剣がすべてを斬り裂くのは間違っているだろうか 作:REDOX
淡い紫色のパーティードレスを着た妙齢の女性だった。ホールの光を受けて僅かに紫色を映し出す白髪、整った顔立ち――そして何よりも彼女の匂いが目立った。甘い花の香りが彼女から漂う。
「こんばんわ、アゼル・バーナムさん」
「すみません、貴女は?」
「あ、ごめんなさい。つい嬉しくて名乗るのを忘れていました」
そう言って彼女は美しいお辞儀をした。その所作は華やかではなかったが靭やかさがあった。絡みつく蔦を思わせるような彼女に対して私もお辞儀を返す。
「私リュティ・ユンペイと申します」
「リュティ・ユンペイ、貴方が……」
ヘスティア・ファミリアが受け取った招待状は二通。一通は主神アポロンからヘスティア様宛に届いたもの、もう一通はリュティ・ユンペイから私宛に届いたものだ。
もう一度リュティさんを見て、一度も会っていないことを確認する。
「招待していただきありがとうございます、と言うべきなのでしょうか」
「別にお礼なんていりません。私が貴方に会いたくて主神様に頼んだんですから」
「興味を持ってもらえて光栄、とは思ってませんよ」
彼女の噂はミィシャさんとリューさんの二人からしか聞いていないが、それだけでも興味を持たれたくないと思わせる話だった。
関係を持った男が不幸になっていく、不幸な男に興味を持つ女性。私は不幸街道を転げ落ちたくはないし、自分が不幸な男だとも思いたくない。
「ふふ、あちらでもっとお話しましょう?」
「……招待された手前、断ることはできませんね」
「律儀なんですね」
「礼を欠いては剣士の名折れですから」
ゆったりとした動きで彼女は先程まで私がいたテラスに出てくる。私は戻ろうとしていた足を再度外へと向ける。通り過ぎた瞬間、甘い香りが更に濃くなった。香水であれば不快に感じただろうが、不思議とそうはならなかった。
香水ではないとなると、この匂いは彼女の体臭だとでも言うのだろうか。
「ねえ、もっとこっちに来て」
手すりに寄り掛かる彼女と私の間には五〇
「いえ、流石に初対面の女性に対してこれ以上は」
「――へえ」
その声で彼女が怒りを露わにしたのかと思ったが、どうにもそうではない。むしろ好奇心からくる声だった。表情も笑っていたし、身体から怒気も漏れていない。彼女が演技が上手いだけということもあるだろうが、怒っていないことに安心した。
招待者を怒らせたとなっては情けなさ過ぎる。
「もう一度言います、もっとこっちへ」
声を荒げたわけではないが、力は篭っていた。お願いというよりもう命令しているような声色だ。それでいて優しさが見え隠れするというか、色気があるというか。
「断ります」
「そう……ならこのままで構いません」
もう一度、今回はきっぱりと断ると彼女は諦めてくれた。その引き際の良さに若干の戸惑いを覚えながらも、これ以上はマナー違反と判断したのだろうと結論付ける。そもそも女性から男性を誘うこと自体があまりいい行いではない、とリューさんに教わった。
「アゼルさんは私のことをどこまでご存知ですか?」
「個性的な男性が好みということくらいしか知りませんよ」
「あら、もっと言ってもいいんですよ? 不幸体質の男性が好みの
彼女は今まで見せていた笑みと何一つ変わらない表情でそう言った。それは自虐でもなんでもない、自分が異常であると理解しながらもその異常性を肯定した彼女の誇りのようなものだろう。変な男の趣味をしているがそれがどうかしたのか、とでも言いたげだ。
「別に変人と思ってはいませんよ。得てして冒険者になんてなる人種は皆が皆どこか変ですからね」
皆どこかで歪んでいる。見える所で歪んでいる人もいれば見えない所が歪んでいる人もいる。力を求めるものは、そのために死地へと赴くだろう。財貨を求めるものは、あるかも分からない財宝を夢見るだろう。
