あやめさんは出てきません。
あの日からあっという間に一週間が過ぎていた。
帝都・東京は不気味なくらいに静まりかえっている。
人々の顔から笑顔が消え、町をいく人の数も減った。
空を覆う暗雲がはれることもなく、太陽を見ない日が、もう何日も続いている。
口にこそしないが、誰もが不安な面もちで暗く沈んだ空を見上げ、帝都の現状を憂い、そして怯えている。
いったい帝都はどうしてしまったのかーと。
人々の混乱をおそれ、公式発表はまだ行われていない。
が、もう誰もがこの帝都の異変を漠然と感じ取っていた。市民たちに全てが知れるのはもう時間の問題だった。
東京湾沖には依然としてあの無気味な魔城の姿がある。
聖魔城ーあの日奪い去った魔神器を用い、叉丹が呼び起こした過去の遺物。
それは霊子砲と呼ばれる武器を内蔵した強大な兵器だった。
魔神器が奪われ、聖魔城が出現したその日から帝国歌撃団は休むことなく戦いの準備に追われていた。
あれから一週間ー決戦の準備は最終段階を迎えていた。
最後の戦いはもう間近だった。
ー明日だ、大神。明日、我々は聖魔城へ突入する。
つい先ほど、聞いたばかりの米田指令の言葉を反芻しながら、大神は頼りない足取りで廊下を歩いていた。
あの日から一週間ーとうとう出撃命令が下されたのだ。
これからそのことを隊員のみんなに伝えにいく。
みんなはなんと言うだろうか。
きっとみんなも複雑な思いに悩まされることだろう。
あそこには葵叉丹と、そしてあやめがいる。
叉丹と相対すれば、その前にあやめが立ちふさがることは間違いない。
ー俺は彼女を敵と見なし、戦うことができるだろうか?
そう自分に自問する。
答えは否。
大神にはあやめを敵として切り捨てることなどできそうになかった。
自嘲の笑みを浮かべて大神は思う。
俺には隊長の資格などない、と。
隊長たるものは常に冷静に全ての状況を判断し、時には冷徹にことを対処することができなければならない。
正しい状況判断と正しい行動力、それらを兼ね備えてこそ一人前の隊長といえるだろう。
常日頃大神はそう思い、自分もそうであろうと努力してきた。
だがまだまだ努力が足りなかったようだ。
自分は未だに半人前で、あやめを敵と切り捨てることもできず、彼女を救う手だても何一つ良い考えが浮かばない。
(情けないな…。自分がこんなに情けない人間だとは思っても見なかった)
そんなふうに思い大神は苦く笑った。
そのときだった。不意に後ろからぱたぱたと、誰かがかけてくる足音。
なんだろうと振り返ると女の子が一人、こちらにかけてくるのが見えた。
女の子と呼ぶのは少し失礼だろうか。
童顔であるとはいえ、彼女もれっきとした乙女である。名前を高村椿という。
普段は売店の売り子をしている彼女だが、劇場が劇場として機能していない今、別の仕事に駆け回っているようだった。
そんな彼女が前にいる大神に気づいた。
嬉しそうに破顔して、とてとてと大神の方へ近づいてくる。
「大神さん、ちょうどいいところに」
彼女はそう言って手に持ったメモ帳を開いた。そしておもむろに尋ねる。
「買い出しにいくんですけど、何か買ってくるもの、ありますか?」
なるほどと、大神は納得する。
彼女が駆け回っていたのは買い出しの注文聞きのためだったのか、と。
少し考えて、大丈夫と言いかけた大神は、あることを思いついてはたと言葉を止めた。そして思いついたそのままに口に上らせる。
「…酒を」
「えっ?」
ぽつりとつぶやくように漏れたその言葉を聞き取ることができなかったのか、椿が小首を傾げて聞き返す。
そんな彼女に聞こえるように、今度ははっきりと同じ言葉を繰り返した。
「酒を買ってきてもらえるかな」
今度はさすがに聞こえたようで、心得たとばかりに椿が頷く。
「お酒ですね。了解しました。米田支配人から頼まれたんですか?」
「え?あ、あぁ、うん。そうなんだ」
反射的にそう答えていた。
色々と詮索されるのは面倒だったし、米田なら酒を買っても違和感はないだろうと思ってのことだった。
