八坂一太郎が大学に進学し、一年と半年が経過していた。大学二年生になった一太郎は、相変わらず怪事件のあった屋敷に根津未弧蔵と共に住んでいた。大家にはまだ怪異の原因を取り払った事を報告していないため、家賃は一ヶ月五千円で据え置きである。悪霊を退治した後、傷口からばい菌が入ったのか未弧蔵が一ヶ月ほど寝込みはしたものの、一年以上祟りは起きていない。大家は祟りは消えたのではと疑っているようだが、まさか事故物件に住まわせておいて、事故が起きないから家賃を値上げする、などと言い出すわけにもいかない。一太郎が未弧蔵も住まわせる旨を伝えた時も、過去の事件を引き合いに出す事で値上げを回避できた。
荒れ果てた屋敷は器用な未弧蔵がコツコツ整備し、壁紙を張替え、カーテンを替え、傷んだ床板を一新して、表札も「八坂」にし、雑草だらけで使い物にならなかった裏庭もガラの悪い仲間を呼んできてよってたかって見れる程度に整えてしまった。実際大したものである。その代わりに、未弧蔵はよく屋敷にホームレスやチンピラを呼び込み、二、三日泊まらせ、一太郎が買い置きしていた食材を使って料理や安酒を振舞った。しかし本業のヤクザや本当に危ない人種は連れ込まないし、使い込む金も月に三、四万程度で、屋敷の本来の家賃を考えれば、痛い出費とも言えない。更に未弧蔵がそうして作る人脈のおかげで一太郎も様々な耳よりの情報を知る事ができ、ホームレスの中には昔取った杵柄で有用な知識や技術を披露してくれる者も多く、良い面は多い。試験期間中に酒盛りで夜中まで騒がれるとストレスが溜まったが。
未弧蔵自身は一太郎の紹介で大学の掃除人のアルバイトにありつき、自分の生活費は稼いでいる。もっとも、過去に何があったかは語らないが、器用な人間なので、一太郎の紹介がなくてもそれなりの職に就いていたかも知れない。
一太郎は大学で勉学に勤しむ傍ら、悪霊にまつわる事件で手に入れた書物の解読も進めていた。主な成果は二つ。
まず一つは、魚流田紅人の日記に記されていた、《空鬼の召喚/従属》という魔術の習得。これは次元を移動する能力を持つ怪物を召喚して使役する魔術である。ゲーム的な表現をするならば、呪文を唱えてMPを消費して発動する魔術なのだが、一太郎はまだ実際に使った事はない。知識として知るだけでもあまりの異様さに頭がくらくらするというのに、実際に魔術を体感し、召喚した怪物を目の当たりにしたら、正気を保つ自信がなかった。万が一再び怪異に巻き込まれ、本当にどうしようもない状況にならない限り、使うつもりはない。
もう一つは、自分の能力の把握。一太郎は人の皮でできた本、エイボンの書の断片的な記述から、自分の持っているモヤを視る能力が「透視」という先天的魔術だという事を知った。一太郎の解釈によれば、魔術に関わる要素は主に精神力=POWと、MPの二種類である。このうち、POWは知的存在が持つ魔術的な素養を示す。POWが高いほど、強力な魔術を扱ったり、魔術攻撃を受けた時に抵抗する素質があるという事だ。MPはゲームによくあるMPと同じで、これを消費して魔術を発動させる。通常、知的存在が持つMPの上限はPOWに比例し(1POWなら1MP)、消費しても時間経過で回復する。上限値に関係なく、だいたい24時間あれば全快するようだ。
「透視」は1MPを消費し、自分のPOWでもって眼に宿る先天的魔術を制御する事で、対象のPOWをオーラとして目視できる。魔術も視えるようになるようだ。
オーラとして視えるPOWは感情や強さによって色、明るさが異なるため、「透視」を使えば必ずではないが相手の感情やPOWの大きさを読み取る事ができる。
「透視」を使いまくって統計を取り、検証したところ、一般的人間が持つPOWの平均を10前後とすると、一太郎は19だった。未だに自分以上のPOWを持つ存在には遭遇した事がない。魚流田でさえ18程度だったのだ。人間の限界を超えているといってもいい。
とはいえ、普通に暮らしていれば魔術合戦に巻き込まれる事はなく、《空鬼の召喚/従属》は無用の長物。せいぜい誰かの顔色を伺う時に「透視」が役立つぐらいだろう。大魔術師の素質があっても、それが活かされる事はなく、活かされない世界で暮らせる方が幸せなのだ。
一方、未弧蔵も若干魔術についての知識を得ていた。魚流田の日記を読む事で、地下室で襲ってきた魔法のナイフの扱い方を知り、操れるようになった。未弧蔵のPOWは11で、魔術的素養は平均程度だが、魔法のナイフの操作は難しくなく、宙に浮かせて数回対象を襲わせるぐらいなら問題はないようだ。サビを落としてよく研がれた魔法のナイフを未弧蔵は常に持ち歩き、専らリンゴを剥いたり、靴底に張り付いたガムを削ぎ落としたりするのに使っている。魔術を抜きにしても切れ味が良く、頑丈なので、重宝しているという。
一太郎達に再び冒涜的恐怖の影が忍び寄ったのは、寒さも厳しくなりだした晩秋の事だった。
スポーツの秋、読書の秋、そして何よりも、旬の食材が豊富な、食欲の秋である。一太郎と未弧蔵は、フリージャーナリストの石沢啓太に誘われ、中華料理屋の個室で会食をしていた。石沢は三十代の男で、マスゴミと揶揄される人種とは異なり、社会問題などを地道に調査し、誠実さと熱意が感じられる記事を書く。雑誌に記事を売り込む事で生計を立てていて、腕は確かだがフリーであるが故に稼ぎに乏しく、時々未弧蔵が屋敷に連れてくるため、一太郎とも面識がある。
会食には一太郎、未弧蔵、石沢の他にもう一人いた。二十歳ぐらいの、長い黒髪が特徴的な美女である。和やかな印象を受けるのほほんとした彼女は宮本葵といい、石沢の知り合いらしく、中華料理屋の前で偶然会って同席する事になった。
「ムエタイですか」
葵が日本ムエタイ協会の指導員をしているというと、一太郎はピンとこない顔で首を傾げた。
「ムエタイはタイの国技でね。キックボクシングが近いかな? 日本の競技人口は少ないけど面白いよ」
「そりゃ指導員レベルの使い手がつまらないと思ってるわけねぇんだよなあ」
「根津黙れ」
「あはは、別にいいよ。実際あんまり日本に広まってないしね。名前は聞いた事あると思うけど、実際にやってる人知らないでしょ?」
「確かに会ったの宮本さんが初っすわ。指導員って事は強いんすか」
「まあね、それなりにね」
「宮本さんは凄いぞ。スチール缶を素手で握りつぶしてボールにできるからな」
「ちょっと、石沢君?」
「まじで? すげえ! 店員さーん! スチール缶ありません? 空のやつ」
笑顔が引き攣り気味の店員さんと交渉を始めた未弧蔵と、困ったようにおろおろする葵。それを見ながら、石沢が一太郎にこそっと耳打ちした。
「この後、オレの今追ってる仕事の事でちょっと相談に乗ってくれないか?」
「あ、はい。それはいいですけど、そういう話は未弧蔵の方が得意だと思いますよ」
「八坂君は理学部で医学も齧ってたろ? そっち方面の意見を聞きたいんだ。食事がまずくなるような話だから、詳しくは後で話すよ」
石沢は頼むよ、と一太郎の肩をぽんと叩き、運ばれてきた麻婆豆腐を美味しそうに食べ始めた。葵は丸めたスチール缶を前に恥ずかしそうにしていた。
「すっげ! 漫画みたいだ! マジでこんなんできる人いるんだな」
「自慢できる事じゃないけどね」
「何言ってんすか、これ自慢しなきゃ何を自慢するんだっていう。他に何かできたりしません? 壁走ったりとか」
「無茶言うな、忍者じゃないんだから。すみません宮本さん」
「うーん、室内だしちょっとねえ」
「え、外ならできるんですか!?」
「ムエタイとは一体……うごご」
しばらく会食はなごやかに続いたが、一太郎達は奇妙な事に気付いた。石沢の食欲が異常に旺盛なのだ。麻婆豆腐を食べ始めてから会話に参加していないし、運ばれてきた大皿を奪い取るように受け取り、一人でガツガツと平らげてしまう。石沢はこんな非常識な事をするような男ではない。
