蒼海のRequiem   作:ファルクラム

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第102話「帝都騒乱」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 事を始める時はまず先に、必ずここに来ようと決めていた。

 

 横須賀の一角。

 

 浜辺にある公園の入り口に停まった1台の高級車。

 

 その後部座席から出てきた富士宮康弘は、護衛や秘書にそのまま車に残るように言い置くと、1人で公園の中へと入って行った。

 

 年老いたとは言え、若い頃には海軍で鍛えて来た身である。その健脚ぶりは健在だった。

 

 歩く事暫く。

 

 目当ての場所が、富士宮の眼にも見えてきた。

 

 1隻の軍艦。

 

 近代軍艦に比べると小振りであり、聊か古ぼけた印象のある戦艦。

 

 しかしそれは、帝国海軍軍人なら誰でも憧れ、想いを馳せる艦。

 

 前部と後部に備えられた連装砲塔は今にも火を噴きそうな威容を誇り、趣のある露天艦橋は、かつて栄光の提督を頂き、帝国海軍の歴史に燦然と輝く伝説の舞台となった。

 

 艦首に頂く菊の紋章は、この戦艦が紛う事無く帝国海軍の戦艦であった事を顕している。

 

 既にその活躍は過去の物となってしまったが、彼女の伝説は後世まで長く語り継がれる事は間違いなかった。

 

 戦艦へと歩み寄る富士宮。

 

 すると、

 

 向こうの方でも、まるで富士宮が来るのを待っていたように、戦艦の前に佇む女性の姿があった。

 

 軍服を着た、髪の長い女性。

 

 女性は、まるで何かを悲しむかのような目で、富士宮を待ち受けていた。

 

 やがて、女性の前に立つ富士宮。

 

 その富士宮を真っ向から見据えるように、女性は見上げて来た。

 

「・・・・・・・・・・・・やはり、やるのですね。殿下」

「ああ」

 

 尋ねる女性に対して、富士宮は短く答えた。

 

「もはや、我らの動きは止められん。それはお前であってもだ。三笠」

「・・・・・・・・・・・・」

 

 名前を呼ばれ、三笠の艦娘は無言の返事を返す。

 

 これから富士宮が何をするのか。

 

 そして何を目指すのか。

 

 三笠には、それが判っていた。

 

 判っていて、止められない事も。

 

 それでも尚、三笠は旧友に対して言わずにいられなかった。

 

「御叛意頂けませんか殿下。このような事をすれば、却って帝国の傷は深まるばかりです」

 

 切実に訴える三笠。

 

 しかし、そんな彼女の声にも、富士宮は眉一つ動かすことは無い。

 

「それはできん」

 

 ただ、謹厳な声で三笠を遮る。

 

「我々は、気が遠くなるほどの長い時間を、この時を迎える為に費やしてきた。中には、志半ばで倒れた者も決して少なくない。彼等の想い、彼等の願い、それら全てを私は背負って立っているのだ。その私が、このような場所で投げ出す事は許されん」

「殿下・・・・・・・・・・・・」

 

 縋るような目で、富士宮を見る三笠。

 

 かつて、共に歩んだ青春の道。

 

 富士宮の、

 

 そして三笠の中にあり続ける、美しい思い出。

 

 苦しいながらも共にあり、共に戦い、そして共に笑った懐かしい日々。

 

 もはや2人とも、あの頃に戻る事は叶わないのだ。

 

 そんな三笠の想いを振り払うように、

 

 富士宮は彼女に背を向けた。

 

「お前はそこで見ているが良い。我らが作る新しい帝国の姿をな」

 

 そう言い置いて、去って行く富士宮。

 

 その姿を、三笠はただ見送る事しかできなかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 1945年6月16日。

 

 帝国にとって激震が走る事になるこの日は、静かに幕を開けた。

 

 先の第3次マリアナ沖海戦において、海軍がマリアナの敵拠点を粉砕した事で、連日のように帝国に死の雨を降らせていた合衆国戦略航空軍は壊滅。帝都上空には、再び平和な青天が広がっていた。

