東方紅緑譚   作:萃夢想天

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どうも皆様、今週は書かないといっていたはずの萃夢想天です。
予定を一週間分きれいに間違えていまして。忙しいのは来週からでした。

さて今回、というよりも今回と次回の前後編でお送りする幕間ですが、
これは前回完結した章のキャラたちの補完ストーリー的な感じになります。
基本的には後日談、そして次の章が始まるまでの前日談という具合ですね。
タイトルから分かる通り、彼を巡って六人の女性たちがアレコレするという
話にしていくつもりです。さて、その栄えある六人とはいったい誰でしょうか。

幕間なので、本編より少々短めになりますが、ご了承ください。
それと次回は完全に再来週となります。こちらもご容赦くださいませ。


それでは、どうぞ!





幕間「紅き夜、彼を巡る六重の想愛(前編)」

 

 

 

 

 

 

______________フランドール・スカーレットの想愛

 

 

 

 

幻想郷の朝を明るく照らす太陽と、夜を淡く彩る月との位置を入れ替えようとした【暒夜(せいや)異変】

 

その異変を起こした主犯の少年と彼に偶然宿ってしまった魔人とが、己の存在理由と全てを賭けて

死力を振り絞った本気の弾幕ごっこが幕を閉じてから一夜。その少年、十六夜 紅夜が血より赤い

紅魔館へ帰ってきてから六日が経過したこの日の夜、彼は自身が仕えている主人が待つ館のテラス

へと向かっていた。

 

館の中心にそびえたつ時計塔の正面に位置するそのテラスは、よく図書館の本を強奪しに現れる

侵入者と、それをさせまいとするメイド長が決闘をする時に、広くて戦いやすいという理由で

使われる場所だ。天井も無ければ空を遮る屋根も無い、開放感あふれるそこへ、紅夜はいつもの

燕尾服で足を運んでいる。彼の足取りは、ここ最近の事情もあってか、目に見えて軽かった。

 

黒曜石が溶けて浮かんでいるような夜空の中で、儚げな美しさを青白い光と共に輝かせる三日月が

果てのない闇の頂でピタリと静止し、血よりも赤い館の醸し出す怪しげな雰囲気に拍車をかける。

白銀の髪を一歩ごとに揺らす少年がテラスに辿り着くと、粉々に砕けた宝石をちりばめたかにも

思える漆黒の空を見上げている、歪な形状の翼を背に生やした金色の髪の少女が彼を待っていた。

 

己の総てを捧げた敬愛する主人に対し、絶対的忠誠を抱く臣下は、深々と頭を下げて述べる。

 

 

「お嬢様、お待たせしてしまい面目次第もございません」

 

 

紅夜にお嬢様と呼ばれたその少女、禁断の吸血鬼フランドール・スカーレットは微かに笑う。

 

 

「いいの、ここに呼んだのは私だもん。ありがとう、紅夜」

 

「もったいなき御言葉」

 

 

およそ495年もの歳月を狂気の坩堝(るつぼ)の中に生きていたとは思えぬほど、その笑顔は澄み切り、

あまつさえ呼びつけた側である主君が命令を聞いた執事に礼を口にする優しさを見せた。

当然臣下の彼には主人の言葉はあまりに尊く、下げていた頭をより一層誠意と共に深く下げる。

しかし、いつまでも主人を椅子も何も無いところで立たせておくわけにはいかないため、

彼は自身の持つ能力と彼の中に宿るもう一人の助力によって、そこに一つの椅子を作り出す。

先程までは何も無かったテラスに、夜の闇にあってもなお目を惹く紅の霧で作られた豪奢な玉座が

設置され、それを見て眼を丸くするフランに、執事たる彼はただ黙って平手を向けて促した。

程度の能力と多少の魔力によって形成された霧の玉座は、おそるおそる腰かける幼げな主人の

身体にピッタリと合うサイズになっており、さらには独特な感触で驚愕と感嘆の声が上がる。

 

 

「ちょっとヒンヤリしてるけど、すっごくふかふか…………私にちょうどいい椅子だわ!」

 

「何よりでございます、お嬢様」

 

「やっぱり、紅夜はすごいわ。何でもできるんだもの!」

 

「お嬢様が御望みとあらば、何でも」

 

 

玉座の肘掛けの凝りように興奮するフランは、自慢の執事にして愛する彼を手放しで褒め称え、

それを受けた紅夜もまた、敬愛する主人の命令であれば全て成し遂げようと微笑んで答えた。

幻想郷の真夜中の空の下、欠けたる月の真下にて、禁忌とされてきた少女は紅い霧の玉座に

あどけないながらも気品を損なわずに座り、その背後に控える白銀の執事は無言で控える。

臣下である以上は、出過ぎた真似をするなど以ての外である。だが今日の彼は違った。

 

