蒼海のRequiem   作:ファルクラム

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第54話「いざ、キスカへ」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「・・・・・・・・・・・・はあ」

 

 喫茶店の窓際の席に座り、憂い顔の表情で溜息をつく少女。

 

 まるで、絵画の中から飛び出してきたような、そんな静かで美しい情景である。

 

 本来であるなら。

 

 しかし、

 

「流石に38回目だと飽きるよ、お姉ちゃん」

「何の話ですか、クロ?」

 

 呆れ気味にジト目を送ってくる妹に対し、姫神はムスッとした調子で尋ねる。

 

 ここは横須賀市外にある喫茶店。

 

 今日は、姫神型巡戦姉妹2人が、揃って外出して来ている。

 

 2人とも、今日はオフと言う事で、いつも着ているセーラー服仕様の艦娘衣装では無く、姫神は白の半袖ブラウスに丈の短いスカート、黒姫は柄付きのTシャツに短パンスタイルと言う、カジュアルな格好をしている。

 

 今日はせっかくの休み。姉妹水入らずで買い物をしたり、ゆっくり食事でもして楽しもう。

 

 と、黒姫としては思っていたのだが、

 

 さっきから心ここに非ずと言った姉に対し、黒姫はちょっと呆れ気味になっていた。

 

「あのね、お姉ちゃん。たまの休みなんだから、少しは楽しもうよ」

「楽しんでいますよ。クロは楽しくないのですか?」

 

 言われて、黒姫は考えてみる。

 

 休日の昼下がり、姉妹艦娘2人と言う色気の無いシチュエーション。しかも姉はご機嫌斜めと来ている。

 

 うん。

 

 これで楽しいと言うのだったら、今すぐ喫茶店を出て精神科に入院申請すべきだろう。艦娘の頭の中身が、普通の町医者に理解できるかどうかは不明だが。

 

 とは言え、

 

「・・・・・・・・・・・・」

 

 仏頂面の姉を見ながら、黒姫は嘆息する。

 

「あのね、お姉ちゃん」

 

 振り返らない姫神に対し、黒姫は諭すように言う。

 

「そんなに提督と一緒に居たかったんなら、幌筵までついて行けばよかったじゃん」

「そんな事は思っていません」

 

 対して、姫神はきっぱりと言い切る。なかなか、強情な娘である。

 

 そもそも姫神は、性格的には物静かなタイプであり、滅多に感情を顕にする事も無いが、決して大人しい訳ではない。

 

 一度、自分の考えを固めてしまったら、妹の黒姫ですら簡単には覆す事ができない程の意地っ張りである。

 

 それが元でケンカになった事も、過去には何度かあった。

 

「そもそも、彰人は遊びに行ったわけではありません。物資も限られている状況で、戦えない艦娘を連れて行く理由などありません」

 

 いかにも杓子定規的な物言いに、もはや黒姫としては嘆息すら出てこない。

 

 しかし、黒姫は知っていた。ここ数日、姉に起こっている変化を。

 

 姫神はここ数日、趣味のお昼寝もしないで、気が付けば1日、岸壁に立って港湾の方向を見詰め続けている。

 

 何を待っているのかは、考えるまでも無い事だろう。

 

 自分達を置いて出撃した彰人達。

 

 彼等が帰ってくる瞬間を、姫神は待ち続けているのだ。

 

 その姿があまりにも痛々しく感じたからこそ、黒姫は強引にでも姫神を連れ出したのである。

 

 もっとも、効果があったかどうかは、黒姫自身、大いに疑問なのだが。

 

 姉は、提督に惹かれている。

 

 この数か月、黒姫の中にあった考えが、ここ数日で確信に近い形で組み上げられようとしていた。

 

 傾向は、考えてみれば元からあったのだ。

 

 彰人は姫神にとって、初めて息の合う艦長、パートナーだった。それまでの艦長は、姫神の取っ付きにくい性格を持て余し気味だったことを考えれば、彰人と姫神の相性は抜群であると言える。

