Fate/eternal rising [another saga] 作:Gヘッド
グラムは剣である。セイバーの宝具で、命を奪うための道具。それ以上もそれ以下でもない、本人曰く陋劣な存在。今でこそ人の姿をしているものの、本来は幾多の血を吸い続けてきた魔剣である。手入れはされていても、染み付いた血の色は視覚を使わずとも感じ取れるほど。
そんな彼女は運命からの脱却を望んでいた。自身が宝具であるから、人殺しの道具であるから地獄のような在り方しかできない。だからそこから脱却し、自身は違う存在にでもなろうと、彼女は夢を抱き続けてきた。
時にその夢のために前進し、目の前にあるものも慮ることなく踏みつけてゆく。顧みることなく彼女はただひたすらに夢に向かっていた。
しかし彼女は違和感を覚えていた。夢に段々と近づいてきたというのに、心地よく感じない。自分は何かを間違えたのかと考えた。そして後ろを振り返る。
彼女の目に映ったのは自身が踏みつけてきた残骸だった。自分の欲を優先したせいでそうなってしまったのだ。そこにはかつての相棒もいる。彼は笑みを浮かべながら伏せていた。その笑みはなんとも悲しそうな笑みで、彼女の心を抉る。
彼女は立ち止まった。聖杯を前にして、男が彼女に何を伝えたかったのかを考えた。
自分は間違えている。そう薄っすらと気づいた彼女の目の前の世界が変わっていた。
—————この世界は生前彼が歩んでいた道とほとんど同じなのではなかろうか。
彼は平穏な日々のために犠牲を承知で戦をした。家族と笑いながら暮らすために日夜人を殺した。そして、来るところまで来て、彼も気づいた。間違っていたのだと。
男は伝えたかった。自分にとって大事な存在に。その先は真の地獄でしかないのだと。その道を歩んだ彼だから言える忠告。もしそれで叶えた夢でも、後悔しか残らないと。それは剣であっても同じだ。罪の意識は心を蝕んでゆく。
グラムは剣である。しかし、彼女は人のように心を痛め、人のように欲を欲し、人のように後悔した。
身は剣であろう。しかし、心はもう人なのではなかろうか—————
そして、男は剣のその心に触れ、家族と同じように心から愛した。
彼は決して罪滅ぼしのために彼女に立ち向かったわけではない。ましてや、娘のためだけだというわけでもない。自身と同じ道を歩んでしまっている彼女の道を正すために刃を向けたのだ。
しかし、男は盛大にやらかしてしまってくれた。それは殺すことができなかったからである。それは腕の問題ではなく、心の問題。どんな猛者でも大切な存在を殺すことはできなかったらしい。だから、彼はグラムを殺さずに死んだ。
何も語らずに、俺たちに責任を放ってくれたというわけだ。
彼女は自分のことを剣と言い張る。別になんらおかしいことはないのだが、多分彼女的にはニュアンスが違うと思う。
「お前が剣であろうが何だろうが別に好きに言い張ってくれて構わないよ。でもさ、そういうことを言いたいわけじゃないんだよ、きっとアーチャーは」
俺はセイバーの肩に腕を回す。
「こいつと同じで、あいつにとっては大切なものだったんじゃねぇの?だから、お前も救いたかった。ただ、ちとこいつより優先度が低かっただけで、お前は愛されてたんだよ」
「……違う、そんなはずがない。私があいつに愛されていただと?そんなはずはない!だって、私は—————」
彼女は自身の手のひらを見つめる。そう、その手はまさに人の命を幾度となく奪ってきた鉄の身体。鮮血がこべりついたその身体はもう元には戻らぬのだ。
涙を浮かべる。瞳を閉じ、瞼の裏に焼きついた地獄を見る。苦しい、辛い、もう見たくない。それでも罪は彼女の身体に溜まり続け、鞭を打つ。
