「な、何っ!?」
「何かがぶつかる音……のようですわね」
北西のメインストリートに辿り着いたベルとアイリスだったが、路地裏の方向から聞こえた不審な音に思わず足を止める。次の瞬間、
「うわっ!?」
裏道から跳び出して来たのは無数の猫だった。何者からか追い立てられるように、一目散に通りへ四方八方に逃げ出していく。
ベルたちと同じように足を止めていた通行人らがその異様な光景に
案の定と言うべきか、小柄な人影がベルの足元に倒れ込んでくる。それをギリギリのところで抱き留めて、ベルはフードに隠れた相手の顔を伺った。
「リリ……?」
「ふ、ふあぁ……」
倒れ込んできた人物の正体は、ベルが雇ったサポーターの少女――リリルカ・アーデだった。奇しくも、尋ね人の方から現れた恰好である。
しかし問題は、リリルカが明らかに満身創痍である点だ。頬は何か丸いものでも
「リリ、大丈夫? 一体何があったの?」
「そ、その声は……ベル様っ?」
どうやらリリルカは、自分を抱き留めたのがベルだとようやく気が付いたらしい。ベルは恐る恐るという手付きでリリルカを地面に座らせる。
「実は凶暴な女……じゃあなくってっ、野良犬に襲われてしまいまして……」
「野良犬――? ……取り敢えず手当しないと」
ベルは首を捻りつつ、ポーションが差し込まれたレッグホルダーへ手を伸ばす。その瞬間、思わぬ人物が路地から姿を現した。
「まさか逃げられるとは……」
「今度はリューさん!?」
聞き覚えのある声に反射的に顔を上げたベルの目に飛び込んできたのは、精巧な顔立ちと先の尖った長い耳――『豊穣の女主人』の店員であるリューだった。
リューは買い物帰りなのか、林檎などの果物が入った紙袋を抱えている。そして、その紙袋の中に、抜き身のナイフが入れられている事にベルは気が付いていた。
「クラネルさん? 丁度良かった。実は貴方の――」
そこまで言いかけて、リューはスッと目を細める。リリルカはそれを見て、怯えたような表情をすると何事かをブツブツと呟いた。
「クラネルさん、退いてください」
「えっ、ちょっと!?」
「ひゃっ!」
リューはベルの返事も待たずに彼を押し退けると、リリルカのローブを掴み躊躇なく剥ぎ取った。
露わになったのは、くりっとした大きな茶色の瞳と同色のぼさぼさの髪。そして、頭部に生えた獣の耳だ。片頬を赤く腫らしている以外はベルが今朝見た姿と何も変わらない。
顔を恐怖で引き攣らせたリリルカを一瞥したリューは、「失礼しました」と一言詫びてからフードを戻す。しかし、リューの視線はリリルカに注がれたままだ。
「何しちゃってるんですか貴方は! リリ、大丈夫!?」
「は、はぃ……」
「すみません……ですが、失礼序でに一つだけ質問に答えて頂きたい」
「な、何ですか……?」
「その頬はどうされたのですか?」
「……っ」
リリルカの口から息が漏れ、反射的に指先が頬に触れた。自身の頬が腫れている事にたった今気が付いたらしかった。
「こ、これは……っ」
「これは?」
リリルカは咄嗟に上手い言い訳を思い付くことが出来なかった。そもそも何か言い訳をしたところで、「ならばこの林檎を頬の痣に重ねてみても?」などと問われれば逃れようもない。完全に詰んでいる。
だが、そんなリリルカに、思いもよらぬ相手から助け船が出された。
「――リリ、まだ治療してなかったの?」
「へっ?」
「クラネルさん……?」
ベルは今度こそレッグホルスターからポーションの入った試験管を引き抜き、何が何だか解らないといった様子のリリルカに手渡す。
(……間違ったまま突き進む。僕はもう決めたんだ)
既に結論は出ていた。だからベルに焦りはない。
「リリ――彼女とは、今朝から
何処かの誰かのように淀みなくそう言って、ベルは試験管の先をリリルカの口に押し当てる。
「ほらリリ、幾らポーションの味が苦手だからって、ちゃんと飲まないと駄目じゃないか」
「べ、ベル様……?」
「ごめん。子供じゃないんだから、自分で飲めるよね。はい」
リリルカの口から試験管を離して、その小さな手に握らせる。
その光景を黙って見詰めていたリューは、やがて深く腰を折った。
「すみません、人違いでした。どうやら私は、少々気が短くなっていたようです。そもそも、彼女は
「小人族……?」
今度はベルが驚く番だった。
(僕はもしかして、何かとんでもない勘違いを……!?)
