* * *
千葉中央駅から京成線に乗って十分ほど電車に揺られたところで、京成幕張駅に着いた。
わたしがせんぱいの家にお邪魔するのはもう三回目になるんだなーと、感慨に浸る。短い期間のうちの、たった三回の中に、酸っぱくて、苦くて、切なくなる思い出と、甘くて、温かくて、眩しい思い出がそこには詰まっていて、それはきっとある種の青春と呼べるに相応しいのだろう。
一つ一つの景色や会話を楽しみながらのんびりと歩いているうちに、今はもう見慣れた一軒家が目の前にある。
「ちょっと待ってろ」
せんぱいはそう言って、門扉を開き、がちゃりと音を立てて玄関の鍵を開く。
「お邪魔しまーす」
そう言って、中に入るとしんとした静けさが漂っていて、明かりもついていない。と、いうことは……。
「小町ちゃん、いないみたいですね……」
「みたいだな……」
お互いに顔を見合わせながら、気まずそうにぽしょりと呟く。
一回目にここへ来た時は、小町ちゃんと平塚先生が、二回目の時は雪ノ下先輩と結衣先輩、小町ちゃんがいたけど、こうして二人きり、というのは初めてだった。
「わ、わたしやっぱり帰ったほうがいいですかねー?」
「い、いや……。それだと電車賃、もったいない、だろ。だからまぁ、その、ゆっくりしていってくれ、で、いいのか……?」
わたしはあたふたとしながら、せんぱいはへどもどしながらも言葉を交わす。
「あ、じゃ、じゃあとりあえず本、持ってくるから……」
その場から逃げるように、せんぱいが二階へ上がっていってしまう。残されたわたしは、ただただ、俯きながらもじもじとするしかできなかった。二人きりという状況なだけで、こうも動揺するとかわたしの乙女回路は一体どうなってるの? 純情なの? っべーわ、ないわー。いろはす、それはないわー。……あ、なんかイラッとしてきた。戸部先輩、いい人なんだけどなー。でも、なーんかイラッとくるんだよなー。
そんなことを考えている間に、とんとんと階段を下りてくる音が聞こえたので顔を上げる。
「ほれ」
差し出された本を、わたしはしずしずと受け取る。そして、手に感じる重みを確かめると、自然とわたしの表情はほころんだ。
「ありがとうございますー!」
わたしの中にある一冊の本。その本の重さとまったく同じ重さの本を、大切そうに両手で抱えながらわたしはお礼を言った。
「……そんなに楽しみにしてくれてたんだな」
「はい!」
きゃっきゃと子供みたいにはしゃぐわたしを見て、せんぱいが嬉しそうに口元を緩める。
「ちょっと、読んでみてもいいですかー?」
「んじゃ、そこ使ってくれ」
促され、近くのソファに座り、本を開いた。せんぱいもわたしが本を読み始めたことを確認すると、わたしの近くに座って同じように本を読み始めた。
ぺらっ、ぺらっと不規則にページをめくる音が室内に響き、ゆったりとした静かな時間が流れていく。ときどき、主人公のセリフや心情描写にくすりと笑みをこぼしそうになりながらも、黙々とページを進める。
そうして、ちょうど話の切れ目まで読み終えた頃、目の前のテーブルにマグカップがことりと置かれた。
「あ、すいません……」
わたしが本の世界に夢中になっている間に、せんぱいが紅茶を淹れてくれていた。
「ああ、悪い。邪魔しちまったな」
「いえ、ちょうど休憩しようと思ってたので。いただきます」
一旦本を閉じ、マグカップに手を伸ばして紅茶を一口。ほわっとした湯気と、染み渡る温かさが心地よい。
「本を読むのも、悪くはねぇだろ?」
聞かれ、自然な笑顔でわたしは微笑む。
「はい」
「……それならよかった」
短く言葉を返し、満足そうに微笑みながらせんぱいは手元の本に再び視線を戻した。わたしもそれに倣い、閉じた本をもう一度開いた。
一ページ、一ページと読み進めるたびに、それに伴って時計の針も進んでいく。かちこちと音が積み重なっていくにつれて、外の明るさにも変化が訪れる。
そうして空が茜色に染まり始めた頃、玄関の扉を開ける音が聞こえた。
「……ほーん? ほほーん?」
わざとらしくはしゃぐ声が聞こえてきた。玄関にはわたしの履いてきたパンプスがあるし、まぁそうなるよね。
「いろはさん、こんにちはー!」
それから間もなくして、きらきらと目を輝かせながら小町ちゃんが姿を見せた。
「あ、小町ちゃん、こんにちはー。お邪魔してますー」
「おう、おかえり」
「で、で、で、お兄ちゃんはいろはさんを連れ込んで何してるの?」
挨拶も早々に、それが本題と言いたげにずいずいっと小町ちゃんがせんぱいに詰め寄る。
「変な言い方すんのやめろ……。っつーか、お前が考えているような展開じゃないから」
「じゃあなんでいろはさんがここにいるの? デートしてたんじゃないの?」
「……小町ちゃん」
話に割り込むようにして呼ぶと、二人が揃ってわたしのほうを向いた。
「わたしに読みたい本ができたの。だから、連れてきてもらったの」
言って、手元に置いたままの本を見せると、小町ちゃんがほんほんと頷く。
「あー、お兄ちゃんがよく読んでるやつですね、それ」
「うん。だから、読もうと思ったの」
わたしが気恥ずかしそうに控えめに笑うと、顔を赤くして目を伏せるせんぱいの姿が見えた。
「……いろはさん」
目をうるうるとさせながら、小町ちゃんがじっとわたしを見つめた。
「いやー、小町感動しました! まさかお兄ちゃんが小町の知らないところでいつのまにか順調にフラグを立てていってるとは……。そして、いよいよいろはさんまでもが本格的にお兄ちゃんの嫁候補に……! やるねー、お兄ちゃん! このこのー!」