 

 とは言え、爆撃によって破壊された町並みを元に戻すのは並大抵の苦労ではない。

 

 今日も、帝都の臣民たちは瓦礫の撤去作業から始まり、物資の運搬、新しい家屋の建設と、朝から忙しなく働いている者達が目につく。

 

 彼等の願いはただ一つ。1日でも早く帝都が元の姿に戻る事。それだけだった。

 

 誰もが日々の暮らしに精いっぱいでありながらも、小さな努力を積み重ねる事で国を立て直そうと必死になっている。

 

 あとえ敵の攻撃で街が壊されようとも、灰の中から復活するように再び集った人々が街を再建する。

 

 戦争に行く将兵や艦娘達ばかりではない。こうして銃後にいる彼等もまた戦争に参加し、自分たちなりのやり方で敵と戦っているのだ。

 

 そんな中、

 

 「それ」は起こった。

 

 早朝、朝が早い事が自慢のとある野菜売りは、いつもの路地販売の場所で開店準備をしている時の事だった。

 

 突如、聞き慣れない音を耳にして顔を上げた。

 

 まだ、朝もやで霞む路地の向こう側から、何やら「ザッ ザッ ザッ」と、砂を踏むような音が聞こえてきた。

 

 それも1つや2つではない。

 

 数えきれないほどの人数が一斉に行進するような足音である。

 

 一体なんだろう?

 

 訝りながらも目を凝らしてしばらく見ていると、やがて人影らしきものが白い靄の向こうからにじみ出てくるのが見えた。

 

 何やら、複数の人間が整列して歩いているようにも見える。

 

 やがて、全貌がはっきりと見えてくる。

 

 そこで、

 

 仰天した。

 

 彼が目にしたのは、カーキ色の軍服に身を包み、肩にはライフルを下げた陸軍部隊だったからだ。

 

 それも何百人と言う数の兵隊たちが、列を成して一斉に行進している。

 

 全く表情を動かすことなく、一糸乱さず整然と行進する様は、まるで人間ではない何かを見ているかのようだった。

 

 なぜ、こんな所に彼等はいるのか?

 

 大規模な訓練でもあるのだろうか?

 

 混乱する思考の中、驚いて腰を抜かす野菜売り。

 

 兵士達は、そんな野菜売りに目をくれる事無く、全員が真っ直ぐに前を向いて行進を続けていく。

 

 やがて、兵士達が背中を向け、再び靄の中へと消えていく。

 

 その後ろ姿を見送りながら、野菜売りは呆然と思った。

 

 これは、何か大きなことが起ころうとしている、と。

 

 

 

 

 

 その日の帝都は、騒然としていた。

 

 街のあちこちに兵士達が立ち、しかもよく見れば完全武装をしているのが判る。

 

 何やら殺気立った様子は市民達にも伝播し、不安が広がって行く。

 

 そもそも、普段はほとんど目にする事が無い兵士達が大量に街中にいれば、それだけで不安は助長される物である。

 

 だが、それについて軍の方からは一切説明がなされることは無かった。

 

 不審に思った市民達の代表は、軍の方に問い合わせてみるも「訓練である」の一言で片づけられてしまった。

 

 だが、誰もが思っていた。

 

 これは決して、普通ではない、と。

 

 こうして、帝都を取り巻く空気が緊迫の一途を辿る中、

 

 後世に「六・一六事件」と言う名で呼ばれる事になるクーデター事件が幕を上げた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 まず最初に襲撃を受けたのは、総理官邸であった。

 

 レイテ沖海戦以後、東條内閣が総辞職してから政府首班に付いた鈴木勘太郎(すずき かんたろう)元海軍大将は、現在進められている日米交渉において、講和肯定派に属している。

 

 実のところ、鈴木に組閣の大命が下った裏には、戦線の悪化が影響していた。

 

 相次ぐ戦いで軍が消耗を重ねた結果、既に帝国の現状は破たん寸前にまで陥っている。

 

 そこで天皇陛下は、鈴木に戦争終結の意志を託したのである。

 

