この作品も思えば長く続いたものでして、もう六年になります。
こんなにも長い間書き続けられたのは、読者の皆様の声援あってこそです。
そしてついに、この作品の完結が目前となりました。
どうか最後まで、主人公である彼らの生き様を見守ってあげてください。
それでは、どうぞ!
其処には色は無く、音も無く、風も無く、薫りも無く、光も無い。
まさしく『無窮の狭間』とも言うべき、あらゆる総てをそぎ落とされた空間であった。
痛いほどの静寂が包み込むその空間の中には、一人の男の姿がある。
否。正確には、一人の男と不定形の黒い塊のような存在が対峙していたのだった。
煤けたような緑の短髪をもつ男、八雲 縁が自らの能力を用いて作り上げた空間である
この場所は、彼の主人たる八雲 紫であっても発見が困難な、特殊な状態にある。
その為、この場所にこもっている限りは滅多なことがない限り干渉されないという事と同義で
あるので、誰にも聞かせたくない密談などをするには、うってつけであった。
淡い色味の幾何学模様で構成された結界に閉じ込められ、それでもまだぐにゃりぐにゃりと
形状を変化させ続けている黒い塊。影アソビと呼称される妖怪であるソレと向かい合うように
して直立する縁は、自らが構築した空間に異常がないことを確認してからようやく口を開いた。
「座標確認、方位各固定。安定状態を維持………問題なし。話し合いにもってこいな環境だ」
生来の気質なのか、はたまたかつて機械であった身体の事が抜けきらないのか。未だに冷淡な
機械染みた口調でこぼした言葉だったが、変わらずに蠢く相手からこちらの言葉がうまく伝達
されたか否かの判断はできない。その様子を無視して、縁は言い聞かせるよう話を続ける。
「さて、まずは状況の確認から始めるとしよう」
影アソビの様子に変化は見られない。相手にかまうことなく、彼は言葉を紡ぎだす。
「先程、お前たちは博麗の巫女を含めた幻想郷の住人たちによって撃退され、このままでは
再封印すらされずに退治されるところだった。人里のみならず、幻想郷の各地で多くの者に
被害を与えたお前たちには、当然ながら情状酌量の余地なしと見做されたわけだ」
これは紛う事なき事実である。人間や妖怪などの種族を問わず、さらには幻想郷のいたる所で
影と共に意識を剥奪してきたこのアソビ妖怪は、人妖関係なく危険分子と判断されていた。
だからこそ人と妖怪との共存を掲げる命蓮寺の尼僧たる聖 白蓮ですら、他者の影を奪い続ける
アソビ妖怪の危険性を充分に理解し、退治も止む無しと首を横に振ったのだ。
「だが、この私だけは…………私だけが、お前たちの想いを知っている」
『________________』
その瞬間、縁の言葉の続きを待ち望むように、ほんの僅かだが影アソビの蠢動が止まった。
「かつての私………機械の躯体であった私はお前たちと初めて出会った際に、程度の能力を使い
『……………………………』
「長い時を経た影響で怨嗟の色が濃く浮き出ていたが、意識の奥底でお前たちが望んでいた
のは、他者の影を奪い強くなる事などではない。ましてや、誰かを傷つける事でもない」
いつかの折と異なり真に人となった彼は、端々にうっすらと熱が籠もった言葉を連ねる。
目の前で時が止まったように動かなくなった影アソビを悠然と見つめ、縁は告げた。
「怖くてたまらなかったろう」
『_______‼』
弾かれた様に不定形の体を蠢かせる黒い影。しかし彼は話すことを止めない。
「恐ろしかっただろう、心細かっただろう、己の身に降りかかった不幸を嘆いただろう」
『………、…………。………………!』
「夜の暗さに怯え、襲い来る妖怪に慄き、傷の痛みに涙を流し、神仏に無事を祈ったろう」
『……………。…………‼ ………、……‼』
「そしてなにより_____________生きて、家に帰りたかっただろう」
その瞬間、結界に閉じ込められていた一体の黒い塊は弾け飛び、無数の人影に形を変えた。
だが縁は目の前の光景を見て、アソビに奪われた者たちが「元に戻った」のだと推測し、
諭すように語りかけ続けていた己の言葉が間違いではなかったと、安堵と共に頷く。
そんな彼の前に姿を現した、彼の腰ほどの背丈の人影の群れ。それは真夏日の陽炎の如く
不確かな存在のようで、ゆらゆらと揺らめき輪郭が薄ぼやけている。ざっと数えたところで
五十人ほどいるらしいが、どれもこれも黒く塗りつぶされていて表情などは窺えない。
