ギールヴィンク湾の中央で、停止した状態で艦隊は戦列を構築している。
もちろん通常艦艇ではない、ここにいる百隻余り全てが『艦娘』だ。
士官学校卒業記念の懐中時計は、そろそろ十三時を指そうというところだ、現在は洋上で最後の装具点検を行っている。
『天津風』は、零式徹甲弾、三式弾、曳光弾の段数を確認し弾倉全てに異常なく弾が装填されていることを確認し、最後に、空に向かって全ての武装を空撃ちして、点検を終了した。
先遣隊、第一戦列は第二水雷戦隊を骨幹とし、輪形陣を形成して第一水雷戦隊が守りを固める、支援艦隊、第二戦列には、秋月型駆逐艦を筆頭に、三個水雷戦隊が主力である戦艦空母群を取り囲む巡洋艦戦隊をさらに囲み、三重の守りで戦艦空母群を支援に専念させる。
「“時計を統一する、残り20秒で十三時を設定する、今後はここで統一した時程で行動されたい。残り12秒”」
提督が時間の統一を呼びかける。
全員が内ポケットから懐中時計を取り出して、十三時に針を合わせて待ち構える。
「“3…2…1…、今!”」
「作戦艦隊長、神通が達する。これより南方海域強襲偵察作戦を開始します。艦隊、前へ」
ゆっくりと前傾姿勢になり、滑らかに波を切って、連合艦隊は抜錨した。
10ノットから20ノットへ徐々に加速し、艦隊全体が湾外にでたのは抜錨から一時間後の事だった。
目指すは濠大陸上にある旧地図海域の中心、一九一二年時点まで珊瑚海と名付けられていた海域である。
方向的にはギールヴィンク湾から南東へ下る航路を今回は採用してる、もちろん、直接南下する航路もあった“新”島
を迂回して、濠大陸とこの島を隔てるアンスレイヴ海を横断する航路があり、十数年前までこの航路は生きていた、しかし年を重ねるに従い、濠大陸間との連絡輸送艦隊の損害は大きくなり、公式な記録での最後の渡航では、二十九隻の高速武装輸送艦と一六隻の駆逐艦は全て渡りきることが出来なかった。
数字だけなら、敵の中枢艦隊が存在しているであろう珊瑚海と、アンスレイヴ海とでは大差ない、さらに今回は敵の三司柱の最後の一隻である戦艦水鬼ないし戦艦棲鬼の打倒にある、迂回していてはいつまでたってもこの戦に終止符は打てない。
至るまでの工程は簪年艦隊の目標と、陸海軍の目標を統合して五つ、作戦段階甲、旧地図海域までも走破、乙、ビスマルク海峡突入、丙、珊瑚海攻略、丁、濠大陸偵察、戊、濠大陸への陸海軍上陸である。
この作戦立案については、段階を追い、最終的には御前会議にまで及ぶ、提督の言う通り、この作戦は最早熟す所ばかりか、この作り直された世界をも壊すほど強力になり果てた、止めるには人ならざる力に頼るほか無い、結論として、この作戦を丙の段階で停止させれば、もちろん陸海軍の主力は侵出できなくなるし、軍首脳部も、三司柱の攻略に傾力せざるを得なくなる、そこで提督達の交渉が始まる、ファクターは世界の存亡、これほど強いカードは無い。
提督はここまで手の内を明かした、ここから先は提督本人も予想もしない展開になる可能性もある、「後はどうにかなる」と提督は楽観的だ。
確かに、他にも助力として働くベクトルは世界中にある、筆頭に合衆国の反発、それに起因する欧州との国交断絶も最悪考えられるはずだ、そこまでくれば、簪年艦隊無しでは議論的にも戦略的にも敗北は必須だろう、そうなればこっちのものだと提督は考えているはずだ。
考え込んでいる内に、艦隊の最前列はビスマルク海の300キロ手前に差し掛かっていた。
前方を行く我々一水戦と二水戦の旗艦『阿武隈』『神通』の手には、それぞれ旧地図と新海図が握られている、頼れる資料と言ったらこの二つとコンパスくらいだろう。
直径1キロの輪形陣は、肉眼で半径3キロ、携帯電探で44キロを索敵可能とし、後方でそれを補助する主力艦隊の偵察機はそれを一気に数百~数千キロに伸ばす、しかしこれでも敵を完全に回避するには不可能だ。
巡航速度20ノットで、しかも二十四時間体制で偵察機を飛ばしていても、一個戦隊が発見される事案もある。
だが今はこの容を信じて進むしかない。
「“前方50キロ、敵影を認めず。現時刻1400(ヒトヨンマルマル)”」
