* * *
それからは中央公園のベンチに座ったまま、わたしはせんぱいとの空間を楽しむことにする。
わたしが口を開けば、せんぱいも口を開く。その合間にわたしが紅茶の缶を傾ければ、せんぱいもコーヒーの缶を傾ける。それをしばらくの間シーソーのように繰り返していると、手に感じる缶の重さはどんどんなくなっていった。
ちょうどお互いに缶の中身が空になった頃、せんぱいは携帯を取り出して時間を確認しながら口を開いた。
「そろそろ行くか。なんだかんだ時間つぶせたな」
そう言われ、わたしも時間を確認すると今は十一時に差し掛かる頃になっていた。わたしはせんぱいとの空間に夢中になっていて気づかなかったが、時間を見る限りはここに来てから一時間近く経っていたことになる。
「そうですねー」
わたしは同調するように言った後、微笑みながらせんぱいに手を差し出した。
ずるいことしてる、ずるいにもほどがあるなんてこと、わたしが一番わかってる。でも、せんぱいの中で答えがでてしまったら、こうやってずるいことすらできなくなってしまうと思うから。
だから、今だけはわたしのわがままを聞いてほしい。受け止めてほしい。
今だけは、せんぱいの優しさに甘えていたい。溺れていたい。
「はぁ、わかったよ……」
せんぱいはわたしの顔と手を逡巡するように交互に見た後、諦めたように、深々としたため息を吐く。そして、おそるおそるといった様子でわたしの手を控えめに握ってくれた。かすかに震えているせんぱいの手を優しく包み込むように、わたしは再び指を絡ませる。
一度結んだだけではいずれほどけてしまうのなら、ほどけないようにもう一度結んでしまえば、もしかしたら――。
わたしはそんなことを心の中で願いながら、手に感じる温もりを確かめた。
「それじゃあ、行きましょうか」
「……ああ」
お互いに不慣れな繋がりに顔を赤らめながらも、中央公園を出て葭川公園駅のほうへ向かって歩いていく。
わたしがこの辺りに来る時は目の前にあるパルコで買い物する時くらいなので、それ以外のことはほとんど知らない。他にわたしが知っていることと言えば、パルコを挟んだ先にある通りで一月に一度くらいのペースでフリーマーケットが開かれる、ということくらいしか知らない。
あまり興味のなかったわたしでも知っているくらいなので、試しに行ってみようかなと思ったことはあるのだが、わたしの中にあるブランドイメージとそぐわない気がして、結局一回も行ったことがないままだった。
そんなブランドイメージを律儀に守っていた当時のわたしと今のわたしを比べると、まるで別人かと思うほどに価値観が違う。そのことが酷く滑稽に映ったせいで、思わず笑いをこぼしてしまった。
「な、なに、どしたの」
そんなわたしの様子を不審に思ったのか、せんぱいは変なものを見るような目つきをして尋ねてきた。
「わたし、ほんとに変わったなーと思って」
わたしの心の中には、わたしのイメージがあって、それを作り続けて、守り続けてきた。
でも、わたしは問い直して、それらを全て捨ててまで、選んだ。わたしが本当に欲しかったものを手にするために。だから、間違っていたとしても、わたしは間違ったとは思わない。あの時わたしの心の中にもあった揺らめきは、今ははっきりと形を作り、判然としているからこそ、そう思える。
「人を振り回すところは何も変わってねぇけどな」
「失礼ですねー。わたし、そんなつもりないんですけどー」
「いや、現在進行形で俺を振り回しておいて何言ってんのお前」
せんぱいはそう言った後、ばつの悪そうな視線をわたしと繋がっている部分に向ける。
「……あはっ」
「はぁ……」
わたしがすっとぼけるように笑うと、せんぱいは諦めたような表情を浮かべて、呆れたようなため息を吐く。
「……せんぱい、今のわたしは、嫌いですか?」
表情を隠すように、少しだけ俯きながらわたしは尋ねた。
言ってくれなきゃわからないことだってあるし、言われてもわからないことだってある。言わなくてもわかることだってある。
ここにわたしの言葉を付け足すのなら、わかっていても言ってほしいことだってある。どうしても、言葉が欲しい時だってあると思うから。
「……別に嫌いじゃねぇよ」
「ふふっ。そうですか」
わたしは顔を上げて、晴れやかな表情を浮かべながら言葉を繋ぐ。
「わたしも、今のわたしのほうが好きかもです」
「……まぁ、それならいんじゃねぇの」
「はい」
そんなやりとりをしながら歩いているうちに、ひときわ高いタワーマンションがはっきりと見える交差点に着いた。
「そこだ」
交差点を左に曲がって少しだけ歩いたところで、せんぱいは足を止めてわたしに声をかけた。せんぱいの視線を辿っていくと、十階建てくらいの大きさの、白いタイルを張り詰めたような外装のビルに行き着く。
「あ、もしかしてあれですかー?」
ビルのガラス部分から透けて見える図書館の文字を指さしながらわたしが尋ねると、せんぱいは頷いた。
「こういう図書館もあるんですねー。知らなかったです」
「まぁ、本を読まない人間からすりゃそんなもんだろ」
そんな会話をしながら、一階脇にある階段を上って二階へ上がる。扉を開いて中に入ると本特有の紙の匂いが漂ってきて、室内の限られた空間の中に本棚や読書スペースがうまくまとめられていた。他にはキッズスペースなどもある。
