* * *
陽乃さんが突然やってきたことで、空気ががらりと変わった。にこにこと人懐っこい笑顔を向けてきてはいるが、表情の裏にあるものがまったく見えないせいで逆に怖い。
「ども……」
「比企谷くん、相変わらず浮気とは関心しませんなー」
その言葉を聞いて、胸にちくりと痛みが走った。確かに、わたしとせんぱいは正式に付き合っているわけじゃない。なのに彼女面して、せんぱいを特別に思っているわたしとは別の誰かを無意識に、無遠慮に傷つけて。そう言われた気がして――。
「いや、だから違いますって……」
わたしの顔が一瞬だけ曇ったのに気づいたのか、間を空けずにせんぱいが返す。
「じゃあ、本気ってことか……。雪乃ちゃんやガハマちゃんだけじゃ飽き足らず……そういうのはお姉さん、なおさら許さないぞー」
「あいつらはそういうんじゃないですよ」
迷うことなくせんぱいがはっきりとした口調で否定すると、意外だったのか、陽乃さんが目を見開く。
「――へぇ」
直後、温度が感じられない声音が突き抜けていき、ぞくりと背筋に寒気が走った。
周りには他の人の声や物音もあるはずなのに、まるでそれら全てが一切遮断されてしまったのかというくらい、いやに耳に張り付く声だった。
そして価値を見定めるような、新しい玩具を見つけたような、そんな瞳をわたしとせんぱいに向けている。
「いろはちゃん、わたしも相席させてもらっていーい?」
「え? あ、は、はい……」
息が詰まりそうになるのを我慢していると不意に尋ねられ、反射的に頷いてしまう。
「ありがとー!」
理解が追いつき状況が飲み込めたのは、陽乃さんが持っていたトレイを置いて向かい側に座った時だった。
「で、二人は何してたのかな? やっぱりデート?」
両手を組んで頬杖をつきながら、陽乃さんが改めて聞いてくる。朗らかな表情とは裏腹に得体の知れないどす黒い何かがうっすらと見えていて、回答に迷ってしまう。
けど、何が正答で何が誤答になるのかの境界線すらわからない。言葉未満の吐息ですらないものだけが、わずかに開いた口から漏れ、消えていく。
「一色の勉強をこれから見てやるところだったんですよ」
せんぱいが問いかけに応じてくれたので、その間に一呼吸し、落ち着きを取り戻そうと試みる。
「ふーん。学校の勉強?」
瞳を横に動かし、陽乃さんがわたしへ視線を移す。わたしが答えろ、ってことか……。
まだだいぶ心もとないが、さっきよりはマシだ。鈍りかけた思考をフル回転させて、つぐんでいた口を開く。
「そうです」
正直、この人が相手では嘘をついたところで即座に見破られるだろうし、中途半端な言い訳をしたところで徐々に綻びが出て、そこを突かれることになるのが目に見えている。かといって素直に言えば、根掘り葉掘り聞かれる未来が想像に難くない。
だから、真実の中に含ませたものがわからないように、本音の言葉の中に本当の動機を隠した。
「んー、今いろはちゃん二年生だっけ」
「はい」
深く触れてこないということは、無事やり過ごせたということでいいのだろうか。拭いきれない不安を隠すため、短く返して済ませる。
「ってことは、進路選択も含めた早めの受験対策かー。じゃ、比企谷くんに教えてもらってるのは国語を重点的に鍛えたいから、……ってことでいいのかな?」
思わず反応して肩がぴくりと動く。
学生にとっては日常的に耳にする、何の意味もないありふれた単語の一つでしかないけど。
わたしにとってはキーワードとも呼べる、誰にも渡したくない大切な感情が隠れているから。
もちろん、この人がその隙に気づかないわけがない。
「……なるほどねぇ」
くすっと蠱惑的な笑みを浮かべながら、陽乃さんが呟いた。心の中を隅々まで持て余すことなく全て覗かれ、掴まれた気がして、次第に恐怖が上回っていく。
もし、ここへ来た時からこの展開が予定調和だったとしたら。
途中でいくらうまくかわせたとしても、手段やアプローチが変わるだけで行き着く展開は同じだとしたら。
最初から全てを知っていて、知らないふりをしているだけで、手のひらの上で転がされ、遊ばれているだけだとしたら。
結局わたしがあの手この手であがいたところで、何の意味もないとしたら。
この人を見ていると、そんな錯覚に囚われてしまう。そんなことあるわけがない、ありえるはずがない、あってはいけないのに。
「そういうところ、可愛いと思うよ」
一転して今度は優しげな、それでいて憐れむような表情で、陽乃さんが穏やかに微笑む。瞳の奥には温かさと冷たさが複雑に混ざり合っているせいで、ちっとも感情が読めない。
正体がわからないものほど怖くて、わからなければわからないほど比例して怯えは強くなっていく。
「……ありがとうございます」
押し寄せてきた恐怖の波は、スカートの裾をぎゅっと握ることでなんとかこらえた。
「あ、そうだ比企谷くん」
わたしへ縫い付けていた視線を解き、隣へと転じる。
「君の苦手な数学は、どうしてるの?」
「こいつ俺より数学の成績いいんで何も……」
あんなものを見せられたのに、せんぱいはなんで平然としていられるのだろう。わたしは今、口から意味も中身もないものを喉から絞り出すのがやっとなのに。
差を実感するたび、わたしの弱い部分が浮き彫りになってしまう。もちろん、このままじゃだめなのはわかってるけど……。
「じゃあ数学については教える人がいないと」