 

 しかしこれまでは、彰人の鈍感さと、姫神の幼さが微妙に反発しあい、思いが合致する事は無かった。

 

 しかし、彰人が姫神を残して幌筵へ行った事が、却ってプラスに働いた感がある。

 

 彰人の着任以来、はじめて長期間に渡って離れて過ごす事になった2人。

 

 その如何ともしがたい距離感から来る焦燥が、幼かった姉の精神を刺激して、成長を促したのかもしれなかった。

 

『どうしたもんかな、これは・・・・・・・・・・・・』

 

 尚も憂い顔で窓の外を見続ける姫神を見て、黒姫は思案する。

 

 妹としては、姉の想いを成就させてあげたいとは思う。

 

 だが、肝心の姫神が「これ」では、どうしようもない事である。

 

 もう間もなく、自分達の改修作業も完了し、再び前線に赴く事になるだろう。

 

 そうなる前に、何とかしてやりたい。

 

 そう考える黒姫だった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 寒風は、陣地の中にあっても容赦なく吹き込み、体力を奪っていく。

 

 無論、鍛え上げられた兵士達にとって、寒さなどに負けるつもりは毛頭ない。

 

 しかし、こちらは連日の戦闘で既に消耗激しい身。それだけに、身を削られるような想いだった。

 

 緊張の眼差しで睨む天は鈍色に染まり、ただそれだけで絶望感を齎してくる。

 

 己たちの運命を物語っているかのような空を、兵士達は眦を上げて睨みつける。

 

「・・・・・・・・・・・・来るなら来い」

 

 誰かが呟くのが聞こえた。

 

 不退転の決意を顕にする声は、皆を勇気付ける。

 

 自分達はまだ戦える。

 

 自分達はまだ負けていない。

 

 その想いを胸に刻み付け、必死で砲にしがみついた。

 

 やがて、

 

 微かな異音が、耳に響いて来る。

 

 音は徐々に大きくなり、美組に鳴り響いて来る。

 

 鈍色の空に、巨大な翼を広げる怪鳥の群れ。

 

 その恐ろしげな姿に、誰もが恐怖をかみ殺す。

 

「対空戦闘!!」

 

 指揮官の声が、恐怖を振り払うように鳴り響く。

 

 更に大きくなる、巨大な機影。

 

 もはや、パイロットの顔が見えるのでは、と思える程だった。

 

 次の瞬間、

 

「撃ち方、始めェ!!」

 

 指揮官の声と共に、一斉に砲火が打ち上げられる。

 

 高射砲が巨大な唸りと共に砲弾を天へと打ち上げ、対空機関砲は空を覆い尽くす程の弾幕を上げる。

 

 まるで島全体が炎を上げているかのような光景だ。

 

 空を焦がす程の攻撃。

 

 しかし、

 

 効果は殆ど上がっていない。

 

 撃ち上げられる弾幕をあざ笑うかのように、敵機は悠々と島上空へと到達すると、爆撃体勢に入るのが見えた。

 

「クッ 手を緩めるな!!」

 

 指揮官の声が、空しく響く。

 

 実際、砲弾は届いていない訳ではない。

 

 兵士達は皆ベテランぞろいであり、照準や信管の調整を完璧にこなしている。実際、撃ち上げる砲弾は全て、敵機の至近で炸裂しているのだ。

 

 にも拘らず、敵機は殆ど落ちない。

 

 機関砲は威力が低すぎて敵機の装甲を撃ち抜けず、高射砲は連射できない為、弾幕の形成が難しい。

 

 それ故、敵機はこちらの射程圏内に楽に侵入してくるのだ。

 

 やがて、

 

 敵機の胴体部分が開き、中から次々と爆弾が投下される。

 

「退避ィ!!」

 

 隊長の声が響き渡る。

 

 高射砲を残して退避するのは心苦しいが、命には代えられない。

 

 我先にと陣地を飛び出し、物陰へと退避する兵士達。

 

