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平塚先生の後ろ姿を二人で見送った後、わたしはさっきと同じようにすぐ近くの景色を眺めながら、より深く、もっと真剣に、もう一度考えてみる。
わたしが心のどこかでやりたい、続けたいと思うことは……。
お菓子作りや料理についてはもともと興味があって始めたことだったけど、いつのまにか自分の女子力を高めるためだったり、男子へのアピールのために磨き上げていた。だから趣味として楽しむ分には好きだけど、それ以上の特別な思い入れはせんぱいのことを除いたら、今となっては別にない。
読書については、せんぱいとの繋がりを通して最近増えた新しい趣味だ。最初が最初だけに特別な思い入れがあって、今のわたしは本の世界に夢中になっている。けど言い換えてしまえば、やりたい、続けたいとは思っていても、きっかけとなったものが大きすぎてそれを上回るほどの熱意が生まれてこない。
目的があっても、理由はなくて。
理由はあっても、目的がなくて。
両方のうち欠けている片方を埋めようとどれほど考えても、探しても、ぽっかりと空いてしまっているものが満たされることはないまま、思考と感情がぐるぐると虚しく回るばかり。
……やっぱり、振り出しに戻っちゃった。せっかくせんぱいが頑張れって言ってくれたのに。でもわたし、はいって言っちゃったし、最後は自分でなんとかしなきゃいけない、よね。
進路に関してはまだ充分に余裕があると言ってもいいのだが、調査票の提出期限は刻一刻と迫っている。少なくとも、このままでは適当に空欄を埋めて提出することになってしまう。焦ってもろくな結果にならないことはわかってはいるが、それでも急かされているような焦燥感は拭えなかった。
「気持ちはわかるが、一旦落ち着け」
よっぽど顔に出てしまっていたのか、わたしの頭に軽く手を乗せながら、諭すようにせんぱいが言う。
「……はい」
また心配かけちゃってるし。はぁ、わたしってほんとだめだなぁ……。
手元に置いたままの缶に手を伸ばし、一旦考えるのを止めることにする。ちびちびと口に含んでは意味もなく缶を振ったりしているうちに、心の中のざわつきが少しだけ鳴り止んだと同時に中身がなくなった。
でも、いくら落ち着いたところで今の問題を先延ばししただけに変わりはない。いくら甘えさせてもらったところで、背中を押してもらったところで結論は見えてこないまま、目的と理由が交わることなく平行線を辿るだけ。
……ほんと、どうしよう。でも、今は考え続けるしかない、よね。
「二人で考えろ、か……」
答えの出ない問いかけを再び繰り返そうとした時、隣からぽつりと呟く声が聞こえてきた。言葉自体はさっき平塚先生が去り際に言ったものだが、今の吐息交じりの声に含まれていた色は、何かを諦めたような、それでいて何かを決意したような、そんな印象を受けた。
その声を不思議に思い視線を向けると、せんぱいは覚悟したように大きく息を吐く。どうしたのかと首を傾げたままのわたしを見て、小さく口元を綻ばせながらせんぱいは口を開いた。
「お前、マラソン大会の時のこと覚えてるつってたよな」
「え? あ、はい」
突拍子もない話を振られ若干戸惑ってしまったものの、頷いて答える。
大会が終わった時、せんぱいがどうしてあんなにぼろぼろだったのかは未だにわからないし、いまさら聞こうとも思わない。けど、せんぱいが無茶をしたおかげで三浦先輩の依頼が達成されたということは、当時からなんとなく察しがついていた。
「そん時、葉山に言われたんだよ。『それしか選びようがなかったものを選んでも、それを自分の選択とはいわないだろ』ってな」
……あー、その意味が今ならよくわかる。似たような、もしくはその言葉に近いことを平塚先生に相談した時に言われたばかりだ。
「お前も先生に同じようなこと言われたっつってたし、だから俺は何も言わないでおこうって決めてたんだが……」
打開策は浮かんでいたけどわたしのためにあえて黙っていた、ということだろうか。とりあえず今は最低限の相槌だけ打つことにして、おとなしく話を聞くことにしよう。
「まず、俺の進路については聞かれた時にある程度教えたよな」
「はい」
