広い大密林からベルとスズを探すか否か検討する中、スズから『無事』だという合図が出されていることをリリが確認したことにより事態は収拾されつつあった。
アイズ親衛隊達もベルが事故で神域たるアイズの裸体を覗いてしまったことに対し、『羨ましい、もといけしからん』と腹を立てたり悔しがっているものの、全面的にヘルメスが悪いというと納得はしてくれている。
そんな張りつめていた空気が薄まる中、『覗きは男の浪漫なんだ。オレは神としてベル君を正しい道に導こうとしただけなんだ』と供述したヘルメスはアスフィによって吊るされていた。
「ヘルメス! なんてことをしてくれたんだ!! ベル君まで巻き込んで、これでベル君やスズ君が森の中で怪我でもしたらいくら温厚なボクでも許さないぞっ!?」
「お、落ち着いてくれよヘスティア! この階層に来るような
「もういいです死んでください」
まったく詫びる様子のないヘルメスにヘスティア達よりも早くにアスフィがキレた。顔を怒りと羞恥で真っ赤にしながら【ファミリア】の恥じと言わんばかりにヘルメスに体罰を与えていき、ヘルメスの叫び声が野営地一帯に響き渡る。アイズ親衛隊達も神相手にそこまでの体罰を与える気はなかった為、ヘスティア共々その行き過ぎた体罰に思わず震えあがってしまう。
「うるせえな……。何の騒ぎだっての」
「あ、ベートだ」
「面倒くせぇ仕事やってきてやったってのに呑気なことほざいてんじゃねぇぞ、馬鹿アマゾネス」
18階層入口の方からやってくる人影をティオナが『ベート』と呼んだ。LV5の第一級冒険者であるベート・ローガ。椿が作った『
敏捷を活かして格闘戦をする
ベートは鈴が付いた愛らしい首輪をつけていた。
お洒落とは無縁なヴェルフでもわかるほど似合っていない。これが黒いチョッカーならまだしも、ガラの悪そうな、それもプライドの塊でじゃれ合いを嫌う
しかし身につけているのは【ロキ・ファミリア】の有名な第一級冒険者だ。スズの首飾りと髪飾りに『魔除けの加護』が付いているのと同じで、ああ見えて強力なマジックアイテムなのかもしれない。本来は
「リリスケ、マジックアイテムに詳しかったりするか?」
「多少の知識はありますが、ヴェルフ様がまじまじと見ておられるアレのことでしたら、リリには普通の首輪とリボンにしか見えません……」
リリの回答にヴェルフに二度目の衝撃が走った。そんなことがありえるのだろうか。【ロキ・ファミリア】の第一陣を任される
「オーダーメイドの可能性は?」
「それはありえるかもしれませんが、どちらにしろあのデザインで強力なマジックアイテムにリリは心当たりがありません。あの形状が本人のご趣味でないとすると、スズ様の身につけておられる物と同様に古代に作られた気まぐれの産物である可能性しか残されていませんね。今の
「なるほど。となると『
真顔な顔でベートの格好を考察する二人の横。実はロキからの罰ゲームで着けさせられているだけという真実を伝えることができず、「どうかこの会話がベートさんに聞こえませんように」と祈ることしかできないレフィーヤだった。
§
現在の状況をベートに伝える為に【ロキ・ファミリア】の第一陣メンバー達は集まっていた。
今だ仲間が猛毒で苦しんでいると思っていたベートは何を悠長に話し合い何てしているのかと初めはイラだっていたが、最初に一言リヴェリアが「解毒は既にスズ・クラネルがし終えている」と告げるとベートはその予想外の展開と名前に思わず目を見開く。
「あぁ゛!? あの白猫が解毒済みだぁ!? あいつ等この階層に来て……じゃねぇ。あいつはポイズン・ウェルミスの毒を解毒する【魔法】までもってやがるってのか!?」