戦列最前列を行く『阿武隈』が十分おきに定時連絡を入れる。
そして、少しづつ艦隊は、ここ十数年における不可知海域に潜入した。
「神通、アドミラルティ諸島が見えます」
『天津風』が、前方20キロに迫るアドミラルティ諸島の小さな島影を単眼鏡で確認した。
「阿武隈、通過地点の武装破棄地点(コンバットジェットソンポイント)の天候状況は」
「“現在、気圧1002ミリバール、天候曇、波高3メートルから4メートル。詳細調査は進行中”」
「先遣哨戒隊は?」
艦隊通信管制手の『時津風』は少し答えに行き詰った。
「“再三呼びかけていますが、現在連絡不能、また、受信側が電波を受け取ったかも確認できない状況です”」
「まずいですね…」
迫る秒針に『神通』は焦りを覚えていた。
この懸念には、そもそも敵である深海棲艦に“作戦”や“戦術”の概念があるかどうかにまで掘り下げられる。
旧武装数隻の哨戒隊など敵からしたら数にも入らないはず、しかし今回は悠長に連絡する時間がある、しかしそもそも、今回哨戒隊が会敵した敵の勢力とは如何程のものなのか、もしかしたら未確認の敵深海棲艦隊か、逸れの敵艦か、それすらもはっきりしない。
もし前者なら、我々は炙り出されたことになる、考えすぎかもしれないが、戦場においては全ての可能性を懸念せざるを得ない、戦場(ここ)では誰しもそうなる。
「旧地図によれば、そろそろ……」
『天津風』の持つ地図には、“原油注意”と赤字で示されている、他にも色々と追記されてるが如何せん写しの地図なのでぼやけてハッキリしない、だがその正体ももうじき分かるだろう。
「あれは…!」
しばらくすると、海が赤褐色に染まっている部分が確認できた。
「“前方三時方向、側面十時方向に油らしき浮遊物を確認”」
『初風』は最大望遠の双眼鏡を持つ、それも持って観測すればこの海域がどのようなモノか一目瞭然だろう。
「これが、全て油なの?」
『神通』中心とする艦隊は、視界全てが赤褐色に酸化した原油の漂う海に突入してしまった。
個体とゲル状の油が浮遊する海は、波間に焦茶色の汚れた泡を立てる、進行に問題はないが気持ちのいいものではない。
そして、この油はここ最近のものではない、石油、特に精製されていない原油の完全酸化には数百年以上かかる、しかも、ここ周辺の油田は数千年間の原油の地中貯蔵が否定されていた、これはいわゆる“旧文明”の産物なのだろうか。
未知と不可知に、『天津風』は不自然に好奇心を高ぶらせている、未だ現世界が足を踏み入れぬ海への進行は、まさに彼女の知的欲望を満たすものだろう、怖いもの見たさ、とは少し違う感情が彼女の中で渦巻いている。
「予定に変更はありません、予定通り旧ロレンガウに寄港します」
日が落ちる前に、何とか陸地にありつかなければならない、夜間の無灯火航行はあまりに無謀過ぎる。
原油の海を文字通り掻き分け、艦隊は十八時前にアドミラルティ諸島の中心にあるマヌス島に接近した。
マヌス島は、元は熱帯雨林であったことがうかがえるが、今は僅かな木と禿げ上がった岩肌を晒す島に劣化している、そして島には建物らしい建物は確認できず、わずかに残る休火山山頂と麓の電波塔らしきものが確認できるだけだ。
だが、何もないという安心感がここにはある。
「島への完全上陸は出来るだけ控えるよう」
流れ着いたかのように放置されたタンカー群の合間を縫って、錆色に染まった海岸に迫る。
朽ちたタンカーのマストに軍艦旗を掲げて、中立地であることを示し一端の仮陣地とした。
このタンカーはもはや船体は無く、ブリッジと煙突、そしてその間のこのマストしかない。
「このタンカーはいったいなんですか」
『天津風』取り囲む300メートル級のタンカー群は、所属、国籍、年代すらもバラバラで、このタンカーのように跡形も無く朽果てているものや、未だに塗装が若干残っているものもあるが、決まって燃料が満タンで、どす黒い虹を捲きながら一面を面妖に仕立てている。
「なんとなく察しつかない?」
『時津風』は挑戦的に『天津風』を煽り倒す。
「つかないわよ!」
事前知識としては、旧地図の島々には年代不明の“廃棄物”が流れ着いているとのこと、もしや旧文明の遺産ではと提督は空想に馳せて最後に一言そう付け加えた。
