スズ・クラネルという少女の物語   作:へたペン

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魔法を使うお話。


Chapter09『魔法の使い方 前編』

 突然だがベルは【魔法】に目覚めた。

 別に妄想や夢を見た訳でもなく、ヘスティアに【ステイタス】を更新して貰ったら突然【魔法】が目覚めたのだ。

 

 決して『左腕が疼く』だの『第三の目が開いた』だのといった妄言ではない。しっかりと背中の魔法スロットに刻まれたのだ。

 

 昨日今日とリリが【ソーマ・ファミリア】の事情、【ファミリア】の集会で顔を出せず、リリは心配しないでも大丈夫だと言っていたが、ベルは気が気でならなかった。

 

 三人一緒でないと、女々しいと思われてしまうがなんだか寂しくて、いまいち気力もわかない。

 そのため致命的なミスをしないように探索の方は自粛して、昨日はスズに少し受け流しや『ワイヤーフック』を戦闘で使うコツなどを軽く教えてもらっただけだった。

 

 今日なんてスズがシルに『豊饒の女主人』お手伝いを頼まれたこともあり、手持無沙汰になったベルをシルが見かねて、暇つぶしにどうぞと貸してくれた『ゴブリンにもわかる現代魔法その一』という本を読んだくらいで、まさか本を読んだだけで【魔法】が発現するなんて思わなかった。

 ベルにはもう【魔法】の空きスロットはないが、ぜひとも『ゴブリンにもわかる現代魔法その二』も読んでみたいところである。

 

「スズ! 神様! 僕【魔法】が使えるようになりました! それもカッコいい名前のっ!!」

「おめでとう、ベル。これで念願の【魔法】が使えるね!」

「おめでとう、ベル君。それにしても【ファイアボルト】の補足文は【速攻魔法】だけか。どう思う、スズ君」

 

 ヘスティアが【魔法】の術式を創ることが出来るスズに目を向けたので、釣られてベルもスズに目を向ける。

 スズは二人の中で【魔法】の専門家なので、スズやスクハが言う【魔法】のことには絶大な信頼を寄せているのだ。

 

「多分ですけど、そのままの意味だと思います。詠唱が必要ない【ファイアボルト】という名前のトリガーを引くだけで発射できる、そんな複雑な術式を内包した【速攻魔法】だと思います。神様はどう思いますか?」

「ボクも同意見だよ。だからベル君、最悪【ファイアボルト】という名前を言うだけでも【魔法】が発動してしまうかもしれないから、明日ダンジョンで試し撃ちしてくるといい。それで君だけの【魔法】の正体が判明する筈さ。君の【魔法】は逃げたりしないんだから今から試しに行くなんて馬鹿な真似はやめておくれよ」

 

 ヘスティアの言う通り急ぐ必要はない。

 この後スズの更新が終われば消灯時間で、スズも眠気から同行することは出来ないだろう。

 

「でも神様。【魔法】ですよ、【魔法】! 眠らないと精神力(マインド)は回復しないんです! 一階層で『ワイヤーフック』との相性とか確かめたいんだけど、えっと……」

 ちらりとベルは伝家の宝刀スズに同意を求めてみる。

 

精神力(マインド)がもったいないのはわかるけど、そうだね…憧れの【魔法】だもんね。ちょっと私はもう眠くて一緒に行けないから、試したらすぐに帰って来てね?」

「おいおい、スズ君。少しベル君を甘やかし過ぎじゃないのかい」

「ベルは無理なんてもうしないよ。ね、ベル?」

 そう信じ切った笑顔をスズはベルに向けてくれた。

 

 これを裏切ったら間違いなく心配されて、前ベルが一人で無茶した時のように泣かれてしまう。

 なので絶対に無理をするわけにはいかない。

 だからこそ、浮かれていても本当に安全な一階層でしか試す気はなかった。

 

「うん。調子に乗って【精神疲労(マインド・ダウン)】しないようにも気を付けるよ。一階層で少し試したらすぐに帰ってくるから、安心していいよ」

 信じてくれたスズの期待を裏切らないようにとベルは笑顔で答えて、「ありがとう」とスズの頭を撫でてあげた。

 

「うぐぬぬぬ、ならばベル君! ここから先に進みたければスズ君と同じようにボクの頭を撫でて通るんだ! ボクだけ何もないのは不公平じゃないのかい、ベル君」

「え、あ、そんな! 神様の頭を撫でるなんて、そんな恐れ多いです!」

「ボクが撫でて欲しいんだ! スズ君だけでなくベル君にも甘えて欲しいんだよっ! さあさあベル君! ボクの頭を優しく撫でておくれ!」

「それ僕が甘えるんじゃなくって神様が甘えてませんか!?」

「細かいことはいいじゃないか、ベル君。ボクはスズ君と同じように、君ともスキンシップをしたいだけなんだぜ」

 