 首相に就任した鈴木は、閣内から継戦派を一掃して政府を講和派で統一すると、精力的に日米講和の可能性を模索して行動を開始したのだ。

 

 時に慎重に、時に大胆な手段に訴えながら、徐々に徐々に講和への道を築いてきた鈴木。

 

 しかしそのせいか今回、クーデター軍からは講和派の首魁のように思われ、いの一番にターゲットの槍玉へとあげられていたのである。

 

 鈴木は若い頃には日露戦争を経験し、日本海海戦等で実際にロシア海軍と砲火を交えている。

 

 その後、大将に昇進した後は連合艦隊司令長官なども務める一方、予備役に指定された後は公室の侍従長を歴任するなど、幅広い面で帝国に貢献してきた人物である。

 

 また、鈴木は人格者としても知られている。

 

 先日、合衆国大統領ルーズベルトが逝去した際には、丁寧な弔電を同国政府宛に送っている。

 

 自分の国が今まさに危機に晒されている状況で、その攻撃している敵国の元首を悼む電報を打つなど、ただの凡人にはできかねる事である。

 

 この事は、敵味方問わず世界中の人間から賞賛を受け、帝国の「武士道」を世に知らしめることとなった。

 

 そのような人物である為、帝国を取り巻く現状を理解し、最良の手を打てることが期待され、東條内閣後、組閣に至った訳である。

 

 鈴木の活躍もあり、合衆国を講和のテーブルにつかせる一歩手前まで来ているのは間違いない。

 

 これで戦争が終わる。

 

 ようやく、終わる。

 

 誰もそう思っていた矢先の、クーデター騒動であった。

 

 正に寝耳に水の事態と言えよう。

 

 実は鈴木は以前にも、その身に凶弾を受けた事があった。

 

 あれは忘れもしない、今から9年前の1936年2月26日に起こった、陸軍の一部青年将校たちが起こしたクーデター事件。所謂「二・二六事件」において、当時、侍従長だった鈴木自身もターゲットにされ、実際に襲撃を受けて重傷を負っている。

 

 その時は、幸いにして弾が急所を逸れた為、一命を取り留めたのだった。

 

 しかし、人生において2度もクーデター騒ぎに巻き込まれ、2度とも標的にされる人間も珍しいだろう。

 

 首相官邸に、軍靴の土足が荒々しく上がり込み、部屋は勿論、物置や天井裏までくまなく探していく。

 

 一国の宰相に対して、あまりにも無礼なふるまいであると言える。

 

 しかしクーデター軍からすれば、鈴木は国の行く末を誤らせる「君側の奸」である。彼等が遠慮する事はあり得なかった。

 

 しかし、

 

 いくら探そうとも、官邸内に鈴木の姿を見出す事はできなかった。

 

 ひとしきり邸内を荒した後、空しく引き上げていくクーデター部隊。

 

 彼等の目論みは、のっけから躓いた形だった。

 

 

 

 

 

 クーデター派の動きは迅速だった。

 

 彼等は部隊を二手に分けると、一隊は都内各所の制圧に振り分け、もう一隊は更に分散して帝都に至る街道の封鎖を行ったのである。

 

 これで講和派に属する部隊が急を聞いて帝都救援に駆け付けたとしても、簡単には帝都には入れなくなってしまった。

 

 それにしても、

 

 クーデター軍の規模たるや、想像を絶するほどであると言えよう。

 

 かつて「二・二六事件」の折には、陸軍の将校約2000人が参加したが、今回はその比ではなかった。

 

 兵員だけで実に2万以上。更に戦車や重砲などの装備も充実し、仮に今、敵軍が東京への直接攻撃に及んだとしても、充分に応戦可能なレベルである。

 

 その圧倒的規模は、1個師団が丸々、クーデター派に付いた形である。

 

 これには理由があった。

 

 9年前の事件では、一部の若手将校が独自の思想に基づいて決起したに過ぎなかった為、参加人数も2000人程度に過ぎなかったのだ。

 

 だが今回は違う。

 