「おい、やめろ。おい、そんな目で俺を見んな」
ニヤニヤしながら小町ちゃんがうりうりとせんぱいの頬を突っつく。それを鬱陶しそうにしながらも振り払うことなく受け入れているせんぱい。そんな二人の関係は、わたしとせんぱいの関係にも似ているように見えて、妙な親近感を覚えた。
「いろはさん!」
突然呼ばれたことに少し驚きながらも、小町ちゃんと目を合わせた。すると、小町ちゃんはぺこりとわたしに頭を下げる。
「こんなんですけど、小町にとっては大切なお兄ちゃんです。だから、これからもお兄ちゃんをよろしくお願いします」
や、むしろお世話になってるのはわたしだし、わたしのほうから言いたいくらいだ。でも、小町ちゃんの様子を見るに、今それを言うのは違う気がする。
「こちらこそ」
そう思ったわたしは、真面目な声音で簡潔に返した後、同じように頭を下げた。
「そういうのは、俺のいないところでやってくれませんかね……」
ぼそりと刺すように聞こえてきた声に、わたしも小町ちゃんも顔を上げて、くすくすと笑いあった。
静かだった空間に、明るい声が加わって別の空間を作り、次第に色づいていく。それは、わたしのよく知っている空間とよく似ているものの、全然違う別の物。
それをわかっていても、わたしはこの小さな空間を陽が落ちるまで楽しんだ。
* * *
すっかり暗くなってしまった道を、二人並んで歩く。
かつかつとヒールの音を鳴り響かせながら今日一日の出来事を振り返ると、前にデートした時よりも楽しさや満足感で心が満たされていく。その差はきっと、わたしの心情に変化があったからこそのものなのだろう。
「せんぱい」
つい、そのことを言いたくなって声をかけた。
「どした」
「今日は、楽しかったです。前の時よりも、ずっと」
ありったけの気持ちを込めて、そう口にした。何かを建前にして、理由にしたデートじゃない。わたしが好きだと自信を持って言える人と、ちゃんとデートができた。やっと、やり直すことができた。
「まぁ、お前がそれで納得できたんなら、それでいいと思うぞ」
そんなわたしの心情を見抜いたのか、せんぱいが穏やかな微笑みをたたえる。
「……だから、今日はわたしがあげることのできる最大の点数を、せんぱいにあげます」
「そりゃどうも」
微笑み返したわたしに、温かみを含んでいるような優しい声振りで、せんぱいは無愛想な言葉を返した。
「それとですね……」
仕切り直すように、小さく咳払いをする。
「わたし、ちゃんと待つとは言いましたけど……おとなしくしているつもりはありませんので、それもよろしくです」
そして、挑発めいた笑顔を浮かべながら、小さく胸を張って宣言した。
「……まぁ、薄々そんな気はしてたけどよ」
呆れたような、納得がいったような、そんな表情を浮かべながら、せんぱいがため息交じりに言う。でも、わたしが伝えたいのはそれだけじゃない。
「……何もしないまま終わるのだけは、嫌なんです。そんなの、絶対に後悔すると思いますから。傷つけるってわかってても、傷つけられるってわかってても、それでも、わたしはもう逃げたくありません」
わたしの心の中にある気持ちを一つ一つ紡ぎ、せんぱいの瞳をじっと見つめながら、言葉にしてぶつけた。わたしの伝えたいことを、ちゃんと伝えられるように。
――瞬間、じわりと涙が浮かんだ。
でも、目は逸らさない。逸らしたくない。逸らしてしまったら、向き合うと言ったのに、それを嘘にしてしまう。それだけは、絶対に嫌だ。
「……やっぱり、お前はすごいな」
冬のモノレールの車内で、同じことを言われた。なら、きっとわたしとせんぱいが今辿っている記憶は、きっと同じ。
「せんぱいのせいですからね、わたしがこうなったの」
それを再現するように、あの時とまったく同じ言葉を返す。でも、次にくる言葉はあの時と違う気がした。
「……そうだな。俺のせいだろうな」
ふっと懐かしんでいるような表情を浮かべながら、せんぱいは皮肉めいた言葉をわたしに向けてきた。
だったら――。
「責任、とってくださいね」
「……まぁ、善処しようとは、思う」
前とは違う、まっすぐな笑顔でくすっと笑うと、がしがしと頭を掻きながら、照れ交じりにせんぱいはわたしの言葉を受け止めてくれた。
「だから、悪いがもう少しだけ待ってくれ」
くしゃっと、不意にわたしの頭が撫でられた。温かい感触が広がって、わたしの心も温かくなっていく。
「……はい」
瞳に浮かんだ滴を袖でぐしぐしと拭って、目を細めながらわたしはそう答えた――。
あと一話続きます。甘さたっぷりな話(個人的に)は次でオワリダー。
それと、一週間空いてしまって申し訳ないです。
ここまで連載を続けていると、あまり同じような表現ばかりを使うのは飽きてしまうかなーと色々調べたり、色々な矛盾点が出てきてしまって書き直したりしているうちに遅くなってしまうんですよね。
その辺は短編だと一切気にしなくて済むのですが。
注意してはいますが、それでも私の気付かないところで矛盾してたりすると思いますので、その際はご指摘くだされば修正します。
まぁ、無理のない範囲で書き連ねていきますので、気長にお待ちください。
ではでは、ここまでお読みくださりありがとうございました!
※追記※
見直したら、いろはのセリフの部分で同じ意味だった箇所がありましたので直しときました。あと、なんか変に感じるとこも直しときました。燃え尽きてるとダメね。