許されぬことをしたのだ。そう、超えてはいけぬ一線はとうに越している。戻らぬ一本道を戻ることなどできやしない。
「こんな人殺しを愛すだと⁉︎やめろ、もうそんな冗談は!そもそも私がいたからあいつも地獄に落ちたんだぞ?あいつだって私なんかがいなければ普通に暮らせて普通に死ねたはずだ!」
彼女の口から出てくる本音。心の奥底に溜まっていたヘドロを吐露する。話がごちゃごちゃになっていても、矛盾が生じようとも彼女はただ苦しみの根源を吐き出す。
「あいつが私を愛して何になる⁉︎私を愛する価値なんてあるか⁉︎ないだろう!なのになんであいつが私を愛する‼︎⁉︎」
嗚咽交じりの声は時にかすれ、時に途切れ、それでも止まらない。
「私なんかがいた意味なんてないんだ。だから、あいつが私を愛してただの、わざと負けただの、一々どうしてそんな面倒くさいことを話すんだ、お前は!このまま聖杯戦争を終わらせば良かったのに、なんでここで終わらせないんだ!私は、ただの人殺しの剣で終わりたかったのに、そこでなぜストップをかける⁉︎また私に辛い思いをさせようというのか⁉︎私を苦しめようとするのか⁉︎私はこのままでいいのに、なんでお前はそこまで真実を突きつけるんだ!見たくなかったのに、見せてくる!あああっ、もう、なんで私ばかりがこんな嫌な目に会うんだ!私はただ普通に生きたいだけなのに、どうして普通に生かせてくれない⁉︎人だって殺したくないのに、なんで私ばかりが……、なんでこんな辛い目を見ないといけないんだ!どうして、私の運命はこんなにも狂っている?」
もう俺もセイバーも止めなかった。彼女が言いたいだけ言えばいいと思った。
今まで吐き出さずにいた感情は身振り手振りとなって、声となって、涙となって彼女から出て行く。怒りと憎しみと悲しみが矛盾を覚悟で吐き出され、彼女の声は段々と小さくなってゆく。
一通り彼女の披瀝が終わった。言いたいことを言い終わったのか、口の中が乾いたのか、それとも今彼女はとんでもなく恥ずかしいことをしていることを理解したのか、ハッと我に返ると一段と顔を赤らめた。
「……や、こ、これは……、違う。その、何と言うか……」
自分でも説明に困り果てている。耳の先まで赤く染まる彼女を見て、俺のゲスい部分が笑う。
「ふむ、これはこれでイケるな」
俺は顎を触りながら舌鼓をする。すると、隣のセイバーからの視線が物凄く痛かった。ちらりと横目で彼女を見る。彼女は俺をじっと監視しているような目をしていた。
「セイバーさん?視線が痛いのですけれど」
「ヨウがまた変な性壁をこじらせているからじゃないですか」
「しょうがないだろ。女の子が頬を赤らめているっていうのに、それに興奮しない男が何処にいる?」
「一言で言って最低ですね!」
「そうだす、わたすが最低オジさんだす」
俺がふざけた返答をしていると彼女は深いため息を吐いた。しかし、今更そんなことで動じる俺ではない。そう、それこそ目の前にいるグラムのように。
彼女はとんでもなく恥ずかしい、ある意味羞恥プレイなさっきの出来事に立ち直れず、顔を自分の膝にうずめて座り込んでいる。
「うぅ……、その、無視だけはしないでくれるか?無視は心がさらに抉られるというか……、その……」
ひょっこりと顔を出したが、また恥ずかしくなったのかすぐに顔を隠した。
「ツンデレとは、またまたナイスなキャラ設定」
「あんまりからかわないであげてください。ほら、グラムだってもう泣きそうじゃないですか」
「あっ、いや、そこはもうあんまり触れてほしくない……」
とりあえずそこそこグラムで遊んだところで本題に戻る。これ以上脱線したら話が長続きしてしまう。
