何かの呼び声   作:クロル

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2-3 海の星屑伝説(Easy)

 

 自室に置いてある冷蔵保管庫のロックを解除し、中からアンプルを取り出す。会社を辞める時に造ったこの薬品も残り少ない。週一ペースとはいえ、一年も使い続けていると当然ながら減るものだ。そもそも劣化を考慮すると、この小型の冷蔵保管庫に入れていても長期間の保存はできないから織り込み済みではあるが。

 注射器で危ないオクスリを腕に静脈注射する。最近ではこのクスリも効かなくなってきた。クスリに手を出し始めた頃と比べて効果が出ている実感が無い。もっと強力なクスリの調剤に挑戦するか……いや、流石に危険過ぎるか。私がこのクスリを造る事ができたのは、先人がこのクスリの精製に成功した事と、その理論の概要を知っていたからだ。先人の模倣ならまだしも、その先の開拓となると労力も危険性も跳ね上がる。そこまではしなくて良い。

 

 注射器とアンプルを片付け、冷蔵保管庫をロックし、自分に《治癒》を使ってクスリの副作用を治しておく。これで良し。

 

 居間に行くと、蓮がソファでクッションを抱き抱えてテレビを見ていた。音楽番組をやっているらしい。

 コーヒーを淹れて蓮の隣に座り、一緒に観る。何やらスタイリッシュな服装とキテレツな髪型をしたメンバー達がギターをかき鳴らしながらシャウトしている。ミーハーな若者が好みそうだ。蓮の好みとはちょっと外れているように思えるが。

 

「何の音楽だこれ」

「え、お父さん知らない? シルバー・ブルー・メンだよ、最近流行りの。『海の猿蟹合戦』とか聴いた事ない? テテテッテーテーテーテテー」

「ああ! 聴いた事あるな。それシルバー・ブルー・メンだったのか。シルバー・ブルー・メンも聞いた事あるな。ファンなのか?」

 

 ゾンビ系の映画やゲームが好きなのは知っているが、こういうヘビメタが好きだとは。

 

「シブメンのファンっていうよりシブメン所属のギタリストのファンなんだよね。えーと、映らないかな。この人じゃなくて……あ、映った。この人。この顔にタオル巻いてる人。大矢口キャンサー」

「ふむ。大矢口キャンサーか……大矢口キャンサー!?」

 

 思わずコーヒーを吹いた。

 シルバー・ブルー・メンの大矢口キャンサー。神話生物じゃないか。どうしてテレビデビューしてるんだ? お前達はもっと控えめな、屋敷の地下室の壁の向こうでひっそり寝てる系の奴らだろう。歌って踊れる神話生物はニャルラトホテプだけでいい。

 しかし大矢口キャンサーか。奴が活動しているという事は。

 

「うわー、大丈夫? 火傷してない? 冷やす? 服脱いで洗うから」

「いや大丈夫だ、火傷はしてない。むせただけだ。大矢口キャンサーは夜刀浦市で近々ライブをするって話を聞いた気がするんだが」

 

 コーヒーで汚れた服を脱ぎながら聞くと、蓮はなんだ知ってたの、と返した。

 OK、話は全て分かった。

 

 今回のシナリオは「海の星屑伝説」という。

 まず、今回の事件の首謀者はカール・スタンフォードだ。以前再起不能にしたカールはクローンだったが、クローンというものは量産が効く。カール・スタンフォードのクローン達は世界中に散っていて、各地で邪悪な陰謀を企てている。クローンは何百人もいるわけではないが、一人、二人でもない。日本で二人のクローンが活動しているというのも十分ありえる話だ。

 海の星屑伝説で登場するカール・スタンフォードは、シルバー・ブルー・メンのバンドメンバーの一人、大矢口キャンサーを「這うもの」という神話生物に変異させ、操っている。この這うものは磯の生き物を集合体が意思を持ち、人型を取り繕った存在だ。大矢口キャンサーが顔を隠しているのはそもそも顔が存在しないからで、神業のギターテクニックを披露できるのは手と指が人間のものではないためだ。

 端的に言えば、カール・スタンフォードと大矢口キャンサーが手を組み、夜刀浦市でライブキャンペーンにかこつけてファンに海底に落ちている特殊な石碑を人海戦術で集めさせ、石碑の力を使って強大な神話生物を召喚しようとしている。従ってカール・スタンフォードを始末し、大矢口キャンサーも潰せば陰謀は根元から頓挫する。そしてそれは探索者にとっては凄腕の魔術師とその人外の従者を相手取る危険な仕事でも、私にとっては造作もない。

 

 今回も迅速に解決してしまおう。攻略法が分かっているゲームでも、タイムアタックは楽しいものだ。油断が過ぎれば死ぬというスリルも実に良い。

 

「お父さんライブ興味あるの?」

「かなり」

 

 替えの服を持ってきてくれた蓮に答える。蓮は嬉しそうに笑った。

 

「じゃあ一緒に行かない? 再就職中々決まらないみたいだし、息抜きだと思ってさ。あのね、今度のライブツアー変わってて、チケット販売してないんだよね。海潜って小さい石碑? このくらいの、手のひらサイズなんだけど、それ拾ってきて会場で見せると入れてくれるんだって。地元の遺跡調査のコラボイベントみたいな。小雪ちゃんも行くことになってて、小雪ちゃんの分は私が拾ってくる事になってるんだけど」

「ああ、まだ後遺症引きずってるのか」

「うん、元々体弱いし……」

 

 早瀬小雪とはあの事件の後二、三回会っている。病弱な深窓の令嬢そのもので、命を救ったせいだろう、好感度は非常に高い(『透視』調べ)。婿入りで永久就職という手も十分実現圏内ではあるが、義理とはいえ子持ちの四十のオッサンが二十歳の財閥令嬢と結婚はどうかと思うし、何よりもゲームキャラと結婚するような変態性は持っていない。いや、ゲームキャラではないがそうとしか思えないから困りものだ。

 

「夜刀浦市は沖縄だったか。旅費は俺が持とう」

「え? んー、小雪ちゃんが出してくれる事になってるんだけど……お父さんの分も出してくれるかな。あっ、一応言っとくけどいつも出させてる訳じゃないからね! 今度は私が小雪ちゃんの代わりに潜る事になってるから払わせてって言うからいいかなって思っただけで。小雪ちゃん多分お父さんの分も出すって言うよ?」

「今は無職だが一応社会人だからな。学生におんぶにだっこという訳にもいかないさ。昔海水浴の約束を反故にした埋め合わせだ」

「……よく覚えてたね」

「蓮の事だからな」

 

 頭を撫でると、蓮は猫がじゃれるようにして目を細めた。八坂一太郎(故)が仕事と神話知識の探求に多く時間を割いていたせいで、蓮は私から話したりスキンシップを取ったりするのを殊の他喜ぶ。この子はファザコンが入っているようだ。

 これから蓮の好きなバンドメンバーをちょっと灰にする予定なので、今の内に機嫌をとっておかなければ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 三日後、私と蓮、早瀬小雪は飛行機の機内の座席に座っていた。席は勿論ファーストクラス……と言いたいところだが、ビジネスクラスだ。一億の貯蓄があるからといって浪費は禁物。神話生物と戯れるのには、時々かなりの金が必要になるのだ。私が使っている危ないオクスリも裏ワザ無しの正規ルートで作ろうと思ったら数年の歳月と一千万近くの投資が必要になる。

 

 機内食をとりながら談笑していると、前の席でジャラジャラという音がし始めた。聞き覚えがあるような、無いような音だ。数分経っても妙な物音が止まないので、そっと中腰になって見てみる。

 

「ツモ。三暗刻」

「ちっ!」

 

 三人の男と一人の少女が麻雀をやっていた。正気かこいつら。

 ドレッドヘアに貝殻と海老のアクセサリをつけ、タオルを肩にかけた高校生ぐらいその少女は据わった目で私をチラリと見たが、点棒を受け取るやまたジャラジャラと麻雀牌をかき回し、残像が見える手さばきで山を作った。

 

「ルールを忘れていないでしょうね? デカピン、青天井よ」

「あ、当たり前だ。まだまだこっからだぜ(震え声)」

「グッド。さあツモりなさい。早く」

 

 私はそっと席に座り直した。

 

「なんだった?」

「高レートの賭け麻雀してた」

「えっ?」

「えっ?」

 

 小雪と蓮は顔を見合わせ、中腰になって立ち上がり、微妙な顔をして座り直した。

 