普段ならば主君の背後で静かに控え、いつ命令が下されても迅速に対応できるようにするのが

本来の彼の姿なのだが、今回はおもむろにフランの、主人の前へと回り込んで膝を折った。

片膝をつき、左手を右脇腹へ折り込む忠誠の構えを取る彼は、ただ静かにその口を開く。

 

 

「お嬢様、不躾ながらこの紅夜……………今一度、貴女様にお伝えすべきことが」

 

「何かしら?」

 

「失礼ですが、御手を拝借いたします」

 

 

恭しく頭を垂れる紅夜を見て最初は訝しんだものの、フランは足を優雅に組んだままの姿勢で

ゆっくりとした動作で右腕を伸ばして、その先の右手を彼の目と鼻の先まで動かして止める。

何をするのだろうかという期待に胸躍らせる中、彼はその白く細い幼子の手を大事に包み込み、

何度も温もりを確かめるように撫で回した後、少し身を浮かせて主君の手の甲に唇を当てた。

 

いわゆる、『永遠の忠誠』を約束する定番の仕草の後に、その体勢のまま彼は誓いを立てる。

 

 

「この十六夜 紅夜、世界に夜が訪れる限り、貴女様へ変わらぬ永遠の忠誠を誓います」

 

大事そうに、とても大事そうにその手を指で撫でてから、紅夜は主人の手を放す。

彼の取った行動の意味を理解したフランは、彼の温もりが直に触れた右手の甲をまじまじと

見つめた直後、うっとりとした様子のまま左手で彼の唇が触れた場所を静かに包み込む。

 

「紅夜………」

 

「新たに与えられたこの第二の人生、その全て、再びお嬢様に捧げます」

 

 

次いで語られたその言葉が、フランの鼓膜を伝って脳に届いた瞬間、彼女の心は飛び跳ねた。

 

この世に生まれ落ちてからずっと、495年もの長い長い年月を、たった独りで過ごさなければ

ならない『運命』に縛られていた彼女は、外から来たという目の前の少年に全てを変えられた。

彼がいなければ、彼女は自分の手が、万物を破壊する力を宿すその手が、誰かと繋げることが

できる日が来るなどとは夢にも思わなかった。叶うはずないと諦めていた。だが実現した。

 

紅夜がフランの望みを、孤独を、渇望を、狂気を、歪んだ心を、全てを受け入れてくれた。

初めて出会ったあの日、彼が執事になって仕えてくれると誓ったあの日、ずっと一緒にいると

約束してくれたあの日。たった一日の出会いが、禁忌に縛られる少女を解き放ったのだ。

そんな優しくて頼れる男性に、何も知らない純粋な少女が心を奪われないわけがない。

 

そして今もまた、彼は一度死んで蘇った後でも、こうして仕えてくれると誓ってくれた。

 

幼子の『好き』を遥かに超越した感情を、禁忌の吸血鬼が抱いても何もおかしくはないのだ。

 

 

「…………ねぇ、紅夜」

 

「はい、お嬢様」

 

 

まだ右手の甲を愛おしそうに眺める彼女は、そのままずっと頭を垂れていた恋い焦がれる執事に

声を掛け、予想通りに反応が返ってきたところで、少しの迷いもなく考えていた事を口にする。

 

 

「私も、私もあなたに誓いたい!」

 

「誓い、でございますか? 僕に?」

 

「うん、そう! ね、いいでしょ?」

 

「は、はぁ………」

 

 

一度言ったら聞かない、というよりも、ワガママを言い出したら聞かないという性格であると

熟知している紅夜は、一体何をなさるつもりだろうかと懸念しつつも主人の言葉に首肯した。

 

「じゃあね、えっと____________」

 

「…………お、お嬢様。ソレは流石に問題がございます」

 

「でも………」

 

「僕も、それをしてどうなるか想像もつかないのですから。御止めになった方が」

「それくらいなら大丈夫よ! ね、いいでしょ? お願い!」

 

「……………分かりました。僕も、覚悟を決めましょう」

 

 

そこから彼は、内緒話をするように耳打ちをされて伝えられた内容を少し渋ってみたものの、

主人からの御言葉とあっては無下にするわけにもいかず、実行に移すための行動を開始する。

 

