剣がすべてを斬り裂くのは間違っているだろうか 作:REDOX
忍穂鈴音の
「じゃあ、始めるよ」
「お願いします」
ヘスティアに跪くような姿勢で鈴音は背中を露出させ差し出す。その背中に刻まれた【ステイタス】は今は薄れ改宗待ち状態になっている。
ヘスティアはそこに自分の血を一滴垂らす。血が落ちた地点から波紋が広がり、薄れていた文字群が更に薄まり形も崩れていく。そこにヘスティアは自身の名を現すシンボルと鈴音の真名を刻む。
発光の後、そこには鈴音の新たな【ステイタス】――ヘスティアの眷属としての【ステイタス】が刻まれていた。
忍穂鈴音
Lv.1
力:F 349
耐久:F 333
器用:D 579
敏捷:D 501
魔力:E 499
《魔法》
【封魔結晶】
・ 封印魔法。
・ 残留思念を封じる。
【
・ 封じた思念体に擬似人格を与える。
・ 媒体が壊されない限り効果持続。
【烈火】
・ 付与魔法。
・ 炎属性。
・ 詠唱式【
《スキル》
【傀儡師】
・ 【傀儡】で擬似人格を与えた思念体への命令権を得る。
【恋する乙女】
・ 早熟する。
・ 想いの丈により効果向上。
・ 想い人との距離により効果向上。
・ 想いが続く限り効果持続。
その【ステイタス】を見て、誰が彼女を鍛冶師と思うだろうか。鈴音のことをアゼルとヘファイストスから事前に聞いていたヘスティアは彼女が鍛冶師であることは分かっていたが、聞いていなければ死靈使いか呪術師と思っただろう。
「これで晴れて君はボクの眷属だ。ようこそヘスティア・ファミリアへ、鈴音君」
「よろしくお願いします、ヘスティア様」
服を着なおして鈴音はお辞儀をした。見た目通りというべきか、鈴音という少女はどこか気が弱く礼儀正しくヘスティアの目に映った。しかし、アゼルから聞いた話で彼女はそれが忍穂鈴音のすべてではないと知っている。
忍穂鈴音はアゼル・バーナムが関わると、手がつけられない問題児である。その一途過ぎる想いは、アゼルの剣に対する姿勢に似通っている。
そして何よりも【恋する乙女】という、これまたアゼルが二つも有している早熟という効果を持った稀有なスキルだ。早熟するという効果がある《スキル》の存在をヘファイストスが知っているということは、彼女はベルやアゼルの驚異的な成長速度の絡繰りをもう理解しているのかもしれない。
アゼルはそれ以外にも様々な要因があるが、流石にそれまでは知られていないだろう。
「さて、鈴音君。早速だが君にいくつか言うことがある。大切なことだから、しっかり聞いて欲しい」
ヘスティアは備え付けられている椅子に座るよう鈴音を促し、自分もその向かいに座る。座る姿はやはりどこか儚げな少女である鈴音を見て、人は見た目では判断できないということをヘスティアは改めて知った。
だからこそ、人は面白いのだと神々は言うだろう。
「知っての通り、今ヘスティア・ファミリアはアポロン・ファミリアとの抗争中。そもそもホームに鍛冶ができる施設なんてなかったんだけど、君が仕事をする鍛冶場が用意できるのはまだ先かもしれない」
「はい、理解してます」
ヘファイストスの頼みで聞き入れたものの、ヘスティア・ファミリアでは現状鍛冶師を持て余してしまう。金銭を支払って鍛冶場を借りる等のことはできるだろうが、如何せん零細ファミリアであるヘスティア・ファミリアではそんなこと長期的にはできない。
つまり、鍛冶師がいても鍛冶ができない。それでは鍛冶師の意味がないのだが、鈴音はそれを承知の上、否、そんなこととは関係なく改宗を決めた。
「アゼルの傍にいれる、私はそれだけで満足です」
「そ、そうかい……じ、じゃあ一応聞くけど、君はその……アゼル君のことが好きなんだよね? ラブ的な意味で」
鈴音の【ステイタス】を見た後では今更な気もしたが、やはりそこは主神として聞いておかなければならないとヘスティアは思った。