「小雪ちゃん、何見えた?」

「麻雀をしているように……」

「良かった私の目正常だった」

「正常じゃないのは向こうだろう」

「だよね。搭乗員さーん!」

 

 すぐに搭乗員がやってきて、前の席の謎の雀師達を注意し始めた。しかし雀師達は辞める様子が無い。搭乗員は困った顔で少し離れて無線でどこかへ連絡を取り始めた。耳を澄ませると、警察だの違法だの、物騒な単語が聞こえてくる。少女はちらりと搭乗員を見て、傍らに置いていたノートパソコンを麻雀をしながら片手で操作し始めた。こちらも凄まじいタイピング速度で、画面に次々とウィンドウが開いては消えていく。座席の隙間から今度は何を始めたんだと覗き見ていると、十数秒で画面に大きく「hacked」と表示された。

 

 非常に嫌な予感がする。

 そっと振り返ると、搭乗員がびっくりした顔で無線を見て、ガチャガチャと操作を始めた。困惑と緊張が半々といった表情で、操縦室の方へ消えていく。数分後、機内にアナウンスが流れた。

 

《お客様にお知らせいたします。当機に不具合が確認されましたため、万全を期し、これより点検のため緊急着陸をいたします。指示に従い、シートベルトをご着用下さい。繰り返します――――》

 

 乗客がにわかにざわめき始め、ガチャガチャとシートベルトをかける音がしてくる。頭上の荷物入れのあたりから酸素ボンベが飛び出してきてぶら下がり、嫌が応にも緊張感と危機感を煽った。

 

「お父さん、まさかこれまたアレ?」

 

 不安そうに神話的事件の可能性を尋ねる蓮に、少女のノートパソコンを指す。蓮はちょっと顔を動かしてそれを見て全てを察したようだった。

 

「分かるけど分からない。なんなのあの人たち」

「あっ、思い出しました。あの女の子の方は見た事があります。有名な麻雀の代打ちの方で――――」

 

 小雪がそこまで言った時に機体が大きく揺れた。小さく悲鳴をあげた女子二人に左右から腕を掴まれ、ホールドされる。両手に花だが、前の席では血の花が咲きそうな状況になっていた。

 

「続けるわよ」

「な、なんだと? 今はそんな状況じゃあねえだろッ! ここは一旦オヒラキにして」

「逃げるの?」

「くっ……! やってやろうじゃねえか! 通らばリーチ!」

「ふ。残念だったわね」

「ま、まさか!」

「そのまさかよ。ロン! 国士無双(ライジングサン)ッ!」

「ぐぁあああああああッ!」

 

 白い目で茶番を見ている間に、飛行機は那覇空港に緊急着陸した。

 

 二時間ほど事情聴取で時間を取られたが、少女を含めて問題無しという事で解放された。航空会社からの侘びという事でフェリーの無料チケットを貰い、夜刀浦市のある与那国島までのフェリーに乗る。

 一時はどうなるかと思ったハプニングも過ぎれば旅の良い思い出になる。今まで私が経験してきた事に比べれば些細な事件でも、神話的怪異による侵食が浅い二人には興奮するような出来事だろう。甲板でウミネコに餌をやりながら談笑する二人を遠巻きに眺める。私が近づくとウミネコが逃げていってしまうのだ。

 

 一人でぼんやりしていても仕方ないので船内に戻り、リラクゼーションルームで何か良い暇つぶしはないかとあたりを見回すと、例の麻雀少女がいた。また麻雀を打っている。卓を囲む三人は酔いとは別の理由で顔面蒼白で、今にも吐きそうだった。少女は超然とした態度で牌を切っている。

 小雪曰く、彼女は業界で有名な麻雀の代打ち師らしい。早瀬雄太郎が自分の代打ちとして呼んだのを何度か見かけた事があるという。

 

 私の知る海の星屑伝説に彼女は登場しない。

 クトゥルフ神話TRPGにおけるシナリオは、あくまでもゲームの基本の展開を示すものであり、厳密にそれに従ってプレイする必要はない。探索者の突飛な行動で展開を変えざるを得なくなったり、キーパー(ゲームマスター)がアレンジを加えたりする。だから奇妙な麻雀少女がシナリオに関わる存在ではないとは言いきれない。これだけ怪しければ疑ってしかるべきだろう。怪しすぎて逆に怪しくないような気もするが。

 

 とにかく軽く探りを入れてみる事にした。三人が点棒を根こそぎ奪われ、少女に札を献上してすごすごと去っていったタイミングで話しかける。少女の尋常ではない勝ちっぷりを見ていたオーディエンスがどよめいた。

 

「次、私もいいかな?」

「点10アリアリルールだけど?」

「ああ、構わない」

 

 点10というと、大負けして二、三万円損失ぐらいのレートだ。簡単に言えば麻雀好きの社会人が楽しむぐらいのルールである。

 飛行機内で彼女はこの十倍のレートで圧勝していた。財閥当主の代打ちを任されるぐらいだから、裏の住人の中でもトップクラスなのだろう。ルールを一通り覚えている程度の私では常識的に考えて勝目はない。

 

 数分待つとあと二人も集まったので、開始する。私が素人臭い手つきで自分の手牌を並べ替えているのを見て、少女は薄らと笑っていた。

 さて。その笑い、いつまで続くかな?

 

 開始直後に《透視》を発動。透視の透明度を細かく調節し、山を透かして牌の位置を完璧に把握する。当然相手の牌も筒抜けだ。

 こうなれば麻雀はヌルゲー。いくら彼女と私の麻雀力に天と地ほどの差が横たわっていても、その差は一瞬で埋まり、追い抜く。しかも手品のタネは絶対に見破れない。

 

 自分は常にほとんど最短ルートでアガり、絶対に振り込まない。

 三十分ほど笑いを堪えながら無双していると、少女はおもむろにパソコンを取り出し、何か操作して、首を傾げた。

 

「どうかしました?」

「……無線カメラはつけてないみたいね」

 

 どうやら電波を探ってカメラで手を覗いていないか調べたらしい。

 《透視》で視ると強い困惑の感情が読み取れる。彼女には私が相当奇妙な雀師に感じられている事だろう。仕草は素人なのに読みだけは百発百中なのだから無理もない。実際は隠しカメラよりも遥かに悪質な事をしているのだが。

 ちなみに他の二人は焦燥と絶望が色濃い。同情はするが手加減はしない。

 

「ところで君の名前は?」

「矢本よ。アンタは? 腕の割に見た事も聞いた事もないんだけど」

「無職の根津です。麻雀は素人なので、ヤモト=サンに比べればとてもとても」

 

 矢本のアタリ牌を切ってあてつけのような笑顔をプレゼントする。矢本の表情はピクリとも動かなかったが、オーラはざわめいた。ここでアガってもクズ手なのだ。軽い挑発である。

 彼女は素知らぬ顔で牌を見逃して続けた。

 

「アンタの手品のタネが分からないわ」

「ハッハッハ、ビギナーズラックでしょう」

「憎たらしい……マンタの餌にしてやりたい。リーチ」

「それロンです」

 

 通常有り得ないような牌でピンポイントにロン。流石の矢本も一瞬固まった。既に三回ほど同じような事をしている。イカサマを疑われて当然だ。

 和やか()な空気になってきたところで、矢本にシルバー・ブルー・メンの話を振る。

 矢本はすぐに食いついてきた。矢本はシルバー・ブルー・メンの熱狂的なファンで、代打ちや雀荘で稼いだ金の大半を握手券やらライブチケット、グッズに突っ込んでいるという。飛行機の中では、夜刀浦市でのライブ中の滞在費を稼ぐためにカモっていたらしい。パソコンで飛行機をハッキングしていたのは否定も肯定もしなかった。

 

 話を聞いていて思った。

 彼女は絶対に探索者だ。しかも根津未弧蔵やパーシー・ネルソンと同系統(ルーニー)の。

 これほど濃い人間はなかなかいない。探索者というものは吸い込まれるように神話的事件に飛び込んでいく人種だ。探索者は惹かれあう、とでも言うのか、探索者は自然に他の探索者と出会い、神話的事件に立ち向かう運命にある。共闘相手だ。

 

 しかし、私にはそれが心強いというよりも少し鬱陶しい。

 探索者は何をしでかすか分からない。探索者は神話生物や魔術師の陰謀を引っ掻き回して台無しにするのが得意技だが、私の構築した最短攻略法まで引っ掻き回されてはたまったものではない。行動が読めないという点では、探索者は神話生物よりも恐ろしい。私にとっては。

 

