22 彼女は彼女の光となる
部室のドアが軽快な音を立てて開く。
「たっだいま…あ、あ~っ!ゆきのんがヒッキーにえっちなことしてる~」
善し悪しは別にして、タイミングを見計らったように由比ヶ浜が戻ってくる。
「あ、こ、これは…違うのよ違うのよ違うのよ…」
ささっと俺から離れて本来の窓際に戻ると、雪ノ下は本を開いた。
「…ゆきのん、本が逆さまだよ」
古典的なボケを天然でかます雪ノ下。由比ヶ浜の視線は更に鋭さを増す。
「んー、怪しいなぁ」
一瞬ぷぅと膨張したかと思ったら、思い立ったようにニヤニヤしてこっちを見る由比ヶ浜。悪だくみを伴った笑顔。
「でもさ、その手じゃ不便だよね。いろいろ」
狼狽する雪ノ下を放置して話題を変える。ころころと、表情も話題も忙しい奴だな、由比ヶ浜よ。
「ん、ああ。まあ一ヶ月の辛抱だな」
一瞬だけ二人の女子の表情が固まる。
「い、一ヶ月も!?」
あくまで冷静に事実だけを伝えたつもりだった。そこには誰を責める気持ちも、同情を誘う気持ちも無かった。しかし雪ノ下も由比ヶ浜も沈痛の表情になってしまった。
慌てて俺は言葉を継ぎ足す。
「あ、ああ。左手は切り傷と捻挫と打撲で済んだが、右手は折れちまったらしいからな。」
雪ノ下の目にまた涙が溢れる。もう泣かせたくはないのに、また失敗しちまった。
「あー、別におまえ…たちが気に病むことではないからな」
そうだ。俺は雪ノ下陽乃さんの依頼を遂行したに過ぎない。
「…ゆきのん」
涙ぐむ雪ノ下を抱き寄せ、髪を撫でる由比ヶ浜。いつもは甘えている由比ヶ浜が、今日はお姉さん役。逆ゆるゆり。いや逆になっても女子どうしだから同じか。
雪ノ下から体を離し、深呼吸をひとつ。由比ヶ浜は語り出した。
「ヒッキーのケガは、ゆきのんを守るためにしたんだよね?」
突然責めるような台詞を吐いた由比ヶ浜を睨む。
「いや別にそういう…つーかおまえ、そんな言い方したら…」
雪ノ下が俺の羅列を断ち切る。
「そうね。私のせいね」
同意した雪ノ下に正直驚く。つーか俺の意見は無視ですかそうですか。
「だったら、やっぱり今ヒッキーの面倒はゆきのんが看るべきなんだよね」
それはお門違いだ。俺は自分のやりたいようにやっただけで、この怪我はただの結果だ。
しかし雪ノ下にしてみれば、俺の怪我は自分を助けるために負った、そう考えてもおかしくは無い。それは自分自身を責める材料となり得る。
それを解った上で由比ヶ浜は、俺の怪我の責任は雪ノ下にあると言い放ったのだ。責任の所在を明らかにしその贖罪の方法を提示することで、雪ノ下が必要以上に自分を責めずに済むようにするために。
由比ヶ浜は由比ヶ浜なりに、雪ノ下の罪の意識を薄めることを考えていたのだ。少なくとも俺にはそう解釈できた。
「由比ヶ浜さん…」
事実、赦される方法を示された雪ノ下の表情は明らかに軽くなっていた。
「その代わり」
びしっと人差し指を立てて、由比ヶ浜は宣言する。
「元気になったらちょっとヒッキー独占させてね~」
元気になったらという言葉が示すのは、俺の怪我が全快したら、ではない。雪ノ下の良心の呵責が消えたら、という意味なのだろう。
「…仕方ないわね。わかったわ」
「おいおまえら、俺に関わることを俺抜きで決めるな」
俺のことなのに俺が蚊帳の外。何という理不尽さ。
しかし今回は、雪ノ下の思うようにさせてやりたかった。それで少しでも雪ノ下の心の重荷が軽減されれば良いと思った。
「…わかった。大人しく面倒を見られりゃいいんだろ。今だけな」
出来るだけ不本意を装って応えるのは、由比ヶ浜への最低限の配慮だ。
雪ノ下は深々と由比ヶ浜に頭を下げた。