「啓太はさっきからどうしたんだ? 腹の調子でも悪いのか? いや良すぎるのか。俺らの分も残してくれよ」
「石沢さん、大丈夫ですか?」
「石沢君?」
石沢は一太郎達の声に返事をせず、餓鬼にでも取り憑かれたように無我夢中で水餃子を貪っている。肩を強めに叩いても反応しない。異様だった。
「店員さん、いや救急車を呼んだ方がいいんじゃないかな」
「食い過ぎで救急車とか大げさな。啓太、おい啓太、そのへんにしとけ、カービーじゃねンだぞ。おい、おい!」
未弧蔵が石沢の手を掴んで食べるのを止めさせようとしたが、石沢は口だけでバンバンジーに食らいつき始めた。その尋常ではない様子に、一太郎はピンと来てしまった。まさか、これはアレの類なのでは。
一太郎は前回の事件で学習していた。怪しいものがあったらまず透視。泥棒集団のリーダーも言っている。凝を怠るな、と。
一太郎が眼に意識を集中し、石沢を透視すると、腹の中に奇妙な陰が黒々と視えた。その陰だけ禍々しいオーラを纏っている。石沢が食べたものどころか、石沢の体すら奇妙な陰が吸い込んでいく。そこで初めて一太郎は石沢の下半身が無くなっている事に気付いた。陰は食事と共にバリボリと音を立てながら石沢の体を「食べて」いく。葵は1、1まで押した携帯電話を取り落とした。
「な、なにこれ」
「待て待て待て待て待てやめろやめろ! こいつぁまたアレの類か!? 八坂、どうすりゃいいんだこれ!」
「何かが石沢さんの体に取り憑いてる。し、塩? で除霊とか?」
「よくわからないけど塩ね! 石沢君ごめん!」
未弧蔵に抑えられた石沢に、葵が食卓塩をぶちまける。しかし効果はなかった。
呆然とする三人の前で、石沢の体はどんどん内側へめりこんでいく。上半身だけになり、テーブルに乗って散乱した料理を貪っていた石沢の体はあっという間に歯を剥き出しにした口だけになってしまった。
「もっと、食べたい」
その口が石沢の声で小さく呟く。葵は口の化物と化した旧友の声を聞いてふっと気を失った。
口の化物は抑える者をなくして呆然としていた未弧蔵に飛びかかった。友好のハグとはとても思えない醜悪な動きだったが、未弧蔵は反応できない。一太郎が何かする間もなく、口の化物は未弧蔵に触れ、途端に煙のように消えてしまった。
「な、なんだァ?」
「…………」
口の化物が触れたあたりを気持ち悪そうにべたべた触る未弧蔵。服をめくっても、何も跡はない。しかし一太郎の眼には視えていた。未弧蔵の腹の中の黒い陰を……
騒ぎを聞いて顔を出した店員に部屋を散らかした事を上の空で謝り、料金を多めに払い、一太郎は気絶したままの葵を背負って店の外に出た。
質の悪い白昼夢をみたようだった。しかしそれが夢ではない証拠に、石沢は消え、未弧蔵の腹には黒い陰ができた。
二人は無言のまま八坂屋敷まで戻り、葵を居間のソファに寝かせた。一太郎が椅子に座り、足を組んで考え込んでいる間に、未弧蔵が紅茶を三人分淹れてきた。紅茶の匂いに誘われたのか、ようやく葵が起きる。
「ん……あれ、ここは?」
「俺の屋敷です。気絶していたのでとりあえず運ばせてもらいました。あの状況で救急車を呼ぶと話がこじれそうだったので」
「……ああ。じゃあ、あれは夢じゃなかったんだ」
「残念ながら」
葵は頭を抱えた。
「どういう事なの。訳がわからないよ」
「まあまあこれでも飲んで落ち着いて」
「あ、ありがとう。根津君と八坂君は落ち着いてるね?」
「実はこういうのに巻き込まれるのは二度目なんですよ。宮本さんよりは耐性あると思います」
「……ひょっとして、二人とも実は陰陽師とかだったりするの?」
ちょっと期待を込めて聞いた葵は、二人が首を横に振るのを見て落胆した。
「そんなに都合よくはいかないよね。前の事件ってどんなのだったのって聞いていい?」
「悪霊退治でしたね。割と物理で解決したので今回の事件にはあんまり役立ちそうにないです」
「そっか」
一太郎はその悪霊は今三人がいる屋敷に取り憑いていたとは言わなかった。知らぬが仏である。
「その顔の火傷の跡もその時に?」
「いえ、これは子供の頃の火事です」
「ご、ごめん」
「構いません。さて、そろそろ本題に入りましょうか……根津」
一太郎がためらいがちに未弧蔵に目を向けると、未弧蔵はティーカップを片手に肩を竦めた。
「さっきからチラチラ俺の腹見てるのと関係あんだろ? いいよ、言えよ。大体察しはついてるぜ」
「あ、そう? 根津の腹に石沢さんを食い殺した化物が取り付いてるから早いところどうにかしないと死にそう。対策練ろう」
「さらっと爆弾発言を。根津君ティーカップ置いた方がいいよ。震え過ぎてこぼれてる」
「ち、ちげえし、局地型地震が起きてるだけだし」
「局地的過ぎるだろ」
根津が深呼吸して落ち着いている間に、葵が聞く。
「気になってたんだけど、八坂君ってオカルト詳しいの? 取り憑いてるとか、断定的な言い方してたけど」
「あー……俺は、こう、オカルト的なモノが視える魔眼のようなのを持ってるんですよ。「透視」って言うんですけど」
「やっぱり陰陽師じゃないですか(歓喜)」
「視えるだけでお祓いは無理です」
「救いはないんですか(絶望)」
「悪霊の時と同じ方法が通用するなら物理的に攻撃して除霊すればいいと思いますが、今回は腹の中にいるので。腹の中の化物を内臓と一緒にぶち抜いたら未弧蔵も昇天します」
「楽しそうだなお前ら。俺は死にそうだよ」
「復帰早いな、もういいのか」
「よくないけどいい。早いとこ動かないとヤベーんだろ? 俺ァあんな死に方はゴメンだぜ」
既に死にそうな顔で言う未弧蔵に頷き、一太郎は作戦会議を始めた。
「OK、まず目標設定から。未弧蔵の中の化物を追い出すか、殺すか、無力化するか、とにかく未弧蔵の命の危機を救う。これは良いか」
「是非もなし」
「良いと思う」
「よし。次。やっぱり俺は原因を探るべきだと思う。実は石沢さんが死ぬ前に、俺は石沢さんから『今追ってる仕事の件で医学的な意見を聞かせてもらいたい』と言われている。その化物は石沢さんが追ってる件と何か関係があるんじゃないだろうか」
「調べちゃマズいところまで調べて取り憑かれたのか?」
「それなら触らぬ神に祟りなしっていうし、あまり触れない方が……もう祟られてたね。そうだね、石沢君の最近追ってた仕事について探りを入れてみた方がいいね」
「宮本さんは啓太から何か聞いてないんすか?」
「や、私も石沢君には今日久しぶりにあったから、そういう話は聞いてないんだよ。ごめんね」
「勤め先に問い合わせて……いや石沢さんフリーだった。勤め先無いわ」
「石沢君の家に行ってみるしか無いかな。そこなら仕事の資料とか置いてあるだろうし。あ、でも私石沢君の今の住所知らない」
「そういえば俺も知らないな」
「俺、啓太の名刺持ってるぜ」
「ナイス根津君!」
三人は善は急げと石沢の家へ向かう事にした。インターネットで石沢の家までのルートを調べて印刷し、一太郎は若葉マーク付の中古の軽自動車に二人を乗せる。
発車前に、未弧蔵がふと思って言った。
「言うて宮本さんは俺たちに付き合わなくてもええんやで? この先は命の危険が危ないから。俺はなんとかしないとおっ死ぬくさいから事件に首突っ込むしかないし、八坂はアレがアレだからアレだけども」
「アレってなんだ。まあ協力はするが」
「私も協力するよ。乗りかかった船だし、石沢君の敵は取りたいしね」
「あざす!」
助手席に座った未弧蔵が地図を見ながらナビゲートし、それを聞きながら一太郎がぎこちない運転で三十分ほど車を走らせると、石沢が暮らしている住宅街の安アパートに着いた。
着いたところで、葵が重要な事に気付いた。
「あのさ、私たち石沢君の部屋の鍵持ってないよね?」