すると、まるで遠くの方から聞こえてくるようにぼんやりと反響した声が聞こえてきた。
『どうして?』『どうして?』『なんで?』『なんで?』
寄せては返す波のさざめきの様に、次から次へと男とも女ともとれる声が響き渡る。
『かえれないの?』『もどれないの?』『しんじゃったの?』『いきられないの?』
縁を包み込むように聞こえてくるそれは、さながら声の万華鏡である。
純粋であるが故の疑問。無垢であるが故の狂気。アソビという妖怪にもたらされた邪念など
介在する余地の一切ない、子どもと言う存在の持つ真っ直ぐな想いが、彼にぶつけられる。
彼らは最早、この世にはいない。既に死んでしまった者たちの影、魂の写し身なのだ。
死の間際に抱いた思いが魂に刻み込まれ、その写し身たる影を呑まれてしまった哀れな子ら
でしかない。今の縁には、彼らにこれ以上の責め苦を負わせる事など出来はしなかった。
(……………何故、と問うか。当然だな。お前たちには落ち度など何一つ無いのだから)
罪を背負えと幻想に生きる人々は口にする。罪を償えと被害を受けた者達は口々に叫ぶ。
だが、この子たちの罪とは何なのか。縁には分からない。無残な死、非業の死によって
全てを奪い去られた影たちは正真正銘の被害者である。安寧すら許されないはずはない。
主人や今の己にとって世話になった数多くの人々を騙してまで時を稼いだ彼は、囚われた
子どもたちの無念を、その想いと直面して、いよいよ決心を固める。
「ならば______________私と往くか?」
一言そう呟いた縁は、無数の影の群れの中で目の前にいた一人の影に手を差し伸べた。
『………………?』
声のさざめきがピタリと止む。
人の身体を得ると同時に『心』を理解した今の縁には、彼らの苦悩と悲嘆に
今までの彼にとってアソビを中継して聞こえていた影たちの声は、ただそのようにあるという
程度のものでしかなかった。一人一人の嘆きや悲しみを、そういうものと把握するだけだった。
家に帰りたいとすすり泣く声を聴く。それをかつての縁は「そうか」と受け入れる。
死にたくないと喚き散らす声を聴く。それをかつての縁は「そうか」と受け入れる。
しかし人の身体の温もりを、真の意味での「繋がり」を知った今の彼は自らの『心』がもたらす
様々な感情を把握した。そうして彼は囚われの影たちに対し、『憐憫』の感情を抱いたのである。
再び戻ってきた静寂に楔を穿つような一言を、縁は繰り返す。
「私と共に往かないか?」
無数の喧騒は凪のように静まり返り、小さな影の群れは色のない顔で差し出された右手を見る。
言葉の意味が分かっていない、という訳でもないのだろう。縁は心の内で状況をそう判断した。
この子らは恐らく、自分に刻まれた今際の思念を反芻し続けるばかりで、その先を考えていない。
言葉足らずな幼子が泣き喚く際に同じ言葉を言い続けるのと同じで、理由が欠落しているのだ。
家に帰りたいと影はすすり泣く。だが、家に帰ってどうしたいのか。明確な想定が存在しない。
死にたくないと影は喚き散らす。だが、死なずに何をしたいのか。決定的な動機を失っている。
故に縁は、彼らに手を差し延べた。願いを叶えられずとも、彼らが存在できる理由を作りたいと。
『_____________』『_____________』『____________________』
影である彼らに目は無いが、暫くの間、縁の右手を見つめていたのだろうか。
まだ迷っているというより、もう少しで
「残念ながら、もうお前たちが生家に帰る事は出来ない。影であるお前たちを元の肉体へ還して
やる事も、恐らく不可能だろう。このままでいる事もままならず、やがては消えてしまう」
話を聞いているかは分からないが、影の群れの視線が右手から自分自身へ向くのを感じる縁。
手を差し延べておいて今更ではあるが、自分に彼らの思いを引き受ける事が出来るのかと僅かな
不安に駆られかける。それでも、かつて『心』を見失い、求め彷徨った己がこうして個としての
確立を成す事が出来た以上、何もかもを喪失して立ち尽くす彼らを救い導けない道理は、ない。
自らが「人」である事を信じられる縁は、影たちに焼き付いた子どもの『心』に語りかける。
「助ける事は出来ない。元に戻す事も、出来ない。それでも私は、お前たちを救いたい」
達筆で『縁』と書かれた布の下で、無自覚なままに頬を一粒の滴が伝い落ちていく。
「立ち止まるのなら、私が手を引こう。恐れるものあらば、私が共に在ろう」
