何かの呼び声   作:クロル

15 / 16
3-1 いんすますちほー

 

 暴力団谷岡組組長、谷岡豪は一代にして裏社会を駆け上がった傑物である。昭和さながらのツッパリヘアにベージュのスーツに身を包んだ谷岡の眼光は今でこそ睨まれた者のケツの穴を縮み上がらせるが、駆け出しの頃はチンケな当たり屋で糊口を凌ぐサンシタだった。カモにし易い大学生に難癖をつけ、金を巻き上げる日々……その地道な苦労のお陰で今ではこうして黒塗りの高級車を乗り回す事ができるのだ。しかし……

 

 白みはじめた空の下、早朝の海岸線を飛ばしながら谷岡は苦々しげにタバコを冷たい潮風に投げ捨てた。

 ほんの一ヶ月前まで谷岡組は絶好調の波に乗っていた。ケチのつき始めは谷岡組のシマの地所にやってきた怪しげな組合だ。看板も出さなければ、宣伝も打たない。そのクセ寂れた事務所の外観に合わない小綺麗さで人の出入りがそれなり、となれば何かしらの後ろ暗い事をやっているのだろうと想像はつく。

 常駐しているのは女一人。脅してゆすってカモにしてやろう、と送り込んだ下っ端は消息を絶った。追い返されたのでも、殺されたのでもなく、連絡がとれなくなったのだ。

 確認のために送った人手も戻らず、それ以降、組員が次々と不可解な失踪を遂げていった。

 

 これが単なる足抜けや誘拐ならば然るべき落とし前をつけてやるところだが、一連の事件の原因と思われる事務所は谷岡組の調査とカチコミを悉くかわし、どうにもならない。やがて失踪ではなく事務所に恐れをなし脱走する者が出、そんな腰抜け共にケジメをつけさせる余力もないという事が発覚すると、谷岡組は空中分解した。

 組員は四散し、シマは他の組に奪われた。谷岡組はもはや名ばかり、一ヶ月まで人生の絶頂にあった谷岡に残されたのは黒塗りの高級車だけだ。

 

 全く、忌々しい。

 

 谷岡は大きく舌打ちし、海岸線沿いに車を寄せて停めた。車外に出てタバコを吹かし、ガードレールにもたれかかって水平線上に顔を出し始めた朝日を眺める。

 谷岡は何も黄昏るために朝から海岸線ドライブと洒落込んでいるわけではない。谷岡組の解散を良い機会と捉え、再出発するために奔走しているのだ。

 風の噂によれば、この北海道の海岸線沿いにある打権(だけん)村は「海のアブサン」と呼ばれる強い酒を生産しているらしい。海のアブサンは強い中毒性を持ち、飲んだ者に多幸感を与えると共に独特の奇妙な幻覚を見せる。谷岡はこれを仕入れ、売り捌く事で活動資金を作ろうと考えていた。

 海のアブサンは裏社会では知る人ぞ知る実質的脱法ドラッグであるが、唯一の生産地である打権村の住人は非常に排他的で気難しく、安定した販路は確立されていない。

 海のアブサンは高値で捌ける。谷岡には必ず打権村の住人とヤクザ式売買契約を結ぶ自信があった。今は身一つであってもほんの一ヶ月前までは一大勢力を率いたのだ。自信には裏付けがある。

 打権村まであと10kmもない。休憩を終えた谷岡はタバコを投げ捨てて振り返り……

 バァン! という音と共に自分の黒塗りの高級車がキャンピングカーに追突されたのを目の当たりにした。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 森ヤーティはイギリス人の母と日本人の父とのハーフにして、ポケモンセンターのアルバイターである。この日は北海道某所にポケモンGOで図鑑にないポケモンが出現する村があるというオカルト話の真偽を確かめるため、有給をとり遥々キャンピングカーでやってきていた。海岸線にぽつんと立った半ば寂れた標識と手元の地図を見比べ、後部座席を振り返る。

 

「んんwwwもうすぐ打権村に到着ですぞwww」

 

 声をかけると毛布に包まっていた同乗者二人がモソモソと起き出してきた。最初に起きた白髪まじりのもっさり髪の男は、胸ポケットからサングラスを出してかけると、腕時計を見て頭を掻いた。

 

「あれ、昼頃に着くって話だったろ。まだ朝じゃないか」

「休憩なしで走りましたからなwww1時間も対向車に会わないなんて有り得ないwww」

「言ってくれたら交代したぞ」

「佐村河内氏は現地でお仕事ですからなwww役割分担ですぞwww」

 

 佐村河内攻(さむらごうち せめる)はゴーストライターである。小説家として極めて高い実力を持つが、昔編集者と揉めて仕事を干されて以来、名前を伏せゴーストライターとして生計を立てている。今回の旅には北海道の寒村の怪奇譚を調べるために同行している。

 二人の話し声で意識が覚醒してきたのか、丸顔の小男が大きく伸びをして話に割り込んでくる。

 

「ぬわぁああああん寝過ぎたもぉおおおん! ヤーティニキ運転お疲れ~!」

 

 彼の名は久津見岳雄(くつみ がくお)。新進気鋭の靴磨き職人である。若くして天性の才能を遺憾無く発揮し、業界で知らない者はいない隔絶した名声と技能を誇る。嘘か真か、首脳会議での首脳陣の靴磨きを任されているという噂もあるほどだ。しかし性格は気さくで高年収を鼻にかける事はない。久津見は目的地に用事がある訳ではないが、暇だったので二人についてきた。

 三人は都内のオカルト好きの集まりである。地方でのオカルトチックな噂を聞きつけては、金を出し合い調査に赴く。今回もそうした調査旅行だ。

 