 ヘスティアが甘え声ですり寄って来てベルの顔がいつもながら沸騰するが、最近ヘスティアもバイト時間が長いし、ベルとスズもダンジョンに潜っている時間が長くなったので寂しかったのだろう。

 ごくりと唾を飲み込み、顔を真っ赤にさせたまま恐る恐るヘスティアの頭に手をのせて、ゆっくりと頭を撫でてあげる。

 

「お~、癒されるぅ。ベル君成分が体中に染みわたって、力がみなぎってくるようだ! 気が高まってくるよ、ベル君!」

「僕にそんなよくわからない成分はありませんからっ!」

 

 さすがにこれ以上は不味い。

 何が不味いかというと撫でられて気持ちよさそうな顔をしているヘスティアの愛らしい表情もそうだが、胸の殺人兵器が体にあたって非情に不味い。

 

 慌てて離脱をして【英雄願望(アルゴノゥト)】が発動していないか意識を向けるが、発光はしていない。

 だが誤発動の条件がわからない以上油断は出来ない。

 流石のヘスティアもベルの股関が蓄力(チャージ)を開始したらドン引きしてしまうだろう。

 

 音を立てながら光流を集め輝きを増すなんて「生理現象だから仕方ない」なんて言い逃れはまず出来ない。

 絶対に一つ屋根の下狭い部屋で暮らしたくなくなる。

 少なくともベルが女性だったら身の危険を感じてしまう。

 ヘスティアは優しいのでドン引きしながらも許してくれるかもしれないが、絶対に気まずくなるに決まっていた。

 

 何よりも、そういうことに疎いスズが首を傾げながら不思議そうに凝視でもしてきたら、なんて説明してあげればいいのだろう。

 

 これは【魔法】を蓄力(チャージ)してるんだよ、と言えばいいのだろうか。

 それではただの変態だ。

 そもそもせっかく念願の【魔法】が股間から飛び出すとか嫌すぎる。

 

 浮かれていてすっかり頭から抜け落ちていたが、しっかり【魔法】が手から放たれるかの確認をするためにも一人で試し撃ちをする必要がある。

 普通手や杖から【魔法】は飛び出すものだが、【英雄願望(アルゴノゥト)】のことを考えると、これもまた油断できない。

 

 【ファイアボルト】と叫んだ瞬間、股間から【魔法】が飛び出したら格好がつかないどころの騒ぎではない。

 リリにもスズにも幻滅されること間違いなしだ。

 

「本当に初心だなぁ、君は。真っ赤にさせちゃって可愛いぞ、ベル君」

「からかわないでくださいっ!」

 今後【魔法】を人前で使えるかどうかを早く確かめなければならないので、てきぱきと探索の身支度を整えて、久々にバックパックを背負う。

 

「いってらっしゃい、ベル君。夜道も危ないから気を付けておくれよ」

「いってらっしゃい、ベル。少し試したらすぐに戻ってくるんだよ?」

「いってきます、神様、スズ。すぐに戻りますから安心してください」

 それでも、笑顔で見送られるのに対して、自然と気持ちは落ち着いて、いつも通り笑顔で「いってきます」をいうことは出来た。

 

 新しい【魔法】がしっかりこの日常を守ってくれるものだと、ベルは信じたいところだった。

 

 

§

 

 

 ダンジョンの一階層に潜ってすぐに、ゴブリン一匹がベルに気付かずに背中を向けていて、いきなり的にするはちょうどいい状況に遭遇した。

 

 ベルは右の手のひらをゴブリンの背中に向け、手から飛び出ますようにと祈りながら呪文名を口にする。

 

「【ファイアボルト】!」

 

 するとしっかり右手から、緋色の閃光がゴブリンに炸裂して爆発した。

 冒険者として鍛え上げられた視覚がぎりぎり、その光がジグザグと不規則な線上を描きながら目標に向かって行く稲妻状の炎だったことを確認できた。

 雷炎に呑まれたゴブリンは全身を黒焦げにし、白目を剥いて絶命している。

 

「よかったあああああああああああああああああああああああああああああああああっ!!」

 

 威力はスズが最初に放った【ソル】以上で精密性は【ソルガ】並、発動は一瞬、速度は高速、誰よりも早いベルだけの【炎魔法】が、無事自分の右手から発射されたことに歓喜の声をあげる。

 