打ちひしがれているわたしの横で、会話が進んでいく。ただ、こんな状況の中でも直感は不思議と冴えていて。
ふむふむと頷いている陽乃さんを見た瞬間、嫌な予感が全身を駆け巡った。
「よーし、じゃあお姉さんがいろはちゃんに数学を教えてあげよう!」
「は?」
「え……?」
弾んだ声の後、間の抜けた声と驚いた声が重なった。
「二人してなんだその反応ー。つれないなー、もう」
顔をしかめるせんぱいとその横でぽかんと呆けるわたしの様子に、陽乃さんがいじけた子供みたいな声遣いで言って、つまらなそうに唇をとがらせる。
普通に考えれば、断るどころかお願いしたくなるほどの贅沢な申し出。だが、今回はこのタイミングで、ましてや大して関わりのなかったわたしにそこまでしてくれるのには、相応の目的がある以外に理由が見当たらない。だからこそ、警戒だけが強まっていく。
「ま、いいや。それよりこの提案、どうかな?」
表情と声色こそ穏やかなものだが、目の前の黒い瞳は決められた選択肢以外を選ぶことは許さないと言っているようで、どこか威圧めいたものをひしひしと感じる。
「別に雪ノ下さんにそこまでしてもらわなくても……」
「わ、わたしもはるさん先輩に迷惑かけたくないですし……」
「気にしなくていいよ、わたしが好きでやるんだし。さすがに毎日は無理だけどね」
せんぱいの後に続いてやんわりとお断りしてみたが、けろりと返された。企みがあるとわかってはいても、気遣いや厚意、善意といったものを前面に押し出されてしまうとどうにも断りづらい。
どうしよう、そんな意味を込めた視線を隣に送ってみると、視界の端からくすっとした笑い声が耳に届いた。
「……それとも二人には、わたしに知られたくない秘密でもあるのかな?」
瞼をゆっくりと細め、陽乃さんが口元を歪めた。うっすらと覗かせている瞳孔は、どこまでも吸い込まれてしまいそうな仄暗さを醸し出していて、思わず息を呑む。
「そんなのないですけど……」
せんぱいが言った、この場を収めるためだけの欺瞞でしかない言葉に胸が苦しくなる。二人で結んだ“約束”が、二人でしか共有していない“秘密”が、今はぎしぎしと心を締め付けてきて。
目を逸らそうとしても、身をよじろうとしても、嫌な感情がしつこくつきまとう。陽乃さんの問いただすような視線が、逃がすまいとばかりにわたしとせんぱいを縛り付けてくる。
だから――。
「ないです……」
言うことを拒む気持ちを殺して、震える寸前の声で呟くしかなかった。それぞれの言葉を聞き届けると、陽乃さんがくすくすと笑う。
「んじゃ、決まりってことでいいね。……お、そろそろ時間かな」
そこで強引に話を切るように、陽乃さんがちらりと腕時計に目をやる。
「……雪ノ下さんは結局そのためだけに来たんですか」
「ううん、暇つぶし」
感情のない、平淡な声だった。そして、押し潰されてしまいそうなほど、重い一言だった。
本当に暇つぶしのためだけにここへ来たのだろうか。そんな疑問は残ったままだが、真実を知っているはずのこの人は、それ以上何も語らない。
「じゃ、いろはちゃん、明日からね」
前兆なしに話題が巻き戻った挙句、勝手に予定を決められた。
「へ? あ、明日からですか……」
「なぁに? 嫌なの?」
「そ、そういうわけじゃないですけど急だなーって」
「時間があるうちから取り掛かったほうがいいからね、何事も」
一応は抵抗してみたものの正論で返され、仕方なく諦める。わたしやせんぱいがどれだけ正当な理由を並べ立てても、最終的には言いくるめられてしまうだろう。それがわかっているのか、せんぱいはもう口を挟んではこなかった。
「わ、わかりました……。よろしくです……」
「うん、よろしく」
わたしに向かってにこりと明るく微笑むと、陽乃さんはそのまま瞳を滑らせる。
「それと比企谷くん」
「なんでしょう」
「そのうち、聞かせてね」
「……雪ノ下さんが納得できるかはわかりませんけどね」
主語のない言葉の応酬に何が含まれていたのか、はっきりとわたしにはわからなかったけど。
なんとなく、わたしたちの行く末に関して触れていたような気がした。
「じゃ、わたしはもう行くね」
もう一度時間を確認すると、陽乃さんがトレイを手にして席を立つ。
「二人とも、付き合ってくれてありがとね。それじゃごゆっくりー」
空いているほうの手をひらひらと振り、陽乃さんがこの場から去っていく。
人波の中でもやけに目を惹くその姿が見えなくなるまで見届けると、どっと疲れが押し寄せてきて、かくんと力が抜けた。
「……一色?」
自分の肩を抱いてかたかた震えるわたしに気づき、せんぱいが心配そうに顔を覗き込んでくる。
「こ、こ、怖かった、です……」
圧迫感しかなかった窮屈な時間が終わりを迎えたことで、誤魔化していた感情が受け入れられないほど大きくなり、破裂してしまった。
あの人には、やっぱり最初から全てが見えていて。
そして、これからどうなるかもきっとわかりきっていて。
だから、だからこそ突きつけた。
それでいいのかと、それが本当に“本物”と呼べるものなのかと。
頭を撫でられても、せんぱいの胸元に顔を寄せても、得体の知れないどす黒い何かはずっと瞼の裏にこびりついていて、剥がれてはくれなかった――。
ちょっと遅くなりました、ごめんなさい。
それでは、ここまでお読みくださりありがとうございました!