「おい、顔を上げろ、グラム」
俺はグラムの前に立った。彼女はまだ顔から弱火が出ているようで、顔を完全には上げず、目だけを動かした。
「お前な、なに自分の言ったことを恥ずかしがってんだよ」
「いや、だが、あれはちょっと流石に……」
「そう?俺は別に悪いとは思わないよ。自分の言いたかったこと、本音をさらけ出して何が悪い?自分はこうだって言って何が悪い?いいじゃねぇか。お前はお前なんだから。察しろとでも言いたいのか?そんなん無理に決まってんだろ。自分で言わにゃ何も始まんねぇし、何より腹の中を探り合えってわけにもいかねぇどろ。腹ん中割って話して、それで万事解決が一番楽で良いやり方なんだし」
グラムは手で自分の服の裾をぎゅっと握りしめた。
「……そう、だな……、そうできれば良いのにな……」
しかしやはり人にはプライドとか警戒心という面倒くさいモノがついているからそう簡単に腹を割るなんてことはできない。それこそ、会ってすぐにそういう関係になれたのなら、それは直感が告げていたとしか言いようがなく、多くの場合そんなことにはなりにくい。
グラムの背中は何とも小さい。消極的な受け答えしかできないのか、こいつは。
「まぁ、やっぱお前から本当のこと聞けて良かったよ。お前がどう思ってんのかとか、何したいのかとか。あのままだと本当に分かんなくなってたし……」
「はい。私もそれで良かったと思います。もちろんお父さんを殺したことは許せません。でも、それでもあなたが悪い人なんかじゃない。それを聞けたのは私としては嬉しい」
彼女は特に普通の笑顔をしていた。屈託のない晴れやかな笑顔というわけではないが、それでも彼女は口角を上げて瞳を閉じ黒目を大きく見せている。
その姿が少しだけ俺には怖かった。それはホラーという恐怖ではなく、不安による恐怖。この先、彼女はどうなるのかと案じてしまった。
彼女は俺の視線に気づくと、どうしたのかと尋ねてきた。俺はグラムを見る。そして、それを確認し、俺が抱いたモヤモヤを今明かすべきではないと悟るといつも通りに振る舞った。
「まぁ、あの大演説はちょっとウケたけど……、ブフッ」
その言葉にグラムはまた顔を隠した。セイバーは俺を怒る。変なことを言うなと。
別にそんな悪いつもりはなかったのだが、やはりいつもの俺らしく振る舞おうとしたらこの言葉が出てしまった。まぁ、実際グラムの大演説の最中、ちょっと面白すぎてにやけそうになってしまったのだが、そこを明かすとまた責められるので何も言わない。
「いや、まぁ、今はそれを置いといてだな……」
「話を持ち上げてきたのはヨウですよね?」
「失敬失敬、悪気はないノ」
セイバーの視線がいつになく鋭い。何で俺の味方をしてくれないのか。ああ、もうちょっと俺に優しくしてくれても良いのに。
「まぁ、いいや、とりあえずそういうことだわな。アーチャーはお前を愛してたし、お前を殺せなかった。それでいいだろ?」
彼女はこくりと顎を下に動かした。
「つーか、お前、実際気付いてたろ?アーチャーが手を抜いてたことぐらい」
「……そうだな、気づいていなかったと言えば嘘になる。だが、やはりそれをそう思いたくなかった。それを思ってしまったら私は私を許せない。だから、あれは私の運命を変えるための必要なこととして捉えていた」
しかし彼女はやはり目を逸らさなかった。もしかしたらアーチャーは手を抜いていたのではなかろうか。それを考えてしまったが最後、彼女は心に黒い塊を抱き続けていた。