 だが油断は出来ない。

 気のゆるみから変なところから【ファイアボルト】が飛び出してしまうかもしれない。

 次の獲物を探し、見つけたゴブリン二匹の内、一匹目を左手から放つ【ファイアボルト】で仕留め、二匹目は、アイズに「【魔法】も使えるなんて素敵」と言われて寄り添われる、まさに思春期全開な妄想を脳内で繰り広げながら両手を迫りくるゴブリンに向けて力の限りに叫ぶ。

 

「【ファイアボルトォォォォォォォォォォォ】ッ!!」

 

 しっかり両手の間から出てくれた。

 【英雄願望(アルゴノゥト)】が勝手に発動されなかったので何とも言えないが、戦闘中に不意にドキドキするような状況に陥っても問題なく使えそうである。

 

 ベルは嬉しさのあまり、思わずガッツポーズをしながら「しゃあああああああああああああああっ!!」と再び歓喜の声をり上げた。

 

 その声に釣られてまたゴブリンが走ってきたので、その突撃を練習もかねて、わざわざ『ワイヤーフック』を天井に打ち込み引き寄せることで真上にかわす。

 

「【ファイアボルト】!」

 

 攻撃を空振りしたゴブリンに向かって真上から即【ファイアボルト】を放ち、またゴブリンの焼死体が増えた。

 壁や天井に張り付いたまま遠距離攻撃を即座に行えるので【速攻魔法】と『ワイヤーフック』の相性は抜群だ。

 

 ミノタウロスとの戦闘になった時、上手く三次元戦闘を駆使することで背中に張り付き、ヘスティアナイフを突き立てながら体内に【ファイアボルト】を連発すればもしかしたら倒せるのではないかと期待してしまうが、LV.2にカテゴリーされるミノタウロスがそんな簡単な方法で倒せるのなら、3階層でミノタウロスに襲われた時、スクハとの連携で倒せていた筈だ。

 

 浮かれすぎて慢心するところだったと、慌てて馬鹿な考えを振り払う。

 今のところ四発【ファイアボルト】を撃っているが精神力(マインド)の疲労は今のところ感じられない。

 燃費もいいのか、それとも【魔法】に慣れていなくて疲労の感覚が掴めていないだけなのか、まだはっきりわからない。

 『ワイヤーフック』を強引に天井から引き抜いて地面に下りてから、気持ちを落ち着けるために一度ベルは深呼吸をした。

 

 

 心を落ち着けると何となくだが、後10発は【ファイアボルト】を撃てそうだと思えた。

 

 

 直感的なものだが、精神力(マインド)というくらいなのだからその直感を信じるべきだろう。

 問題なのはこの後どうするかだ。

 【ファイアボルト】がどういう効果なのかは十分に確認できているが、精神力《マインド》を余らせたまま眠るのももったいない。

 だからベルは、一階層をぐるりと回る程度なら大丈夫だろう、とゴブリンの焼死体から魔石を回収してから、後八発くらい撃ってから帰ろうと、新たな怪物(モンスター)を求めて一階層を徘徊し始めた。

 

 

 しかし、先ほどの戦闘から全くゴブリンともコボルトとも遭遇しない。

 そのまま怪物(モンスター)と一切遭遇しないまま二階層の入口まで来てしまった。

 

 怪物(モンスター)が少ない一階層とはいえ、こんなに怪物(モンスター)と遭遇しなかったことなんて今までない。

 こんなにダンジョンが静かだったのは『3階層でミノタウロスに遭遇した時』しかなかった。

 

 ベルから嫌な汗が垂れる。

 ベルの本能が今すぐ逃げろと警告を鳴らす。

 ベルの呼吸音と激しく波打つ心音以外静まり返ったダンジョン内で、何か別の音がした。

 

 

 

 

 ひちゃり。

 

 

 

 

 雫が地面に垂れる音だった。

 あまりに音が近く感じてしまったため、自分の汗が地面に滴り落ちる音かと思ったが、音はベルの後ろから、ベルがやって来た道から徐々に近づいてくるのを感じたとり、ベルの背筋が凍り付く。

 

 

 

 

 ひちゃり。ぴちゃり。

 

 

 

 

 ありえない、下の階層から来るならともかく、既にバベルの入口手前まで、そんな脅威が侵入しているなんて認めたくない。

 そんなことが起これば、駆け出し冒険者が蹂躙されて、しばらく下級冒険者はダンジョンの出入りが禁止になるはずだ。

 夜でも強制任務(ミッション)が発令されてもっと冒険者が溢れ返っているはずだ。

 

 それでも現実逃避をしている訳にはいかない。

 生き残るための最善を尽くすために、まず相手がどんな怪物(モンスター)なのかを確認するためにベルは後ろを振り向く。

 

