* * *
やたらと重く感じる寝起きの身体を無理やり起こし、顔を洗う。
……学校、行きたくない。そう思ったところで時間が許してくれるはずもなく、家を出る刻限は徐々に迫ってきている。
原因は、もちろん昨日のこと。
あれから一向に出てくる気配がなかったのを心配してか、お風呂場のドア越しにお母さんがわたしを呼んだ。その声に一旦思考を打ち切ったものの、涙の代わりに嫌な感情がとめどなく今も溢れ続けている。
別に陽乃さんが嫌いというわけじゃない。けど、突きつけられた恐怖のせいで、頭が、心が、あの人と一緒に過ごすことを拒んでいる。ざわざわとした悪寒が走り、危険信号がひたすらうるさく鳴り響く。
また何かを言われて、心を弄られて、また一つ言葉の棘を埋め込まれて。
こんなの、わたしの邪推でしかないけど。でも、悪い予感というのはよく当たるもので。
はぁ、嫌だ。とにかく、嫌だ。
鬱屈な気分のまま身支度を整え、玄関のドアノブに手をかけて回す。だが、そこから先には進まなかった。
かちゃっ、かちゃっ。
自身の胸中を反映した無意味な躊躇いの音が、開けられるはずの扉の前で繰り返されていく。わたしの様子に、何事かとばかりにぱたぱたと駆け寄ってくる足音が背後から聞こえてくる。
「いろは、どうしたの? もしかして学校で何か、あったの……?」
昨日のこともあるせいか、より心配の色を含ませたお母さんの声。
今は、当たり前の優しさが痛くて、辛くて。かといって親に理由を隠さず言えるほど、わたしは素直になれなくて、まだまだ子供だから。
「ううん、なんでもない。……行ってきます」
わたしは表情を見せることなくふるふると首を横に振り、力任せに扉を開いた。
学校に着くまでの間も、着いてからも、考えた。余計に思考が散らかるだけだとわかりきっていても、考えずにはいられなかった。そうでもしないと逃げ場のない恐怖が襲ってきて、飲まれてしまいそうになっていたから。
その結果、授業中は先生が何かを喋っていてもするりと耳を通り抜けていくだけで。形だけ広げた教科書に目を通しても、意味のない文字列としか認識できなくて。
だから、わたしは昼休みに一通のメールをせんぱいに送ることにした。
『今日行けないです。ごめんなさい』
送信されたことを確認した後、感情の勢いに任せて携帯の電源を切る。毎日楽しみにしていた二人きりの時間を、二人だけの空間を、悲しいものにしたくない。なにより、こんなぼろぼろになったわたしをせんぱいには見せたくない。きっと、今のわたしを見たらせんぱいまで自責の念に駆られてしまうだろうから。
会いたいけど、会いたくない。
触れたいけど、触れられない。
一緒にいたいけど、いたくない。
甘えたいけど、甘えられない。
そんな葛藤の波ばかりが押し寄せてくる。でも、どうにもならない。わたしは未練を断ち切るように一つだけため息を吐き、教室を離れた。
あてもなくふらふらとしている途中、保健室と書かれた表札が目につく。そうだ、ちょっとだけ休もう。そうすれば、きっといつものわたしに戻れる……なんて。
わかってる。そんなもの、所詮は希望的観測に過ぎないと。こんな気休めで済むなら、わたしの苦悩は今朝の時点で解消している。
でも、それでも。
たとえ一時的だとわかっていても、今はこのしがらみから抜け出したかった。
その日の昼休みは結局生徒会室に行かず、何かを食べることもせず、わたしは保健室のベッドの上で一人、ただただ、空っぽの時間を過ごしていた。
* * *
放課後、ついにやってきてしまった。
わたしが今、一番会いたくない人が。一番、望んでいない時間が。
どれだけ嫌でも、拒んでも、結末は変わらなかった。生徒会室の扉をこんこん叩く音がその証明に他ならない。
「……どーぞー」
うじうじしていても解決どころか悪化の一方を辿るだけになりそうだったので、観念して入室を促す。心持ちのせいか、ただでさえ間延びする声が力の抜けきったへにゃへにゃした声になってしまった。
がらりと扉が開かれ、陽乃さんが姿を現す。あーあ、せんぱいだったらまだマシだったのに。
「ひゃっはろー、いろはちゃん」
「こんにちはです、はるさん先輩」
「ありゃ? なんか元気ないねぇ」
誰のせいですか、誰の。けど、当然言えるわけがないので代わりの言葉を繕う。
「ちょっといろいろありまして……」
「お、なになに悩み? じゃあお姉さんが聞いてあげるよー」
どこか嘘くさい満面の笑みを顔に貼り付けながら、陽乃さんがそんなことを言い出した。
やっぱり、この人は苦手だ。人のパーソナルエリアに平気で踏み込んでくるくせに、かき乱すだけかき乱して帰っていく。現に今も、こうしてわたしの心を蝕んでいる。