 和気あいあいと前日の夜中にコンビニで買っておいた弁当を広げ始める一行だったが、ヤーティが一瞬目を離して缶コーヒーを受け取ったせいで路肩に停まっていた黒塗りの高級車の発見が遅れてしまう。更に疲れからかブレーキとハンドル操作を謝り、キャンピングカーを衝突させてしまった。

 

 全員、時が止まったように固まり、怒れるヤクザ風の男がずかずかと近づいてくるのを見て一斉に青ざめた。

 

「んんwww草も生えないwww」

「生やしてんじゃねーか」

「やべぇよやべぇよ……」

「おいゴルァ! 降りろ! おい免許持ってんのかゴルァ!」

 

 谷岡がむしり取るようにドアを開け恫喝すると全員縮み上がった。震える手でヤーティが出した免許を奪い取り、谷岡は舌打ちする。転落人生で唯一残された愛車に追突された谷岡は怒り心頭だったが、同時に当たり屋時代の打算も働いていた。これを理由にこいつらを上手く使ってやろう、という魂胆だ。谷岡の「にらみつける」に屈した佐村河内と久津見も呆気なく免許証を財布ごと奪われる。

 

「おう舐めてんのかてめぇら。許さねぇぞコラ」

「許して下さいお願いします靴舐めますから!」

「おう舐めろよ……いや舐めすぎだろ離れろ!」

 

 媚びた卑屈な笑顔で靴をむしゃぶりつくように舐めにきた久津見を谷岡はドン引きで蹴飛ばした。ほんの数秒で顔が映るほどピカピカになった靴を見て二度引く。

 妙な間が空いてしまったが、谷岡は気を取り直して言った。

 

「おうとりあえず俺の車についてこい。弁償代わりに働いてもらうぞ。言うこと聞きゃあ通報はしないでおいてやる」

「仕方ありませんなwww分かりましたぞwww」

 

 精神的に普通の人間で、喋り方も普通なヤーティは免停も谷岡も普通に怖かった。

 そんな訳で、三人を乗せたキャンピングカーは黒塗りの高級車の後ろについて打権村に行く事になったのだ。

 

 しばらくして。

 「この先打権村」と書かれた質素の看板を通り過ぎて数分、一行はすぐに打権村は酷く荒廃しているのだという事を知った。海岸線にぽつり、ぽつりと建つ漁師小屋は半ば崩れ掛け、店舗らしい家屋は見当たらず、寒村という事を考慮してもなおあまりにも人通りが無い。数少ない村人も背を丸めてよたよたと歩き、車が近づくのに気付くとひっそり建物の影に消えていく。村も住人も陰気臭く磯臭い。空までも陰鬱に澱んでいた。散見される自動車も酷く錆び付くか、パンクしているか、その両方で、村の閉塞感を強調している。

 谷岡は後ろのキャンピングカーに合図し、適当な空き地に車を停めた。その隣に停まったキャンピングカーから三人が出てくると、早速仕事の話を始める。

 

「よし、てめぇらとりあえず散って酒の話集めてこい。この村じゃあ『海のアブサン』っつー酒を作ってるはずだ。生産者突き止めたら連絡よこせ。逃げるなよ」

「了解ですぞwww」

「協力したらホント免許返して下さいよ」

「じゃけんライン交換しましょうね~」

 

 三人は了承し、連絡先を交換する。電波の入りは悪いが一応連絡はできそうである。

 仲良く肩を組んで村を巡る仲でもないため、そこで三人と谷岡はあっさり別れた。

 三人は顔を見合わせる。

 

「谷岡さんも打権村に用事だったんだな」

「結果オーライですなwwwww」

「じゃー俺仕事探して来るわ」

「んんwwwこんな寒村で靴磨く人がいるとは思えないwww」

「まあ、全員手分けして適当にぶらつきながら情報集めていいんじゃないか? 俺はあっちに行く」

「では拙者はあちらへwww12時にまたここに集合という事でwww解散www」

 

 やってきた目的は全員バラバラである。まとまって動く理由もないので、全員散って行動する事になった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 久津見の靴に関する見識は本物である。様々な靴に最適な磨き方を追求する内に、靴そのものへの造詣も深くなった。靴を知るには当然ながら靴を見るのが一番なのだが、足跡を見るだけでも靴のサイズは分かるし、跡の深さから体重も分かる。歩幅などから性別や精神状態も分かる。

 久津見は靴磨き代を払ってくれそうな良い靴を探すために、ぶらぶら歩きながらボロボロになり砂と土に侵蝕された道路に残された足跡を観察した。

 

「んー……?」

 

 しばらく足元を見てあるいていた久津見は妙な事に気付き、首を傾げた。

 まず、足跡の間隔がおかしい。ほとんどの足跡がよたよたと蛇行していて、まともな歩き方をしていない。酔っ払った歩き方、というより、まるで歩く事に不慣れなようだ。足跡の深さから察するに、半ば飛び跳ねるように移動しているらしい者も少なくない。

 更に小道に入ってみると、うっすらとだがヒレのついた真新しい足跡まで発見した。

 

 海女さんが足ヒレをつけて素潜りでもしているのだろうか?

