天(そら)別つ風   作:Ventisca

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大変お待たせしました。

前回の章を少し反省し、今後をどうしようかと一人ブリーフィングをしていました。
今回は日常編的な感じです。



第弐拾壱章 官舎での一日

 「またせてすまない、一度官舎に戻ってくれ」

トラクシオンで長時間待たせていた運転手の陸軍下士官に軽く謝罪した後、提督は早口に目的地を言った。

 「了解しました」

陸軍下士官は二つ返事し、エンジンを回す。

とりあえず、首都行きが決まったので、着替えと荷物を軽く纏めるために官舎にもどることにした。

少なくとも今日一日は、半分実家のような官舎の和館でゆっくりできる。

 「わざわざ首都まで行ってどうするの?」

『天津風』は車のドアを丁寧に閉めて座席に腰掛ける。

 「何をするにも、この国では首都でやるのが一番手っ取り早いんだよ。わざわざ出向く事は無いが、せっかくだからね」

周りを確認すると、車はようやく動き出した。

総督のほうには『明石』から連絡が行っているはずだ。

書庫を出た後、『明石』のオフィスから総督宛に電話を入れたところ、出たのは『敷島』だったが、総督も異存はないでしょう、と出発を翌日の夜行列車にずらしてくれた。

 「せっかくだからって、あなたは首都には行ったことはないの?」

何食わぬ顔で車窓を眺めながら提督に尋ねたが、『天津風』も首都に行く事には嬉しい反面もある、旅行感覚で行けるならの話しだが。

『天津風』は自分のこういうところに自分の子供らしさを感じ、自分が作られたものだということを疑うほどである。

素直に喜ばないところも自分らしさと言ってもいいかもしれない。

そして、こんなことを考えるのも自分らしい所だろう。

 「将官への任命式と、提督への任命式の時に首相官邸と宮内庁官舎を訪れた時以来だ。何年前だったかな……」

ふとした感慨に耽る『天津風』を横目に、提督は素直に国内での遠出を楽しみにしているようだ。

案外、提督のほうが子供らしいのかもしれない。

だが、そこを押し隠そうとするのが軍人としての提督の側面でもある。

そして、明日の旅路を素直に喜べない理由が車窓にもあった。

走る海沿いに建物らしい建物はなく、朽ち果てつつある廃屋や古錆びた監視塔が所々に立っているだけだ。

こういうところで、いちいち戦争中の世界に引き戻されるのが『天津風』は心底嫌いだった。

何もしていないときくらい、こんなことは忘れさせてほしいものだ。

海沿いから市街地に向うと、電気ではなく蒸気で動く路面電車が徘徊する大通りに出た。

木の電柱には、市街地の中央付近にも関わらず電線は疎らで、外灯らしき電灯も淋しい。

 「市街地に電気は普及してないの?」

『天津風』は単純な興味本位で尋ねた。

 「君たちの居る施設や軍事関係に電気は全てまわされているんだ。そうすると民間に回る電気なんで微々たる物だよ」

文字通り海洋封鎖された現状では、国内生産資源が雑多な石炭のこの国では電力を国内需要にあわせて供給する事は難しい。

海洋封鎖の次期が、ちょうど石炭燃料から石油燃料にシフトしようとしていた次期だからなおのことだ。

その石炭も、絶頂期を迎えていた当時の需要に追い着かず、今は少し先の将来を見越して採掘制限がなされている。

彼女の知識にはそうある。

だが、普段電気に事欠かなかったため、市街地がこんな状況とは想像もつかなかった。

これでは五十年前とほぼ同じだろう。

 緩やかな坂を登り続け、行きと同じ所要時間で官舎に帰ってきた。

昼の高い日差しが木陰の隙間に差し込む中、送ってくれた陸軍下士官に礼を言い官舎へ歩いた。

春の終わりと初夏の始まりを予感させるような温度に、坂道を登りきる頃には『天津風』の喉元に薄らと汗が浮かんでいた。

 「ねえ、お風呂入りたいんだけど?」

入り口を潜るなり『天津風』が注文した。

 「使えるか知らないが一応和館に風呂はある、確かめようか?」

提督は第二種軍装の上着を脱ぎ、ワイシャツの袖と首元を緩める。