最初に聞いた時は文系志望とだけしか聞いていなかったが、相談を始めてからは、聞けば具体的に教えてくれるようになった。せんぱいが希望する大学名を聞いた時は、今からもっともっと勉強して文系の成績をかなり上げないといけないことを痛感したのも、まだ記憶に新しい。
「んでな、それとは別に、誰にも言わずにこっそり始めたことがあるんだ」
「始めたこと、ですか?」
「まぁ、大したことじゃないんだけどな」
そうは言うものの、足踏みしたままのわたしと違ってせんぱいは確実に少し先へ進んでいる。そのことがちょっとだけ羨ましくて、ちょっぴり切ない。
「で、こっからが本題だ」
真摯さを含んだ声色に、わたしは嫌な感情を振り払いながら背筋を伸ばし、耳を傾ける。
「一色、前に奉仕部で編集者の話をしたのは覚えてるか」
「……あっ! 確か年収が一千万あるとかなんとかって話ですよねー?」
「間違ってねぇけどもうちょっと他に言い方あったろ」
一転して目を輝かせるわたしに、せんぱいが呆れ交じりに微笑む。あ、そういえばその時材木座先輩もいたっけ。なるほど、だから見覚えがあったわけだ……って、それはどうでもいいや。
「で、続けるが、材木座はあんな感じで次から次に持ってくるし、なぜか俺が担当にさせられてるしで最初はただめんどくさいだけだったんだが、なんだかんだこれもチャンスなんじゃねぇかってだんだん思えてきてな」
それを聞き、思わず目を見開いてしまう。今までの会話から導き出される結論は一つしかない。
「……もしかして、目指してるんですか?」
「まぁ、どうなるかはわからんけど一応ちょくちょく勉強するようにしたんだわ」
「す、すごいじゃないですか!」
感嘆の声をあげながらずいっと顔を近づけると、せんぱいは照れくさそうに一応だ、一応と繰り返しながらぽりぽりと頬を掻く。
ほんと、すごいなぁ……。
自分のことじゃないのに、なんだか嬉しい。でも、わたしの手が届かない場所にせんぱいが行ってしまった気がして、同時に寂しくもあって。
このまま置いていかれ続けるかもしれない、そんな不安が頭をよぎったが、ちゃんとわたしとも向き合うと言ったせんぱいを信じて言葉の先を待つ。
「それで、これは俺のわがままなんだが……聞いてくれるか?」
誤魔化すような咳払いの後、そっと呟かれた声が耳に届く。
「……はい。聞かせてください」
喜びと寂しさ、不安と期待がごちゃ混ぜの眼差しを送りながら答えたわたしに、せんぱいの優しげで温かな瞳が向けられた。
わたしが意識を注いだのを見計らって、せんぱいがぽつりぽつりと言葉を紡いでいく。その一つ一つが自然と心に染み入ってきて、じわりと涙が浮かんでくる。
何か言葉を返そうとしても、それは言葉として口から出ていくことはなく、そのまま消えていってしまう。
そして話をひととおり聞き終える頃には、頷くことしかできなかったわたしの頬に、何度も涙が伝った痕ができていた。
拭っても拭っても溢れ出てくる涙のせいでメイクは崩れ、すっかり顔がぐしゃぐしゃになってしまっている。でも、そんなちっぽけなことは今はどうでもよくて。
やっと、ぼやけていた道の先が見えてきた。
やっと、せんぱいがわたしのことを求め始めてきてくれた。
「大丈夫か?」
「はいっ……」
「お前が落ち着いたら先生のところに行くぞ、いいな?」
「はい、っ……」
しがみつくように抱きついたままずっと泣き続けているわたしを、返事をするのがやっとのわたしを、せんぱいはさっきからずっと撫で続けてくれている。
何度も、何度も、さっきまでの出来事を思い出しては涙を滲ませ、噛みしめようとすればまたじわりと瞳が潤んできて。それを繰り返せば繰り返すほど、心の底から言葉にできない想いがもっともっと込み上げてきて、溢れて、こぼれ落ちていく。
「あーもう、そんなに泣くな」
「だっ、て、だって……」
近くで一緒に歩んで行けるのが、嬉しくてしょうがなくて。
近くで同じ景色を眺めることができるのが、どうしようもなく幸せで。
結局その日は平塚先生のところに行くことはできず、わたしが泣き止んだのは最終下校時刻ギリギリの、辺り一帯がうっすらとオレンジ色に染まり始める頃だった――。
区切りということで少し短いですが、許してくださいまし。
それでは、ここまでお読みくださりありがとうございました!