すべてを斬り裂こうとする男は、そのためにひたすら剣を振るうだろう。
「優しいんですね。そんなこと言われたのは初めてです」
「ただの事実ですよ」
歪んでいる、皆が皆どこかで常軌を逸している。そうでなくてはダンジョンになど挑まないだろう。そういう意味でもこのオラリオは世界で最も熱い街、熱狂が渦巻く混沌都市とも言えるだろう。
「不幸な人の表情が大好きなんです」
「……それはそれは」
「適当に聞き流そうとしてますね? ちゃんと聞いてください」
「嫌ですよ」
誰が人の特殊性癖を聞きたいものか。これがベルであれば相談に乗る可能性はあったが、相手が怪しい相手であれば即刻耳をふさぎたいのが本音だ。
「いいです、勝手に話しますから」
「独り言を人に聞かせないでください」
「そう、私不幸な人が好きなんです」
人の話を聞けと言ってやりたかったが、取り敢えず聞いてみることにした。この場を離れたところで後を追ってきそうだ。ホールでこんな話をされてはたまったものじゃない。
「絶望に浸っているあの表情がたまらなくて、何度も見たくなってしまうんです」
この時点で既にどこか恍惚とした表情をしていた。私も剣に関してはかなり危ない人だという自覚はあるが、流石にここまでではない。普段はしっかりしている、はずだ。
「でも、一度味わってしまった絶望では人も慣れてしまって感情の起伏が徐々に平たくなってしまうでしょ?」
「熱いお湯に浸かっていると慣れてしまう感じに言わないでください」
「そうっ、そんな感じです! ダメなんです、ちゃんと熱がってもらわないと。もっと、もっとちゃんと絶望を味わってもらわないとダメなんです」
思わず言ってしまった言葉に後悔した。最初に会った時感じた優雅さはどこへ行ったのか、頬を赤らめながら身を乗り出した。
「だから私――あの人達を幸福にしてあげるんです。お金が欲しいならお金を工面したり、欲しい物があるなら手伝ったり、美味しい料理が食べたいなら作ってあげたり、色々しました」
リュティさんはその時の事を思い出していたのか微笑んでいた。その笑みを見て、確かに彼女は自分の異常性を満たしている時の方がいい表情をすると納得してしまう。
「そしてそこから、もう一度絶望へと叩き落とします。ふふ、勝手に落ちていく人もいれば、なかなか落ちてくれない人もいるんです。お金に困ってる人は凄く楽でしたね、勝手に借金を増やしていくんです」
くすくすと笑いながら彼女は笑みを隠すために手を口元へと動かした。
「絶望から幸福へ、幸福から絶望へ。何度も何度も繰り返して、行き来する度に変わる表情、落差があればあるほど情けなく泣く男性が、本当に本当に――好きなんです」
蠱惑的な笑みが月に照らされて妖しくその陰影を映し出す。確かに、それは人を魅了するに足る美貌だっただろう。だが同時にどこか暗く、醜く、欲にまみれた彼女の本性だった。
一歩、彼女は私に近づく。一歩引いて私は彼女から離れようとするが、それを予見していたのか彼女は倒れこむようにしてもたれかかってくる。
「そして肉欲に溺れ、一時だけでもその絶望を忘れようとするあの人達の行動がどうしようもなく可愛くて、愛しくて。何度も何度も繰り返してしまうんです」
吐息が当たるほど近くまで彼女の顔が接近する。艶ややな唇から漏れる息はどこか甘い匂いをさせ、頬は火照り彼女の魅力に拍車をかける。潤んだ瞳は見たものを虜にする妖しさを孕み、しかしその奥に彼女の異常な欲求が見えた。
濁ってどす黒い、人間らしい欲求だった。
「ねえ、アゼルさん。貴方も溺れてみましょう?」
首の周りに手を回し、彼女は私の耳元でそう囁いた。だが、私は何も感じていなかった。
こんな状況に慣れているということは決してない。だが、触れる彼女の身体の熱にも、聴覚をくすぐる彼女の声にも、柔らかく押し当てられている彼女の胸にも、感情一つ動かなかった。
