ご容赦を。
真っ赤になってそのうちトマトになるんじゃないかってくらいだった由比ヶ浜をさんざ愛でた後、喫茶店を出た俺たちは、由比ヶ浜の家族になにか手土産でもという話になり、とりあえず近場のショッピングモールに向かっていた。
「べつにそんなの気にしないでもいいと思うけど……」
いかにも遠慮してますといった体で胸の前で手を振る由比ヶ浜。
「いや、礼儀としてな。……一応、お前の彼氏を名乗っていくわけだしな」
うわ、改めて口に出すと相当恥ずかしいな。
喫茶店でのあれは、あの場限りのノリだったらしい。
「そ、そう……」
…………。
……さて、とはいえ、なにを買っていけばいいものやら。
洗剤とか?
ないな。今時、それは。じゃあ、あれかオーソドックスにお菓子とかかね。
とすれば、ケーキとか、クッキーとかが妥当なところだな。
「由比ヶ浜、どっかうまいケーキかクッキー売ってる店、知らねぇか?」
こういった話は、いわゆるところの女子に聞いたほうが早いよな。
俺の質問に、由比ヶ浜は顎に人差し指をやって数瞬考え込む素振りをしてから、この手のことに関しては知識のない俺にヒントをくれた。
「そういえば、最近お父さんとお母さんの間で流行ってるお菓子屋さんがあるんだけど……」
おお、こういうときに身内が味方だとうまい具合に話が進むな。
助かるぜ、由比ヶ浜。
「さて、お昼も食べたし、あたしの家に行こっか、ヒッキー」
ややはにかみながらそう言った由比ヶ浜に首肯を一つ返して、駅へ向かう彼女の背中を追う。
今さらながら、俺の胸中には漠然とした緊張と不安が生まれてきていた。ほんとに今さらだな、おい。
さっきのさっきまで恥らう由比ヶ浜を弄んでいた変態がなにを言ってんだかってな。
駅から人気の少ない電車に乗り込んで、他愛もない言葉を交わし合いながら数駅をやりすごす。
そうしていると、由比ヶ浜がぽつりとついといったふうに言った。
「……ね、ヒッキー。今日さ、嫌だったら、帰ってくれても、その、いいんだからね……?」
顔を伏して、震えた声で告げられたその言葉は、不安の色が滲んでいて、この約束を交わした先日からずっと悩んでいたのがまるわかりの一言だった。
……………。
まったくな。そんなこと、そんなふうに言われたら、抱きしめてやりたくなるだろうが。
まぁ、今はできないけど……。
「急にしおらしくなってんじゃねぇよ。ここまできたらもう、あとはいつもどおりにやるだけだ」
「ヒッキー……」
あぁ、もう……。
最近、俺が俺じゃないみたいに由比ヶ浜の一挙手一投足に気を持っていかれるなぁ。
相当に、重症だ、これは。
「君が、結衣の彼氏とやらかね?」
なにこの人。なにこの人。
なんで背中にゴゴゴみたいなオーラ背負っちゃってるの?
なんでまだ昼間なのに全身に影がかかってるみたいな、なんかラスボスっぽい演出されちゃってるの?
ねぇ。ねぇ、なんで……?
八幡、怖ひ……。
「ひゃいっ、そうでふっ!?」
「ヒッキー、キモい……」
うぅ、おもっくそ噛んだ……。
というか、由比ヶ浜よ。こんなときにまでそれはないと思うなぁ。なにより君の親父殿について十分に話を聞けていなかったようだ。
失態だ。こうなったら、やむなしに戦略的撤退を決断するしかないか……!