「はい」
鈴音はただ一言、ヘスティアの問に対して肯定を示した。それ以上語ることはないと言わんばかりに、清々しいほどまでに潔く彼女は己の感情を伝えた。
ヘスティアが聞いておかないといけないと思ったように、鈴音もまたヘスティアには告げなければいけないと思っていた。
何せ、彼女はアゼルが人ならざる者に堕ちるきっかけだ。その選択をアゼルがしたとは言え、忍穂鈴音と出会わなければアゼルは人をやめなかった。
そしてアゼルの主神であるヘスティアは、当然のことアゼルを大切に思っているに違いないのだ。だからこそ、鈴音は自分を偽ることはしない。それは余りにも無礼、余りにも傲慢。
自分が壊すものから目を背けては、手に入れたものの価値が下がってしまう、アゼルという輝きを曇ったレンズを通してでしか見れなくなってしまう。
「そっか」
ヘスティアも短く彼女に返した。
恨みがないわけではない、憎くないわけではない。お前さえいなければ、よくもと言いたい気持ちもあった。しかし、目の前の少女になんの罪があるだろうかとヘスティアは思ってしまった。
彼女はただ恋をしただけだ。誰よりも強く、誰よりも深く、一途に一人の男に恋をしてしまっただけの少女だ。
ただ人間らしく、他のものなどどうでもいいと言って、ただ一つのために欲張りな少女に、罪なんてない。
ヘスティアには痛いほどまでに、突き刺さるほど鮮明にその気持ちが分かってしまったから、彼女には何も言わないことにした。
「それだけだ」
本当はもう少し話をする予定だったが、ヘスティアは止めた。どんな人物かと身構えていた分、ただの恋する少女だと思ってしまうと毒気が抜かれてしまった。
「これからは、何をすればいいんでしょうか?」
「ん、確かにね。現状ダンジョン探索は無理、君の本業である鍛冶も施設がないし……ここで働くとか?」
「こ、ここでですか?」
鈴音が豊穣の女主人亭に訪れたのはこれが初めてのことだった。しかし、一目見ただけでもウェイトレスは全員美少女や美女ばかり、その上女将であるミアは小心者の鈴音にとっては怖かった。そんな場所で自分が働くというのは、酷く場違いな気がした。
「まあ、それは後々相談するとして。そうだな、今は特にすることはないけど数日の内に、大切な仲間を助けに行く。改宗したばかりで事情も余り分かってないところ悪いとは思うけど、君にも協力してほしい」
「私はもうヘスティア・ファミリアの一員。その仲間を助けるなら、力になります」
鈴音はヘスティアの要請に素直に了承の意を示した。
「それもアゼル君といるためかい?」
「はい」
ヘスティアの問に鈴音は即答した。悪びれる様子もなく、戸惑うこともなく、ファミリアのためではなく己のためだと言い切った。しかし、それは当然だろう。ヘスティア自身がそう言ったように、鈴音にとってリリは完全な他人。
「君は正直だね」
「……アゼルに関してだけは、嘘は吐きたくないだけです」
「そっか、そうだね」
鈴音の言葉を聞いてヘスティアは納得した。こんな時期の改宗に何の戸惑いもない鈴音を不思議に思っていたが、
「これからよろしく鈴音君」
「はい」
「さて、ボクからはこれでお終いなんだけど……」
ヘスティアは頬を掻きながら部屋の入り口に視線を向ける。鈴音は首を傾げながらヘスティアの視線を追って同じようにドアを見る。
「リュー君、もういいよ」
一言、ドアの向こうにいる人物にヘスティアが声をかけるとドアが開く。部屋に入ってきたのは給仕服に身を包んだエルフだった。
豊穣の女主人亭でミアの次に強いであろう実力者、正義という志を胸に秘めながらもかつて復讐鬼と成り果てた戦士、そして――愛するが故にアゼルを阻もうとする女性。
「感謝します神ヘスティア」
「君には大きな恩があるからね、リュー君、いや助っ人君」
