* * *
翌朝、いつもより早い時間に目が覚めた。寝ている間に泣いてしまっていたのか、枕がちょっぴり濡れている。
重く感じる身体を起こし、部屋の窓からうっすら白みがかっている空模様を眺めた。ただ、そうしたところで気がまぎれるはずもないことは、自分でもわかっていて。
余った時間で二人分の弁当の用意をしても、身支度を済ませた後も、寂しさはちっとも消えてくれないままで。
すっぽりと抜け落ちてしまったような心の空白は、間違いなく、あの温もりの中でしか塗り潰せない。寂しい、甘えたい、会いたい、離れたくないと、もはや依存に近い恋心に支配されていくのを感じつつも、わたしは家を出る時間を早めることにした。
学校に着き、駐輪場でそわそわとしながらせんぱいを待つ。自転車の車輪が回る音が聞こえてくるたび目を輝かせては、直後にがっかりと肩を落としを繰り返す。
はぁ、早く来ないかな……。
もう何度目かわからない恋煩いのため息を吐いていると、待ち焦がれていた人物の姿が視界に飛び込んでくる。その瞬間、顔は自分でもわかるくらいにぱぁっと明るく綻び、これまでの疲労感はなかったかのように身体がふわりと軽くなって。
「せんぱぁ~い!」
昨夜や今朝の心境から、そしてわたしの身勝手な行動とはいえ散々待ちぼうけを食らわされたことから、無意識に、全力の甘え声が出てしまった。
そのトーンに周りの登校中だった生徒が反応し、発信源であるわたしにいろいろな視線を浴びせてくる。なんだなんだと好奇心からの、あるいは変なものを見るような、もしくは、都合のいい勘違いを押しつけるような。
けど、わたしはその全てを無視して呼びかけた相手のもとに駆け寄っていく。
「声でけぇよ……」
これ以上注目を避けるためか、かすかな声量の呟き声が自転車のブレーキの音交じりに耳に届いた。人目につくというのは、わかってる。わかってる、けど……。
おそるおそる手を伸ばし、自転車をとめているせんぱいの制服の裾をくいくいと引っ張る。男子ウケを狙って可愛くアピールするためだったはずの仕草は、今はただ好きな人に甘えたい、甘えさせてほしいというサインへと変化していた。
「ちょっとだけ……ちょっとだけで、いいので……」
振り返ったせんぱいの顔を俯きがちに見上げ、うるっと瞳を潤ませ、おねだり。じんじん、ぽわぽわ、きゅんきゅんとするあの温もりがあれば、きっとまた今日も頑張れるはず。
「やれやれ……」
なりふり構わず甘えようとしているわたしの様子に、せんぱいが口元に笑みを浮かべる。ただそこには呆れの色も滲ませている気もして、思わず頬を膨らませてしまう。
「だって、せんぱいのせいじゃないですか……」
あの時から、ずっと余韻が続いているせいで。
今も、これからも、ずっとあの温かさにずっと包まれていたくなってしまったから。
「ほんと、めんどくさいやつだな」
「……前にも言いましたけど、めんどくさくない女の子なんていませんよ」
「そうだな。今も超実感してる」
わたしの言葉に息を吐き、きょろきょろとせんぱいが目線を動かす。どうやら人がいないタイミングを見計らっていたらしく、わずかの間の後に、わしゃわしゃと軽く撫でられた感触が頭いっぱいに広がった。
「まぁ、そんなめんどくささも今は悪くねぇ……とは思ってる」
照れくさそうに言って、せんぱいがふいっと目配せをする。視線で促され、辿っていった先にあったのは、駐輪場の奥側にある物陰。
……甘えてもいいってことだよね。そう期待して後をついていく。
少しだけ歩いてわたしの姿だけが見えなくなるような位置まで来ると、ちょっとだけだぞと言葉が付け足された。
「ほれ、チャイム鳴っちまうぞ」
「は、はい……」
まだ慣れていない緊張に震えながらも、正面に立っているせんぱいの腰に両手を回し、掴む。そして、そのままゆっくりと、おでこをこつんと胸元に預ける。
――あぁ、やっぱり温かい。
「……せんぱい」
「なんだ」
「今日も、時間もらっていいですか……?」