冷たい、まるで鉄のような感覚に襲われる。
(ああ、なるほど)
そして漸く気付く。
それは男女の情欲を掻き立てるお香のような、欲望を露わにする媚薬のような、勝手に答えてしまう自白剤のような、人の心を侵す毒――甘い花の香り。
無意識の内に私はその効果から自分を守っていた。直前にフレイヤに会っていた影響もあっただろう。しかし、分かってしまえば興醒めだ。
(まあ、考えてみれば当然ですか)
人はそこまで馬鹿ではないだろう。リュティさんと一緒にいると幸福と絶望が続くのであれば、いつしか気付くに決まっている。しかし、そうなってしまうとリュティさんの目的は達成されない。
今のリュティさんは至って幸せそうで、失敗したことがないかのように振舞っている。事実、失敗したことがないのだろう。相手を操る術があるなら失敗するわけがない。
「はな」
『君に「
離れてくれと頼もうと口を開いた瞬間、ホールの方から高らかと何かを宣言する声が聞こえた。そちらを向いてみるとヘスティア様とベルの前に一人の男神が立ちながら見下ろしていた。
その宣言を引き金にホールに集まっていた神々が騒ぎ始める。ヘスティア様は何回か言い返し、ベルの手を取って出口へと向かって行った。恐らく頭に血が登って私の事を忘れている。
「では、私は行かないといけないようなので」
「……」
リュティさんの肩を押し自分から引き剥がす。なんの影響もない私を見て一瞬真剣な表情を作ったが、すぐに微笑みに戻った。
「言っておきますけど私には
「気付いてたんですか?」
「何度か経験したことがあります。まあ、神にでもなって出直してください」
「甘く見ないでください。吸い続ければ、人はいつか壊れますよ」
勝ち誇ったような表情をする彼女、私は一度だけ振り返って答える。
「貴女こそ甘く見ない方がいいですよ?」
「まるで自分が人じゃないような言い草ですね」
「さて、どうでしょう。ご自分で確かめてみてはどうですか?」
それだけ言って私はヘスティア様達の後を追うためにホールへと戻ることにした。後ろから注がれるリュティさんの視線は途切れることはなかった。
「貴方は、必ず私のものにします」
離れていたはずなのに、その言葉だけは耳まで届いた。モンスターと対峙している時より恐ろしい感覚に襲われたのは、ここだけの話だ。
■■■■
ホームに戻ったアゼル達はまず普段着に着替えた。着慣れていない礼服から解放された二人はどこか疲れた表情をしていたが、ベルに関しては服装だけの問題ではなかった。
「で、何があったんですか?」
ヘスティアとアポロンの間で何か問題が起こったことは明確だったがアゼルはその場にいなかったので何が起こったかは知らない。ヘスティアがベルを連れてさっさと帰ってしまいそうだったので急いで後を追っただけだ。
「アポロンの奴が、ベル君があいつの眷属をぼこぼこにしたことを引き合いにだしてベル君を差し出せって言ってきたんだ!」
やはりそうなったか、とアゼルは心の中で呟いた。あの時から違和感があったが、あの時の暴言の数々はこのための布石だったのだろう。あの時の小心者の
「アポロンめえっ、まさかベル君を狙ってくるなんて……!」
「それだけですか?」
「……君、あんまり驚いてないね?」
「あはははは……いえいえ、内心驚いていますよ。ベルも有名になったものだなーと。しかし、それだけならあの場から逃げることはなかったと思いまして」
その言葉だけでアゼルは何が起きたのか大体理解できた。数人に聞いてきたアポロン・ファミリアに関する少ない情報だけでも予想はできていたことだったが、そう言えばヘスティアには教えていなかったことを思い出した。