 「いいえ、それくらい自分でやるわ。あなたはゆっくりしててちょうだい」

 「今まで以上にやさしくなったな。気のせいか?」

提督は適当な椅子に腰掛けて言った。

 「何よ。あんなの見させられて心の持ちようが変わらないわけないでしょう」

 「君のその様子じゃあ、全く意に介していないようだったからな。君も立派な人間らしさ溢れる娘で安心したよ」

 「変な言い方よして」

上着を中央広間のテーブルに置くと、提督に言われたとおりの順路で風呂に向った。

途中、和館の客間の桐箪笥から、適当に体を拭くものを取って行って良いといわれたが、棚から出てくるもの豪勢なものばかりで使う気が起きなかった。

結局、至難の末に一番地味な蓮の刺繍の施してある綿のタオルらしきもので我慢した。

だがこれがタオルなのか『天津風』には自信がない。

板張りの廊下を北に下ると、中庭に面した縁側に出て、その突き当たりに提督の言うとおり両開きの襖が待ち受けていた。

中には居ると、右には和風の竹篭の置いてある棚、左には陶器製の洋風の鏡つきの洗面台が設置されている。

洗面台の下にあるバルブを捻るとガスが通り、温水が出るようになるらしい。

いちいち確認する余裕もなく、乱雑に服を脱ぎ風呂場へ飛び込んだ。

二つある銅製の蛇口を思い切り捻り、お湯と水を一気に浴槽へ流し込む。

使えるかどうか分からないと言っていたが、檜の立派な浴槽があり、擦りガラス越しには綺麗な中庭がうっすら見えた。

温度もみることはなく、体を流して浴槽に入った。

まだ胸元より下しかお湯が貯まっていないが、浴槽に浸かるのは何ヶ月ぶりだったのでそれだけで疲れが取れるような気がした。

 「ふう~」

長い溜息をつき、1メートル半ほどある大きな浴槽に手足を思いっきり広げる。

斜め開きの窓を開けて、やや湯気が篭って暑かった風呂場の温度調節を行った。

外の屋影から涼しい風が吹き込み、熱めのお湯に浸かる『天津風』の温度を拭い去る。

肩より少し下あたりでお湯と水を止めて、風呂場は静寂に包まれた。

ここでやっと、『天津風』の緊張の糸が解れる。

今まで見た、聞いた、学んだ事を少し整理し、浴槽に頭まで浸かった。

暫し息を止め、勢いよく立ち上がり、今までの事との下り合いをつける。

 「よしっ、がんばろ」

手早く『天津風』は自慢の長髪を手入れし、持ってきたタオルらしきもので頭と体を拭いて風呂場から出る。

入り口には、なぜか『天津風』の着替えの入ったカバンが置いてあった。

 「げ、しまった」

焦って少し混乱していた頭を落ち着かせるために入浴を所望したが、焦りで着替えまで忘れていたようだった。

提督が気を利かせてカバンごと持って来てくれていたが、提督が気付かなかった場合を考えると顔が真っ赤になりそうだ。

だが、自分でも腑に落ちないようなことだ。

いくら焦っていたとはいえ、こんな日常的なことを忘れるなんて自分としては考えられない。

それでも、気を利かせてくれた提督に心底感謝した。

その後持参していたタオルで髪から水気を取り、後ろで軽く纏めてポニーテールのような髪型にして風呂から出た。

足早に、歩いてきた廊下を戻り、提督の待つ中央広間へ向った。

戻ると、提督は帰りがけの会社員のような格好で座って団扇を扇いでいた。

 「よし、あがったか」

提督は『天津風』が帰ってきたことを確認すると、すぐに曲げていた長袖を戻し袖ボタンを閉めた。

やはり軍人として、人前ではしっかりした服装をする癖があるらしく、ついでに上着まで着ようとしていたが、さすがにこの温度では暑い。

 「悪いわね、事あるごとにお風呂なんて」

『天津風』は軍人である前に一人の“女の子”だが、時と場合、立場を考えれば風呂など入っている暇は無い。

気を利かせて、食事でも作るべきだったと少し悔やんだ。

 「かまわんさ。俺の秘書艦としていつもそんな風でないと、せっかくの顔が台無しだろう」

 「まあ……、そうね」

待遇はどうあれ、今『天津風』は上士官と同じ立場にある、これくらい当たり前なのだろう。

しかし、少し思い返せば自分が只者ではないと思い知らされる、禍々しいほどに見せ付けられた真実は否定しようがない。