困ったように眉をハの字に曲げながら、キッチリと着こなしていた執事服をわざと着崩して、

月の淡い光りを受けて艶めかしさすらもうかがえるその首筋を、よく見えるように突き出す。

幼子のようであれど、その中身は吸血鬼に変わりはない。真っ白に映える柔肌を前にして、

首筋にかけて体内に張り巡らされている愛しい人の首を前に、彼女が我慢できるはずもない。

 

紅き霧の玉座から立ち上がったフランは、差し出されたその首筋に向かって歩き出していき、

彼のその白い肌と浮き上がった血管めがけて、吸血鬼である彼女はその牙を突き立てた。

 

 

「じゅる………ずずっ、ちゅっ…………ちゅる、んくっ」

 

「あ、ああっ!」

 

 

真夜中の月下、二人しかいない紅魔館のテラスに、小さく幽かな水音が風に乗って流れる。

二、三度ほど液体を(すす)った後で、こくりと液体を嚥下する音が何度も繰り返され、

それは幾度も幾度も鳴らされ続けた。フランは、ここで初めて愛しの彼の血を飲んだのだ。

 

(咲夜が前にお夕食で出してくれてた血のスープよりも、こっちは……………苦くて濃いわ)

 

 

ちゅうちゅう、と音を鳴らして首筋に吸い付くフランは、突き立てた犬歯の先から零れる

愛しい彼の血液を口腔に含んで、その味を楽しもうと考えていた。けれど今まで吸ってきた

どの血液とも違う味覚を伝えてくる彼の体液を、彼女は眉根をひそめつつも味わった。

 

余談だが、フランは当然レミリアの妹であるから、その食事も全て一級品が使われており、

間違っても麻薬成分や化学薬品が大量に混じった不純液など、飲んだことは一度も無い。

味わったことのないものを味わったからか、はたまた幼さが残る身体組成の影響か不明だが、

彼女の舌と味覚は、未知の感覚を与えてくるその液体が、その味が癖になってしまっていた。

 

 

(でも、なんか頭がぼーっとして…………気持ちよくなってきたかも)

 

 

舌の上がビリビリと痺れる感覚が、舌の根の辺りにじんわりと広がる特有の濃い苦みが、

純粋で健康的な血液しか知らなかった箱入り娘の味覚を汚し、快楽となって全身を駆け巡る。

新しい世界に一歩踏み入ってしまった彼女は、吸うだけでは飽き足らずに小さな舌を使って、

彼の首についた傷跡をミルクに夢中になる仔犬のようにペロペロと舐め回し始めた。

 

血を吸われること自体が初めてだった彼に、主人の舌が首筋を拙くも忙しなく動くことなど

想定できていたはずもなく、突如として始まったその感触に、ただただ慌てるしかない。

 

 

「お、お嬢様⁉」

 

「あむ、ちゅぅ…………れろ、えう…………ちゅぱ……じゅる」

 

 

一心不乱に小さな舌で懸命に血を舐めとるフランと、その舌の動きがぞわぞわとした快楽に

変わりつつあることに耐え忍んでいる紅夜は、互いに白い首筋に全神経を集中させている。

だがその意味合いは当たり前だが異なっている。フランは自分の愛しい彼の首から流れ出る

紅い体液の味に夢中だが、紅夜は敬愛する主人の行動によってもたらされる温かく柔らかい

感触で、変な気を起こさないようにと必死に己を律しているのだ。

 

そんな彼の心中など知る由も無く、彼女はただ欲するままに、彼の体液の味に酔い痴れる。

 

 

(コレ、好きぃ………お姉様が言ってた『大人の味』って、この事だったのね!)

 

 

何度味わっても慣れない濃さと苦さを、フランは前に姉から聞いていた言葉を都合よく

当てはめて、コレがそうなのだと勝手に納得してしまう。それからしばらく、時間にして

約一分間ほど彼の熱い体液を堪能した彼女は最後に、傷跡を癒すように舌を使って丁寧に

首筋を舐め回す。ぴちゃ、と水音を立てて離れていく彼女の唇には、彼の首の傷との間に

結ばれた粘性の高い糸があり、つつーっと伸びていくソレはやがてテラスの床へと消えた。

 

口の端から垂れていた血と涎の混じった液体を指で掬ってそれをしゃぶり、後始末を完全に

終えたフランは、自分の唾液で濡れた指をそのままに、呆けている彼の頬にその手を伸ばす。

自分の頬が濡れた感触で正気に戻った紅夜は、三日月の真下で紅い瞳を怪しく輝かせている

主人の姿に、これまで感じたことのない威厳のようなものを感じ、表情を険しくさせた。

 

