この日彼は、重大な間違いを犯す。
今回はシリアス。
では、どうぞ。
7 彼女と雨に濡れた花
6月9日 火曜日
この日は、俺、比企谷八幡にとって忘れられない日になった。
一昨日の日曜日、俺は由比ヶ浜に雪ノ下をなるべく一人にするなと言っておいた。その言葉を素直に聞き入れた由比ヶ浜は、何かと理由をつけて昨日から放課後は雪ノ下と一緒に下校するようにしていた。
そして日没後、事件は起きた。
☆ ☆ ☆
6月9日 火曜日 放課後
私、雪ノ下雪乃はいつものように特別棟の奉仕部の部室にいた。
いつもの長机の、窓際の席。
荷物を机の横にかけると、自分の分の紅茶を淹れ、事件の資料を読み返す。
「どう考えても、犯人の狙いは…」
そこに、彼はやってきた。
「うす」
二週間ぶりの素っ気無い挨拶。いつもの、声。
「あら久しぶり。あんまり顔を見せないものだからてっきり死んだものと思っていたわ」
また言ってしまう。憎まれ口なんか言うつもりは無いのに。
なぜ素直に「元気だった?」とは言えないのかしら私は。
「勝手に殺すんじゃねえよ。俺には専業主夫になる夢があるんだ。夢を叶えるまでは死ねん」
でも彼は私のそれにちゃんと返してくれる。それが堪らなく嬉しかったりする。
「それを堂々と夢として語ってしまうところが凄いわね。呆れるわ」
会話を交わしてくれたことへの感謝と、ほめ言葉のつもり。
久しぶりの会話。
少しだけ心が躍る。
いつもの儀礼的なやり取りが終わり、彼に紅茶を淹れる。
紅茶には相応しくない、男性用の湯呑み茶碗。
いつものように、二週間前のように交わす言葉は心地よく、話したいこと、聞いて欲しいことが次から次へと溢れてくる。
そんな会話が一段落すると彼は、彼の指定席に腰を下ろして、持参した文庫本を開く。その様子を確認して安堵し、私は再び手元の資料に目を落とす。
そして「二人」の時間は「三人」の時間へと移っていく。
「やっはろー、ゆきのん…あ、ヒッキーだ」
彼が居ない間の支えになってくれていた由比ヶ浜さんがやってくる。
「おう」
相変わらずのぶっきら棒さん。
「ほらほらゆきのん、久々のヒッキーだよ~」
私の隣へ来て、少々過剰なスキンシップをしてくる彼女。彼がいるのがそんなに嬉しいのか、いつもよりテンションが高い。
しかし、久しぶりの三人の時間はそこで終わりを告げてしまった。
「悪い、久々に来といてすまないが、俺今日用事あるから帰る」
「え…」
思わず立ち上がりそうになるのを堪える。
「えー、なんでー、もう帰っちゃうの~?」
時々、素直にそう言える彼女が羨ましくなる。
「ああ、悪いな」
彼は、本当に帰ってしまった。
そして、今日も依頼は無いまま下校時刻がやってくる。
「今日はこの辺で終わりましょう。依頼も無いようだし」
「じゃあさ、今日も勉強教えて~」
彼女に甘えられるのは嫌いではない。むしろ。
「では、今日も家でいいかしら?」
「ありがと~、ゆきのんっ」
でも暑苦しいわ由比ヶ浜さん。
☆ ☆ ☆
放課後、早々に部室を退散して校舎外へ出たところに三浦優美子がいた。三浦は苛立ちを顕に俺に詰め寄ってきた。
「ヒキオさー、最近隼人とよくしゃべってるよね。何かあんの?」
「なんだ、そんなことを言う為に待ち伏せしたのか」
「はぁ?」
三浦の表情は怒りから、寂しげな面持ちに変わっていた。
「男同士だからいろいろあんのかもしんないけどさ…」
三浦の話を聞きながらスマホの時計をちらっと見る。
「悪いな。もう少しだけ葉山を貸してくれ」
まずい、もうこんな時間だ。
「あ、もしもし、比企谷です。経過報告と、ちょっとお聞きしたいことが…」
☆ ☆ ☆
6月9日 火曜日 夜
由比ヶ浜さんと一緒に帰宅した私、雪ノ下雪乃は苦戦していた。
由比ヶ浜さんに勉強を教え始めて数時間。私の教え方の所為なのか由比ヶ浜さんの理解力の所為なのか、あまり捗ってはいない。
時間は夜9時を回っていた。
「で、ここに先程の式を代入して…そうそう、あ、そうではなくて」
人に教えるという行為は、私自身の復習にもなる。にしても同じことを反復しすぎだわ。
「…ふう、疲れたぁ。やっぱ関数は苦手だ~」
伸びをしながら由比ヶ浜が零す。
「あら、苦手なのは関数だけ?」
私の軽口を聞いて、ぷぅと膨れる顔を見ていると、自分の表情がほころんでいるのが自身でもわかる。
由比ヶ浜さんは不思議な人。
今までの誰とも違う、一緒にいるだけで何だか愉快な気持ちになれる人。
心落ち着ける、陽だまりのような人。
「もーひどいよ~ゆきのん」
正直、同性の相手にここまで気を許せるとは、過去の自分は想像すらしていなかった。
「さあ、今日はもう遅いわ。またにしましょう。」
夜10時を回ったところで、二人だけの勉強会はお開きにすることにした。
マンションの外まで彼女を送る。外は雨が降り始めていた。
彼女が角を曲がったのを見届けた後、振り返って歩き出し、歩を止める。不意に甘いものが欲しくなった。
そのまま近所の、徒歩で2分ほどのコンビニエンスストアに向かう。
色々と物色していると、思わずある飲料に目が留まった。
濃い黄色というべきか薄い茶色というべきか、その缶に視線は釘付けになる。
MAXコーヒー。
彼が好んで飲んでいた飲み物。それを一本手に取り、レジに向かう。コンビニの帰り道、MAXコーヒーを口に運ぶ。缶を傾けるたびに強い練乳の甘みが広がる。
胸が締めつけられる強烈な甘さ。その間隙を縫って弱く主張する仄かな苦味。
雨脚が強くなる中、甘い口のまま私は家路を急ぐ。
最後の曲がり角を曲がる瞬間。
背後から私は強く押され、地面に這わされた。
倒れた私を見下ろすのは、覆面の顔。
すぐに立ち上がり逃げようとする。が、遅かった。
覆面の人物の蹴りは、身体を起こそうとした私の二の腕にめり込んだ。
それでも這いずってでも逃げようとすると、
私は、覆面の人物に後ろから殴られた。
「…ノ下!」
誰かが呼んでいるような声と、水溜りに落ちた赤いアザレアの花。
そこで私の意識は途絶えた。
☆ ☆ ☆
お読みいただきありがとうございます
第7話、いかがだったでしょうか。
最初はただの器物損壊だった事件は次第に大きくなってしまいました。
果たして雪ノ下雪乃は。
ではまた次回。