 足ヒレと表現するには生々しい生物感に満ちた足跡だったが、もっと相応しく「それ」を表現する言葉を思い出すことをまるで脳が拒否しているかのような奇妙なもやもやを抱え、久津見はとりあえず疑問を棚上げする事にした。

 

 いつまでも足跡と睨めっこしていても金は入ってこない。まさか足跡を磨く訳にもいかないだろう。

 古式ゆかしく靴磨き台を通りに据えて座り込み、通行人を捕まえて磨いてやる、という手口も考えたが、そもそも通行人自体がいない。いや、いないわけではないのだが、遠目に久津見を見つけるとそそくさと去っていってしまうのだ。

 仕方がないので訪問販売をする事にした。いくら寒村といってもハレの日に履く革靴ぐらいは持っているだろう。汚れたまま放置された靴を磨き上げるのも仕事の一つである。

 

 久津見が手近な家(割れた窓に乱雑に板が打ち付けられている)の玄関をノックすると、しばらく間を置いてから人が出てきた。

 その住人の顔を見た久津見は思わず息を飲んだ。暗がりと生ぬるい潮風の不気味さがますますそう感じさせたのかも知れないが、まるで人型の怪物が目の前に現れたかのような錯覚に陥ったのだ。四十代であろうか、その男性の髪はまばらで、奇妙な出来物が身体や腕に浮き出ている。目と目は離れすぎていて、しかもぎょろりと飛び出していた。

 怖気を感じながらもまじまじと見ることを止められない久津見の視線に気付いた男性は素っ気なく言った。

 

「病気でね。感染りゃあ、しないよ」

「あっ、そっかあ……」

「で、アンタ何の用だい? NHKの受信料は先週払ったが」

 

 所帯じみた言葉に正気に戻った久津見は早速セールスをかけた。

 

「あのさあ、俺、靴磨き職人なんだけど、靴磨いてかない?」

「はあ?」

 

 真顔で聞き返された。

 

「今なら三十足で、五万! 靴磨きたい……磨きたくない?」

「三十足もねぇよ」

「ま、ま、ま、三足でもいいからさあ~。ホラホラホラ」

「あ、おい何するんだ!」

 

 久津見は俊敏に四つん這いになると素早く靴磨き粉とブラシを取り出し、男の靴を磨き上げた。

 その熟練の早業は男に蹴飛ばされる前に靴磨きを完了させてしまった。この間、わずか数秒である。

 気持ち悪い生き物でも見るかのような男だったが、一瞬にして新品以上に輝いた自分の靴を見て態度を変えた。

 

「あんた、すごいな。なんというか……すごいな」

「一万円頂きます」

「それは払わん。押し売りだろ」

「ペッ!」

 

 久津見は磨いたばかりの男の靴に唾を吐きかけた。金を払わない奴は客ではない。

 男は米神に青筋を浮かべたが、深呼吸して言った。

 

「俺は払わんが、仕事は紹介できる」

「あ~いいっすね~!」

「実はな、今日の夜、祭りがあるんだ。年に一度の大切な祭りでな、儀式に出る祭司様の靴を是非あんたに磨いてもらいたいと思う」

「ほーん。報酬は?」

「祭司様が払って下さるだろう。魚吉の紹介だ、と言えば通じる」

「やったぜ」

 

 久津見は祭司が住んでいるという家の住所を聞き、礼を言って男と別れた。

 かなり魚臭い足の男だったが、仕事を紹介してくれた。良い男に違いない。

 なんだかんだで良い時間になっていたので、一度集合すべく久津見はキャンピングカーの場所に戻った。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 スマホでアプリを起動しながら村を歩き回っていたヤーティは通信状態の悪さにイライラしていた。間の悪い事にアップデートと被ってしまったらしく、中々データのダウンロードが進まない。これでは正体不明ポケモンの真偽どころではない。

 歩きながらスマホを天に翳し少しでも通信状態をよくしようとしていたヤーティは、ふと視線を感じて横を向いた。

 

 それは不気味に光る一対の目だった。民家の窓、退色して薄汚れたカーテンの隙間から誰かが見ている。辛うじて女性だと分かるその顔は酷い出来物……魚の鱗のようなぬらぬらした出来物に覆われ、口は裂け、人間と呼ぶには目と目が離れすぎていた。

 

「んっふwww顔面ルージュラwww」

 

 ゾクッとしたヤーティが思わず叫ぶと、顔はさっと引っ込んで消えた。

 異様な町である。

 昼間だというのに人は出歩いておらず、たまに見かける人影も遠巻きにするか逃げていくか、だ。挙句の果てに目が合えばアレである。打権村はグロ系水ポケモンの巣窟だとでもいうのか。

 

 しかしまあ、そんな事よりポケモンである。怪しげな人影を気にせず遅々として進まないスマートフォンを睨んでいると、野生の谷岡が現れた。

 

「にげるwwwにげるwww」

「うるせーよ。てめぇさっきから見てりゃあよぉ、ロクに聞き込みもしてねえだろ。あぁ?」

 

 谷岡は逃げようとしたヤーティのケツを掴んで捕縛した。

 

「分かってんのか、あぁ? 免許返さねぇぞ。無免で帰るか?」

「んんwww無免許運転はありえないwww」

「じゃあ働けよ。もうめんどくせぇからお前俺についてこい」

「了解ですぞwww」

 

 谷岡は舌打ちすると、先ほど女性(?)が様子を伺っていた窓のある家の玄関を荒々しくノックした。他の傷んだ家屋と違い、それなりに手入れがされていて、立派な門構えである。

 しばらくすると鍵が外れる音がして、中から一人の男が出てきた。毛髪が寂しい、気弱そうな壮年の男である。男は青い顔でびくびくしながら谷岡とヤーティを見比べた。

 

「どっ、どちら様で?」

「おうお前がどちら様だよ。免許証見せてみろ、あぁ? ネタは上がってんだぞ」

「ひっ!」

 

 男がぶるぶる震えながら差し出した免許証には清和鳴人(きよわ なひと)と書かれていた。谷岡は容赦なく免許証をもぎとって自分のポケットに突っ込んだ。

 ヤーティはクッソ雑な恫喝であっさり免許証を差し出した清和に呆れた。いかにもヤクザな谷岡の風格に怯えているのか、それとも何か本当にやましい事でもあるのだろうか。

 

