1
「何や、これ?」
床に落ちていた者を摘まみ上げ、龍驤は首をかしげた。
一言で言えば人形だ。掌に乗るくらいの大きさで、頭のてっぺんには紐が付いている。
しかし、
「けったいな人形やな。弓なんて持っとるわ」
橙色の着物を着た女の子が、弓を構えている人形。
出来は、残念ながらお世辞にも良いとは言い難い。
しかし、
持っている人間が大切にしているのか、綺麗に洗われ、ところどころ繕ったような跡まである。
それに、
「何や、この面構え、どっかで見覚えがあるんやけどな~」
言いながら、じろじろと人形を眺める龍驤。
と、その時、廊下の向こうで、見知った顔の少年が焦った調子で何かを探しているのが見えた。
「あれ、相沢やんか?」
首をかしげる龍驤。
ふと、自分の手の中にある人形と、直哉とを見比べる。
そこで、ピースがガッチリと噛み合った。
「相沢ー、探し物はこれかいな?」
問いかける龍驤に、振り返った直哉は、急いで駆けて来た。
「あー ここにあったんだッ ありがとう龍驤!!」
直哉は龍驤から人形を受け取ると、ほっとしたように笑顔を浮かべる。
そんな直哉の様子を龍驤はじっと見つめると、ややあって口を開いた。
「なあ、相沢・・・・・・・・・・・・」
「あっと、ごめん。僕、これから訓練だった。ごめんね龍驤ッ ありがとう!!」
そう言うと、直哉は龍驤が呼び止めるのも聞かずに駆け去ってしまう。
何とも、慌ただしい限りである。
後には、声を掛けようと腕を伸ばしたまま立ち尽くす龍驤だけが残された。
既に見えなくなった直哉の姿。
その背中を思い浮かべ、龍驤は嘆息する。
「やれやれ・・・・・・どうやらうちが思とる以上に、色々と複雑みたいやな」
誰が誰を想い、誰の為に戦っているのか。
外側から俯瞰的に見てみれば、それが面白いように判ってくる。
しかし、問題なのは、当人同士がその事に全く気付いていない点だった。
「まあ、うちとしてはどうでも良いと言えば、その通りなんやけど・・・・・・
言ってから、龍驤は考える。
「まあ、隣人が困っとる言うに、黙って見過ごすんは、大阪人としての名折れやしな」
同じ2航戦所属のよしみである。ここは自分が一肌脱ぐ場面であろう。
そう決意を固める龍驤であった。
因みに、
くどいようだが、龍驤は横須賀出身である。
決戦の準備が着々と進められる中、連合航空艦隊司令官小沢治俊中将は、忙しい日々を送っていた。
今や連合艦隊の支柱とも言うべき機動部隊の長である小沢は、艦隊泊地をそれまでのトラックからパラオ諸島へと移した後、艦隊と本土を数日おきに行き来する、という生活を送っていた。
とにかく、来たるべき決戦に向けて、少しでも戦力の拡充を図りたい小沢は、連航艦全体の技量向上に努める一方、新型機や新造艦の開発推進に発破をかける日々だった。
今回は新造空母「大鳳」の視察を終え、艦娘の少女と歓談してから、その足で彼女を伴い、航空技術廠へとやってきた。
ここでは、航空本部の指示に従って、各種新しい機体の開発が行われている。
小沢は今日ここに、新型の艦上戦闘機を見に来たのだ。
大鳳を連れて来たのは、実際に運用する彼女自身の意見も聞いてみたいと思ったからである。
「すまんな、大鳳」
ともに並んで歩きながら、小沢は少女に語りかける。
小さな少女だ。
小柄で手足も細い。ふとすれば、駆逐艦娘と見間違ってしまいそうである。
ショートボブに短く切った髪に、生真面目そうな表情が特徴的な少女だった。
「本当なら17試艦戦を見せてやりたかったんだが、あれはまだ完成していないらしいからな」
「いえ、こうして連れてきていただけで、新鮮な気分になれます」