 まず、現職の陸軍参謀総長である杉本元次(すぎもと げんじ)がクーデター派の思想に共鳴し、積極的に参加している事が大きかった。

 

 これにより陸軍。特に、帝都近郊の守りに付いていた野戦第1師団が、クーデター軍の主力として参加しているのが大きかった。

 

 これにより、関東一円は完全にクーデター派の支配下に収められる結果となった。

 

 この他にも、富士宮に個人的に心酔している政治組織「愛国志士団」も、クーデター派に加わっていた。

 

 旧華族の子弟や政治家、財界人、文化人の二男、三男によって構成された彼等は、政治団体とは名ばかりの暴力組織であり、かつては富士宮と交渉決裂した、彰人と姫神をも襲撃した事がある。

 

 勿論、愛国志士団の戦力は正規軍には遠く及ばないが、力の無い民達を威圧するには充分な力を持っている。

 

 一部では既に、略奪や暴行まで発展しており、被害は都民を中心に拡大している。

 

 面と向かって軍隊相手に事を構える気はないが、相手が力の無い市民なら気兼ねなく暴力が振るえると言う訳だ。

 

 大層な名前とは裏腹に、愛国志士団とは盗賊の群れと大差が無かった。

 

 だが、クーデター派は愛国志士団の行いを見ても咎めようとはせず、傍観を決め込んでいる。彼等からすれば愛国志士団は貴重な協力者である。その動きを掣肘するよりも、むしろ利用しようと言う空気の方が強かったのだ。

 

 愛国志士団の暴挙が続く中でも、事態は進行を見せていた。

 

 クーデター軍は更に、参謀本部、陸軍省、警視庁、憲兵本部、NHK、国会議事堂、内務大臣官邸、軍令部、海軍省、艦政本部、航空本部、横須賀鎮守府を次々と制圧していった。

 

 これにより、首都機能は完全にクーデター派に握られた形である。

 

 海軍では、井上海軍大臣や豊田軍令部総長はたまたま外出していたおかげで辛うじて難を逃れたものの、次長クラスの人間や各本部長、横須賀鎮守府司令部は完全にクーデター派の支配下に置かれてしまった。

 

 各省庁に努めている人間は、一部を除いて軍人では無く、ただの「職員」に過ぎない。クーデターを起こしたとは言え、正規の訓練を受けた軍隊に敵う筈も無かった。

 

 これについては警視庁や憲兵本部に付いても同様である。彼等は普段から犯罪者相手に取締りを行っているが、流石に本格的な軍隊相手に戦える戦力は保持しておらず、瞬く間に制圧されてしまった。

 

 横須賀鎮守府では、クーデター事件の発生を受けて陸戦隊を出動させようとしたものの、その前にクーデター派の兵士達が司令部に乱入、司令官以下幕僚全員が拘束され、鎮守府としての機能は完全に停止してしまった形である。

 

 こうして、首都一帯を完全支配下に置いたクーデター軍は、陸軍代表である杉本元次大将と、海軍代表である永野修大将が、共同で声明を発表した。

 

 

 

 

 

「まずは、早朝からこのような事態に陥る、困惑している者達も多いと思う」

 

 杉本の、このような口調で声明は始まった。

 

 その杉本の言葉に、永野も続く。

 

「誤解している者も多いとは思うが、我々が成そうとしている事は、あくまでも帝国の未来を掴むための聖戦であり、帝国を守らんと願う、我らの想いから成した義挙、すなわち間違った道を正道に戻さんとする、いわば『昭和維新』であると言える」

 

 維新。

 

 つまり、自分達の行動を、かつて明治政府を作った薩長の志士になぞらえ、正当なる革命であると主張しているようだった。

 

 永野は更に続ける。

 

「知っての通り今、我が帝国は未曾有の危機に陥っている。海の彼方から悪魔の如き敵軍が迫り、我らが愛する大地を、父祖なる土地を、先人達の血によって購われた領土を、全て炎に沈めようとしているのだ。既に多くの国民が命を落とし、嘆きの中に沈んでいる事だろう。これは、たいへん悲しい事であり、本来なら決して許されない事である」