全部知ってて、わかってるくせに。胸の中だけで悪態をつき、吐き捨てた。
「……いえ、大したことじゃないので」
ああ、また嘘をついてしまった。どんどん自分が自分じゃなくなっていく。表面だけ整えてばかりの“偽物”に戻っていくような感覚に、自己嫌悪が強くなる。
「いろはちゃん、つれなーい。ま、大丈夫ならいいけどさ」
表情をころっと戻すと、陽乃さんがわたしの隣に腰掛ける。そして、持参した鞄からクリップでまとめられた紙の束を取り出し、机の上にそのままぽんと置いた。
「じゃ、始めよっか」
「あの、なんですかこれ?」
「ん? 小テストだよ。わたし、いろはちゃんの成績知らないし」
言われ、何枚か重なっている用紙の一枚目を眺めてみる。でもそこに書かれている文字は、機械的な堅苦しい文章の羅列にしかやっぱり見えなくて。
だめだ、0点なんかとってしまったら余計に関わられることになってしまう。錆びついた頭をなんとか無理やり回転させ、最初からしっかり目を通して一枚一枚確認していく。
どうやら、自作のテスト用紙らしい。範囲は、一年次の一学期から二年次の最近習ったあたりまでといったところだろうか。
「実力の確認、ってところですか」
「うん、そゆこと」
意図を理解したことを伝えると、陽乃さんがにこりと笑った。このくらいなら日頃の復習でやったばかりだし、なんとかなると思いたい。
「準備はいい?」
「……はい」
筆記用具を取り出すと陽乃さんが確認をしてきたので、こくりと頷く。正直言って、自信なんかない。今、頭麻痺してるし。
「制限時間は一時間。……よーい、どん!」
それだとなんだか締まらないなと思いつつ、仕方なく手元のテスト用紙に視線を落とした。
かちこちと時計の針が進む音。かりかりとペンが走る音。ぺらりと本のページを繰る音。開かれた窓から入り込んでくる学校特有の喧騒。規則正しい一つの音と不規則な三つの音が、静寂に包まれた空間に重なって広がっている。
十五分。
三十分。
四十五分。
そうして、だいたい一時間近く経った頃、複数の演奏から一つの音が抜けた。間もなくしてまた一つ音が抜けた直後、両手をぱんっと叩いた音がひときわ大きく響いた。
「はーい、終わりだよー」
その声に、疲労感たっぷりの深い吐息がこぼれた。椅子の背もたれに体重を預け、一時の開放感に身を委ねる。
自発的に勉強をするようになってからも、ここまでの緊張を覚えたことは一度もない。何かをされたわけでもないし、何かを言われたわけでもないのに、重圧が半端じゃなかった。そこまで感じてしまうのは、この人に対して苦手意識が強すぎるのもあるかもしれないけど。
「お疲れさま。採点するから赤ペン貸してもらってもいい?」
「……あ、はい、どうぞー」
「ありがと」
きゅっきゅっと筆先が擦れる音を聞きながら、だらけた体勢でぼーっと天井を見つめる。
「ほー、確かに比企谷くんの言ったとおりだなぁ」
途中、陽乃さんがそんな声を漏らした。聞く限り、今のところは比較的いい点数をとれているらしい。半分しなだれかかっていた首を起こし、陽乃さんへ身体ごと向き直る。
「ありがとうございます……」
「もうちょっとだけ待っててねー」
それから数分も経たないうちに、採点の済んだテスト用紙が返却された。点数はまぁ、上の下といった感じ。
「全体的にケアレスミスが目立つから気をつけてね」
ご丁寧に傾向まで割り出してくれていたようだ。本領発揮できてれば、なんて言い訳はせずに指摘は素直に受け取ることにする。というよりも、少しでも早くこの時間が終わってほしかった。
「わかりました、気をつけます」
ぺこりと軽く頭を下げ、重ねてお礼を言う。
「……疲れちゃったみたいだし、ちょっとだけ休憩しよっか」
さっきまでのわたしを把握していたらしく、陽乃さんがおかしそうにくすりと笑う。
「あ、すいません……」
「いいのいいの、無理やりやらせちゃったしね」
これだけ見れば、優しい人なんだけどな。まぁそれはともかく、後は何事もなく過ぎ去ってくれればいい。
――そう思った時だった。
「ところで、お姉さんずっと気になってたんだけどさ」
机の上に両肘をつき、組んだ両手に顎を乗せて陽乃さんがもう一度口元を緩める。直前までの笑顔とは違う妖しい微笑みに、ぞくりと背筋が凍った。同時に、温かみの感じられない視線がわたしを射抜く。
「雪乃ちゃんとガハマちゃんは……知ってるのかな?」
ああ、やっぱり。
この人は、簡単に逃がしてはくれなかった――。
あけましておめでとうございます!
遅刻しまくりの挨拶となりますが、今年も宜しくお願い申し上げますー。
それでは、ここまでお読みくださりありがとうございました!