「え、根津が合鍵持ってるんじゃあ」
「持ってないんだな、これが」
「アカン」
車内になんとも言えない空気が漂う。三人揃ってやっちまった感でため息しか出ない。仮にも大人が三人集まってこのザマである。
とりあえず路肩に車を停め、また作戦会議を始める。
「これは仕方ないな。根津、やっちまえ」
「よしきた、俺の針金が火を吹くぜ」
「えっ、もしかしてピッキングするつもり? 待って待って、まずは正攻法で行こ? 大家さんに事情を……説明できないからボカして言いくるめて鍵を借りるとか」
「大家さん! そういうのもあるのか」
「そういうのしかないよ。普通なら。なんでダーティーな最終手段を真っ先に思いつくかな」
「日頃の行いが良いからじゃないすかね」
「んん? あれっ、何か根本的に破綻してるセリフが」
「話逸れてる逸れてる。とりあえずこのアパートの大家さんに鍵を貸してもらいに行く、と。全員大家さんとは面識ないよな」
「無いね」
「あるわけ無いんだよなあ」
「それだと常識的に考えて鍵を貸してもらえるわけがないと思う。石沢さんからの紹介状も無いし、家族でも無いし。見ず知らずに人間が来て石沢さんの知り合いです鍵貸して下さいって言って貸すような管理ガバガバな大家って可能性に賭けるのはキツい」
「正論だね。うーん、石沢君と連絡がつかないから心配になって、もしかして家の中で倒れてるかも知れないから中に入らせてくれませんか、って頼むとか」
「それ大家さん同行するんじゃね? けっこー時間かけて部屋の中の資料荒らす予定なんだぜ、俺達。見張られてたら紙一枚パクるのにも気ぃ遣う」
「さっきから根津君のセリフがナチュラルに泥まみれなんだけど」
「見逃してやって下さい、根は悪い奴じゃないんですよ。名前からして義賊的な感じですし」
「だれがネズミ小僧だ、お前なんて日本語ワープロソフトじゃねぇか」
「あ?」
「お?」
「ちょっと二人とも落ち着いて。握り潰すよ?」
「ごめんなさい」
「サーセン」
それからしばらくあーでもないこーでもないと話し合っていたが、途中から未弧蔵の口数が少なくなっていった。
警察に相談するという手を再検討していた葵と一太郎がふと気付くと、未弧蔵がうつろな目で運転席のヘッドレストに齧り付いていた。葵はその異常な食癖に目の当たりにした途端、石沢の最後がフラッシュバックした。
「ね、根津君? 冗談やめてよね、そういうの笑えないよ?」
「…………」
根津が緩慢な動作で葵に顔を向ける。ヘッドレストのカバーと詰め物の切れ端が歯に挟まっていた。硬いカバーを無理に喰いちぎったため、歯茎から血が出ている。明らかに正気ではない。
「おい根津! しっかりしろ!」
一太郎はまさか未弧蔵も石沢のように死ぬのかと焦り、肩を揺さぶった。幸い未弧蔵はすぐに我に帰った。ぶるぶると頭を振るい、ぼんやりと一太郎を見て、はっとして口に手を当て、吐きそうな顔をした。
「やっべぇ……! 無意識だった。これ時間かけるとヤバいやつだ」
「そんなにか」
「ああ、今はたまたま目の前にあったのがヘッドレストだったからそれ食ったけど、ナイフがあったら絶対それ丸呑みにしてたわ」
葵は未弧蔵がナイフを飲み込み、喉から血を噴き出す光景を想像してしまい、顔色を悪くした。
「これは手段選んでる場合じゃないね」
「選べるなら選んだ方がいいですけどね。この事件解決した後に手段選ばなかったせいで警察に捕まったらアレなので」
「死ぬよか豚箱行きの方がいいわ」
「そうだね。急ごう」
意見は幾つか出ていたので、三人は手早く計画をまとめた。
一太郎がまず一人で大家に鍵を借りるために交渉をし、失敗したら葵と未弧蔵にこっそり連絡し、そのまま大家をその場に釘付けにする。
葵と未弧蔵は石沢の部屋の近くで待機しておき、一太郎が正攻法で鍵を借りられたらそれでよし。借りられなかったらアパートの二階の石沢の部屋にピッキングで侵入し、二人で手分けして手早く目星い資料を「借りて」撤収する。
残りの細かい部分はアドリブだ。
二人を車内で待たせ、アパートの一階の管理人室を訪ねた一太郎だが、案の定というべきか、のんびりした雰囲気の初老の大家は鍵を貸してくれなかった。
「連絡がつかないとおっしゃいますが、仕事で携帯の電源を切っているだけでは? 私は今朝部屋を出る石沢さんにお会いして挨拶しましたし、記者の方ですから、二、三日家に帰らない事はよくありますよ。私としても八坂さんが本当に彼の知人か判断しかねるわけでして、申し訳ありませんが、家族の方ならまだしも、ご友人に簡単に部屋の鍵をお貸しするわけにはいかんのですよ。ほら、防犯上の理由で。なにそろ昨今は色々と物騒でしょう? 二、三日経って、まだ連絡がつかないようでしたらまたおいで下さい。まあ心配いらないと思いますがね。石沢さんは恨みを買うような記事を書く方じゃあありませんですし、妙な事件に巻き込まれたなんて事もないでしょう」
大家のもっともな言葉にグウの音も出なかった。本当は正に妙な事件に巻き込まれて怪死したのだが、まさかそれを言う訳にもいかない。
そもそも顔面に大火傷の跡がある恐ろしげな顔の二十歳の男が口八丁を試みる時点で無理があったのだ。早々に説得を諦め、ポケットの中でこっそり携帯を弄り、ワンコールで切る。
「そうですよね。無理を言ってすみません。石沢さんからこの時間帯になったら部屋で待っていてくれと言われたもので(大嘘)、何かあったんじゃないかと。石沢さんは自分から取り付けた待ち合わせの約束を守らない人ではありませんし」
「それはそれは……よろしければ帰って来たらこちらから連絡をし」
「いやー、実は私けっこう遠方から来て、帰るの大変なんですよね。石沢さんが泊めてくれるものだとばかり思っていたので金もあまり持ってきてないですし。石沢さんが戻るまでここで待たせてもらっていいですかね?」
被せ気味に図々しく言うと、大家の笑顔が少し引き攣った。ここからは怒りを買ってたたき出されない程度にできるだけゴネて時間を引き伸ばすのが一太郎の仕事だ。
「申し訳ありませんが、私も予定が入っていまして」
「あ、そうなんですか」
「はい、ですから」
「じゃあ一人で待ってますね」
意識して物分りも悪い風を装いながら、大家の顔色を伺う。相手の感情を読みながら会話した方が話の主導権を握りやすいため、「透視」を使ったのだが――――
ちょうどその時、天井のあたりからガタン、と大きな音がした。管理人室の真上は石沢の部屋である。そこから今音がするとなると、原因は葵と未弧蔵しかいない。大家も音に気付き、上を見上げた。
大家に様子を見に行かれたら一巻の終わりだ。焦った一太郎は集中を乱し、「透視」の制御に失敗する。が、今まで数え切れないほど「透視」を使ってきて、特に最近は意識的に制御の訓練を始めていたため、なんとかリカバリーをしようとした。
それが良くなかった。
眼球の中で乱れた魔力(MP)が半端に調整された結果、悪い方向に整えられてしまい、一太郎の目に激痛が走り、血の涙が流れ出した。
「ああー! 目が、目がぁ~!」
突然目から血を流して苦しみ出した一太郎に、大家の意識が強制的に引き戻された。
「ど、どうされました!? 大丈夫ですか、今救急車を!」
大家は血を見るやすぐに救急車を呼ぼうとした。一太郎は激痛に耐えながら、素早く頭を働かせ、一計を案じた。
「いえ、待ってください、大丈夫です、救急車は要りません。持病なんです」
「え? 持病、ですか」
「はい、先天性眼窩過敏症と言いまして、時々眼球の血流が活発になりすぎ、毛細血管が決裂して出血するんです。水晶体やガラス体が傷つくわけではありませんし、内出血も起こさないので後遺症もありません。お騒がせして申し訳ありません、いつも急に来るもので」