この、いつも清潔でありたい、という女性としての欲求も作られたものかもしれないという疑惑もある。

そのような疑問を持たずにはいられない。

だが、提督はそんなこと気にも留めていない様子だ。

 「私は、私がただの人ではないことを知ったわ。それでもあなた(提督)は、いままでと同じように接してくれるの?」

 「当然だ」

提督は即答した。

 「皆よく言うが、人は容姿から判断されてしまいがちだ。なら今の君は人以外には見えない、そうだろ?」

何とも勝手な理由だが、彼らしいと『天津風』は思った。

なにより提督の事だ、十分考えて至った回答なのだろう。

 「そう、なら私も今まで通り頑張らせてもらうわ」

 「ああ、頼むよ。すまないが昼食を作ってくれ」

 「さっそくね」

『天津風』は不機嫌な顔をして見せたが、自然と頼ってくれる事を嬉しく思った。

見た目に因らず多忙な提督を、少し前からこんなふうに手助けしたいと願っていた次第だった。

だがら、提督からのお願いは、それこそ願ってもないことだ。

奥に少し行くと、ちょっとした調理場が設けられていたが、本格的な食事を用意するのは無理そうだった。

士官学校で学んだ調理の知識から、今ここで作る事のできる最善の料理を導き出す。

材料は、パン一斤と卵、なぜかある味噌汁一式分の材料・・・。

 「なんで味噌汁とパンなのよ……」

幸い、飲み物は紅茶、緑茶、牛乳など多様だったが、ここで本格的な調理をすることは考えていないらしい。

恐らく、外部から調理したものをもってくるのが普通なのだろう。

 「提督、パンしかないけどいいかしら?」

昼にパンは随分と軽い気がするが、提督としては今は空腹で仕方がないくらいだ。

 「ああ、なんでもかまわないよ。俺も手伝おうか?」

 「いいえ、あなたはそこで座っててちょうだい」

とりあえず、パンを焼いて、卵をフライパンで転がして食事らしい食事を作ってみた。

バターはなぜか大量にあったので、スプーンで代用してパンに塗ってスクランブルエッグと一緒に白い皿に盛った。

飲み物はとりあえず牛乳を1リットルビンのまま保冷庫から取り出した。

和館へと続く廊下の入り口に、丁度食事会を開くためのスペースと大きな長机があり、一先ずそこにもって行った。

 「ここにあるものでまともな食事が作れるとは思わなかったよ」

提督は少し感心する。

待ち侘びたように提督は中央広間からこちらにやって来た。

ひいてあるナプキンなど無視して、『天津風』は一番端の椅子の前に皿を並べる。

よく分からないがとりあえずあった材料で作れるものは全部作ったので、場違いな味噌汁が中央で湯気をあげている。

中身は豆腐と油揚げ、そして長ネギだ。

 「和洋の融合がここにあるな」

提督が笑って言った。

 「文句があるなら食べなくていいわよ」

 「いいや、十分ありがたい。いただくよ」

最初に味噌汁を飲み、一緒にトーストと卵、牛乳を飲むことで味を統合させたが、食べ合わせはあまりよくない。

作った立場として『天津風』の立場は複雑だったが、提督は満足そうに食べているので安心した。

 「夜は安心してくれ、多分敷島がもどってきて立派な食事を馳走してくれる」

提督はトーストの粉を掃いながら言った。

 「もっとまともな材料があったら良い物作れたのに」

『天津風』は残念に思う反面、初めて他人に振舞った料理を食べてもらいうれしかった。

 「いやぁ、ここにいるときはいつも敷島が手配してくれるんだがね。まさかここで満足に食事が作れないとは思ってなかったよ」

 「知らなかったの!?」

『天津風』は立ち上がって声を張り上げた。

 「ああ、まったく」

素直に答える提督に、呆れて溜息をついて『天津風』は皿の片づけを続行した。

時刻は二時を過ぎているが、ここ周辺に人気は全くなく、物静かで良い雰囲気だ。

皿を洗い終え、『天津風』は一帯を眺める。

だが逆に、総督が長居する官舎が無防備とは考えにくかった。

それとも、ここで長居することを考えていないのか、むしろ後者のほうが納得がいく。

そんななか、提督は電話を回して『敷島』の所在を尋ねまわっていた。