 

 いかにも悲嘆にくれたような調子で言い募る永野。

 

 だが、

 

「しかるにッ」

 

 突然、激昂したように激しい口調で言い放った。

 

「今の政府や軍の弱腰たるや、何たることか!! 事もあろうに、憎き合衆国との手打ちを模索し始めるなど、言語道断であるッ そんな事で南海の地に散って行った我らの親は、兄弟は、姉妹達は、多くの英霊たちは浮かばれると言うのか? 否ッ 断じて否である!!」

 

 永野の言葉を受けて、再び杉本が前へと出る。

 

「聖戦は完遂されなくてはならないッ たとえより多くの血が流される事になろうとも、帝国が敗れる事は決して許されない事なのだッ 敗北、それこそが、散って行った多くの仲間達の最大の冒涜であり、未来に続く子孫たちへの屈辱を残す、最悪の暴挙に他ならないッ 故に、我等は今こそ立ち上がり、愛する我が帝国を不朽の王道楽土にしなくてはならない。これこそが、我らの唯一にして最上なる使命なのである!!

 

 一息で言い切る杉本。

 

 ややあって、荒くなった息を整えながら、永野に目配せする。

 

 それを受けて、前に出る永野。

 

「我等の名は『愛国臨時政府』。真に帝国の事を思い、真に帝国の未来と、勝利の為に戦う事を誓う志士達である。国民達よ、どうか我等に従い、我らの動静を見守ってほしい」

 

 

 

 

 

 永野と杉本の共同声明が高らかに発表されている頃、

 

 横須賀でも、動きが生じようとしていた。

 

 帝都から最も近い鎮守府と言う事で、クーデター軍(たった今、彼等が発した言を借りれば「愛国臨時政府軍」)に占拠された横須賀鎮守府。

 

 その横須賀の港で、1隻の巨艦が出港準備を進めていた。

 

 「信濃」である。

 

 第3次マリアナ沖海戦において、姉である「大和」「武蔵」を失い孤高となった「信濃」。

 

 その艦載砲である45口径46センチ砲は、合衆国軍の所有するモンタナ級戦艦と並んで、今なお世界最大の艦載砲であり、同時に「信濃」が世界最強の戦艦である事を意味している。

 

 その「信濃」が動き出そうとしている。

 

 錨を巻き上げ、同時に艦上では兵士達が俄かに動きを増してるのが判る。

 

 さては、先のクーデター宣言を受けて、鎮圧の為に出動するのだろうか?

 

 近くで見ていた誰もがそう思っていた。

 

 だが、

 

 艦橋に立つ信濃は、硬い表情のまま前方を沈思していた。

 

 これから自分が成そうとしている事。

 

 自分が犯そうとしている事への罪。

 

 それを噛み締めずにはいられない。

 

 ふと、脳裏に親友の事を思い浮かべた。

 

 姫神。

 

 信濃にとっては一番の友達。

 

 彼女が自分の事を知ったら、きっと怒るだろう。いや、それよりも悲しませてしまうかもしれない。

 

 その事が、信濃の胸に棘のように突き刺さり、痛みを発している。

 

 だが、それも一時の事だ。

 

 今は一時、立場を違えることになるかもしれないが、全てが終われば、またきっと一緒に戦う事ができる。遊ぶ事もできる筈。それまでの辛抱だ。

 

 それに、あるいは姫神も、自分の気持ちに気付いてくれるかもしれないと言う、淡い期待もあった。

 

 なぜなら、戦いで姉妹を失っているのは、姫神も同様なのだから。

 

 だからこそ、姫神も対米講和には一緒に反対してくれるのではないか、と言う期待が信濃にはあった。

 

「・・・・・・・・・・・・出港します。良いよね提督?」

「ああ」

 

 硬い調子で尋ねる信濃に対し、座乗した提督は重々しく頷きを返す。

 

 既に「信濃」機関には火が入り、スクリューは回転を始めている。

 

 徐々に滑り出す巨大戦艦。

 