「おう、お前清和か。お前、アレだろ。海のアブサン、作ってんだろ。あぁ?」

「あ、あ、アブ……?」

「あぁ? とぼける気か、コラ」

「わ、私はほんの昨日、お、叔母に呼ばれて来ただけの、よ、よそ者ですから」

「嘘つくんじゃねーぞコラァ!」

「ひぃいいい!」

 

 谷岡の怒声に清和はか細い悲鳴を上げて泣きそうになっている。

 見かねたヤーティは言った。

 

「清和氏、ポケモンGOはやっていますかなwww」

「は、は?」

「やっていますかなwww」

「あ、まあ、はい、手慰みに……」

「直近のマスターボール配布イベが何日だったか覚えていらっしゃいますかなwww」

「え、あー、お、一昨日、だったかと……」

「んんwww谷岡氏wwwこの方は確かにこの村在住ではありませんぞwwwこの村は電波が悪く通信できないwwwこの村に住んでいるのなら一昨日のイベントを知っているはずがありませんなwww」

「うるせぇ! 笑いながら話すんじゃねーよ。まあ外の出身だろうがどうでもいい。叔母だったか、いるんだろ? 紹介しろオラ」

「ひっ、あ、あ、あ、あ、」

「拙者からも頼みますぞwww免許がかかっているものでwww無礼は承知、御免www」

「わっ、分かりました、分かりました。取次ぎますので、あ、あー、そちらの客間で、お、お待ちください」

「おう早くしろよ」

 

 清和は二人を狭い客間に通すと、バタバタと慌ただしく奥へ消えていった。谷岡はそれを満足げに見送り、ソファにどっかり座りタバコに火をつける。ヤーティは言われるがままの清和を哀れに思ったが、何も言わなかった。

 谷岡は『海のアブサン』とやらにご執心らしい。ここで清和を庇って海のアブサンの手がかりを逃がしでもしたら、ヤーティの免許証も逃げてしまう。暴力に慣れた危険な匂いがプンプンする谷岡から力づくで免許証を取り返せるとは思えない。車をぶつけてしまった負い目もある。多少誰かが理不尽な目に遭おうとも、穏便に免許証を返して貰えるならそちらの方が良かった。

 

 狭い客間は思いのほか調度品が充実していた。変わった意匠のものばかりだが、見事な壺、金細工の装飾品、見たこともない文字が刻まれた石版などが飾られている。

 アホ面で調度品を見回していたヤーティは、本棚の中に「打権村」と銘打たれた冊子がある事に気付いた。ヤーティは佐村河内が打権村の怪奇譚を調査しに来ている事を思い出し、冊子を本棚から抜き取りそっと懐にしまった。

 察するに、清和の叔母とはヤーティが目撃した顔面ルージュラの女性(?)である。彼女が家主では冊子を貸してくれと言って貸してくれる気がしなかったし、そもそも人語が通じるかも怪しいものだ。ひとのものをとったらどろぼう! という名言があるが、これは泥棒ではなく交渉の手間を省いただけである。

 

 素知らぬ顔でしばらく待っていると、廊下からぺた、ぺた、と足音が聞こえてきた。足音は客間の前で止まり、軋むドアをゆっくり開けて、入ってくる。

 入ってきたのは小柄なローブ姿の人物だった。頭にはフードをかぶり、足元まですっぽりとローブに隠されているため、体型は分からない。背筋は酷くまがり、強烈な磯臭さがぷんと漂っていた。フードの下に覗く裂けた口元をチラチと見て、ヤーティは戦慄と共にその人物が自分を窓から見ていた女性(?)と同一人物だと悟った。背後には今にも逃げたそうに腰が引けた清和がついてきている。

 ぺた、ぺた、と数歩歩き、その人物は谷岡の対面に座った。清和はドアを閉めて邪魔にならない位置に立つ。谷岡は異様な雰囲気に気圧される事なく口火を切った。

 

「あんたよぉ、海のアブサン作ってんだろ。俺が今よりもっと高値で売りさばいてやる。販路を全部よこしな」

 

 単刀直入な谷岡の言葉に、女性は少し間を起き、年老いてしゃがれた耳障りな声で答えた。聞き取り難いが、どこか面白がっているような響きがあった。

 

「すまんがアレは大切な儀式のお神酒でねぇええええ。出回ってるものは、出来損ないの粗悪品なのさあああ。そも、売り物じゃないのよなああ」

「出来損ないだろうがどうでもいいんだよ。俺が上手く売ってやるっていってんだ、ああ? 金が入ればこの寂れた漁村も賑わうだろうぜ」

 

 ぐ、ぐ、ぐ、という窒息したような音が聞こえ、ヤーティは何かと思った。

 見れば、老婆が口元に手を当てて肩を震わせている。

 また、ぐ、ぐ、ぐげ、と潰れた音がする。ヤーティは悟り、谷岡は強気な顔を保とうとした。

 それは老婆の笑い声だった。谷岡は老婆のローブが少しだけずれ、首元の両側についた裂け目がぱくぱくと動くの見てしまったが、必死で湧き上がる魚のエラのイメージを打ち消した。今それを認めてしまったら、交渉相手を撃ち殺してしまいそうだった。

 

「金、金、金ぇええ。ま、いいだろうさあ。あんたの胆力に免じてぇ、毎年儀式の後に余った酒の処分は任せようじゃないかぇえええ?」

「おう、話が分かるじゃねぇか。それでいいんだよ」

 