固い顔つきになった執事の頬を撫でながら、禁忌の主人は蠱惑的な響きで誓いを口にする。

 

それはつい先程、目の前の彼が自らに立ててくれたのと、同じ口ぶりでの誓いだった。

 

 

「我が従者、十六夜 紅夜に紅い血が流れる限り、貴方に変わらぬ永遠の愛を誓います」

 

 

壊れないように、壊さないようにとその頬を撫でてから、フランは紅夜から手を引く。

彼女の行動と言動の意味を理解した紅夜は、彼女の温もりが直に触れた左の頬を触って、

熱に浮かされたような表情になり、少し濡れているそこを右手で優しく包み込んだ。

 

「お嬢様………」

 

「紅夜が解放してくれた私の未来、この先もずっと、紅夜だけに捧げるわ」

 

恥ずかしそうに頬を染め、それでも目線だけは外さずに言い切った主人に執事は頭を下げる。

真下を向いた彼の目線は床へ突き刺さるが、今の彼は全く別のものを見ていた。

 

 

(お嬢様…………あれほど、あれほどワガママでいらっしゃったのに、いつの間にこれほど!)

 

彼はその目で見ていなくとも常に考えているのは、己が仕える主人についてであった。

初めて出会った時は精神が不安定で、何をきっかけに暴れだすか分からないほどに危険な

状態であったが、それは自分が執事として仕え始めてから少しずつ改善されていった。

勿論いきなり変わったわけではなく、彼女の自室である地下牢で彼女の要求を可能な限り

呑み込みながらも、主人を一人前の淑女にするための教育を彼が徐々に施していたのだ。

けれど彼女は中々変わろうとしなかった。495年もの間を孤独に過ごし、心を壊していた

彼女が、翌日には完璧な淑女になることなど当然有り得ず、紅夜自身もそんなに早くは

変われないだろうと覚悟していた。ただ、彼は自分に残された時間の少なさを理解して、

なるべく早く主人を立派にするために、彼女の事を常に考えて生活していた。

 

ところが今、目の前で主人は、何をしただろうか。

 

あのワガママばかりですぐに癇癪を起こす主人が、臣下で執事の自分に、愛を誓ったのだ。

内に宿る魔人との騒動の中で一週間ほど見ない間に、それほどまでに成長した姿を見せられ、

それが自分の行いがついに実を結んだ結果なのだと思うと、歓喜せずにはいられない。

甘えてばかりだった彼女がここまでたくましくなった、紅夜の視界は涙でにじんでいた。

 

 

(お嬢様、お嬢様! こんなにも成長なされて…………感無量でございます‼)

 

 

その喜びはもはや心中に留めておくことなど出来ず、歓喜の滴となって彼の紅い瞳から

ポロポロと立て続けに流れ落ちていくが、下を向いていて気づかれることはなかった。

彼の中にいる、約一名を除いては。

 

 

『…………………アホくせェ』

 

 

目の前(というか同じ視点)で主人と臣下の愛の誓いを見せられた彼、紅夜に宿った魔人は

ただただ、震わせて泣いている自分の器である少年に、冷ややかな視線を投げつける。

 

片眼を閉じたような三日月が淡く輝く中、歪んだ吸血鬼と壊れた人間が、巡り合った。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

______________古明地 さとりの想愛

 

 

 

 

 

ここは忘れ去られたものの集う幻想郷の中でも、恐れ疎まれた者が流れる【地底】

 

大地の底、もとは地獄が経費削減の為に取り払った灼熱地獄跡地に移り住んだ者たちが

築き上げていった荒くれ者たちの最期の楽園。旧都と呼ばれる地は、今日も明るかった。

酒盛り、喧嘩、乱闘、飲み比べ。数え上げればきりがない量のいざこざが、この地底では

何よりの話のタネとなり、また酒の肴になる。要するに、日がな暇ですることが無いのだ。

そんな中で、地底に暮らす者なら誰もが知っている"ある妖怪"の噂話が、三日ほど前から

どこの店の酒席でも挙がっており、ソレが広まってもはや持ち切り状態になっていた。

 

 

『_______地霊殿の主が、病に倒れた』

 

 

地底の西端に位置する場所にそびえ立っている、荘厳な気配を漂わす巨大な洋館。

そこに住まう者の頂点に君臨する妖怪が、何やら病状を患って床に臥せっているという話が、

今や地底のどこに行っても聞けるほど大きな話題になっていた。それも、悪い意味で。

 