 

 

 

 そこには漆黒の獣がいた。

 

 

 

 

 ウォーシャドウのように影を思わせる黒さを持つ、獣がゆっくりと唾液を垂らしながら近づき、暗闇に浮かぶ真紅の瞳が真っ直ぐベルのことを捕えている。

 

 体長は2M以上で引き締まった筋肉を持つ、二足歩行でずっしりと大地を踏みしめて歩く漆黒の獣が、ベルに向かって唸り声を上げている。

 

 見たことのない怪物(モンスター)だ。

 決してコボルトとは呼べないナニかが目の前にいる。

 これがリリが話していた『漆黒のコボルト』だとしたら、一体どう見間違えたらこんな化け物をコボルトだと勘違いしてしまうのだろうか。

 

 それとも魔石を取り込みすぎた怪物(モンスター)は見た目まで変貌してしまうものなのだろうか。

 そうだとしたら詐欺にも程がある。

 まだ別の新種の怪物(モンスター)が上層、それも一階層までやってきてしまったと言った方が説得力があった。

 

 

 

 

『ミ゛ヴゥ゛ア゛ケ゛ェ゛ェ゛ク゛ェ゛タ゛ァ゛ア゛ア゛ア゛ァ゛』

 

 

 

 

 甲高く響き渡る『咆哮(ハウル)』がベルの耳に激痛を走らせ、脳を揺さぶってくる。

 相手が『漆黒のコボルト』だとしても、そうでない未知の怪物(モンスター)だとしても、逃げなければ殺されるのは間違いない。

 

 ミノタウロスの時と同じで、戦っても無駄だと本能が警告を鳴らし続けている。

 横を駆け抜けたり、『ワイヤーフック』で上をすり抜けて出口を目指すのはおそらく無理だ。

 

 それが出来るなら、一度下へ逃げて相手の能力を見定めてからでも遅くはない。

 少なくともこれが『漆黒のコボルトだったもの』だとしたら、他の怪物(モンスター)を囮に使うことが出来るし、怪物(モンスター)のいる下へ逃げた方がまだ逃げられる確率はある。

 違う怪物(モンスター)でも運よく中層や上層から帰る途中の冒険者に出会い助けを求められるかもしれない。

 

 ベルの手持ちにある魔石の欠片はゴブリンから採取した4個のみ。自分の力だけではどうやっても離脱は不可能だ。

 そう思ったベルが二階層に向かって全力で駆けると、漆黒の獣もそれと同時に駆けだす。

 

 ベルの敏捷は既にAに入っているにもかかわらず、漆黒の獣の方が圧倒的に早い。

 これで少なくとも相手はLV.2以上にカテゴリされている怪物(モンスター)であることはほぼ確定だ。

 飛び降りるように階段を駆け下りたにも関わらず、もう既に漆黒の獣はベルの真後ろまで迫っていた。

 

 慌てて『ワイヤーフック』を天井に打ち込んで離脱しながらもなけなしの魔石の欠片の入ったバックパックを脱ぎ捨てるが、バックパックが地面に落ちて散らばる魔石の欠片なんて見向きもせずに、地面を一蹴りするだけでベルが張り付く天井に直進してきた。

 

 慌ててフックを引き抜き壁に打ち込んで退避するが、漆黒の獣は天井を一蹴りして、生身の体だけで『ワイヤーフック』の三次元起動にぴったりとついて来ている。

 いや、確実に相手の方が早く、この方法では確実に追いつかれる。

 

「【ファイアボルト】!」

 

 せめて牽制になればと『ワイヤーフック』で移動しながら放った雷炎は、真っ直ぐ突撃してくる漆黒の獣に体を軽く捻られるだけでかわされてしまい、行動の妨害にすらならない。

 

 後二手で確実に追いつかれ、ベルは無残にも漆黒の獣に引き裂かれることだろう。

 

 それでもベルは諦めず、無駄だとわかっていても、スズに教えてもらった受け流し技術で、相手の突進力を利用して上手く受け流して、逃走劇を仕切り直しにしようと『ワイヤーフック』で逃げるのを止めて、天井を蹴って地面に降り立ち、獣と対峙する。

 

 体勢を立て直すのも間に合い、真っ直ぐ伸びてくる獣の右腕の力を利用して、通路の奥へ進路を勝手に突撃してもらおうとした。

 

 しかしそんなベルの行動に反応して、なんと獣は右手をひっこめ、受け流しに失敗して無防備になったベルの体を左手で掴み、そのまま地面に押し倒してきたのだ。

 