「夜刀浦ライブはファンとして絶対見逃せないわ!」

「そうですか。娘も今回のライブは特別だなんて事を言っていましたね。新曲の発表があるとかで」

「そうそう! あと特別ゲストも来るんですって! 誰かしら!? 私はシブメンと会えればいいけどねロン」

「私もロンです。ダブロン、トビ、終局。お疲れ様でした」

 

 特別ゲストか。恐らく「誰」というよりも「何」だろうが。

 私は餌にされた哀れな犠牲者から三万二千円を頂戴し、船内レストランに向かった。とりあえずこれで美味しいものを食べよう。 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 与那国島夜刀浦市に到着すると、既に太陽が水平線の向こうに沈みかけていた。ハプニングに船旅が重なり小雪と蓮が疲れているようだったので、その日はホテルで休む事にした。女子大生二人でひと部屋、私でひと部屋。ホテルではライブ目当てらしい高校生ぐらいの若い女性の群れがきゃあきゃあ言っていて、四十代のオジサンは浮いていた。ただし他にもチラホラと普通の観光か何かで来たらしい老夫婦や男性客が気まずそうにしていたので、私だけが例外というわけでもなかった。

 

 翌日、バイキングの朝食を取ったあと、私たちは浜辺に向かった。あまり広くはないものの、よく清掃されていてゴミひとつない白い砂浜は色とりどりの水着姿の若い女性達で埋まっている。

 

 与那国島では最近海底遺跡が見つかった。それが本当に海底遺跡なのか、自然の造形がそう錯覚させているのかは未だ学会の意見が割れている。

 海底遺跡があるあたりの海域、ちょうどこの砂浜のあたりでは頻繁に霧が発生し、そのせいで地元住民が遺跡の調査に猛反対している。地元の伝承に「霧が出ている時は海に入ってはいけない」というものがあるのだ。そのせいで調査隊も時間をかけた本格的調査ができず、情報も集まらず。遺跡の正体ははっきりしない。

 

 今回のライブツアーはそれを打開する意図もある……というのが表向きの理由のひとつだ。最近テレビで話題になった与那国島海底遺跡の話題に乗り、ライブの話題性を増そうという目論見である。観光客が大挙して押し寄せれば、元々人口の少ない島民だけでは対処に手が回らない。観光客が海に入るのを無理に阻止すれば、今後の観光事業に差し支えが出る。割と力技だ。シルバー・ブルー・メンはライブチケット代わりに遺跡近くに沈む石の欠片をファンに拾ってこさせ、ライブ後それを学会に寄贈、というわけだ。色々と無理がある部分は相当なゴリ押しをしているようだが、首謀者のカール・スタンフォードにとっては陰謀が成就した時点で勝ちなので後先を考える必要はあまりない。寄贈前にちょっと神話生物を喚ぶぐらい大した問題ではない。

 

 ライブイベント期間中、カール・スタンフォードと大矢口キャンサーは高確率で夜刀浦市文化会館にいる。何をするにもまずは近づく必要があるが、大量の警備員がいて忍び込むのは難しい。そして正規ルートで入るには石碑が必要になる。受付で石碑を渡せばライブ前でも少し中を見学させてくれるのだ。

 ライブ本番のチケットも石碑と交換。何をするにも石碑が必要になり、石碑は海に潜らないと手に入らない。

 

 と、いう訳で、私も潜るつもり、だったのだが、浜辺で待つ小雪が人ごみを前にして不安そうにしていたので、蓮に頼まれて付き添う事になった。アフォーゴモンのペンダントで二十代の姿に一時的に変身し、火傷面の近寄りがたさを活かして護衛をする。二人は少し目を離した隙に若々しくなっていた私に驚いていたが、神話的知識が無い訳でもないので、少し説明すると納得していた。

 

 蓮は淡い青のビキニに着替え、入水前の運動をしている。屈伸するたびに見事なスタイルと胸部装甲が目立つ。蓮のバストは豊満であった。APP17という桁外れの容貌と相まって、同性からは嫉妬と羨望、異性からは欲情と崇拝の目線を一身に浴びている。しかし私が「《萎縮》で焼死体にしたら目立ちすぎるだろうか」と考えながらじっと見るだけで狂人にでも会ったかのように散っていく。失礼な連中だ。

 

 小雪はパラソルの下で蓮と色違いの薄紅色のビキニの上にTシャツを着て座っている。彼女のバストは平坦であった。しかしトップアイドル達の中でも早々お目にかかれない美貌は蓮と同じぐらい目立っている。しかし私が「神話生物(ビヤーキー)を召喚して暴れさせたら目立ちすぎるだろうか」と考えながらじっと見るだけで怪物にでも会ったかのように散っていく。失礼な連中だ。

 

「じゃ、行ってくるねー!」

「ああ行ってこい行ってこい。霧が出たらすぐに浜に戻れよ。方角が分からなくなって沖に流されたら危ない」

「え? ここ霧なんて出るの?」

「なんでもニライカナイ……琉球の伝承で海の彼方にあるとされる異界だな、から霧と一緒に神の使いがやってきて、島の海に住む妖怪と戦うんだそうだ。人間は危ないから近づくなという話がある。実際、このあたりの海域ではだいたい一日に二、三回は大体三時間の間霧が出る」

「へえ、詳しいね」

「下調べをしたからな」

 

 嘘だ。リアルクトゥルフ神話技能が火を噴いただけである。ニライカナイとそこから来るモノの正体、伝承の実情まで完璧に私の頭に入っている。もっとも、カール・スタンフォードと大矢口キャンサーを始末すればこのあたりの知識は特に必要ないまま事件は解決する。話す必要はないし、話すつもりもない。

 

 蓮は霧が出たら陸に上がる事を約束し、楽しそうに波と戯れつつ、海に入っていった。砂浜一帯は石碑探し目的の観光客だらけで、地元民らしい人々が顔を真っ赤にして大声を張り上げる忠告に耳を貸して帰っていく者は皆無といっていい。今の時代、怪物と怪物の戦争が起きる危ない海域だから入るな、といわれて納得する者は少数派だろう。むしろどんどん沖に出て行っている。中にはスキューバダイビングの完全装備で海に入っていく者も……矢本=サンだった。彼女のこのイベントに賭ける情熱が伺える。ライブが中止になったら怒り狂いそうだ。おお、怖い怖い。

 

 二時間ほど小雪と一緒に静かに雑談をしながら話をしていると、急に海に霧が出てきた。それは正しく虚空から湧いて出るようで、燦々と照りつける太陽の下で、静かに、そして瞬く間に海面に広がった。乳白色の霧は不自然なほど濃く、浜風が吹き抜けてもゆらりともしない。まるで現実とは別の法則に従っているかのように、ゆっくりと一定のペースで流れている。

 異常な霧が現れてすぐに、海に潜っていた観光客の半数が叫び声を上げ、慌てふためきながら浜に上がってきた。残りの半分は珍しそうに霧を眺めていたようだが、意に介さずダイビングを続ける。まあ怪物が出たわけでもなし。自然現象と解釈もできる。こんなものだろう。

 

 手に持った小さな網袋に収集品を入れた蓮が何度も後ろを振り返りながら私たちのところに来た。

 

「びっくりしたよもー。ほんとにいきなり霧が出るんだから」

「蓮ちゃん、大丈夫だった?」

「うん、すぐ上がったからね。まだ潜ってる人いるけど大丈夫なのかな」

「何かあっても自己責任だろうさ」

「そんな何かあるかもしれないみたいな……本当に神話的アレじゃないんだよね?」

「いや?」

「私達に内緒でこっそり動いたりしてない? 今度除け者にしたらグーって言ったよね」

「してないしてない。これが嘘を吐いている目に見えるか?」

 

 蓮が私の曇りなき眼を真正面からじっと見つめてくる。何故か身震いされた。

 

「お父さん、何か最近さ……」

「ん?」

「……や、なんでもない。してないなら良いよ。ごめん、疑ったりして。よしこの話は終わり! 珊瑚はたくさん見つけたけど、石碑はひとつしか無かった。変な文字みたいの書いてあるしこれでいいと思う。パンフの見本の写真と似てるし」

「ちょっと見せてくれ」

 

 蓮から手のひら大の角をとった直方体をした石碑を受け取る。黒っぽい材質で、金属のような石のような変な感触がする。それも当然、これは邪神の一柱が眠る海底都市ルルイエの建造物の欠片なのだ。地球のものではない、かどうかは知らないが、少なくとも人類の科学で解析できるものではない。表面に彫ってある文字は神話的言語のひとつ、ルルイエ文字だ。翻訳すると「with strange aeons(奇妙なる永劫と共に)」といったところか。邪神(クトゥルフ)に纏わる祝詞の一節である。

