おっさんは、どういう意味だ、と顔をしかめたようだ。なんだ、こいつは自分の内面に気付いていないだけか。たからだろうな、あんな綺麗なことだけの言動をとれるのは。全くもって人ってやつは自分の全面にしか興味を示さない。
「1886年、ある短編小説が発表された。それは、僅か数ページでありながら、見事に人間の本質が描かれている作品だ」
「......なんの話だ?」
俺は、おっさんの疑問に喉を鳴らして答えた。
「まあ、聞けよ。面白い話だ。その小説は、ある男の奇行から始まる。ある男か曲がり角で女の子とぶつかるが、そいつは倒れた子供に構わず、まるで気付いていない様子で踏みつけて先を進むんだ。たまたま、通りかかった男が胸ぐらを掴んで現場に戻ると、人だかりの中、男は言った。面倒事は嫌いだ、いくら払えば良い?」
気づけば、聞こえてくるのは廊下に響く足音だけになっていた。コツンコツンという軽い音が連続して反響している。
六人......いや、八人だな。
暗い世界で過ごしてきた俺にとって、足音から呼吸に至るまで全てが現状判断の材料となる。
警察署に着いてから、少し人数が減ったらしい。それは、小倉北警察署の中枢部へ近づいている証拠だ。絶対に、逃がさないつもりだろう。逃げるつもりは毛頭ないのに、こいつらはどこまでも愉快だ。
何故、愉快か?それはな、黙れと言ったおっさんが、俺の話を遮らないからだ。聞けよ、と念を押された時点で口を挟むべきなんだよ。
「物語の語り手は、その胸ぐらを掴んだ男と知り合いだった。そして、その乱暴者ともな。そいつの名前は......」
「......ハイド」
俺は不意に聞こえた声に片眉を上げた。
「なんだ。知ってたのなら先に言えよ。意地が悪いな」
おっさんが鼻を鳴らす。
「途中で思い出しただけだ。東、一つだけ教えてやる。知識をひけらかすのは馬鹿のすることだ」
「ひゃはははは!馬鹿のすることだと?それなら、ひけらかす知識がない奴はなんだ?アホか?マヌケか?それとも、化け物か?」
「......違うな。そいつらも、ちゃんとした人間だ!」
語尾を強めたことで冷静さを装っているのが、丸分かりだ。俺はすぐにでも、その取り繕った皮を剥いでやりたくなった。
「ああああああ!つまんねえなあ!なんだよ、結局はアンタも他の奴等と同じかよ!」
ざっ、と俺から一斉に距離を空けたのだろう。靴が床を擦れる音が多重に耳に吸い込まれる。それも一人ではなく、ほぼ、全員だ。加えて、何かを引き抜くような衣擦れまで聞こえる。やっぱりな。
おっさんが怒鳴った。
「東!妙な真似はするな!」
俺は、心の底から笑った。大爆笑ものだ。出来ることなら、腹をかかえて地面を転がりたい。
切羽詰ったような声が聞こえる。もう、誰の声かなんてどうもで良かった。俺は、おっさんがいるであろう方向に首を回して、じっくりと言う。
「おっさんよお……気付いてねえの!?それがお前のハイドだよ!何が人をまもるためだよ!その為なら銃を向けんのか!?殺すのか!?そんなもんなんだよ人間なんてよお!ジキルとハイドの二面性、それを持ってるから人間なんだよ!良いか?お前らは俺を見る事が、世間は俺を見る事が怖いんだ!自分の中に必ずある凶暴性や暴力的嗜好、それを認められねえだけなんだよ!俺から見たら、お前らこそ人の皮を被った別物にみえるぜ?ひゃはははははは!!」
晩飯なんにしようかな……