予想していたことが的中したことに少しは驚いたものの、ベルの引き抜きに関して驚くことはなかった。乾いた笑いを漏らしながらアゼルは誤魔化した。
「それが、アポロン様が『戦争遊戯』を申し込んできて」
「戦争遊戯?」
「神々の代理戦争のことさ。眷属同士に戦わせて勝敗を決めるんだ」
「ああ、なるほど。まあ、確かにそんなもの
眷属の強さと人数は単純に数の問題ではないが、流石に二人しか眷属のいないヘスティア・ファミリアでは勝ち目が薄いのは火を見るより明らかだ。私が本気を出せばいざしらず、普通に戦っては数の暴力には勝てない。
「で、その申し出は受けるんですか?」
「受けるわけないだろうっ!! あんな変態の言うことを聞く必要なんて何一つない! 酒場のことだってあんなわざとらしく包帯を巻いて、最初からこのつもりだったに違いない」
なんでもアポロン様は男女問わず愛人を作るらしく、ベルは話題性もあったものの決め手はアポロン好みの美少年だったことだとヘスティアは思っているらしい。確かに一般的な趣味ではないが、それより強烈な趣味をした人物に会ったばかりだった私はそれほど衝撃を受けなかった。
「言っておくけど、ベル君だけじゃなくて君だって引き抜きの対象なんだぞ? あいつはヘスティア・ファミリアをまるごと手に入れるつもりなんだ」
「ヘスティア様込みでですか?」
「……あいつに求婚されたことがある」
「男女問わず、しかもようじ……年下までいけるとは流石神と言うべきでしょうか」
「ちょっと待て、君今幼女って言おうとしなかったかい!?」
ぷんぷん怒りながら突進してこようとするヘスティアを頭を押さえて止めながら、アゼルはこれからのことを考えていた。
執念深いとヘルメスは言った。
ご愁傷様とダフネ・ラウロスは言った。
必ず私のものにするとリュティ・ユンペイは言った。
(これで終わるはずがない、と私は思うんですがね)
様々な神を呼んだ宴でスカウトをするというのも見ようによってはマナー違反であるし強引とも言える。しかし、それだけで執念深いとは思えないしリューさんが知っているほど噂にはならないだろう。
執念とはつまり欲望。他のことを気にせず手を伸ばせば手に入るものをなりふり構わず手に入れる、それが執念の成せること。誰かを人質にして脅す等、効果的なやり方は幾らでもある。
「一応備えはしておきましょう」
「備え? なんのだい?」
「敵襲ですよ」
「「はい?」」
アゼルは立ち上がってダンジョンに行くときと変わらない装備を整えていく。そんなアゼルを不思議そうに眺めながら、漸くベルはアゼルがどんな心配をしているのか理解した。
「ちょ、ちょっと待ってよアゼル。オラリオの中でファミリア同士の私闘はギルドに禁止されてるし、起きないと思うよ」
「
「え?」
アゼルは真剣な顔でベルと向き合った。まさかそんな風に返されるとは思っていなかったベルは戸惑ってしまった。自分は罰則を受けてでも手に入れたいほどの冒険者ではないとベルは思っていた。なにせ目の前にはレベル3に最速で至った規格外の人物がいるのだ、どうして自分がそこまでして手に入れたい人材だと思えるだろうか。
「その程度のことで止めるなら、執念深いとは言いません。時として何かを手に入れるために傷付くことも傷付けることもあるんです」
そう言ったアゼルを見て、ヘスティアは彼が自分自身のことを言っていることに気付いた。痛みに耐えながら、苦しいと知りながら、悲しませると分かりながらも前に進むことしかできないアゼルをヘスティアは知っている。
執念、確かにそう言っても問題はないだろう。自らを斬りながら戦うことは何かしら強い思いがなければできないだろう。
「――分かった。今日はホームを空けよう」
「か、神様!?」
「幸いこの一帯は廃墟だらけですから、隠れる場所には困りません」
「アゼルまで!」