彼女は秘書艦ではあるが、総督秘書艦として役回りは広い。

夜は定時までここ(官舎)に留まらなければならず、その際に連絡は全て彼女に回され、色々な部署を移動している総督の代わりに情報を集約している。

臨時や秘匿の場合だけ直接総督に連絡が行き、総督の職務の負担を減らすために常時は彼女が受話器や書類をとる。

提督はそのために戻ってくる『敷島』を探している。

 「なに熱心に電話してるの」

ちょうどそのときに『天津風』が調理場から戻ってきた。

執務室から電話線を引っ張ってきて、風通しの良い中央広間の机の上に椅子に座って黒電話を掛けていた。

口の前で人差し指を立てて、静かにするように促した。

 「―はい、はい。すまない、じゃあ彼女は鎮守府連隊区庁舎にいるんだな。了解した」

提督は音を立てないよう静かに受話器を置く。

 「十二箇所に電話してようやくどこにいるか分かったよ」

提督は胸を撫で下ろす。

 「そそっかしいわね、子供じゃないんだから帰ってくるまで待ったらどうよ」

 「ここには食事の材料がないから、今日と明日の分くらい買ってきてくれないと餓死してしまう」

 「もう…」

『天津風』は呆れた様子で提督の座る机の反対側に座った。

外からは木陰から運ばれた涼しい陽気が吹き込む、同時に端の赤いカーテンが静かに揺れている。

 「もしもし、総督官舎のものだが」

提督が受話器に向って話しかける。

 「ああ、敷島将官だ。可能であれば出してくれ」

前提条件として、艦娘の存在自体は隠されていて、高官でなければその存在自体知りえない。

だが、彼女たちは普通の軍属として名前だけはこの港のあらゆる部署にしられている。

 「“はい、敷島です”」

少し慌てた様子で『敷島』はあちらの受話器を取った。

 「ああ、その、言いにくいんだが。今夜はここ(官舎)に泊まる事になった、悪いが食事の材料を買ってきてくれないか?」

提督は用件を言い終わると受話器から耳を離した。

 「“何かと思って心配して急いで出たらそれですか!?”」

 「そりゃそうよ」

『天津風』は電話の向こうで怒鳴り声を上げる彼女に同情した。

 「本当にすまない。頼むよ敷島」

電話越しの提督は、まるで親に頼みごとをする子供のようだ。

一気に頼り甲斐がなくなり、幼く写ってしまう、少し情けない気分だ。

 「“……もう、仕方ないですね。何が良いですか?”」

『敷島』も『敷島』でまるで母親のように応対する。

 「贅沢は言わない、任せるよ」

 「“わかりました、五時までには帰るので待っていてください”」

そう言って彼女は電話を切る。

 「なんか情けないわね…」

 「ああ、全くだよ」

提督もそう言って苦笑いした。

しかし、こうでもしないと二人は『敷島』が食べる夕食を指を咥えて見ることになっていただろう。

 「本当は今日のうちに移動してまた、飛行場に戻るはずだったんだがな」

 「それはそうと、首都に行ってどうするつもりなの」

『天津風』は提督に向って座り直す。

提督も改まって腕を組んで少し考え込む。

 「幾つかやりたいこととやっておかなければならないことがある」

提督は単刀直入に切り出した。

 「まず、やりたいことは連合艦隊の再編だ。もちろん、君たちのじゃないぞ」

 「今更通常戦力に意味があるの?」

現在、海軍は海上護衛総隊を中心とする小型中型艦艇と戦時標準船で編成されているが、戦力ではなくあくまで護衛としての戦力であり、その上対深海棲艦のため多くが量産型の沈む事前提で作られている。

『天津風』の指摘どおり、深海棲艦相手なら通常艦艇の整備など今更だろう。

 「戦う相手に同じ人間も追加された以上、そうするのがいいだろう。この国は島国だ、海を渡ってやってくる敵を迎撃するのは海がうってつけだろう。」

 「で、やっておかなければならないことは?」

間髪入れずに質問する。

 「駐留している地域全体への喚起だ。今全ての陸海軍は港と資源地帯に駐留していて、その上主な戦場が海で自分たちの出番が無いときている。そんなのほほんとした連中に対人戦闘への警戒を促さないといけない」