「自分のためにやったことです。感謝される謂れはありません」
リューの入室と共にヘスティアは退室する。すれ違い様交わされた言葉でリューはヘスティアに正体がバレてしまったことを悟る。アゼルとの仲、エルフとしての外見、そしてアゼルと渡り合えるだけの実力を見せれば、少し呑気なヘスティアでも気付く。
リューは椅子に座る鈴音から一歩離れた場所で立ち尽くす。鈴音は相手が誰なのか、目的が何なのかも分からずただおろおろするばかりだ。
「忍穂鈴音」
「は、はいっ」
名前を呼ばれただけなのに、その声色が予想以上に険しかったため鈴音は背筋を伸ばして答えてしまった。端的に言って鈴音は怖かった。
ヘスティアと違い、リューの顔に微笑みはなく、眉間に皺を寄せながら何かを思案するその姿は、どう叱りつけようか考えているようにすら鈴音には見えた。
「回りくどいのは好きではないですし、貴女には先に正直に言っておきましょう。私は貴女を好ましくは思っていません。そして、きっと貴女も私を好ましくは思わないでしょう」
鈴音は絶句した。考えた挙句何を言われるのかと思えば、好ましく思っていないと言われた経験など彼女にはなかった。そもそも面と向かって嫌いだと言われたことはない。卑怯者や恥知らずと罵られたことはあったが、あれには明確な理由があった。
しかし、今回は唐突過ぎる。そもそも鈴音は目の前の女性の名前すら知らない。
「ですが、貴女には感謝しなければいけません」
「え、えぇ?」
リューはそう言いながら頭を下げて鈴音に礼をした。嫌いだと言われた相手が次は突然感謝してきたことで鈴音の混乱は最高潮まで達し訳が分からないと口から戸惑いの声が漏れ出る。
「ありがとう、忍穂鈴音。貴女がいなければ、私は彼の剣士の本性を知ることはなかったでしょう。自分を見つめ返し、苛まれながらも前に進むという選択もできなかったでしょう」
背筋を伸ばし、自分を見つめる空色の瞳を鈴音は見返す。美しい、その瞳は今までみた誰のそれよりも美しかった。そして、その奥にはどこかアゼルと似た鋭さが潜んでいた。
「貴女は、誰ですか?」
「私はリュー・リオン。貴女と同じく、アゼルと共にいたいと、彼と共に戦いたいと思っている者です」
部屋の空気が変わる。
「いえ、同じではないですね……貴女はアゼルという剣士と共にいたいようですが、私は違う」
「何を」
「私はアゼル・バーナムという人と共に生きたい。アゼル・バーナムという剣士を殺してでも、私は人である彼と共にいたい」
ああ、そうかと鈴音は納得した。
いるだろうとは思っていたからなのか、それとも相手が最初に明確な意志を示したからか、意外なことに恋敵を目の前にしても鈴音の頭の中は静かだった。だが、心は燃え上がっていた。
「貴女に、アゼルの何が分かる」
「その問をそのまま返しましょう。貴女に彼の何が分かる?」
「私は――」
その問いに、鈴音は確かに戸惑いを覚えた。
お互いのすべてを理解している人間はいないだろう。己のすべてを理解している者すらいないだろうに、他者を理解することなど不可能だ。それでも、鈴音は信じた、鈴音は願った、鈴音は祈った。自分は彼を理解していないのかもしれない、それでも彼だけには自分を理解して欲しいと。
自分の想いが余すこと無く自分の想い人に伝わるようにと、そう思いながら鉄を打った。
「アゼルの歩む剣の道を知ってる。アゼルが剣を振るう理由を知ってる。アゼルが剣以外何も求めないことも、知ってる。でも彼は言ってくれた、私が必要だと。忍穂鈴音は居ても良いのだと、彼の傍らで彼と同じ世界を見ていいと。追いつけるものなら追いついてみろと、そう言ってくれた」
――忍穂鈴音はアゼル・バーナムのために生きているのだ
「私はアゼルの何も分かっていないのかもしれない。だって私は剣を振るう者じゃない。私は剣を打つ者、刃を成す者。だから、私の愛はそれでいい。私はただ捧げる、彼が必要だと言うのなら、この命だって捧げられる。だって私はアゼルの