希望どおりにいくかどうかを別とするなら、進路相談についてはもうほとんど解決しているようなものだ。残っているのは平塚先生に結果を話すことと、調査票の空欄を埋めることだけ。
後は、わたし一人でもできる。できるけど、もっと一緒にいたい、もっと独り占めしたいという気持ちは、昨日の時点で既に歯止めが利かなくなっていた。
「……最初からそうするつもりだったんだが」
その言葉に、言い表せない感情が胸のあたりから滲み出るように、どめどなく溢れてきて。
「いつもいつも、ほんとに、ありがとうございます……」
気づけば、自然と、そう口にしていた。
「気にすんな。……それに、前もさっきも、悪くねぇって言ったろ」
めんどくさいわがままに応えるのも。
めんどくさいわたしに付き合うのも。
わたしが勝手に、都合よく捻じ曲げた解釈だとしても。
幸せ。
満たされていく気持ちに当てはまる言葉は、他に何も浮かんでこなくて。
予鈴のチャイムが鳴ってしまうまで、わたしは優しい温もりの中に浸り続けた。
* * *
放課後、今度こそ平塚先生と話をするために職員室へ向かう。そうして扉の近くまで来た時、緊張はより強くなり、不安はさらに大きくなった。
よし、一旦深呼吸。
すーはー……。
……大丈夫かな、うん、大丈夫、頑張れる。
「一色」
「あ、せんぱい」
心を落ち着かせている最中、ちょうどやってきたせんぱいが声をかけてきた。気だるそうな、けど、ずっと隣で聞いていたい大好きな声が、耳を通してすーっと染み渡っていく。
「大丈夫か?」
もう一度、深呼吸。
すーはー……。
……よしっ、大丈夫、頑張れる!
「大丈夫です」
さっきまでのおぼつかない気持ちが嘘のように晴れて、はっきりとした口調で答えることができた。そんな心の状態の変わりっぷりに、自分はどれくらいせんぱいのことが好きなのかを痛感してしまう。
でも、いいんだ。だって、わたしがそう望んだのだから。
「んじゃ、行くか」
わたしの明確な意志を灯した瞳に、表情を穏やかなものにしてせんぱいが頷く。それにはいと返事をして同じように首を縦に振ると、せんぱいが職員室の扉に手をかけ、開いた。
「失礼します」
「失礼しまーす」
挨拶を重ね、せんぱいの後に続いて中に入る。さてさているかなーと平塚先生のデスクへ視線を移したところで、こちらを見ていた平塚先生とばっちり目が合う。
「待っていたよ、一色、比企谷」
そして、柔らかな眼差しで二人並んでいる姿を見つめながら、にっこり微笑んだ。
応接スペースに移り、話し始めて数十分くらい経った頃だろうか。
最初の相談から今までの間に、何をしてきたのか、何があったのか。また、どうしてそう考えたのか、どうしてそういう結論に至ったのか。それらを一つ一つ、包み隠さず説明し終えた。
前回と違うのは、強引でも、むちゃくちゃでも、納得できる理由を、わたし一人ではなくせんぱいの分も足して二人分用意したこと。
理由といっても、ただお互いの願望や感情をごちゃ混ぜにして理由付けした、非合理的で、非現実的なものだ。その先にあるのは困難や絶望しかないとしても、叶うことのない夢だと、くだらない理想や幻想だとバカにされたとしても、わたしはその道を選びたい。
切り離して考えてみたまえと平塚先生は言った。
わたしが欲しくて欲しくてしょうがない“本物”は、問い直した時から今も、ずっと変わっていない。だから、あの時何も見えなくなったのだ。
隣で何をしたいか考えてみたまえと平塚先生に言われ、考えた。
あまり自分で言いたくはないけど、わたしには何もない。だからこそ、ちょくちょく顔を覗かせていた怯えや不安という感情が、あの時はわからなかったぼんやりとしたものの正体。
それが昨日までのわたしの心の奥底に、常にあったもの。
でも、今は違う。もちろんこの先どうなるかなんてわからないし、ずっと関係が続くかどうかなんてやっぱり保障はない。
けど、たとえお互いの自己満足だとしても――。
相手と向き合って、押しつけ合っても、それでも求め合えているから。
また一つ知って、理解して、共有していきたいから。
お互いに、そう願い合っていると信じられるから。