「そ、そうですか。いや、驚きました。本当に救急車は要りませんか」
「はい、大丈夫です。すみません」
嘘八百の病名をでっち上げてそれらしい事を並べ立てると、思った通り、大家はまんまと騙された。
実際、感覚的にだが、血の涙は魔術の暴走による一過性のものだという確信があった。一、二時間もあれば自然に治るだろう。救急車を呼ぶ必要がないのは事実だ。
一太郎はまだ心配そうにしている大家の親切心につけ込み、更に言った。
「ただ、収まるまでしばらく目が見えなくなるので、休ませてもらってもいいでしょうか」
「ええ、もちろん構いませんよ」
「あと、恐縮ですが、できれば目を温めるために蒸しタオルがあれば……」
「蒸しタオルですか。少し時間がかかりますが」
「お願いします」
「はい。では、そうですね、十分ほどそこの椅子にでもかけてお待ちください」
「すみません」
「いえいえ。病気は仕方ありませんよ。私も半年ほど前に腰をやった時は周りの方に迷惑をかけてしまったものです」
そう言って、大家は台所に湯を沸かしに行った。
一太郎は椅子に座り、ほっと息を吐いた。思わぬハプニングがあったが、結果オーライだ。大家もまさか目の見えない病人を置いて出て行ったりはしないだろう。しばらくは足止めできる。後は二人が首尾よく手がかりを見つける事を祈るのみだ。
車内で一太郎からのコールを受けた葵は、未弧蔵と一緒に足音を忍ばせてアパートの石沢の部屋の前まで移動した。
「見張りたのんます。誰か来たら合図下さい」
「あ、うん……なんだか凄く悪い事してる気分」
葵が背後でカチャカチャと音がするのを極力聞かないようにしながら二、三分表通りを見張っていると、軽い音の後、扉が開く音がした。
「よし。さっと入って下さい」
妙に手馴れた感のある未弧蔵と違い、誰かに見つからないか気が気でなかった葵は急いで部屋に入り、その時に傘立てに足を引っ掛けてしまった。
ガタン、と大きな音がして、二人の息と動きが止まる。耳を澄ませて階下の様子を探ると、何故か一太郎の悲鳴が聞こえた後、静かになった。数分待つが、二階に誰かが上がってくる足音はしない。
「八坂が上手く誤魔化したっぽいな。セーフセーフ」
「ごめん、私完全に足手まといだよね」
「ま、最初の不法侵入なら誰でもこんなモンすよ。気持ち切り替えて金目の、じゃねぇや、啓太の調査資料探して下さいよ。タイムリミットは一、二時間てとこすかね。出る時は窓からコソコソとかより玄関から堂々と出た方がむしろ安全なんでそんな感じで」
「根津君が慣れすぎてて怖い」
二人は石沢の部屋を手分けして探し始めた。
石沢の部屋には特に不審な点はなかった。すっきりと片付けられており、カメラや旅行かばん、プリンターなど、荷物は多いものの清潔感のある部屋である。
葵は項目や事件別に整理された資料棚から、最近使われた形跡のある資料を抜き出して調べ、未弧蔵は仕事机に置いてあった最新式のノートパソコンをまるで自分のものであるかのようにためらいなく起動して中のファイルを漁りだした。
未弧蔵は、さして時間をかける事もなく、石沢が最近「韮崎(にらさき)孝江」という人物について調べていた事を突き止めた。インターネットのお気に入りに最近登録されたのは一様に韮崎に摂食障害のカウンセリングを受けた相談者のブログで、どのブログも韮崎のカウンセリング効果を絶賛する内容ばかりだった。長時間活字を読んでいると頭痛がしてくる未弧蔵は、後で一太郎に見せるために全てのブログのキャッシュを一つのファイルに纒め、仕事机の横のレターケースに入っていたUSBメモリに保存した。
石沢は特に調査を秘匿するつもりも無かったらしく、デスクトップに「韮崎孝江」という分かりやすいファイルがあったため、それもUSBに移した。
目ぼしい情報をサルベージした未弧蔵は、そのまま流れるようにエロフォルダを探し始めた。何の変哲もないタイトルの割に妙にサイズが大きいファイル目ざとく見つけて開いていき、あっさりと目的のフォルダにたどり着く。ストーリー重視の純愛ものばかりのラインナップを見て未弧蔵は優しい気持ちになり、そんな石沢の非業の死を思い出し深い悲しみに包まれた。
葵は幾つかの資料を流し読みしている内に、摂食障害についての資料が多い事に気付いた。摂食障害に関する数冊の専門書や、摂食障害に関する新聞や雑誌の記事を切り抜いたものなどである。
摂食障害は「拒食症」と「過食症」の二つの症状に分けられる病で、若い女性によく見られる。ひらたく言えば「食欲が全くわかない」と「食欲がありすぎる」である。摂食障害の患者は精神的に不安定になり、様々な精神疾患を併発する事がある。幼い頃からスポーツに親しみ、心身ともに健康な毎日を送ってきた葵には無縁の病だったが、同年代の友人がよく「間食が止められない」と言っていたり、姉が「毎月月末は金も食欲も減る」とか言っていたのを思い出し、あれも摂食障害の一種なのかな、と思った。それが極端に酷くなったのが摂食障害なのだろう。
「そろそろ撤収しますか」
何故かしんみりした雰囲気でパソコンをシャットダウンした未弧蔵が葵に声をかけた。葵は手に持った資料と専門書を持っていくか迷ったが、未弧蔵は置いていくように言った。
「意外だね。根津君ならいいから全部持ってけー、って言うかと」
「そりゃあとあと啓太の失踪が表沙汰になって警察がガサ入れした時に調査資料がゴソッと無くなってるのバレたら足がつくかも知れねーから。指紋残してる時点で手遅れ感あるけど一応な」
「あ、はい」
一周回って変な敬意にも似た信頼を抱き始めた葵を連れ、未弧蔵はUSBを持って後腐れなく石沢の部屋を後にした。
無事車で合流した三人は八坂屋敷に戻り、居間のテーブルを囲んで成果を報告しあった。
「お前何もそんなに体張って足止めしなくても」
「わざと捨て身になるわけないだろ。不可抗力、怪我の功名だ。そっちは収穫あったんだろうな」
「もち」
未弧蔵がドヤ顔で投げたUSBをキャッチし、一太郎は自分のノートパソコンを持ってきて接続した。一時間ほどかけて中身を検め、眉根を寄せて首を傾げる。
「これは何か……なあ。話半分で読んでも釈然としない点がある」
「あ、まだ話してなかったけど、石沢君の資料棚に摂食障害の資料がごっそり置いてあったよ」
手持ち無沙汰に未弧蔵が入れたほうじ茶を啜っていた葵は、記憶していた専門書のタイトルを挙げた。大学図書館の医学区画によく足を運ぶ一太郎にはすぐにピンと来た。
「ああ、なるほど。石沢さんが俺に意見を求める訳だ」
「おい、一人で納得してないで分かるように説明してくれよ」
不満顔の未弧蔵とリラックスしてぼんやりしている葵に、一太郎は専門用語を噛み砕いて説明した。
摂食障害とは、食べ過ぎ、食べなさすぎ、という症状が出る病気だが、通常、これは簡単に治るものではない。時間をかけたカウンセリングや投薬で少しずつ改善していくものである。にも関わらず、韮崎のブログを読んだ限りでは、韮崎のカウンセリング療法はたった数時間で効果が現れるという即効性に加え、既存の治療のどれよりも効果が高いという。
常識的に考えて有り得ない。となると、常識的ではないモノが絡んでいると考えるのは、非常識なモノに触れた経験のある三人にとっては不自然ではないように思えた。
とはいえ早とちりの可能性も捨てきれない。例え捜査線上に浮かび上がった人物であっても、セルフミスリードに嵌っている可能性はある。
「なんか画期的な治療法を開発したとか?」
「かも知れない。だから石沢さんは最近発刊された専門書を読んだり俺に意見を聞きたがったりしたんだろう」
「なるほど。それで実際どうなの? 最近摂食障害についてそういう発見あったりしたの?」
「記憶にはない……けど理学部は医学部ほどそっちにアンテナ張ってないから断言できないな。知り合いの教授に聞いてみるか」