誰かを知ることと誰かを分かることは似て非なる領域。
誰にも、アゼルにすら鈴音の愛情が分からないように、アゼルのことを分かる人間などいるはずもない。それでも、分かって欲しいから鈴音は剣を打つ。彼女の知るアゼルのために、彼女を知るアゼルのために。忍穂鈴音はアゼル・バーナムを愛しているのだと、その刃が示してくれる。まるで誓いのように、まるで呪いのように。
隣に立つその時まで、自分の打った剣が彼と共にいる。
「貴女は正しい。私が欲しいのは剣士としてのアゼル。そこに人であるかないかなんて些細な問題。化物でも、悪鬼でも、修羅でも構わない。アゼルが私を必要としてくれるなら、何だって良い。剣を振るってくれるなら何だって良い。だって、それはアゼルが選んだ道だから」
分からなくて何が悪い、そう言わんばかりに鈴音はリューを睨むように見返した。そんな鈴音にリューは少しばかり安堵した。ここで自分は分かっているなどと言われたらどうしてやろうかと思っていたが杞憂に終わった。
リューは知っている。
他でもないアゼルが口にした言葉だ。唯一の理解者をその手にかけたと、アゼルはリューに言った。そこに嘘偽りはなかっただろう。手にかけたということも、そして唯一であったということも。
「貴女こそ、アゼルの何が分かるの?」
いっそ攻撃的なまでにその質問はリューに投げつけられた。
そしてリューは考える。当然ながら、アゼルの理解度で言えば鈴音のほうが何倍も先を行くだろう。剣という一つの共通項があるということ以上に、ホトトギスという怪異をアゼルに渡したのは鈴音だ。
「私は、アゼルのことを分かっていないでしょう。貴女よりも彼のことを知りもしないでしょう。だからこそ、私はもっと知りたいと、もっと分かりたいと思った」
分からないのであれば、分かるように努力するべきだ。知らないのであれば、知ろうと努力するべきだ。否、そんな使命感のようなものすらない。
ただ知りたい。
ただ分かりたい。
愛しているが故に、もっと理解したい。
「そのために、アゼルには生きてもらわないといけない。彼の剣が何時しか彼自身すら斬り殺すというのなら、私が先に剣士としてのアゼルを殺す」
「そんなことできない。剣を失った剣士は人にはならない。剣を殺したら、アゼルは死ぬ。だってアゼルにとって剣は生きる意味であり理由」
確かに、もう二度と剣に生きられないとなればアゼルは己の人生に、歩んできた生に意味をなくし死んでしまうのかもしれない。だが、そんなことは起こらない。リュー・リオンがそんなことを許すわけがない。
「ならば、私がなればいい」
「……」
その答えを鈴音は受け入れることはできないだろう。鈴音にとってアゼルとは剣士のアゼルだけだ。それ以外を求めて生きるアゼルは、アゼルではない。アゼルという同名の他人だ。鈴音が愛しているのは、今のアゼルだけだ。
「私が、アゼルの生きる意味になればいい。私が、アゼルの唯一になればいい。そういう愛もあるのではないでしょうか?」
「そ、れは」
鈴音は否定することができない。当たり前だ。誰かを生きる意味としている彼女に、どうして誰かの生きる意味になろうとするリューが否定できようか。
悔しくも、鈴音は恋敵の愛を認めてしまった。認めさせられてしまった。
「私は彼のために生きる。いつか、彼も私のために生きてくれるように。この手を握ってくれると、信じて」
愛とは、感情である。そこには優劣も、勝ち負けも存在しない。だから、お互いの愛を語ったところで、ぶつけ合ったところで何も生まれない。そもそもぶつける相手を間違えている。
「分かりました、リュー、さん」
「ええ、私も貴女の想いは分かった」