なによりも、わたしとせんぱいとの間に結ばれた“本物”を信じることができたから。
そして、ずっとずっと続くように、隣を歩み続けていきたいから。
だからもう迷いはないし、怖くもない。
「……話はわかった」
黙って耳を傾けていた平塚先生が、重々しく口を開く。
「それが君の……君たちの答えなのだな?」
直後、真摯的な瞳をこちらに向けてきた。本当にいいのか、後悔はないのかと言わんばかりの迫力に、ひるんでしまいそうになる。
前までは顔を逸らしてしまったかもしれないけど。
でも、今なら――。
ちらりと隣へ視線を送り、頷き合う。短く息を吸って、確かな覚悟を、たった一言に込めて。
「「はい」」
目を逸らすことなく、迷いなく、せんぱいと重ねて答えた。
「……やれやれ」
しばらく見つめあった後、平塚先生は煙草を取り出し火をつける。そのまま煙をふっと吐くと、二つの表情を交互に見て、肩をすくめた。
「二人揃ってそこまで決意がこもった顔をされたら、私にはもう何も言えんな」
ぎしっと音を立ててソファの背もたれに寄りかかりながら、苦笑交じりにくすっと笑う。
「…………ぁ」
呆気にとられつつも、わたしは無意識に小さく息を漏らしていた。理解が追いついた時、はっとして隣を見る。
「せ、せんぱい……」
「よかったな、一色」
顔を見合わせた瞬間、緊張の糸が切れて全身から力が抜けていく。一安心したからか、じわりと涙が浮かび上がってきて、視界が滲んでしまう。
「比企谷、最後までちゃんと面倒をみてやれよ」
「わかってます」
目元をぐしぐしと拭っているわたしの横で、平塚先生はせんぱいに言葉を送っている。それに応えるかのように、せんぱいが真面目な声音ではっきりと返した。
「一色は、今はともかく後々きちんと比企谷から自立するように」
だから、わたしも――。
「……はい」
平塚先生の優しくもあり、厳しくもある言葉に力強く頷いた。
「なら、あとは君たちで頑張りたまえ」
くわえていた煙草の火を消すと、平塚先生が穏やかな表情で微笑んだ。
* * *
平塚先生はせんぱいに大事な話があるらしく、終わるまでの間わたしは生徒会室で待つことにした。他に誰もいない静まり返った空間の中、椅子に腰掛け息を吐く。
……あぁ、やっと進めるんだ。そんな実感がぽつぽつと湧き出してくる中、ふと思い立ち、鞄から一枚の紙を取り出して眺めてみる。
すると、この間までの苦悩が嘘のように、すらすら心と言葉が文字として繋がっていく。目を閉じて想像の世界に飛び込んでみても、一つのシルエットは変わらないまま、ぼんやりとしていた道の先は光が差し、靄は消えていた。
うん、これなら問題なく書けそう。
そのことに一人満足げに微笑み、ペンを走らせる。楽しげにふんふんと口ずさみながら書き上げたところで、がらっと扉が開かれた。
「悪い、待たせた」
「大丈夫ですよー。それに、ほら!」
書き上げたばかりのものを、見せつけるようにしてせんぱいに手渡す。そこにあるのは、全ての空白に文字が書かれ、確かなわたしの意志を示した調査票。
「……まぁ、いいんじゃねぇの」
ひとしきり眺め終えると、せんぱいも口元を綻ばせてわたしの頭に手を置いた。
「これから、大変になるぞ」
「……えへへ、頑張りますっ」
何から手をつければいいかは正直全然わからないけど、とりあえずは近々ある中間テストのために勉強しよう。
くしゃくしゃと撫でられる感触に頬を緩ませつつも、小さな決意をした時――。
「次は、俺の番だな」
ふと聞こえてきた、ぽつりとした呟き。その愁いを帯びた声に、思わず瞳を向けてしまう。
「お前には、先に言っておこうと思う」
せんぱいは大きく息を吐いてから、じっとこちらを見据えてくる。瞬間、わたしの胸の中でどくんと音が高鳴った。
「奉仕部での決着がついたら……」
高鳴りは、大きくなっていく。そして言葉は紡がれて――。
三章はこれで終わりです。
またプロットやら、短編やらでいつものごとく、お待たせすると思います。
更新間隔のことといい、色々申し訳ない。
それでは、ここまでお読みくださりありがとうございました!