「ああ、流石に完治とまではいかなかったが、動けないほどの重症者はいなくなった。そのことも【ヘルメス・ファミリア】の伝令に頼んだんだが、どうやら入れ違いになってしまったようだね。特効薬の失費は痛いが、異常発生したポイズン・ウェルミスの駆除をしなければ次の遠征に赴くことはできない。次の遠征への必要経費だと思っておけばいいさ。疲れているところ急がせてすまなかった、ベート」
フィンの言う通りベートは特効薬を調達する為、遠征で疲れた体に鞭打って地上にいる他の団員達と共に
「ガギじゃあるまいし使いぐらいで疲れるかよ。んなことよりも、
「驚くことに二人共既LV2だ。ここに来る最中も
レベルがたった一の差が開くだけで圧倒的に【ステイタス】の差が出てしまうのは常識だ。ベートが話を詳しく聞くとLV1を二人抱えた状態で全員生き延びたらしい。明らかに二人の実績と成長速度は常識を逸していた。
『あの里』だから仕方がない。そんな言葉をロキから散々聞かされていたが、微温湯に浸かって強くなろうとしない冒険者は決して強くはなれない。
例え優れた才能があったとしても強くなろうとしなければ弱者のままだ。もしも『あの里』の住人が【ステイタス】の伸びしろがいい特性を持った種族だとしても、『技』や『駆け引き』までは身につけられない。ミノタウロスと戦っていたベルとスズは【ステイタス】だけで戦ってはいなかった。
何よりもよほど贅沢な暮らしを望まなければ上層の稼ぎでも十分に暮らしていける額を稼ぐことはできる。強くあろうとしない冒険者はそこで立ち止まり生涯を終えるのだ。だから、少なくともこの短期間で中層攻略に乗り出したベルとスズには強くなろうとする意志がある。ベートの持論において、二人は少し土台は違うものの自分達と何も変わらない
他者の才能に嫉妬することなど弱者のすることだ。基本アビリティーオールSという極致に到達した者が一人でもいるのなら、同じ冒険者である自分が到達できない道理はない。ただ自分達が『できない』と決めつけていただけだ。最初から諦めている者なんかに先がある訳がない。
ベートはフィンから【ヘスティア・ファミリア】所属ベル・クラネルのパーティーに加え、そのパーティーを迎えに来た【タケミカヅチ・ファミリア】と【ヘルメス・ファミリア】の混同メンバー。そして神であるヘスティアとヘルメスが来ていることを説明されている中、『できない』と思っていたことを次から次へとやってのけたベルとスズに対抗心を燃やし、その極致を自分自身の力で掴み取ろうとさらに闘士を燃え上がらせる。
「なんじゃベート、無駄足をさせられた割りにずいぶんと嬉しそうじゃの」
「入団を断った冒険者の成長がよほど嬉しいようだな。獅子は我が子を谷に落とすと言うが、ベートの普段の言動がそのようなものだったとは私も気付かなかったぞ」
「うるせぇジジイ、ババア。フィン、あいつ等はどこだ」
「今は二人共森の中だよ。いつ帰ってくるかはわからないが無事を知らせる合図が点滅し続けてるから待てば帰ってくるだろう」
「森……ってことは狩か特訓か、か。俺は少し寝る。あいつ等が帰ってきたら起こせ」
「ああ、ゆっくり休んでくれ。ありがとう、ベート」
フィンが疲れているベートに労りの言葉を掛けるとベートは「んなこと白猫にでも言っとけ」と言い放ち招集された天幕の外へと乱暴に出ていった。
「うわぁ~、アルゴノゥト君と白猫ちゃんが帰って来ても絶対起こさない方がいいって!! ベート絶対うるさくするよ、これッ!!」
「聞こえてるぞ馬鹿アマゾネスッ!!」
「だってベートいつもそうやって意地悪言うじゃん!! そんなんだからアイズに嫌われるんだよ?」
「き、嫌われてねぇしッ!!」
ベートが慌てたように戻って来てアイズの方に目をやると、アイズが目を反らして「嫌いでは、ないです」とフォローという名のトドメを刺した。