同じ男を愛している二人は敵対しているかと聞かれれば、必ずしもそうではないだろう。リューと鈴音は言ってしまえば逆方向の愛を抱いている。一人は剣士を求め、もう一人は人を求めた。一人は突き進むことを求め、一人は止めることを求めた。
しかし、根底にあるのは一人の男への愛情だ、そこは共通している。言うなれば背中合わせ。
「「お互い頑張りましょう」」
つまり、そういうことだ。お互いを蹴落とすわけでもない、お互いに不干渉なわけでもない。二人共既にアゼルにその想いは伝えているのだから、後はアゼル次第でしかない。例えアゼルが選んだ未来で自分が死のうと、相手が死のうと関係ない。
その命を捧げてアゼルの刃となると、忍穂鈴音は決めた。
その命を賭してアゼルの求道を阻むと、リュー・リオンは決めた。
言ってしまえば、リューにとって鈴音の愛はアゼルの道と同じだ。ならば、今まで通り真正面から迎え撃つだけでいい。その人数が二人になっただけ、その想いの強さが二人分になっただけ。
それを超えれば良い、それだけの話だ。
「あ、あの、リューさん。一つ、聞いていいですか?」
「何ですか?」
「リューさんはヘスティア・ファミリアの団員じゃない、ですよね?」
「ええ、そもそも今は冒険者ですらありません。元冒険者、現給仕係です」
だが、何時までもそういうわけではないだろう。リューは未だ知らないが彼女の名前はもう
最早リュー・リオンという冒険者の記録はこの世にはなく、彼女の存在は人々の記憶の中にだけ存在する。
「なら、その……何でそんなにアゼルについて詳しいんですか?」
「それは……っ」
その質問に答えようとしたリューは次の瞬間口を閉ざした。
「えっと?」
一度答えようとして止めたリューを見て鈴音は怪訝な顔をする。そして、リューを見ると口を閉ざし僅かに頬を染めている。
言えない事情でもあるのかと鈴音は考え始める。そして、アゼルの事情を知る彼女はその答えに心当たりがあった。
アゼルにはホトトギスから受け継いだ吸血能力がある。
「あ、あの、まさかっ」
「……何でしょうか?」
「ち、血を……」
誰かの血を吸っているということは知っていた。だが、それが目の前の女性からだとは露ほども思っていなかった鈴音は驚愕するしかない。
「……」
頬を通り越して顔全体が紅潮させたリューは黙るしか無い。羞恥心で死んでしまうと思ったのはこれが初めてだった。間違いなく変人か異常性癖者と思われただろうと、リューはちらりと鈴音を見た。
彼女は俯いて震えていた。
「……るい」
「え?」
「ずるい!」
「はぁ!?」
自分の耳を疑うわけではなかったが、リューは鈴音の発した言葉に思わず素っ頓狂な声を出してしまった。
「わ、私だって」
「ちょ、ちょっと待って下さい。血を吸われるんですよ?」
「嫌じゃないもん。アゼルにだったら何されても良いもん」
ここまで来るとエルフは奥ゆかしいから等という問題ではない。鈴音という少女はアゼルが関わるとタガが外れる。確かに命を捧げられるなら血を吸われるくらい屁でもないだろう。しかし、それを他人の前で宣言できるかと聞かれると、リューは絶対にしたくないと思った。
「ずるい、ずるい、ずるいー」
「ま、待ってください。そんなに良いものでは」
「そんなに? そんなにってことは少しは良いの? ねえ?」
「え、あの、それは」
先程とはまた違った剣幕にリューは少し押されてしまう。
血を吸われていると言っても、直接噛まれて吸われたのは三度しかない。それ以外は自分で血を抜き容器に入れて渡している。
だが、噛まれた時は、思い返してみると嫌だと思ったことはない。一度目は不意打ちであったためそんなことを考える暇もなかったが、二度目三度目は自分から差し出した。血を吸われた後の火照り、アゼルの声と温もり。
それは、嫌なものではなかった。
「……ノーコメントで」