 

 霧は三時間ほどは出たままなので、昼休憩に入る事にした。蓮にパーカーを渡して着させ、近くの料理屋に足を向ける。中に入って沖縄料理をさあ注文しようという時、私の携帯が鳴った。発信者は亀海左京と表示されている。

 

「亀海さんから電話だ。少し出てくる。三十……いや、二、三時間か。長話になる予感がする。用事が終わったらこちらから連絡するからそれまで適当にぶらぶらしていてくれ――――はいもしもし、八坂です」

 

 早口に言って店を出て、店舗の陰で声をひそめて電話に出る。

 

「やあ八坂君、亀海です。しばらく。また急な話で悪いんですがね、ひとつご教授頂ければと」

「構いませんよ。今度は何がありました?」

 

 彼とはもう何度も似たような話をして、時にアドバイスを贈り、時に依頼を受け事件の解決に当たっている。説明し難い神話的事件の説明にも慣れたものだ。

 

「一週間前に東京都は足立区で密室殺人事件が起きたのですが、それがどうも妙でして。部屋に鍵がかかっているなんて生易しいものじゃあない。被害者は溶接工だったんですが、部屋がみっちりと鋼材で溶接して閉じられていまして。出入り口は無し。アリの子一匹どころか空気も漏れないほどです。が、被害者は背中を切り裂かれて死亡していました。調査は難航。さらに二日前、鑑識の一人が――――」

「ストップ」

「はい?」

 

 密室殺人。切り裂かれて死亡。これだけで下手人は相当絞られた。後はもう幾つか質問するだけでいい。

 

「その密室のどこかに何か奇妙な模様のようなものは描いてありませんでしたか?」

「いいえ。被害者が抵抗したような痕跡はありましたが」

「被害者の所持品にガラス、あるいは水晶はありませんでしたか? あるいは死亡の数時間から一週間前程度の間にそのどちらかに接触していたかも知れません」

「……なぜ分かったんです? 確かに遺品のレンズを鑑定していた鑑識の一人が錯乱状態になっています」

「溶接工の方の死亡現場か、鑑識の方の服か錯乱状態になった現場の付近に青白い膿のようなものはありませんでしたか?」

「ありましたねえ。心当たりがおありで?」

 

 もちろんだ。神話生物の特定完了。

 怪事件を探るという過程は吹き飛び、解決策を得るという結果だけが残る!

 

「下手人はティンダロスの猟犬ですね。情報を言うのでメモの用意を……いいですか? 大きさは大柄な男程度。四足歩行の怪物で、見た目は猟犬と呼ばれていますが犬ではありません。厚革程度の硬さの皮膚を持ち、一分間で瀕死から全治するほどの再生能力を持ちます。物理攻撃は全て無効にします。魔術か、魔術がかかった武器のみがダメージを与える事ができますが、倒すのはまず不可能と思って下さい」

「倒すのは不可能? どうしろと。まさかどうしようもない邪神の類では」

「違います。結論だけ言えば、完全な球体の容器を作り、その中に閉じ込めれば封印できます。普通の箱に閉じ込めても空間を超えて脱出されるので、必ず球体でなければなりません」

「空間を超える?」

「条件付きのテレポートのようなものだと思っておいて下さい。そのあたりが密室殺人のからくりですが、詳しく説明するつもりはありません。説明自体はできますが、ティンダロスの生態について理解するためには人間の常識を捨て、異界の歪な知識を身に付ける必要があります。亀海さんはまだ気狂いになりたくはないでしょう?」

「……八坂君が知らない方が良いと判断したのなら、その方が良いのでしょうねえ」

「ご理解頂けたようでなによりです。鑑識の方がまだ生きているのなら、ティンダロスはその人のもとに必ず再び現れます。その時に球体の中に閉じ込めるのが良いでしょう。方法は現場の判断にお任せしますが、ティンダロスの知性は人間並みです。野犬を罠にハメるのとは訳が違うという事を念頭に起き、決して油断はなされないように。私から言える事は以上です」

「なるほど。いや、大変参考になりました。お礼の方はいつもの口座に振り込んでおきますので」

「よろしくお願いします。また何かあれば連絡をして下さい」

「八坂君も何かあれば我々が助けになりますよ。君も大概トラブル体質だからねぇ……おっと、失言だったかな。ではこれで」

「お疲れ様です」

 

 電話を切る。また特命捜査係が面倒な事件を扱っているようだが、あの部署はだいたい三ヶ月おきに神話生物絡みの事件に首を突っ込んでいる、精神病院行き警官が最も多い部署だ。健闘を祈る。

 

 時計を見ると、まだ店を出て十分しか経っていなかった。よし。これであと二、三時間はフリーだ。

 蓮から受け取ったままの石碑を手の中で弄びながら文化会館へ行く。三十分ほどで着くと、文化会館の前では数人の警備員が張っていた。明日のライブに向けての準備だろう、機材を抱えたスタッフ達が慌ただしく出入りしている。警戒されないように護符の力を解除して火傷痕を消し、警備員に話しかける。

 

「すみません、今見学いいですか? 石碑出せば入れてもらえると聞いたのですが……」

「大丈夫ですよ。見せて頂けますか?」

 

 石碑を渡すと、警備員は見本の写真を出して見比べてから頷き、脇に置いてあった箱に入れた。軽い身体検査の後、入場制限時間が書かれたネックストラップとパンフレットをくれる。

 

「シルバー・ブルー・メン結成二周年記念グッズ売り場は一階ホール右側です。二階フロアで与那国島歴史展をやっていますので、よろしければそちらもどうぞ。」

「ありがとうございます。警備お疲れ様です」

 

 難なく敵本拠地にして最終決戦の地に侵入した私は、体内からスタンガンを吐き出して袖口に隠しておく。後はカール・スタンフォードを痺れさせ、大矢口キャンサーを始末するだけだ。

 文化会館の中では、ファンらしい若い女性が私と同じネックストラップを下げてうろついていたり、土産物コーナーに群がっていたりした。二階の歴史展コーナーにも年配の男性客がちらほらいる。

 特に怪しまれないまま堂々とうろつく。スタッフオンリーの部屋にいたりすると少し面倒な事になるが……

 

 なかなか見つからないので、いっそスタッフの誰かに尋ねようかと考え始めた頃、特徴的なカイゼル髭のスーツ男がトイレに入っていくのを発見した。カール・スタンフォードだ。

 彼を追ってトイレに入ると、銀の杖を壁に立てかけ、便器の前で無防備に背中を晒していた。本来は恐ろしく強いはずなのに、弱点が分かっているだけで瞬殺哀れみすら覚える。後ろを通り過ぎるついでにスタンガンを出し、尻に軽く当てる。

 

「っ!?」

 

 カールはびくんと一瞬痙攣し、素早く振り返りながら懐から銃を抜きその銃口を私の額に押し当てた。

 

「え」

 

 発射された大口径の鉛弾は、私の頭部を吹き飛ばした。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 首から上が無くなってしまったので、私は即座に手のひらに目を作って視覚を回復した。カールがダメ押しの二発目を撃とうとしているのが見える。拳銃程度で今の私は殺せないが、銃声で人が来るのはよろしくない。時間はかけられない。

 私は人型を辞め、溶解したむき出しの人肉と臓器が集まったドロドロの本性を現し、ぶわりと体を広げてカールを押しつぶした。驚愕に目を見開きながらもカールが二発目を撃ち、体に風穴が空くが、当たってもどうという事はない。そのままカールの体を包み込み、口を塞ぎ、ぐじゅるぐじゅると蠢いて銃を手ごともぎ取り、押しつぶし、肉を裂き骨を砕いて圧縮。最後に血液を啜り、異界の構造をした消化器官で速やかに消化しきった。

 

 事を終え、頭の残骸を取り込み人型に戻って立ち上がる。既に負傷の再生は完了している。

 

「ふむ」

 

 頭部よし腕よし足よし魔力よし。至って「正常」だ。

 危ない危ない。人間を辞めていなければ即死だった。

 

 私は会社を辞める時に作った細胞を変異させる薬で「原ショゴス」という神話生物になっていた。変異に必要な薬品の幾つかと設備を省いているため、本来ならば薬の副作用で体細胞が異常を起こし一気に末期癌になり、一週間の間苦しみぬいて無残に死ぬのだが、そこは《治癒》を使う事で解決した。

 