そう言って大鳳は頷く。
万事、控えめな印象がある少女である。決して無口な訳では無く、割としゃべる娘なのだが、どうやら性格的には大人しい方らしかった。
やがて、2人は研究所らしきフロアに入る。
研究所、と言っても航空機の開発をする場所である。学校の体育館くらいの広さがあった。
そこでいくつかの航空機の試作品が並べられ、作業服に身を包んだ研究員たちが忙しく歩き回っていた。
「お待ちしておりました小沢提督。どうぞこちらへ」
事前に視察に来る事は知らせておいたので、担当の技術者が案内をしてくれる。
やがて小沢と大鳳は、1機の戦闘機の前に案内された。
「零戦、ですね」
「そうだ」
既に知識を得ていたらしい大鳳は、機体を見上げて呟く。
帝国海軍が3年もの間、主力戦闘機として一線で活躍させてきた名機。既に退勢の兆候があるとは言え、その日本刀の如き鋭い精悍さは、聊かも損なわれる事は無かった。
「零戦52型。最新のバージョンです。これまでの零戦の弱点だった速度性能を幾分改良し、更にかねてからの問題だった、防弾性能も向上させました」
そう言うと、技術者は誇らしげに目を輝かせる。
零戦52型は最終的に、零戦各バージョンにおける最多生産数を誇り、ベストセラー機として知られる事になる型である。
しかし、
小沢は零戦52型を、険しい表情で眺める。
性能が向上したのは確かに喜ばしい事だが、しかし既に、零戦自体が限界を超えている節がある。事実上、これ以上の強化は不可能と見た方がいい。
元々、初期設計からして無理があった機体である。その後、いくつか送り出されたバリエーションは、殆どが「苦肉の策」に近い代物ばかりだった。
しかし、それだけ強化しても尚、敵機の性能には敵わない。
前線では既にF4Uコルセアや、F6Fヘルキャットと言った強力な機体が姿を現している。それらの機体には、ベテランパイロットが駆る零戦ですら、しばしば後れを取る事が多いとか。
技術者たちの苦労は察するが、それが帝国軍を取り巻く実情だった。
とは言え、17試艦戦が完成するまでの間、帝国海軍はこの機体で戦わなくてはならないのも確かである。
となると、残る手段は一つ。
質で敵わないなら、数をそろえるしかない。
「この機体、あと3カ月で、どうにか600機作れないか?」
「現状、生産ラインは戦闘機中心になっていますので、やってやれない事は無いと思いますが・・・・・・・・・・・・」
技術者は言葉を濁す。
帝国海軍は小沢の示した作戦方針により、艦攻、艦爆の生産ラインを縮小し、余剰分も戦闘機生産に回している。
全ては、鉄壁の防衛ラインを築き上げ、敵が何度来たとしても完璧に防ぎきる為である。
その為に、1機でも多くの戦闘機が必要だった。
小沢自身、自分が無茶を言っている事は判っている。しかし、それでも敵は待ってくれないのだ。
どうにか、あと3か月以内に、戦力の拡充を図らなくてはならない。
その為に、少しでも性能のいい戦闘機は不可欠だった。
2
しかし、戦局の推移は小沢の予想を上回る勢いで動き出そうとしていた。
その日、レスター・ニミッツは太平洋艦隊指揮下の幕僚を招集していた。
「いささか、面倒な事になった」
苦い声を発するニミッツ。
彼の手元には今、本国から届いた命令書が置かれている。
正式に海軍長官から出された命令書に添付するように、もう1枚ある書類には、合衆国軍人なら誰もが従わなくてはならない人物のサインが書かれていた。
テーブルが拳でドンと叩かれる。
鳴り響く音に全員が視線を向けると、猛牛が顔を真っ赤にして怒りの表情を見せていた。
「何だって、俺達があの高慢ちき野郎の手下みたいに働かなくちゃならんのだ!?」