一太郎は一度席を外し、大学の医学講習会で知り合ったルーカス・ネルソン客員教授に電話した。幸い、ネルソン教授にはすぐに繋がった。
「はい、ネルソンです」
「こんにちは、理学部二年の八坂です。少しお聞きしたい事があるのですが、お時間はよろしいでしょうか」
「八坂君か。うむ、そうだな、三十分程度なら構わないよ」
「ありがとうございます。さっそくですが、韮崎孝江、という人物の最近の医学的業績についてご存知ありませんか?」
「韮崎孝江……? いや、知らないな。少なくともここ四十年ほどの間にアメリカか日本の学会で認められた医学的業績を挙げた人ではないはずだね」
「そうですか。ありがとうございます。聞きたい事はそれだけです」
「その人がどうかしたのかな?」
「いえ、どうも民間医療をしている人らしいのですが、知り合いが絶賛していたので気になりまして」
「そうかね? まあ、また何か知りたい事があればいつでも聞きなさい。もちろん、研究室に来ても歓迎しよう」
「はい、お言葉に甘えさせていただきます。では今日はこれで失礼します」
一太郎は電話を切って二人のところへ戻り、ネルソン教授の言葉を繰り返す。
「真っ黒じゃねーか。もうそいつ犯人でよくね? 怪しげな方法で悪どい商売してて、啓太に嗅ぎつけられたから怪物を操って足の残らない方法で始末させた。筋は通ってるぜ」
「個人的に研究して何か凄い治療法を見つけたって事は無いのかな」
「いや、在野の自己流研究で大発見ができるほど今の医学界はユルくない。百年ぐらい前ならそういう事もあったかも知れないが、もうそういう時代は過ぎた」
「んじゃ決まりだな。処す? 処す?」
「……いや、魚流田の時と違って今度の相手は人間だからな。たぶん。殺したら今度は俺達が犯罪者だ。そこのところを上手くやらないといけない。それに韮崎のバックに誰かいてそいつが真犯人かも知れないし、韮崎が無自覚に事を起こしている可能性もある」
「殺るかどうかはとにかくとりあえず突っ込んでみればいんじゃね。捜査というのは決め付けてかかり、間違っていたら「ごめんなさい」でいいんだよ」
「それは頭良い人だけが使っていい台詞だから。でもまあ、そうだな。韮崎に一度接触してみるのは良い手だ。実際に会ってみない事には人物像もはっきり見えて来ない」
「おっ、八坂の魔眼が火を吹くのか? 血ぃ吹かなきゃいいんだけどな」
「根津も腹の中の口の化物が暴れなければいいんだけどな」
「思い出させんなよ……」
とにかく一度韮崎に会い、様子を伺ってから、という事になった。
しかし問題はどうやって会うかである。韮崎の身辺を嗅ぎまわった石沢は怪物に殺され、近くにいた未弧蔵までとばっちりを受けた。石沢のアパートを訪ねた時のようなガバガバな作戦で行けば怪しまれ、始末されるだろう。
「私が患者のフリして行こうか? 摂食障害は若い女性に多いんだよね? 私なら怪しまれずに会えると思うけど」
「いやでも宮本さんめっちゃ健康そうですやん。摂食障害って感じじゃねーよ」
「顔に大火傷の跡がある男と腹に一物抱えたチャラチャラした男よりはいいんじゃないか」
「それな」
「真面目な話、韮崎が専門的な医療を学んでいない人間なら、宮本さんに摂食障害の特徴が見えなくても気付かない可能性は高いと思う」
「気付かなかったら黒、気付いたら灰色ぐらいかな」
「そうですね」
話がまとまる頃には日が暮れて夜になっていた。
未弧蔵の中に潜む怪物の事を考えればすぐにでも韮崎に会って見極めた方がいい。万が一韮崎がシロだった場合、捜査は振り出しに戻る。そうなった時、事件解決まで未弧蔵が生きていられるか分からない。
が、夜になってから押しかけてすぐにでもカウンセリングをして欲しい、というのは些か以上に非常識である。急ぎすぎて怪しまれて失敗すれば元も子もない。動くのは明日という事になった。葵が患者のブログに不用意にも貼ってあった韮崎のメールアドレスに「噂を聞きました、是非韮崎先生のカウンセリングを受けたいです」という旨の内容を送り、後は返信待ちである。
一太郎は帰り支度をする葵に声をかけた。
「家は近いんですか?」
「や、割と遠いんだよね。電車で一時間ぐらいかな」
「なんだったら泊まってきますか? 部屋は空いてますよ」
「それは……うーん」
「部屋は全部内側から二重に鍵かけられるようになっているので」
「そうなの? ……なんでそんなに厳重なの?」
「色々あるんです」
未弧蔵が怪しい人間を頻繁に連れ込むからである。
「じゃあ甘えさせてもらおうかな。あ、シャワー借りていい?」
「どうぞ。二階の階段上がったところです」
「ありがと」
宮本は手を振って部屋を出る。階段を上がる足音が聞こえて十分ほどした後、壁の中の配管を水が流れる音がしはじめた。
「よし! 覗くか!」
「させないからな」
爽やかな笑顔で立ち上がりゲスな発言をした未弧蔵を一太郎が止め、口喧嘩をしている内に夜はふけていった。
翌朝、一太郎が起床し、昨晩の残り物でもつまもうかとキッチンへ行くと、開け放たれた冷蔵庫の前で未弧蔵が寝ていた。
床には食材の残骸が散乱し、その上で未弧蔵が異様に膨れた腹を抱えてうなされている。一太郎は未弧蔵が夜の間にまた例の症状を発症した事を知り、目を離した事を悔やんだ。ベッドに縛り付けておくべきだったのだ。深く反省した一太郎は、未弧蔵の膨らんだ腹に優しく労わるように氷水をぶっかけた。
「ファッ!?」
「おはよう。気分はどうだ」
「どうって、あれなんかこれ気っ持ち悪うげろおろろろろろろ」
未弧蔵が盛大に吐きはじめたのを置いて、一太郎はそっと二階に葵を起こしに行った。
居間に三人が揃ったのは八時頃だった。未弧蔵はげっそりした顔で胃薬を水で無理やり流し込んでいる。
「さて。宮本さん、返信来てます?」
「ちょっと待って……あ、来てる。レスポンス早いね。暇なのか経営熱心なのか」
葵がメールフォルダを確認すると、韮崎からの返信が届いていた。一太郎も横から覗いて読んだが、至って普通の丁寧な文体で、魚流田の日記のような滲み出る狂気の気配はなかった。
「午後三時に……この住所なら車で四十分ぐらいか。送ってきますよ。近くで待機するので危なくなったら呼んで下さい。急行します」
「ありがとう、頼りにしてるよ本当に。猛獣ならとにかく幽霊系は私の手には負えないから」
「猛獣ならぶっ殺せる、と。女死力高過ぎィ! さっすがスチール缶ボールにできる人は言うこと違うな」
「……そういえば二人共大学とか仕事は大丈夫なの? 私は融通効くからいいけど」
「あからさまに話そらしに来た。いやらしい。あ、俺は元々休み多いんで全然オッケー」
「他の大学がどうか知りませんけど、ウチの大学は土曜日休みなんですよ。昨日は全休でした」
「てかさぁ、話もどすけどやっぱ八坂は宮本さんと一緒に韮崎に会った方がいんじゃね? うだうだやってないでサクッと魔眼サーチで怪しいところないか調べてくれよ」
「いや、女性一人って事でアポとったのに顔面大火傷の野郎がセットでサービスされたら警戒されるだろ」
「八坂君は心配してついて来た彼氏って事にしようか?」
「え?」
「何驚いてるの。もちろんフリだからね」
「宮本×八坂。美女と野獣先輩だよな。たまげたなぁ」
「……フリとはいえ彼女ができるのは初めてです」
「それは……そうなんだ」
「おいやめろこんなトコで泣かせに来んな」
「泣かせに行ったつもりはないんだけどな。しかしそうなると根津が一人になるな。根津は目を離すと不味そうだ。どこかに縛り付けとくか」
「いっそ全員で行かね?」
「彼氏が二人になるぞ。逆ハーレムか」
「それな。宮本さんビッチ化待ったなし」
「いや待ったあるよ。二人とも来るなら家族でいいでしょ」