 谷岡は安堵の息を吐くのを堪えた。ちっぽけな老婆が発する恐怖は鉄火場のそれとは違う、谷岡が経験した事のない……冒涜的なものだった。

 老婆は続けて言った。

 

「次の儀式は今夜さあああああ。あんた方も是非来るといいよぉお。楽しみにしてなさいよぉぉお」

 

 そう言って老婆はにちゃあ、と歪んだ笑みを浮かべた。

 清和はその後ろで目を固く瞑り、脂汗を流しながら叔母の言葉を聞いていた。

 聞いているだけだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 佐村河内は秘密結社HPLに所属するオカルト愛好家だ。HPLの実態を知っている訳ではないが、定期的に怪異の情報を寄越してくれ、それを調査し報告すればキッチリ報酬が出るため、目的も全容も不明瞭な組織ではあっても邪悪ではないと佐村河内は考えている。良い怪奇小説を書くためには自ら怪奇体験をするのが一番である。HPLはそれを提供してくれる。過干渉もない。今回の打権村の情報もHPLから流されたものだ。

 とはいえ本物の恐怖体験に遭遇する事は早々ない。今回もガセネタかちょっとした噂に尾ひれがついただけかと考えていた。しかし、いざ現地に到着してみると何やら異様な空気が漂っている。完全にスカ、という事はなさそうである。

 

 佐村河内は年甲斐もなくワクワクしながら散策し、人気のある家々を訪ね、話を聞こうとした。

 奇妙な点は二つあった。

 

 一つは、打権村の住人に皮膚病が蔓延しているらしい点だ。皆、皮膚に酷い出来物ができ、広範囲が鱗のようになってしまっている者までいる。

 誰も彼もが口を揃えて伝染病ではないと言うが、伝染病でもないのにここまで蔓延するだろうか。

 

 もう一つは誰も彼もが口を揃えて今夜の祭りに来いと誘う事だ。友好的に誘ってくれている、というには彼らの眼光は鋭すぎた。

 粘ついた視線はまるで薄汚い獣が身を伏せ獲物を狙うかのようだ。

 

 住人達はこの村に怪奇など無いと言い張り、海のアブサンについては今夜の祭りで供されると語った。そしてそれ以外は語ろうとしない。

 佐村河内はそれ以上住人から情報を得る事を諦め、気分転換に砂浜に出た。

 

 砂浜には半分崩れかけた漁師小屋が幾つかあった。佐村河内は耳を澄ませたが、聞こえるのは波と風の音ばかりで、人の気配はない。

 ドアが壊れて外れていた一軒の中を覗いてみる。おかしな事に漁師小屋であるにも関わらず漁に使うような網や銛といった類の道具は何もなく、代わりに一枚の石版が置かれていた。

 その石版には絵と、見た事もない文字が彫ってあった。

 

 彫られていたのは月と、魚人、人間、そして怪物。満月の下で魚人が輪になり、銛で人間を串刺しにして怪物にささげている。

 顔面から顎ひげのように無数の触手を伸ばしたその怪物は、まるで歓喜の雄叫びを上げているようだった。

 吐き気がしてくるのに、石版から目が離せない。波の音が遠くなり、代わりに耳障りな囁きが聞こえてきた。囁きはずるりと脳の中に侵入し、這いずり、冷たくのたうった。頭痛がする。

 深く深く、遠い海の底から。この世全てを冒涜する何かの呼び声がする。

 呼び声がする。

 呼び声がする。

 呼び声がする……

 

 一際大きな波が砕ける音で、佐村河内はハッと現実に戻った。身震いして頭をはっきりさせる。曖昧な、しかし鮮烈に過ぎる白昼夢だった。

 冷や汗を拭い、後ずさる。石版から触手が伸び、今にも足を掴むのではないか、という荒唐無稽な妄想が頭を過ぎった。

 しかし石版は沈黙している。幻視も幻聴もない。

 しばらく間を置き冷静になった佐村河内はスマートフォンを出し、石版の写真をとった。住民の話は聞けなかったが、この石版だけでも大収穫である。生々しい幻聴体験と合わせ、怪奇譚のネタとしてはもってこいだろう。

 

 佐村河内は漁師小屋の主を探し石版を譲って貰えるよう交渉しようか迷う。

 石版は実に創作意欲を刺激される独創的な意匠だったが、なぜかそれは刺激されてはいけないもののような気がした。

 迷った末、佐村河内は石版を諦める事にする。写真は撮ったし、何より、石版に彫られた魚人に串刺しにされた人間の苦悶の顔が、まるで自分のもののように見えたのだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 正午になり、四人はキャンピングカーと黒塗りの高級車が停められている駐車スペースに集合していた。

 久津見以外、顔色が悪い。

 

「靴をね、履いてないよね」

 

 明るく言ったのは久津見だった。三人の胡乱な視線が集まる。

 

「遠目に見たり足跡見たりしたんだけどさ、この村の人って半分ぐらい靴履いてないんだよね」

「じゃあ何を履いてるんだ?」

 

 佐村河内の質問に、久津見は簡潔に答えた。

 

「足ヒレ」

「…………」

「…………」

「…………」

 

 それは本当に「足ヒレ」を「履いて」いたのか?

