リリルカはいつにも増して憂鬱な気分だった。気持ちに連動して、足取りも自然と重くなる。それでも、引き返すわけにはいかない。
昨夜、縄で椅子に縛り付けられたまま放置されたリリルカだったが、やけくそ気味に暴れていると数分と経たずに縄が千切れ、床とキスする羽目になったものの無事抜け出す事が出来た。どうやら、縄に予め切れ込みが入れてあったらしい。
何処まで人をおちょくれば気が済むのだ、と少女に対する怒りで頬を上気させ、机に置かれた紙を引っ手繰るようにして取り上げ目を落とす。しかし、
円形の大区画――
「リリ……」
「……やはり、ベル様でしたか」
皮肉のつもりで笑みを浮かべようとするが、どうにも顔が引き攣り上手くいかない。
紙に書いてあったのは、時刻と場所。朝とも昼とも付かないこの時間は完全にピークを過ぎており、他の冒険者の姿は殆ど見当たらない。だから、これが偶然という事は有り得なかった。
「もう来ないんじゃないかと思ったよ」
何処か安心したような、それでいて緊張しているような、そんな微妙な声音でベルは言う。
「まさか、リリが来ないなんて有り得ません。少々支度に手間取ってしまいまして、申し訳ございませんでしたベル様」
来ないなんて有り得ない。何故なら、お仲間の女性に脅迫されているから。
「そっか。また何かあったんじゃないかと心配したよ。でも、無事で良かった。昨日の怪我も大丈夫そうだね」
「ええ、お蔭様で」
リリルカはにっこりと笑った。余りにもベルの言葉が白々しくて、自然と笑う事が出来た。
ベルも笑みを返そうとするが、流石に罪悪感があるのか表情が陰る。
「……リリ、僕は君に謝らないといけない事があるんだ」
「必要ありませんよ。リリはサポーターですから」
冒険者に蔑まれるのは慣れている。謝られたところで、逆に虚しくなるだけだ。
ベルは一瞬口を開きかけ、しかし噤んだ。
ああ、それでいい。リリルカがそう思っていると、ベルは突如として予想外の行動に出た。地面にひれ伏し、額を擦り付けたのだ。
「べ、ベル様!? 一体何をしてるんですか!?」
「……土下座です。神様が、最上級の謝罪の意を示す作法だって」
「リリが聞きたいのはそういう事ではありません!」
冒険者がサポーターに謝るなんて前代未聞だ。少なくともリリルカは、そんな冒険者に出会った事はこれまで一度たりともなかった。それなのに、どうして――。
「な、何でそんなっ……リリにベル様が謝る必要なんて――」
「あるんだ!」
「……っ」
今にも泣き出しそうな声に気圧され、リリルカの肩はビクリと跳ね上がる。
「僕は、ナイフを盗んだのは君なんじゃないかと疑ったんだ……! 君をリューさんから庇ったのは、君が盗みを働くような子に見えなかったから……絶対何かそうしなきゃいけなかった理由があると思ったんだ。もしそうなら、僕に出来る範囲で力になりたいとも思った……!」
止めてくれ。聞きたくない。
「でも、全部僕の勘違いだった。君は無実だった。無実の君を泥棒扱いしながら、僕は
違う。貴方は最低な人間なんかじゃない。
「僕が君に顔向け出来るようなヤツじゃないのは自分でも解ってる。それでも、どうしても謝りたかった。……ごめん、ごめんリリ」
「止めてください!! ベル様が悪いんじゃありません!!」
もう、限界だった。
「ベル様のナイフを盗んだのはリリです! 本当に謝らなければならないのはリリの方なんです……!」
「り、リリ……?」
嗚呼、なんて悪辣なんだ。卑劣にも程がある。
こうなる事をあの少女は見越していたのだ。見透かしていたのだ。ベルがどのような行動に出るのかも、そしてそれを受けてリリルカがどんな反応を示すのかも。
ベルは何も知らなかったのだ。リリルカがナイフを盗んだ事も、魔法の事も、監禁や、勧誘の事も全て。何も、少女から聞かされていなかったのだ。この場所にいたのも、朝からずっとリリルカが来るのを待っていたのだろう。
「ごめんなさい、ごめんなさい……」
泣き崩れるリリルカを、ベルは呆然と見詰めていた。
× × ×
「ベルに嫌われてしまったかしら」
アイリスは自嘲して笑う。
もしそうなら正直とても悲しいが、それならそれで受け入れる他ない。あれ以上の最善の策をアイリスは思い付く事が出来なかったのだから。
「それにしても、困りましたわね……」
思いの外、問題は根深い。リリルカが
「困る事などなかろうよ。まさか注文しておいて、出来上がってから払えません、などと戯けた事は言うまいな?」
そう言いながら奥の座敷から現れたのは、着物と呼ばれる変わった衣服を纏った黒髪の女性だった。その顔立ちは美麗といって差し支えなく、目尻に赤い化粧をしている。この店の主である
