度で流しはじめ、瞬きする間に真っ青な画面になって静止した。

 

「え?」

「ジーザスクライスト!」

 

 呆気に取られて呆然とするユーリを押しのけ、トニオがノートパソコンに飛びついて高速タイピングを始める。しかし画面は一向に変化しない。

 トニオは早口のスラングで悪態を山のように吐き出し、最後に頭を掻き毟った。

 

「ファック! 完全クラッシュしてるますよォ!」

 

 騒ぎが起きてから、ユーリのノートパソコンは一度も電気的・電子的に研究所に接触していなかった。それをコンセントを繋いだだけでクラッシュしたという事は、機械や回線の類に何かが潜んでいる事は確定したと言っていい。しかし推論確定の代償は余りにも大きい。

 起死回生の一手になるかに思えたユーリのノートパソコンは完全に使い物にならなくなり――――

 今まで0だったユーリの進度が、静かに1の数字を刻んだ。

 

「え……あ、え……う、嘘、嘘よこんなの! た、助けて! 誰か! 死にたくない!」

 

 ユーリは自分のタグを見ると半狂乱になって叫び、倉庫を飛び出して行こうとした。

 

「待ってミカミさん、落ち着いて!」

 

 葵が急いでユーリに組み付き、怪我が無いように注意しつつ素早く床に押し倒した。バイオハザード中に錯乱状態の人間を一人にすれば死亡一直線だ。

 

「や、やだ! やめて! 離してよ! こんなとこにいたくない! 石になりたくない! もうほっといて! 私一人でも逃げてやるんだから!」

 

 ユーリは逃げ出そうともがいたが、ゴリラと腕相撲できる葵を振りほどけるはずもない。しばらく喚き散らして暴れていたが、やがて疲れてぐったりと大人しくなった。葵が拘束を解いてももう逃げようとはしない。目は充血して涙の跡があり、床で暴れたため服は乱れ埃まみれ。表情にはありありと恐怖が浮かんでいる。

 その様子を見た一太郎はユーリは犯人ではないという思いを強くした。一太郎の疑念に気付き、疑いを逸らすためにあえてウイルスを受け入れ錯乱したフリをしたのかも知れないが、これが演技ならアカデミー賞ものだ。

 ユーリへの疑念は、ユーリが犯人であって欲しいという自分の願望の表れなのではないか。単なる事故や偶然でこんな事件が引き起こされているとしたら手の打ちようがない。だから無意識下で犯人を想定し、今までと同じように犯人を倒せば解決すると思い込もうとしているのでは。命の危機に晒されているのに、何をしても無駄だ、もう詰んでいるのだ、という現実は直視したくないから。

 

 ユーリ犯人説を唱えたのは一太郎自身だが、所内を探索しても一向に進展がなく、見つかるのは絶望ばかり。自分に自信が無くなっていた。

 一方で、頭の中の冷静な部分が、疑念を捨て去るのは愚かしいという。最終的には自分だけ助かるようにセーフティーがあるのから感染を受け入れたとか、本当にアカデミー賞レベルの演技をしているとか、パソコンクラッシュからの進度上昇は犯人であるからこそと考える事もでき、疑いは消えるには至らない。

 

 葵がユーリを落ち着かせようとしているが、まともに話せるまで立ち直るにはしばらくかかりそうだったので、トニオと一太郎は先に地下へ通信ケーブルを見に行く事にした。地下への階段は倉庫のすぐそこである。ここまで来て足踏みをするのも馬鹿馬鹿しい。

 

 ところが、地下への階段は分厚い隔壁によって閉ざされていた。研究所の出口を閉鎖していたものと同じで、一目で破壊不可能だと分かる重厚さだ。階段脇の、恐らく隔壁を開けるためのディスプレイの前には何人もの石化した所員が折り重なるように、ディスプレイにすがりつくようにして倒れていた。隔壁の向こうからは何か嫌な気配がする。もっとも、バイオハザードに巻き込まれてから嫌な気配を感じなかった瞬間はないのだが。

 

「なンだこれは……たまげたなぁ」

「地下に何かあるのか? セキュリティレベルは」

 

 ディスプレイに表示されたセキュリティクラスは4。副所長の金久保か、所長の瀬良にしか開けられない。それでもクラス3以下のタグしか持っていない所員達がここに集まり、なんとか開けようとしたような形跡があるという事は、それだけ重要な何かが地下にあるという事なのだろう。

 例えば、石化の治療薬、とか。実験室の資料にはそんなものは無いと書かれていたが、情報が隠されている可能性もある。

 

 しかし一太郎達もまた、クラス4以上のタグは持っていない。所長は急用とやらで不在らしいので、残るはクラス4のタグを持つ金久保だ。金久保を探すのが賢明だろう。生きていても死んでいても。

 

 倉庫に戻ると、葵がユーリの背中をさすって慰めていた。一太郎とトニオを見るとびくっとしたが、すぐに平静を取り繕った。体面を気にできる程度には落ち着いたらしい。

 

「地下の様子の報告も兼ねて状況をまとめましょう」

 

 適当な棚に腰掛け、一太郎が言うと、視線が集まった。

 

「我々が助かる方法として、外からの救助と、内部での自己解決の二通りがあります。

 外からの救助は最悪でも二、三日も待てば事態を察して来るでしょう。地下の通信ケーブルを復旧させればすぐです。ただし、電気・電子的経路でGウイルスが広がっている可能性があるので復旧の際には慎重になる必要があります。助けを呼ぶついでにウイルスを外に放出した、というオチは見たくありません。

 内部での自己解決ですが、決して非現実的ではありません。研究所内で発生したバイオハザードですから、研究所内に治療薬なり、治療法の手がかりなりがあるというのは自然な考えでしょう。今のところ、治療に繋がるそれらしい手がかりは二つ。

 今地下への階段を見に行った所、隔壁で封鎖されていました。セキュリティクラスは4。それだけ重要なものが地下にあるという事です。隔壁付近に所員の方の石像も多くありました。地下へ行こうとしていたのでしょう。セキュリティを突破できなかったようですが。

 二つ目はユーリさんのノートパソコンです。それが壊れた途端に進度が上がったという事は、中に入っていたデータが進度の進行を抑えていたと考えられます。電子データが生物の病の進行を抑えるという理屈が理解できないのなら、生物に良い影響を与える電磁波を発するプログラムデータが入っていたとでも考えて下さい。どちらにせよ、結果として石化を食い止める事ができるなら問題無いんです。心当たりはありませんか? 何か、それらしいものをノートパソコンに入れた覚えは?」

 

 ユーリは思い出そうとするように、あるいは上手い嘘を考えるように、眉根を寄せて目を閉じた。

 一太郎の考えでは、ユーリのノートパソコンには何らかの方法で石化を防ぐ魔術がかけられていたはずだ。魔術は電子データの形を取る事も有りうる。一太郎はこれまで読んだ魔道書から、数式の形をとった召喚魔術の存在を知っていた。電子データの魔術があってもおかしくない。ユーリを「透視」して一太郎の進度が上がったのは、同じ視界にテレビやディスプレイを入れていたからだろう。とにかく、防御魔術がコードを介してGウイルスに過度の接触をする事で破れたのだ。ノートパソコンにかかっていた魔術が予防専用で、治療には応用できないものなら未来は無いが、それもこれもユーリにかかっている。ユーリが記憶に無いと言えば、魔術の検証すらできない。

 

「……無名祭祀書、という本の翻訳データを入れていました」

 

 やがて、ユーリはためらいがちに言った。


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