その考えは、どうやら的を射ていたようで、椿は納得したように再び頷き、メモを取りだして、どんな酒を買えばいいのかと尋ねてきた。
首をひねってしばし考える。
酒の種類など大神が知りようはずがない。
米田支配人ならすらすらと答えられるのだろうが。
「強いのがいいかな。別に種類は何だっていいから」
「えっと、強いお酒ですね。わかりました」
しっかりとメモに書き留め、彼女はにっこりと微笑んだ。
じゃぁ、行って来ます、と頭を下げ、また忙しそうに彼女は廊下を走っていく。
「気をつけてね」
そう声をかけ、小さな背中を見送ると廊下にまた静寂が訪れた。
とたんに明日の任務のことが頭の中に浮かび上がってくる。
明日は大変な一日になるーそんなことを思い大神は小さくため息をもらした。
ここ連日の不眠のためにしょぼつく目をこすりながら、
(今夜は酒をあおって無理にでも寝てしまおう)
と心に決める。
酒を一本あければいくら何でもーまぁこころよいとはいいがたいだろうがー今までご無沙汰だった眠気も訪れてくれるだろう。
不快な夢を見ることなく、ぐっすりと眠れるに違いない。
どんなに気が進まなかろうと、決戦は明日なのだ。
逃げるわけにはいかないーそう自分に言い聞かせ、大神はゆっくりと階段を上った。
下った命令をみんなに伝えるためにー。
「買い出しのチェック?いいわよ」
そう答えてマリアは椿の手からメモ帳を受け取った。
早速開いて素早く目を通す。
あまりゆっくりはしていられなかった。
大神からの招集にほかのみんなはもうサロンに集まっているはずである。
マリア自身ちょうどそこに向かう途中だったのだ。
慌ただしくリストを追っていたマリアの目が不意に止まった。
「お酒?」
マリアのそのつぶやきを聞いた椿が、あぁ、と頷く。
「それは大神さんが…」
「隊長が!?」
大神の名に敏感に反応したマリアが鋭い眼差しを椿に向けた。
「どういうことなの!?」
「えっと、あのぉ、大神さんが支配人に頼まれたからって」
マリアの気迫に飲まれてしどろもどろに椿が答える。
「支配人に?隊長がそう言ったの?」
「はい」
「そう…」
つぶやいて、マリアは疑わしげ眼差しを再び手の中のメモの上に落とした。
その頭の中にはここ数日の大神の憔悴した様子が映し出されていた。
青白い顔をして、食欲もないようだった。
それでも大神は笑うのだ。
みんなに心配をかけまいと、明らかに無理をしているとわかる笑顔で。
なんて不器用な人なんだろうと思う。
いっそのこと、ほかの誰にも気づかれない完璧な演技をしてくれればこっちも心配せずにすむのにー。
以前の自分ならそう思い彼のことを腹立たしく感じていたことだろう。
だが、今は違う。
そんな不器用な彼だからこそ愛しいと感じる。
不器用だけれど繊細で優しく、そしてまっすぐな気性を持つ彼を、愛するに足る隊長だとそう思うことができる。
その思いは花組のみんなも同じだ。
みんながそれぞれの思いで大神一郎という人を愛しているのだ。心からー
「マリアさん?」
無言でリストを眺めるマリアにさすがに不安になったのか、椿がそろそろと声をかけてくる。
マリアは顔を上げ椿の顔を見ると、表情を和らげ軽く微笑んで見せた。
どうやら自分は彼女をずいぶん不安がらせてしまったらしい。
もう一度だけリストに目を落とし、小さく頷いた.それから椿にそのメモを返しながら、
「特に不足しているものはないと思うわ。それで相談なんだけどー」
買ってきたお酒を自分から大神に渡してもかまわないだろうかーそうたずねた。
椿は一瞬面食らったような顔をしたが、すぐに「もちろんです」と快諾してくれた。
マリアは破顔し、椿に礼を言った。
椿は目元をかすかに赤く染め、買い物に行きますとマリアに軽く頭を下げる。
その姿は慌ただしく玄関の方へ消えていった。
そんな彼女を見送ってマリアは一つ息をつく。
頭の中を大神のことだけが馬鹿みたいにぐるぐると回っていた。
次回はまた週末10時に投稿予定です。