 「まあそれは最低限の事ね」

 「だが、今陸軍があっちこっちでドンパチしてるのがどんなものなのかイマイチよく分からない。その確認も兼ねて首都に行くのさ」

 「なるほどね」

ふと『天津風』は膝を抱えた。

 「でも、あなたにそんな権限あるの?」

 「俺は中将だぞ?、それに今回は俺単騎で行くわけじゃないし。少し工夫すれば次官並の権限を出すこともできる」

 「ふうん」

関心するように『天津風』は頷いた。

それよりも、『天津風』はポケットから髪留を取り出し、いつものようなツーサイドアップに纏めた。

自分の中ではあの赤白の吹流しは公用なので、今は簡単な紙紐で結んでいる。

 「というわけで今から各部署へアポを採る」

 「手伝えって?」

 「ああ」

提督は便箋の引いてあるザラ紙と自分の万年筆をそろえてテーブルの上に差し出した。

 「今から首都で尋ねる予定の部署へ訪問の一報を入れておく。こちらが将官とはいえあちらは部署だ、個人じゃない。それに願い事があるのはこっちだからな、空いてる時間ぐらい確認して尋ねるのが流儀だろう」

 「それもそうね。それで、尋ねる部署はどれくらいなの?」

万年筆を手に取り、さっそく紙の上で構えた。

 「だいたい十個所くらいかな。それで済めばいいが、最悪盥回しにされるかもしれない。まぁそうならないためのアポだからな」

嫌気を指す『天津風』を横目に、提督もさっそくダイヤルを回した。

最初に電話したのは、首都で尋ねるもっとも大御所の『軍部情報局』だ。

 「もしもし、こちら海軍簪年艦隊極南方面司令官だ。階級は中将だ」

出たのは大尉相当官だったが、できる限り丁寧に自分の要求と部署を答えた。

その後、情報局の総裁理事に受話器が移り、「“そちらの都合の良い時間でかまわん”」と言われたのでとりあえず丁寧に礼を言い受話器を置く。

次に尋ねるべき部署は『海軍工廠局』だった、むしろこちらが提督としては本命だ。

こちらはかなり手間取り、局長の暇な時間を一日以内に作るよう下令する形になってしまった。

少し不本意だが、これも権威の使い所なのだろう。

『天津風』は、慣れない漢字を一生懸命提督に訊ねて、できるだけ丁寧に便箋に予定を並べる。

その他、『海軍参謀本部』や『水交者』、『依託学生監理局』、『外務省』の下っ端の『外務局』などなど。

些細な訪問条件から分刻みのスケジュールをたてて、B5大の紙はびっしり埋め尽くされた。

 「それでは」

提督は最後の部署との通話を終え、大きく溜息をつく。

袖を上げて腕時計を確認した。

 「そろそろ敷島が帰ってくる。ちゃんとした格好をしとかないとまた怒られるな」

机の上を手早く片付け、執務室に道具を戻してから、執務室の戸締りをした。

洋館にもうこれ以上用はないので、正面玄関や窓を閉めまわって、窓際のカーテンも帯でしっかりと纏めた。

椅子や机も並べ直し、翌日に緊急の指揮官召集があってもいいように軽く清掃した。

窓からは、西に沈み行く太陽の眩い朱色が、木々を縫って差し込んでくる。

まだ日は少し高いが、ここはもう深い夕暮れのようだった。

二人はその場に広げた荷物や着衣を持って和館へと引き揚げる。

浅瓦葺の和館は、長い広縁の外に立派な中庭が設けてある閑静な和風建築だ。

硬く引き締まった洋館とは違い、まるで普通の民家で住んでも問題ないだろう。

とりあえず広縁のすぐ横にある八畳間に荷物を運び込み、提督は自分の新しい着替えを持ってきていたボストンバックに詰め込んだ。

そうこうしている間に『敷島』が帰ってきて、内玄関から入ってきた。

 「ただいま戻りました」

風呂敷一杯に物を入れて、『敷島』はすぐに台所に向った。

提督と『天津風』も小走りで台所に向う。

 「今日の夕食は何ですか?」

提督がやけに改まって質問した。

 「陸軍の方からカレー粉とお肉を少々譲ってもらいました。電話された訳を話したら何故か快く譲ってくれましたよ」

『敷島』は階級章や略章のついた上着を畳んで置き、すぐに調理の準備に取り掛かろうとしていた。

 「という事は今夜はカレーか、金曜じゃないがまあいいだろう。しかも肉入りときた」

米や麦は戦線では用意に手に入るが、肉は手に入りにくい、何より肉は食事として少し嫌われた風潮がある。