 次の瞬間、

 

 落下してきた爆弾をもろに浴びて、背後から爆炎が襲ってきた。

 

 衝撃を浴びて、吹き飛ばされる兵士達。

 

 ややあって、

 

 兵士の1人が恐る恐る、と言った感じに地面から顔を上げる。

 

 すると、

 

 つい先程まで自分達がいた高射砲陣地は、無残な姿に成り果てていた。

 

 爆撃の炎が一面を覆い、雄々しく天を睨んでいた高射砲はひしゃげ、死骸の如き姿を晒していた。

 

 周囲には、退避の遅れた兵士達が倒れているのが見える。

 

「そんな・・・・・・・・・・・・」

 

 絶望に、声を震わせる。

 

 なぜ、

 

 なぜ、こんな事になったのか?

 

 決まっている。

 

 全てはあの日、海軍が救出作戦を断念したせいだ。

 

 あの時、海軍が助けに来てくれていたら、自分達は無事にこの島を出て、今ごろは本土で家族と再会できていたかもしれないのに。

 

 しかし、海軍は結局来る事は無く、自分達はこの、絶望的な島に閉じ込められ、敵の総攻撃を前に死を待つだけの存在に成り果てていた。

 

「・・・・・・・・・・・・」

 

 腕に力を込めて、這いずるようにして前へ進む。

 

 何とか、1人でも多くの味方を助けないと。

 

 そう思って手を伸ばす。

 

 しかし、

 

 身体に、力が入らない。

 

 やがて、視界も暗く霞んで行く。

 

 尚も鳴り止まない爆撃の音が耳を掠める中、

 

 ゆっくりと閉ざされる視界が、やがて闇へと落ちて言った。

 

 

 

 

 

 第1水雷戦隊がキスカ突入を断念してから数日が経過した。

 

 その間、キスカ島はアラスカのダッチハーバーや、隣島に設置された飛行場から飛来する合衆国陸軍航空隊の爆撃に悩まされていた。

 

 攻撃は未だに散発的であり、被害も大きなものではなく、死傷者もそれほど多くはない。

 

 しかし、連日のようにやってくる爆撃機の存在は、守備隊将兵の精神を確実に削ぎ落していく。

 

 守備隊は未だに高い士気を保っているが、それとていつまで続くか知れない状況にある。

 

 航空機による上空掩護が期待できない状況で、戦力は確実にすり減って行く。

 

 もはや、キスカ島守備隊将兵の運命は、風前の灯と言っても過言ではなかった。

 

 

 

 

 

 まだ痛む身体を鞭打つように、杖を突いて歩く。

 

 前へ、前へ、

 

 ただ只管、それだけを考える。

 

 手に持った杖を強く握り、宇垣は足を踏み出す。

 

 ただ前だけを見詰めて。

 

 踏み出すと同時に、足裏に感じる、砂の感触。

 

 更に、前へと踏み出す。

 

 次の瞬間、

 

「クッ!?」

 

 足がもつれ、そのまま砂浜に倒れ込んでしまった。

 

 どうにか手をついて、前のめりになる事だけは避ける。

 

 しかし、

 

「情けない・・・・・・・・・・・・」

 

 悔しさが、口から零れ出る。

 

 本当に、情けなかった。

 

 思い通りにならない自分の体が。

 

 何より、長官を死なせて、自分1人が生きている事が。

 

 周囲全ての目が、自分を責めているようにさえ思える。

 

 いっそ、このまま死んでしまえたら、どんなに楽か・・・・・・・・・・・・

 

 そう思った、その時、

 

「参謀長!!」

 

 少女の、どこか咎めるような声が響き、宇垣は振り返る。

 

 すると、砂浜の向こうから、髪を振り乱して掛けてくる大和の姿があった。

 

「姿が見えないから心配していたら・・・・・・こんな所で何してるんですか!?」

 

 駆けて来るなり、座っている宇垣を見下ろして叱りつけるように言う大和。

 