「あいつの最期の顔が笑顔だったことがずっと心残りで、私は苦しかった。あいつの笑顔はいつぶりに見たことかと思ったが、それと同時にあいつの行動は裏があることは分かった。ただ……、そうだな、あいつが私を生かそうと思っていたとは考えたくもない。何より、私はあいつが嫌いだからな」
そう言う彼女の顔は心なしか何処か嬉しそうである。
「おい、ヨウ。お前が私に言いたいことはそれだけか?」
「ん?まぁ、そうだな。特にお前にはもう言うことねぇよ」
「そうか。分かった」
彼女は俺の返答を聞くと、背を向けた。
「私はもう行く。最期にお前たちが隣にいるのは御免だからな」
彼女はそう言い終えたあと足を前に出そうとしたが、ふと止まった。顔を後ろまでは向かずとも、横斜め後ろくらいまで首を回す。
「セイバー」
グラムはセイバーの名を呼ぶ。
「お前には悪いことをした。私がしたことは間違いではないが、それでもお前には苦痛を与えたのだろう。その、なんだ……」
風が二人の間を通り過ぎた。冷たい風が鼻を劈くような痛みを感じた。
「許せとは言わない。恨んでくれて構わない。ただ、すまなかった—————」
彼女はそう言い残すと、それからは振り返ることもせず夜の森の中に消えて行く。彼女の歩く音が消え、聖杯の光によってまだ薄っすらと見えていた彼女の背中も完全に暗闇と同化してしまった。
俺はセイバーに視線を移す。彼女は特に何も表していない顔を浮かべていた。
「おい、お前さ、普通なんか言うことあったんじゃないの?」
「え?私ですか?」
「そうだよ、お前以外に誰がいるんだよ。普通もっと言うことあったんじゃない?お前もお前で」
彼女は俺が言ったことにピンときていない様子である。わざと明言を避けて言ってみたのだが、彼女が理解できないということは一切頭の中になかったということ。
「グラムになんか言えば良かったじゃん」
「グラムにですか?言うことなんて何もありませんよ」
「いや、お前だって恨み言の一つや二つあるだろ。それこそ、アーチャー殺されたこととか、叔父を殺してしまったこととか。そういうことを言えばいいのに」
恨みや妬みを口にすればそれなりに徳がある。それはセイバーだけでなく、グラムにだって。セイバーは心に溜まっている苦しみを吐き出せるし、グラムだって鈴鹿みたいに責められた方がいいはずだ。
それなのに彼女は俺の言葉を否定した。
「そんなことありませんよ。別にもう怒ってないですし。しょうがないんです。だってそれが運命なんですから」
セイバーは笑っている。こいつには憎み、恨み、怒りで我を忘れるということが皆無に等しい。正直、俺からしてみれば普通じゃない。グラムをそれだけで許せるのだろうか。
セイバーはこういう奴だ。俺には絶対にできそうにない。憎む相手がいればそいつを憎み続ければ良いというのに、その相手を許してしまえばこいつは一体誰にその苦しみを吐き出すというのだろうか。
怒っていないというのは嘘だろう。絶対に煮え滾りそうな怒りを抱えている。しょうがないと割り切っていることも嘘だろう。本当に大切な誰かを失ったのに割り切れるのだろうか。その上、運命を彼女は受け入れてもいない。だって彼女は運命に殺されてこの聖杯戦争に流れ着いたただの少女。そんな彼女が受け入れられるはずがない。受け入れているのならその聖杯戦争をなぜ彼女は断固としてグラムに渡さなかったのか。
正直、セイバーは可哀想な奴である。ただでさえ悲惨な運命の渦中にいるというのに、殊更に彼女の物語において悪人はほとんどいない。いたとしても彼女が地獄を見ている理由になる人ではない。
だからこそ彼女のことが可哀想だと心底思う。彼女にとって絶対悪がいないから彼女は誰に怒りをぶつければいいのだろうか。恨む相手がいない、これ以上の復讐劇ほど辛いものは他にない。
