宵闇が濃くなる刻限。茜色に染まった空では、
その光景を窓辺越しに眩しそうに見上げ、やがて皮肉げな笑みをファウストは浮かべた。
「やれやれ、陛下はここにもいませんか」
自室を訪ねても王の姿はなく、ファウストが次に訪れたのはアイリスの部屋だった。
使用人が毎日掃除を欠かす事なく行っている為か、主をなくした今でも人の気配を感じる事が出来る。
部屋の内装は、ファウストですら驚くほどにシンプルだった。調度品はどれもが高価そうではあるものの、必要最低限のものしか置かれていない。ファウストが知る限り王侯貴族というものは、誰もがその膨れ上がった虚栄心――自己顕示欲を満たす為に贅を尽くしていたものである。
「そういう意味では、アイリス嬢は稀有な人間と言えなくもない。しかし――」
まるで聖域を侵すかの如くファウストは部屋に踏み込み、そのまま衣装ダンスの前まで直進したかと思えば、取っ手を掴んで躊躇なく引き開けた。
「一度蓋を開けてみれば、こんなものです」
中には、豪奢なドレスや部屋着などが掛けられていた。勿論、王女である彼女の衣装がそれだけであるはずもなく、この中に収められているのは数あるものの内のほんの一部でしかないだろう。
「自らを飾り立てる事に余念がない。所謂、色欲というヤツですか。多かれ少なかれ、どんな人間でも欲望を内に秘めているものです。寧ろ、自らを無欲だと語る者の方が、根深い問題を抱えている事の方が多い。アイリス嬢はごく普通で在り来りな人間だ。だからこそ、健全であると言える。ええ、安心しましたよ。――おや、これは?」
タンスの二段目を引き出したファウストの目に飛び込んできたのは、透けるように薄く黒い布地。それを手に取り、まじまじと見詰める。
「いやぁ……エロいですねぇ。おっと、これもまた色欲」
ファウストは言葉とは裏腹に無表情で布をタンスに戻すと、引き続き王を捜す為、足早にアイリスの部屋を後にした。
× × ×
ガラス張りの中庭に男は一人佇んでいた。いや、正確には庭の手入れをしているようだった。花壇には、白薔薇が幾重にも咲き誇っている。
男は白髪に同色の髭を蓄え、頭には王冠を載せて背にはマントを羽織っていた。しかし何より特徴的なのは、まるで全てを見透かしているかのような
男は振り返る事もせず、背後の訪問客に問い掛ける。
「何用だ、ファウスト?」
「おやおや、ばれていましたか。気配は完全に消えているはずなのですがねぇ……毎度の事ながら不思議なものです」
口角を吊り上げたファウストは恭しく礼をしてから、飄々とした態度で尋ねる。
「陛下、吉報と凶報、どちらからお聞きになりたいですか?」
「下らない問いを投げ掛けるな。どうせどちらも聞かねばならぬのだからな」
「では、凶報から。ガレリアが
「まだ喜ぶような段階ではないな。随分昔に蒔いた種がようやく芽吹いたに過ぎん。だが、これで後の世に禍根を残す事はなくなった。我が国が、あくまで被害者であるという体裁を手に入れる事が出来たのだからな」
「ええ、ええ、そうでしょうとも。人間にしては中々に深遠な計画でしたからねぇ。道化を演じる苦労が報われたというものです。おめでとうございます」
ケタケタとファウストは笑うが、男は平常を崩さない。しかし、それも次の一言で脆くも崩れ去るのだが。
「次にご息女の件ですが――」
「娘に何かあったのか!?」
男が振り返った。その鬼気迫る表情は、とても娘を売ろうとした男の顔ではなかった。
ファウストは内心ほくそ笑む。
「いえいえ、ですから吉報ですよ、吉報。私の使いが先ほど連絡をよこしましてね。ご息女が見事に魂を昇華させたそうですよ。実に喜ばしい。出来ればこの眼で直に見たかったものです。魂の輝く様は、何度見ても良いものですからね。ご息女の事だ、明けの明星もかくやというほどに輝いていた事でしょう」
「……そうか。肉体の老化を遅らせ、寿命を延長させる――不老不死に最も近く、何より確実な手段……。お前の言葉に偽りはないのだろうな?」
「ええ、それは勿論ですよ。クライアントに嘘を吐かないのが私の信条ですので」
ファウストはそう嘯くが、男は疑念の籠った眼差しを向けた。
ファウストは肩を竦め、態とらしく溜め息を漏らす。
「信用がありませんねぇ。或いは人望が、でしょうか? 兎も角、ご息女の身の安全に関しても、出来得る限りの配慮をさせて頂いていますよ。ご存知の通りあの銃は、ティタノマキアの遺物から製錬した金属を用い、更にこの私自ら
「問題と言うのなら、どうやって持たせるか、の方が問題であったろう」
「ええ、それに付いても恙なく事が運びました。これ見よがしに壁に飾り立てる事によって、ね。ご息女が賢明で助かりました。丸腰で行かれる可能性もない訳ではありませんでしたから、我々は見事に賭けに勝ったという訳です。まあ、保険もかけてありましたが」
そこまで言ってから、ファウストは徐に被っていたシルクハットを外し、つばを右手で持って逆さまにした。そして、ぽっかり空いた暗闇に左手を突き入れる。
「では、お手を拝借。
果たして、抜かれた左手に握られていたのは、アイリスのそれとは違う、何の変哲もない一丁のマスケット銃だった。
「さて、多少性能に差はあるでしょうが、怪物相手でも有用なのはご息女が証明して下さりました。人間相手であれば尚の事。数は足りていますか? 何でしたら、私がご用意しますが」
「無用だ。生産ラインは既に整っておる。第一陣が間もなく完成予定だ」
「それは素晴らしい。問題は兵の練度ですが……まあ、運用上そこまで問題にはなりませんか。多くを求め過ぎるのは良くありませんからね。それは強欲というものです」
言うが早いか、ファウストは持っていたマスケット銃の銃口を男に向け、躊躇いなく引き金を引いた。
ポンッ、とポップな音を立て、煙と共にバネ仕掛けのヒヨコの玩具が飛び出す。
「……………………」
「ノーリアクションですかぁ、冷たいですねぇ。それは怠惰というものですよ」
「話は済んだか? ならば行け。私は見ての通り忙しい」
怒気の孕んだ声で男が言うと、ファウストは渋々といった調子で指を鳴らした。それだけで、マスケット銃――を模した玩具は、まるで割れたシャボン玉の如く一瞬で消え去った。
「今宵は月が綺麗だそうですよ。花見酒もいいでしょうが、月見酒というのもまた乙な物かもしれません。まあ、私には解りかねますが。それでは陛下、ご機嫌麗しゅう」
ファウストは恭しく礼をすると、シルクハットを頭に戻して庭園を後にした。残された男は一人、すっかり暗くなったその場所で天を仰ぐ。
残照を残すばかり宵の空には白い夕月が上り、星が二つ三つほど輝いていた。
前回は事前告知なしに休んでしまい申し訳ありませんでした。今後は出来る限り事前に告知しようと思います。(まあ、休まないのが一番ですが…)
取り敢えず断章は一旦ここまでとして、次回から第二章に移りたいと思います。
それでは、また次回。