 原ショゴスのスペックは、象並の怪力とタフネス、約二分で瀕死から全回復する超再生能力。更にありとあらゆる被ダメージを最小限に抑えられ、脳細胞や重要器官が体全体に分散しているため、頭部や心臓を狙われても全く問題ない。激昂しない限り人間の姿を取り繕う事ができ、体のどこにでも余分な手足や目、耳などの器官を作ったり消したりできる。ぐちゃぐちゃした肉と臓器の塊のような本性を表せば変形も自由自在。獲物を押しつぶして消化しても体積は変わらない。

 気配に敏い動物に怯えられるようになった事と、迂闊に健康診断を受けられなくなった事、神話生物にのみ有効な攻撃が効くようになってしまった事がデメリットだが、メリットはそれを補って余りある。

 神話生物と戯れようと思ったらこれぐらいしなければいつか事故死してしまう。

 

 トイレの外からバタバタと足音がする。銃声を聞きつけた警備員だろう。既にカールの死体は消化してしまい殺人の証拠は無いが、全裸でトイレに突っ立っていれば連行は不可避。私は体を細く変形させ、自分の服と一緒に窓の格子をすり抜けて外に脱出した。

 

 背後に警備員たちの困惑した声を聞きながら、茂みで服を着て何食わぬ顔で現場を離れる。

 まだちょっとドキドキしている。銃口を向けられた時は一瞬死んだと思った。一体なぜスタンガンが効かなかったのか……まさか尻に絶縁体を入れていたわけでもあるまい。しっかり電流が入った手応えはあった。それにあの反応。尻にスタンガンを受けた直後、全く迷わずに殺しに来た。あれはこういう状況を想定していなければできない動きだ。

 今度のカール・スタンフォードは電気ショック攻撃をされるのが分かっていたのだ。

 

 なぜ分かっていたのか? なぜ効かなかったのか?

 まさかカール・スタンフォードにも中の人がいるのではあるまいな。

 ……流石にそれは。いや、有り得る、のか?

 背筋が冷える。私という前例がある以上、無いとも言い切れないのだ。自分以外にもチートさながらの情報を持っている者がいる。こんなに恐ろしい事はない。

 

 と思って宇宙的恐怖に駆られたがすぐに落ち着いた。本当に私の事を知っているなら、原ショゴス対策もとっていたはず。スタンガン無効のカラクリが何であれ、神の目線で私の動きを察知されたわけではない。クトゥルフ神話の魔術には未来を漠然とした形で占うものがあるし、亀海が今追っている事件にあったように、未来を見るアーティファクトも存在する。限定的に私の襲撃を察知していたとしても不思議はない。

 一応前後関係を洗うぐらいはするべきだろうが、深刻になるほどの問題でも無いか。後は大矢口キャンサーを始末すればエンドだ。

 

 メールで蓮に連絡すると、砂浜に戻っていると返信があったのでそちらへ向かう。

 私は砂浜で休憩したり砂山を作ったりしている観光客たちの間を縫って女性陣に合流した。

 

「お帰りなさい。遅かったですね、何の話でした?」

「いつものだよ。少しアドバイスをして、それだけだ。いや、昼も食べてきたな」

「あ、なんだもう食べたんだ。何食べたの?」

「肉かな」

「大雑把すぎ。えー、黒豚とか?」

 

 人肉だ。などと言えるはずもなく。

 

「ソーキそばだ」

「それ肉じゃないでしょ」

「えっと、確か沖縄のそばですよね。……ソーキそばのソーキってどんな意味なんでしょう」

「え、なんだろ。ソーキ、ソーキ。思い出のそばで想起そばとか?」

「意味は知らんがそれは違うんじゃないか。ググってみるか」

 

 石碑を無くした事を突っ込まれるかと思ったが、ぐだぐだと四方山話をするばかりで触れられなかった。聞かれる前に小雪を蓮に任せ、霧が晴れた海に入る。若い女性ばかりの砂浜でも、二人は際立っている。私がいなくなった途端にたちまち男が寄ってきていた。まあ、いくら二人が可愛くても白昼堂々衆人環視の下で何かする奴はいないだろう。可愛いとはいってもそれは人間の範疇。問答無用で理性を吹き飛ばす人外の美貌ではない。

 あまり過保護なのも良くないし、あの二人は少し嫌な思いをしてでも今の内に男のあしらい方を覚えた方がいい。いつも私が守れるとは限らないのだから。

 

 さて、ダイビングだ。浅瀬で波と戯れて本来の目的を忘れているミーハー女子の群れをかきわけて沖へ向かう。近くに人がいないか確認すると、少し離れたところでまた矢本がいた。漁師が使うような網を持ち、ペンギンのように水中を突進して潜っては浮き上がってをひたすら繰り返している。網の中には十個近い石碑が入っていた。奴は本気だ。

 石碑を多く持っていくほど良い席が取れる仕組みになっているので、矢本はそれ狙いだろう。ミーハーもここまでアグレッシブだと感心する。

 

 私は矢本から少し距離を取り、水中に潜った。海底に沈み、神話生物の知覚と肺活量を活かして砂と海藻がこびりついた岩の上を這いずる。

 狙いは石碑は石碑でも灰色っぽい石碑だ。

 

 実は与那国島海底遺跡周辺には二種類の石碑が沈んでいる。

 ひとつは黒っぽい石碑。ルルイエの破片で、深き者を呼び寄せる。カール・スタンフォードが集めたがっているのはこちらだ。最悪与那国島が海の底に沈む。

 もうひとつは灰色っぽい石碑。ドーリームランドという異界から漂着した神(ノーデンス)の神殿の欠片で、ノーデンスやその信奉者、眷属を呼び寄せる。比較的無害な石碑だ。

 

 このあたりの砂浜に頻繁に出る霧というのは、ドリームランドと繋がる事が原因で起こる現象である。地元民はニライカナイから神の使いがやってきて妖怪と戦っているというが、真相はドリームランドから霧と共にやってきたノーデンスの手下が深き者と戦っているのである。名前が違うだけで地元の伝承は概ね正しい。

 

 二つの石碑は大きさ、形、質感ともによく似ていて、並べてよく見比べてみないと区別がつかない。色の違いも微妙だ。灰色っぽい石碑の方にはルルイエ文字が書かれていないのだが、黒っぽい石碑の方もルルイエ文字が書かれているとは限らないので判別には使えない。石碑が二種類あるという事は首謀者のカール・スタンフォードですら気づいていない。

 ライブ会場に黒っぽい石碑が多く集まると、深き者の上位種にあたるダゴンやハイドラが召喚され、灰色っぽい石碑が多く集まるとノーデンスが召喚される。通常のシナリオの展開通りに進めば、探索者はどこかで石碑の種類の違いに気付き、それが何を意味しているのか探り、ライブ当日までに灰色っぽい石碑をできるだけ多く集める事に注力する事になるわけだが。

 私にはあまり関係ない。灰色っぽい石碑でも黒っぽい石碑でも、ライブ会場の入場券になれば良いのだ。もう一度会場に入れば――――大矢口キャンサーに接敵できれば今回の事件は解決したも同然。念の為に灰色っぽい石碑を探すが、正直どちらでも良い。

 

 誰も見ていないのを良い事に体の前後左右と下に二組ずつ十個の目を作って石碑を探していた私は、階段状になった海底遺跡の一部にルルイエ文字が彫られているのを見つけた。

 これは興味深い。文字の凹みを覆うように繁殖している藻類をこすって取り、解読を始める。

 

 私は八坂一太郎の知識と中の人の知識を併せ持っているが、クトゥルフ神話について完璧に知っている訳ではない。

 例えば、私は《クァチル・ウタウスとの契約》という魔術の存在、その効果を知っている。しかし使う事はできない。呪文の文言も必要な所作も知らないからだ。そこまでマニアックな部分はルールブックに載っていなかった。

 同じような事が全ての知識について言える。アウトラインしかない、殻しかない知識が多すぎる。この世界では殻を持っているだけでも凶悪な武器になるのだが、こうして実際にクトゥルフ神話的モノに触れる事で、殻の中に実を入れていくのはやはり重要だ。

 

 夢中で三時間ほど海底に居座り解読し続けていると、段々と文字が読みづらくなってきた。私の「ルルイエ文字」技能は21%であり、熟練度的にはカタコトで扱える程度。ちょっとした読み物でも、どうしても時間がかかってしまう。弱くなっていく光の中でなんとか粘り、解読を終えて浮上する。やりきった達成感に満足しながら目玉の数を二つに戻して海上に出たところでふと気付いた。