実際にアイズはベートのことを嫌ってはいない。口は悪いが本当は仲間思いなこともわかっているし、ベートのおかげで助かったことは何度かあった。それでも酔いの勢いとはいえ初めての教え子であるベルのことを『トマト野郎』と笑いの種の一つにしていた。そんなベートのことをスズは『優しいんですね』と初対面から内面をしっかりと見れていたのだ。ベートがどんな言い方で話しかけてもスズのことだから好意的に解釈して『楽しく』会話してしまうだろう。それでいてベートによるベルへの評価が『トマト野郎』から『兎野郎』に上がっていた。これは間違いなく口数の少ない自分そっちのけにして三人で『楽しく』会話してしまうに違いない。
自分をよそにベートと笑顔で会話するベルとスズ。アイズの中で繰り広げられる珍しい妄想劇が、『そんなのはものすごく嫌だ』と子供のようにむくれている。
可愛がっていた小動物を突然奪い取られたような感覚で、心の中に住む幼いアイズが涙目になりながら『返して』と両手を伸ばすがベートの背が高くて手が届かない。しかも意地悪なことに心の中のベートはわざわざ小動物たちを高い高いしているのだ。「なんで俺が面倒みなけりゃなんねえんだよ」と言いつつ可愛がっているのだ。面倒なら自分が見るから返して欲しいのに返してくれないのだ。
そんな心の中に住む小さなアイズの妄想により、ついついそれが『嫌』で目を逸らしてしまっただけで他に深い意味はない。深い意味はなかったのだが、ベートは長い間固まった後とぼとぼと哀愁漂う背中を見せ天幕から出ていってしまったのだ。流石に天然なアイズでもその行動が『仲間に避けられてショックを受けた』程度には感じとることはできた。
アイズがあたふたと慌ててその場にいるリヴェリアに「どうしよう」と相談したことで、その場の仲間達に笑われてしまったのはまた別の話である。
§
リューにテントまで送り届けられたベルを待っていたのは、ベルとスズが無事なことに喜び抱きつこうとするヘスティアと、それを「いいからスズ様にお召し物を着せてあげてください!」と注意して止めるリリという一連の流れだった。
スズは帰りの道中でまたベルの背中で眠ってしまった。相当疲れているのかベルが「ついたよ」と声を掛けながら自分の体を少し揺らしてみるが、一向に起きる気配はない。
ヘスティアが「寝かせてあげよう。後はボクがやるから」とベルの背中から優しくスズを受け取り、背負い直し「堪能しているところごめんよ」と謎の言葉を残してテントの中に入っていった。
ヘスティアの言葉が少し気になるが、ベルには先にするべきことがある。
晴れて両手が自由になったベルは『覗き』について謝ろうと土下座をしようとした。
「土下座禁止です。正座してください」
しかし、リリはベルの高速ジャンピング土下座は発動すら許してくれなかった。
頭を地面にこすりつけて謝ることを許されなかったベルは「は、はい」と間の抜けた返事を返し、言われた通りその場で正座をすることしかできない。
「ベル様が覗きを止めようとして事故で水浴びの場に落ちてしまったことは理解しています。リリはそれにより、とてもとても恥ずかしい思いをしましたが、そのことでリリは謝罪を要求したりなんかいたしませんし、怒ってもいません。責任を取ってお嫁さんにしてくださいとも言いませんよ、ええ」
「でもリリ」
「話は最後まで聞いてください、ベル様。そうでなければ流石のリリも本気でベル様のことをお叱りしなければいけなくなります。リリは今、ものすごく怒っているんです。ベル様はその理由が何かしっかり理解できておられますか?」
いつもパーティーのことを考えてくれているリリが怒る理由なんて決まっている。そもそもベル自身が一番後悔したことなのでわからなければ引っぱたかれても文句を言えないものだ。
「ズスのこと……考えてあげられなかったことだよね」