 そんな疑問を三人は飲み込んだ。

 重い雰囲気の三人に久津見は困惑する。

 

「え? 俺なんか変な事言ってる? 漁村なんだし足ヒレぐらい履くんじゃないすかね」

「足ヒレが許されるのは水中だけですぞwww陸で日常的に履くのは異常ですなwww」

「……確かに!」

 

 その発想は無かった! と衝撃を受ける久津見を横目に、佐村河内が挙手して言った。

 

「まず、海のアブサンは今夜の祭りで振舞われるそうです。それと……石版を見つけました。こんな絵が」

 

 そう言って佐村河内はスマホの写真を見せる。満月と、魚人と、触手の怪物。そして串刺しにされた人間。

 三人は怖々それを見て、ふとヤーティが言った。

 

「そういえば今夜も満月ですなwww満潮ですぞwww」

「おっ、そうだな!」

「おう、ババァが今夜の儀式を楽しみにしてろっつってたな」

「OKまとめよう。この村の住人は魚人だ。今夜、俺たちを串刺しにして、怪物の生贄にする。それを肴に海のアブサンで酒盛りをする。はい解散」

 

 佐村河内が手を叩くと、久津見とヤーティはキャンピングカーに乗り込もうとした。免許証より命が惜しい。佐村河内の結論を笑い飛ばすには、この村は魚臭すぎた。

 確たる証拠は確かにない。実際、村人は全員皮膚病で、今夜の祭りはただの祭りで、石版は子供の悪戯か大昔の風習で今は廃れている、と考えた方が合理的である。魚人だの生贄だの、現実的ではない。

 しかし人間は時に合理的でなく現実的でもない生き物だ。君主危うきに近寄らず。怖いから、ヤバそうだから、とりあえず逃げておく。そんなものである。

 

 完全に逃走体制に入った三人を止めたのは、谷岡ではなく、遠くから走ってきた一人の男だった。

 よほど全力疾走をしたのか、今にもゲロを吐きそうな様子で駆け寄ってきたのは清和だった。清和は倒れこむように四人のもとにたどり着くと、谷岡に縋り付いて涙ながらに懇願した。

 

「娘を、娘を、げほ、助けて下さい!」

 

 谷岡は清和を見て、タバコを咥え、火をつけてから言った。

 

「お前、谷岡組に助けを乞うってのがどういう事か分かってんだろうなあ? あぁ?」

「お願いします、お願いします、なんでもしますから!」

「その言葉が聞きたかった」

 

 ヤーティは運転席に座って抱き合う二人を眺めながら「この雰囲気の中で空気読まず帰ったら鬼畜ですなwww」と思った。

 後部座席に座り完全に帰る体制だった二人は娘って美人なのかな、と思った。

 

 清和は語った。

 早くに妻を亡くし、男手一つで一人娘の菜子を育てていた清和は、打権村に住む叔母から遺産相続の相談があるという事で村に来るよう連絡を受けた。

 確かに叔母はもう七十歳を越え、もういい歳である。他に親類もいなかったはず。

 清和鳴人は気弱で押しが弱く押しに弱い性格から会社でも出世できず、家事に娘の学費にと、生活はいつも苦しかった。叔母は寒村とはいえ打権村の大地主。遺産が相続できるのなら有難い。叔母は姪の顔も見たいと言ったので、特に疑問にも思わず、娘と二人で村へ向かった。

 それが間違いだった。

 

 村について早々、娘は魚面の怪物に誘拐された。清和は抵抗したが、二メートルもある屈強な魚人三匹に勝てるわけもなく。娘を奪われ、信じがたい怪物に狂乱する清和に、叔母は言った。娘を助けたければ、満月の晩に神にその身を捧げろ、と。

 娘と引き離された清和は言いなりになるしかなかった。人のフリをした怪物に怯え、死の恐怖に震え、娘を心配し胸をかきむしり、頭がおかしくなりそうだったところにふらりとやってきたのが一行である。

 叔母は四人も生贄に捧げるつもりらしい。清和は危機を伝え、娘を助けてもらうために叔母の目を盗んで警告しにやってきたのだ。

 

「叔母はこの村の顔役で、大地主です。遺産はかなりのものです。全て差し上げます。だからどうか、娘を、娘の命だけは」

「おう助けてやるよ。おいてめぇら何逃げようとしてんだ。免許返さねぇぞ」

 

 清和がかなり危ない橋を渡って警告しに来てくれただろう事は三人にも分かったが、正直、逃げる理由が増えた。第三者から打権村が怪物の巣窟である事が力強く肯定されてしまったのである。

 三人はオカルト好きだが、ただの一般人である。危険な事からは逃げたい。

 ……しかし同時に、困った人を助けられるなら助けたい、という善性も持っていた。

 久津見は聞いた。

 

「娘さん、菜子ちゃんだっけ、美人?」

「は? はあ、自慢の娘です」

「目と目が離れすぎてたり……しない?」

 

 清和が心外だ、とばかりに財布から出した写真を見ると、父の隣でにこやかな微笑を浮かべる大学生と思しき女性は確かに自慢の一つもしたくなる美貌だった。

 久津見は靴磨きセット一式が入ったトランクケースを片手にキャンピングカーを降りた。

 

「そういや俺、靴磨きの注文入ってるから逃げらんねぇわ」

 

 清和の縋るような目線を見てしまったヤーティはため息を吐き、車のキーを抜いてキャンピングカーを降りた。

 

「んんwww拙者もバケモンゲットするまで帰れませんぞwww」

 

 佐村河内はもっさり頭をガリガリ掻き、二人に続いた。

 

「村人の口からこの村の伝承聞いてないのを思い出した。伝承代わりに断末魔でも聞いていく事にするか」

 

 谷岡はタバコの吸殻を投げ捨て、宣言した。

 

「魚臭ェ化物どもをブッ殺しッ! ここを谷岡組のシマにするッ! 行くぞてめぇら!」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 日が暮れて夜が来た。祭りの時間である。晴れ渡った星空には満月が上り、月明かりを反射して海面が煌めいている。

 祭りの会場である打権村の砂浜には、漁村である事を差し引いても異様なほど濃密な魚臭さが漂っていた。

 時代錯誤な松明の明かりにぬらぬらした体表を照り返させる魚人の群れはさながら異形の魔宴である。

 