 ……石碑集めを忘れていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 申し訳なさが顔に出ていたのだろう、収穫無しと報告しても二人には責められなかった。時間的にはライブまで二十四時間あるのだ。まだ慌てる時間ではない。

 

「イベントの目的考えるとあんまり良い手じゃないけど、他の人が取ってきたの譲ってもらったりしてもいいしさ」

「そうですよ。落ち込まないで下さい」

 

 ホテルで夕食をとっている間中女性陣から慰められた。心遣いはありがたいが、そもそもライブそのものをぶち壊す予定なのでその事については全く悩んでいない。通行券(石碑)なしでどうやって侵入しようかと考えているだけだ。

 夕食後、女性陣が風呂に入ると言ったので、私は一人で夜の散歩に出かけた。ライブ会場の警備状況を下見しに行こうと思ったのだ。最悪、人ごみの中心で神話生物を召喚してSANチェックのバーゲンセール→混乱に乗じて突入という手段を使わざるを得ないかも知れない。

 

 ホテルのフロントで部屋の鍵を預けていると、声をかけられた。

 

「こんばんは」

「こんばんは……どこかでお会いしました?」

 

 アイサツをしてきたのは三十代前半ぐらいの男だった。南国の島にふさわしいカジュアルな格好をしているが、その妙にサツバツとした目にはどことなく覚えがある。

 男は外で、と低い声で言い、ホテルを出た。念のため《透視》をするが、ただの人間らしい。頭を吹き飛ばした途端に豹変して肉の塊になり、圧殺&消化されるような事はなさそうだ。

 男を追い、図らずも二人での夜の散歩になる。歩きながら、男は話し始めた。

 

「私は藤木戸という。オヌシとは以前東京でのエイリアン・ハンティングで会ったはずだ」

「根津です。あー、山の中ですれ違った?」

「うむ」

「よく覚えていましたね」

「それはお互い様だろう」

 

 私はエイリアン・ハント事件でミ=ゴを抹殺した後の下山途中にすれ違ったハンター一行の事を思い出した。一度会っただけなのに思い出せるのはINT18(人間の限界)の賜物だ。

 

「藤木戸さんもライブを見に?」

「いいや」

 

 雰囲気からしてそんな訳がないだろうと思いながら尋ねると、やはり首を横に振った。

 

「神話生物を殺しに来たのだ」

「へえ、神話生物」

 

 曖昧な返し方をして藤木戸を横目で見ながら《透視》をする。すると藤木戸と目が合った。藤木戸は無表情だったが、沸き立つような憤怒と怨念のオーラが出ている。推測するまでもなく、彼が神話生物に恐るべき殺意を抱いている事が分かった。

 そう、神話生物に。

 ……ワタシ、悪イ神話生物違ウ。殺ス良クナイ。

 

 神話生物絶対殺すマンと一触即発の散歩をしながらしばらく言葉を交わすと、幸いにも彼が私を狙いに来た訳ではない事はすぐに分かった。私が原ショゴスである事には気づいていない。霧と共に現れる妖怪の噂話を聞いて殺しに来ただけのようだ。なんでも以前私に会った後、ペンション前のミ=ゴとの戦闘痕やペンションを調べまわった痕跡を見て、私がやり手の神話スレイヤーである事を確信していたらしい。

 藤木戸は基本的に一匹狼で、この島に来てから独自に調査を進め、シルバー・ブルーメンの大矢口キャンサーが神話生物である事を突き止めた。しかしいざ襲撃しようという段になってライブ会場で発砲騒ぎがあり、警備が厳重になってしまった。手を出しあぐねて困っているところで私を見つけ、共闘を提案しに来た、という話だった。

 

「共闘ですか」

「オヌシも神話生物を相手に戦っているのだろう? 悪い話ではないはずだ」

「……藤木戸さんはなぜ神話生物を殺そうと?」

「かつて奴らに妻子を殺されたのだ。私は血の涙と共に奴らの根絶を誓った。神話生物、殺すべし」

 

 どこかで聞いたような経歴である。カラテが得意そう……というかコイツも絶対に探索者だ。脳筋(マンチ)系の。

 何ができるか尋ねてみると、投擲、格闘、変装、追跡、登攀、交渉には自信があると言われた。ラフな格好なだけに、細身ながらも強靭に鍛え上げられた肉体が服の上からでも分かる。実際強そうである。

 私もちょうどどうしようかと思っていたところだ。脳筋系の探索者ならまだ御しやすい。最悪囮や盾に使ってポイもできる。共闘を断る理由はない。

 私が魔術師で、知識と頭の回転には自信があると言うと、藤木戸は頷いた。

 

「ならば我々は得手不得手を上手く補える。共闘に嫌はないな?」

「アッハイ」

「うむ。ではよろしく頼む。夕方に下見をしたのだが、警備が厳重になっていても石碑を三つ持っていけば入れるようだ。ライブ開始前になれば一つでも入れるようになるようだが、奴らはどうも良からぬ事を企んでおるらしい。事前に阻止するのが一番良い」

「私は石碑を一つも持っていないのですが」

「私も二つしかない。石碑がなければ強行突破になる。それは現実的ではない。どこかで手に入れる必要があるが、今から海の底を浚うというのは時間がかかりすぎる」

「では―――――彼女から譲ってもらいましょう」

 

 海岸を歩いていた私は、岩場で一息ついているスキューバ装備の矢本を見つけて言った。手に持った網は石碑で膨らんだいる。あの数。一日中潜り続けていたようだ。

 私は藤木戸と相談し、彼に行ってもらう事にした。面識のある私の方が良いのではと提案されたが、藤木戸の交渉スキルに興味があるので適当に言いくるめた。

 なお、二人で行くのはNG。普通若い女性が人気の無い海岸で夜中に男二人に詰め寄られたら渡すものも渡せなくなる。

 

 藤木戸は迷いなくまっすぐ矢本の方に歩いて行った。何事か話しかけ、網袋を指す。矢本は首を横に振った。更に藤木戸が話しかける。矢本はやはり首を横に振り、中指を立てて突き上げた。

 

「ええい、渡せと言っておるのだ!」

「ちょっ」

 

 突然大声を上げ、激昂した藤木戸が矢本をタコ殴りにし始めた。交渉とはなんだったのか。

 矢本は石碑が入った網袋を取り落とし、海の中に落としてしまう。波に持っていかれる前に、とそれを回収している間に、矢本の顔面は整形(物理)されてしまっていた。目も口も腫れあがり、酷い有様だ。

 誰だこのクソ脳筋と共闘しようと考えた馬鹿は。私か。

 

「イカン、気を失ってしまった。病院へ――――」

 

 藤木戸が何か言っているが、とりあえず私は目撃されていない。石碑を持ってホテルに逃げた。ホテルの前で少し休んで呼吸を整え、何食わぬ顔で入る。

 中では藤木戸が待っていた。アイエエエ! ナンデ? 藤木戸ナンデ?

 

「遅かったな、根津」

「藤木戸さん早すぎませんか。矢本さんはどうしたんです」

「足の速さには自信があるのでな。彼女は病院の前に置いてきた。首尾は」

 

 人一人担いで病院を中継してホテルに来て私よりも速いのか。こいつ神話生物じゃないだろうな。

 疑いの目を向けると、藤木戸も私を探るように見てきた。うむ、人を疑うのは良くないな。

 もう夜も遅いので、私は軽い打ち合わせの後、石碑を山分けにして部屋に戻った。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 さて、ライブ当日の朝である。

 東京を出る時には到着したその日に終わるはずだった神話的事件はタイムリミットの日までもつれこんでしまった。半分ぐらいは探索者のせいだ。まあ役立つところもあるが。

 

 朝食バイキングで蓮と一緒にボンゴレパスタを皿に盛りながら藤木戸の姿を探すと、壁に貼られていた。

 正確には壁に貼られた紙にでかでかと似顔絵が載っていた。

 

「昨夜23:00頃、ホテル北西の海岸で婦女暴行を働いた疑い――――見かけた方は警察へ。うわー、どこにでも酷い事する人はいるんだね。昨日島の人がなんだか観光客に険悪だったけど分かる気がする」

 

 まあ……そうなるな。矢本が通報して似顔絵を描いたのか。探索者同士で足を引っ張り合うなと言いたいところだが、多感なうら若き乙女が顔を崩壊させられたら精神障害か復讐の二択だ。先程ホテルマンがロビーで集まって話していたから、藤木戸は今頃逃亡中だろうか。

 