ハルゼーは怒りの声を隠そうともせずに叫ぶ。
南太平洋艦隊司令官として長くニューカレドニアのヌーメアにあって帝国軍の攻勢を支え、ついには押し返す事に成功した猛将は、しかし今回の決定事項に対し、激しい苛立ちを覚えていた。
海軍長官から出された制式な命令。
それは1944年3月までに、帝国海軍の根拠地であるトラック環礁を攻撃、これを占領、ないし無力化するように、とあった。
だが、この作戦実施はニミッツに意志に反している。
現在、帝国海軍がマリアナとトラックに兵力を集中している事は合衆国軍も掴んでいる。
この兵力を打ち破る為に、太平洋艦隊も兵力増強を進めているが、未だに帝国軍と戦えるだけの兵力を揃えたとは言い難いのが現状である。
南太平洋戦線を戦い抜いた歴戦の艦隊に加え、新規に建造された艦艇を戦力として加えた事で、合衆国軍は開戦前を上回る程の戦力強化が成されている。
しかし、これまでは守る側だった合衆国軍が、今度は自分達から攻め込んで行く側へと立場が変わる事になる。当然、今までのような極端な戦力集中は望めなくなるのは自明の理だった。
最低、あと半年。
それだけの時間があれば、帝国艦隊を圧倒できるとニミッツは考えていた。
だが、ここに来て、海軍長官直々の作戦命令である。
理由は、マッカーサー軍の動向であった。
マッカーサーは現在、北部ニューギニアを海岸線伝いに侵攻し、東南アジアを攻略、帝国軍の兵站を崩壊させるプランを考えているらしい。当然の事ながら、その侵攻プランの中にはマッカーサー自身が奪回を「宣言」したフィリピンも含まれている。
しかし、それにはどうしても、妨害に現れるであろう帝国艦隊が邪魔になる。いかにキンケード率いる第7艦隊が援護の為に随伴しているとは言え、キンケード艦隊は旧式艦中心の二線級部隊である。帝国海軍の主力部隊に正面から挑んで勝てる戦力ではない。
そこで、海軍にトラックを叩かせて帝国軍の動きを封じ込めている隙に、自分達は一気に先に進もうと言う魂胆らしい。
「フンッ 奴らしい姑息な手段だよ。我々の援護が無ければ、戦争も満足にできんらしい」
そう言ってハルゼーは、不機嫌そうに腕を組む。
ハルゼーはマッカーサー嫌いで有名である。因みに、「ジャップとマッカーサー、どっちが嫌いか?」と問いかけたら「どっちもだ!!」と言う答えが帰って来るらしい。
そんなハルゼーであるから、マッカーサー軍の援護と言う今回の任務に乗り気ではないのも無理ない事だった。
「しかし長官。今回の作戦は、断れないのではないですか?」
「そうなんだ」
レイナード・スプルーアンスの指摘にニミッツはため息交じりで頷きを返す。
問題なのは、この作戦が大統領からの直接命令だと言う事だ。
大統領はよほど、マッカーサーを戦場に留めておきたいらしい。その為なら、彼の要請を優先的に通そうと言う魂胆が透けて見えていた。
取りあえず、戦場にいる間はマッカーサーは選挙には出れない、と言う事らしい。
「選挙に勝つ自信が無いから、奴を戦場に送って、俺等にお守りをさせるってか。そんな程度なら、大統領なんぞさっさとやめちまえば良い」
「口が過ぎるぞ、ビル」
吠えるハルゼーを、ニミッツは窘める。
「確かに大統領の思惑には私も腹立たしい部分がある。だが、こうなった以上、作戦を決行しない訳にはいかない」
大統領が合衆国軍の最高司令官であり、その命令は絶対となる。これを拒否すると言う事は即ち、抗命罪でこの場にいる全員が逮捕されてもおかしくは無かった。。
海軍としては不本意極まり無かったが、世の中には往々にして理不尽な事と言う者は存在している。