 実際、慌てて駆けて来たのだろう。髪も制服のブラウスやスカートも大きく乱れている。

 

 しかし、そんな事も構わず、大和は宇垣へ駆け寄った。

 

 対して、宇垣は少女から目を放して答える。

 

「見ての通りだ。歩く練習をしている」

 

 素っ気ない口調の宇垣に、大和は思わずぐっと声を詰まらせる。

 

 宇垣が素っ気ないのは今に始まった事ではないが、今の声はどこか自棄になっているようにも聞こえたのだ。

 

「でも、まだお体の方は治っていないのですよ。それなのに・・・・・・・・・・・・」

「じっとしていられないんだ」

 

 諌める大和を振り払うように言うと、宇垣は再び杖を持つ手に力を籠めて立ち上がろうとする。

 

 山本を死なせ、自分1人がおめおめと生き残ってしまった。

 

 そう思っている宇垣にとって、休んでいる暇など僅かたりと言えどもありはしなかった。

 

 しかも、今はそれだけではなかった。

 

「大和、お前も聞いているだろう。キスカ島の事を」

「・・・・・・・・・・・・はい」

 

 キスカ島守備隊救出作戦が難航している事は、報告としてトラックにも齎されている。

 

 元を正せば、キスカ島を含むアリューシャン列島は、ミッドウェー攻略作戦の際の陽動としての意味合いが強かった。要するに、それほど重要度が高いとは言えない島であるにもかかわらず、余計な戦力を回して占領、維持を続けて来たのだ。

 

 主作戦が失敗し、アリューシャン維持の意味が失われた以上、速やかに兵を引き上げるべきだったのだ。

 

 にも拘らず、今日までズルズルと維持を続けて来たのは「一度手に入れた拠点を、何もせずに引き上げるのは、帝国軍人としての誇りが許さない」「皇軍に撤退はあり得ない。仮に補給が途絶えても、1年でも2年でも拠点を確保し戦い続けるのだ」と言う、帝国軍上層部の、浅ましい独占欲から来ている。

 

 アッツ島守備隊は、そんな上層部が持つ意地汚い欲の犠牲になったような物だった。

 

「俺も、あの作戦を強行した側の1人だ。彼等に犠牲を強いていると言うのに、たかが負傷した程度で、寝ている事などできん。1日も早く、復帰しないと・・・・・・」

 

 そう言うと、宇垣は渾身の力を込めて立ち上がる。

 

 と、

 

 その横から手が差し伸べられ、そっと宇垣の腕に添えられる。

 

「・・・・・・・・・・・・大和?」

 

 振り返って不思議そうに見つめてくる宇垣に対し、大和は柔らかく微笑み返す。

 

「お手伝いします。どうせ私も、次の長官が着任されるまでは暇ですから」

「・・・・・・・・・・・・すまん」

 

 短くそう言うと、大和に寄り添われて、宇垣はゆっくりと歩き出す。

 

 そんな2人の様子を、

 

 周囲にいる兵士や艦娘達は、微笑ましく見守っているのだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 その日の執務を終えた彰人は、自分の部屋で読書にいそしんでいた。

 

 相変わらず、出撃命令は下りる事は無い。

 

 無理も無いだろう。

 

 報告によれば、アリューシャン列島周辺は相変わらず晴天が続いており、アラスカ近郊から頻繁に航空機が飛来しているとか。

 

 そのような所に、軽巡と駆逐艦だけの部隊で突っ込んでも、1時間と掛からずに全滅する事は目に見えていた。

 

 とは言え、このままではキスカよりも先に幌筵の方が壊滅しそうな勢いである。

 

 第1次作戦を断念して帰投した第1水雷戦隊への批判は、日に日に高まってきている。

 

 陸軍や第5艦隊の幕僚達も、反転を決断した木村正臣や、阿武隈達を批判し、中には公然と中傷する者まで出始めている。

 

 ひどいのになると、第1次作戦には直接関係の無い第7艦隊の将兵にまで、批判を向けて来る物までいる。

 