「そうだな。蓮、今日はライブの時間までホテルにいろ。流石に出歩くのは控えた方がいいだろう。石碑は父さんが集めてくる」

「ん、分かった。お願いします。小雪ちゃんにも言っとくね。お父さんも気をつけてね? もう若くないんだから。なんか昨日若くなってたけど」

「気をつける」

 

 朝食後部屋に戻ると、部屋の窓が開いていて枕元に置き手紙があった。「オヌシの突入に合わせる」と書いてある。

 窓の外を覗くと、ホテルの壁面に薄らと足跡があった。忍者かあいつは。

 

 蓮にルームサービスは自由に使うように言って、私は再びライブ会場である夜刀浦市文化会館へ向かった。文化会館の前には立ち入り禁止のロープが張り巡らされている。そのロープの前でシルバー・ブルーメンのメンバーがプリントされた内輪やら横断幕やらを持った若い女子中高生達が警備員にキャンキャン吠えていた。

 

「なんで駄目なのよ!」

「だからですね、」

「ぶっとばすよ!?」

「オクトパス様に会わせてよ!」

「シュリンプ君がここに入ってくの見たんだから!」

「いや、ですか」

「もういい! どいて! どきなさい! どけえ!」

「あんた今触ったでしょ! 離してよ! どこ掴んでんの!」

「こ」

「調子のってんじゃないわよアンタ何様のつもり!?」

 

 警備員の殺意の高まりを感じる。私は遠巻きにして耳を澄ませた。

 警備員が何か一、二単語言うたびに頭の悪い一方的要求が十倍吠え返されるためなかなか話が掴めなかったが、どうやらライブの時間まで石碑をいくら持ってきても入れないようになったらしい。深夜の婦女暴行騒ぎを受けての警備体制強化との事だ。

 藤木戸は本当になんて事をしてくれたんだ。神話生物より忌々しく感じるのは気のせいだろうか。

 

 背後から視線を感じる。襟元に小さな目を作って振り向かずに背後を見ると、よく葉の茂った街路樹の太い枝の上に藤木戸が立って私の方をじっと見ていた。

 どうするべきか。本当に神話生物を召喚して藤木戸と一緒に突っ込ませて陽動にして、その隙に大矢口キャンサーを潰すか? いや、それだと藤木戸が私が召喚した神話生物を殺しにかかりそうだ。それはそれで陽動になる気もするが。

 ……なんだかもう面倒臭くなってきたな。入るのが難しいなら、いっそライブの時間まで調べ物でもして時間を潰そう。大惨事直前の介入でもなんとかなるだろう。探索者の横槍がなければ。

 

 街角で婦女暴行犯のビラ配りをしている有志の方々をスルーしながら図書館へ。クーラーの効いた小さめの図書館の一角、郷土資料コーナーから一昔前の建築資料を見つけ出す。何冊か同じような資料があったので多少手間取ったが、夜刀浦市文化会館の設計図を見つける事ができた。

 通気ダクト……水道管……駄目か。換気ファンや濾過装置が挟まっている。原ショゴス化&変形で配管から侵入は難しそうだ。下水管ならいけそうだったが、流石に汚物まみれになってトイレに参上は躊躇われる。

 前回見学した時にステージが設置されていた場所がここだから、バンドメンバーの控え室があるのは距離と位置取りから考えて……ふむ。

 

 昼食の休憩に蕎麦屋に入ると、テレビで藤木戸と警官隊のカーチェイスの様子が実況されていたが、スルー。ライブまで、時間をたっぷり使って計画を練り直す。

 それでも時間が余ったので、カール・スタンフォードの近況について調べてみた。ここ数ヶ月のバンドメンバーのブログや、カールが経営している警備会社の記録を読み返したところ、エイリアン・ハント事件でカールが心神喪失になってから数日後、カールは復調したらしい。しかしどうも以前と性格が少し変わったようだ。食べ物の好みも微妙に変わった。目玉焼きにソースではなく醤油をかけるようになったとか、白ワインではなく赤ワインを好むようになったとか、些細な差だが、加えて、カールの秘書的なポジションにいた男が姿を消したらしい。明確にいつから消えたのかははっきりしないが、タイミングはカール復調の前後二日程度である。

 カールのかかりつけの医者を装い、カール・スタンフォードがぶち込まれた精神病院に電話して聞いてみたが、今もカールは白痴状態で東京の病院にいるという。

 

 以上の情報から、私はカール・スタンフォードの秘書がカール・スタンフォードに変装して成り代わっていたのだという推測を立てた。

 何も知らずに計画だけ受け継いだ信奉者なのか、魔術の弟子だったのか。細かい経緯は分からない。ただ、カール・スタンフォードが成仏する時に着ていたスーツの尻には小さな焦げ目が残っていたかも知れない。そこからスタンガンで攻撃されたのだと……は流石に分からないだろうが、尻を狙われた事は分かる。尻への警戒があれば、そこへ攻撃してきた時にあれだけ俊敏な反応を見せたのにも納得がいく。しかもカール・スタンフォードではないのだから、当然スタンガンでお陀仏とはいかない。

 

 エイリアン・ハントのカール・スタンフォードとは別のカール・スタンフォードだと思い込んでしまった私の落ち度だ。

 ここは現実世界。バタフライ効果が発生し、私の知るシナリオと違う事が起きるのも十分ありえる。ゲームの世界としか思えないので忘れがちだが。

 時が経つほどにバタフライ効果は大きくなり、私の知るシナリオと実際に起きるシナリオの乖離も大きくなっていくだろう。これからはシナリオの知識はアテにしない方が良さそうだ。

 もっとも、神話生物や神話的歴史、魔術などの知識だけでも十二分に凶悪な性能を発揮するのであまり喪失感はない。強くてニューゲームで持ち金を引き継げなくても、レベルとスキルとアイテムを引き継げるならほとんど変わりはない。それと同じだ。

 

 さて、ライブ一時間前。私は蓮と小雪を連れて夜刀浦市文化会館へ向かった。太陽は水平線の向こうに沈み、雲ひとつない夜空には満天の星星。吹き抜ける潮風が昼間の熱を爽やかに拭いさっていく。

 矢本から奪取した石碑の私の取り分は十一個あり、黒っぽい石碑を除外しても五個あった。蓮と小雪に一個ずつ灰色っぽい石碑を渡して先に行かせ、自分も会場入りする。

 

 会場は人が犇めいていて、何か怪しい事をしていても逆に目立たない。頭の中の見取り図に従ってそっと控え室に向かう。そのあたりに積んであったダンボール箱を抱え、「お疲れ様です」と一声かけるだけで関係者以外立ち入り禁止の立札の前の警備員も突破できた。厳戒態勢とはなんだったのか。確かにライブ直前のこの人並みでいちいち厳重チェックをしていたらいつまで経ってもライブが開始できそうにないが。

 

 ダンボールを抱えたまま廊下を歩き、控え室と思しき部屋に躊躇なく入る。部屋にいたテレビの撮影班が何人か目を向けてきた。

 

「あれシブメンの控え室ってここじゃありません?」

「ああ、隣だよ」

「すみませんありがとうございます」

「いいよいいよ、お疲れさん」

 

 焦った声音を作って情報を引き出し、隣の部屋へ。

 入る前に聞き耳を少し立てるが、中にいるのは二、三人のようだ。これならいける。

 

 部屋に入って内側から鍵をかけると、中にいたのは二人だった。一人は大矢口キャンサーで、壁にもたれかかってギターをチューニングしている。

 もう一人は矢本で、パソコンで変声ソフトを駆使し、警官隊に指示を出していた。

 何をしているんだ。

 探索者は本当にどこにでも湧いて出るな。邪悪な陰謀の黒幕達が負けるわけだ。

 

 ダンボールを置きながらパソコンの画面を見ると、どうやら矢本の監視カメラハッキングと警官隊の指揮により、どこだかは分からないがすごく高いビルの屋上に藤木戸が追い詰められた所のようだった。腫れ上がった顔に包帯を巻いた矢本は舌なめずりをしている。

 私は腹部に口を作り、小声で魔術の詠唱を始めた。詠唱は部屋の外の喧騒に紛れて聞こえない。

 

「よし! 追い詰めたわ。ざまあみなさい!」

「荷物確認してもらっていいですか?」

 

 俯いてダンボールの荷解きをし、顔を隠しながら大矢口キャンサーに向かって言うと、キャンサーは手の甲で壁を叩いた。矢本が振り返ると、顎で私を指す。

 

「何よ今いいとこなのに」

「お忙しいところすみません、荷物の確認をお願いします。すぐに済みますので」

「はいはい何なのもー」

 