もしアポロンにとってのベルが、自分にとっての剣であったならとアゼルは考えた。そのためならなんだってするだろう。規則を破るなど障害とも思わないだろうし、人を斬ることも厭わないだろう。人間のアゼルでさえそうなら、神の執着心など彼には予想できなかった。
若干、事前に予想できていたことを教えていなかったことに対する罪悪感もアゼルにはあった。
「でも、そんな戦ってまで……」
「自分を卑下し過ぎるのは貴方の悪い癖ですよ。何に価値を見出すかなんて人それぞれです。事実、ベルを手に入れるために酒場で一芝居打つくらいは平然とやってのけています」
「それは、そうかもしれないけど」
心配というより、ベルは申し訳なく思っていた。力を手に入れるということは目立つということだとは分かっていた。ベルも色々なファミリアや冒険者のことを調べ憧れたことは多々ある。だから強くなって目立つということは仕方のないことだ。
しかし、酒場での一件は自分が手を出さなければこんなことにはならなかったとベルは思ってしまった。
しかし、もし敵襲があったら今以上の迷惑を掛けてしまう。アゼルであれば身一つあれば相手の攻撃を掻い潜って逃げることなど容易いだろう。しかし、ヘスティアはそうは行かない。彼女は神ではあるが今はなんの力もないか弱い女神でしかない。殴られれば痛いし、斬られれば血も出る。
最悪の場合、致死の怪我を負ってそれを治すために
それは――嫌だ。
「――うん、分かった」
「よし、じゃあすぐ準備しよう。君達とキャンプとでも思えば楽しいものさ」
「すみません神様、僕のせいでこんな」
「おいおいベル君、謝ることないさ。なんたって僕達は
「神様……そう、ですよね。僕達は――」
ベルは静かに目を閉じて、強く心に誓う。頼りになる幼馴染を、自分を家族と言ってくれた目の前の女神を、自分の居場所を守ってみせる。いや、何が何でも守る。
この時少年は己の中に大きな矛盾を抱え込んでしまったということも知らずに、心に一つの楔を打ち込んでしまった。その決心が揺らがないようにと突き刺さった楔は、少年が迷う度に軋み締め付け苦しみを与える。
矛盾の原因があったとすれば、それはベル・クラネルが純粋過ぎたことだろう。
「さて、ヘスティア様は毛布の一枚くらい持って行ってくださいね。身体を冷やすのは良くないらしいですから」
「それは僕には適用されるかどうか……まあ、持って行くけど」
春とは言え夜になればまだ寒い。アゼルは外套を羽織りながら装備の最終確認をしていた。ベルも探索に行くときと同様の支度をすませていた。プロテクターやナイフ等も万全、補充する前だった
「予想が外れるのが一番なんですけどね」
「でも楽観視はできないよね。ここ地下だし、最悪閉じ込められちゃうよ」
「こちらから殴り込みに行くという選択もありますが、どうします?」
「ダメだダメ! そんな野蛮に育てた覚えはないぞ僕は!」
「私も育てられた覚えはないですよ。そして冗談です。今回は何もしていないのに斬りかかるほど魅力的な相手ではないですよ」
アゼルは以前アイズに出会い頭斬りかかったことことがあるが、あの時はアイズという類い稀な強さを持った剣士に出会った衝撃が強かった。今回は団長のヒュアキントスにも然程強者の雰囲気を感じていなかった。
ヘスティアはもう一度アゼルを見て念を押すように少し目を細めた。アゼルは溜息を吐きながら、頷いて了承の意を示す。
「では襲いかかってきたら容赦なくいっていいんですね?」
「そういう問題じゃないからねっ!!」
ヘスティアのツッコミにアゼルは小さく笑った。釣られてベルも、そしてヘスティアも苦笑する。そこは、確かにどこか温もりのある場所だった。
少年はその場所を、その温もりを、その笑顔を守りたいと願った。
女神はその光景を見て、自分の理想に一歩近付いたのかもしれないと思った。
そして青年は――――