 「もうっ、しょうがないことで電話してきて。士官候補生の時から変わってないんじゃないですか?」

少し怒りながらも『敷島』は二人に優しく笑って喋りかけた。

 「いやあ、本当に面目ない」

だが、こうしてみると『敷島』の後姿はまさに母親だった、提督の扱いにも慣れているようで、よほど振るい付き合いなのだろう。

台所の横の茶間には既に卓袱台が用意されている、いつも『敷島』が使っているのかかなり使い込まれているようだ。

前線では粗末なカレー粉しか手に入らないが、今日『敷島』が譲ってもらったのは貴重なちゃんとスパイスの入った列記としたカレー粉だ。

今となっては陸軍上官や海軍でも乗艦士官ぐらいしかお目にかかれないほどのものである。

日が全て翳った頃、竈の白米も炊きあがり夕餉にぴったりの時間になった。

そのころにはカレーもほどよく出来上がり、食欲をそそる匂いが漂っていた。

和館の台所には、洋食用のような大きな皿はないので、直径20センチ程の深皿に白米とカレールーを装った。

『天津風』も士官学校では幾度か食べた事があるが、こんなにしっかりと“カレーの色”をしたカレーは初めてだ。

 「明日は白米がないので我慢してパンで食べてくださいね」

『敷島』は皿を並べると最後に食卓に座った、そのときにも『敷島』は提督の皿が上座に並ぶように並べていた。

 「ではいただこう」

提督は待っていたといわんばかりに袖を捲ってスプーンを振るった。

 「ちゃんと礼儀正しく食べてくださいね。カレーといえど、これは貴重なんですから」

『天津風』は二人が食べだした頃合を見てようやく食べだした、それでも正座の態勢は崩さない。

食事を取るときはいつも軍紀の下で食べていたため、『天津風』は上官や他の仲間が食べ始めた頃合で食べる癖がついていた。

そしてそのときも、今食べているようなちゃんとしたカレーを食べた事がない。

だがここは、そのような雰囲気の場所ではない、ただの普通の食卓といった感じで、時間内に食べ終わる必要も、一杯で満足する必要もなかった。

 「すまん、もう一杯装ってくれ」

提督が一番最初におかわりも申し出た。

 「はいはい」

『敷島』は自分が食べるのを中断して立ち上がった。

 「あの―――、すいません私も。いいえ、やっぱり自分で注ぎに行きます」

『天津風』も『敷島』に次いで立とうとしたが、『敷島』は二つの皿をもって台所に歩いた。

少し戸惑ったが、彼女の心遣いだと思い『天津風』は座りなおす、それでも少し申し訳ない気持だ。

 「あなたも秘書艦なんですから、立場は提督と同じ“お客様”です。楽にしてて構いませんよ」

再度ライスカレーの装われた皿を持って『敷島』は座った。

 「それに、何人かで食べると楽しいじゃないですか。私はそれだけで嬉しいんです」

そう言って『敷島』は皿を『天津風』に手渡す。

 「……はい、ありがとうございます」

初めて他人に装ってもらった皿を受け取り、どこか自分に向けられた愛情を感じたようで『天津風』は口元を緩めた。

 「まったく、ほほえましい限りだ」

提督も目の前の団欒に微笑む。

 「お腹いっぱい食べてくださいね、たくさんありますから」

和やかな空気の中、夕食の匙は進められた。

 全員が食べ終わった頃を見計らって、『敷島』が冷えた麦茶を保冷庫から出した。

全員のコップに注ぐと、彼女は台所で片づけを一人で始める。

提督は明後日着くはずの首都の部署情報と、今日聞いた突拍子もない話を纏めるために隣の居間に言ってしまった。

『天津風』は麦茶を一杯飲み終えると、どちらかの手伝いをしなければと思い立ち上がったが、どちらにいくか決めかねた。

少し立ちすくんで悩んだ後、『敷島』の手伝いをすることにした。

隣の台所に向うと、台所は茶間より一段低くなっていて、床も石張だった。

灯りは中央の白熱電球だけで、部屋の隅は薄暗い。

昔ながらの台所で、水周りの横には竈が二つ並べられ、その前には真水の入ったバケツが二つ置いてあった。

 「て、手伝いましょうか?」

 「あら、ありがとう」

後ろから駆け寄る『天津風』に気付いて、右半分のスペースを彼女のために空けてくれた。