 それと同時に、提督はマイクを手に取った。

 

「諸君。私は、戦艦『信濃』艦長、黒鳥陽介大佐であるッ 我々はこれより、帝国海軍の指揮下を離れ、臨時愛国政府に合流する。ただし、これは国家に対する反逆ではない。あくまで真に理想となる帝国を作り上げる為、君側の奸どもを取り除くべく、聖戦を行う物である!!」

 

 言い放つと同時に、ニヤリと笑みを浮かべる黒鳥。

 

 この時の為に、密かに「信濃」乗組員の7割近くは、富士宮派閥の息のかかった者達にすり替えてある。

 

 そして講和賛成派だった艦長は昨夜の内に粛清済み。その後釜に座る形で黒鳥は「信濃」と、帝都警備海上部隊を完全掌握していた。

 

 と言うか、そもそも帝都警備海上部隊を編成したのも、そこへ「信濃」を編入したのも、全て今日と言う日を迎える為の布石だったのだ。

 

 加えて、黒鳥は「信濃」が竣工した直後から、艦娘たる少女に頻繁に接触して交流する機会を得ていた。その為、信濃の思考は、今や完全に黒鳥達に同調していると言っても良かった。

 

 これらの周到な根回しのおかげで、黒鳥達は最強戦力である「信濃」を労せずして掌握すると同時に、東京湾及び周辺海域の制海権を得るに至ったのである。

 

 さあ、これで自分達のカードは揃った。

 

 「信濃」の艦長席に腰掛けながら、黒鳥は満足げに頷く。

 

 情報は続々と「信濃」にも齎されてきている。

 

 既に東京近郊は、大半が愛国臨時政府軍によって掌握されているクーデターはほぼ成功したと見て間違いない。

 

 クーデターに加わらなかった他の部隊が後から駆け付けたとしても、もう遅い。こちらには2万の軍勢と帝国最強戦艦が着いているのだ。絶対に負ける事はあり得ないだろう。

 

 陸には大軍が控え、海は最強戦艦が押さえると言う鉄壁の布陣である。これが破られる事などあり得なかった。

 

「今度こそ、俺の勝ちだ。水上」

 

 ここにはいない仇敵に、黒鳥は暗い愉悦と共に語りかける。

 

 あの忌々しい水上彰人は今ごろ、事態の急変に付いて行く事ができずに右往左往している事だろう。

 

 否、それとも既に拘束されて、牢に入れられた跡かもしれない。

 

 どちらにしても、今さら悔しがったところで後の祭りである。

 

 お前はせいぜい、惨めに悔しがれ。

 

 俺達は帝国を栄光に導き、英雄として称えられるだろう。

 

 その姿を夢想し、黒鳥はまた笑みを浮かべるのだった。

 

 

 

 

 

 だがこの時、

 

 クーデター派はたった一つの、

 

 それも致命的な物を取りこぼしていた事に、

 

 黒鳥も、そして他の誰も、気付いてはいなかった。

 

 彼等は帝都近郊の掌握は完璧に近い形で行った。

 

 抵抗勢力を完璧に近い形で排除し、帝都の首都機能を完全に自分達の支配下に置いていた。

 

 正に、我が世の春とも言うべき事態を謳歌している愛国臨時政府。

 

 だが、

 

 その他の地方に関しては、たかだか2万の兵力では流石に手が回らなかったのだ。

 

 そして、愛国臨時政府に対抗しようとする者達は、地方に存在していた。

 

 彼等は永野と杉本の演説が始まる前から、独自に収集した情報を基に行動を開始。密かに先手を打つべく水面下で動いていたのだ。

 

 クーデター派が取りこぼした物。

 

 それは即ち、帝国海軍最強の実働部隊。

 

 連合艦隊に他ならなかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ついにこの日が来た。

 

 第1航空戦隊に所属する大原中佐は、高ぶる想いに身を委ねながら、やがて来たる輝かしい未来を夢想していた。

 

 間もなくだ。

 

 もう間もなく、全てが始まり、そして終わる。

 

