「知ってるって、なにをだよ……」
震える喉から出たそれは思ったよりも刺々しい、掠れた声音になった。
ゆっくりと、身を預けてきていた相模を両手で押しのけるように、はなしていく。
彼女の目をしかと見据えて、もう一度、問うた。
「――――なにをだよ……」
結構低い声が出てしまったからか、一瞬肩を震わせた相模はしかし、毅然として口を開いた。
「あんたが、比企谷が……うちを救ってくれたこと、文化祭を丸く納めてくれたこと……あんたが、そのせいで傷ついてること……ぜんぶ、ぜんぶ……! 知ってるって、言ったのっ!!」
叩きつけるようにそう言った相模は、その調子でさらに続けた。
「冷静になって考えたら、誰でも、あたしみたいな馬鹿でもわかるよ! あたしのせいであんたが無理して、被害を被って、そのために皆から嫌な感情向けられて、それでもまだ、やめないで……! 人一倍苦しんで、傷ついて、それで……それで、挙句にはとんでもなく馬鹿な女の尻拭いまでさせられて……!」
「…………」
「……今なら……今ならわかるよ……。あたしはあそこにいちゃいけなかった……。あんたに、謝っても許されないようなことしちゃって……。……でも、これが、この耳が突然生えてきたとき――――、」
感情の赴くまま、言いたいことだけを言葉にする相模は、唐突に己の頭の上の犬耳と腰元の尻尾を掴み、
「――――だからこそ、あんたならって。勝手だけど、そう思った。本当に嫌な女なんだ、あたし。高慢で、身勝手で、無責任で……。でも、そう思ったとき、あんたが来た……来て、くれたんだ……」
ずるい。卑怯だ。
――――やめろ。
あんたばっかり傷ついて。あたしには掠り傷くらいで。
――――やめろっ……。
嫌いなままでいたかったのに、それさえさせてくれずに。
――――やめてくれ……!
「――――ねぇ、比企谷、あんたはなんでそんなに、優しいの……?」
消え入るような独白と共に静かに涙をこぼし始める彼女を、俺は、息を詰めて見ているしかなかった。
べつに、俺は本当に相模のことをどうこう思っているわけではなかった。
快くも、悪くも思っていない。同情こそしていたものの、それ以上も、以下も持ち合わせてはいないのだ。
今日だって、ここに来たくなかったのは、他でもない相模自身がそれを望んでいないだろうと思っていたから。
だって、学校ですれ違ったりしても、さっと顔を逸らされたりして、意図的に意識の外に追いやってる感じだったもの。
だけど、まぁ、それはどうも相模の本当のところではなかったらしい。
彼女は、俺を許していたんだ。
だからこそ、本当に追い詰められたとき、
――――なんだそりゃ。
「ぷっ……くっくっ……はっはっはっ……」
たまらず、吹き出して、笑ってしまった。
「ぐすっ……な、なによぅ……」
しゃくりあげながらも、俺が突然笑い出したことに疑問の声をあげる相模。
「いや、たいしたことじゃないんだけど、」
顔を伏せている相模の、そのすぐ傍に膝をついて、あやすようにその背中を擦ってやる。
「――――ただ、なんだそりゃって思ってさ」
「うぇぇっ、なによそれぇ……ぐすっ、うぅ……」
情けない泣き声が、どうにもおかしさを誘って、またくすりと笑ってしまう。
文化祭のあのとき、俺は身を投げて、案件を解決させた。
そのとき、それ以外に他意なんて毛頭なかった。ただそうすればすべてがうまく回るから、そうしただけ。
けれど、そんな俺のやり方を否定するやつがいて。
あぁ、そうか。
みんながみんな、自分のせいだ、なんて思ってるんだ。
ただそう思わせられる状況が出来上がってしまったから、そう思ってる。
本当に悪いやつなんて、いなかったのかも。
