東方紅緑譚   作:萃夢想天

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一昨日風呂場の扉で小指を傷付けました。
爪が真ん中から割れて出血がヤバかったです。
昨日から風呂に入る時に犯人に対して憎しみを込めた視線を
ぶつけるようにしている私がおりました。


それでは、どうぞ!


第弐十九話「動かない大図書館、紅き夜に降る雨」

 

幻想郷の西側にある霧の立ち込める湖に佇む深紅色の館、紅魔館。

晴れた日でも霧で視界が遮られるようなこの場所に、今は雨が降り注いでいる。

ただでさえ視界の悪くなる雨に、霧が混ざって何も見えない空間となっていた。

そんな外の景色をチラリとも見ずに、一心不乱に書物を読み漁る女性がいた。

紅魔館内の大図書館に住まう魔女、パチュリー・ノーレッジその人だ。

机の上に無造作に置かれた分厚い魔導書(グリモワール)を一冊手に取って開き、

パラパラとページをめくっては期待外れと言わんばかりに積み上げられた無数の

魔導書の塔の最上段に置いて、また別の魔導書を手に取り、同じ作業を繰り返す。

やがて机の上の魔導書が無くなってしまい、そこで初めてパチュリーは目を閉じる。

それを見計らってか、少し離れた場所で本棚の整理をしていた朱い長髪の小悪魔が

パチュリーの元まで歩み寄って、ねぎらいの言葉を投げかける。

 

 

「お疲れ様です、パチュリー様」

 

「……こあ、その言葉は私の探しているものが見つかってから言って欲しいわ」

 

「も、申し訳ありません!」

 

「いいのよ。でも、まだ足りないわ。早く次のを持ってきてくれないかしら」

 

「ハイ、只今(ただいま)!」

 

 

数回言葉を交わした小悪魔は、パチュリーの指差した辺りの本を棚から出して

何も置かれていない平らな机の上にドサリと音を立てて置いて、また戻っていった。

新たに置かれた魔導書を先程と同じ手順で読み漁り、また座っている椅子の周辺に

別の塔を築き始め、そこに再び魔導書を乗せていく。

何冊か読んだところで、ようやく外で雨が降っていることに気付いた。

パチュリーは作業を中断し、窓の外で降りしきる雨を見てある事を思い出していた。

 

 

「あの日も確か、こんな大雨の夜だったわね…………」

 

彼が___________十六夜 紅夜が紅魔館の住人になったあの日の事を。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「お嬢様! これは一体どういう事ですか⁉」

 

 

時刻は既に19時を大きく回った頃、紅魔館に女性の怒号が響いた。

その元凶はこの紅魔館のメイド長の十六夜 咲夜だった。

普段は凛とした雰囲気を纏っている彼女が何故狼狽しているのだろうか?

怒号を聞いた妖精メイド達がヒソヒソと話し合い始めるが、当の咲夜はそれを気に

かけることすらなく怒号のような疑問を浴びせた相手に再び尋ねた。

 

「お嬢様! この男は一体⁉」

 

咲夜は怒鳴りながら自分の主のそばにいる謎の少年を指差して再度尋ねた。

昨日彼女は自分の主人から『半日は館に入らず、人里で時間をつぶせ』と命じられていた。

不審には思ったものの、主人からの命令を拒む訳も無くその通りに今朝早く館を出た。

そして頃合いだろうと思って帰ってみれば、見知らぬ男が主人と会話しているではないか。

追い出そうと戦闘態勢に入った咲夜に向けて、彼女の主人のレミリアはこう告げた。

 

 

「ナイフをしまいなさい咲夜。コイツは我々、夜の眷属(けんぞく)の下僕となったのよ」

 

 

夜の眷属とは、夜の世界を生きる吸血鬼のことであり、

その下僕とは、吸血鬼に使える従者____________つまり自分と同じ存在ということ。

主人の言葉の意味を聡明な頭脳で即座に理解した咲夜は、男の素性を尋ねたのだ。

自分の知らないところで、自分の知らない人物が、自分の『世界』に忍び込んでいる。

咲夜はどうしても、そのように思えてならなかった。

 

 

「咲夜、コイツは今日からこの紅魔館の執事長を務めさせるから」

 

「お嬢様…………失礼ですが、お気は確かでございますか⁉」

 