わたしが連れてこられたのは、落ち着いた雰囲気の中にどことなく温かさを感じる、そんな図書館だった。
「んじゃ、俺は手頃な本探してくるわ」
せんぱいはそう言って近くにあった本棚に向かっていく。
「じゃあ、わたしも」
それに続き、せんぱいの隣に並んで本を探す。
まずは目の前の本棚から興味を惹かれたタイトルの本を手に取った。ぱらぱらとめくってみたものの、普段本を読まないわたしにとっては多すぎる文字数とページ数に軽く眩暈がしたので、結局本棚に戻すことにした。
今度はあまりページ数がなさそうな本を手に取って、ぱらぱらとめくってみる。これならわたしにも読めそうだ、と思いながら冒頭の部分を読み始めてみたものの、聞き慣れない単語や意味を知らない単語ばかりが並んでいてちっとも話が理解できない。なので、結局本棚に戻すことにした。
「せんぱーい……」
わたしは隣で本を探したままのせんぱいに、泣きつくように声をかけた。
「どした」
「わたしでも読めそうな本、探してくださいー……」
そう言うと、せんぱいは訝しげな表情を浮かべる。
「いや、今読んでた本は」
「えっと、その、言葉が難しすぎてー、みたいなー……」
気恥ずかしく思いながらも素直に打ち明けると、せんぱいは目を丸くした後、息を吹き出すように笑った。
「……笑わないでくださいよー」
笑われたことに思わず拗ねたような声音で言ってしまう。
「すまんすまん。お前があまりにも素直に言ったもんだから、つい」
せんぱいはそう言って、わたしがさっきまで手にしていた本を取って吟味するように中を覗く。
「……まぁ、本を読んでいないと馴染みがない言葉ってのは結構あるからな」
ぱたんと本を閉じてせんぱいは本棚に戻しながら呟いた。
「むー……」
「ちょっと待ってろ」
わたしが頬を膨らませると、せんぱいはやれやれといった様子で別の本棚に目を向ける。
「……これなんかどうだ?」
そう言って、別の本棚からくくっと笑いを漏らしながら、わたしに子供向けの絵本を手渡してきた。
「…………」
わたしはふてくされたまま、べしっとせんぱいの肩を叩いた。
「いてっ! 冗談、冗談だから」
「わたしのことバカにしすぎじゃないですかね……」
「わかった、わかったから」
わたしが恨みがましい視線を向けたままでいると、せんぱいは小さく咳払いをして、本棚に手を伸ばしながら尋ねてきた。
「なぁ、お前はどういう本がいいんだ?」
「わたしでも読める本で、読みやすい上に超面白い、みたいな? そんな本ですかねー」
「いきなり無理難題なんだよなぁ」
そう言われても、どういった本が面白いのかわたしにはわからないし、わたしはどういった本が好きなのかということすらわからない。
「だってしょうがないじゃないですか……。わたし、本読まないんですもん……」
「まぁ、そうなぁ……」
困惑した表情を浮かべて頭をがしがしと掻くせんぱいを見て、ふと思いつく。
「あ、じゃあ、せんぱいはどんな本が好きですかー?」
「俺がよく読むのはラノベだな」
「あー、せんぱいが読みながらニヤニヤしてるやつですかー?」
わたしが平然とした顔で尋ねると、せんぱいの顔が引きつった。
「マジで……?」
「……気づいてなかったんですか?」
「いや、前に雪ノ下に気持ち悪いと言われて気をつけてたんだが……」
がくっと肩を落としてうなだれるせんぱいを見て、わたしは呆れ交じりに苦笑する。
「で、せんぱい。そのラノベって、そんなに面白いんですかー?」
話を切り替えるようにわたしは尋ねた。
「お前の好みに合うかはわからんが、ラノベにもジャンルはいろいろあるし、面白いものは面白いと思うぞ」
結局は読んでみないとわからない、ということだろうか。
「ではそれで」
それでも、わたしが適当に興味本位で選ぶよりせんぱいに選んでもらったほうが最後まで読める気がする。そう思ったわたしは、そう答えた。
「んじゃ、探してみるわ」
「お願いします」
それに小さく頷き、せんぱいの隣で本棚の本を眺める。
ずらりと並んでいる本のタイトル一つ一つに、きっといろいろな意味が込められているんだろうなーと心の中で呟きながら、一つ一つ目で追っていく。それを続けているうちに、今見ている本棚が最後の本棚だったことに気づいた。
わたしはちらりとせんぱいに視線を向けると、せんぱいは静かにかぶりを振る。
「なかったな……」
本棚から視線を外して、ぼそりとせんぱいが呟くように言った。
「まぁ、しょうがないですねー……」
ちょっとはせんぱいのことが知れたかもしれないのにと、わたしは思わず落胆の息を吐いてしまう。
「……本、見に行くか?」
そんなわたしの様子を見て、せんぱいが声をかけてくれた。
「……いいんですか?」
「まぁ、その、本に興味を持ってくれたことは、嬉しかったからよ」
慣れていないのか、恥ずかしいのか、わたしから視線を逸らしたまま言ったせんぱいを見て、思わず顔がほころぶ。
「じゃあ、せんぱいのおすすめの本、教えてくださいね」
「ああ。考えとく」
わたしが嬉しそうに笑うのを見て、せんぱいも表情を緩めた――。
ちょっと長めにかいてたら、ちょうどいいバランスになりました。
書いてると書きたいことが浮かんで追加してを繰り返した結果、いつ終わるのこれ状態になってしまってますが、お許しください。
ではでは、ここまでお読みくださりありがとうございました!