 海軍を牛耳る弱腰な愚物共を排除し、真に帝国海軍を率いるに相応しい栄光を持った人物に登場いただく。

 

 その栄えある任務を任された事に、大原は無上の喜びを覚えていた。

 

 彼の任務は、全体の統率指揮にある。

 

 作戦はまずここ。彼自身がいる連合艦隊旗艦「瑞鶴」によって行われる。

 

 連合艦隊司令長官である小沢治俊、及び瑞鶴本人、そしてその他のGF司令部要員の拘束を行う。

 

 それで、連合艦隊は行動力を失う事になる。

 

 同様の事が、第2艦隊旗艦「姫神」や、各戦隊旗艦においても行われる事になる。

 

 小沢、水上の両提督さえ身柄を押さえてしまえば、今の連合艦隊は簡単に無力化できるだろう。

 

 連合艦隊は大原の指揮下に置かれる事になる。

 

 その後は、東京からやって来るであろう永野達に指揮権を委譲すれば作戦は完了である。

 

 連合艦隊は愚か者たちの頸木を離れ、真に帝国を率いるに相応しい人物の手へと委ねられる。

 

 その時がもう、目に見える所まで来ているのだ。

 

「見ているが良い、我らの正義と義挙こそが、この帝国を救う光となるのだ」

 

 ギラつく眼差しで、大原は呟く。

 

 彼の目には、現連合艦隊司令部。特に小沢や水上、そしてその取り巻き連中の成す事は、度し難い程に愚かな行為として映っていた。

 

 連合艦隊は海軍の栄光を担う最強の艦隊である。その存在意義は、華々しい艦隊決戦を行い、来寇した敵を打ち破る事にある。

 

 だと言うのに、その使命を忘れた連中は、敵に背を向け、講和などと言う弱者の道へ走ろうとしていると言う。

 

 許せなかった。

 

 特に水上彰人。奴の存在そのものは、連合艦隊の害悪その物と言って良いだろう。

 

 輸送船如き弱敵を沈めるだけで功を誇り、提督を僭称する若造。

 

 海軍の存在の何たるかも忘れ、悪戯に兵力を消耗した大罪人。

 

 奴だけは決して許さない。あのような男は、全ての事が終わったら法廷に引き出し、惨めに処刑されるべきなのだ。

 

「・・・・・・・・・・・・時間だな」

 

 腕時計を確認した大原は、自室の電話を取ろうとした。

 

 艦内の直通電話であるが、この電話を使って待機しているメンバーに連絡を取り、行動を起こす手筈になっている。

 

 受話器に大原の手が触れた。

 

 次の瞬間、

 

 コンコン

 

「大原中佐、おられますか?」

 

 突然のノックと共に、廊下から呼びかけがある。

 

 その声に、大原は眉を顰める。

 

 これから一世一代の戦いが始まる、正にその瞬間に水を掛けられたような状況に、不快感を覚えているのだ。

 

「今忙しい。後にしてくれ!!」

 

 苛立ちまぎれに怒鳴り返す大原。

 

 まったく、空気が読めないにも程がある。これだから愚物共は。

 

 そんな事を考えながら、気を取り直して再び受話器を取ろうとした。

 

 しかし、

 

 コンコン

 

「大原中佐、おられますか?」

 

 再び、ノックと共に告げられる誰何。

 

 そこで、大原の苛立ちはピークに達した。

 

 受話器を乱暴に置くと、足音も荒く扉に歩み寄る。

 

 ともかく、外に立っている奴を黙らせない事には、安心して事を起こす事も出来ない。

 

 そう感じた大原は、勢いよく扉を開いた。

 

「何だッ 今忙しいとッ 言っ・・・・・・て・・・・・・・・・・・・」

 

 尻すぼみするように、大原の言葉は小さくなる。

 

 無理も無い。

 

 なぜなら、

 

 彼の鼻先には、今まさに複数の銃口が向けられていたのだから。

 

「な、こ、これはどういう事だ!?」

 

 どなる大原。

 