「司令部とは、連絡がついています。本隊は日を待たずに出発してここに寄港するようです」
大層なヘッドセットをかけている『神通』は、この状況に全く興味を示さないようだ。
「いままで尻込みしてたのが嘘のようです」
愚痴をこぼして、『神通』はまた交信を続けた。
十九時前に、主力艦隊が旧ロレンガウに入る、一気に辺りは賑やかになるが会話の中に無駄な言葉は無い。
主力艦隊の『武蔵』は、大層な機械と睨み合って、各分隊の旗艦達と話している。
やれ、海域汚染がどうの、大気汚染、放射線がどうの話をしているが、予備知識なしではこの話に全く食い付ける気がしない、詳しい話は提督から聞けばいいと、優しく『武蔵』は諭してくれたが、せっかちな性分なので『天津風』は納得いかない。
「提督は来ないんですか?」
「来て欲しいんですか?」
『神通』は得意げに『天津風』の質問を茶化す、勿論返事はNOだったが陸海の主力が来るのだから提督が来る可能性も十分あったと『天津風』は推測していた。
軽食と仮眠の後二十三時に十六駆に哨戒シフトが回ってくる、前のシフトだった十八駆から申送を受けて哨戒につく。
当り一面黒尽くしで、影か海面か空かも見分けがつかない程だ、頼りは電探と勘のみとなる。
電探本体は背嚢に入れ込みスコープだけ配線を伸ばして手元に持っておく。
スコープは丸く方眼模様が刻まれていて、電波が発射された時の電波の波と、跳ね返ってきた時の波の形、その二つの波の間隔や大きさを見て、敵の距離、大きさを識別するが、駆逐艦(私)の持つ電探は小型の二十二号電探は精度と耐久性、信頼性がイマイチで、ぱっとしない。
そして、ここら辺は大小様々な島が多く、艦影と島影の識別をするのがとてつもなく困難な所業だ。
自分の足元すら見えない状況では、この頼りない電探と見方からの入電が頼りだ。
日付変更を控え、『天津風』は全員異常がないかを確かめる。
「皆、大丈夫?」
咽喉マイクの発信ボタンを長押しして全員に呼びかけた、三人分の返答を確認して安心して日付を超えた。
島嶼の中なので、波の音も静かで、灌漑に浸かるには十分な環境だが、いつどこから砲弾が飛んでくるかわからない状況ではそれどころではない。
士官学校での哨戒訓練の寝ずの番ではよく寝落ちして『時津風』に悪戯されていたが、本番である今は緊張の糸がは全く途切れない。
ここ近海の今までの状況の詳細は不明だが、50キロ先で先遣哨戒隊が哨戒地域を敷いている。
一水戦が、現在先行して島伝いに状況偵察に向かっているが、頼りがこの電探とコンパスでは時間がかかっても仕方ない、
今早朝三時までには到着する予定だが、入電から二日間弱、先遣哨戒隊が全滅している可能性もある、それだけは避けたいと『神通』は一水戦を向かわせたのだが、無駄な戦闘は避けるという条件付きなので時間がかかることも事実である、なんとも歯痒い事だ。
そして、先遣哨戒隊長の四六号哨戒艇、もとい駆逐艦『夕顔』は、『神通』と面識があるらしく個人的に少し思い入れがあるようだ、個人的な感情を持ち込まない『神通』の事だから関係は無いだろうが……。
「“第一水雷戦隊旗艦より情報提供、全員に達する”」
急な『神通』からの入電に驚きながらも、音が外に漏れないよう音量を下げた。
「“阿武隈が入電、四十六艇よりサクラ・サクラ、援助ノ必要ナシ。繰り返す―――”」
この知らせに驚くものはいなかった、多分全員分かっていた、もちろん『天津風』も。
サクラ・サクラはもともと陸軍の電報らしい、だが決まってこの南海で部隊が全滅したときに用いられる、旗を捨て最後の一人に至るまで最期まで戦い散ったという意味が込められている。
この話を聞いた時、『天津風』は“綺麗”な話とは思った、軍人らしい潔さ、短い電文に込められた真意、だがそこまで過去になぞる必要があるのだろうか?。
「“一水戦が帰投次第、準備を整え出発します。…………残念です”」
長い期間お待たせして申し訳ありません。
今後は長く投稿間隔が空いた場合は2~3章まとめて投稿させていただくことになると思います。
今後ともよろしくお願いします!