アゼル達が選んだのはホームにほど近い廃墟となった建物だった。煉瓦でできた壁にはいくつもの罅が入っていて、如何にも廃れているという趣きの建物は一見だけでは人がいるとは誰も思わないだろう。
丁度窓からホームの方角が望める場所にアゼルが立って見張っている。
「ヘスティア様、少し話があるのですが」
「何だい?」
寝ずの番となるアゼルを気遣ってかヘスティアも寝ないように努めていたが、そろそろ眠りに落ちるだろうと思ったアゼルは少しの間窓から離れてヘスティアの前へと移動した。
「もしかして、ベル君がいるとできない話かい?」
ベルは現在辺りの見回りに出ていた。アゼルが提案し、ベルは率先してその役目を買って出た。このタイミング、しかも提案したのがアゼルだったことを考えヘスティアはベルには聞かれたくない類の話ではないかと推測した。
「できなくはないですけど、聞かれたくはないですね」
「分かった、なるべく言わないようにするよ」
話の内容が真剣だということを察したヘスティアは、眠気を押しのけてアゼルの話を聞くことにした。
「もし『戦争遊戯』をすることになったのなら、私は――――」
その内容を聞いて、ヘスティアは喜びと共に悲しみを覚えた。何処まで行ってもアゼルはアゼルでしかないという事実を突きつけられた。しかし、その中にも彼女はアゼルの僅かな変化があったと感じ取った。
――そして青年は、その居場所の命運を少年に託すことにした
■■■■
透き通る若葉のような髪、澄み渡る空のような瞳。その少女は美しかった。
『アストレア様、どうか私の願いをお聞きください』
ある少女の懇願を彼女、アストレアは夢見ていた。普段は凛としていて己を律することを大切にしていたエルフの少女は、今は見るも無残な姿だった。服はボロボロ、仲間内でも綺麗だと言われていた肌には数多の傷ができていた。
そして、何よりも少女の表情が彼女にとっては見るに耐えなかった。
『どうか、オラリオからお逃げください』
どこで間違ってしまったのかと、彼女は思った。あるいは間違いなどなく、これこそが少女の辿る道だったのかもしれない。だったとしても、彼女はそんなこと許せなかった。少女は泣いていた。
傷から流れる血よりも、瞳から流れる涙の方が今の少女を語っていた。
『どうかッ』
憎悪だった。瞳の奥に燃える感情を彼女は良く知っていた。失くしてしまった何かを想いながら、心に降りかかるどす黒い感情だ。誰にだってある有り触れた感情だ。だからこそ、恐ろしい。
そんな有り触れた感情がここまで人を変えてしまうという事実が、そしてそれを止めることが自分にできないことが恐ろしかった。
自分の眷属の中で最も正義という志を心に戦っていた少女だったからこそ、彼女はその変わり様に呆然としてしまった。ああまたか、と思ってしまった。
どれだけ手を差し伸べようとも、どれだけ教えを説こうとも、人は変わらない。たった一つの出来事がすべてを変えてしまう。その事実を知りながらも、彼女は今までずっと彼等の星であり続けてきた。
限界だったわけではない。しかし、目を背けてしまった。
目の前の少女を見ていられなかった。彼女は自分の無力さが許せなかった。否、力になるならないの問題以前に、彼女には少女の心中を理解することができなかった。
神と人とでは価値観が違いすぎる。少女がどのような感情を抱いているかまでは理解できても、その度合いなど彼女には推し量れない。幾百幾千の出会いをして、同じ数だけ別れを経験している彼女は死というものに向き合えるだけの経験がある。
しかし、目の前の少女はそうではなかった。
しっかりしている少女だと思っていた。強い少女だと思っていた。少女であれば真に正義を志すこともできるかもしれないと思っていた。
だが、そのすべては勘違いだった。