「ぐぅぅ……これからでも遅くない。今からでも、今すぐっ」
「ま、待ちなさい」
部屋から駆け出してアゼルの部屋に向かおうとする鈴音をリューが押さえる。レベル差もあり、簡単に拘束されてしまった鈴音は抜け出そうと足掻くが敵うわけもない。
「アゼルも、好き好んで血を吸うわけでは」
「ううぅぅぅ……」
リューの言い分に鈴音は納得した。確かにアゼルがそんな所構わず人から血を吸うような人物であって欲しくはないし、実際そうではないのだろう。頼んだって簡単には引き受けてくれないだろう。
そもそもそんなことをアゼルに頼めればの話だが。
「――ッ」
リューの腕の中で未だに抵抗する鈴音が突如その動きを止める。
一際激しい脈動が、臓物を突き刺すような痛みと抑えられない甘い疼きと共に鈴音に襲いかかる。外からの刺激ではなく、その痛みと疼きは彼女の内側から生まれていた。
「鈴音?」
「……」
その痛みが何だったのか鈴音には分からなかった。しかし、その痛みはどこか懐かしく、そして愛おしかった。その疼きが何だったのか鈴音には分からなかった。しかし、その疼きはどこか懐かしく、そして愛おしかった。
その痛みを、その疼きを知っている。しかし、分からない。誰が感じたのか、誰のために感じた痛みだったのか。誰を想い、誰を求めた疼きだったのか。
しかし、その痛みは鈴音を呼び起こす、その疼きは鈴音を何かに導く。朦朧とする中、彼女の脳裏を過ぎったのは未だ見ない剣士の剣戟だった。
「鈴音?」
「え、あ、大丈夫、です」
「本当ですか?」
「……はい」
抵抗から一転沈黙した鈴音を心配するリューはその拘束を解いた。そのまま走り出さないかとも思っていたが、不思議そうに自分の手を見る鈴音を見て違う心配ができた。
鈴音も先程までの嫉妬はどこへ行ってしまったのか、心は静まり落ち着いていた。痛みと疼きは次第に弱まっていき、もう殆どそれを感じることができなくなっていた。しかし、意識を集中させれば、外ではなく己の中へと何かを求めれば、自分の中に自分ではない何かを感じる気がした。
――鈴音
その何かが自分に呼びかける。愛しい誰かの声で、愛しい誰かの言葉で、呼びかける。その囁きはまるで深淵へと誘う魔笛の如く彼女の中に響き渡る。
「鈴音っ」
「は、はいっ」
リューは鈴音の肩を叩きながら名前を呼んだ。鈴音もそれで我に返り、先程聞こえた声が幻聴だったのかと不思議そうに辺りを見渡した。当然、部屋にはリューと鈴音しかいなかった。
「貴女の部屋に案内しましょう」
「お願いします」
「……血のことは誰にも言わないでください」
「ふふ、はい」
鈴音は笑いながらリューのお願いに答えた。内心では弱みを握ったと喜んでいることがリューには見え見えだったようでリューは苦い顔をした。
新しい出会いは、果たして彼女たちの感情をどう動かすのか。その果てに辿り着く答えは、誰を選び誰を殺すのか。それとも、そんな答えなどなかったのかもしれない。すべてを斬り裂く故に、辿り着く場所など最初からないのかもしれない。
だが、それでも恋い焦がれる。
だが、それでも思いを馳せる。
だが、それでも想いを貫く。
ただ一人、愛する誰かのために、死すら厭わず愛を示す。そうまでしなければ、剣士の前では愛など有象無象と変わらず斬り裂かれるだろうから。命を賭してこそ、初めて対等になれるだろうから。
恋する女性が二人、共に歩く道は死と向き合う恋の道。
閲覧ありがとうございました。
感想や指摘等あったら気軽に言ってください。
鈴音の魔法の詠唱式については長いので載せません(考えてはあります)。
たぶん作中に出てくるのでそれまで待ってください。
鈴音とリューさんが出会うのはたぶんこれが初めてですね。
うん、流血沙汰にならなくてよかったよかった。
二人の関係は概ねこんな感じです。蹴落としたりはしませんが、普通に嫉妬とかはします。