選挙に勝ちたい大統領と、英雄になりたいマッカーサー。
その両者の思惑に挟まれて犠牲になる兵士達こそが報われなかった。
ニミッツは、嘆息を吐き出しながら一同を見やる。
たとえ不本意極まりない作戦でも、それが正式な命令である以上、決行しない訳にはいかない。
問題は、誰が行くか、である。
やがて、
ニミッツの目が、1人の将官の視線と合わさる。
スプルーアンスである。
数か月前までニミッツの参謀長を務めていたこの男ならば、この困難な作戦を任せる事ができるだろう。万が一の時は艦隊を無事に撤退させる事もできる筈と考えた。
「行ってくれるかね、レイ」
「御命令とあらば」
問いかけるニミッツに対し、スプルーアンスは簡潔に答えた。
3
トラック環礁の要塞化は着々と進められていた。
新たな飛行場の建設に、対空陣地の増設、機雷原の設置などが急ピッチで行われていく。
それに合わせて、電探施設や偵察機、潜水艦を使用した厳重な警戒網の設置が行われる。
いかに防御力を増しても、敵の接近を感知できなければどうにもならない。増大した戦力を有機的に活用するには、優秀な「目」が必要なのだ。
そんな中で力を発揮したのが、最新鋭艦上偵察機「彩雲」だった。
帝国軍では希少な液冷エンジンを搭載した彩雲は、実に驚異的な635キロと言う速度性能を誇っている。
こんなエピソードがある。
ある彩雲のパイロットが敵機に追撃されたが、その卓抜した速度性能を如何無く発揮し、ついには振り切ってしまった。
その際に打たれた電文は「我に追いつくグラマン無し」。
この一報に、帝国海軍全体が沸き立ったのは言うまでも無い事である。
正に「単独で敵地に侵入し、戦闘機の追撃を振り切って、確実に情報を持ちかえる」と言う、偵察機の理想を実現したような機体だった。
このトラック環礁要塞化の事実上の指揮を任されたのは、第7艦隊司令官 水上彰人少将だった。
本来、このような仕事は艦隊司令官のする事ではないのだが、彰人は内南洋要塞化構想の発案者でもある。その視点から、色々な面で意見を求められる事が多く、結果的に責任者まがいの事をやらざるを得なくなってしまっていたのだ。
「航空隊の納入が、予定より少し遅れていますね」
「はい。輸送任務に就いていた護衛空母が1隻、途中で潜水艦に襲われてしまったのが痛かったです」
飛行場の責任者は、そう言って顔を俯かせる。
対して、彰人も険しい表情を作った。
最近になって、合衆国軍の潜水艦の動きが活発化し、それに合わせて味方の被害が増えている、と言う事は彰人も聞いていた。
輸送任務中の船舶は勿論、本来なら潜水艦を狩りだす筈の駆逐艦ですら、油断したところを襲われて撃沈される、と言う例が相次いでいる。
これは敵の潜水艦や、そこで使用する魚雷が高性能化しつつある事を示唆している。
由々しき事態である。
帝国海軍も、護衛を専門とする「海上護衛総隊」と言う新組織を発足し、被害の減殺に努めてはいる。
更に、戦時急造型の簡易駆逐艦の建造も進められている。
「松型」と呼ばれるこの駆逐艦は、武装や構造を簡略化して、短期間に大量生産できるようにしてあることが特徴である。
性能に関しては駆逐艦としてはかなり低く、本来なら駆逐艦最大の武器である筈の速力も27ノットしか発揮できない。
しかし松型の主敵は航路を脅かす潜水艦と言う事になる。それなら、27ノットもあれば十分だった。
更に電探や音探などの補助兵装は最新式の物を建造時から備えており、更に機関配置にもシフト方式を採用するなど、見た目の簡略さに反して、高い防御力が期待できる。
帝国海軍も遅まきながらようやく、海上護衛に力を入れ始めた形である。