少女は少女でしかない。成熟しきっているとは到底言えない精神では仲間の死を受け止めることはできなかった。確かに少女は強かった、しっかりしていた、正義を志していた。だからこそ見落としていた。
きっと自分は目の前の少女のことなど何一つ理解できていなかった。できていなかったにも関わらず、無責任にも正義を志すように諭してしまった。
彼女の愛しい
自分はなんと愚かなことをしてしまったのかと彼女は思ってしまった。自分さえいなければ、こんなことは起こることもなかっただろうと考えてしまった。
だから、彼女はオラリオを去った。せめて少女の最後の願いを叶えてやろうと、知り合いの男神に頼んでオラリオから遠く離れた地に隠れ住むことにした。
それが自分が導いた正義から背くことだと知りながらも、彼女は立ち上がることができなかった。何が神かと、何が正義の女神だと、心の中で何度も己を嘆いた。
長い間気分は沈んでいた。何をしても気が晴れることはなく、夜になれば毎晩魘された。そんな彼女を救ったのは、隠れ住むことになった村の住人達だった。
数年もすると悪夢を見ることはなくなった。村人達を何人か集めて剣の稽古をつける日もあった。農作物を効率よく育てる方法を教えたこともあった。少しずつだが、彼女は幸せを手に入れてしまった。
一日の最後、充実した一日だったと振り返ると僅かに胸が痛むことを彼女は自覚していた。集中すれば未だに感じることができる眷属の気配が、彼女の心を突き刺す。
今あの少女は何をしているのか。あの後あの少女はどうなったのか。
忘れてしまいたいと思った。しかし、忘れていいわけがない。
あの少女は自分が置き去りにしてしまった正義の欠片なのだから、何時かまた自分が拾いに行ってあげなければいけないと思っていた。
しかし、あの日最後に見た少女の涙が彼女の決心を揺らがせる。
もし、あの少女がもう正義など志していなかったらどうしようか。再び相まみえた時に憎しみをぶつけられたらどうしようかと、考えはずっと悪い方へと流れ、いつか眠ってしまう。
彼女と共に暮らしている少女、テネリタは知っている。
魘されている彼女を心配して寝室に入るといつも同じ言葉を繰り返している。
――ごめんなさい
月明かりの中一筋の涙が彼女の瞳から流れる。
――こんな弱い私で、ごめんなさい
あの時、彼女は去るべきではなかった。そう思いながらも、やはり彼女は足を前に出せない。それこそが彼女の弱さの表れであった。
――ごめんなさい、私の愛しい――
掠れた声で呼ぶ名前はいつも同じだった。それが誰なのかテネリタには分からなかったが、その誰かが大切な者であることは分かった。もしかしたら失ったのかもしれない、この人は傷付いているのかもしれない。
いつも人々の前では毅然としている彼女は、本当はこんなにも弱い人なのだとテネリタは知った。だから、朝の挨拶は相手を元気付けることができるくらい明るくするのだ。自分が少しでも彼女のためになれればと、ただその一心でテネリタは笑顔を向ける。
だが、アストレアは知らない、知る由もない。
その少女、リュー・リオンが幸運にも大切な親友に救われ今も正義を抱えているとうことを。苦しみながらも、傷を負いながらも、志した正義が誰かを救うと信じ未だに歩みを続けていることを。
それを目の当たりにした時、彼女は何を思うのか。己の愚かさだろうか、それともリューの強さだろうか。はたまた少女を立ち直らせた人々に対する感謝か、健やかに育ったことへの喜びか。
かって憎悪に身を染めた少女が再び正義を志す姿を彼女は見ることになる。運命の悪戯か、それとも必然か。一度分かたれてしまった二人の道は、一柱の男神によってもう一度だけ交差することとなる。
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