雨に濡れ落ちた花   作:エコー

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三人で過ごす時間。
しかしそれは、普段とは何もかもが違う。


では、どうぞ。




9 彼と彼女は彼女を庇保する

9 彼と彼女は彼女を庇保する

 

6月10日 水曜日 夜①

○○大学付属総合病院

 

 俺と由比ヶ浜が立っている病室の入口の名札はひとつしかない。正確には、一枚しか名札を入れる場所が無かった。

 案内してくれた看護師さんにお礼を言い、ドアをノックする。

「…どうぞ」

 室内は普通の個室にしては広い。四人部屋くらいの広さはありそうだ。

 内装も病室らしくなく、ちょっとしたホテルのような色調。特別室ってやつか。

「やっはろー、ゆきのん」

 さすが由比ヶ浜。カラ元気も元気、っていうらしいからな。

「すげー部屋だな。これ本当に病院かよ。ホテル並みじゃねえか。さすが御令嬢、だな」

 雪ノ下がこちらを見る。お互い少しだけ表情が緩む。

「あら、あなたまで来たの?ひき、ひき…」

 やはり普段と同じような会話、という訳にはいかない。もはや普段ではないのだ。

「あー、無理して悪態つかなくていいぞ、お嬢さま」

「ゆきのん、具合はどう?」

 雪ノ下は少しだけ笑う。

「おかげ様で、もう痛みも無いわ。ありがとう」

 やっと安心できたのか、由比ヶ浜も向日葵のような笑顔を浮かべる。

 

 俺たちは、豪華な病室でしばし談笑した。

 由比ヶ浜は今日学校であった出来事や自分の失敗談を話し、雪ノ下はその言葉の端々の揚げ足をとっていた。

 俺はというと、三人分の紅茶を淹れた後、二人の会話を聞きながら読みかけの本を読んでいた。

「でさー…って、ヒッキー!?」

 俺が顔を上げると、目の前に由比ヶ浜のたわわな胸、いや顔があった。

「なんでお見舞いに来てまで本なんか読んでるのっ」

 さすがに注意された。

「仕方ないわ。最近ようやく字が読めるようになったので読書が楽しいのでしょう」

「…うるせぇ」

 本をパタンと閉じて雪ノ下の顔を見る。

 笑顔だった。しかし力が無い。普段のような凛とした空気が感じられない。

「…雪ノ下」

「何かしら?」

「その、無理はすんなよ」

 手持ち無沙汰で持った見舞い品の林檎で手遊びしながら、雪ノ下の目を見る。

「はあ…あなたはどうして。解ったわ。久しぶりにお説教してあげるわ。由比ヶ浜さん、10分ほど席を外してくれないかしら。この男の腐った目を叩き直してあげるから」

 額に手を当てて溜息交じりの雪ノ下。言葉だけ聞けば、仕草だけ見れば、いつもの雪ノ下だ。だが…

 由比ヶ浜に耳打ちする。

「…どうやら俺に話があるようだ」

 うん、と頷いた由比ヶ浜は席を立つ。

「本当に申し訳ないけれど由比ヶ浜さん、少しだけ…10分だけ」

「…うん。わかった。ヒッキー、ゆきのんのことお願いね」

「おう。あ、ついでに売店のとこの自販機でマッカン買って来てくれ、三本な」

「りょーかいっ」

 由比ヶ浜はウインクを残して病室を出て行った。 

 

「さて、雪ノ下…!?」

 由比ヶ浜が去るのを見届けて向き直すと、先程までの笑顔はもうそこには無かった。そこにあるのは怯えた目で涙を浮かべる、か弱い少女の姿だった。

「雪ノ下…おまえ」

 あまりの変化に、俺は動揺する。

「…少しの間、横に来て」

「ああ」

 ベッドの上、促されるまま雪ノ下の横に座る。

「しばらくそのままで…」

 ぽすん、と胸元に雪ノ下の頭が当てられる。俺は預けられた頭を、昔小さかった小町にしたように出来るだけ優しく撫でる。

 程なくして、胸元から嗚咽が聞こえ始めた。

 いつしかその声は号泣に変わり、その隙間を縫うように同じ言葉が繰り返された。

「…怖かった、怖かった、怖かった…怖かった……」

 繰り返されるその叫びはいつしか言葉ではなくなり、只々叫ぶのみへと変わっていく。この少女は、襲われたときからずっと恐怖と戦っていたのだ。誰にも打ち明けずに。たった独りで。

 堰を切ったようなその号泣は時計の長針が半周してもなお止まることは無く、その間俺は雪ノ下の背中を擦り、抱き締め、謝ることしか出来なかった。

「ごめん、本当にごめん」

 悲痛な声。自然と抱き締める腕に力が入る。

「…ごわ…がった…の…」

 まるで年端の行かない子供がするように泣きじゃくって、俺の服を掴む。

 俺は、力の限り、その華奢な身体が軋む程に雪ノ下の胴体を抱き締め続けた。

 少しでもその脳裏から、心から、恐怖を、不安を取り去るために、出来る限り強く。

 

    ☆     ☆     ☆    

 

 病室の外。

 雪ノ下の号泣が響く廊下に、由比ヶ浜は立っていた。腕の中に既にぬるくなったMAXコーヒーを三本抱えたまま、ドアの横に寄りかかっていた。

 個室の中から途切れ途切れに聞こえてくる『こわかった』という叫び。その叫びを、嗚咽を聞くたびに胸が引き裂かれそうな苦しみに襲われた。

 

「…ごめん、なさい…泣き止むまで…待って、いただけません…か?」

 

 検温に来た看護師に懇願する由比ヶ浜の瞳からも、とめどなく涙が流れ落ちていた。

 

    ☆     ☆     ☆    

 

 

 




お読みいただきありがとうございます
第9話、いかがだったでしょうか。

傷は癒えても、心はなかなか癒えないもの。

では、また次回。

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