「はい、よくできました。ベル様の頬を叩かずにすみ、リリの良心が痛まずにすみ安心しました。ベル様お一人で飛び出されたら、スズ様が無我夢中で追いかけることくらいわかっていたはずです。ベル様が女性に免疫がないのは重々承知ですが、今後このような情けない理由でリリを心配させないでください。合図が送られるまでの間、リリはベル様とスズ様のことが心配で心配で胸が張り裂けてしまいそうだったんですよ?」
リリはそう溜息をつかれてしまったが、最後には「おかえりなさいベル様。ベル様とスズ様がご無事でなによりです」と笑顔で受け入れてくれた。リリの説教が終わるまで待っていてくれたヴェルフも「男だったぜ、ベル」とベルの肩を何度か叩きながら軽くからかってくるも無事に帰って来たことを喜んでくれている。
絶対に失いたくないベルが今帰るべき場所。
もしもそれが、理不尽な理由で、それも人の手によって奪われたら僕はどうするんだろう。
リューから仲間を奪われた怒りと憎しみから度が過ぎる復讐に走ったことを聞かされたせいか、ベルの中で不意にそんな疑問が浮かび上がった。
考えるが答えは出ない。いや、出したくないだけなのかもしれない。ベルは失った後のことを考えるよりも失わないように努力するべきだと思考を切り替える。
「ただいま、リリ。ヴェルフ。心配掛けてごめん」
『おかえり』と『ただいま』。ごくありふれた温かい言葉を言い合える当たり前のことが幸せなんだと
今日した失敗を明日しないように、今日より少しでも強い自分を目指していきたい。
ベルはそんな子供じみた願いを、想いを抱き続けるのだった。
§
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§鈴の音色はもう聞こえない§
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『悪夢』の先に、その光景は広がっていた。
お母様の一部を取り込み、お母様の血を受けた里を飲み込んだ『ソレ』は、継ぎ接ぎの形だけで修復したのか、お母様の【魔法】を使えるようになっている。
蓋が閉じられた蠱毒の壷の中。食事として私の手足は『ソレ』に食われ、息絶える前にお母様の【魔法】で回復させられる。私が飢えれば自らの肉を私に分け与えた。共存関係と言えば聞こえはいいが、私は『罪』と『罰』としてその行為を受けているに過ぎない。無理やり胃に流し込まれる肉片に吐き気が込み上げてくる。
蓋を閉じた私は『ソレ』を許すことはしなかった。だけど自分を一番許すことができなくて、痛みや苦しみを堪え、ただ仲直りしようと『私』を痛めつけるその行為を受け入れ続ける。
それでもこの関係は長く続かないという確信はあった。単純に『ソレ』の回復速度が『私』の手足程度では賄えない。私の体を治す度に『ソレ』は徐々に弱っていくのがわかった。蠱毒の壷で一人きりになるのは何年後になるかはわからないが、自給自足ができないこの環境で私を食べきったところで『ソレ』が結界を破り世界を滅ぼすことだけはないだろうと当時の私は思っていた。
――――自分勝手な『罰』に酔いしれて『悲劇のヒロイン』ぶる自分が大嫌いだ――――
そして、まだ自虐的な思考ができていたこの時の私は心の中でそんなことを呟いた気がする。
気がするだけで、当時本当にそう思っていたかどうかは今となってはもう思い出せない。それでも人間らしく振る舞う『私』がそう思ったのだから、きっとこの時の私もそんなことを考えていたに違いないと『私』は当時の痛みと苦しみに埋もれながらも悪夢の奥へ奥へと沈んでいく。
里の者だった黒い肉片から罵声を浴びせられた。――――意識を向けるな―――――
里の者だった黒い肉片から暴力を受けた。――――――――目を背けろ――――――――
里の者だった黒い肉片が許しを請いた。――――――耳を貸すな――――――――