 その間にも、銃口は無言の威圧を持って向けられてきている。

 

 と、

 

「大原中佐」

 

 名前を呼ばれて振り返る大原。

 

 その視線の先には、彼が先程、激しい憎悪を向けていた対象の人物が、傍らに少女を従えて悠然と立っていた。

 

「あなたを内乱罪の容疑で逮捕する」

 

 彰人は冷然とした調子で言い放った。

 

 

 

 

 

 同様の光景が、連合艦隊の各艦でも起こっていた。

 

 彼等は皆クーデター派。つまり、愛国臨時政府軍なる組織に所属し、決起する時を待っていたのである。

 

 その数は200人近くにまで上り、実際に逮捕・拘束の指揮を執った彰人や、報告を受けた小沢を戦慄させたほどである。

 

 だが連合艦隊側の指揮権を掌握していた大原中佐が彰人の手によって拘束された事で、彼等は指揮官を失い空中分解。次々と抵抗力を失って行ったのだ。

 

 しかし、

 

 もし彼等の計画が実行されていたら、その時点で連合艦隊の指揮権は停止させられていただろう。

 

 正に間一髪、否、「間半髪」の事態であったと言える。

 

 だが、当然だが疑問は残る。

 

 なぜ、彰人達はクーデター派よりも先んじて行動を起こす事が出来たか、と言う事である。

 

 その答えは、彰人が手にしている一束の書類にあった。

 

 その書類を、感慨深く見つめる彰人。

 

「・・・・・・・・・・・・君のおかげだよ。中西」

 

 亡き友人に、彰人は語りかける。

 

 不運にも暗殺者の手に掛かり、無念の死を遂げた中西寅彦だったが、彼の死そのものが、彰人に逆転の一手を残したのだ。

 

 中西の死を聞いた彰人は、すぐさま行動を起こした。

 

 まず密かに東京に舞い戻り、彼の私物の中から埋もれていた書類を見つけ出した。

 

 情報部員の心得とでも言うべきか、重要な情報は暗号化して保管する習慣がある。ましてか、中西は彰人が全幅の信頼を置いた友である。情報の扱いには細心の注意を払ったと思われる。

 

 仮に収集した情報を敵に奪われたとしても、何らかの形でバックアップを残している筈、と踏んだのである。

 

 果たして、彰人の勘は正しかった。

 

 他のどうでも良い書類に紛れ込ませるようにして、目当ての情報は残されていたのだ。

 

 彰人はすぐに中西の掛けた暗号を手ずから解読し、富士宮派のリストを作って小沢に提出したのである。

 

 事態を聞いた小沢も、その日の内に特別チームを編成、反乱部隊のあぶり出しを行ったのだ。

 

 その結果が、艦隊内で起こった大捕物である。

 

 クーデター派からすれば、自分達が奇襲を行おうとしていたところに、逆に奇襲された形である。その為、ひとたまりも無かった。

 

 こうして、連合艦隊はクーデター派に対して、辛うじて先手を打つ事に成功したのである。

 

 ある意味、中西の死を彰人が早めに察知できた事が大きかったのである。

 

 中西を殺した暗殺者は、どういう訳か中西の死体を処分せずに放置した。その為、早期に彼の死を知った彰人は、迅速に行動を起こす事が出来たのである。

 

 もし中西の死体が処分され、発見自体も遅れていたら、彰人の行動は間に合わず、連合艦隊もクーデター派に屈していたかもしれなかった。

 

「ありがとう、中西」

 

 彰人は、中西が自らの死体を残す事で、彰人に最後の反撃のチャンスをくれたように思えるのだ。

 

 恋人の悲しみを読み取ったのだろう。姫神が、そんな彰人に寄り添うように身を寄せてくる。

 

 そんな姫神の頭を優しく撫で、彰人は故人の霊に感謝の意を述べる。

 

 帝都にクーデター騒ぎが起こり、帝国に激震が走る中、

 

 一縷の望みに、反撃の可能性は残されたのだった。

 

 

 

 

 

第102話「帝都騒乱」      終わり

 


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