しかし根っからの決戦思考に取りつかれた感のある今の帝国海軍では、輸送船の護衛などと言う、ある意味「地味」な任務は忌避されがちである。その為、2線級以下の戦力しか回されないのが海上護衛総隊の実情だった。
更に、主要な海峡を機雷で封鎖して潜水艦の侵入を防ぐ対潜機雷堰の構築も急がれているが、これの完成も、もう少し先になる予定だった。
嘆息する彰人。
補給線は軍隊の命綱である。
そもそも、輸送船が運ぶ物資が届かなければ、前線の兵士は戦えないし、船も飛行機も動かせない。そんな事は子供でも判る事である。
だが帝国ではしばしば「精神力は火力や物資の代わりになる」と、本気で考えている軍人がいるから困る。
どうにも、その手の軍人が、帝国には多いように思えてならない。それも、主に前線に出てこない、海軍省や軍令部にそう言う輩が多いように思えるのだった。
そう言う事は、自分の命を使って立証してほしい。と彰人が時々思ってしまう事は、無理からぬことだった。
と、
「彰人?」
傍らに立つ姫神が、袖をクイクイっと引っ張りながら見上げてくる。
ため息をつく彰人を、どうやら心配してくれているようだった。
対して、彰人は笑顔を見せる。
自分の彼女に心配を掛けているようでは、海軍提督としてまだまだだな、と自嘲する。
「僕は大丈夫だよ、姫神」
「・・・・・・はい」
笑いかける彰人に、それでも心配そうな眼差しを向けてくる姫神だが、しかしそれ以上追及してくることは無いようだ。
その時だった。
「提督ッ 水上提督!!」
バイクに乗った伝令の兵士が、砂埃を巻き上げながら走ってくるのが見えた。
バイクは彰人達の前で急停車すると、兵士は血相を変えた調子で報告してきた。
「すぐに、艦の方へお戻りください。緊急事態が発生したとの事ですッ」
「緊急事態、それはいったい・・・・・・・・・・・・」
「詳しい事はこちらにッ」
そう言うと兵士は、1通の通信文を彰人に手渡す。
その内容を一読すると、
「・・・・・・・・・・・・」
「彰人?」
姫神が見ている前で、彰人の表情がみるみる険しくなるのが判った。
「・・・・・・すぐに戻るよ、姫神」
彰人は少女を真っ直ぐに見据えて言った。
「どうやら、敵が動いたみたいだ」
それは、彰人達にとっても寝耳に水の事態だった。
早すぎる。
報告を受けた彰人が抱いた第一印象がそれだった。
あと2か月、早くとも1か月、敵の侵攻には、それくらいの時間がかかる物と考えていたのだ。
敵の戦略方針に何かあったのか、あるいはこちらの体勢が整う前に攻め込んでしまおうと考えたのか。そこら辺は彰人にも判らない。
いずれにせよ、敵は数日の内には攻め込んでくるだろう。
それに対して、トラック環礁の要塞化は今だ半ばの状態であった。
「報告は、間違いありませんか?」
「はい。ハワイ偵察中の伊号潜水艦複数が、同様の報告を送ってきています」
確認するように問いかける彰人に対し、報告する特信班員も額に汗を滲ませている。
「ハワイ駐留中の太平洋艦隊に出撃の兆候有り」
報告書を読み進める彰人の表情が、苦しい物へと代わって行く。
ハワイに入港する輸送船の量、護衛艦艇の動き、戦力の集中状況。その全てが、敵の出撃を示唆している。
そして、敵が来るとしたら、今や最前線と化した、このトラック環礁以外にはありえなかった。
事態は容易ならざる状況である事は間違いない。
彰人達は、整わない戦力で、来襲する敵艦隊を迎え撃たなくてはならないのだ。
「この間、宇垣さんに言われた事が身に沁みるよ」
そう言って、自嘲する彰人。
先日、宇垣護の第2艦隊司令官就任挨拶の為に「大和」へ行った際、宇垣は彰人に「戦争はいつでも、戦力が整った状態でできるとは限らない」と言う趣旨の事を言われている。