 全ては、友軍を救えない事への苛立ちが原因である。それ故に「救う力がありながら救おうとしない」1水戦や7艦隊に苛立ちをぶつける事で、僅かなりとも憂さを晴らしているのだ。勿論、それが事態の好転に何らの寄与もしていないのは言うまでも無い事なのだが。

 

「・・・・・・・・・・・・せめて、君がいてくれたらな・・・・・・姫神」

 

 彰人はそっと、この場にいない少女の名を呟く。

 

 姫神がいてくれたら、彰人は木村に対して、もっと大胆な作戦案を提示していただろう。

 

 たとえば、第7艦隊でアッツ島の敵拠点を砲撃し、敵の目を引き付けている内に第1水雷戦隊が夜間にキスカ島へ突入、守備隊を救出すると言う案。

 

 あるいは、彰人の得意戦術である通商破壊戦を北太平洋で展開し、アリューシャン方面の敵が物資不足で弱った所で救出作戦を行う。と言う手段もある。

 

 だが、今回はそのどちらも取れない。

 

 前者は軽巡と駆逐艦で敵拠点を砲撃しても多寡は知れているし、後者に至っては論外である。「阿賀野」が防空巡洋艦に改装されているとは言え、少数戦力で敵の制空圏に踏み込むのは危険すぎる。

 

 これまで大胆な作戦をいくつも実行してきた彰人だが、そのどれもが勝算ありと確信して実行した物である。実情を無視して無謀な作戦を決行した事は一度も無かった。

 

 全ては、戦力不足が原因。「姫神」「黒姫」を欠いた今の彰人は、両翼を捥がれているに等しかった。

 

 キスカ島撤収作戦の成否は全て、霧の発生に掛かっている。正しく、運頼み、神頼みと言う訳だった。

 

 姫神。

 

 あの小さな巡戦少女がいたら、自分はどんなに助かった事か・・・・・・

 

 否、そんな事を言いたいわけじゃない。

 

 ただ、姫神と一緒にいる。

 

 それだけで、彰人の心にもたらされる安心感は計り知れない物があった。

 

 今、こうして姫神と別れると、それが実感できる。

 

 まるで、胸に穴が開いたような虚無感。

 

 姫神に会いたい。

 

 たった数日会っていないだけなのに、彰人は心の中で強く、そう思うのだった。

 

 その時、

 

「提督ゥ いる~?」

 

 いきなり扉が開き、島風のウサギ頭がピョコッと顔を出した。

 

 その姿に、苦笑する彰人。

 

「いるにはいるけど、入る時はノックくらいしてほしいかな」

「いいじゃん、そんなの。あたしの艦なんだし」

 

 言ってから、

 

 島風は不思議な物を見るような眼つきで彰人を見て来た。

 

「何してんの、提督?」

「何って、見ての通り、本を読んでるんだよ」

 

 突然の質問に、彰人は笑いながら本を掲げて見せる。

 

「気に入っている小説でね。暇つぶしにちょうどいいから、作戦中も持ち歩いてるんだ」

「・・・・・・・・・・・・ふ~ん」

 

 対して、ますます不振顔をする島風。

 

「ところでさ、提督」

 

 言いながら、島風は彰人の手にある本を指差す。

 

「最近のしょーせつって、本を逆さまにして読むんだ。それって面白いの?」

「・・・・・・・・・・・・」

 

 言われて、彰人は初めて、自分が本を逆さまに持っている事に気付いた。

 

 当然だが、内容は全く頭に入っていなかった。

 

 作戦の事、姫神の事。

 

 それらの事を考えていたせいで、周囲の事が目に入っていなかったのだ。本を読んでいる風を装っていたのは、単なるポーズに過ぎないと、今更ながら自覚する。

 

「そ、そんな事より・・・・・・・・・・・・」

 

 ごまかすように本を閉じて、彰人は島風を見る。

 