「カウンセリングに二人同伴とかすんげー過保護な家族やな。あ、八坂は見た目貧弱貧弱ゥなもやしだから患者のフリいけるだろ。宮本さんに誘われたとか理由つけてさ」
「じゃあ根津君は?」
「俺は二人にしれっと混ざるんで大丈夫っす」
「割と無茶言ってるのに謎の説得力。いける(確信)」
計画を練ったり買い出しにいったりしている内に時間は過ぎ、午後二時になった。三人は車に乗り、一太郎の運転で韮崎の住所へ向かった。
韮崎の家は、住宅街にある普通のマンションの一室だった。一応マンションの外から一太郎が「透視」を使ってみたものの、妙な気配はない。ただし、「透視」は布程度ならまだしも壁を突き抜けて様子を探る事はできないので、マンションの外壁に異常がなくても、室内に何かがあるという事は十分考えられる。
「とりあえず異常なし」
「マンションが変形して襲ってくるみたいな最悪のパターンは無さそうでよかったぜ」
「なにそれこわい」
軽口を叩きながら韮崎の部屋の前まで行き、玄関のチャイムを鳴らすと、すぐにインターホンから女性の声がした。
『あらいらっしゃい、予約されていた宮も……後ろの方は?』
「すみません、彼は私の友人の八坂というのですが、韮崎先生のカウンセリングの予約が取れたと話したら自分もどうしてもと言って聞かなくて。八坂君はもう何年も摂食障害で苦しんでいまして、今日は見学だけでもと」
『そうでしたか。そういう事でしたら構いませんよ。その隣の方は?』
「あ、俺は付き添いできた葵の彼氏の根津っす。噂の美人カウンセラーに葵が寝取られないか心配で心配で」
「え?」
「え?」
『え?』
一太郎と葵は思わず未弧蔵を振り返った。インターホンの向こうから耳を疑ったような声もした。
「や、やだー、根津君それは言わない約束だったでしょ恥ずかしいなーもー」
一拍置いて葵が挙動不審な棒読みでアドリブをして合わせ、一太郎はインターホンのカメラから死角になるように未弧蔵の足を踏みつけた。未弧蔵のヘラヘラした笑顔が引きつる。
一太郎は作戦の失敗を確信したが、葵の挙動不審さを恥ずかしがっていると捉えたのか、それともあまり突っ込まない方が精神衛生上良いと判断したのか、驚く事に韮崎はドアを開けて三人を迎え入れた。
「お待たせしました。お入りください」
そう言って三人を中に案内する韮崎孝江は、二十代後半か三十代前半ぐらいの知的な女性だった。黒髪は肩にかかるほどで、身長や体格は標準。未弧蔵はお世辞で美人カウンセラーと適当に言ったのだが、嘘から出た真で、芸能人か俳優と名乗っても十分通用するぐらいの美人だった。
韮崎は三人をダイニングキッチンに通すと、椅子をすすめ、ケーキと紅茶を出した。
「カウンセリングと言っても緊張する事はありません。リラックスして、雑談でもするつもりでお話ください。ケーキと紅茶は口当たりの良いカロリーも抑えたものですから、好きなように食べても大丈夫ですよ。根津さんもどうぞ」
最初、韮崎は葵と一太郎にどのような症状があるのか詳しく尋ねてきた。葵は石沢の摂食障害についての資料を読んでいたし、一太郎は医学に造詣が深いため、難なく質問に答え摂食障害を装う事ができた。
二人が問診を受けている間に、未弧蔵はいかにも女性が好みそうな洒落たケーキを遠慮なく食べながら、それとなく部屋全体を観察した。
ダイニングキッチンは女性らしい小物や品の良い調度品、アンティークの食器などがセンスよく置かれている雰囲気の良い部屋だった。誰かを呪い殺すような禍々しい水晶や藁人形は見当たらない。
ただ、一つだけ、テーブルの隅に紫のビロードがかけられた何かが置かれているのが気になった。
「あれってなんなんすか?」
「これ? これは企業秘密だから答えられないわ。ごめんなさいね」
未弧蔵が韮崎に聞くと、韮崎は冗談交じりに答えてはっきりとした事は言わなかった。未弧蔵も答えが得られるとは思っていなかった。
未弧蔵の質問で探るべき場所に目星をつけた一太郎は、ひっそりと「透視」を使った。布程度ならば未弧蔵は見透かす事ができる。切り替わった視界の焦点を合わせると、一太郎の目には布の下に隠されている像が視えた。
それはザラザラした黄土色の砂岩を荒く削って作られた、素朴な石像だった。高さ30cmぐらいの、ずんぐりとした形状をしている。その姿はコウモリとヒキガエルを彷彿とさせるものだが、どちらとも異なり、極めて異質な印象を受けた。いやらしく開かれた口や、でっぷりとした腹からは嫌悪感しか感じられない。そして、かつて魚流田が取り憑いていた屋敷がそうであったように、石像も禍々しいオーラを纏っていた。
親身な態度で葵に語りかけ、カウンセリングをしている韮崎も視てみる。するとそちらには生来のPOWを表すオーラが視えたが、石像のオーラに似た底知れない昏さを持つオーラがうっすらと、しかしまんべんなく入交っていた。
一太郎は石像が全ての原因だと判断した。韮崎が石像によって操られているのか、石像の何かしらのチカラを使った結果汚染されたのかは分からないが、石像と韮崎には何かしらの繋がりがあり、オーラの濃さや人の世ならざる不気味さからして、石像が最も怪しい。
一太郎が怪しい物に対して有効だと経験的に知っている手段は一つだ。
即ち、除霊(物理)である。
「…………」
一太郎は素知らぬ顔でテーブルの下の携帯電話を見ずに操作し、未弧蔵にメールを送った。マナーモードでメールを受け取った未弧蔵は、魚流田退治で手に入れた魔法のナイフに魔力(MP)を込めた。
宙に浮かぶナイフ、というのは極めて非現実的な現象である。魔法のナイフの起動には詠唱も動作も必要ないため、誰が操っているのか、そもそも操る者がいるのか、普通は分からない。テーブルの下からナイフが飛び出してビロードの下の像を攻撃し始めても、未弧蔵が怪しまれる事はない。後になって追求されても、全てはナイフが勝手にやった事なのだ、と知らぬ存ぜぬで押し通せる。
石像を攻撃するためにナイフがテーブルの下でひっそりと浮かんだ次の瞬間、未弧蔵の腹の中のモノが奇妙に脈動した。
未弧蔵の瞳から光が消える。
「がっ!?」
適当に韮崎に話を合わせていた一太郎は、突然下腹部を襲った激しい痛みに悶え、椅子から転がり落ちた。焼かれたような激痛が走る腹を手で抑えると、ぬるりと嫌な感触がした。
腹を見れば、白地に一気に紅い染みを広げるYシャツがあり。
目を上げれば、かつてのように自分にその切っ先を向けて浮遊する魔法のナイフがあり。
まさかと目線を横に向ければ、椅子に座ったまま茫洋とした目で無表情に自分を見る未弧蔵がいた。
一太郎は失策を悟った。未弧蔵の中にいるモノが石像に由来するモノなら、石像の破壊を指をくわえて見ているわけがないのだ。
未弧蔵は腹の中の怪物に操られ、敵に回ってしまった。
「八坂君っ!」
床に転がる一太郎に再び襲いかかったナイフを、葵はティーポッドを載せていたシルバートレイを投げてぶつけて撃墜した。ティーポッドが壁にぶつかって割れ、中身をぶちまける。
葵は八坂を庇うようにして未弧蔵の前に立ちはだかり、肩と両手を上げるムエタイの構えをとった。
「根津君! 何やってるの! 正気!?」
「宮本さん、根津は正気じゃない。操られてるんです。それよりも……」
一太郎は自分の腹から滴る鮮血が、不自然に流れ、重力に逆らってテーブルの足を這い上り、ビロードの下に吸い込まれていくのを目で追った。韮崎を見ると、顔を青ざめさせながらも、そろそろと手をビロードの下へ伸ばしている。異常事態に動揺している反応ではない。
何かするつもりか。止めなければまずい。
しかし既に「何かしている」根津の方が危険度は上だ。
「……いや。根津を先になんとかしましょう。気絶させて下さい、それでナイフは止まります」
「分かった。根津君、ごめん!」