食器は今日の分だけではなく、恐らく二日分くらいは溜め込まれていたらしく、皿の枚数は十数枚あり、コップや茶碗も沢山あった。

 「昨日はお忙しかったんですか?」

 「ええ、急にお客様がお見えになって、奥にお通ししたときにお茶とお菓子を五組ほどお出ししましたよ」

『敷島』は手を止めずに淡々と『天津風』の質問に答える。

慣れた手付き食器の水を切り、横の水切台に綺麗に並べていった。

どれもこれも高価そうな立派な食器ばかりで、思わず落さないようにと手に力が入る。

 「お手伝いしてくれてうれしいわ」

『敷島』はまるで娘を見るかのように『天津風』に微笑みかけた。

 「いえ、お世話になってばかりなので。それに提督のせいで余計にお疲れのようだったので」

それを聞いて『敷島』は静かに笑う。

 「いいのよ、あの人はそういう人だから。総督に似て、意外と頼りないところがあるのよ。特に、自分の事に関してはね」

 「ええ、本当に…」

『天津風』も彼女の言葉に凄く納得した。

実務や執務はほとんど手伝う事がないが、日常的なことや、ちょっとしたことで手伝わなければならない事もあった。

そして、そんな提督は些細な事にも気を使ってくれていつも申し訳なく思っている。

静かに下を向いて皿を拭く『天津風』に、『敷島』は話を続けた。

 「でも、あなたが横(秘書艦)にいるだけで大分変わったわ」

 「そうなんですか?」

 「前なら帰ってきてから夕食の注文をしてきていたもの。あなたがいたから、わざわざ私を探し回って声を掛けてくれたのかもしれない」

 「私がいたから……」

彼女の言葉に『天津風』は手を止めた。

秘書艦なるまえでも、特別気を遣っていてくれた気がするが、そこからは一方通行な好意は感じられなかった。

『敷島』と同じように、自分を愛しんでくれるような、そんな感覚だった、だからそれに素直に応えられない自分がもどかしい。

 「あなたは士官学校を出ているのよね?」

彼女は続けて質問する。

 「ええ、一応。去年度七十九期で二年十ヵ月の課程を終えました」

 「うらやましいわね」

『天津風』は彼女の言葉に少し困惑した。

 「貴女は、士官学校も養成所も出てないんですか?」

 「ええ、私の頃はまさに戦のための訓練だけだったもの。洋上航海訓練だけ終わったらすぐ実戦だったもの」

彼女が現役の頃と言うと、二十四年前に艦娘が一等戦列艦指定がされたころに遡る。

それまで海軍隷下の一つの組織だったため、彼女等の指揮官しかちゃんとした訓練を受けていない状況だった。

 「でも、貴女は特務大将という華々しい階級をお持ちです。士官学校卒業で特務大佐の私では、同じ年数キャリアを積んでも貴女には追い着けません」

『天津風』がそう言い切ったとき、彼女は丁度皿洗いを終えた。

 「私は、偶然“戦艦娘”だったからよ。もともと私が“作られた”頃から私は旗艦候補で、そのために他の艦娘さんの受けていない教育をその後いろいろ受けたわ。そして必然的に私は総督の秘書艦になった」

 「いったいどんなことをなさったんですか?」

 「そうねぇ…、強いて言うなら“花嫁修業”みたいな感じだったわね」

 「はぁ……」

『敷島』の洗った皿を全部拭き終わると、手を洗って手持ちのハンカチで手を拭いた。

それを『敷島』は丁寧に重ねて、台所の入り口横にある大きな水屋にいれた。

彼女が持ちきれなかった分のコップや茶碗をもって、『天津風』も水屋に歩く。

身長は二人ともあまり変わらず、『天津風』は台に上って皿を直す『敷島』に落さないようにコップと茶碗を渡した。

 「ありがとう、助かったわ」

一息ついて、『敷島』は上がり框に腰掛けた。

横にスペースがあったので『天津風』も横に腰掛ける。

どこか彼女と少し親近感が湧いたような気がした。

 「でも、花嫁修業って。誰かに嫁いだりするわけじゃないのに」

『天津風』は話の続きが気になったので、先ほどの会話を再開する。

 「昔は半分嫁ぐみたいなもだったのよ。艦隊旗艦は他の艦娘が学ばない最高の礼儀作法や言葉遣い、知識や秘書艦として提督を御世話できる実力を身につけて、半永久的にその提督を手伝い、気遣うの。今も変わらないけど戦闘だけが自分の仕事じゃなくなるからとっても忙しかった」