「何か用事があったんじゃないの?」

「ああ、そうだった」

 

 言ってから、用事を思い出したのか島風は廊下の方を見やる。

 

「ヒゲのおっちゃんが遊びに来たよ」

「ヒゲ?」

 

 首をかしげる彰人。

 

 すると、それに合わせるように、長身の人物が部屋の中へと入って来た。

 

「どうも、ヒゲのおっちゃんです」

「木村さん・・・・・・・・・・・・」

 

 ノリの良い木村正臣に、彰人は苦笑する。確かに、木村の口元には、見事な八の字髭があるのだが。

 

「どうだね、ちょっと付き合わんか?」

 

 そう言って掲げた木村の手には、小さな酒瓶が握られていた。

 

 島風には、別に持って来た饅頭を渡すと、彰人と木村は互いに盃を傾け合った。

 

 暫く、他愛ない会話をした後、木村は盃を置いて言った。

 

「私は臆病者だよ」

 

 自嘲気味に飛び出た木村の言葉に、彰人と島風は、互いに顔を見合わせて首をかしげる。

 

「あの時、もう少し頑張っていれば、キスカの守備隊を救えていたかもしれないのに」

「いや木村さん、それは・・・・・・・・・・・・」

 

 言い募ろうとする彰人。

 

 しかし、対して木村は、手を翳して製する。

 

 彰人が木村を支持しているのは知っているし、木村自身、あの判断が間違っていたとも思ってはいない。

 

 しかし、守備隊将兵を救う事ができなかったのも、また事実である。

 

 木村は忘れない。

 

 幌筵に帰還した夜の事。

 

 桟橋に1人佇む阿武隈を見付け、声を掛けて一緒に帰ろうとした。

 

 だが、すぐに思いとどまった。

 

 なぜなら、少女の目に溢れる、光る物に気付いたからだ。

 

『ごめんなさい・・・・・・ごめんなさい・・・・・・』

 

 阿武隈はアリューシャンの方角を向き、必死に謝っていた。

 

 そんな少女の後姿に、木村は声を掛ける事ができなかったのだ。

 

 阿武隈に、そんな辛い思いをさせたのは、他ならぬ木村自身である。

 

 だからこそ、思う。

 

「今度こそ、成功させないと・・・・・・・・・・・・」

 

 そんな木村の言葉に、彰人もまた力強く頷きを返すのだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 事態が動いたのは、翌日の事だった。

 

 気象観測の為、アリューシャン列島に接近していた潜水艦の1隻が、高気圧前線が張り出してきている事を知らせて来た。

 

 それも、かなり大規模な前線であり、ほとんど北太平洋一帯を覆い尽くすほどの勢いだとか。

 

 気温が比較的高いこの時期に高気圧前線が張り出したと言う事は、数日中に、アリューシャン列島全域に大規模な濃霧が発生する事を意味している。

 

 待ちに待った霧の発生。

 

 これ即ち、キスカ島守備隊撤収作戦を行う絶好の機会が到来した事を意味している。

 

 幌筵基地全体が、俄かに動き出す。

 

 正しく、千載一遇の好機。

 

 これを逃せば、キスカ島守備隊を救出する機会は永久にやって来ない。

 

 直ちに、救出艦隊の出動準備が成される。

 

 作戦はまず、敵潜水艦の哨戒網を迂回する為、南に大きく進路を取りつつ、キスカ島の真南まで移動、そこで最終的な補給を受けつつ、天候の最終確認を行う。

 

 作戦可能と判断されたら、一気に北上してキスカ島に接近。島を南から反時計回りにグルリと一周して、東側にあるキスカ湾に突入。所定の行動に従い停泊し、守備隊の収容を行う。

 

 問題の救出作業は、最大60人乗りの大発10数隻を使って行い、一気に収容していく。

 

 目標は1時間以内に全員収容。

 

 その為に陸軍を通じてキスカ島守備隊に、小銃を含む全装備の放棄と、予定時刻までに海岸への集合をしてもらうよう確約してもらった。

 