一太郎は失血死しないように、応急手当として薄いテーブルカバーを破って包帯代わりに腹に巻いて止血した。立ち上がるとくらりと目眩がしたが、動けない事はない。
一太郎が止血している間に、葵は未弧蔵を気絶させていた。飛来するナイフの柄を手の甲で払い、未弧蔵の顔面に一発拳を入れ、よろめいたところにみぞおちに強打。それで息をつまらせ失神したのだ。流れるような早業だった。
「さあ、キリキリ吐いてもらいましょうか。あなたは何を企み、何をしたのか。しらばっくれようとしても無駄ですよ。『企業秘密』が勝手に血を吸っていたのは見ていましたから。そんなものを後生大事に持って逃げようとしているのは自白しているようなものです」
「ひっ」
服を斑に赤く染めた一太郎が詰め寄ると、韮崎はビロードに包んだ石像を抱えて怯えて後ずさった。背後には玄関に続くドアがある。葵は素早くドアの前に立ちふさがった。韮崎は半泣き半笑いといった様子で足を震わせている。
「そんなに怯える事はありません。そこにいる未弧蔵の腹の中の怪物を追い出して、二度と私たちに関わらず悪事も働かないと約束すれば警察に突き出したりは――――」
『ウガア・クトゥン・ユフ!』
自分では優しいと思っている笑顔で韮崎を脅していた一太郎は、背後から聞こえた、どんな生き物の鳴き声とも異なる不気味な音声に振り返った。
気絶して仰向けに横たわる未弧蔵の口が、顎が外れるほど大きく開いていた。
未弧蔵の口から黒い液体が大量に溢れ出た。その腐った沼のような悪臭を放つドロリとした液体は、鉱物のような光沢を持っていた。
床に流れ落ちた液体は一つの塊となり、何十本もの短い足を生やして、ヘビのように鎌首を持ち上げた。のっぺりとした黒い塊のてっぺんに、木の杭のような歯を生やした巨大な口が開き、体のあちこちにぎょろりとした目が見開かれた。
立ち上がったその怪物は、未弧蔵の背丈よりも大きかった。こんな巨大なものが、どのようにして未弧蔵の体内に潜んでいたかを考えても、人間の常識では理解できるはずもない。
怪物は物理的に有り得ないような体のつくりをしているにも関わらず、その動きは俊敏だった。そいつは歩くのではなく、倒れると同時に床との接地面に新しい足と頭を作り出し、転がるように移動した。しかし幸いな事に、テーブルや戸棚が動きを邪魔して自由に動き回る事はできないようだった。その代わり、怪物は己の動きを阻害する家具を、巨大な口で噛み砕き、タコのような動きをする触手で容易く押しつぶしていた。
「あ……」
一太郎は放心して怪物を見上げた。よせばいいのに、反射的に「透視」を使ったせいで、目で見るよりも更にはっきりと、怪物の悍ましさ、本能が拒否するようなこの世ならざる異質さが視えてしまった。
動く死体という、ある意味想像の範疇の化物だった魚流田を見た時とは訳が違う。常世の存在とは根本的に異なるそれを認め、理解してしまった一太郎は頭が真っ白になった。
こんな化物に勝てるわけがない――――
一太郎は肉食獣から逃げ出す哀れな小動物の如く、ドアに飛びついて開き、錯乱して意味もない叫び声を上げながら脇目も振らず外へ逃げ出した。玄関から靴も履かずに転がりでて、階段をほとんど飛び降りるようにして駆け下りる。乗ってきた車を使う事すら忘れて、半狂乱でただただ怪物から少しでも距離を離すために走り去った一太郎が周囲の通行人の奇異な目線に気付き我に帰り、現場に戻った時には、全てが終わっていた。
葵は一太郎が開け放っていったドアから韮崎が逃げ出したため、後を追おうとしたが、怪物が立ちふさがったため止まらざるを得なかった。怪物の底なしに昏い、名状しがたい混沌を孕んだ無数の目に凝視され、葵は泣きそうになりながら構えを取った。降参して見逃してくれるとは到底思えなかったし、背後には気絶した未弧蔵がいる。逃げる訳にはいかない。怪物に踏まれたシルバートレイが飴細工のように曲がるのを見て死を覚悟した。
怪物が鞭のように振るった触手を紙一重で躱し、カウンターで強烈なローキックを叩き込む。常人が受ければ両足の骨が一まとめにへし折れるような蹴りを受けて怪物の短い足がぐしゃりと潰れたが、次の瞬間には再生し、何事もなかったように元通りになった。
「なにそれ反則!」
悪臭のする涎を垂らして噛み付いてきた口を避け、今度は目玉に拳を叩き込む。目玉はぶちゅんと気色悪いヘドロのような液体を散らして潰れたが、拳を引き抜いた途端に再生した。まるで効いていない。葵の攻撃は全く効かないのに、怪物の攻撃は当たれば良くて致命傷、悪くて即死。分が悪いどころではない。今はなんとか回避できているが、いつまで保つか。
そう思った直後、葵は足元の家具の残骸に足をとられ、触手の殴打を避けそこねた。
格闘家の習性で、顔面を吹き飛ばす威力の触手が迫っていても、目を瞑って諦めるような事はせず、なんとか首を捻って直撃だけは避けようとする。それは無駄な悪あがきに思えたが、寸でのところで背後から頬を掠めて飛来したナイフが触手を切り飛ばし、九死に一生を得た。
「お は よ う ご ざ い ま す。ギリセーフ!」
未弧蔵が宙に浮くナイフを共に、葵の横に立っていた。鈍痛が残る鳩尾を抑えながら聞く。
「体操られてノックアウトされたとこまでしか覚えて無いんすけど、今どういう状況? なんかスゲー怪物いる」
「アレが根津君の口から出てきて襲われて死にそう。OK?」
「OK! っしゃ! 切り刻んでやるぜ!」
「何度か攻撃してるけどすぐ再生するんだよね。物理攻撃効かないみたい」
「んだよ、またそんなのか! 八坂は!?」
「あ、えーと……発狂して逃げたよ」
「っはぁああああああ!? あいつこれからって時に何やってんの! っとぉ!」
頭をもぐもぐしようとしてきた怪物の噛み付きを横っ飛びに回避した未弧蔵は反撃しようとしたが、柱時計がポッキーのように噛み砕かれるのを見て諦めた。ナイフを腰に戻し、後ずさる。
「こいつぁ無理だ! 逃げたらアカンの!?」
「根津君起きたしもう逃げてもいいけど、出口塞がれてるから窓からしか逃げられないんだ」
「ここ三階だぜ!? 転落死するわ!」
「それに追ってくると思う」
「ですよね! あいつすばしっこいし逃げて振り切る自信ねーよ! やっぱ八坂いねーとだめだ! あいつの解析ないとどうにもなんねぇ!」
「分かった、私が引き付けるから呼んできて」
「いやたぶん俺の方が逃げるの得意なんで宮本さん呼んできて下さいオナシャス! 俺あいつおちょくってるんで。ヘイヘイ怪物ビビってるぅー!(震え声)」
未弧蔵が大声をだして瓦礫を投げつけながら隣の部屋に飛び込むと、怪物はドア枠を破壊しながらそれを追った。玄関への道が空く。葵は怪物の注意を引かないようにそっとダイニングキッチンから出て、怪物の視界の外に出た途端に走り出した。
警察を呼ぶべきか。いや、拳銃が通用するとも思えないし、110番通報して警官が車での数分か十数分の間に皆殺しにされる。マンションの他の住人達に助けを求めても死体が増えるだけだろう。一太郎が車で逃げていない事を祈りながら階段を駆け下りていた葵は、踊り場で蹲る韮崎と遭遇した。石像を抱き抱えるように抱え、息を切らせている。逃げる途中で体力が尽きたらしい。
「韮崎さん、お願いです。あの怪物を止めて下さい! 友人が死にそうなんです!」
ダメ元で韮崎に頼み込んでみたが、やはりダメだった。韮崎は石像を抱えてずるずると後ろに下がり、勝手に踊り場の隅に追い詰められた。
葵は唇を噛んだ。問答している時間が惜しい。ここはやはり一太郎を探しに行くべきか?
躊躇する葵はふと思った。オカルトには媒体がつきものだ。コックリさんは紙と鉛筆が媒体だし、丑の刻参りは釘と藁人形。占いなら水晶。呪術は媒体が無いと成り立たない。
怪物の不死性は、石像が媒体となって成り立っているのでは?