自体は正に、その言葉通りの展開になりつつあった。
不幸中の幸いは、第7艦隊がまだトラックに残っていた事だろう。
本来なら第7艦隊も連合艦隊主力と共にパラオへ後退する予定だったのだが、司令官である彰人がトラック要塞化の監督になってしまった為、後退が先延ばしになってしまっていたのだ。
もっとも、報告に寄れば合衆国艦隊は、ほぼ全軍が出撃体勢にあるらしい。それでは第7艦隊のみがあっても、どの程度戦えるかは判らない。少なくとも、まともな激突では勝負にならない事は明白だった。
「敵艦隊出撃をパラオに通報してください。それから、トラック環礁駐留の全海軍部隊に作戦待機命令を発動!!」
もはや、一秒と言えども手をこまねいている事は許されない。少なくとも、数日の内には敵がやってくるのだ。
ならば、なけなしの兵力を駆使して迎え撃つしかなかった。
それと同時に、パラオにいる連合艦隊司令部に出撃を要請する。
第7艦隊のみの戦力で敵に対抗するのは難しいが、パラオに駐留する連合艦隊主力が援軍に来てくれれば、勝機は充分にある。
元々、彰人達の戦略方針は、トラックかマリアナに敵が襲来した場合、基地戦力で持ち堪えている間に、艦隊を繰り出して迎撃する、と言う物だった。
多少、状況は違ってしまったが、これは想定の範囲内だった。
敵が来るのが先か、それとも味方が来るのが先か、運命の分かれ道は、正にそこだった。
更に、彰人はもう一つ、重要な事を忘れてはいなかった。
「トラック泊地に停泊中の全輸送船は24時間以内に出港。パラオに退避させてください」
現在、トラックには30隻以上の輸送船が停泊している。これらを失えば帝国海軍の今後の作戦行動に大きな支障が出る事は疑いない。
それを考えると、輸送船は最優先で脱出させる必要があった。
だが、
彰人は程無く、自分の考えが甘かった事を思い知る事になった。
輸送船団の第1陣が、出港しようと外周の水道に接近しようとした時だった。
突如、鳴り響く轟音と共に、巨大な白い水柱が立ち上った。
「な、何がッ!?」
不吉な予感に駆られて叫ぶ彰人。
報告は、すぐに上げられてきた。
「大変ですッ 北水道入り口付近にて、輸送船『りおでじゃねろ丸』沈没ッ 潜水艦の雷撃と思われます!!」
その報告を聞き、彰人の中で衝撃が走る。
脱出しようとした矢先に、輸送船が環礁出入り口で潜水艦が雷撃を受けて撃沈される。
これが偶然だとは、彰人にはどうしても思えなかった。
その予感を裏付けるように、更なる報告が届けられた。
「小田島水道にて、給油艦『神国丸』撃沈ッ!!」
「南水道にて、輸送船『愛国丸』。潜水艦の攻撃を受け、撃沈!!」
もはや疑う余地は無い。
このトラック環礁は、気付かないうちに、敵に包囲されていたのだ。
「クッ」
舌打ちする彰人。
どうやら、事態は彰人が思っているよりも数段、悪い方向に動いているらしかった。
「出港準備中の全船舶に通達ッ 《ただちに出港中止ッ 泊地へ戻られたし》!! それと、水道に向かっている船も、ただちに呼び戻してくださいッ 急いで!!」
敵の潜水艦がどれほど来ているかは判らないが、無防備のまま出港させるのは、あまりにも危険だった。
幸いにも、彰人の指示が早かった事もあり、それ以上の被害拡大は免れ、輸送船も元の泊地に戻る事が出来た。
しかし、
否が応でも、彰人は自覚せざるを得なかった。
自分達が、トラック環礁の中に、閉じ込められてしまったのだと言う事を。
絶望的な状況の中で、否が応でも敵の大部隊を迎え撃たざるを得なかった。
第62話「閉ざされた環礁」 終わり