 ヤーティと佐村河内はその砂浜を望む家屋の屋根裏に潜んでいた。下の部屋の床下には昼間の内に谷岡の銃で尻穴から喉まで撃ち抜かれた魚人の死体が埋められている。

 ヤーティは板の隙間から外を覗き、ひそひそ声で言った。

 

「んんwww豊漁ですぞwwwそろそろ住民は皆集合したと見て良いでしょうなwww」

「清和菜子はいるか?」

「それらしき影は見えますなwwwしかし少し遠いですぞwww」

「……『生贄は一人じゃなかったんですか!』『ダゴン様への贄は多い方が良い』『そんな!』『甥もダゴン様に供されるなら本望だろうて』あー、親子揃って生贄になるのか。なるほどまずいな。いや想定の範囲内か」

「この距離で聞こえるなんて有り得ないwww」

「昔から耳は良いんだよ。よーし、合図して作業にかかろう」

 

 ヤーティはスマートフォンのライトを外に向け一瞬だけ点滅させ、作業にかかった。

 

 砂浜でヤーティの合図を受け取った谷岡はヤーティ達が順調に事を進めている事に内心頷き、外面では平静を取り繕った。

 谷岡の横には清和の叔母という立場にある、母という文字とまるで結びつかない魚面の怪物がのそりと立っている。ホラー映画から抜け出したものよりなお悪い、生理的嫌悪を催す邪悪が、小奇麗なローブに金製の装飾品まで身に付け、この人間の世界に何食わぬ顔で存在している。幾度の鉄火場を抜けてきた谷岡をして、鳥肌を隠せない。

 実際、この怪物の首魁に「谷岡豪は怪物側の人間であり、本心から協力を望んでいる」と思い込ませる事ができたのは奇跡に近かった。一歩間違えれば今足元で手枷をされ四つん這いで犬の真似をしている久津見のようになっていただろう。先ほどから後ろ足で穴を掘り小便をしたり、仰向けに寝転がって媚びた目で魚人を見上げたりと人間の尊厳をかなぐり捨てている。

 

「クゥーン、クゥーン……くさっ! オロローッ!」

 

 今度は水かきのついた清和の叔母の足を必死に舐めたかと思うとゲロを吐き始めた久津見から魚人達はドン引きした様子で距離を取った。谷岡も距離をとった。

 足を舐めても生き延びたいのは人間の本能かも知れないが、もしかしたら魚人達以上に狂っているのではないか。

 

 魚の生臭さに加えてゲロ臭さも漂い始めた砂浜で、清和の叔母は円陣を作った十数匹の魚人に満足げに合図する。円陣の中心には抱き合って怯える清和親子がおり、魚人達はそれをはやし立てながら手に手に不気味な海色に発光する酒が入った杯を掲げた。

 

「ぃぁ ぃぁ くとぅるう ふたぐん」

「ぃぁ いあ くとぅるう ふたぐん」

「ふんぐるい むぐるぅなふ」

「いあ いあ!」

 

 邪神を讃える冒涜的な祝詞が渦を巻く。アルコール臭に魚臭やら何やらが無茶苦茶に入り混じった悪臭が辺りを満たす。

 谷岡はじわじわと後ずさり、熱狂していく魚人達に気づかれないよう清和の叔母の背後を取る。

 

 そして……尻の穴に隠していた拳銃を出し、構え、背後から下腹を撃ち抜いた。

 突然の銃声に静まり返る。魚人達が銃を見て状況を飲み込む前に、砂浜に集まった一同を囲むように炎の壁が立ち上がった。炎の壁の向こうで、海藻を全身に巻きつけたヤーティと佐村河内が砂まみれで立ち上がり、空の一斗缶を投げ捨ててサムズアップした。

 

 話は簡単だ。午後いっぱいをかけて放置された村の自動車からガソリンをコソコソ集め、海藻製即席ギリースーツをまとったヤーティと佐村河内が儀式に熱中する魚人達を取り囲むようにバラ巻いたのだ。ガソリンの異臭は魚臭さと海のアブサンのアルコール臭、そして久津見がぶちまけたゲロの臭いで誤魔化された。

 

 一転攻勢。血を吐いて倒れた魚人の主格を踏みつけ、谷岡は歪んだ笑みを浮かべた。炎に逃げ惑い、或いは呆然とする魚人の群れに見せつけるように、谷岡は痙攣する魚人を蹴った。

 

「何お前魚の癖にお前服着てるんだよこの野郎、おい」

 

 谷岡がローブと装飾品をむしり取ると、だらしなくたるんだ腹が露になる。魚人が震えながら装飾品に手を伸ばすのを見て谷岡はせせら笑った。醜い魚人間にも、服を奪われた屈辱は分かるらしい。

 谷岡は伸びた手を払い除け、ポケットに忍ばせていたスキットルを開け、首元のエラにガソリンを流し込んだ。

 

「おいエラ呼吸してみろよこの野郎、あぁ?」

 

 魚人は声にならない声を上げ、血とガソリンの混じった液体を吐き出す。エラはぱくぱくと動いていた。それを満足げに眺めた谷岡は無理やりタバコを加えさせ、ライターで火をつけた。

 

「よーし、よくできたなぁ。おら、ご褒美だ」

 

 タバコの火は気化したガソリンに引火し、たちまち魚人は火だるまになった。絶叫しのたうち回る魚人。

 

「あーっ! ミスッた! 火がぁーっ!」

 