「あら? 今の私はそんなにおかしく見えるの?」

 

「い、いえ……………ですがこんな、得体の知れない男が」

 

 

レミリアの衝撃的な言葉に耳を疑わざるを得なかった咲夜は驚きに目を見開いた。

そしてその開かれた目でゆっくりと謎の少年の方へと視線を向ける。

相手は咲夜の視線にすぐに気付き、何故か嬉しそうに微笑んで見つめ返してきた。

予想外の反応にまたも咲夜は驚くが、本当に驚いたのはこの後だった。

 

 

「それではレミリア様、僕はお嬢様の元に付き従いに向かいます」

 

「……………考え直さない? 今からでも私の下僕に____________」

 

「いえ、僕の主人はフランドールお嬢様ですので」

 

「………そう、そうか。残念だわ、お前が私の運命に関わらないだなんて」

 

「では、失礼致します」

 

 

男がレミリアと言葉を交わした直後、その姿が一瞬のうちに掻き消えた。

先程の会話の中で出てきた『フランドールお嬢様』という言葉もさることながら、

自分の『時を操る程度の能力』を持ってすら知覚不能な消え方をした事が驚愕だった。

咲夜は男が背を向けて歩き出したら、ナイフを投げつけて試してやろうと考えていた。

だがソレは叶わなかった。男が眼前から、忽然と姿を消してしまったからだ。

その様子を玉座から見下ろしていたレミリアが苦笑しながら咲夜をたしなめた。

 

 

「無駄よ咲夜。お前じゃアイツは捉えられない。時を止めなければ、だけど」

 

「………あの男は何者ですか、何故あんな奴が」

 

「私の決定よ、異存があるなら言ってみなさい」

 

「………ございません」

 

「そう、ならいいわ。そう言えば紹介してなかったわね。

アイツは悔しいことに私よりもフランの執事になる事を選んだ紅魔館の執事長。

名前は______________『十六夜 紅夜』よ。姉弟同士、仲良くなさい」

 

これまで散々驚いてきた咲夜だったが、最後の一言が一番驚かされた。

咲夜は自分の主人が気まぐれな性格だという事は知っていた、知ってはいた。

だがまさか、自分の弟を作り出そうなどと言い出すとは考えてもいなかった。

 

(お嬢様は何をお考えなの⁉ 私に弟なんて…………おと、うと?)

 

 

隠しきれない戸惑いと激昂が脳裏を駆け巡る中、一瞬何かが引っかかった。

咲夜の頭の中で、レミリアの発した言葉が、何故か妙に脳内に残響した。

それは、前日パチュリーの喘息を抑える薬を『迷いの竹林の薬剤師』から貰って

帰ってきた時に美鈴が何気なく発した一言と、同じようなざわめきを与えた。

たった一言。『弟』という一文字が頭の中をグルグルと飛び回って頭痛を発させる。

その痛みに顔をしかめた咲夜を見て、レミリアは満足そうな表情を浮かべた。

 

 

「いい機会だわ、咲夜。これから紅夜と暮らせるのだし、何か話してきなさい」

 

「…………………かしこまりました」

 

 

未だに頭の中に痛みを残す言葉に疑問を抱きながら、咲夜はその場を後にした。

 

 

男の言葉を思い出し、地下の牢獄につながる通路を急ぎ足で歩く。

少々普段の彼女が信条としている『瀟洒(しょうしゃ)』からはかけ離れた足取りだが、

そんな事はお構いなしと言わんばかりに歩を進める咲夜は、遂に目的地に辿り着いた。

昨日までは閉ざされていた地下牢の扉が、完全に開き切っていた。

中に目的の人物がいるであろう確認が取れた咲夜は、意を決して中に踏み入る。

その先にある主人の妹様の個室_________即ち牢獄なのだが_________に明かりが灯る。

自分では照明を点けたがらない彼女がするわけがない、あの男の仕業だ。

そう決めつけた咲夜は、明かりが漏れている鉄製の扉をわずかに開けて中を覗いた。

 

 

「お嬢様、もうすぐ20時でございます。お昼寝はおしまいですよ」

 

「…………やぁ、もうちょっと寝るのぉ…………」

 

 