「初めまして、比企谷八幡といいます。娘さん、結衣さんと交際させていただいてます」
なんてな。悪ふざけも大概にしとかないと。
怖いことは怖いが、それも由比ヶ浜の頼みの前じゃ、どんなもんだ。
「あ、これ、つまらない物ですけど、どうぞ」
「うむ、ありがとう。私は結衣の父、由比ヶ浜健司という。まぁ、座りたまえ。結衣もな。結女さん、お茶を」
「はぁーい。今持っていきますよー」
センターテーブルを挟むようにして向かい合う健司さんと俺、由比ヶ浜。
由比ヶ浜の母であろう女性、結女さんが盆で運んできた湯呑みを眼前にして、まず健司さんが切り出す。
「君は、あれだな、よく結衣が話しているヒッキーという……」
言い淀む健司さんに、家族にまであだ名使ってんじゃねぇよ、と心中で項垂れる。
「え、ええ、はい。たぶん、そうです」
「そうか。うむ、そうか。どうだね、娘とは。うまくやっているかね」
「もちろんです、」
いったん言葉を切って、由比ヶ浜を見やると、彼女は場の空気が耐え難いのか顔を伏せていた。
そんなふうなのを見ていると、なんとなしに今までの由比ヶ浜と過ごした時間の数々が頭の中を駆け巡っていく。
優しくて。空気は読めるのに、アホの子で。変な挨拶を布教してて。キモいキモい言いながらもずっと傍にいたり。
すれちがって。歩み寄って。
そして、きっと。最後の最後に、俺は、この手を差し出すのだ。
「……俺には、もったいないくらいに」
不思議と視界が澄んでいくような気がして、なぜか、自然に顔が笑みの形に変わっていった。
こんな気持ち。
こんなの、何ヶ月か前の俺が知ったらきっと、目を見開いて驚くんだろうぜ。
なぁ、由比ヶ浜。そう、思わねぇか。
「はっはっは、八幡くん、どうだ、うまいかねっ」
その後、これ以上ないくらいにご機嫌になった健司さんの計らいで晩飯を由比ヶ浜家でご相伴に預かることとなった俺は、酒も入ってさらに機嫌がよくなった健司さんを適当にあしらいつつ、由比ヶ浜も手伝ったという肉じゃが等々に舌鼓を打っていた。
「こっちの胡麻和えもあたしが作ったんだよ、ヒッキー」
結女さんの監督の下で作られたならば、下手なことはないだろうと高を括ってほうれん草の胡麻和えに箸をつける。
「まぁ、うまいぞ……?」
なんというか、味をとやかく言いにくい品であるが故、単純な言葉でしか伝えられないが、うまいものはちゃんとうまいので、問題はないな。
それを聞いて、優しい笑顔ではにかむ由比ヶ浜の姿だけを今は見ていたかった。
夕飯もすみ、健司さんと結女さんに挨拶を告げてとうとうお暇することになって。
今は玄関先の夜空の下、由比ヶ浜に見送られていた。
このまま家路につけば、次に由比ヶ浜と会うのは、明日の学校までお預けだ。
でも、まぁ、そんなの、我慢できねぇやな。
「……なぁ、由比ヶ浜」
「はいっ!?」
「ちょっと、歩かないか」
「……うん」
なぜか異様な緊張を見せる由比ヶ浜の手を引いて、街灯と月明かりの光源を頼りにぶらぶらと夜の住宅街を歩く。
しばらくすると公園が見えて、そこのベンチに二人で腰かけた。
まだ、肌寒い季節。由比ヶ浜は、大丈夫かねぇ。
「寒くないか?」
「ううん、大丈夫だよ、ヒッキー」
返された声はやはり震えていて、俺は肩越しに由比ヶ浜の顔を覗き込んだ。
「……ね、ヒッキー、今日のことは、ぜんぶお芝居だった……?」
すると、うっすらと涙さえ浮かべたなんともいえない表情で決然と言い放った由比ヶ浜は、立ち上がり、俺の正面へ回りこんだ。
「俺は――――、」
「……ヒッキー」
俺は、だな。
俺は、どうすれば、いいんだろうな。
由比ヶ浜。由比ヶ浜結衣。
奉仕部の仲間で、友達で、俺の求める本物足り得て、想い人で。
胸のうちは葛藤していて、でも、口が勝手に動き出して、本音を紡いでいく。
理性の化け物なんて大層なものじゃなくなった俺は、なんなんだろうな。
きっと、それは――――。
「――――途中から、本音が漏れてたかもな」
そして、小町から捻デレなんて言われている俺の心からの言葉が、これだった。
はーあ、呆れるな、おい。
「ヒッキー……!」
でも、だけど。
心底嬉しそうにはにかむ由比ヶ浜のことを見ていると、俺のことなんて、どうでもよくなっちまうよなぁ。
「好きだ、由比ヶ浜」
「うん、うんっ……! ヒッキー、ヒッキー! あたしもだよ!」
あぁ、やばい。
めちゃくちゃ抱きしめたい。