『ソレ』が『私』と仲直りをしたがって行われた行為の数々を思い出しては消していく。『罪』を背負っていく。『罰』を受け入れる。これらは『スズ・クラネル』には不要なものだ。深層意識に擦りこまれたこの『悪夢』は『スズ・クラネル』にとって毒だ。全て『私』が引き受けなければならない『罰』であって、『スズ・クラネル』になんの『罪』はない。
――――――言い訳をするな、と『私』の中の何かが呟く―――――――
そろそろ『ソレ』による
『スズ・クラネル』が『悪夢』を連想する出来事に遭遇したのか、『悪夢』により『私』から
それでも『私』は『スズ・クラネル』から異物を取り除く作業を止めない。『悪夢』を引き受ける役割を放棄しない。『私』と『同調』して『スズ・レスクヴァ』としての言葉が漏れる。『私』と違って笑ってもいいと訴えかけている。その『痛み』は『スズ・クラネル』のものではなく『私』のものだ。
沈み、抑え込み、浸り、支え、どの表現が適切なのかはわからない。『悪夢』の中で体感した出来事が『私』の中で渦巻く。『スズ・クラネル』はもう『私』ではない。
例え『私』から人間らしさが失われてしまったとしても、またヘスティアに条件付けされる前の自分に戻るだけだ。【スキル】の出力制御や『スズ・クラネル』の『幸せ』を目指した行動を機械的にこなす自分は残るはずだ。まだ少し、いや、まだまだ頼りないものの、ベルなら何があっても『スズ・クラネル』を守ってくれる。ヘスティアも『スズ・クラネル』の心を支えてくれる。だから『私』という意識がいなくても問題ない。心残りは『スズ・クラネル』にもう少し【魔法】を残してあげたかったことくらいか。
徐々に感覚と感情が鈍くなる。
―――――――――そういえば、罰ゲームやってなかったな――――――――――
『悪夢』が『私』を染めていく中。
温もりのない冷たい心の牢獄の中。
自我が徐々に削り取られる中。
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§鐘の音が聞こえた気がした§
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僅かな温もりを感じて目を覚ますことができた。
何かまた無茶をやらかしたのか『スズ・クラネル』の体は疲れ切って眠っており、『私』も『同調』による『悪夢』の逆流を防ぐので疲労、というのは体がない身としてはおかしい、か。自我が消滅しかけていたと言った方がただしいだろ。とにかく消滅せず無駄な屁理屈をこねられる状態で奇跡的に留まれたようだ。
『私』自身が諦めていたこともあり、恥ずかしくも変な思考が混ざってしまった気もしないでもないが今は『スズ・クラネル』の状態を確認するのが先決である。
流石に記憶まで覗き見ることはできないが、【スキル】と繋がっている『私』は『スズ・クラネル』の身体状況の把握はもちろんのこと、【魔法】の使用履歴まで正確に読み取ることができる。どうやらログによると『記憶の凍結』が間に合わず、『私』から漏れた『記憶』から【召喚魔法】で『盾』を出したようだ。その後も【召喚魔法】を使用しているが『私』の作業と重なり【伝達魔法】は不発に終わっている。それにより不安を煽ったのか、その後しばらくして『同調』をしてしまったようだ。『同調』による『悪夢』の逆流だけは何とか防いだが、『私』から漏れ出した情報は『スズ・クラネル』の中で大きな矛盾を生み出していることだろう。
―――――――それに加えてダンジョンで遭遇した『漆黒のミノタウロス』の問題もある。
『蠱毒の洞窟』に施している『結界』は現在も稼働中だが、少なくとも数匹『アレ』に近い個体が存在している。
輪廻の輪に返ることなく穢れの塊となった
厄介なことに『群れ』である『穢れた魔石の欠片』は『母体』である『穢れた魔石』からの魔力供給で何度でも蘇える。『群れ』が食らった魔力は『母体』へと送られ『群れ』が減れば『母胎』は新たな『群れ』を生み出す。また食らったモノを『穢れ』として取り込むこともわかっている。多くの魔力を蓄えればより強力な『母体』へと昇華し配下である『群れ』もまた成長する。