牢の中には予想通りに先程の燕尾服の男がいて、この部屋の元々の住人もいた。

咲夜の主人であるレミリアの血を分けた妹、『フランドール・スカーレット』だ。

彼女は今まで棺桶の中に入って寝ていたはずだが、何故か今はベッドに寝ている。

シーツに(くる)まりながら、男の言葉を可愛らしく否定している。

だがその姿は、咲夜からしてみれば初めて見る光景だった。

 

 

「お嬢様、ワガママはいけませんよ…………起きてください」

 

「んん…………やぁだ……まだ眠いのぉ……………」

 

「困った方ですね。お嬢様、どうすればお起きくださいますか?」

 

「…………んふふ、お姫様は王子様のキスで起きるのよ?」

 

「………いえあの、流石にそれはご容赦くださいませんか?」

 

「何よ! してくれたっていいじゃない!」

 

「それはマズイですよお嬢様。僕は執事で貴女は主人、お分かりですか?」

 

「両想い‼」

 

「その通りでございま……………いえ、違うようで違わないようで」

 

「どっちなのよ…………もう」

 

 

そう言ってあからさまに機嫌を悪くしたフランがベッドから飛び降りる。

男はフランの脱ぎ捨てたパジャマを瞬時に回収し、綺麗に畳んでこれもまたいつ

部屋に持ち込んだのか不明だがクローゼットの中に几帳面にしまい込んだ。

手際だけは良いと評価しながら、いつの間にか取り出していたフランの着替えを

彼女に手渡して何かを小声で呟いた後、男がまたしても瞬時にその姿を消した。

驚いた咲夜は、自分の背後に唐突に現れた気配に対してナイフを構えた。

 

「待ってよ、僕は何もする気は無いんだ」

 

「…………………………」

 

 

先程までの主君に使える下僕のような口調は影も無く、あどけない少年のような

猫撫で声とでもいうような声で甘えるかのように咲夜に対して男が話しかけてきた。

あまりの違いに驚きながらも、構えたナイフをそのままに咲夜は振り向いた。

そこには予想通りに男がいたのだが、彼の表情は声の通りに蕩けていた。

出方を窺っている咲夜を余所に、男が感極まったように話しかけてくる。

 

 

「僕はずっと、ずっと会いたかった。だからここに来たんだ、姉さん」

「…………………………何の話?」

 

「昔の話だよ。でも今の僕らには関係無い…………ここで新しくやり直そうよ!」

 

「…………………だから、何の話?」

 

心底不快だった。

心底不愉快だった。

心底気味が悪かった。

目の前の男の言動の何もかもが自分を苛立たせる。

こうして向かい合っているだけで胸の奥で何かが押し潰されそうになる。

ハッキリ言ってしまえば、コイツには近寄りたくない。

咲夜は頭の中でそう考えながら、言葉の端々に怒りを込めて放つ。

相手はその言葉に戸惑っているのか、黙り込んでしまった。

その隙を逃すまいと、咲夜は一気にたたみかけた。

 

 

「言わせてもらうけど、貴方が何者かはもはやどうでもいいの。

ただ、この紅魔館に何故来たのか。そしてお嬢様達に何をしたのか。

それさえ聞ければいい、そうしたらもう二度と貴方には近付かないから」

 

「………姉さん?」

 

「だから、その"姉さん"と呼ぶのを止めなさい‼

気持ち悪いのよ! さっきからずっと、『会いたかった』だとか!

私は貴方なんて知らないし、知りたくもないわ‼

お嬢様の命令が無ければすぐにでもこの紅魔館から排除してやるのに‼

さあ、早く答えなさい。答えなければ力づくでも聞き出すわよ‼」

 

「……………ねえ………さん」

 

「ッ‼ もういいわ、強硬手段よ!」

 

 

男の言葉にとうとう怒りの沸点を超えた咲夜はナイフを投げる。

放たれた数本のナイフは、呆然としたまま動かない男に直進していく。

あと数秒で男の心臓付近に深々と突き刺さると思われたナイフが、突如砕け散る。

何が起こったのか一瞬分からなかった咲夜だったが、おびただしい殺気を向けられ

その奇怪な出来事の主犯が誰かを正確に理解させた。

 

 

「…………ねぇ咲夜、何してるの?」

 

「い、妹様………」

 

 