地霊殿の主の名は、古明地 さとり。『心を読む程度の能力』を持つ、覚り妖怪である。

彼女の前ではあらゆる企てが露見し、巧妙な嘘であろうとも目を合わせただけで看破される。

まさに対人においては無敵とも思える能力を有する存在が、病気で自室にこもっているという

噂は、むしろ地底の者どもからすれば喜ばしいとすら思えるほどの良い知らせであった。

 

彼女は元々、あまり地霊殿やその近辺から出てくることが少ない。しかし、彼女が出張れば

その先にあるもの全てがたちまち見抜かれてしまい、客商売は繁盛しなくなってしまう。

嘘をつく方が悪いのは当然なのだが、その嘘を見抜く力を持つ少女が何よりも恐ろしく、

また何よりも疎ましいと感じるのがここの荒くれ者どもだ。このままずっと病に冒されて

いればいい、酒に酔って口走る者が後を絶たない地底は、皮肉にも今日も平和であった。

 

 

そんな酷い噂が立てられている中で、当の古明地 さとり本人はというと。

 

 

「……………………」

 

 

火のない所に煙は立たぬ。噂の通りに、自室に閉じこもったまま時間を過ごしていた。

しかし、やはり噂は噂でしかなく、本当の事とはどこかしら一部分でも違ったりする。

現に彼女は何の病気にも罹っておらず、地霊殿にこもって日々を過ごしているという点では、

いつもと何も変わりは無い状態である。ただ、健康体であるかと聞かれれば、即答しかねる。

 

 

「すぅ………はぁ……」

 

 

彼女は今、自分の寝具(ベッド)の中で小さくなっている。しかし、時刻は真昼を過ぎていた。

地霊殿の主として厳格者である彼女にしては、こんな時間になるまで眠りこけているなど、

あまりに不摂生過ぎる。だが彼女は眠っているのではなく、その三つの瞳は開かれていた。

 

 

「……すぅ………はぁ……」

 

 

薄桃色の前髪から覗く幼さが残る二つの瞳と、左胸から覗くケーブルと繋がった赤い一つの

目玉、そのどれもが目の前にあるソレを一点に見つめ、さとり自身もソレに顔をうずめる。

彼女が顔を押し付けると、ソレはくしゃりと形を変えるものの、特有の質感を押し返す。

 

さとりが抱きしめ、顔をうずめているもの。ソレは、乾いて黒ずんだ血染みがついた燕尾服。

 

そう、数日前までこの地霊殿に住まい、彼女と共にいた記憶喪失の青年が着ていた服である。

 

 

「はぁぁ………すぅ………んん……」

 

 

元から黒一色であったその礼服は、より濃い黒い染みが重ね塗りされて禍々しい様相を呈して

いるのだが、彼女は乾いた血糊が顔に張り付くのも構わず、無心でソレを抱きしめ続けた。

 

彼女が今も抱きしめている燕尾服は、数日前に地底にやって来た謎の人物が着ていたもので、

そこに居合わせた鬼の頭領たる星熊 勇儀と血みどろの激戦を繰り広げた結果、服のあちこちが

破れたり焦げたりしている。とてもじゃないが、服として再び着こなすには無理があるだろう。

この服はその鬼との死闘の末に地霊殿に運び込まれた人物が最初に着ていたもの。治療行為の

邪魔になると脱がせていたため、彼が去ってしまった今でもここに残されているのだ。

 

鼻につく鉄臭さだが、その中に混じった『彼』の残り香を呼吸の度に感じられることが出来て、

さとりはまるで彼本人に全身を包み込まれているような錯覚を覚えながら、頬を紅に染める。

 

 

「ああ、忘………すぅ…………忘、どこなの……?」

 

 

しきりに彼の名を呼ぶさとり。忘というのは、鬼の頭領が放った渾身の一撃により記憶を

失ってしまった彼を、一時的にでもこの地霊殿に住まわせるためにつけた、仮の呼び名だ。

それだけが、彼女が付けた皮肉気なその名前だけが、彼と彼女とをつなぐ唯一の糸である。

本当ならば彼女は、過ぎ去った相手を想ってその名を呼び続け、心を焦がすほど弱くはない。

しかし現状、そうなってしまっている。こうなった原因を、意外にも本人は自覚していた。

 

 

今から数日、約六日ほど前の事である。日に日にこなせる雑務の質と量が向上していく彼を、

得意先の居酒屋へおつかいに向かわせてから、優に数時間が経過して心配し始めた頃だった。

おつかい自体は初めてのことではなく、地底の位置を覚えさせるためにさとりは自分の愛猫、

彼の身の回りの世話を頼んである火焔猫 燐(通称、お燐)を付き添いに、何度か近場の酒蔵へ

足を運ばせたことがある。物覚えがよく手際も良い彼が、今日ばかりはやけに帰りが遅いと

気付き、さとりは不思議に思うよりも先に、心配で居ても立ってもいられなくなっていた。

 