知らぬ間に肩を震わせ、眉根は深く溝を刻み、瞳から零れる水滴は顎から無間の世界へ消える。
「死してなお影として現世に留まるお前たちの声なき声も、全て私が聞き届けよう」
顔を覆い隠す布越しの視界が滲んでぼやけ、最早影たちの輪郭すらも覚束ない。
「だから………」
それでも、機械の様に冷淡で、人形の様に平淡であったはずの人間は。
「______________もう、大丈夫だ」
知らず知らずのうちに内側から噴き上がるような熱に火照った体に、ほんの小さな風が触れる。
『………………………』
それは、風ではなかった。じんわりと胸の奥から膨らむ熱を解くかのように、影の群れの中から
歩み寄ってきた一人の影が、小さな手で差し延べた姿勢のまま震えていた彼の右手を掴んでいた。
はっとして手を握る影を見つめる縁の視線に気付いたのか、小さな影は静寂の中で呟く。
『____________もう、こわくない?』
「…………………ああ。もう君たちに、怖い思いなどさせないとも」
片手で包み込めてしまうほどに小さく幼い影の手を、精一杯の笑顔のままに優しく握り返す。
すると、動きを見せなかった影の群れの一部が揺らめき、影の内の一人が泡の様に消えていった。
目の前で唐突に起きた事象に驚く縁。しかし彼の右手を掴んでいる影が、また微かに言葉を紡ぐ。
『____________もう、さみしくない?』
「…………………ああ。いつでも私が、君たちと共に在ると言っただろう」
憮然とした物言いを止めた彼は、目の前にいる影だけでなく、その後ろにいる影の群れにも向けて
温かみのある声色で囁きかける。途端にまたも影が揺らぎ、また一人の影の姿が消えていく。
この問いかけを皮切りに、影たちは次々と、けれどきちんと聞き取れるように語りかけてきた。
魂に染み込んでいた思いの再現などではない、今ここにいる彼らの言葉に縁も真摯に応じる。
『____________もう、いたくない?』
『……………ああ。痛みに怯える事は二度とないと、約束しよう」
彼の言葉を聞き、また一人の影が揺らぎ薄らぎ消えていく。
『____________もう、きこえる?』
「…………ああ。私には君たちの声が、ちゃんと聞こえている」
一人、一人と、影の群れは少なくなっていく。
『____________もう、かえれない?』
「……ああ。だがこれからは、私が君たちの帰ってこられる唯一の場所となろう」
そうして、影の群れは減り続けていき。
『____________もう、いなくならない?』
「…ああ。君たちだけを置いていったりしない。私は常に、共に在る」
そしてついに、縁の手を握る影だけが残った。
右手を確かに掴んでいる小さな影の、次なる言葉を待ち続ける。
そうして一分か、はたまた十分か。縁が作り出した空間の中に、最後の影の言葉がこだました。
『____________ここに、いてもいい?』
その一言を聞いた直後は、「ここ」という意味を測りかねた縁だったが、影と言う不定形の存在で
あるうえに死者の魂の写し身たるその子どもが存在を乞い願う場所は、現世のみだと推察する。
おそらくこの影は、先に消えていった影たちの代弁者のような立場を請け負ったのだろう。
そして、縁が彼らに向けてかけた「共に往こう」という言葉から、自分のような生者でも死者でも
ない曖昧な存在が現世に留まる事と、それを受け入れてくれるのかと尋ねているのだ。
この問いに対して、彼の答えは既に決まっている。
「ああ、勿論だ。我が主の言葉を借りるが、『幻想郷は全てを受け入れる』という」
その在り方は揺らがない。人としての己を得ながら、道具として仕える矜持をも捨てる必要が
なくなった彼にとって、幻想郷が在り続ける限り、彼らのような存在も許されて然るべきなのだ。
だが、影の言葉はなおも続く。
『____________たくさん、きずつけたよ?』
「知っている。だが今回に限って言えば、誰一人として死んではいない」
『____________たくさん、とったよ?』
「それも知っている。なにせ私も、お前たちや影アソビと共に多くの影を奪ったからな」
『____________みんな、おこってたよ?』
「起こった事は変えられない。しかし、それについては私も同じ。等しく同罪だ」
繰り返す問答による時間の経過で、己が作り出したこの空間がそろそろ保たなくなってきていると
能力を通して察知する。空間が崩壊すれば、きっと紫やその他の面々がすぐさまやってきて、