 無用心に矢本がダンボールを覗き込んできたところで、すかさず顔面を鷲掴みにする。口を塞ぎ、手を六本生やし、隠し持っていた紐で素早く縛り上げた。目隠しも忘れない。

 キャンサーは弾かれたように壁から離れ、出口に向かって逃げようとする。

 

 遅い。遅すぎる。

 

 体内に隠していた火炎瓶をキャンサーに投げると同時に《ナーク=ティトの障壁》を発動。物理も魔術も通さない透明の球形結界に閉じ込められたキャンサーは、内側で燃え上がる炎にのたうち回った。顔を隠していたタオルや、ダメージジーンズが焼け焦げて崩れ、人型をとっていた数百匹の小さな蟹の群れがボロボロと落ちて結界の底に溜まる。

 数十匹が美味しそうな焼き蟹になったところで、酸素不足になって炎は鎮火した。しかし燃え残ったガソリンと煙、一酸化炭素などの有毒ガスは結界内に残っている。キチキチと鋏を鳴らしながらなんとか逃げ出そうと蠢いていた蟹達は白い泡を吹き始め、動きが鈍くなっていき、やがて仰向けになって動かなくなった。

 《透視》で確認する。オーラは消えていた。死んだのだ。

 

 磯の生き物の群体である大矢口キャンサーは、命の危機が迫ると人型を辞め、蟹の群れになって散開・逃走する習性がある。子蟹が入り込む隙間なんてどこにでもあるので、こうして閉じ込めて蒸し焼きにでもしない限り仕留めきるのは難しい。

 しかし生焼けの蟹は不味そうだ。食欲が湧かない。

 

 結界を解除すると、蟹の死体が床にざらりとぶちまけられた。突然部屋に広がった磯臭さと焦げ臭さに、簀巻きになって転がっている矢本が動揺しているのが見て取れた。彼女はこのままでいいか。すぐに助けられるだろう。

 これにてお仕置き完了。撤収撤収!

 

 またダンボールを持って顔を隠しながら部屋を出ようとしたところで、ステージの方から壁を突き抜けるような大歓声が聞こえた。盛り上がるシブメンコール。轟く音楽。

 まったく、何も知らない連中は本当に気楽で……ちょっと待て。まだキャンサーがここにいるぞ。ライブが始まったように聞こえるんだがこれはどういう事か。

 

 ハッとして机の上に置きっぱなしになっていたパンフレットを見ると、キャンサーのステージ登場予定が他のメンバーよりも五分ほど遅れていた。

 しかもその五分の間に、ファンが配布された冊子の祝詞をバンドメンバーと一緒に歌い上げるイベントがある。

 

 まずい。

 まさか自分が死んでも召喚儀式が遂行されるように仕組んでいたとは。「もうシナリオの知識はアテにしない」とはなんだったのか……やはり体のスペックがINT18でも中の人がアレだとアレなのか。

 

 私は部屋を飛び出し、廊下を駆け抜けてステージに走った。

 ステージの前にわらわら群がるファンの群れは、既にバンドメンバーに合わせて詠唱を始めてしまっていた。それが喚ぶべからざるものを喚ぶための詠唱とも気付かず、ライブの熱気にアテられ、興奮して、大声を張り上げている。

 

「やめろ! ストップ! ストーップ!」

 

 叫びながら群れの中に飛び込むが、パワフルな若い女性の中におっさんが一人混ざって叫んだところで止まるものではない。《ナーク=ティトの障壁》に魔力を使ってしまったので、神話生物を召喚して混乱を起こし強制シャットダウンという手も使えない。

 せめて蓮だけでも連れて逃げようと携帯に手をかけたところで、会場にどこからともなく乳白色の濃い霧が湧いて出た。

 

 最初は演出かと思ったらしくキャアキャア言っていたファンも、どこがとは言えないが妙なその霧に沈黙していく。

 不気味なまでに静まり返った会場。やがて近いようで遠い、現実と膜一枚を隔てた裏側から歌が聞こえてくる。

 それは賛美歌だった。それはこの世の正気の世界で知られているどの言語とも違ったが、意味は分かった。大いなる深淵の大帝、ノーデンスを称える賛美歌だ。

 そっちが来るのか。

 

 最初霞みがかったようにおぼろげだった歌がはっきりしてくるにつれ、会場の足元にひたひたと海水が溢れ出てきた。亀裂のないコンクリート床からなぜか湧き上がる海水にファンたちは困惑し、混乱し、すぐに悲鳴を上げながら出口に向けて津波のように逃げていく。押し合い、へしあい、転ぶ者がいれば踏んで逃げる。

 

 みるみる水位が上がり、膝丈まで海面が上昇する。スタッフまでが半狂乱で逃げ出しガランとした会場の真ん中では、震える小雪を背中に庇い、目を見開き硬直する蓮の姿があった。

 

「蓮! 逃げろ! こっちだ早く!」

 

 会場の出口付近から呼びかけるが、反応が無い。いかん。恐怖で硬直している。中途半端に神話知識があるため、自分が恐ろしい状況に陥っている事に気づいてしまったようだ。

 急いで蓮の方へ向かうが、海水のせいで移動が遅れる。半分も移動しないうちに、霧の向こうから滑るように貝殻でできた戦車に乗った老人が現れた。奇妙な戦車は腕が三本ある歪な人魚が静々と水をかきわけて牽いていた。

 

 ノーデンスが降臨してしまった。

 

 私は彼に目をつけられないようにすぐさま停止し、水面ギリギリまで沈んで目立たないようにした。ちょっと人間を辞めた程度の私が真の神にできる事は、頭を低くして無事を祈るだけだ。万が一ノーデンスに攻撃されたら神話生物ボディの私ですら一撃で消し飛ぶ。

 

 ノーデンスは邪悪がデフォルトのクトウルフ神話の神々の中で、もしかしたら一番かも知れないほど人間に対して善良な神である。それでも「割と友好的」という程度なのだが。

 彼には少しお茶目なところがあり、降臨した際に気に入った人間がいると、帰還するついでに連れ去ってしまうのだ。そしてどこか行き当たりばったりの適当な場所に置き去りにする。銀河系の果てに置いていった事もあるという(その時は連れ帰ってきた)。

 ノーデンスがどんな人間を好むかは分からない。神の考える事など分かるはずがない。できればそのまま何もせず帰って欲しいところだが――――

 

 ノーデンスはゆるりと周りを見回しながら、ライブ会場を一周するようにゆっくりと戦車を一周させた。《透視》でノーデンスの感情を読み取ろうとしたが、POW100の絶大なオーラと、見たこともない奇怪な揺らぎ、表現しがたい色とも言えない色あいが視えただけ。今怒っているのか、喜んでいるのか。そもそも感情があるのかすら分からない。

 

 こいつを早くどこかへやってくれ、とクトゥルフ神話の中でもノーデンスに対抗する神(ニャルラトホテプ)に祈りながら目で追っていると、ノーデンスは会場を一周したところで戦車の向きを変え、未だ硬直状態の蓮と小雪の方へ向かった。

 

 おい馬鹿やめろ。

 

 私は水面から飛び出し、血管を破裂させ血液で空中に紋章を描きながら全速力で蓮を庇いに向かった。紋章を介して《門の創造》を使えば、この場からワープして脱出できる。POW(魔術的素養)を1ポイント永久的に失うリスクがあるが、この際そんな事は構っていられない。

 

「テケリ・リ!」

 

 ノーデンスを制止する言葉を吐こうとして代わりに出たのは、自分の声とは思えない奇妙に歪んだ鳴き声だった。激情のせいか、いつのまにか全身が原ショゴス化している。

 構わず水面を転がるようにして猛進し、蓮に向けて触肢を伸ばす。しかし触肢が届く前にノーデンスは目を大きく見開いたまま石像のように硬直する蓮を貝殻の戦車に引き上げ、溶けるように消え去った。

 

 触肢が空を切り、勢い余って水中へ突っ込む。顔を上げると、霧が晴れ、するすると海水が引いていった。そこには既に誰もいない。何もいない。描きかけの紋章は霧散した。

 頭を抱え、うずくまって震えている小雪は無事だったが、蓮が攫われてしまったのなら何の意味もない。遠く、ライブ会場の外からサイレンが聞こえる。

 人型に戻り、髪から海水を滴らせながら、私は言った。 

 

「私を怒らせたな、ノーデンス」

 

 お前が蓮を銀河の果てまで連れて行くというのなら、銀河の果てまで追いかけて取り戻す。

 邪魔をするなら容赦しない。

 遊びは終わりだ。

 探索者(SAN0)の本気を見せてやる。


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