 獣なのに、本能のまま突撃する訳ではなく、相手の行動に合わせて臨機応変にその高い身体能力を駆使して戦う。

 勝てるどころか、逃げられる訳もない。

 常に異常事態(イレギュラー)を想定していたとしても、一階層にこんな怪物(モンスター)がいていい訳がない。

 

 漆黒の獣の唾液が垂れ、ベルの頬をべちょりと濡らす。

 これから生きたまま食われるのだろうか。

 自分が死んだらヘスティアもスズも悲しむから死にたくなかった。

 一階層だから大丈夫だと思っていた少し前の自分をぶん殴って、引きずってでもホームに連れて帰りたかった。

 

 いや、ヘスティアの言うことを聞かずに今日試し撃ちしようだなんて言い出した時にぶん殴ってやりたかった。

 【魔法】に浮かれた結果、自分勝手に死んで女の子を、大切な人達を泣かせてんじゃねぇと男らしくぶん殴ってやりたかった。

 

 

 後悔しても何もかもが遅い。

 遅いはずなのに、痛みはなかった。

 もうとっくに爪で引き裂かれるなり、そのまま噛みつかれるなり、いくらでもベルを殺せる状況なのに、漆黒の獣はふんふんと鼻を鳴らしてベルの臭いを嗅ぎ、頭を上げては首を傾げている。

 そんなよくわからない行動を既に三回は繰り返していた。

 

 

 

 

『チ゛ヴゥ゛ア゛グ゛ァ゛ェ゛ク゛ゥ゛』

 

 

 

 

 静かに獣が鳴いた。

 まるで何かを訪ねるかのように、答えを待っているかのように、ベルのことを地面に押し倒したまま見つめている。

 

 今まで出会って来た怪物(モンスター)とは違い、明らかに何らかの意志を感じられた。

 漆黒の獣は今すぐにベルに襲い掛かる様子はないが、ぽたぽたと涎を垂らし、ぐるぐると腹を鳴らせている状況で、漆黒の獣が去ってくれるまで待つなんてことは出来ない。

 漆黒の獣が何を迷っているかはわからないが、このチャンスを逃したらきっとベルは生きては帰れないだろう。

 

 ベルは一か八か【英雄願望(アルゴノゥト)】の蓄力(チャージ)を開始した。

 リンリンと鈴の鳴るような音に漆黒の獣は首を傾げて回りを見回している。

 音の出先である右手を見つけ、ふんふんと臭いを嗅いだ後、また首を傾げる。

 

 鈴の音色のような音が気に入ったのか、光流が気に入ったのか、漆黒の獣は光流が集まるベルの右手を食い入るように見つめている。

 攻撃の意志は見られない。

 

 

 獣のような本能で怯えてくれなくて良かった。

 意思疎通が出来たかもしれないのにごめんねと思いながら、ベルは右手をかざす。

 

 

 漆黒の獣がその手の臭いをまた嗅いだ後、ペロリと一回だけベルの手を舐める。

 撃たなくてもすむかもしれないという迷いを振り切り、ヘスティアとスズを悲しませたくない一心で力一杯、文字通りこの一撃に全てを掛けて叫ぶ。

 

 

 

 

「【ファイアボルトォォォォオォォッ】!!」

 

 

 

 

 【英雄願望(アルゴノゥト)】最大蓄力(チャージ)時間である三分間溜めに溜めて、精神力(マインド)を全て使い切って放った雷炎がベルの真上の天井を大きくえぐり抜いた。

 

 天井の破片の落下も許さない圧倒的な火力。

 危なく二階層の天井を貫くところだった深い窪みは、LVの枠を超えた英雄の一撃の威力を物語っていた。

 

 

 精神疲労(マインド・ダウン)して意識が遠ざかる中、【ファイアボルト】に寸前のところで気付いて、左腕を消し飛ばされただけですんだ漆黒の獣の『咆哮(ハウル)』が響く。

 

 このまま意識を手放したら間違いなく漆黒の獣に殺されるのがわかっているのに、体がピクリとも動いてくれなかった。

 ふと消えゆくベルの意識が『咆哮(ハウル)』以外の轟音を拾った。

 

 

 

 

 

 

 ―――――――――そしてまた、温かくも嵐のように激しい風を感じる――――――――――

 

 

 

 

 

 

 ベルが恋い焦がれるアイズ・ヴァレンシュタインが、ベルにまたがる漆黒の獣の胸に埋め込まれた魔石を一撃で貫いた瞬間に、ベルは意識を手放すのだった。

 

 




『あまりにも…あっけなさ…すぎるっ!』

少し長くなりすぎたので前編、後篇に分割しました。
もしかしたら中編が追加されるかもしれません。

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