アソビ妖怪の消滅を強行するに違いない。ここまできてそうはさせないと、握る手に力を込めた。
縁の焦燥が伝わったのか、それとも意を決したのか。小さな影の声が、再び聞こえた。
『____________でも、わたし、なにもないよ?』
これ以上に、小さな影を表すに相応しい言葉は無かった。
体も無い。形も無い。顔も無い。声も聞こえてはいるが肉声ではない。無い無い尽くしなのだ。
きっとこの影の本来の持ち主たる子は、聡明な思考を宿しながら優しい性格だったに違いない。
自分には何も無い事を知らしめ、それでも助ける理由があるのかと問う。
救いあげる必要などありはしないと。助けたのだとしても、返せるものなど何一つないのだと。
そんな思いがあることに気が付かないはずはなく、縁はごく自然な微笑みを浮かべ言葉を返す。
「お前たちのおかげで、心を失った人形は『心』を取り戻し、人間になる事が出来た」
いつの間にか引いていたはずの胸の熱が再び灯り出し、左手で影の掴む右手を包み込んだ。
「私を人として生かしてくれたのは、他でもなく君たちだと、私はそう思っている」
嘘偽りなく真っ直ぐに見つめながら述べる。実際には幻想郷に生きる人々との関わりによって
芽生えた自我の発露などの影響はあるが、それでも決定的な理由としては間違ってなどいない。
故に彼は、伝えるべき一言を、ようやく口にする。
「_________________ありがとう。君たちが、私を人間にしてくれたんだ」
『____________わたし、たちが?』
感謝の意を告げられるとは思っていなかったようで、反響する声にも狼狽の色が感じられた。
信じられないとでも言いたげな様子の小さな影に、縁はさらにたたみかける。
「私を救ってくれた君たちを、今度は私が救う番だ。損得や貴賤など、初めから関係ない」
主人である紫以外に初めて心の奥底を語った縁は、徐々に構築した空間が崩れ始めている事を
知覚する。もう時間はあまり残されていないと悟り、小さな影からの答えを静かに待つ。
そこから少しの間を置いて、縁の顔を見上げた影から再び幼い子供の声が聞こえてきた。
『____________ずっと、そばに、いてくれる?』
縋る様な、それでいて抑え込んでいる様な儚げな声に、縁はただ己の心に従い答える。
「約束しよう。私はずっと、君のそばにいる。ずっと一緒にいるとも」
彼の答えを聞き、小さな影は彼の腕の中へ飛び込む。
実体が無い影に触れる事は縁にも出来なかったが、それでも小さなその影を抱き留める。
触れた感触というものは何も感じられないはずだが、時折微かに影を包む腕が震えていたのは
決して気のせいなどではないと縁は確信していた。
やがて彼らのいた空間自体に大きな亀裂が奔り出し、そこから現世の光が差し込んできた。
強い光が布越しの視界に飛び込み、思わず目を細めた縁は、抱擁を解き影の小さな手を握る。
「さぁ、共に往こう」
『________いっしょなら、こわくないよ』
決意を新たに、今度こそ己の右手を握り返す感触があった事を認識した縁は、一歩を踏み出す。
崩れ落ちようとする色彩のない空間を振り返ることなく、彼は共に在る事を誓った存在を導く。
「最早この影に
光差す幻想の大地に、心を取り戻した一人の人間と、拠り処を見出した一つの影が歩を刻む。
「_____________帰ろう」
一枚の布で隠されたその顔に、澄み渡る青空のような、満面の笑みを浮かべて。
いかがだったでしょうか!
平成最後の投稿にしようとしていたのに、
出遅れてしまい令和初投稿になってしまった……不覚!
そして、これにて長きに渡り続いた今章、~幻想『緑環紫録』~も
堂々の完結と相成りました! 長かった……本当に長かった!
え? まだ色々片付いてない問題があるだろって?
そのあたりについては、この後の最終章で語らせていただきます。
ですので、もう少々お付き合いくださいませ。
それでは、長く続いた東方紅緑譚もいよいよ大詰め!
この物語の行き着く先に、二人の主人公は何を見るのか!
次回、東方紅緑譚
最終章 ~幻想『紅緑紀譚』~
第九十四話「紅緑の夜道、平穏な再会」
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《追記》
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