根拠の薄い推測だったが、今は藁にも縋りたかった。
葵が石像を取り上げようとすると、韮崎は抵抗した。二人は揉み合い、その拍子に韮崎の手から石像が滑り落ち、階段を転がって砕け散った。
それを目にして石像が割れる音を聞いた葵は、意識を鷲掴みにされるような得体の知れない感覚と共に白昼夢を見た。
葵は様々な生物の白骨が足元に山を作る、暗い洞窟にいた。骨の山の中央には、破壊された石像に酷似した、ヒキガエルに似た化物が物憂げに何かの肉を貪っている。その化物は見上げるほど巨大で、遠目に見ただけで魂を打ち砕かれるような邪悪さを帯びていた。未弧蔵の口から出てきた怪物よりも更に恐ろしく、凍りついたように体が動かない。立ち向かうどころか、逃げようという気力すら湧かなかった。
化物は葵を眠たげに眺めていたが、やがて興味を失ったように目をそらすと、どこからか裸体の女性をつまみ上げ、ゆっくりと口に運んで丸呑みにした。
あっけなく化物に飲み込まれた女性。それは韮崎孝江その人だった。
葵は凄まじい悲鳴で生々しい白昼夢から現実の世界に戻ってきた。
我に帰った葵は、悲鳴を上げる韮崎の身に変化が起きているのに気付いた。腹の中からヒキガエルの鳴き声のような大きな音が鳴るたびに、手足が枯れ枝のようにしぼんでカサカサになっていき、みるみるやつれていくのだ。
愕然としてそれを見ていた葵は、階上からあの黒い怪物がのっそりと降りてくるのを目にした。その後ろから警戒してついてくる未弧蔵と目が合う。
韮崎は自分に向かってやってきた怪物へ、両手を広げ、歓喜の表情で駆け寄った。
二人が止める間もなく、韮崎はなんと怪物にむしゃぶりついた。驚く事に、怪物はされるがままで、それどころか自ら口の中に入り込んでいくようですらある。
韮崎は自分よりもふた回りも大きな怪物を、数十秒で食べ尽くしてしまった。
老婆のようにやせ衰え、下腹だけを大きく膨らませた餓鬼のような無残な姿になった韮崎は、慄く二人に弱々しく手を伸ばした。
「もっと、食べたい」
それだけ言うと、韮崎はふっと力を失い、倒れた。そのままぴくりとも動かない。
韮崎は死んでいた。
呆然と立ち尽くす二人に、ぜぇはぁと息を荒げながら階段を駆け上がってきた一太郎が合流する。
「な、なん……ぜぇ、何……はぁ、何がどうなったんだ?」
葵と未弧蔵は顔を見合わせ、どこか釈然としないながらも、結果だけを端的に告げた。
「全部終わった。事件は解決だ」
その後、騒ぎを聞きつけたマンションの住人が呼んだ警察によって、三人は事情聴取を受けた。荒らされた韮崎の部屋と、韮崎の死体を前に容疑がかけられるかと思われたが、検死の結果、韮崎の死因はまごう事なき餓死だったため、疑いは晴れた。荒らされた部屋も人間ができるような破壊痕ではなかったため、一通りの事情聴取を受けた後、三人は無事開放された。怪我を負っていた一太郎は、狂乱した韮崎に刺されたのだと言って誤魔化した。死人に口無し。嘘が暴かれる事は無いだろう。
韮崎の死は、摂食障害のカウンセラーが無理なダイエットによって餓死するという皮肉な事件として、新聞の片隅に載るだけであった。
未弧蔵の体内から怪物は消え、元凶と思われる韮崎と石像はこの世から消えたが、多くの謎を残す結果となった。好奇心旺盛な一太郎は、腹の怪我の手術を受け、休学して療養している間に、事件の全容を詳らかにするために調査をした。
まず、私立探偵をしているという葵の姉に依頼して韮崎の経歴を洗ってもらったところ、やはり韮崎孝江にカウンセラーとしての教育を受けた経歴は無い事が分かった。
以前の彼女は重度の摂食障害で、食物を猛烈に食べては嘔吐を繰り返すという症状に悩まされていた、というのが当時の友人の証言である。そんな彼女は、さびれた骨董屋で奇妙な石像を購入した直後から、症状を劇的に改善させ、その後しばらくして、摂食障害に関する相談所を開業した。骨董屋の主人に韮崎が持っていた石像のスケッチを見せたところ、販売したのはそれで間違いないという証言がとれている。
一太郎が断片的な記憶と手がかりを頼りに「エイボンの書」を紐解いたところ、石像は「ツァトゥグァ」という神性を模した像である事が分かった。
数多く存在する悍ましい神性の中では比較的悪意の無い存在であるが、それでも恐ろしい神である事に変わりはない。ツァトゥグァは怠惰と空腹を司るモノとして遥か古代から人間やその他の種族の崇拝を受けてきた。察するに、あの石像はツァトゥグァとの交信を可能とする一種のアーティファクトだったのだろう。
ここからは曖昧な推測に頼る部分が多くなるが、一太郎は、韮崎が石像を通じて異常な食欲をツァトゥグァに吸われていたのだと考えた。人間とは何もかもが異なる存在であるツァトゥグァならば、食欲という半ば概念的なものを吸い取り、貪る事すら可能である。韮崎は故意にか無意識にか、自分とカウンセリングの患者が保つ異常な食欲を石像を通してツァトゥグァに捧げる信奉者となっていたのだ。
石沢を襲い、未弧蔵に取り憑いた怪物はツァトゥグァに奉仕する種族で、名前は無いが、「エイボンの書」には仮に「無形の落し子」と書き記されていた。韮崎は自分を嗅ぎ回る石沢に、カラクリがバレたら石像を取り上げられるとでも思ったのだろうか。自分の信者を守るためにツァトゥグァが奉仕種族である無形の落し子を遣わしたのか、韮崎が乞い願い、下賜されたのかは不明である。しかし結果として、無形の落し子が現れ、石沢に取り憑き、始末する結果となった。未弧蔵に乗り移ったのは目撃者を消そうとしたからか。
事件の最後で、葵によって石像は破壊された。神は気まぐれである。交信の媒体を失ったと同時に韮崎への興味も失ったのだろう、自分の信者の精神をあっさりとツァトゥグァは喰らい、発狂した韮崎は無形の落し子によって肉体以外の精髄全てを食い尽くされ、死に至った。
以上が一太郎が纏めた事件の全容である。
韮崎も一柱の神性に振り回された哀れな犠牲者だったと言えなくもない。かといって同情する気にもなれなかったが。人の手には余る存在に手を出したのが悪かったのだ。
今も、昔も、これからも、人智を超えた気まぐれで邪悪な神性、名状し難い存在は、何の変哲もない日常から薄皮一枚を隔てた裏側に潜んでいる――――
――――【八坂 一太郎(20歳)】リザルト
STR8 DEX10 INT18
CON9 APP7 POW19
SIZ14 SAN81 EDU17
耐久力12
所有物:
損傷の激しいエイボンの書(ラテン語版)
コービットの日記
呪文:
透視、空鬼の召喚/従属
技能:
医学 65%、オカルト 25%、生物学 71%、化学 51%、聞き耳 55%、信用 45%、
心理学 55%、精神分析 33%、説得 41%、図書館 85%、目星 85%、薬学 61% 英語 21%
ラテン語 16%、クトゥルフ神話 14%
――――【根津 未弧蔵(22歳)】リザルト
STR12 DEX16 INT9
CON12 APP13 POW11
SIZ13 SAN44 EDU13
耐久力13 db+1d4
所有物:
魔法のダガー……命中率=現在MP×5%、ダメージ=1d6+2、コスト=1ラウンド毎に1MP
技能:
言いくるめ 79%、応急手当 40%、回避 42%、鍵開け 71%、隠す 65%、聞き耳 45%、忍び歩き 50%、目星 55%、いやらしい手つき 52%
跳躍 31%、こぶし 58%、クトゥルフ神話 4%
――――【宮本 葵(21歳)】スタート
STR17 DEX13 INT12
CON10 APP15 POW12
SIZ10 SAN60 EDU16
耐久力10 db+1d4
技能:
応急手当 70%、回避 86%、聞き耳 50%、説得 55%、跳躍 65%、信用 75%、目星 55%、武道:立ち技系(ムエタイ)86%、キック 85%
――――【宮本 葵(21歳)】リザルト
STR17 DEX13 INT12
CON10 APP15 POW12
SIZ10 SAN55 EDU16
耐久力10 db+1d4
技能:
応急手当 70%、回避 86%、聞き耳 50%、説得 55%、跳躍 65%、信用 75%、目星 55%、武道:立ち技系(ムエタイ)86%、キック 85%
精神分析 8%、クトゥルフ神話 5%