咲夜の視線の先には、右手を握ったフランドールがいた。

先程の自分の怒鳴り声が聞こえたのかと考えたが、その思考はすぐに掻き消される。

扉の前にいたはずのフランが、その姿を消したからだ。

辺りを見回した咲夜は、スッと首筋に少女の白く細い手が回されたことに気付く。

その手が咲夜の同じく細い首筋を尋常ならざる怪力で掴むと、フランの声が耳に届いた。

 

「今まで咲夜は私に色々してくれたわ…………食事を運んでくれたりね。

でも遊んではくれなかった。寂しい時に一緒にいたりはしてくれなかった。

咲夜はしてくれなかった。でも紅夜はしてくれたわ、ぜーんぶ。

遊んでくれたし、お話してくれたし、手も繋いでくれたのよ…………この手と」

 

 

そう言ってフランは咲夜の首を掴んでいる方とは逆の手を握りしめる。

そこにある大切な何かを掴んで離さないようにしているかのように。

 

 

「何でもかんでも壊しちゃう私に仕えるって約束もしてくれたの。

すっごく嬉しかったわ。紅夜がいてくれるだけで私は幸せになれるの。

紅夜以外の皆は好きだったけど、今は紅夜が一番好き。そばにいてほしい。

今までは皆にいてほしかったけど………………紅夜がいるから他はもういらない。

だからぁ_________________________咲夜も壊しちゃうかも、アハハハ♪」

 

 

まさしく、狂気に塗れた純粋にして邪悪な微笑み。

無邪気な笑顔の裏にこびり付いた、隠しきれない純然たる殺意。

抗う事の出来ない圧倒的な力の差、覆る事の無い絶対的な死の予感。

咲夜はジワジワと首に込められていく力を感じるたびに小さく震えた。

肌で直接その震えを感じ取ったのか、フランはご機嫌な口調で話を続ける。

 

 

「いくら咲夜が紅夜のお姉様だったとしても、関係無いわ。

私から紅夜を盗ろうとするなら、例えお姉様でも許さない。

ねえ咲夜、そんなに震えてどうしたの? 寒くは無いわよね?

……………怖い? 自分の命が奪われる実感があるのが、怖いの?

でも、私は紅夜を失う事の方がよっぽど怖いの。だから殺すの」

 

「い、妹様…………お静まり、ください………」

 

「私は冷静よ? だからこうして力加減も出来てるんだから。

それでぇ…………咲夜は紅夜に何をしようとしていたのかしら?

さっき紅夜は『姉さんに挨拶して参ります』って嬉しそうにしてたのに。

どうしてナイフなんて投げたりしたの? 紅夜が悪いことしたの?」

 

「そ、それは…………」

 

「何もしてないわ。紅夜は何も悪くなんてないんだから。

だったら咲夜がいけないのよね? 悪い子はゴメンナサイしなきゃダメよね?

あ、そうだわ。いいこと思いついちゃった‼

今から咲夜を『キュッとしてドカーン』して、グチャグチャになった肉片で

ゴメンナサイって文字を書くの‼ すっごく美味しそうな名案だわ、どうかしら?」

 

「お止め………ください………」

 

「それとも今からお腹を引き裂いて、はみ出した内臓を使って

ゴメンナサイって文字を書いた方が良いかしら? う~~~ん、迷っちゃう。

ねえ、紅夜はどっちが良いかし…………………あれ? 紅夜? どこ?」

 

 

咲夜とのやり取りに夢中になっていたフランが、紅夜がいなくなった事に気付いた。

周囲をキョロキョロと見回すが、漆黒の燕尾服も輝くような銀色の短髪も見えない。

途端にフランは咲夜から手を放して地下牢から飛び出した。恐らく紅夜を探しに

行ったのだろうが、何はともあれ助かったと咲夜は安堵のため息を漏らした。

 

 

「妹様があんな風になるなんて…………あの男は危険だわ」

 

 

どこにいるかもわからない男に向けて、咲夜はより濃さを増した殺気を放った。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「うっへ~、こりゃ一雨来そうだな……………咲夜さんもいないし、いいか!」

 

 

夜も更けてきた時間帯、空にはドス黒い色をした巨大な雨雲がかかっていた。

そんな夜空を見上げた門番の美鈴は付近にメイド長がいない事を確認してから、

門を開けて紅魔館内へとそそくさと戻っていった。

そんな彼女を視界の端で目視しながら、何も言わず立っている者がいた。

自身の『方向を操る程度の能力』でここまで音を立てずにやって来た紅夜だった。

彼は空を見上げず、ただただ俯いて風に揺れる草花を呆然と眺めていた。

やがて美鈴の予想通りに雨が降り出し、その量は徐々に膨大になっていく。

ものの二、三分で本降りに達した雨は、紅夜に構わず大地に向けて落下してくる。

 