グラムが絶対悪であったのなら、完全な悪人であったのなら、セイバーは怒りに身を任せ殺していただろう。彼女の手は血で汚れていたに違いない。それは確かに純白とも言える彼女にとって大きな汚点となるが、彼女はそれで少しは心が晴れるかもしれない。
しかし、現実はそうではなく、グラムが絶対悪とはかけ離れた存在であったからセイバーは許してしまった。その結果セイバーの人の良さが仇になり、彼女は苦しみをぶちまける相手さえ消えてしまった。今の彼女に残っているのはやり場のない負の感情であり、その負の感情を発散させることができないからせめてもの足掻きで聖杯を胸の中に抱いている。
それが俺にはとことん見ていて辛い。彼女も辛いのだろうが、やっぱりこういうのは第三者も辛いというもの。
「セイバー、辛いか—————?」
俺がそう訊くと彼女は一段と笑った。それこそえくぼを作って見せてくる。
「ええっ?辛いか、ですか?そんなわけないじゃないですか。別にどこも辛くはありませんよ!」
胸を張った。自分は辛くはないのだと。特に問題はないと。彼女のその笑顔はやはりいつもみたいに眩しいこと。
ああ、しかしそれでも彼女のその笑顔はいつになく固い。やはりいつものあの笑顔とは何処か違う。何故、彼女は聖杯を強く抱きしめているのか。それがやはり彼女の姿なのだ。もう、何も手放さない、失わない、そんな気持ちが切に表れているように見えた。
グラムは強がっていた。アーチャーを殺したことが何だ、と自身にそう言い聞かせていた。その姿が今、目の前にいるセイバーのようなものなのだろう。失ったから得たものもある。そりゃ、もちろんそうだ。そんなんじゃなかったらクソ喰らえ。しかし、だからと言って失って喜ぶことなんてできやしない。
誰だってそうだ。人はみんな失うことに強い奴なんていやしないのだから。
俺はそんな彼女に一声かけようとした。しかし、口を開いたところで俺から声は出せまい。いや、出したくないのだ。
彼女に俺はもう声をかけてはならない。それが俺なりの答えだから。
俺も彼女のように微笑んだ。
「あっ、そう。ならいいや。何でもないっすわ」
彼女にかけてよい声は決して俺の中に残ってはいない。何も言わない、それが俺にとっても彼女にとっても一番にいいことだから。
俺は時計の針を進めようとした。彼女の胸の中にある聖杯に目をやる。
「さぁ、セイバー。もう時は来たってことだ。ほら、願いを叶えろよ」
俺は彼女に望みを叶えることを促した。
彼女はこくりと頷く。聖杯を胸に置き、深く息を吐いた。そして声を出す。
「私は……」
彼女の声はあまりにも小さい。山の中を吹き抜ける風の音よりも小さく、夜の森の暗闇の中に吸い込まれていった。
それから数秒間、何も言葉を発しなかった。顔を俯けて俺と目を合わせようとしない。彼女は無音を作り出し、眩しい光だけを俺の目に浴びせ続ける。
その行動の不自然なこと。俺は彼女に呼びかけた。
「おい、セイバー。どうした?寝てんのか?」
その質問に彼女は首を横に振る。寝てはいないようである。
しかし、彼女はまた黙りこくる。聖杯を離さまいと指紋がべっとりと付くくらい握りしめ、まるで物のようにそこに立っているのだ。
そのあまりの不気味さ、不可思議さに俺は不安を覚える。彼女の身に何かあったのではないかと気になってしまった。
俺は手を彼女の肩に当て、そして軽く揺らした。
「おい、セイバー、どうし—————」
その瞬間、彼女は俺に近づき、軽い頭突きを俺の胸に当てる。そのまま彼女は若干の体重をかけながら、額を俺の胸に付けた。何も言わず、特にそれ以外の行動はしない。ただ彼女の額から吹き出た僅かな汗が俺の服に染み込む。首元は冬の外気が胸元には人肌が。寒いのか暑いのかよく分からない。