「母様、お客様に失礼ですよ」
続いて入って来た女性が金屋子神を窘める。金屋子神と同じように黒髪で着物を着ているが、金屋子神の着物が藤色なのに対してこちらは藍色だ。化粧はしていないようだが、肌が雪のように白く、涼しげな面差しだった。
彼女の名前はシモヅキ・千歳という。金屋子神の唯一の眷属であり、また彼女の養女でもあるらしい。主神を母と呼ぶのはその為だ。
「どうぞ、粗茶ですが」
「あ、ありがとう」
スッと湯呑を差し出されるが、生憎とアイリスはグリーンティーが苦手である。
手を付けられずにいるアイリスを尻目に、金屋子神は自分の分の茶を一口啜った。すると、何故か目を見開く。
「千歳! お前これ玉露じゃろう!? 何をこんな小娘に出しとるんじゃ!」
「玉露?」
「煎茶の一種です」
首を傾げるアイリスに千歳は簡潔に説明するが、アイリスとしては煎茶からして解らない。
「煎茶も解らぬ者に飲ませるなんて勿体ないわ! 小娘、口を付けなくで良いぞ。後で儂が飲む」
「は、はぁ……。それは別に構いませんけど」
アイリスとしても苦手なものを飲まずに済むならそれに越した事はない。金屋子神に湯呑を差し出そうとするが、それを止めたのは千歳だった。
「いえ、構います。これはアリスさんに淹れたものです」
「うっ……」
千歳は案外顔に似合わず頑固なのかもしれない。それに、そう言われてしまえば飲むしかないだろう。
アイリスは口に広がる苦味を覚悟し、湯呑を煽った。
「――あら?」
しかし、その味はアイリスの予想に反したものだった。ヘスティアが淹れたのとは違い、独特の渋味は感じられない。それどころか、甘味すら感じたのだ。
「美味しい……」
そう言って、思わずもう一口啜る。その姿を千歳は笑みを浮かべて、金屋子神は面白くなさそうな顔をして眺めていた。
「それで、依頼の方ですけど」
茶を飲み終り、アイリスがそう切り出す。ここに来たのは世間話をする為ではない。
「こちらに」
千歳が桐箱をアイリスの目の前に置き、蓋を開ける。箱の中には、同じ大きさの金属球が幾つも収められていた。
「普段は鍛造ばかりで鋳造をする機会はないが、まあ出来に問題はあるまい。何しろ、千歳は儂の弟子じゃからな」
金屋子神は得意げに言う。結構な親馬鹿なのかもしれない。
「計五〇発ある。価格は……そうじゃなぁ、切り良く二五〇〇〇ヴァリスとしておくかの」
「……材料は鉛ですわよねぇ?」
「ああ、そうじゃが」
「些か……いえ、大分高くはないかしら?」
幾らなんでも安価な鉛で出来た球に五〇〇ヴァリスは高過ぎる。
「口に障子は立てられぬと言うが、口を噤ませる事は可能じゃ。たった二五〇〇〇ヴァリスで秘密を守れるなら安いものじゃろう?」
「……そうですわね」
背に腹は代えられない。それは向うも同じだろう。
代金を支払うと、千歳は持ちやすいように桐箱を風呂敷に包んで渡してくれた。
「それと、これはまだ試作品ですが」
そしてもう一つ、小さな巾着袋を手渡してくる。
「これは?」
「散弾じゃ。特殊な樹脂でコーティングしてある。火薬の熱で溶けて撃ち出す際にはバラバラになっておるはずじゃが、如何せん実際にやってみない事には解らん」
「特殊な樹脂というのは……」
「それは企業秘密というものじゃ。技術というのは隠匿する事で利益に繋がるからの。簡単には教えられんわい」
「こっちは銃の事を根掘り葉掘り聞かれているのですけど」
アイリスとしてはアンフェア過ぎて面白くない。文句の一つも吐きたくなるというものだ。
「そりゃ、訊かねばなるまいよ。銃などオーバーテクノロジーにも程があるわ。剣と魔法の世界にとんでもないもの持ち込みおって」
「でも、金屋子神様は銃の事ご存知でしたわよね?」
「当然じゃろ。お主らに文明を与えたのは誰だと思うておる。切っ掛けは、何処ぞの神が火を与えた事じゃった。其奴の独断だったものだから、高天原……いや、天界中が大わらわじゃったが、兎も角もそれで方向性が決まった。お主らの能力に見合うよう、技術を小出しにしていくというものじゃ。扱いきれぬ力は身を滅ぼすからの」
予定を狂わせおって、と金屋子神は眉間に皺を寄せる。
「しかしまあ、起こってしまったものは仕方ない。時計の針は巻き戻せん。せいぜい、扱いには気を付ける事じゃな」
さあ、今日はもうとっとと帰れ、と金屋子神に急かされて、アイリスは席を立った。
誰かが貴方の右の頬を打つなら、左の頬をも向けなさい。マタイの福音書の有名な一説ですが、悪事を働いた相手が聖人君子だと、良心の呵責に耐えられなくなるというのはままある話です。
リリルカが改心し、めでたしめでたし――などと、そうは問屋が卸さないわけで。ある意味、ここからが本番です。