 「そうだったんですか」

 「今は、大分違って、それぞれがそれこそ本当に士官になって、立派な艦娘だと思うわ。私の頃は実力主義で、駆逐艦娘でも艦隊旗艦になれたし。逆に言えば突然ある駆逐艦娘が秘書艦になるなんてできなかったわ」

彼女が歴戦の戦艦娘であることは知っていたが、戦闘以外でもいろいろな苦労をしてきたことを労うばかりだ。

最初から士官学校で教わる課程のような知識があれば、後々そのような苦労をしなくて済んだものを、と率直にそう思った。

だが、その事実から昔は本当に艦娘(私達)は兵器としてしか見られてなかったのだと実感する。

 「だから、今の貴女(艦娘)達に託したのよ。少々荷が重すぎたかしら?」

『敷島』は物悲しい瞳を『天津風』に向ける。

 「あなた方のような、優秀で実力のある方のほうが相応しかったんではないでしょうか。私に何らかの希望が託されていることは明石さんから伺いましたが、それを知ったあなた方なら私より上手く事を進めることができたのではないでしょうか」

 「それはないわ」

彼女はきっぱりと言い切った。

 「あなたのような智ある艦娘でなければ、今後を見据えるのは難しい、それいずれあなたは戦いを離れ提督と過ごす事になると思うわ。そうなったら私達みたいな戦闘狂では手に負えない。様々な状況に対応できる今の貴女達、そしてあなたにしかこの希望は宿せない」

『敷島』の言葉で一気に事の重みが増したように感じた。

今後どうなるか誰にも分からない、そして今後に全く期待などという良い気持が向かない。

『天津風』は不安に震える手を握り締めた。

 「でも…」

言葉を遮るように『敷島』は『天津風』を左手で引き寄せた。

 「大丈夫…、とまでは言えないけど、こんな世界をあなたは間違いなく変えることができる。身勝手な話しだけど、私達の分まで頑張ってね」

触れ合う肩から自分の暖かさが伝わってくるのを感じた。

単に、自分の右肩と彼女の左肩が接しているというのではなく、それ以上に、彼女が自分のことを思い心から心配してくれているという事実がひしひしと伝わってきた。

 「それでも不安なら、提督を頼りなさい。あなたがいるならあの人は今まで出来なかったこともできるはず。あなたの存在は、もう誰かを変えているのよ?」

『天津風』は握り締めていた手をそっと緩め、引き寄せてくれた彼女の左手にそっと触れた。

 「……私の名に懸けて、あの人(提督)に一生懸命追い風を吹かせて上げます」

 「うんうん、やっぱり見込んだ通りの良い艦娘だね。天津風」

初めてちゃんと名前で呼ばれたような気がして、どこか気持がくすぐったかった。

だが、彼女にこうして少し肩を預けているだけで、これまでになく心が落ち着いた。

『敷島』は体を真っ直ぐ向けて『天津風』を見つめる。

 「あなたにしか出来ない事が、これから必ずやってくる。そうなったら、今度はあなたが提督の為に成してあげるんだ。自分を犠牲にしろとまでは言わないけど、提督も天津風と気持は変わらない、一緒に頑張っていってくれたまえ!」

 「はい」

『天津風』は彼女の意思に応えるべく精一杯の素直な返事をしたつもりだ。

単純に返事をしたが、彼女の中で一番勇気のいる言葉だった。

もはや彼女の肩に掛かるのは自分の重さだけではない。

 「さあ、心を決めたらゆっくりと休んでちょうだい。さっそく明日は駅に出向くんだからね」

 「わかりました!」

二人は台所を出て、それぞれ寝床へ向う。

『敷島』は最後に台所の電気を消し、玄関脇の元使用人部屋だった所に引き返した。

時刻はもう八時近く、提督はずっと書類と睨み合っていた。

 「提督、もう寝ましょう。明日は早いらしいわよ」

『天津風』の言葉でようやく書類から視線を外し、脇に書類を軽く纏める。

提督は疲れた様子で、目頭を揉んだ。

 「ああ、そうだな」




本当に日常回でした本章です。
前回の投稿から閲覧数を観察させてもらいましたが、受け入れていただいたと勝手に思っており、ありがたい限りです。
この日常回から首都につくまでは、だらだらと世間について詳細に書き足していく次第です。

今後についてのご意見、または今までで不明な点や不可解な点は、鋭くご指摘していただいたら幸いです。
また、感想のほうも気軽にお願いします。

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