「………………………………」

 

 

紅夜は、何も言えなかった。

レミリアの話を聞かされていたから、覚悟はしていた。

自分の事を覚えていない。理解はしていたが、事実を目の当たりにしたらこれだ。

あの地獄の中の唯一の救いだった彼女が、今まさに自分の心を苦しめている。

 

(随分と気の利いた皮肉だな………………)

 

 

そんな事を思いながら雨に打たれ続ける。

しかし、彼の耳の奥には先程の姉の言葉が深々と突き刺さっていた。

 

『_________気持ち悪いのよ!』

 

『_________貴方なんて知らないし、知りたくもないわ‼』

 

自分を否定する言葉。

その言葉を発したのは、最も逢いたかった姉。

ただそれだけの事実が、紅夜の心に重く冷たくのしかかった。

 

 

「…………うっ……………くうっ…………!」

 

 

気が付けば、紅夜は涙を流していた。

雨に打たれて気付かなかったが、彼のソレは妙に暖かかった。

その暖かさが、涙が流れ落ちる気がして。

紅夜は必死に涙を拭おうとするも、止めどなく涙は溢れ出る。

彼の心が限界を迎えるのも、そう長くはなかった。

 

「ううっ……………あ、ぐっ……………うう!」

 

 

視界はボヤけて、鼻からは水っぽい体液が雨と共に流れ出る。

固く結んだ口の端からは、喉の奥から嗚咽(おえつ)がこぼれ出てきた。

幻想(こちら)の世界で主人(かぞく)が出来た日に、現実(むこう)の世界の(かぞく)を失った。

耐え難い事実が、紅夜の心に致命的な傷を負わせる。

悲哀の感情も、憤怒の感情も沸いてこなかった。

今の紅夜の中に渦巻いているのは、後悔と激しい自己嫌悪だった。

 

「________________ッ! _________________ッ‼」

 

 

吠えるようにして泣き叫んだはずなのに、雨量を増した雨の音で声は掻き消された。

まるで空が紅夜の想いに同調し、共感し、同じ悲嘆の涙を流しているかのようだった。

頬を伝う嫌になるほど熱い滴も、数秒後には冷たい雨粒と区別がつかなくなる。

それほどの豪雨の中、涙が枯れるまで紅夜は泣き叫び続けた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

外で降っている雨を、不快そうにパチュリーは睨む。

彼女の持っている魔導書は普通の本と同じように、湿気に弱い物もある。

一応管理は徹底しているが、やはり性格上気にせずにはいられないのだ。

 

 

「早く止まないかしら……………………ん?」

 

 

しかし天候に文句を言っても仕方ないと諦め、読書を再開しようとした

パチュリーの耳に、奇妙な雑音が聞こえてきたような気がした。

一瞬風の音かとも思ったのだが、それにしては変な感じがしたのだ。

座っていた椅子から立ち上がり、窓辺に近付いて外を眺めてみる。

すると、紅魔館の玄関と門の間にある庭園の木の陰に誰かがいるのが見えた。

よく見てみると、それが昨日の侵入者であり紅魔館の新たな住人の少年だと分かった。

こんな時間に、こんな天気なのに、彼はあんな所で何をしているのだろうか。

 

「………まさかあれ、泣いてるの?」

 

 

そんなわけないか、と思い直しながらパチュリーは呟く。

あの少年__________今は十六夜 紅夜と名付けられているが、

彼がどのような人間であるかは、よく分かってはいない。

だが、彼が涙を流すほど弱い人間ではないとは思っていた。

生き別れた姉に再開する為に吸血鬼の根城だと知っていながらも単身で来て、

門番の美鈴と互角に戦い、あまつさえ狂気に憑りつかれた妹様と同じ部屋に

いながらも見事に生き残って紅魔館の執事長の地位を得るような人間なのだ。

しかし、だからこそ泣いているのであればその理由を聞きたい。

単なる知的好奇心_____________初めはそう思っていた。

 

 

「………こあ、美鈴を呼んで庭園に向かわせて」

 