そのことに気付くのが遅れ、避難地という絶好の魔力供給場所を襲撃されたせいで里は丸々飲み込まれた。
しかし、『漆黒のコボルト』や『漆黒のミノタウロス』といった『穢れた魔石の欠片』を持つ
例え復活できたとしても『母体』に魔力が供給されていないなら残機に限りはある。既に『個』として確立して知能があるのは厄介だが、
何はなくとも
「スクハ、起きてる?」
ベルの囁き声が耳元から聞こえた。『私』の意識は起きてはいるが『スズ・クラネル』の体を使っている訳ではないので、体の在り方は眠っている『スズ・クラネル』のままである。『私』の雰囲気を一切感じない状態にも関わらず呼びかける程の緊急事態かと一瞬だけ身構えそうになるが、呼び掛けてきたベルの声に焦りの色は一切感じられない。声の位置、体の揺れ具合、触れ合う人の温もりから、今『スズ・クラネル』はベルに背負われた状態で眠っているのだろう。おそらく、ただ不意に『私』のことが心配になってつい声を掛けてしまった、といったところか。
弱った声で返事を返すと余計に心配させるだけだ。
ここは狸寝入りしておくとしよう。
しばらく『スズ・クラネル』越しから温もりを感じる。
断っておくが堪能はしていない。『私』の意識がある時は『スズ・クラネル』と五感が共通してしまっているだけだ。疲れ果てて嫌がる気力さえわかないだけで嬉しい訳で断じてない。
そんな『人間らしい』感情が徐々に浮上する中、『私』は『スズ・クラネル』の体にある違和感を感じた。
穿いていない。
おそらく場所はまだダンジョンの中だろう。少なくともベルの背中に背負われている状態で、『スズ・クラネル』は下着をつけていなかった。それどころかスカートや靴下も履いていない。裸の状態で大切な物だけを持ってきたのか、精霊セット一式は肌で感じることができるし、鈴の音がしていることから魔除けの首飾りと髪飾りもつけているだろう。やっつけ程度に、おそらくはベルのシャツの上からロングコートを羽織るという……とても、とてつもなく、人の目についてはいけない破廉恥な格好でベルに背負われているのだ。『スズ・クラネル』が無茶をしたのは【魔法】の使用履歴からわかる。記憶の食い違いにより激しく動揺し、最終的には『同調』する出来事にまで直面した。
なのになぜ『スズ・クラネル』はこんな格好をしているのだろうか。ここに至るまでの過程が全く予想できない。無理に故事付けるとしたら『スズ・クラネル』が水浴びをしているところをベルが偶然覗いてしまって、ベルが羞恥のあまり『スズ・クラネル』が必死に追いかけているのにも気付かずリリとヴェルフの気配が感じられないほど遠くまで逃走したといったところか。『スズ・クラネル』は【
思いたくはないが、アレはベルなのだ。信じたくはないがそういうこともあるかもしれない。
理由はどうあれ『スズ・クラネル』がこんな格好をしている現状は変わらないので、ベルがまだ頼りないということは十分に理解できた。
この調子では『スズ・クラネル』のことを任せられるようになるのは当分先の話だろう。人間らしさを保ったまま『悪夢』を引き受け続けるのは正直堪えるが、ベルがまだこんなにも頼りないのでは、『私』はもう少しだけ『今の私』のままで頑張るしかない。だからこれは『私』が残りたいと我儘を言っている訳ではないのだ。
だから―――――――――――――――――――――
§
悪夢の中、この鐘の音だけは絶対に忘れたくないと『私』は願った。
駆け足で進めても巨人を倒すところまで進むのに11話以上掛かってしまいそうだったので、上下と章を分けることにしました。
それに伴い六章のタイトルを『白猫と巨人』から『白猫と迷宮』に変更いたします。
次章モルドの活躍をご期待ください。