 

(何かあったのかしら? 荒くれ者連中に捕まって酷い目に………でもお燐もいるはずだし)

 

 

彼女は自分が地底に住む者たちのほとんどから疎まれていることを自覚しているため、

自分に世話になっていてかつ非力な人間である彼が、代わりに暴行を受ける可能性を考慮して

念のためにお燐を護衛につかせてある。彼女もそれなりの実力があるため、よほどのことでも

無い限りは、彼の安全は約束されているのだが、さとりはそれでも気が気ではない。

 

 

(もし、もしも何かあったら、どうしよう)

 

 

地底に暮らす魑魅魍魎にとって、人間は弱者か食糧。その程度の認識しか持たれていない。

粗暴な輩に捕まってしまい、万が一のことが起きたらと考えると、さとりは自分がその考えを

恐ろしいと払拭する前に、何としてでも彼の安全を確認しなければという強迫観念にかられる。

 

自分が飼い慣らしている地霊殿の動物たちにも捜索させようかと考え始めた直後、玄関の番を

任せてある九官鳥が、酷く慌てた様子でこちらに向かって飛んできた。どうしたのかと言葉で

尋ねるよりも早く、彼女は自身の能力を発動させて心を読み、その慌てぶりの理由を悟った。

 

 

「閻魔様がここへ? 一体何故、今になってここへ?」

 

「その理由は、私が自らお答えしましょう」

 

「!」

 

 

九官鳥の羽ばたきが止むと同時に、さとりの眼前に地獄の裁判長たる四季 映姫が立っていた。

いきなり現れた最高裁判官に驚きを隠せない中で、映姫はその鋭い瞳をさとりに向けて話す。

 

 

「どうも、古明地 さとり。旧地獄跡の管理はよくやってくれているようで、助かります」

 

「……いえ、それが役目でもありますから。それで、本日はどのようなご用件で?」

 

 

この時さとりは、嫌な予感を感じていた。目の前に立つ相手は、地獄で魂に裁きを下すほどの

責任ある立場に身を置く者であり、決して取り次ぎ無しでこんな辺鄙(へんぴ)な場所へ足を運ぶような

暇人でも自由人でもない。その閻魔大王が何故、いきなり自分のもとを訪れたのだろうか、と。

内心で嫌な予感が拭えないでいるさとりを前に、映姫はここへ来た理由を手短に述べた。

 

 

「単刀直入にお話します。貴女が先日拾って助けた、あの人間についてです」

 

「…………勇儀さんのお話は、本当でしたか。やはり彼は地獄の宝珠を」

 

「え? ああ、通行証の事ですか。それはまた別で、今は彼自身についてのお話でして」

「えっ……忘の?」

 

 

映姫の口から語られた話に違和感を覚え、思わず自身が付けた名で彼の事を呼んでしまう。

当然、目の前の相手が知りもしない名前を出されても困惑するだろうと思っていた彼女だったが、

そこには触れることなく話が続けられた。しかし、今度はさとりが困惑することとなる。

 

 

「貴女が忘と呼ぶその少年ですが、先程記憶を取り戻し、地上へと戻りました」

 

「_______________えっ?」

 

 

簡潔で事務的で、だからこそ閻魔大王のその言葉は、さとりの胸を大きく抉った。

 

そこから先の話は、彼女にしては珍しくうろ覚え程度にしか記憶に残っていない。

「記憶が戻った少年」、「今は名を伏せておく」、「彼の今後に問題は無い」などなど。

まさに馬の耳に念仏、といった状態に陥った彼女は、圧倒的上位者たる映姫の連絡のほとんどに

意識を傾けることが出来ず、ずっとある一言だけを脳内で延々と巡らせていた。

 

 

『彼が記憶を取り戻し、戻った』

 

 

それはつまり、彼には元々いるべき場所が、帰るべき場所があったということに他ならない。

喜ぶべきことだ。その言葉を聞いたさとりはそう思おうとしたが、どうしてもそう思えない。

帰る場所がある。そこには、彼の帰りを待つ者が、少なからず存在する。彼を待つ者がいる。

自分では、嫌われ恐れられ疎まれてきた自分では、その者の代わりにはなれなかったのか。

さとりの頭の中はそれだけで埋め尽くされていく。彼が、忘が自分の元を去っていった事実が。

ほんの五日ほど、それだけの時間しか彼を知らないのに、彼がいなくなるのが嫌で仕方ない。

 