彼女は胸の中で一生懸命大事に聖杯を抱きしめていた腕を力なくぶらりと重力に従うように落とした。そして、片手で握る聖杯を地面に放る。聖杯の落ちた衝撃は土に吸収され、俺に聞こえたのは少し荒い吐息だけ。
「おい、どうしたよ、急に」
突然の事態に俺は内心テンパっていた。しかし、彼女がその言葉に返答しないと、自分でも意外なことにスッと納得できた。
じわりと彼女の息が生暖かく、髪の毛の一本一本が服越しに感じられた。人肌の感じは多少の気色の悪さと高揚感と憂鬱感を俺に与えた。小刻みに上下に揺れる肩を彼女は抑えることなく動かし続ける。
彼女は俺の服の腹部の布をぎゅっと手で握りしめた。服にシワがついてしまいそうなほど強く握りしめながら、必死に声を押し殺している。
俺はこの状況を憂えた。彼女が今まさに俺に頼っている。聖杯を腕の中から離してまでも。それがどのようなことなのかは詳しくは知らないし、もしもの未来がどのように転ぶかも分からない。
「……少し、少しだけ……このままでも……いいですか?」
やっと彼女が口を開いて言った言葉だった。たった一言、それだけの言葉を彼女は俺に向けた。
しかし、俺にとってその言葉は何よりも重いものである。彼女は俺を頼っての言葉なのだろう。俺は彼女にとって頼られる人間ということらしい。それは嬉しい。とても嬉しいことである。
だが、だからと言って俺は彼女のその言葉に胸を貸したくはなかった。それはそのままではいけないから。彼女にもう触れてはならないのだ。彼女ともうあまり話したくもない。彼女と目を合わせたくもない。したくもないし、してはならない。だから俺は彼女のその一言を叶えることはできない。
「—————俺はお前の聖杯じゃねぇぞ」
そう言ってのけた。そう言ってしまった。彼女の依存を断ち切り、触れるなと明確に意図を伝えた。
しかし、彼女は離れようとしない。ぎゅっと服を握ったまま離そうとしない。聖杯を手放したのに何故俺から離れないのか。それが悔しくて悔しくて、しかしその理由を分かりたくないから分かろうとせず俺は一方的に突き放そうとした。
「セイバー、離してくれ」
彼女がその手を解いてくれないと俺が辛いのだ。俺だって決めたのだ。セイバーが望みを叶えるために俺の望みはかなぐり捨てようと。俺はそのためにこうしているのに。どうして彼女はその努力を無駄にしようとしてくるのか。
俺は彼女とはもう一切関わりたくはない。さっさと聖杯を手にして、願いを叶えて過去に戻ってもらいたいものだ。そして、俺の目の前から彼女がいなくなって一件落着。そうなってほしかったし、そうでないと俺が辛い。
だから、そうなるように俺が誘導しているつもりなのだが、どうしてか彼女はいつもその誘導を無視して行動する。本当にやめてほしいものだ。
中々離れないセイバー。再度の忠告を聞き入れない彼女に俺は焦燥による苛立ちを抱いていた。
「おい、セイバー。邪魔だ。離れろ」
今度はさっきよりも強く彼女を突き放した。しかし、やはり彼女は俺から離れようとしなかった。時折聞こえる小さな彼女の声はさっきの彼女の発言と全く同じものだった。
「ヨウ、このままでもいいですか……?」
決して顔を見せようとはしてくれず、しかし離れてもくれない。まるで壊れたロボットのように何度も同じ言葉をボソボソと言い続ける彼女に俺は胸が締め付けられる感覚がした。
彼女を本当に突き放して良いのかと。俺の本当の望みは何であるかと。それを自問自答しながらも、彼女の発言に未だ返答ができそうになかった。ただ彼女の震える身体が何を意味するのかは分かっている。