「え? 美鈴さんを? どうしてですか?」

 

「雨が降ってるから館内に避難してるはずだから。

庭園に行けっていうのは、少し気になる事があるからよ」

 

「ハイ、分かりました」

 

 

小悪魔を呼んだパチュリーはサボっている美鈴を使って紅夜を呼び出した。

そして美鈴を向かわせてから数分後、大図書館の扉が開いて三人が入って来た。

一人は小悪魔、一人は少し濡れている美鈴、最後にずぶ濡れの紅夜の順だ。

パチュリーは読んでいた本を閉じてそちらを見たが、彼女の予想は当たっていた。

それなりに離れた距離にいる彼女にも、時折紅夜の口から漏れる嗚咽が聞こえた。

美鈴を下がらせて、小悪魔に身体を拭くタオルを持ってくるように命じた彼女は

紅夜を自分の近くに来るように言って、再び椅子に腰を掛けた。

トボトボと鈍い足取りで近付いてくる紅夜に、パチュリーは早速問いかける。

 

 

「一体何があったのかしら? 吸血鬼の執事にされて今更後悔でもした?」

 

「…………………………………」

 

若干皮肉を込めたつもりの言葉にも、返答はなかった。

明らかに沈んだ表情に沈痛な面持ち。何かあったのは間違いない。

しかし彼ほどの男がここまで弱々しくなることがそうあるものか?

そこまで考えたパチュリーはある一つの結論に至った。

 

 

「咲夜のことで何かあったのね?」

 

「ッ‼」

 

 

そしてそれは正解だった。

無反応だった紅夜が、途端に肩を大きく震わせる。

それと同時に下がり気味だった眉が動き出し、ハの字に押し曲がる。

ダランとしていた手は固く握られ、ブルブルと大きく小刻みに震えている。

そんな状態の彼の口からは、パチュリーの予想を超えた言葉が飛び出てきた。

 

「ねえさんに………わすれられて、きらわれまし、た…………」

 

「…………何ですって?」

 

「ねえさん………………………うう」

 

 

涙を目からこぼしながら懺悔するかのように話し出した紅夜に、

パチュリーは間の抜けた顔になって何度も真意を問う視線を浴びせた。

何をどうしたら昨日の今日でそんな事になるのか。

紅夜が落ち着きを取り戻してから、詳しい事情を聞くことにした。

 

 

「_________________という事で」

 

「なるほど。名で運命を変える、か。レミィらしいと言えばらしいか」

 

「すみません。パチュリー様の貴重なお時間を僕の為に」

「別にいいわよ。あなたの話もそこそこ楽しめたし」

 

「………面白かったですか、僕の話」

 

「怒らないで。退屈をしのぐには丁度良かったって事よ」

 

 

自分の話した話を馬鹿にされたと思ったのか、紅夜がパチュリーを睨む。

その視線をサラリと流して、事の顛末を知ったパチュリーはため息をついた。

「ま、いいじゃない。これから溝を埋めていけば」

 

「無理です」

 

「………もう会えたんだし、時間だってあるじゃない」

 

「ありません。もう僕には時間が無いんです」

 

「どういう事?」

「それは…………お話出来ません」

 

 

紅夜の決意に満ちた表情に、パチュリーは少し気圧される。

控えめな、しかし揺るがない何かを持った彼の瞳に、彼女は何かを感じた。

姉に会うために命を賭して死地に飛び込むような勇気を、彼女は知らない。

自分が知らないものほど、興味をそそるものなどこの世にはない。

加えて彼は外の世界の人間、更なる知識を得られるかもしれない。

そんな研究者的な一面が、彼女の控えめな欲望を燃え上がらせた。

 

 

「じゃあ、私が協力してあげるわ。

あなたが咲夜とこれから上手くやっていけるように。

その代わりに、私に色々な知識を頂戴。それが報酬代わりよ、どう?」

 

 

それが、彼女の『運命』を大きく変える事になるとも知らずに。

 

 










と、言うわけで過去編ですね。
今回だけで終わらせるつもりだったのですが、予想外に長引いたw

まあでも、次回辺りで過去編は終わりになると思います。
次回の次の回辺りから、再び縁の「緑の道」ルートへ行こうかと。


それでは次回、東方紅緑譚


第弐十九話「動かない大図書館、埃被った恋心」

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