「ありがとう、由比ヶ浜さん。では比企谷くんを少し借りるわね」
「おい、俺は賃貸物件じゃねえぞ」
雪ノ下の言葉は、贖罪の機会を作り与えてくれた由比ヶ浜への、心からの感謝だった。
部活終了後。
雪ノ下がどうしてもというので、晩飯を食べに雪ノ下のマンションへ来た。
まあ、メシをご馳走になるくらいで雪ノ下の気持ちが軽くなるならそれでいい。
由比ヶ浜は三浦たちと今回の事件の打ち上げに行った。事件の打ち上げって何だよ。まあ、今回は結果的にみんなの手も借りたからな。
「少し座っていて。用意するから」
二人掛けのソファーに座らされた俺は、両手の怪我のおかげで本を読むことも出来ず、スマホを触ることも儘ならず、手持ち無沙汰のまま座っていた。
キッチンから漏れ聞こえる調理の音と、時計の針の音が響くリビングで待つこと約1時間。
「おまちどおさま」
ダイニングテーブルに促されると、そこには食べきれないくらいの料理が並んでいた。
「お、おい、これって」
エプロンを外しながら笑顔を向ける雪ノ下に少々照れる。
「助けてくれたお礼よ」
それにしても、手の込んだ料理ばかりが並んでいる。とても1時間そこらで作れるようなものではない。事前の下拵えでもしておかないと一時間では無理なものばかりだ。
椅子を引いてもらって席に着く。目の前にはナイフもフォークも用意されていない。
「ところで、ナイフもフォークも無いんだが」
なんだ、期待させておいてお預けプレイか。それも悪くないと思える俺は変態なのだろうか。
「あなた、その手でナイフやフォークを使うつもりなの?」
スツールを俺の席の横に置いた雪ノ下は俺の膝の上にナプキンを敷き、目の前の料理をナイフで切り分け始めた。そして。
「…あーん」
とりあえず状況を整理したい。ここは雪ノ下のマンション。目の前には豪華な手料理。
そして今、雪ノ下が『あーん』って。
『あーん』って。
『あーん』…って!?
「早く、あーん」
上手く状況を把握できないが、そういうプレイなの? 餌付けプレイなの?
横にいる雪ノ下の顔が真っ赤になって、その温度が伝わってくる。
「その、早く食べてくれないと…恥ずかしいのだけれど」
「あ、ああ。悪い」
俺まで赤くなる。赤い顔のまま口を開ける。雪ノ下の顔が真横にある。気恥ずかしさで俺は目を閉じる。お、これは肉か。
「…美味い」
本当に美味かった。きっと高価であろう上質な肉を適度な歯ごたえがある感じに丁寧に焼いてあって、その上にかけられたグレービーソースも甘すぎず辛すぎず、絶品だった。
「ありがとう」
俺の咀嚼を笑顔で見つめるな。まさか噛んだ回数でも数えていらっしゃるのか。
「ね、今度はどれが食べたいの?」
「じ、じゃあ、それ」
「はい。少し待ってね」
俺が目で指し示すだけの料理をさも当たり前のように的確に、次々と雪ノ下は食べさせてくれた。
「ちょっと待て。これじゃお前が食べられない…」
「いいの。私がこうしたいのだから。それに合間に私も食べるから気にしないで」
さっき俺に食べさせたフォークで、同じ皿の料理を自分の口にも運んでいる。
こ、これが、噂に聞くアレか。間接…間接フォーク。いや待てなんか違う。
どう表現すればいいのだろう。無理だ。こんな体験初めてだもの。初体験だもの。きゃっ。
「そ、そっか」
結局雪ノ下は、小一時間をかけて俺に晩飯を食べさせてくれた。
ちなみに一番恥ずかしかったのは、スープを飲んだ後に口を拭ってくれた瞬間だ。
今回もお読みいただきありがとうございます。
第22話、いかがでしたか?
日常の話って難しい。
ラブコメって難しい。
結果、文章書くのって、すごく難しい。
ではまた次回。