(…………結局、また私は受け入れてもらえなかったのね)

 

 

これまで彼女は、彼女と妹は、心を読むという能力によって誰からも受け入れられずにいた。

どこに行っても、誰に会っても、その心の内にある全てを暴いて曝け出させてしまうその眼が

あるだけで、誰ともどこにもいられない。他者の全てを知れる彼女らは、他の全てに拒まれた。

彼もまた、その内の一人になったに過ぎない。そう考えれば楽になるはずなのに、なのに何故。

 

さとりの『こころ』は、彼が今までの『だれか』と同じであるという考えを拒絶し続ける。

 

重体のケガから復帰して目覚めた彼と二度目の邂逅を果たした際、彼は彼女を見て言った。

 

 

『僕は他人の心を読むことが、すごい事だとは思う。

でも同時に、とても悲しくて辛い力でもあるんだと思ってる』

 

『だって、相手と同じじゃないって、≪独り(ちがう)≫って、さみしいじゃないか』

 

『心を読む力を持つ君が、僕には悲しそうに見える。

それでも僕は、心を読む力そのものを否定はしない』

 

 

その言葉を聞くまでは彼の事を、警戒が必要な油断ならない人間もどきだと考えていた。

しかし今となっては彼だけが、彼だけが自分とその能力を受け入れてくれる唯一の存在だと

思えるようになっていた。事実、言葉でも心でも、受け入れてくれたのは彼だけなのだから。

その日から、その瞬間から、さとりは忘と名付けたその少年を想うようになっていたのだろう。

初めてだった。自分の持つ能力を、それを持って生まれた自分を悲しいと言ってもらえたのは。

初めてだった。彼の心を読んでも、一切の虚偽も偽りもない本心で、自分を見てもらえたのは。

 

気になっていた、その少年のことが。

想うようになっていた、彼のことを。

恋い焦がれてしまった、彼の全てに。

 

彼には自分の知らない秘密があった。彼の心からは何故か、二人分の声が読めるのだ。

きっとただの人間ではないだろうと警戒していたが、彼の言葉を聞いてからはもう夢中だった。

いつ読んでも、何度読んでも、彼の言葉と本心は一致している。そこに、畏怖や拒絶の色は無い。

彼だけは、きっと彼なら、こんな自分でも一緒に居てくれるかもしれない。

 

長い月日の中で消えかけていた淡い期待が、灯となってさとりの胸中で再燃し始めていた。

これから、これからもっと時間をかけて彼を知りたい。彼に知ってもらいたい。そうすれば。

しかし彼は、自分の元を去ってしまったのだ。

 

 

閻魔は言伝を全て伝え終えると、まだ用事があると言ってすぐに地霊殿を後にしていったが、

もはやさとりにはそんな事どうでもよかった。彼がいないのなら、もう何もかも興味が無い。

何をしようにも手がつかず、愛読していて途中が気になっていた本ですら、文字列を読むのが

億劫になって放り出してしまう始末。彼女はそんな自分の心が、どうしても読めなかった。

 

 

「他人の心は嫌でも読んでしまえるのに、自分の心だけは読めないなんて」

 

 

酷い話だ、ふざけている。これまで祈ったことすらない神に対しての罵倒を考えながらも、

地霊殿の主としての威厳と態度を損なうわけにはいかないと、自室で事務作業を続けていた。

けれど数分後には手が止まっていて、彼の帰りを待ちきれずに窓から旧都全体を見渡し、

もう彼が地底にはいないことを思い出すと、無気力な姿で事務机に向かってため息をつく。

 

そんな日を二日ほど続けたところで、さとりはあることに気が付いた。

「あんな急に出ていったのだから、ここに何か残っているかもしれない」

 

 

そう思い立つが早いか、彼女は元は来客用としてあった彼の部屋へと一目散に駆け出して、

扉を押し開いて中へ入り、彼が何か残したものが無いかどうかを懸命に探し始める。

だがその部屋は殺風景で、特にこれといった物は何も無く、せいぜい替えの和服がタンスに

たたんで入れてあっただけ。どこにも彼がいた形跡はなく、このままでは名の通りに誰もから

忘れ去られてしまうのではないかと、自分でさえいたことを忘れてしまうのではないかという

言いしれない恐怖に苛まれた。表現しえない感情に怯えていると、部屋に誰かが入って来た。

 

 

「っ! 忘、やっぱり帰ってきて_________」

 

「くぅん……」

 

「あ……………」

 

 