 これは、本来ならかなり難しい事である。

 

 陸軍では装備、特に主力小銃である38式歩兵銃は、侍の刀同様、命にも等しい物であると教えられる。その命を敢えて捨てさせようと言うのだから。

 

 全ては、迅速に全将兵を収容する為の措置だった。

 

 以下が、キスカ島守備隊救出艦隊の陣容となる。

 

 

 

 

 

第1水雷戦隊(主隊)

軽巡洋艦「阿武隈」(旗艦)「木曾」

駆逐艦「夕雲」「風雲」「秋雲」「五月雨」「朝雲」「薄雲」「若葉」「初霜」「長波」

給油艦「日本丸」「国後」

 

第7艦隊(警戒隊)

軽巡洋艦「阿賀野」

駆逐艦「島風」(旗艦)「暁」「響」「雷」「電」

 

 

 

 

 

 軽巡洋艦3隻、駆逐艦14隻、給油艦2隻。

 

 この小規模の艦隊が、キスカ島守備隊の命運を握っている事になる。

 

 万が一、敵艦隊が出現し作戦を妨害して来た時は、第7艦隊が囮となって交戦している隙に1水戦がキスカへ突入、可能な限り守備隊将兵を収容し撤収する事になる。

 

 なお、警戒隊を担当する第7艦隊の各艦も念のため、大発収容用の装備を施してある。万が一、1水戦に不測の事態が生じ、作戦続行が困難となった場合、代わって第7艦隊が救出作戦を実行する為である。

 

 粛々と出港を開始する艦隊。

 

 今度こそは。

 

 誰もが、その言葉を胸に、征途へとつく。

 

 そんな中、旗艦「阿武隈」の艦橋で、木村はマイクを取ると語り出した。

 

「諸君、司令官の木村だ。どうか、作業の手を止めず、そのまま聞いてくれ」

 

 その言葉に、艦隊に所属する将兵は皆、顔を上げて司令官の声に聞き入る。

 

「我々はこれより、第2次キスカ島守備隊撤収作戦を決行する。先行している潜水艦からの報告に寄れば、突入予定日当日の天候は曇り。風は微風にして波穏やか。ただし、海域一帯には濃霧の発生が見込まれるとの事。各員、岩礁や他艦との衝突に気を配り、慎重かつ大胆に行動してほしい」

 

 言ってから、ややあって木村は再び口を開く。

 

「諸君の中には、先の作戦断念により、いわれなき中傷を受け、深く傷ついた者もいると思う。それらは全て、この木村が不甲斐なかったせいである。本当に、すまなかった」

 

 その言葉に、すすり泣く将兵や艦娘達がいた。

 

 皆、先の作戦における木村の判断には納得している。あの場にあって、あの判断は仕方が無かったのだ。むしろ、木村の判断が無かったら、艦隊が全滅していた事も考えられる。

 

 だが、後方にあって戦況を見守っているだけの連中はそうは思わなかったのだ、

 

 木村司令官以下、1水戦の連中は皆、腰抜け揃いだ。

 

 帝国軍人たる資格は無い。

 

 そんなことまで言う輩が後を絶たなかった。

 

 そうした誹謗中傷が、1水戦の皆を傷付けたのは考えるまでも無かった。

 

「だがッ」

 

 木村は、力強く言い放つ。

 

「そんな屈辱の日々も、今日で終わる。誰でもない、我々の手で終わらせる。我々は必ずや、キスカの友軍を救出し、再びここに戻ってくるんだ!!」

 

 一同の士気は、否が応でも上がる。

 

 誰もが作戦成功を誓い、拳を高らかに上げる。

 

 マイクを置く、木村。

 

 振り返り、視線を阿武隈に向ける。

 

「さあ、行こう。キスカへ」

 

 今、キスカ島守備隊の命運を握る作戦の幕が切って落とされた。

 

 

 

 

 

第54話「いざ、キスカへ」      終わり

 


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