—————辛いのは俺も同じである。
ここで俺は彼女を突き放せばきっと俺は後悔することになるだろう。しかし、そうしなければそれ以上に傷を負うかもしれない。人間は臆病だから、より傷を負うかもしれない道に自ずと足を踏みいれようとはしない。そう、決してないのである。
俺は彼女の肩に手をかけた。そうして、無理矢理にでも彼女を引き離そうとしたその時、彼女から声が漏れた。
「うっ……うぐぅっう、ひっぐ……、ひっぐ」
しゃっくりと嗚咽の混じった声。時には涙と鼻水をすすり、彼女の吐く息にはムラが生じる。耳の先まで真っ赤に染め上げ、声を上げるたびにより一層強く俺の服を握りしめるのだ。
やめてほしかった。そんな風に泣いてほしくなかった。彼女が泣かずに聖杯を持ち続けていれば良かったものを。どうして彼女は聖杯ではなく、俺に頼るのか。
しかし、彼女の涙を目にして何も感じないはずがない。静かに泣くのを堪えながら、それでも堪えきれずに歯の隙間から嗚咽を漏らす彼女を見て、我慢の限界だった。
彼女の流した涙が皮膚から離れ、雫となった。その雫はちょうど真下にあった聖杯の縁に付着する。そのまま雫は聖杯の外面を重力に従い落ちて、中に注がれた魔力の中に入り混じった。
彼女をここで受け入れてしまってはダメなのだ。そんなこと分かっている。俺の頭は理解できていた。
しかし、彼女が本当に欲しているものは何なのか。それも俺はよく知っていた。伊達に彼女の隣に一ヶ月間ずっといただけのことはある。知りたくなくとも自ずと耳に入ってくる。
そう、彼女は決して聖杯なんて元から求めていないのだ。何でも叶えられる聖杯など、本当はあくまで二の次で得られるアイテムとしてしか見ていない。
彼女がほしかったのは自分を受け入れてくれる相手なのだ。なんだかんだと彼女は口にはしていても、結局のところ彼女が抱くのは心細さなのだ。
ずっと一人でいた。誰も信用しなかった。それは信用しても突き放されるのが怖かったから。それが生前の彼女の一番の不幸であり、運命だったのだろう。だから、彼女は自分の殻に閉じこもった。
だが、彼女は今まさにその殻から出てきて自分の心境を訴えている。
今の彼女が抱く負の感情。それは父を殺された痛みと
それは俺が彼女の中でそれほどの存在にまでなっているということ。まったく、どうすればいいものか。
ああ、もし俺がここで彼女を力尽くで引き離したら一体彼女はどんな顔をするのか。
震える彼女の身体はあまりにも小さく、伝説とは違って少女の身体。弱々しく、力もなく、泣き虫な彼女。一人で立っていることもできず、挙げ句の果てに求めていたはずの聖杯を落としてしまう始末である。
「バカじゃねぇの?アホみてぇなツラしてんじゃねぇよ」
そんな彼女を俺は見捨てられなかった。
そう、突き放すことなんてやはりできないのだ。
彼女の涙を感じて思い知らされる。俺は今まで何をしていたのかと。彼女が俺に頼っていたのに、どうして俺は彼女を今までずっと突き放していたのか。
それはきっと俺に覚悟が足りなかったからだ。彼女のマスターである俺は彼女の最後の砦であって、そんな俺は彼女を受け入れる覚悟がが足りなかったのだ。彼女が聖杯に頼れば俺は必要のない存在だと思いたかったからなのかもしれない。
俺は彼女の頭を手で撫でた。細くて白い彼女の髪の毛が指に絡みつく。少し良い匂いが漂い、頭皮に触れた時、悴んだ指先にはありがたい温もりを感じられた。
