感染 番外編   作:saijya

15 / 36
第5話

 背中を向けたことで、男は吐息をつき、参考にさせてもらう、と呟いて去っていく。その途中、俺は、あっ、と声を出して男の足を止めた。

 

「最後に、訊いておきたいんだけどよ、テメエの名前なんだったっけ?」

 

 男の眉がゆっくりと上がっていく様が面白く、俺は哄笑した。

 長年、積み上げてきた相手の沃野に、害のある言葉を投げ掛けるのは、素晴らしく甘美な一瞬だ。

 男は八の字に眉を曲げて言った。

 

「……長浜だ。名前は長浜という。覚えておいてくれ」

 

「……ああ、そういやぁ、そんなことを言ってたな?気が向いたら覚えといてやるよ。それから……」

 

 ガシャン、と檻を鳴らし、俺は半ば叫ぶように言った。

 

「覚えとけや!人ってやつは、進化を目指しちゃいねえんだよ!目指してるもの、それは安定だ!安定こそを目指しちまってやがんだよ!誰だってそうだ!自身の立場や環境を守る為に行動を起こすんだ!テメエの理想とする善意に溢れた人間なんざ、この世界にも、歴史にもいやしねえんだよ!しっかりと理解しろよ?人間ってやつは、歴史上に存在する、あらゆる種族の中で、最も汚く、最も醜悪な存在だってことをなぁ!それを理解したとき、お前はより高みに昇れるんだよ!理解できればの話だがなぁ!ヒャハハハハハハハハ!」

 

 ぐっ、と唇を締めた長浜は、俺の声を切るように振り向いて廊下を歩いていく。木で鼻を括るような最後にしたのは、俺なりの優しさってところだ。あの甘ちゃんは、これから先、どこかで今日のことを思い出して懊悩するだろうな。そのとき、初めて気が付くんだ。

 人間ってやつは、心底、脆く作られているってこにな。

 その瞬間に立ち会えないのは残念だが、まあ、それは良い。俺の暇潰しにはもってこいだ。

 

「いかなるものでも、自然という造物主の手から出るときは善である。人間の手に渡って悪となる……か。楽しみにしてるぜ?テメエの心情が自然と崩れ去る、その日をよぉ……!」

 

 冷めた檻の中に、木霊するように俺の笑いが響いた。愉快適悦、久方ぶりの気分が、更に満たされのは、その二日後だった。安部が俺の前に現れることになる。

 その日も、面会室での話しだった。変わらずの拘束具で縛られた俺を見るや、安部は分厚い聖書を小脇に抱えたまま、神妙な顔で席につく。聖職者という立場にあるにしては、前回のような快活とした様子もなく、嫌に暗い雰囲気を纏っているが、目元には剣が浮いていた。

 

「なんだよ。ようやく会いに来てくれたって喜んでのによぉ、随分な面してんじゃねえか」


▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧 ※ログインせずに感想を書き込みたい場合はこちら
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。