「あ、あのっ――」
ベルが口を開きかけた時、裏道からパタパタと足音をたてて、これまたベルの見知った人物が現れた。リューと同じように紙袋を抱えたシルである。
「リュ……リュー! 食べ物をあんな風に使っちゃ駄目! お母さんに怒られるよ!?」
「それは、困ります……」
気まずそうにリューは視線を逸らす。その姿を見て、リリルカは意外なものを見たといった顔をする。
「あ、ベルさん。こんな処で奇遇ですね」
「ど、どうも……」
律儀に頭を下げてくるシルにベルは生返事を返してしまう。
リューは二人のやり取りを少しの間見守っていたが、やがて率直にベルに質問した。
「クラネルさん。貴方は今、あの黒いナイフを持っていますか?」
「い、いえ……。ここを通りかかったのも、そもそもはそのナイフを探してなんですけど……」
ベルが正直にそう答えると、リューとシルは視線を交わし合う。
リューは視線をベルへと戻すと、切れ味の失われた抜き身のナイフを紙袋の中から取り出した。
「これですか?」
「は、はい。間違いないです。でも、何処でこれを……?」
本来なら歓声の一つも上げていたところなのだろうが、今のベルはそれどころではなかった。
心此処にあらずの状態でベルはリューからナイフを受け取ろうとして――指先が彼女の手に触れる。
「ご、ごめんなさいっ!!」
「い、いえ……?」
慌てて手を引っ込めるベルを余所に、リューは不思議そうに己の手を見詰める。
「リュー?」
「え? ……ああ、そうでした。クラネルさん、受け取って貰わないと困るのですが」
しかしシルに促さられ、リューは再度ベルにナイフを差し出す。今度こそ、ベルもちゃんと受け取る事が出来た。
ナイフの形をしただけの金属の塊が、主の手に戻った瞬間紫紺の光を帯び始め、《ヘスティア・ナイフ》へと舞い戻る。
その光景を見たリリルカの瞳がぎょっと見開かれた。
「あ、ありがとうございます。いつの間にか落としてしまったらしくて、ずっと探していたんです」
「そうですか。このナイフは小人族の男性が所持していました」
「小人族の男性……? じゃあ――」
(僕はあらぬ嫌疑をリリにかけていた……? 最低じゃないか……!!)
ベルは沈黙するが、それをどう受け取ったのか、リューは頷く。
「はい。先ほどまでその小人族を追い掛け回していたのですが、逃げられてしまい……この場にいた彼女を疑ってしまいました。言い訳になってしまいますが、背格好が似ていたもので」
「そうですか……」
リリルカは小人族ではなく
「身近に男性の小人族はいますか? 何か見覚えは?」
「いえ、ないですけど……」
「ベルさん……?」
流石にベルの様子がおかしい事に気が付いたのか、シルが心配そうに声を掛けてくる。
「す、すみません。何だか、安心したら力が抜けてしまって」
「そうですか。余程大事なものなんですね?」
「なら、尚更取り返す事が出来て幸いでした。昨日、路地裏で貴方のナイフを見ていたお蔭で一目で解った」
やがてリューたちとは、彼女たちが買い出しの途中という事で別れることになった。ベルがもう一度礼を言うと、リューは無言で会釈し、シルは自分は何もしていないと苦笑しつつも、「そのうち、またご飯食べに来てくださいね!」とちゃっかり営業トークするところは彼女らしかった。
彼女たちが去るのを見送ってから、ベルはリリルカに向き直る。
「リリ、僕はリリに――」
――謝らないといけない事がある。そう言い掛けて、しかし口にする事が出来なかった。
「ベル様、ご迷惑をお掛けしてすみませんでした。リリもそろそろ失礼します」
「り、リリ……? でも、怪我がまだ」
「それも含めて、ご迷惑をお掛けしました。リリは大丈夫ですから」
「そ、そう……? それならいいんだけど」
「はい。それではベル様、さようなら」
「う、うん。また明日……」
別れの挨拶を交わし、二人の距離は徐々に離れていく。致命的なまでの齟齬に気付かぬまま。
「どうしよう……。兎に角、明日会ったときにリリにちゃんと謝らないと。――あれ……?」
そして、今更ながらにベルは気が付く。
「……アリスさん?」
彼女の姿が、いつの間にか消えていた事に。