 手枷を焼き切ろうとして失敗した久津見も火を消そうとのたうち回っていた。

 谷岡は呆れた。とんだ道化である。

 道化だが、不慮の事故で拘束されながら機転を利かせて仕事を達成しているのだから恐れ入る。

 予め砂浜に埋められ、そして久津見の後ろ足で掘り起こされた一斗缶を、谷岡は正気を取り戻しつつある魚人達にぶっかけた。

 

「おらビクビクしてんじゃねぇよ! ついてこい!」

 

 そして、狂騒に愕然としていた清和親子の頬を張って正気に戻してから、炎の壁を突き破って、炎陣の外へ逃げる。火が付いたがすぐに海に飛び込んで消した。ヤーティはポケモンGOを起動したスマートフォンで、佐村河内は冒涜的な絵が刻まれた石版で、それぞれ炎陣からまろび出た魚人達を強かに殴って中に押し戻している。

 谷岡は嬉々としてそれに加わり、ややあって久津見も四つん這いでそれに続いた。

 

 それは確かに、祭りだった。

 人の世を蝕む怪物をあるべきところに送り返す、血と炎の祭りだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 炎が完全に鎮火したのは夜が空けてからだった。黒ずんだ死体が散乱し、焦げ臭さ漂う砂浜を一行は後にする。やがて波が全てを洗い流し、海に返すだろう。

 魚人達を焼き殺すために、度数の高い酒である海のアブサンの在庫も使い切ってしまった。村にもう海のアブサンはなく、これから生産される事もない。

 

 谷岡豪は概ね満足だった。海のアブサンの販路開拓には失敗したが、谷岡組の新しい三人の舎弟と、人が途絶えたとはいえほとんど丸々村一つ分の広大な土地を手に入れた。使おうと思えば幾らでも使い道はある。

 

 森ヤーティはポケモンゲットには失敗したが、バケモンゲット(殺)には成功した。しばらくの間水系ポケモンを見るたびに忌まわしい記憶のフラッシュバックに悩まされたが、万能の精神薬である時間は苦痛を和らげ、徐々に何気ないポケモンマスターを目指す日常へ戻っていった。

 

 久津見岳雄は完全勝利を果たした。依頼通り祭司の靴(素足)を磨いた(舐めた)し、打権村に残された現金をかき集め自分への報酬に当てた。命を助けた清和菜子に交際を申し込んだところ、物凄く複雑な表情で「ちょっと無理です」と答えられたのは勇猛果敢にして神算鬼謀なる久津見をして理解し難かったが、凄すぎる自分の活躍に気後れしてしまったのだろうと納得した。

 今日も久津見はどこかで靴を磨いている。

 

 佐村河内攻は全てが終わった後、HPLに事の次第を伝えた。漁村にいる間は電波状況が悪く連絡できなかったが、元よりHPLには調査結果を報告する取り決めがある。名前も知らない電話の受け手は終始黙って佐村河内の報告を聞いていたが、最後まで聞き終わると、「分かった。後処理はしておく」とだけ言った。

 後日、佐村河内はオカルトを扱ったニュースサイトで「北海道の漁村跡の海岸に五メートルはある魚人の死体があがった」という小さな記事を見つけた。佐村河内はスマートフォンを開き、石版の写真を眺める。そこには確かに、崇められ生贄を捧げられる一際巨大な魚人の絵が刻まれていた。

 あの晩、佐村河内達はせいぜい二メートルサイズの魚人しか焼き殺していない。誰かが、結局見ることの無かった真の魚人の首魁を殺したのだ。

 怪物を超える怪物を殺した者が誰か、佐村河内はぼんやりと予想がついた。しかしそれを電話口の向こうの名前も知らない誰かに尋ねるのも、怪物を相手にするのと同じぐらい恐ろしいような気がして、佐村河内は賢明に口を閉じ、些細なニュースは忘却する事にした。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 どこかの町のどこかの一室で、一人の壮年の男の姿をした存在が受話器を置き、呟いた。

 

「そうか。探索者、か……」

 




――――【谷岡 豪(31歳)】谷岡組 組長

STR13 DEX13 INT13
CON13 APP13 POW13
SIZ13 SAN50 EDU13
耐久力13 db+1d4

技能:
 恐喝(言いくるめ)83%、運転(黒塗りの高級車)61%、
 応急手当50%、聞き耳55%、経理40%、図書館45%、法律35%
 目星55%、拳銃76%、キック55%、組み付き55%、隠す24%

――――【森 ヤーティ(28歳)】ポケモンセンター店員、谷岡組 構成員?

STR8  DEX10 INT18
CON7 APP10 POW16
SIZ11 SAN71 EDU17
耐久力9

技能:
 ポケモン厳選99%、ポケモンバトル99%、ポケモン知識99%
 運転(自動車)42%、オカルト45%、コンピューター51%
 生物学51%、変装60%、電気修理40%


――――【久津見 岳雄(26歳)】靴磨き職人、谷岡組 構成員?

STR6  DEX18 INT10
CON10 APP9 POW14
SIZ8  SAN69 EDU13
耐久力9

技能:
 オカルト(靴)31%、芸術(靴磨き)99%、製作(靴磨き用具)99%
 追跡(靴)80%、目星(靴)55%、歴史(靴)42%


――――【佐村河内 攻(54歳)】ゴーストライター、秘密結社HPL所属、谷岡組 構成員?

STR13 DEX14 INT12
CON9 APP11 POW11
SIZ11 SAN48 EDU14
耐久力10

技能:
 オカルト89%、聞き耳99%、隠れる60%、芸術(作曲)1%
 芸術(小説)89%、忍び歩き60%、信用65%、
 人類学19%、歴史70%、クトゥルフ神話5%

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧 ※ログインせずに感想を書き込みたい場合はこちら
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。