頭に乗っかった犬耳を、俺の手の上から自身の手を被せて隠すようにして、なおも泣きじゃくる相模を眼前に、俺は、しかし、一度はその出で立ちに驚愕を見舞われたものの、今では止まる気配を見せない涙のほうが気がかりであった。どうにかそれを止めてやれないものかという俺にしては献身的な考えが、驚愕と困惑を押しのけ、上回ったのである。
初志貫徹。俺は、相模の犬耳に触れてそのまま固まっていた手を、再び動かし始めた。右に、左に、ゆっくり、ゆっくりと。彼女が平静を取り戻せるように。犬耳があろうが構わず、さらさらとした茶髪をただ、撫で続けた。
もちろん、先ほど犬耳に気づいたときに見ないで、と弱々しくも拒絶の姿勢を見せた相模は、俺のその行動を一層拒んだ。
やめて、触れないで、こんなの見ないで、と。
が、それを聞き届けてやる義理は俺にはない。相模の様子から、彼女自身がこの犬耳に対して、一番驚愕し、困惑し、忌避しているのは見て取って、察してやれる。ならば、俺がそれを気にするのは二の次であるべき、だと思う。
自分のことばかりで周りが見えておらず、挙句、負うべき責任すら一度は放棄したことのある彼女だが、俺は知っている。そんな彼女の言動が、最近、少しずつ変改してきていることに。
自分とその近しい者しか写っていなかった視界が広がりを見せたような、そう、端的に言うならば、なんとなく雰囲気がよくなったのだ。
文化祭の一件に思うところがあったのだろうか。友人を気遣うことが、己の行動を省みることが、そういったことが、今の彼女に彩りを添えていた。
けれど、そんな相模が俺のことだけはその扱いを決めあぐねているようで、それなのに、今、彼女はこうして相手が俺であるにも関わらず、すがって、泣きついている。自身の頭の上を行き来する俺の手だって、振り払おうと思えば、本気で拒絶しようと思うのなら、簡単にそうできるはずなのに。
どうにも、俺は、そんな彼女を捨て置くことが、できそうになかった。
「……落ち着いたか?」
「ん……」
目尻を赤くして、瞳に涙をこらえながらも、相模は泣くことをやめた。
泣きながら縋られた末に納まった俺の腕の中で、華奢な体を小さくしていた彼女が身じろぎをする。
「ごめん、比企谷……。もう、大丈夫だから……」
相模は、自身の頭を撫で続けている俺が、犬耳について言及してこないのを察したのだろう。途中から、俺に全身を預け、なにかを吐き出すかのように存分に泣いていた。それはもう、俺のシャツが涙と鼻水とあとなんやかんやで酷いことになるくらいには。
「あっ、えっと、シャツ……うぅ、ごめん……」
その惨状に気づいたのか、頬を赤くしながらも、申し訳なさそうに謝ってくる相模。その頭をもう一度、ぽん、と撫でる。
「……いい。それより大事なこと、あるだろ」
「あ……」
羞恥と若干の嫌悪を表情に滲ませ、相模が己の頭に変わらず鎮座している犬耳に手を伸ばす。
「俺になんて、知られたくなかったんだろうが……。まぁ、こうなったもんは、もうどうしようもない。登校拒否の理由はそれだよな……?」
あとで思い返せば、俺はこの時点で相模にプリントを押しつけ、強引にその場を離れることだってできたはずなのに。
やはり、なぜか、俺は頭で考えるでもなく、彼女に手を差し伸べていた。
「……変に、思わないの……?」
ぺたん、と廊下に座り込んだままの相模は、自身に手を差し出してきた俺を困惑の目で見やった。
まぁ、こんなの、普通だったら不審がって、気持ち悪がって、忌避されたりするものだ。
が、生憎と俺はそれに当てはまらない。
なんていっても、ここ数年における相模の人生の中で、おそらく最も酷い瞬間を、俺は知っているのだ。それ以上の痴態なぞ、どれほどのものでもない。
「や、べつに。なんか、尻尾もついてるみたいだし、一周回って逆にそういうのもいいかもしれない」
「……へ? 尻尾? ……うぇっ、きゃぁ、尻尾ぉっ!?」
どうも、犬耳の他に尻尾までもがあることを、相模自身は知らなかったらしい。大層、慌てふためいていたのが印象的だった。
犬耳娘曰く、ある朝目覚めると、なんの前触れもなく耳と尻尾が生えていた。
曰く、両親は諸事情から長期不在で、連絡こそとれるものの、事の顛末をどう説明したものかわからない。
曰く、ならば友人は、と思ったが、このようなことを相談できる気の置けない仲の人物に心当たりがなく、断念。
曰く、そのままで外に出ることは憚られ、同じような理由から病院も、救急車も嫌。
そして、そんなこんなで学校にも行けなくなっていたところに、俺が来た――――。
そこらへんの事情は、まぁ、わかる。
ある日突然犬耳と尻尾が生えてきて、今の相模のようにならなかったのなら、そいつの胆力はきっと尋常でないもののはずだ。でも、
けれど、どうしても一つ、気になることがある。
――――なぜ、相模は俺に縋ってきたのか。
それがどうしても、わからなかった。
「……ごめん、比企谷。変なことに巻き込んだみたいで……」
私事に関わらせて申し訳ない。そんな、
――――なんでだ。
なぜ、彼女は、俺のことを嫌悪しないのだ。
なぜ、彼女は、俺のことを罵倒しないのだ。
俺は本当に、彼女に嫌われているのだろうか――――。
そんな、自分の中のなにかが忙しなくしていた、ちょうどそのとき。
すぐ目の前にあった相模の顔が傾き、先ほど泣いていたときのように、俺の胸元へと預けられた。
「――相模……?」
頭の中に渦巻いていた思考が加速する。
あの相模が、というより、この時分の女子高生が、嫌悪しているであろう相手に対して、こんなことをしてのけるものだろうか。
いや、その可能性はもはや、ない。
――――彼女は、俺を許しているんだ……。
加えて言うならば、むしろ、彼女のほうが俺に申し訳なさそうにしている始末。
本当に、なにがどうなっているんだ……。
「比企谷ぁ……」
若干、甘えの混じった声音をして、俺の胸に顔を押し付けてくる相模。
「お、おいっ、よせってば! 頭でも打ったかよっ」
これ以上はさすがにまずい気がして、好きにしていた相模を押しのけようとする。
なんなのだ、これは。嫌われていると思っていた相手が、蓋を開けてみれば、透けて見える好意を向けてくるとか。
さらに困惑を強めたところで、相模が、殊更に強烈な爆弾を放ってきた。
「――うん、そのくらいの衝撃だった、かな……」
「はあ……?」
「うち、知ってるんだよ。文化祭での比企谷の、本当のところをさ……」
彼女のその言葉に、まさに、頭を打ちつけたような衝撃を覚えた――――。