みんな、やりたいようにやって、それが裏目に出た。今回のことは、ただそれだけ。
もちろん、同じような状況を誰かが故意に作ったとしても、俺は今回のようにするだろう。
それでも、今のように、そんな俺のことを憂いてくれるやつがいるなら。
それはそれでいいかもな、なんて思ったんだ――――。
それから、プリントの件を切り出せるくらいに相模が落ち着くまで、彼女をあやすこと幾許か。
日もとっぷり暮れた頃、ようやっと相模は顔を上げて、俺を居間のほうへ招いてくれた。
「えっと、ごめん、比企谷……」
いったいなんに対する謝罪なのか、と問うのは酷に過ぎるよな。
「いいから、顔、洗ってきてくれ。ついでに、茶もほしいところだ」
おどける、といったことをあまりしたことがなくて、ややぎこちなくなった俺の言葉に、しかし、相模は弱々しいながらも笑みを一つ残し、居間を後にした。
さて、この間になにかいい案が浮かばないものかと頭を捻る。
相模の心に溜まっていたものを決壊させた
俺はそれをなんとかしてやりたく思っていた。
だって、まぁ、彼女が学校に来ないと、また今日みたいに俺がプリントを持ってこさせられるような気がする。
避けられる労役は避けるべきなのだ。ただ、それだけ。
「とは言ったものの、だ」
さすがに、ある日突然犬耳や尻尾が人に生えるなんて面妖な事件、いったいどう解決したものか。
最悪病院に行けばなんとかなるかもだが、こんな症例、世界規模で見たことがない。
困ったものだ。
「ひっ、比企谷ぁっ!」
と、そんなことをつらつらと考えていると、これまた突然に相模の悲鳴が俺を呼んだ。
すわ敵襲かと、相模がいるはずの洗面所までダッシュを敢行。
「どうしたっ」
自分でも不思議なくらいの機敏な動きで駆けた先にいた相模は、床に力なく座り込んでいた。
その姿を見て、一瞬のうちにいくつかの懸念を思いついたが、いや、まず本人に確認すべきだろう。
「比企、谷ぁ……耳と尻尾……ない、よ……?」
「は……?」
言われて初めて、今の彼女になにか作用を促すとしたら、あの犬耳と尻尾くらいのものかと思い至り、視線をそれらがあった場所へと向ける。
と、同時に、相模の言葉の意味を理解した。
ないのだ。相模の頭と腰元から生えていた犬耳と尻尾が。
「え、あれ……なんで……?」
「ない、ないよ、比企谷……消えて、る……?」
しばしその事実に二人で呆然としてから、顔を見合わせる。
まぁ、なくなったものはしょうがない。
似合ってたけど、しょうがない。
相模にとっては、これでよかった。このほうが、よかった。
「な、なんかあれだな……」
「あ、うん、えっと、拍子抜けな感じ……?」
「そ、そうそう、そんな感じ……」
なんて会話をしながら、へたり込んでいた相模を引き上げる。
向かい合って立った俺たちは、再度顔を見合わせて、
「ぷっ……」
「ふふっ……」
そして、二人して、笑いあった。
「はい、お茶」
「ああ、悪い」
「いいよ、このくらい。今日はいっぱい迷惑かけちゃったから」
「今日も、な」
「あ、ひどい」
「冗談だ」
「ふふっ、ん、わかってる」
「……これから、さ、」
「……ね、比企谷。うちのこと、嫌い?」
「…………」
「あたしはさ、あんたのこと、嫌いじゃない、よ……?」
「…………」
「ねぇ、どうなのよ……」
「……まぁ、嫌い、じゃあねぇ。好きでもねぇけど」
「……ふふっ、比企谷ってさ、捻くれてるとかって言われない?」
「たまにな……」
「あははっ、やっぱり」
「……っせぇな」
「もう、拗ねないでよ、比企谷」
そのうち再発して、犬耳と尻尾がまた生えてきたりしたおもれーかな。