扉のそばにいたのは、彼女が可愛がっている愛犬の一頭。もちろん、探している彼ではない。

動物たちだけは見限らない、嘘はつかないといつぞや誰かに皮肉交じりに語った自分の言葉を

思い出して、心の中心だけが抜き取られたような感覚に陥ったさとりは無言でうつむく。

動物たちは自分と共にいてくれる。それは確かなことで、やはり嬉しい事に違いはない。

けれど、それでも、どうしても、彼にもいてほしい。彼ともずっと、一緒にいたかった。

 

愛犬の前で無様は晒せないという主の意地で涙をこらえていると、先程まで部屋の入り口で

佇んでいた犬が、目と鼻の先にまで歩み寄っていた。再び鼻を鳴らされ、彼女は顔を上げる。

 

 

「わふ」

「それ、は?」

 

「ばうっ」

 

「…………そう、彼が最初に着てた服なの。探してきてくれたのね、ありがとう」

 

「わん!」

 

 

犬の心を読んでその優しさに触れたさとりは、犬特有の湿った鼻先に構わず両腕で抱きしめる。

主の要望に応えられたことに満足した犬は、口にくわえていた服を床に落とした後で歩き出し、

部屋の外へ出てそのまま廊下を進んで行ってしまった。心を読まずともその行動の意図は分かる。

仕事すらも放り出すほどの精神状態である自分が、愛玩動物に涙を見られるわけにはいかない。

その上下関係を理解しているからこそ、あの犬はご褒美も待たずに黙って部屋を後にしてくれた。

 

愛犬の賢さを誇らしく思いながら、目の前に置かれたボロボロの服だったソレを手に取って、

これは記憶を失う前の彼が着ていたものだと分かっていても、抱き締めずにはいられなかった。

 

 

(………ひどいくらいに濃い血の匂い。でも何か、少し、優しい香りがする)

 

 

思いの丈をぶつけようとしただけだったのだが、不意に彼女の鼻腔を血臭以外の匂いがくすぐり、

それが男性特有の、特に彼の香りであると気付いた瞬間、歯止めが利かなくなっていた。

 

彼の服を手に入れてからは毎日、血まみれの燕尾服から漂う幽かな残り香を鼻腔で味わっては、

本人である忘のことを、彼のことを思い出して、あの笑顔と心の素直さを胸に匂いを吸い込む。

そうして彼の記憶が戻ったことを嬉しく思いながらも、自分の下から去ってしまった事実に、

抑えられない寂寥感を感じてしまい、それを紛らわせようとしてまた彼の服に顔をうずめる。

 

今はもう、彼が地霊殿が姿を消してから六日ほど経ってしまっている。

だがしかし、今の彼女は彼が去ってしまった日ほどの絶望と喪失感は、無かった。

 

彼からの伝言を預かってきたといっていた閻魔は、最後にこうも言っていた事を思い出した。

 

 

(『また逢う日まで』、か……………忘なら、あの子なら必ず来てくれる。そんな気がする)

 

 

口約束など、信じられるものではない。心の全てが読める彼女ならば、なおさらだ。

けれど彼女は知っている。たった一人だけ、言葉と心が一致している、銀色の髪の少年を。

彼の言葉ならば、信じられる。信じてもいいかもしれない。いや、信じたい。

 

「すぅぅ…………はぁ………」

 

彼が言った『また逢う日』がくるのをただ信じ、もはや薄れてしまった彼の匂いに包まれ、

岩盤の空に覆われた地底で待つその少女は、今宵も彼がここへやってくる夢を見て微笑む。

 

 

 










いかがだったでしょうか?

短くなるって言ったのに、なんで本編より長いんだ馬鹿野郎………(反省)
思いのほか筆が乗ってしまったといいますか、ええまあ、やる気が出ましたね。

さて今回から始まった幕間、六重の想愛("そうあい"でも"おもい"でも可)ですが、
まずはお嬢様回ということでフラン様とさとり様の想いを描かせていただきました。
フラン様の回で何かを思い描いた男子諸君、君らは正しい。でも判決は黒です。
吸血鬼なのに血を飲ませてないなぁというところから考えた回だったのですが、
あんな感じになるなんて思ってなかったんです。本当なんです信じてください。
続いてさとり様ですが、若干病んでる感がいなめなくもなくもないと言いますか、
違和感なく恋い焦がれる少女を書いたつもりなんですが、どうでしたでしょうか?

それと、来週こそ御休みとなります。混乱させてしまってすみません。


それでは次回、東方紅緑譚


幕間「紅き夜、彼を巡る六重の想愛(後編)」


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