彼女の顔は見えず大きなつむじ一つのみしか覗くことができないが、ここからでもなんとなく分かる。どうせ彼女はまだ歯を食いしばっているのだろう。口を大きく開けてただ悲しみと悔しさに流されながらダラダラと滝のように涙をこぼすわけにはいかないと思っているのかもしれない。寒さとは無関係に感情だけで小刻みに動く身体はサーヴァントである彼女にとってなんとも惨めだ。
しかし、一途な愛を求めるただの少女という観点から見ればそれこそまさにしょうがない。
「おい、鼻水だけはつけんなよ。きったねぇから」
俺がそう言うと、彼女はそれに対抗するかのように涙やら鼻水やらをドバドバと垂れ流す。
「うっ、ふっえぇぇん!ヨ、ヨウが泣かせたぁぁ〜」
当てどころのない負の感情を俺に当ててくる。そして、その報復なのか擦りつけてきた。
「っだぁ、こんちきしょう。汚くなってんじゃねぇか」
見ると俺の服は飲み物をこぼしたみたいにビチョビチョである。これはさすがに汚い。
しかし、彼女がそれで少しでも楽になれるのならとも考えてしまう。溜めていた苦しみを今、涙にして解き放って、彼女が泣き止んだ時にどれほど肩は軽くなっているのだろうか。それを考えると、汚れのことは別にそんな大事なことでもない。
傷が癒えることはないにしても、その傷を浅くすることはできる。目立たないようにすることはできる。そのためには全身の水分全部使い切るくらい泣けばいい。泣いて泣いて泣いて、泣けなくなっても泣いて。それで彼女はまた笑えるだろうか。
「まぁ、気の済むまで泣けよ—————」
まるで子をあやすように優しく頭を撫でる。すると、彼女はそれに呼応するかのように泣いた。目から大粒の涙が雨のようにふり、口を大きく開けて叫びたいように叫んでいる。またいつ終わるかもわからないような長い時間に突入した。
寒気と熱気が入り混じり、寒いけど暑く感じられる。彼女の大声は別にそこまで耳を突き刺すような声などではなく、しかし心に訴えかけてくるものがある。
彼女の涙は聖杯にポタリポタリと滴り落ちる。眩い光沢を鈍らせんとばかりに涙の雨が降り注ぐ。しかし、それでも聖杯は色褪せることなく光り続けていた。
そしてこの時、俺は気付いてしまったのだ。いや、気付いてはいた。ただ、今この瞬間認めてしまったのだ。
それは胸の中で悲しみを吐露する彼女を見ていて分かった。俺は何故彼女を受け入れようとしたのか。そもそも何故俺は受け入れたくなかったのか。彼女が笑い喜ぶ姿を重んじ、悲しませないようにしたかったのはどうしてなのか。俺は何故こんなにも彼女と言葉を交わすことも、近づくことも嫌がっていたのか。
その理由が分かった。彼女を抱きしめている時、俺はやはりそうだったのかと認めてしまわざるを得なかった。
彼女の笑顔も、涙も、命も、望みも全てを守りたかったのはどうしてなのか。それがストンと腑に落ちて、案外簡単に納得してしまった。
不思議なものである。初めて出会った頃はしょっちゅう口喧嘩ばかりしていて、お互いの価値観を譲り合わなかった。それにそもそも俺はこの聖杯戦争に巻き込まれた被害者であり、英霊である彼女とは聖杯への意識も違っていた。
だけどそれでも、時が流れて、彼女が隣にいることが当たり前になるに連れていつしか来る別れの時が辛くなってゆく。
時の流れとは怖いものである。今の俺には思いもよらぬ感情さえ湧き立たせているのだから。
そう、俺は今のこの瞬間、気付いてしまったのだ。
—————俺、こいつのこと好きだわ。
はい!Gヘッドです!
今回の話、まさか最後にぶっちゃけが書かれておりました!
まぁ、そうですよね、そうなりますよね。一つ屋根の下なんですもの、そんなことがあっても構いませんよね。
さぁ、ということで最後の最後で急展開!(大方、皆さんの予想通りなんですけど)
次回、ついに聖杯で願いを叶える?っていう話の予定です。